k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

「二人の子どもイエス」とは ㉕

ラファエロ「テラヌオーヴァの聖母」

 本ブログは、「二人の子どもイエスがいた」とする秘教的キリスト教の教えを中心に、またそれ以外のシュタイナーにより明らかにされた人間と世界の真実を解説し、一般に広めることを主な目的としてスタートした。その後、コロナやウクライナ問題などが浮上してからは、やはりシュタイナーの教えを手がかりに、その危険性や隠された背景を解説する目的も追加された。
 シュタイナーは、日本では、教育の分野で「シュタイナー教育」の創始者として有名であるが、いわゆる「オカルティスト」とも紹介される。より正確に言うなら、秘儀を受けた「イニシエイター」と言うべきであろうが。
 彼の教えの根本は、人類と地球の本質、その霊的進化に関わるものであり、そこから、教育、農業、医学、社会運動等々が派生してくるのである。
 これまでその一端を紹介してきたが、いずれも世の中の常識とは相容れないものであった。しかし、私は、それこそが真実なのであると思っている。人間は、霊的世界から離れるに従い、自分と世界の真実の姿を見失っているのである。
 しかし、だからこそ、その教えの正しさを証明するのは簡単ではない。そうした中で、「二人の子どもイエス」説こそ、近代においてシュタイナーにより初めて公にされ、その信憑性が、文書や美術作品等で確かめられる教えなのである。確かに、これも今はまだ一つの説に過ぎないかもしれないが、極めて妥当性の高い説である。それまで溶けなかった謎がこれを基盤にすることにより解けてくるのである。

 さて、二人の子どもイエスの秘密を込めた作品の多くは、ルネサンス期に多く見られるのだが、この時代の巨匠と呼ばれるほとんどの芸術家は、この秘教的知識に触れていたのである。今回は、前回のミケランジェロに続き、ラファエロの作品を取り上げる。この絵自体は、既に、このブログの最初の頃に掲載しているが、改めて、ヘラ・クラウゼ-ツィンマーの『絵画における二人の子どもイエス』から詳しいその分析を紹介する。
   予備知識として「二人の子どもイエス」について簡単に説明しておく。同じヨセフとマリアという名の二組の夫婦それぞれに、イエスという名の子どもがいた。二人の内一人は、子どものうちに亡くなり、残ったイエスがやがてキリスト霊を受けて、イエス・キリストとなったのである。二人のイエスについては、新約聖書のマタイ福音書とルカ福音書がそれぞれ述べている。マタイの子どもは、ダヴィデ王の子どもソロモンの、ルカの子どもは同じくダヴィデ王の子のナタンの子孫である。

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ラファエロ「テラヌオーヴァの聖母」

 さて、ラファエロには、イエスと洗礼者を描いた、この二人の子どもの沢山の絵の中に、「3人」の子どもがいる聖母像がある。「テラヌオーヴァの聖母」である。彼女の膝の上にルカの子どもが座っており、左にヨハネが、右にもう一人の子どもが立っている。3人は、同じ頭の光輪を持っている。ここでも、ヨハネの視線は熱心に仰ぎ見ており、また何かを“持って”きている。ここで、彼は、讃美しつつもう一方の子どもに流れ込む彼の魂の道を表しているにちがいない言葉の書かれた帯を巻き付けている。そしてイエスは、彼の讃美を受け入れている。

 第3の子供は、明らかにヨハネとは様子が異なっている。彼の目は、イエスではなく、マリアを仰ぎ見ており(ニュルンベルグの絵が思い出される)、その眼差しは洗礼者のそれと何と違っていることか! この子どもの姿勢と動きは、確かな意識と卓越した存在性を示している。マリアの手のしぐさは、“彼”に思いを寄せているようである。

 ここで、ヴィルヘルム・ケルバーの作品『ウルビーノラファエロ』(第1巻、シュツトットガルト1963年)を引用しよう。

「テラヌオーヴァの聖母は確かになおフィレンツェで制作されていた。この聖母はオスカー・フィッシェルを明らかに非常に困惑させており、彼の浩瀚な最後の作品に確かにその絵は載せられているが、記述がないほどである。理由は、この絵には3人の子供が見えることである。左には、洗礼者ヨハネが、毛皮の衣と十字により明確に特徴付けられている。聖母の膝の上で、イエスは、ヨハネから「Ecce agnus dei(見よ、神の子羊)と書かれた帯を受け取っている。聖母の右には、他の二人の子どもと同じ光輪を頭の上に付けている第3の子どもがいる。本当に驚くべきは、この子どもの目の表現である。その視線は、子どもの洗礼者のように、真っすぐ膝の上の子どもに向かうことなく、上の聖母の方に向けられているのである。腕の姿勢と一緒に、この子どもの眼差しは、彼が、驚き、あるいは問いながら、待たされているかのような印象を作っている。」

 これには、「マリアのこの手は、これらの子ども達の間に、あるアクセントを付けている。」と付け加えることができるだろう。ケルバーの思考の道筋を受け入れ、上げているその手を観察すると、マリアの仕草は、あたかも「少し待ちなさい。ヨハネが先です!」と言って、彼女が彼を止めているかのような印象を与える。

