k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

自我と霊的経済


 以前「自我の秘密」で紹介した、人智学者のエルトムート・ヨハネス・グロッセ氏の『自我のない人々は存在するか?』から、今度は別の文章を紹介したい。

 人は、肉体のみをもっているのではなく、他の構成要素(あるいは体:この場合、体とは肉体ではない非物質的からだである)をもっている。それは、エーテル体、アストラル体そして自我である。そしてこれらは、独立した存在であるが、相互に浸透し、影響し合っている。
 肉体、エーテル体、アストラル体は、人が死ぬと消滅していくが、霊的発展を遂げた者のそれは、死後も残る。そのようにして、これらの低次の体を霊的な高次の体にしていくことが、人類の進化の道である。秘儀参入者やマスターと言われる者達は、通常の人間に先んじてこれを行ない、いわゆる霊的能力を獲得した者達である。
 シュタイナーによれば、このようにして霊化されたものは不滅である。また高位の存在により生み出されたものは、他の人間達もこれにあずかることができるのである。これを「霊的経済」という。ここで「経済」というのは、勿論、商業活動のようなことを意味していない。もののやりとりというほどの意味であろう。「経済的」と言うように、「効率的な」という含みもあるのかもしれない。
 最高のマスターはイエス・キリストである。その霊化されたからだのレプリカを、多くの聖人や芸術家達が受けいれていたのである。 

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人間の自我とその発展における霊的経済

 人間の進化のゴールは何かを明瞭にすることにより、霊的経済とは何かがわかる。人間の使命は、魂と霊の中で人格を発展させることである。

 シュタイナーは、人間は、霊的ヒエラルキーの一部でもあり、自身の意志と自由から進化全体に貢献できると述べている。

 

「人は、自分の未来を見ると、次のように言える。私は、行動のインパルスを私に与えるすべてのもののために、自分の最奥の存在を見るように-セラフィム(訳注)のように神を見ることによってではなく、自分の最奥の存在からである-求められている。そしてキリストは、それに無条件に従わなければならない神ではない。それは、自由の中で、彼に同意し理解する時にのみ従うよう働きかける神である。」

 

(訳注)セラフィムは、天使の位階の最上位にある天使である。従って、神に最も近く、間近に(「対面して」)神をみているのである。

 

 すべての地上生において、我々は、自らの発展の道を歩むように霊的指導を受けている。霊的指導を与える存在には、天使達の他に、マスター、ボディサットバ(菩薩)、アヴァター達がいる。シュタイナーは、マスター達を、「知恵と感情の調和のマスター」と呼んでいる。

 「グレート・ロッジ」あるいは「ホワイト・ロッジ」として人類を導くマスター達は12人いる。その真ん中に、13番目の存在としてキリストがおり、マスター達をその霊的力で満たしている。このマスター達のサークルは、12のボディサットバ達により貫かれている。ボディサットバは、高次の発展を遂げた人間で、エーテル体まで、大天使によって霊的力に浸透されている。(訳注)

 

(訳注)ボディサットバとは、仏教でいう菩薩である。菩薩が悟りを開くと仏陀となる。しかし、ボディサットバの概念は実は難しい。釈迦仏陀のように、菩薩や仏陀は人間であるが、霊的存在がそう呼ばれることもある。著者のこの文章も、解釈が難しい。マスターは霊的に通常の人間以上の進化をしているが、あくまで人間である。それに霊感を与えるのがボディサットバと言っているので、このボディサットバは霊的存在のようであるが、ボディサットバも人間であるとしているからである。ちなみに、人智学派には、人のボディサットバと霊的存在としてのボディサットバがいるとする考えもあるようである。

 

 霊的存在達は、相互に浸透することができる。人もまた、無意識にあるいは意識的に、他の-生きているあるいは死んでいる-人間に入り込み、また自身の存在を構成する要素の中に高次の存在達を受け入れることができる。

アヴァターとは何か。それは、人間の形を取って現れ、人類に霊的インパルスを与えて、助けるものである。彼は、援助や受肉することにより、何も自分のために求めない。既に進化の目的を達成しているからである。最大のアヴァターは、キリストである。彼は、ヨルダン川洗礼により人間イエスに完全に浸透した。

 

キリストが地上に降ったとき、特別なことが起きた。小麦の粒を植えると、育って、穂を付け、また多くの小麦を生み出すように、霊的世界でも同じようなことが起きる。ゴルゴタの出来事以来、キリストの力により、イエスエーテル体とアストラル体は、増えていき、その多数のレプリカが霊界に存在するようになった

