k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

生理学的観点から見た輪廻転生

 シュタイナーは、輪廻転生についての講義で、例えば歴史上の人物の前世について具体的に語ったが、シュタイナーの「輪廻転生論」は更に幅広い。

 転生する主体は人間の霊的部分である自我(個性、自己)であるが、それを受け入れる肉体もその前世と無関係ではないという。これは、人間の現在の肉体がどのように形成されるかという問題でもある。

  秘教的な視点での生理学(それは「オカルト生理学」と呼びうる)が可能であり、真に人間の生理、人体を理解するためにも、秘教的視点が不可欠なのである。本来のシュタイナー教育が、このような要素を前提としていることは言うまでもない。

 オカルト生理学では、宇宙と肉体との関係なども語られるが、前述のように、現世の肉体に過去生の反映を見る観点も重要な視点である(それは現世が来世の肉体に影響するということにもなる)。

 例えば、『秘されたる人体生理』(RS著、森章吾訳 イザラ書房刊)には次のような一文がある。

「[今生においては]自我が骨格形成に何の影響も与えないにもかかわらず、頭蓋骨のこの素晴らしい構成が初めから個々人に対応して与えられている理由はどこにあるのでしょうか。・・・前回の死から今回の誕生までの期間には、以前の受肉における体験を元に、今生での頭蓋骨の形を決める力が働きかけていたのです。・・・前世での自我の活動が今生での頭蓋骨の形を決めますから、頭蓋骨にはそれぞれの人が以前の受肉の際にどのように行い働いたかが、造形的に表現されます。」

 前世での生き方が、来世の頭の外観に影響するというのである。

 

 このような主張を専門家はどのように受け取るだろうか。一般的な学問や思想信条しか知らない専門家なら一笑に付すだろう。しかし、勿論人智学を学んだ専門家は、真剣にそれを捉えるのである。

 以前ブログで、栄養の問題に関する記事で人智学者のヨハネス・W・ローエンJohannes W.Rohen氏の論考を紹介した。彼は、ドイツの解剖学者で、『解剖学カラーアトラス』等の著書は日本を含め世界各国で出版されており、その道の大家のようであるが、先にブログで紹介した著書『機能的霊的人間学:シュタイナーの人間学をふまえて』(日本では未出版)で、この問題を取り上げているのである。

k-lazaro.hatenablog.com

 『機能的霊的人間学』という本は、人智学の視点で人体を論じたもので、人体の組織及びその機能が、シュタイナーの人体3分節論(新陳代謝系、脳・神経系、呼吸循環系)に沿って分類されて解説されている。

 それだけなら、通常の生理学や解剖学の本と内容があまり変わらないかもしれないが(勿論、それでも、既に紹介済の文章のように、新たな視点を提供するものであるが)、人智学者であるローエン氏の視点は、それにとどまらない。この本には、シュタイナーのキリスト論、輪廻転生論、宇宙論をふまえて人体の問題を論じた項目があるのである。

 その一つは以下に掲載する文章である。

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地球と人間の進化における輪廻転生の意義

 ルドルフ・シュタイナーは、・・・死と新しい誕生の間における人間の形態の変容という途方もない霊的プロセスを次のようにまとめたことがある。(GA230、206頁f、補遺12)

「イマジネーションという霊的な目には、死の門をくぐった人間は、まだこの地上にいたころと似た姿で見えます。なぜなら、人間がこの地上で自分の中に担ったものは、多かれ少なかれ粒子状で自分の中にある実質ですが......、人間の姿は霊的なものです。この姿は、単なる力の体であり、そうしないとバラバラになってしまうものを、形にあわせてまとめ上げています。この[霊的]姿は、[死後]きらめき、様々な色で輝いて見えます。その人間は、頭の形だったものだけをまず失い、その後、他のものは徐々に解けていきます。そして、地上での過ぎ去った姿から、次の受肉の姿に、まず霊的に生成するものが生まれる、驚くべき変容が起こるのを見るのです。そして、この霊的な姿は、人間に胎児としての肉体において与えられたものと先ずつながるのです。しかし、天上の霊界では、足と脚が頭の顎に変身しています。腕と手は、頭の頬骨に変容します。下方の人間の全体は、今や後の頭部のための霊的基礎となるものへと変化しているのです。この変容が起きる様子は、世界の中で体験しながら認識できる最も素晴らしいことだと、私は言いたいのです。... さて、この変容した霊的形態には、それは基本的に未来の頭の基礎なので、ある意味、胸の器官、手足の器官、代謝の器官となるものが取付けられなければなりません。」

