k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

釈迦仏陀は、入滅後何をなしてきたのか?

 これまで何回か、仏教とキリストとの関係あるいは人智学派の考える仏教及び仏陀について記事をアップしてきたが、今回もこのシリーズのものとなる。

 

 一般的には、釈迦仏陀(以後「仏陀」)とキリストは、それぞれ仏教とキリスト教という世界宗教創始者ということになるが、実は、その性格は全く異なる。簡単に言えば、仏陀は人間であるが、キリストは神霊的存在である(ただキリストが地上に受肉し活動するにはそれを支える人間が必要であった)。

 そして、キリスト出現以前の諸宗教は、キリストの出現を準備するものであり、それ以降の宗教は、その影響の下にあるのである。仏教も、その影響の下に、変容を遂げてきたのである(大乗仏教の誕生など。この辺のことは、ブログの他の記事参照)。

 しかし、もちろん、仏陀は人間と言っても、通常の人間とは異なる。普通の人間の何歩も先に霊的進化を遂げた偉大な人類の指導者である。そして、地上に仏教を誕生させ、地上界を去った後は、これも通常の人間ではあり得ないが、再び地上に降ることなく、霊界において活動をしているのである。

 また人類を指導できるまでに霊的進歩を遂げた者は、秘教の教えでは、マスター(マイスター)と呼ばれるが、それは東洋でいう「菩薩」と深く関連している。悟りに達する前の仏陀はまさに菩薩(「仏陀」になる前の段階の者)であった。

 シュタイナーは、菩薩は12人いるという。そして、菩薩が「仏陀」になると、次に仏陀の位に昇る者が指名されるという。その人間は、釈迦と同じように、自分が仏陀となるまで、人類を指導するために地上界で活動するのである。

 釈迦仏陀の後継者は、日本を含む仏教世界でよく知られているが、その名を「弥勒菩薩」(あるいはマイトレーヤ)という。シュタイナーもこのことを認めている。

 今回はこのようなことがテーマである。

 

 ドイツにヘルマン・ベックという仏教学者がいた。彼は、ベルリン大学サンスクリットを学び、多数の仏典をドイツ語に翻訳したドイツの仏教学者で、その本(『仏陀』)は、日本の著名な仏教学者である渡辺照宏氏により日本語に翻訳されている。

 ベック氏は、このように有能な仏教学・チベット学の学者であったが、その後半生は、人智学に傾倒し、キリスト者共同体において活動したのである。

 ベック氏の著作は、いくつか日本語に訳され出版されているので、その思想の一端を知ることが可能である。仏教についての立場は、基本的には上に述べたことで説明できると思われる。

 今回は、ベック氏の『完全社の旅立ち』という本の英訳本から一部を紹介する。この本は、「80歳の釈迦が、王舎城東部の霊鷲山から最後の旅に出発し、マッラ国のクシナーラーにて入滅(般涅槃)するまでの言行、及び、その後の火葬・遺骨分配の様子が描かれる」(ウィキペディア)マハーパリニッバーナ・スッタ、大涅槃経をドイツ語訳したものであるが、それにベック氏の序言とともに、トーマス・メイヤー氏による後書きが付されている。今回取り上げるのは、このメイヤー氏による後書きの部分である。

 そこに書かれているのは、仏陀の入滅の状況と、その後の仏陀の活動についてである。その後というのは、仏陀が霊界に赴いてそこで活動するようになったという出来事であり、それはいわば大涅槃経を引き継ぐ物語と言えるだろう。それに関しては、既にこのブログに掲載済の文章にも触れられているが、それらを補うものでもある。

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完全者の旅立ち

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仏陀がもはや人間の肉体に転生する必要のない存在となったとき、彼はキリスト教の進化における霊的世界からの協力者となった。」

ルドルフ・シュタイナー『死と再生の間』講義5、ベルリン、1912年12月22日(GA141)

 