  人は、地上生に降下するとき、エーテル体とアストラル体をまとう。イエスエーテル体とアストラル体のレプリカが霊界に存在することによって、そのようなカルマをもった人間には特別なことが起きた。それらのレプリカが、彼らに織り込まれたのだ。アウグスティヌスの場合、彼個人は、自分のアストラル体と自我を持っているが、イエスエーテル体のレプリカが、彼のエーテル体に織り込まれたのである。その様な人は、その偉大なインパルスを他の人類にもたらすのである。

 

 中世の多くのキリスト教絵画の画家達は、そのようなエーテル体のレプリカを持っていた。彼らの優れた絵画の背後には、画家達が体験したイマジネーションがあったのである。この絵画の伝統は、イエスエーテル体とアストラル体のレプリカが彼らに内在していたことに由来する。

 

ゴルゴタの出来事を描く絵は、イエスエーテル体が織り込まれた人々に由来する。これにより、彼らは、ゴルゴタの出来事とそれに関連するもののヴィジョンを得たのである。・・・キリストがイエスに入り込んだとき、キリストの自我の刻印がイエスアストラル体に造られてたのである。キリストの自我のレプリカは数多く複写され、霊界に保存された。」

 

人が、キリストの自我のレプリカを受けるには、十分に成熟していなければならない。

 

「次第に多くの人々が、キリストの自我の複写を受けとれるように人々を成熟させていくことが、霊的宇宙的潮流の使命の1つである。キリスト教の発展は次のようであった。先ず、物質的次元で幅広く伝道が行なわれ、次にエーテル体を通して、次にアストラル体-それは、しばしばイエスの再受肉したアストラル体であったーを通して伝道された。今や、キリストの自我本性自らが、一層多くの人々に、彼らの魂の最奥の存在として、現れてくる時代が来なければならない。」

 

 普通の人が死ぬと、彼らのエーテル体は、生前に純化された部分以外は、彼らを離れ分解していく。しかし、秘儀参入者が死ぬと、彼らは、浄化・霊化したエーテル体とアストラル体を霊界にもたらし、それらは、分解せず、生きている者達を助けるインパルスの源泉となる。これらの浄化された聖なる構成要素は、それに適した人間に織り込まれる。

 アッシジのフランチェスコは、イエスアストラル体を受け取った。マイスター・エックハルトヨハネス・タウラーは、イエスの自我のコピーを受け取った。それにより、彼らは、「キリストを担う者」、キリスト・インパルスの助力者になったのである。

 

 「トマス・アキナスアウグスティヌスを比べると、アキナスは、誤りに陥ることがなく、子ども時代から、疑念や信仰の欠如はなかった。洞察力と確信がアストラル体の中にあり、彼は、自分のアストラル体にキリストのそれを織り込んでいたからである。そのような構成要素が、人の体に植え込まれうるのは、外的な事象が物事の自然な進行を変化させるときのみである。アキナスにおいては、子どもの時に、稲妻が彼の近くに落ちて、幼い妹が亡くなった。この物質的出来事が、彼のアストラル体にキリストのそれを受け入れることを可能にしたのである。」

 

 シュタイナーは、物事の進行における変化の中で、霊的世界が直接、物質的世界に働きかけるという法則を述べている。

 キリスト教の秘密は、自我の秘密でもある。キリスト・インパルスは、自我をも強めるからである。

 自我の秘密への答えは、次の考えに示されている「全てのアヴァターは、上からの力により、霊界から地上へと放つものにより、人類を救済してきた。しかし、アヴァターとしてのキリストは、人類自身の力から彼が引き出したものにより救済するのであり、救済の力、物質を克服する力は、我々自身の中の霊を通して見いだされる。

 言い換えれば、物質的体は、そこに直接、キリスト・インパルスが流れ込めるほどに、自我により霊化されなければならない。こうして、物質は、霊により克服される。これを行なうのに、オイリュトミーが役に立つ。オイリュトミーでは、手や体の動きを通して、調和的な力が身体に向けられる。

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 キリスト教芸術には様式があり、中世の絵画はみな一様に見える。描かれた内容もほぼ同じである。イエスの生涯を表現しているその絵には、聖書の記述にないことも多く描かれている。聖書にないものは正典からはずれた外典等が根拠だろうとされている。そもそも作品は、教会が注文し、指示したものであろうし、それを受けた画家集団が、徒弟制度を通してそのような作品を伝承してきたと思われる。
 しかし、文章や口頭の伝承をもとに、目で見る具体的な作品をつくるのは実際には容易ではないだろう。画家達のイマジネーションが重要である。なるほど、画家達のイマジネーションの源泉は、上に述べられたビジョンであったのかもしれない。
 「二人の子どもイエス」に関わる絵についても、そのようなビジョンが背景にあったのかもしれない。