 世界の真夜中の時間【訳注】、人間はある意味で永遠の前に「霊的に裸」で立ち(GA 234, p.161)、死によって残された「空白の場所」、かつて自分の身体が満たしていた空虚な空間を振り返り(GA 168, p.73 ff.)、次第に地球に戻り再び受肉したいという切望に満たされていくのである。人は惑星圏をとおって下降するとき、残された浄化されていないもの、カルマに属するものをすべて再び受け入れ、それは、第2、第3ヒエラルキーの存在によって(「恩寵に豊かに」)アストラル体エーテル体に取り込まれ、今、生成中の胴体と四肢の霊的イメージと接続される。人は、「霊界で創られた来るべき地上生活の原型に最も対応できる肉体を与えてくれる両親に」ますます惹かれるのを感じるようになるのである。このように、人間の生まれ変わりには、男性的なもの、女性的なもの、霊的なものの3つがつながっている。人間が誕生して新しい地上の生に入るずっと前に、この形成された力は、関係を持つ両親の方に引き寄せられる......」と言うことができる。(GA 63, p.350)。

 【訳注】人は、死後霊界に赴き、地上界の汚れを拭い去った後、来世での受肉を準備する。霊界から地上界に戻るための歩みを始めるころの状態にあるのが「真夜中の時間」である。霊界から地上界を見ると、かつて自分の身体が満たしていた場所が空虚として認識され、地上への受肉を渇望するようになる、とされる。

 

 シュタイナーによれば、このようなふさわしい親捜しは何世代にもわたって行われることが多く、そのため、霊界からの誕生は、時には数世紀にわたって準備されることもあるという。

 受胎ができる前提は、受精の際に一緒になる胚細胞がほとんど完全に自らの性質を放棄していることであり、「卵胚」-シュタイナーの表現では-は大部分が「混沌化」し、もはや自己の生命を持っていないことである。(GA226、P35/36)(遺伝の基礎となる)遺伝物質は、男性と女性の胚細胞を通じて伝達されることは明らかである。しかし、今日私たちは、染色体は、受胎前に、遺伝情報の完全な再編成(交叉、交換など、いわゆる組み換え)が行われ成熟する段階(成熟分裂、四分子形成など)を経ること、遺伝子の「プログラム」も染色体に備わった要素群によって、すなわち遺伝学者が言うように再メチル化によって、完全に新しくなることを知っている。この段階で、受肉しようとする個我存在が、すでにその遺伝的体制を準備し、その結果、受胎のずっと前に、後の自分の身体性に働きかけているということは、排除できないのではなかろうか。物理的なプロセスという観点からは、それは少なくとも可能である。【訳注】

【訳注】受肉する身体の元となる胚細胞は、両親の遺伝情報を有するが、重要なのは、それが、新しい個我の身体になるために、一度混沌(カオス)となり、新しい個我により造り変えられると言うことである。

 

 しかし、胚の発達は、例えば家を建てるように、石を一つずつ重ねていく、物を一つずつ足していく、細胞一つ一つを一定の(直線的な)方法で作っていくのではなく、常に全体から部分へと行われる。受精卵細胞(接合子)はすでに全体であり、それが徐々に様々なシステム、器官、組織に分かれていく。したがって、特殊化した細胞は最初に開発されるのではなく、最後に開発されるのだ。

