k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

二人の子どもイエス-クリスマスの物語

子どもの礼拝(フィリッポ・リッピ)

 今日はクリスマス・イヴの日なので、イエス誕生に関する記事を掲載することにした。なお、クリスマスについては以前の次の記事を参照してほしい。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/12/22/082236

 シュタイナーによれば、子どものイエスは、二人存在した。ルカ福音書の伝えるイエスとマタイ福音書の伝えるイエスである。正確な日付は別にして、12月25日に生まれたとされるのは、ルカのイエスである。その魂は、これまで地上に受肉することがなかった。汚れのない魂であり、「子どもの中の子ども」であった。イエスが生まれたとき、霊界で活動していた仏陀がそれを見守っていた。
 マタイの子は「王の中の王」であり、東方の賢人王マギ達が訪れ礼拝した子どもである。ルカの子イエスより先に生まれている。ルカの子には従って、マギ達の礼拝はなかった。イエス生誕の物語は2つ存在し、それぞれ別の物語であったのだ。

 

 ヘラ・クラウゼ=ツィンマー氏の『絵画における二人の子どもイエス』には、これらの出来事を伝えるいくつかのイエス誕生の絵画について解説されている。今回はその一部分を紹介する。

――――――――

  フィリッポ・リッピ(1406-69)【訳注1】は、彼の礼拝図において、特別な仕方でルカの「子どもの中の子ども」を描いている。子どもの柔らかく丸々とした身体を森の中の花と草むらの間に置いて、この上なく愛らしく命に溢れた子どもを描くのに彼は成功している。それは多くの美術史家により、「すべての子どもキリストの中で最高の作品」とされている(アルフレット・ノイメイヤー、レクラム 作品論 №99を参照)。リッピは、芽吹いた豊かな草々を子どもの明るい身体の周りに美しく添えたので、金色に輝く光輝をあえて描かなかった【訳注2】。あるいはそうではない。彼はそうしなかったのではない! 彼は同じ秘密を示す異なるやり方を探ったのである。彼にとっても、子どもの頭の光輪と、小さな指で自分の唇に触れている子どもの前にひざまずいている若い母親の敬虔な祈りだけでは不十分であった。

【訳注1】イタリア、ルネサンス中期の画家。ボッティチェリの師でもあった。

【訳注2】古い降誕図では、裸のイエスを、その神性と純粋さを表わすために、黄金の輝きで囲んでいるものがよく見られる。

 

 リッピは、子どもの上に天上界を開いている。それはもはや遠くにある黄金地ではなく、森の木々の緑から、父なる神が、マリアと子どもの直ぐ上に浮かぶように、星の輪の中に現れている。そこにあるのは、上に向けて階層的に現れている聖なる家族である。父なる天上の根源的存在と、マリアによって子どもを受け取った母なる大地である。そしてその間には鳩が浮かんでおり、下に光を放っている。この光線は、しかし、ヨルダン川の洗礼の描写で普通描かれているようにイエス自身に当たってはいない。それは「まだ」、彼に触れていない。黄金の光線は、草の中に射し込み、拡がって、子どものまわりできらめき踊っている小さな炎の噴水をそこで造りだしている。それは、後に聖霊降臨の奇跡として人間の頭に降ったような炎、この子どもの周りの、花と草と混ざり合った空間を貫く霊の炎である! この子どもが触れるところで、自然は天上のものとなる。天上界で守り継がれてきたものが彼とともに、地上に流れ込むのである。

 キリストは、洗礼の時にこの子どもの身体(覆い)に降ることとなる。この鳩がその力を放射するのは、さしあたってまだその周囲にである。来るキリスト存在は、まだこの身体の外にいるのだが、その体の誕生にそれは関与しているのである。【訳注】

【訳注】新約聖書使徒言行録(第2章)によれば、キリストが復活し昇天した後、集まって祈っていた使徒たちに、キリストが予言した聖霊が降ったとされる。その際、「炎のような舌」がそれぞれの上に留まったという(「聖霊降臨」)。ここでは炎の舌が聖霊を象徴するものとなっているが、ヨルダン川でのイエスの洗礼の描写では、神の霊(聖霊)は鳩の形をしていたとされている。

 シュタイナーによれば、ヨルダン川の洗礼でイエスに降ったのは、「キリスト霊」で、これによりイエスはキリストになったとされることから、この霊は厳密に言えば聖霊というよりキリスト霊となる(三位一体からすれば同じこととなるが)。著者は、これをふまえて、後にイエスに降るキリスト霊が、イエスの誕生においても参与していることが鳩の形で表されているというのである。

 

 フィリッポ・リッピは、このように、同じ秘密についての異なる見方を私達に提供し、みごとな均衡を保つことができたこの時代の偉業に彼のやり方で加わっている。彼は既に子どもの描写において(フレマルのマイスターの不十分さと比較すると)特に優れた自然性を獲得していたが、その地上的眼差しが、彼から霊的眺望を完全に遮ることはなかった。