 ここにあるのは、ヨハネのルカ・イエスへの内的な関連と、同様に、もう一人の(再び年上の)子ども-こちらの場合、ヨハネとは関係していない-の自明に見える同伴である[135]

 

 この絵は、中身の詰まった三角形である。「神の子羊」、神的世界が人類の未来の祭壇に置いた生け贄がその中身である。しかしこの「子羊」、ルカの子どもは、他の3つの支点が、彼の生と使命を支え、保護し、補う時にのみ、存在し、またその天命に向けて成長できるのである-その支点とは、マリアとヨハネと、そしてマタイ伝のイエスである-。

 第3の子供を説明しようとする努力の中には、それがイエスの兄弟、小ヤコブ[2]であるとする解釈が登場する。そうだとすると、それによって、救済史の最も重要な瞬間の一つが低められてしまう。マルコ福音書6:3によると、マリア(即ちソロモンのマリア)は、なお他に4人の男の子、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンと何人かの姉妹を産んだとしても、正典、偽典ともにイエスを第一子としているからである。(まさに初婚で)まだ他に子をなしていなかった母の息子であった。誰も、「主の兄弟」をマリアの膝の上の子よりも年上に描こうとは思わないだろう。

 聖書によれば、イエスの兄弟達は、彼とその使命に特別な理解を持っていたようには見えず、その反対であることが明らかである。いずれにせよ、彼らは、彼の弟子達の、親密なサークルの中にもより広いサークルの中にも現れてはこない。外典福音書も、イエスヤコブの間の親密な関係、子ども時代の友好関係を物語る、子ども時代の伝説を伝えてはいない。いずれにおいても、ヤコブがこの画家の心を動かし、絵を描くにあたり霊感を与えたという根拠は見当たらない。

 ヤコブが原始キリスト教において演じた役割は、キリストの死と再生の後に初めて始まった。パウロが第一コリント書15:7で触れているように、蘇ったキリストが彼を訪問したのである。彼の魂は、彼の異母兄弟の周辺で起きた出来事に心を揺り動かされ、限りない疑問にとらわれたであろう。彼は、生前にイエスを理解できなかったが、今や、キリストの秘儀に参入したのである。それによって、彼に根本的な変化が生じ、その時から彼は弟子達の中で指導的な立場を得ることができたに違いない。(更に詳しくは、エミル・ボックの『原キリスト教Ⅰ カエサル使徒』参照)

 そもそもマリアの、イエスの後に生まれた子ども達は、私の知る限り、絵画の中に現れたことはない。マリアの異母姉妹達がそのすべての息子達と描かれる一族の絵においてもである。しかし、ソロモン・イエスの肉体上の兄弟姉妹達について証するものはないが、この息子らは、まさに使徒となるのである。

 

[135](注)ルカが彼のイエス誕生物語の前にヨハネの誕生をおいているのに対して、マタイがおいていないのは特徴的である。

[2]〔訳注〕新約聖書ではイエス使徒として二人のヤコブがでてくることから、二人を区別するために、「小ヤコブ」と「大ヤコブ」の名称が使われる。一部の伝承では小ヤコブをイエスの兄弟とするが、カトリックなどでは、彼の従兄弟とする。ちなみに、聖書にはイエスの兄弟の記述があるものの、カトリック正教会も、それらはヨセフの先妻の子あるいは従兄弟であるなどと解釈し、イエスの本当の兄弟とは認めていない。

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 上の文章について若干補足したい。ルカ伝の伝えるイエスと洗礼者ヨハネには、特別な関係がある。それは、二人が生まれる前からの関係である。これが、ヨハネをルカ・イエスに親しくさせているのである(これについて後日、他の絵で解説することになるだろう)。
 中央のルカの子どもよりも少し年上に見える右の子どもは、翼を持っておらず、しかし頭に光輪をもっているので、聖なる人物であることは間違いないが、聖母子の絵に登場する子どもの聖人は、普通、聖ヨハネしかいない。ヨハネとルカのイエスは親戚同士であり、そのため、小さいときに二人が会うと言うこともあり得る話であるからである。
 それをイエスの兄弟のヤコブとするのは、イエスの兄弟以外に考えられないからであるが、イエスは、聖書によれば初子、長子であるから、ヤコブの方が年を取っているはずがないのである。
 従って、その真の名は、「イエス」(マタイ伝の伝えるイエス)となる。中央のイエスは、ルカのイエスとなる(シュタイナーは、マタイのイエスが先に生まれたとしている)。
 右の子どもは翼をもっていないとしたが、体が少し隠れており、翼が見えないだけだと言うこともできるだろう。そうであれば、この子どもはやはり天使ということもできるのだ。しかし、その目は、イエスではなく、マリアの方を見ている。これは実は天使としてはおかしな仕草となる。ここに、この子どもの本質が語られているのだ。
 これは、見る目をもったものにはわかる、秘密を密かに含んだ絵なのである。もし、誰でもわかるように描いたとしたら、それは、異端の行為となり、その代償は死である。当時は、このような言わば「偽装」なしに描くことができなかったのである。

 表向きには、「二人の子どもイエス」という考えは存在しなかったのである。しかし、ある宗教家、また芸術家達はそれを伝える衝動に駆られ、このような作品を残したのだ。