 1925年の聖ヨハネの日に、ヘルマン・ベック(1875-1937)は、ブッダの地上への別離とその逝去に関する『マハーパリニッバーナ・スッタ』の新しい翻訳と解説を発表した。これは、多くの人々に愛され、崇拝されながらこの世を去ったもう一人の人[ルドルフ・シュタイナー]の地上の別れと折り合いをつけるためのベックの貢献であった。1924年9月23日、ベックがルドルフ・シュタイナーの最後のカルマ講義を聞いた後、翌日に予定されていた会員向けの講義は、健康上の理由で初めてキャンセルされることになった。(アントロポゾフィー協会の)会員たちはショックを受けた。ヘルマン・ベックは講演会に向かう途中、中止の知らせを聞き、仲間にこう言った。「仏陀により始まったように、今、彼により始まる。」1925年3月30日、ルドルフ・シュタイナーの地上での別れは完了した。ベックの自然発生的な発言は、彼が師の存在とその意義を世界史的な精神的観点から捉えていたことを明らかにしている。それは、彼がルドルフ・シュタイナーを人類史における偉大なイニシエートの一人と見なしていたことを示している。

 

*  Der Hingang des Vollendeten: 釈尊の涅槃と仏陀の涅槃(釈尊大般若経)』ヘルマン・ベック博士著、トーマス・マイヤー訳。バーゼル: Perseus Verlag 2011. 221-238. t Gundhild Kater-Bock, Hermann Beckh, Leben und Werk, Stuttgart 1997, p. 143. English tr. ヘルマン・ベック 生涯と作品, TL 2021, p.98

 

 翻訳と解説の全体には、東洋学者がゴータマ仏陀の個性にもたらしていたような、理解に貫かれた崇敬の魂が息づいている。同時に、モノローグやダイアローグ全体の崇高さと意識的な繰り返しにもかかわらず、その言葉は、完璧に自然なドイツ語で流れ、鳴り響いており、人は、翻訳を読んでいるとは信じられない。

 

仏陀の別離と弥勒菩薩

 短いが本質的な解説は、彼が、仏陀の思想世界とルドルフ・シュタイナーの精神科学に関する深い専門家えあることを明らかにしている。例えば、ベックは1909年の2つの復活祭の講話を指摘し、その中でシュタイナーは、釈迦の神秘的で重要な弟子であるマハカサッパにつながり、キリスト=インパルスの深い要素を示しているある伝説を語かたる。ルドルフ・シュタイナーは、この伝説を『マハーパリニバナスッタ』とは関連づけていないが、この伝説を、この仏陀の高弟が仏陀の遺体の火葬の際に果たす役割と結びつける者は誰でも、師の日々の関心事に関与するアーナンダとは対照的に、実際の地上での逝去の際にのみ登場する、この仏陀の最初の秘密の弟子が、高みにいたり、次の仏陀である弥勒仏となる新しい菩薩なのかという疑問に直面するだろう。ルドルフ・シュタイナーはこのことについてどこにも触れていないが、マハーカッサパが、文字通り仏陀の状態を完全に解消するための「絶対必要条件」を提示している事実は、そのような後継者を指し示している。彼が仏陀の葬儀の火葬場に現れることは、仏陀の存在を最終的な終焉に導くことだけでなく、古代の伝統やルドルフ・シュタイナーが確認によれば、ゴータマ仏陀菩提樹の下で悟りを開いてから五千年後に成仏する新しい菩薩の活動の始まりでもある。

 

* ルドルフ・シュタイナーによれば、菩薩は1世紀ごとに転生する。マハカサッパの次に知られている歴史的転生は、イエシュ・ベン・パンディラである。後継者の問題については、1910年4月13日、ローマでのルドルフ・シュタイナーの講演(GA 118)も参照のこと:「 ...悟り、それは彼を仏陀にした。彼はより高い地位に昇り、霊界で彼らが指揮する程度に対応した。同時に別の者が昇格し、彼が去った場所を引き継いだ」(強調はT.M.)。

 カリ・ユガの期間である5000年という類似の期間については、とりわけ、1911年9月31日ミラノでのシュタイナーの講義(GA 130)「...ゴータマ仏陀菩提樹の下で悟りを開いてからちょうど5000年後に、弥勒仏陀が最後に地上に転生する」(T.M.強調)を読むことができる。菩薩の問題については、以下も参照のこと: Th. Meyer, E. Vreed. Meyer, E. Vreede, Scheidung der Geister, die Bodhisattwafrage als Priifsteine des Unterscheidungsvermogens, Basel, 2nd expanded ed., 2010.