 この一連の連続した発達段階は、今や世界そのものの発展の正確な繰り返しである。私たちは、人間生成の大きな段階を、原理的、模像的な形ではあるが、もう一度経験することになる。シュタイナーが『隠秘学』(GA 13)で述べたように、桑果胚の細胞分裂過程は土星期、胚葉形成は太陽発生、続く原腸形成期は「古月」の発生を印象的に反映している(J. W. Rohen, 2007)。その場合、最初、人間は、手足を持って胚芽物質の中にいるのではなく、胚盤葉の周りの卵膜Eihuelleの中にある一種の球体の中にいるのである。従って、卵膜Eihaeute(絨毛膜、羊膜、絨毛膜など)は、そのため、対応する器官が分化していなくても、生物の生命を構成するすべての機能、すなわち呼吸、代謝、排泄、制御などの機能をはじめから持っているのだ。つまり、胚芽の周りの覆いには、実質的に人間の生物全体がすでに存在して生きており、そのとき初めて、周囲から、自己形成中の胚体へと「降下」し、さながらそこに入り込んでいることがわかるのである。これは、強力な反転を開始する原腸形成の瞬間であり、その対極にあるのが、より正確に言えば、死の際の、外側への折り返し(あるいは「展開Ausrollung」)である。平らな胚盤(子葉の外側部分)には、受精後17日目くらいから、穴状の窪みと溝状の窪み(原始孔、原始溝)が見え始める。これが子葉の間の細胞材料の生育の始まりで、それにより次第に皮膚に囲まれた胚体が誕生する。周囲を包む「球」から胎児の身体の器官に機能が移れば移る(そこに入り込む)ほど、覆いの器官(胎盤)は死滅し、出産が必要となる。覆いの器官は、後産として排出される。自分の構成要素をって人間は、今や生まれたばかりの有機体の中に生きており、もはやその周辺にはいない(J. W. Rohen and E. Liitjen-Drecoll, 2006; J. W. Rohen, 2007)。【訳注】

【訳注】人の「発達段階は、今や世界そのものの発展の正確な繰り返し」であるということは、「個体発生は系統発生を繰り返す」という学説にも通じる。それは、人間の胎児が、魚類、両生類、爬虫類、原始哺乳類という進化の諸段階を繰り返すような発生プロセスをたどるとするものである。人間は、まさにミクロコスモスなのだ、

 

 シュタイナーは、1907年の時点で、これらの事象を霊的観察から正確に記述している(GA 99, p.53/54)。当時彼は、人間は、受胎後、自我、アストラル体エーテル体からなり、確かに母の近くにいるが、外から働きかけているだけである、と言った。「3週間目くらいからアストラル体エーテル体が人間の胚芽を言わば横取りして、人間に働きかけ始め、それまでは、物質的人体の発達はアストラル体エーテル体の影響を受けずに進む..."。」(付録13)

 最初の2週間は、受精卵の細胞分裂と小胞形成(胚盤胞)が行われる。言わば、本来の内部をもたない鉱物的な段階を表現している。これ以上の発育には子宮粘膜への着床が必要なため、ここで自然流産となることが多い。シュタイナー(GA 109, p.201)によれば、受肉する個性にとって、胚芽の周囲の「圏」から胚芽そのものへの働きかけへの決定的な移行、すなわち記述の反転過程の始まりは、受胎後18日から21日目の間に起こるのである。これは、ちょうど原腸形成(原始孔、原始溝形成など)の始まりと一致する。

 もっとも、圏域(シュタイナーは「前地上的」と言う)に住む人間は、当初、原始的な発達そのものにほとんど関与していない。人は「周りのすべてのものに対して最大の関わりを持つのです。そこには、地球以前の人間が住んでいます......それは、[後に]分解されるのかです、絨毛、羊膜など......。」(添付資料 14)

 新生児や乳児は、7歳くらいまでの「前地上的人間」の人間にとって単なる「モデル」である。

「これは、本来はもっと球状のものを形成して、球状に組織化された人間を生み出したいのだが、これは遺伝の力から来る...モデルに従って作り直される。」(GA 316, p.147 ff.)。