 最後に、ドレースデン博物館の、美しい風景の中に立って、自分の前の草の中の子どもを礼拝しているマリアについても触れておくことにしよう。この絵のマイスターは、緑の芝にもかかわらず、子どもの周りに黄金の光線を拡げている。それは、この後何度かその名に出会うことになるベルゴニョーネ(1450頃-1523)【訳注】である。

【訳注】アンブロジオ・ベルゴニョーネAmbrogio Bergognone。ボルゴニョーネBorgognoneとしても知られる。レオナルドの同時代人で、イタリアのミラノ等で活動。

降誕 ・マリアの礼拝( ベルゴニョ ーネ)

 以上で述べてきたことを概観すると、私達は、なお別の観点に至ることができる。つまり、ルカ伝のマリアは、彼女の子どもを、何か、彼女に触れられることなく外から来た、彼女への神の贈り物のように拝礼しながら迎えている。マタイのマリアは、これに対して、彼女の「若芽」(子ども)の身体を懐に抱いている。また先に見たように、マタイの子どもでは、彼の両親との身体と血のつながり、遺伝が大きな役割を果たしている。それにより、彼は、正当な「ダヴィデの子」、エッサイ(イエッセ)から出た枝【訳注】、ソロモンの子孫となる。それによってヨセフ、そしてそもそも男の世界もまた前面に出てくる。この福音書記者は既にそれを明瞭に示している。マタイ伝では、天使の告知は、常に男であるヨセフに起きており、ルカ伝のようにマリアにではないのである。

  【訳注】エッサイはダヴィデの父。イザヤ書2:1~2に「エッサイの株から芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」とあり、エッサイの子孫からキリスト(メシア)が出ることが預言されていた。なおデイヴィッド・オーヴァソンの『二人の子供』第2章に詳しく解説されている。

羊飼いの 礼拝(左 )、マギの 礼拝(右)( ガウデンツィオ・フェラリ)

 ルカの子どもの周囲に身体の光輝を置くこの潮流に加わらなかったガウデンツィオ・フェラリ(ピエモンテ州のヴァルドゥッシャ出身。1480-1546年)のような画家は、それにもかかわらず、この点では非常に忠実である。彼の「羊飼いの礼拝」(ベルチェッリのサン・クリストーフォロ教会のフレスコ画)では、二人の天使が、ひざまずき、裸で心地よい視線を彼女に向けている生まれたばかりの子どもをマリアに差し出している。天使もまた、“ここにあなたの子どもをお連れしました!”と言っているかのように、マリアを仰ぎ見ている。他の天使達は、天界のお供として、音楽を奏でて、子どもの到着に随行している。マリアは、驚きと敬虔さをもって、手を広げており、彼女の後ろで膝をついているヨセフは、挨拶のため帽子を脱いでいる。ここで天上世界は、身体の輝きの代わりに、天使達の姿の中に現れている。

 これに対して、「マギの礼拝」においては、子どもは母親の膝に座っており、様々な、時には奇怪ですらある群衆がそこに押し寄せている。王の従者の枝分かれした者やはみ出した者が、聖なる二人の傍におり、鷹を連れた騎士や猿を連れた騎士が-しかも馬に乗ったままである-近くに迫っている【注】。この世界によって、どうしてルカの子 どもを想像できるだろうか。

【注】マタイの王の礼拝において、ソロモン・イエスが礼拝を受ける際にしばしば馬が見られるのは、たまたまそのように描かれただけで偶然のように見える(しかしそれは驚くべき意味のある偶然である)。馬はまさに人間の知性の形成と密接に関連する動物である(ルドルフ・シュタイナーヨハネの黙示録講義第4講」参照)〔訳注〕。ルカ・イエスにおいては、この動物は完全に排除されているようである。彼は地上の知性と関連していないのである。彼とよく結び付いていると考えられる動物を挙げるなら、それは子羊である。子羊は、まさにユダヤ教の儀式においても生贄として第一の地位にある生き物である。

 【訳注】シュタイナーは「『私たちのまわりに、馬という動物がいなかったら、人間は決して知性を自分のものにできなかったであろう』というのは事実なのです。」(『黙示録の秘密』西川隆範訳)と述べ、トロイの木馬の物語やケンタウロスの背景にはこのような認識があると指摘している。

 

 この群衆の中で、子どもと共にヨセフとマリアが、静かな調和のとれた集団-密接に寄り添う三人-として座っている。ここでヨセフは、決して従者ではない。彼の頭は光輪を持っており、マリアのそれの近くにある。ここでは、ルカの誕生の描写でたいてい現れ、極論すれば(フランケのマイスターやリッピのベルリンの絵のように)ヨセフを必要のないものとしてしまう神ではなく、ヨセフ自身が父親の役割を果たしているのである。

ガウデンツィオ聖堂( フェラリ)