 

仏陀の個性とナタン・イエス少年

 人智学と呼ばれる精神科学に関心のある読者にとって、以下に述べることは、 [世界中の]精神文献のなかでもこの真珠について、特に仏陀の個性の死後の発展とさらなる活動についての研究を深めるのに役立つかもしれない。

 ルドルフ・シュタイナーバーゼルでのルカによる福音書の講義[GA 114]の中で、かつての「仏陀」の個性が、霊界から来たナタン・イエス少年の受肉過程とその後の展開にどのように深く関わっているかについて述べている*。野原で羊飼いたちの前に現れたのは、仏陀の霊体、ニルマナカヤである。ナタン・イエス少年とその母親が成長するのを積極的に手助けすることで、仏陀の個体自身も若返りのプロセスを経る。

[後の]ルチファーの影響から守られてきた原初の魂である、ナタンの子供の魂が、レムリア時代以来初めてパレスチナに転生した時、また人間の魂発達の先駆者である仏陀が、この根源的な純粋さを再び獲得するために、何度もの転生を通してどのように働いてきたかを考えると、仏陀の霊体とナタン・イエスの子供との親和性の中に、私たちは素晴らしい選ばれた霊的関係を見ることができる。仏陀は自らの努力によって、ナタンの魂が恩寵から得たものを保持するようになったのである。【訳注】

 

 * ルドルフ・シュタイナー、聖ルカによる福音書、1909年9月16日の講義(GA 114)。

【訳注】ナタン・イエス少年とは、福音書のルカ伝の伝えている子どものイエスのことである。シュタイナーは、この子どもと、マタイ伝の伝える子どもは別の存在であるとしている(つまり子どもイエスは二人いた)。そして、ナタン・イエス少年は、仏陀と深く結びついていたのである。

 

 さらにルドルフ・シュタイナーは、敬虔なシメオンが神殿で幼子イエスを見、これで安心して死ねることを神に感謝する[ルカによる福音書 2:25-35]とき、以前の見霊者アシタの個性が再び現れたことを明らかにしている。シメオンは、霊視の中で菩薩の誕生を見、生まれたばかりの子供を訪ねて涙を流したのである。なぜなら、彼は、年老いていたため、後に成される後者の悟り[仏陀となること]を経験することができなかったからである。【訳注】

【訳注】アシタは、仏教説話に出てくる人物である。彼は、修業時代の釈迦に会い、やがて彼が悟りを得ることを知ったが、その頃には自分がこの世にいないことを又知っていたのである。このアシタが、福音書にでてくるシメオンであると、シュタイナーは語っている。

 

「これが私の教えの誤りだった」。

 しかし、仏陀という個体もまた、ソロモン・イエス少年に転生した霊との関係に入っていく。ルドルフ・シュタイナーは『第五の福音』と題された講義の中で、このことを説明している。そして、4つの福音書では省略されているが、イエスが20代後半にエッセネ派との集中的な議論に入った時期に、イエスブッダの個性との霊的な出会いが起こる。ブッダは、エッセネ派が他の人類から[選ばれた]分離されたことに関して、当時と未来のための教えが不十分であることを認識している。ナザレのイエスとの霊的な対話の中で、彼は次のように語っている。

「もし私の教義が、私の教えたとおりに完全な結実へと導かれるのであれば、すべての人間はエッセネ派の生活を送らなければならないだろう。しかし、そんなことはあり得ない。それが私の教義の誤りだった。エッセネ派でさえ、他の人類から分離することによってのみ進歩することができる。彼ら以外の人間の魂が存在しなければ、彼らの生活様式は成り立たない。もし私の教義が完全に成就すれば、人間は皆エッセネ派になるであろう。しかし、そんなことはありえない。」