 シュタイナーによれば、生後7年目以降に、「前地上的」人間自身のエーテル体が生まれ、まだ遺伝の流れからもたらされているすべてのものが捨てられることにより、第2の誕生が行われるのである。同じことが、個人のアストラル体が確立する14歳頃に再び起こる(第3の誕生)。生後18年目から21年目にかけて、個性[自我]そのものが肉体に完全に入り込み、個々のカルマを生き始めるのである。【訳注】

【訳注】人の成長とは、受肉した個我(個性)が、親からもらい受けた肉体を自分(のカルマ)に合わせて作り直していくと言うことでもある。その過程で順次、エーテル体、アストラル体、自我が誕生し、その力を発揮するようになっていくのだ。肉体の作り直しに本来重要なのが、子どもの頃に一般的にかかる病気である。その熱の力により、肉体のタンパク質を自分に特有のものとしていくのだ。この過程を阻害することは(単なる「病気」との認識で)、逆にその子どもの将来には不利益をもたらす。下記記事参照

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 ここで、もう一度、死後の出来事を簡単に見てみよう。そこでも、肉体の死は約3日後に「第二の死」、すなわちエーテル体の分解が起こり、生涯の3分の1が経過した後、カマロカが終了すると「第三の死」、すなわち自我によってまだ作り直されていない限りにおいて、アストラル体の分解が起こるのである。【訳注】

【訳注】アストラル体エーテル体は、自我の働きかけにより浄化され、変容されうる。そのようなものは、宇宙アストラルやエーテルに解消されず、個我と共に次の転生へともたらされる。アストラル体が完全に変容したときに生まれるのが「霊我」である。

 

 このように、死後の脱肉体と受胎後の受肉のプロセスは、互いに鏡像の関係にある。ここでは、「脱衣」(死後の生)と「着衣」(誕生前?の生)のイメージも使えるだろう。一方では誕生あるいは死の刻を、他方では「世界の真夜中の刻」が、それぞれ鏡に映したようなイメージで相対しているのである。

 なぜ、人間はこのようなサイクルを何度も新たに繰り返さなければならないのか。大宇宙の周囲から小宇宙の内部へ、あるいはその逆へと、反転と陥入を繰り返すことに、どのような意味があるのだろうか。これは一層高次な存在形式への「人類の教育」(G. E. レッシング、1780年)なのか、人類の実際の進化なのか、もしそうなら、それは世界にとってどんな意味があるというのだろうか。私たちは、実は世界にとってもともと余分な存在ではないか、もしかしたら危険な存在ではないか?

 その答えは人間だけでなく世界の存立にかかわる、とてつもない遠大な問題がここにある。ルドルフ・シュタイナーの霊的な研究は、このような疑問に対するいくつかのヒントを与えてくれる・・・

 存在の4つの構成要素のうち、肉体が最も発達している。肉体は4つの惑星の段階を経て、エーテル体は3段階、アストラル体は2段階を経ててきた。そして、地球が誕生して初めて、本来は神的な火花、あるいは霊的萌芽として「自我」が加えられたのである。この「自我」は、人間を本来の意味で人間たらしめる力であり、これまでの進化全体のゴールを示している。それは、人間がその「能力」で成長し、自立した自我中枢から自らの手で進化を遂げ、前に向かって努力することを、今や期待している神々からの贈り物だった。人間がまだ「神々のふところ」の中にいる限り、つまり家族のふところの中にいる子供のようなもので、自立して働き始めることはできない。ところが、今は、人は大人になり、自分で責任を取れるようになった。物質界が、彼にこの自立性を与えたのである。人間は思考することによって、理念世界、すなわちすべての現象の根底にある霊的世界にアクセスすることができる。しかし、物質は、人に世界の真の精神的内容を覆い隠している。神々にとって、また死んだ人も同じように、物質(「肉体的なもの」)があるところは「空白空間」である(GA168、P.74)。このように物質的なものにより霊界を遮るあるいはベールをかけることは、人間に自由を与えるために必要なのだ。人は神の前で嘘をつくことはできない! 自由な決断は、霊界が認識されないままで、思考や行動に影響を及ぼさない場合にのみ可能である。一方、このことは、人間が間違った行動や判断をすることもあり、自由を乱用し、エゴイスティックな目標のために使うこともあり得るという結果をもたらす。人は、この孤独と誤りの谷を通らなければならない。それが人間の本来の運命なのだ