 3枚組が上下に並んだ絵をもった画板(ノヴァーラのサン・ガウデンツィオ聖堂)に、同じガウデンツィオ・フェラリが、一連の聖人を描き込んでいる。彼はこのため下の三つ組のみを選び、その左右の板に、ペテロ、洗礼者〔ヨハネ〕、パウロ(身の丈もある剣を持っている)と司教をおいた。真ん中の板にもまた二人の司教と二人の聖人が現れている。これらの顕著な男性世界の真ん中で、マリアが玉座に座っており、王の礼拝のマリアが普通そうしているように、子どもを膝の上に抱いている。

 しかしその上の3対の絵は、全くルカの出来事に属している。再び、二人の天使が子どもを母親に差し出している。彼女は子どもに触れておらず、敬虔に、胸の前で腕を交差させている。その瞬間は、天使の告知の成就である。それは、神は神の言葉を守った、とその画家は言いたいかのようである。何故なら、彼は、この出来事を、左のガブリエルと右の啓示を受けているマリアの間に置いているからである【訳注】。彼女は、以前、主の言葉の前に手を十字に重ねたように、今また子どもを見てそのようにしているのである。

【訳注】ルカ伝(第1章26-38節)によれば、大天使ガブリエルがマリアにイエスの受胎を告げたとされる。

 

 王達の世界が高潔な聖人と司教の集団に変化したこの絵においても、ルカのマリアのグループとマタイの特徴をもったグループが現れている。

 このような物事において個々の画家の意識がどうであったかは別にして、その根源は把握しにくいものの、しかしその表出において、明瞭な智慧の潮流-それは、表現「手段」が変わった時ですら、正しい特徴をそなえた表現「様式」を芸術家達が保持することができるようにする-が流れているのを、その芸術的な表現世界をとおして私達は見るのである。

――――――――

 クリスマスを世界中の人々が祝うが、今、どれほどの人が、その真実の意味に思いをはせているのだろうか?本来は、人類の救いのために自らを犠牲とした偉大な人物の誕生を敬虔な気持ちで思う日のはずが、クリスマスにかこつけた商戦というものもあるように、その本来の意味がどんどん忘れ去られてきているようでもある。

 しかしこれは、その様なことを忘れてしまった人々が悪いというよりも(もちろん全く責がないわけではないが)、そのような空気を造ってきた者達がいるということかもしれない。 神聖なものは元々存在しない、救い主などいない(あるいは、それはイエス・キリストとは別に存在する)、という考えを広げたい者達である。

 私は、パリのノートルダム大聖堂の火災の背後にその様な力がうごめいていたのではないかとすら思っている。実は、ここ数年の間、世界各地で、教会などへの物理的な攻撃が幾度か見られるようになってきているのである。

 そうした攻撃は、教会の建物だけにではない。肝心の教義そのものへの攻撃もされてきているのかもしれない。現在のバチカン教皇庁による教義内容の「変更」への、カトリック聖職者達からの批判が高まってきているという話をたまに見聞するようになってきているのだ。

 869年のコンスタンチノープルにおける公会議により人間の霊性が否定されたが、これについて、シュタイナーはその背後に闇の霊の動きを指摘した。このように教義や教会自体を変質させる攻撃は常に存在してきたと思われる。

 バチカンについて、私はまだ、いくつかのネットを覗いたくらいで詳しくは調べていないが、それでも首をひねるような情報が確かに存在している。(人智学的立場では、カトリックの教義をすべて正しいと考えるわけにはいかないが、当然そこに真理は含まれている。)

 また世界を見渡せば、今この時間にも、戦争が各地で行なわれている。その原因には、それぞれの国、民族の事情がからんでいるのだろうが、背後でそれを煽る者がいるのだろうと思われる。

 ウクライナ問題については何度もこのブログで取り上げたが、現地においては既にこの闘いの勝敗は決しているという。ウクライナは、今や兵士が枯渇し、女性や、少年、老人や病人を戦場に送っていると言われることからも明らかである。

 しかし、その背後でこれを操る者達が、ウクライナの敗北必至を受けて、ロシアのその他の周辺国に火種を持ち込もうとしているという指摘も出てきている。その先にあるのは、世界的な動乱である。
 ちなみに、リトアニアでは、「ロシアとのつながり」問題で、宮崎駿監督の新作がボイコットされているという。ロシアとのつながりの嫌疑があるのは、配給会社の方らしいが、対ロシア嫌悪の、これは一つの例に過ぎない。既にロシア関係の文化すべてが排除されてきているのだが、これまでのことはかつてなかったという。
 シュタイナーは、第1次世界大変前に、世界中にドイツ嫌悪が意図的に喚起されたことを指摘した。それが結局あの破局を招き寄せたのだ。今回の「ロシア嫌悪」はそれを思い出させるのである。
 表面的、あるいは意図的なプロパガンダに載せられたマスコミ報道にながされることなく、これらの背後にあるものを冷静に見つめる必要がある。

 今日のこの尊い日に思うべきは、いかに争いを拡げるかではなく、いかに人々の中に平和を、平穏を築くかであるはずだ。