 

火星圏におけるブッダの活動

 人類全体に目を向けると、ブッダがここで途方もない形で述べたことが、何十世紀も後に再び「修正」される。この修正は、単に一握りの選ばれし者たちではなく、すべての人々に関わるキリスト・インパルスの接近に最も密接に関係する、もう一人の重要な個性を通して開始される。それはクリスチャン・ローゼンクロイツという個性に関するものである。彼は、秘儀の祭司としてのキリストを通して初めてイニシエーションを受けた人物、ラザロの生まれ変わりである。

 テクノロジーと文明を発展させるという現代の要求と、霊的な生活の古くからの必要性との間で高まるジレンマに鋭く焦点を当てたのは、クリスチャン・ローゼンクロイツだった。彼は、両者が徐々に乖離していく危険性を見た。将来、2種類の人々が存在するようになるだろう。すなわち、霊のないテクノロジーを育む人々と、アッシジのフランシスコとその信奉者たちがそうであったように、文明から背を向けた霊的生活を育む人々である。このジレンマを解決するために、クリスチャン・ローゼンク=ロイツは、指令を発議するという霊的行為を行った*。彼は、仏陀の個性に、死んでから活動していた宇宙の領域を去り、新しい場所を求めるよう依頼したのである。それまで仏陀は、水星圏から霊性を求めて努力する魂に影響を与えていた。水星圏は、シュタイナーが著書『神智学』[GA 9]で魂の光の領域として説明している魂の領域に相当する。それは魂の国の第五の領域である。【訳注】

* この「委託」については、『秘教的キリスト教とクリスチャン・ローゼンクロイツの伝道』(ノイシャテル、1911年、GA 130)の関連講義を参照のこと。この委託は、紀元前の数世紀、黒海沿岸の秘儀センターで仏陀の超感覚的な教えの影響を受けたキリスト教に先行していた。7~8世紀におけるこのセンターの最も重要な弟子の一人は、後にアッシジのフランチェスコ[1181-1226]となった。このこと、また17世紀におけるブッダの犠牲的行為については、ルドルフ・シュタイナーの記述(1912年12月22日、ベルリン、Bet71,011 死と再生((;A 1 -1 1))を参照のこと。

【訳注】秘教の教えでは、地動説ではなく天動説が取られている。つまり宇宙の中心にあるのは地球である。人は、死後、地球から離れて天界に向かうのだが、その過程で各惑星の領域を通過していくのだ。天空に見える惑星はその領域を示すいわば目印なのだ。

 彼の新しい活動の場は火星圏となった。これは霊の国の最初の領域に相当する。しかし、この領域はまた、物理的世界のすべての、まだ生命及び魂のない現象の原型的な絵あるいはモデルの故郷でもある。物理世界において技術社会のパターンが具現化されるとき、そのパターンはこれらの原型的な絵、あるいはモデルから引き出されるのだ。

 しかし火星圏は、同時に戦争や戦闘の衝動に貫かれている。同じ原型的な絵から、神殿と、破壊の道具が建設されるという事実の中に、このことの地上的な姿を見ることができる。

 その結果、仏陀という個性が火星圏から平和という使命を[人間の]魂に放射するとき、文明を築こうとする人間の試みは、その霊的努力と調和することができる。これによって、初期の仏教の教えの精神的な「誤りの修正」が完成するのである。結果して、クリスチャン・ローゼンクロイツは、17世紀初頭、技術社会の能力と成果が、人類全体を上記の二つのグループに分裂させるような段階に到達し始めた瞬間に、ブッダナザレのイエスとの間で行われた上述の霊的な交流の中で明らかとなった誤りについての知識に結びつく。【訳注】

* 水星圏から火星圏への仏陀の移行については、ジョージ・アダムスのエッセイ「Das fiinfte nachatlantische Zeit-alter」(Europder, Jg. 4, Nr. 9, Mai 2000, p. 8 [http:/ /www.perseus.ch/ wp-content/ uploads / 2012/ 02 /Das_fuenfte_nach-atlantische_Zeitalter. pdf]を参照のこと。