 しかし、今や、人間の思考は、それは哲学者ルドルフ・シュタイナーの中心的な発見であるが、自らの力で世界の理念への道を見出すことができる(『自由の哲学』GA4参照)。感覚世界のヴェールを破り、世界の霊的な内容を思考意識に受け入れることができるのである。これは、物理法則の次元では今日すでに可能であるが(そうでなければ技術は不可能)、原理的には、エーテルやアストラル力の次元でも可能である。これらの力によって、自由な人間は、自分の有機組織だけでなく、世界そのものに変化をもたらすことができるのだ。人間は、発展の可能性を持つ唯一の存在であり、学習能力があり、新しい創造的な考えを発展させることができ、それを実現することもできることをよく考えてみよう。どんな動物も、どんな存在も、このような発展の可能性を持ってはいないのだ。人間は、いわば自然の系図にある植物の芽である。しかし、道徳的に成熟していない限り、この自由は、その実例が現在に十分示されている災いをもたらすこともあるのだ。

 したがって、「善き神々」は、まず、観念を形成し、行動を構想を提供する頭から、人が世界の真夜中からもたらし、そこに神々が共に働きかける霊的なものが、自らの生体に直接入り込まないようにしたのである。シュタイナーは、「地上での人間の発達の初めから、前の地上生活から、死と新しい誕生との間の時間を通じて力を保ってきたものが、頭の組織から最も強い影響を与えます。頭から、子供の人格的な力として作用するものが発せられるのです。しかし、それがふるい落とされないまま、身体の組織の中に入っていってはならないのです。ふるい、中間層がなければならないのです。外的には見えませんが、生体の中に存在しているのです。ふるい落されないということはありません・・・」 (GA 316, p. 201; Appendix 15)

 しかし、これらの力が体の中にまで入り込むと、機能障害や病気が発生する。この「ふるい」は、脳そのものである可能性が高い。脳は、世界だけでなく自分の表象も模像イメージで反映させるが、その完全な現実においては反映させない。そのためには、オカルト的な訓練が必要である。鏡像であるからこそ、私たちは、自分たちの個性を伸ばすのに必要な自由があるのだ。【訳注】

【訳注】前世からの霊的な力がそのまま身体に入り込むと身体に害を及ぼす。それらがそっくり入り込むのを防ぐふるいがあり、著者は、それが脳ではないかと言っているのだろう。世界や自分自身を認識する上でも、その姿が完全にイメージされているのではないようである。人は、ふるいを通して見ているのである(逆にふるいを外して見ることができる人もいるだろう)。

 

 しかし、この自由な空間には、まったく新しい力や衝動が(進化上初めて!)開花する可能性がある。ここには、まだその意義が十分に認識されていない、愛という魂の力が発展しうるのである。愛は、物理世界のベールを突き破り、その中に隠されている霊性の認識に導く力である。それは、無欲であり、自己犠牲的であり、高い道徳性を持っている。この力によって、人間は、自分の構成要素を変容させ、物理的・物質的な地下牢から出させることができるだけでなく、世界に創造的な影響を与えることができる、つまり、世界を物質的な硬化から解放することもできるのである。これらは、もちろん、いくつかの惑星のステージにまたがる長期的なプロセスである。しかし、今、その素地ができつつあり、徐々に効果が出始めている。

 愛は、霊的な熱の力を通して(人間の生体組織では、頭から何より心臓をとおして)肉体に働きかけ、死後においても体験される効果をもっており、人間にとっての経験となる痕跡を世界に残すのである。愛によってもたらされる世界の変化に、人間は、霊的なものの有効性―しかし、その法則性に従うのは自由意志による-を体験することができる。これは、自由を奪われたように見えるかもしれない。しかし、そうではない! 本当の自由は、自分の自由意志で、霊的な必要性に身を置き、その際、それに対して、最もよく発達した能力をもって人が臨む、その使命の本質を深く認識する者にのみ、与えられるからである。このように霊的に目覚め、創造的な力としての愛を育む人間は、与えれば与えるほど、受け取るものが増えること、自分を犠牲にすればするほど、霊界から流れくる援助を受け、貧しくなるどころか、豊かになることを、衝撃をもって気づくことになるのである。