【訳注】仏陀の火星圏への以降の経過については  (『シュタイナー用語辞典』)

 

ブッダの犠牲的行為

 ルドルフ・シュタイナーによれば、実際に達成されたブッダの「委託」は、途方もない犠牲であった。シュタイナーは、ある意味において、このブッダ[火星]の霊的な行いを、キリストのゴルゴダ[地上]での行いと並べている。精神的、道徳的な領域において、ブッダがそのために立ち上がった自由と愛の衝動と、徹底的に争いに染まった領域における霊的な原型の絵の世界との間に、これ以上のコントラストはほとんど想像できないからである。

 ベックの著作で見事に提示されている、一方では「達成された者の逝去」、他方では火星圏における仏陀的個性の「誕生」の瞬間に関する対照的な見方は、この犠牲的行為の性格をより明確にすることができる。

 ルドルフ・シュタイナーは、1913年にミュンヘンで行われた講演で、この二つの瞬間を次のように紹介している:

「霊視のまなざしにとって、二つの平行的な出来事の絵にはとてつもなく印象的なものがある。ブッダは地上の存在で到達可能な最高の地点、仏陀の位にまで上り詰め、50年間ブッダとして地上に生きていた。そして80年目、前483年10月13日、輝く月夜の晩、地上に煌めく銀色の輝きの中に自らの存在を吐き出した。この出来事は、外見的にはブッダから発せられる平和の息吹を表わしているようにさえ見えるが、ブッダが地上の存在の中で発展の頂点に達したという事実を証言している。

 この素晴らしい出来事を、[シュタイナーは続ける]17世紀初頭にブッダが平和と愛の溢れる力を携えて火星に行き、火星の上昇進化のプロセスを開始させるために、その力が、ブッダから火星に蔓延する攻撃性の中に徐々に流れ込むようになったあの瞬間と結びつけて考えると、深い感銘を受ける。」

 

 シュタイナーは次に、水星圏で働く初期の仏陀のインパルスは、主に誕生と死の間に受け取られたのに対し、新しい仏陀のインパルスは、死と新たな誕生の間に火星圏を旅することで受け取ることができると説明する:

仏陀の神秘以前の時代に魂が火星圏を通過したとき、その魂には主に攻撃的な力が備わっていた。仏陀の秘儀以来、魂は、火星の力から何かを得ようとする性質がある場合、本質的に異なる経験をする。」

* ルドルフ・シュタイナー『死と再生の間の生命』。講演、ミュンヘン、1913年3月12日(GA 140)。


 そしてシュタイナーは、これは霊的な火星実質の段階的な変容の始まりに過ぎず、地球は最終的な完全なキリスト化の相対的な始まりに立つに過ぎない、と付け加える。ここで私たちは、進化の長い視点で考えることを学ばなければならない。しかし、今日すでに、火星での仏陀の犠牲を考えれば、こう言うことができる:

 地球が物質主義の段階に深く入れば入るほど、進化の過程を本当に理解している人は、人が生まれてから死ぬまでの間に、キリスト教以前の時代に人々が仏陀に従ったように、仏陀に従うのは自然なことだとは認めなくなる......しかし、死と再生の間に、魂はこの経験を通過することができる。グロテスクに見えるかもしれないが、これは事実に即している。死と新生の間のある期間、火星圏を通過する間、すべての人間の魂はフランシスコや仏教徒になる機会を持ち、この種の感情や経験から生まれるあらゆる力を受け取ることができるのだ。

 遠い将来、文明と霊性が再び完全に調和するとき、それはまさに、火星圏における仏陀的個性の現在と将来の影響力の果実となるであろう。

 

アーナンダの聞かれなかった質問

 このたび新装版として出版されたこの著作の中に、ブッダがこの世を去った後の何世紀、何千年にもわたって、ブッダのこのような途方もないさらなる働きの示唆を見いだすことはできないのだろうか?おそらく、直接的な方法ではないだろう。しかし、ブッダが弟子のアーナンダの前で三度発した言葉-しかし彼はそれをいわば無視した-を思い起こそう。

 

「アーナンダよ、瞑想によって超自然的な力の4つの要素を自分の中に目覚めさせ、発展させる者は誰でも、その中にどのように織り込むかを知り、それらを自分の中に本質的に実現し、その方法を習得し、修行によって強くなり、それらを完全に習得した者は誰でも、彼さえ望めば、この世の全時代、あるいはこの世の残りの期間、地上の領域に留まり続けることができるのだ。

 

 さらにこうも語られている:

「『アーナンダよ、このように仏道を歩んだ完全な者は、瞑想によって超自然的な力の四つの要素を自分の中に目覚めさせ、それを発展させ、その中で動くことを学び、それらを自分の中に本質的に悟らせ、その方法をマスターし、修行によって強くなり、それらを完全にマスターしたのである。完全者は、彼さえ望めば、アーナンダよ、この世の全時代、あるいはこの世の残りの期間、引き続き地上の領域に留まり続けることができるのだ。』

 このような力強く明確な示唆、このような光に満ちた明確な暗示が聖なるお方から与えられたにもかかわらず、アナンダはその言葉の精神を理解することができず、聖なるお方に尋ねなかった: 『聖なるお方が地上界に留まられますように、地上界に留まられますように、多くの生きとし生けるものの救済のために、多くの生きとし生けるものの幸福のために、世界に対する慈悲の心から、神々と人間の幸福、救済、幸福のために、この世の全時代にわたって留まられますように』--人類の敵であるマーラが彼の心を惑わしたからである。そして二度目に、聖なるお方は尊いアーナンダに同じ言葉をかけられた・・・」

 

 同じ言葉で。

 

 マンドパリニバナスッタの他の箇所では、仏陀の往生の完全な自由という性格がこれほど壮大な形で現れていない。釈尊は、超地上界に入るのと同じように、地上に住み続けることもできたのである。ある意味で、アーナンダは、最も成熟した人類でさえまだ理解できなかったことの代表として立っている。アーナンダが3度理解するのに失敗して初めて、最終的な決断が下される-すべての結果を伴い。それらの一つは、後継者が必要であるということである。その人物は、物語の中でマハカサッパという人間の中に現われるが、彼は、1909年にシュタイナーが語った伝説に登場するカッシャパに他ならないマハーカッサパが登場するのは、確かに、仏陀がカルマの必然によって特定の時期に地上を去らなければならないからではなく、仏陀が、自分で選んだ時期に地上からの離脱を遂げるという自由な決断をしたからである。この意味で、ここにおいて、比類なき自由の行いのクライマックスとしてシュタイナーが正確に判断した死の瞬間が、私たちの前に現れる。*

 

* シュタイナーの講義の中で、ブッダの正確な没年が記されているのはこの一節だけである。一般的な仏教文献でもそれを見いだすことは難しい。例外は、ベックが「はじめに」の中で引用している、『マハーパリーニバーナシュタッタ』を翻訳・編集したカール・オイゲン・ノイマンによるものである。これは、Die letzten Tage Gotamo Buddhos, Munich 1911というタイトルで出版された。この版はルドルフ・シュタイナーライブラリーにある。150頁にシュタイナーによる死の日付けがある。

 

成就と種子

 仏陀の逝去は、実際に典型的例であるが、霊的経済学の法則と調和している。地上世界がブッダを必要としなくなったとき、そしてこのことはアーナンダの理解不能に示されているが、そのとき、さらなる「仕事の領域」は超感覚的世界に移されるのである。ルドルフ・シュタイナーの死も同様だ。まさに最後の瞬間まで、生き続けることが本当に可能であるかのように見えたが、まったく突然、[霊界への]敷居をまたぐという明確な決断が下されたのである。**

 

**死の数週間前、ルドルフ・シュタイナーは、イタ・ヴェークマンに、回復したらパレスチナを旅したいという希望を伝えた。ヴェークマンは、死の瞬間について次のように記している。死の瞬間は、「私にとっては、・・・サイコロが転がる最後の瞬間のようだった」(『ゲーテ・アヌム』1925年4月19日付第2版第16号、62ページ参照)。

 

 ブッダがアーナンダに地上での別れを告げたことを明らかにしたときに初めて、アーナンダは目を覚まし、-遅れた-求めを行ない。そして彼にとっての苦い真実を経験しなければならなかった。もし彼が正しいときに求めていれば、彼の願いは叶えられたのである。

 この瞬間がいかに悲劇的に絶望的に見えるかもしれないが、それにもかかわらず、希望に満ちた出発点であり、超地上領域で継続されることになったブッダの未来の仕事の種であり、火星圏での深く重要な犠牲的行為につながったのである。

 かくして、精神科学に興味を持つ読者は、この文書の中に、かつてゴータマ・ブッダであるものの個性の影響を通して超感覚的世界に漂う偉大な息吹のようなものを見出すことができる。その影響は、紀元前483年10月13日に始まったのである。

 

トーマス・メイヤー

 バーゼル 2011年

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 さて、この記事の前書きで触れた「フランチェスコとモラルの力」の記事では、釈迦の入滅の日が2月15日になっていると書いたが、メイヤー氏によるとどうも10月13日になるようである。

 学問的には、釈迦の生没年は定まっておらず、説によっては数百年も差があるのが現実である。2月15日というのも確かな根拠がある日付けと言うより、何か象徴的な日付け、あるいは、教義上の要請によるものなのであろう(イエスの12月25日のように)。

 

 仏陀とナタン・イエスの関係については、このブログの「二人の子どもイエス」関連の記事を参照してほしい。仏陀も宇宙的ロゴスとしてのキリストに仕える者であり、キリストの地上への降下の際の出来事に関係していたのである。

 シュタイナーによれば、仏陀のようにキリストと地上世界をつなぎ、地上の人類を指導する存在は12人おり、菩薩と呼ばれる。ただ菩薩といっても、既に他の記事で述べたように、神霊存在の菩薩と、それにより霊感を与えられる人間の菩薩がいることに注意する必要がある(両者は、守護天使と人間の関係でもある)。実は、この区別が曖昧なために、人智学派の間でも論争を生んできた経過がある。これについては、トーマス・メイヤー氏の掲載済の記事が参考になるが、更に別に、もっと踏み込んだ記事を今後掲載する予定である。

 

 上の記事では、弥勒菩薩についても触れられていた。仏陀の霊的な後継者である。つまり、釈迦仏陀の次に仏陀の地位に登ることが予定されている菩薩である。それまでの菩薩が仏陀の位に昇ると、その次に仏陀となる者が定められるという霊界のルールがあるからである。

 ルールというのは、それが一度きりのことではないと言うことでもある。つまり、過去においてもまた未来においてもその様なことが起きていた、また起きるというということである。

 仏教にも、「過去仏」という概念がある。「過去七仏とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀」であり、「仏教では過去未来現在の三世に渡ってそれぞれ千人ずつ仏が出現すると説かれているが、前三仏は過去荘厳劫の千仏のうち最後の三仏、後四仏は現在賢劫の千仏のうち最初の四仏といわれる」(ウィキペディア)のである。

 未来においても、次の仏陀弥勒であるが、またその後にも新たな仏陀が誕生すると考えられているのだ。

 人智学派には、弥勒の次の仏陀を考察した論考もあるので、これも菩薩との関係で今後触れていく予定である。

 

 人智学派では、釈迦仏陀もマスターの一人と認識されており、マスター達は相互に連携して活動している。このことは、上の文章で、釈迦仏陀の火星での働きを巡る文章でクリスチャン・ローゼンクロイツの名がでてきたことでも理解されるだろう。クリスチャン・ローゼンクロイツもまたマスターであり、菩薩の一人なのだ。 

 以上のようなことを見ても、秘教的キリスト教に仏教の霊統が流れ込んでいること-それはつまり、キリストと仏陀に発する霊的潮流が合流していると言うことである-が理解されるだろう。

 12人のマスター=菩薩達の中心にいて、彼らに霊感を与えている存在、それがキリストなのである。