 ここから、シュタイナーの言葉によれば、「霊的な温もり」、つまり生前に培われた愛の力だけが、死後も地上に残るという理由が理解できるのではないだろうか。それらは、いつか地球を霊化し、新しい惑星状態(上記参照)へと移行させる酵素なのだ。これで、シュタイナーが「人間の死体は地球の酵素である」と言った意味が分かり始める。それは、地球を枯れて朽ちていくことから守り、生命維持と霊化するプロセスを継続させるのに役立つ(GA 191, p.61/62; Appendix 16)。【訳注】

【訳注】シュタイナーは、人の死体が地球の豊穣化に役立つと言っている。「地球の発展、自然界の維持は、人間の死体が地球にもたらす力によってなされる。人間が精神界から携えてきた力が生存中に変容し、火葬・土葬に関わらず、人間形態が地球に働きかけるのである。」(『シュタイナー用語辞典』)「桜の花が美しく咲くのは、その木の下に死体が埋まっていて養分を吸っているから」という梶井基次郎のイマジネーションも、あんがいこのような真実を直観しているのかもしれない。

 

 そして、このような発展の過程には、キリスト衝動が非常に大きな意味を持つことも理解できるようになる。それは、愛の精神と太陽の力として、人の任務、すなわち物質変換する愛の力を世界にもたらすことを、地上で人間が果たすのを助けることができる。彼は、死後の道を歩む人間を世界の真夜中まで、そしてまた地上まで人を助けながら同行し、進化を促進させる指導霊である。今や、なぜアーリマンが、死後境域を超えるときに魂の前に現われ、人間の自我を地上のものに縛り付けようとするのか、なぜ唯物論者は死後に霊的な世界への道を見つけるのが難しいのかについても理解できるようになる。逆に、ルシファーは、新しい転生の始まりに立ち、暗い物質界への参入を阻止しようとする。新しい転生を通過することだけが、人間と世界をさらに発展させることができるからである。ときどき、新しい受肉に入る前に、人間が来るべき運命にショックを受け尻込みをして、受肉がうまくいかず、障害者になることもある(GA 63, p.352)。

 

 人間の一生は、地球の上で、誕生から死までの間に行われる。受肉において、世界の真夜中の時間で受けたインパルスは、徐々に霊的魂的覆いに吸収され、受胎時に肉体の胚芽(黒い点)と一体化する。その前に、ルシファーがこの一体化を阻止しようとする。人生の終わりに肉体は霊的魂的力を吸収し、死後、霊界に(経験によって豊かになった)それを放出する。アーリマンは、この脱肉体を阻止しようとする。霊的魂的力は死後、惑星圏を進み、その間、変容に必要な助力はキリストから放射されるが、肉体の形態力は地球圏(父なる世界)に熱組織として残り、どんどん崩壊していく地球の若返りの力となる。神霊から発せられる新しい創造的衝動がそこに由来する霊界では、力の完全な反転が行われる。

 

 人間がキリストの助けを借りて、地上生活の中で知識と愛の力を発展させると、魂的及び物質的組織を、物質により規定されている遮断から徐々に取り出して、それらを霊的領域に戻すのである。人間の肉体的な姿は、本来「霊的に表象されたものである。物理的なものは、ある意味、小さな粒子の中にどこにでもある。力の体でしかない形は、これを、そうでなければバラバラになってしまうものをまとめ上げて形にしているのである」(『GA230』211頁)。

 この霊体に徐々に認識と愛の力で完全に貫き、自分の自我からコントロールできるようになれば、いわば「物質の粒子」を排除し、何度も転生しなくても、今や完全に霊体となったこの「肉体」で再び霊界に住むことができるのだ。現在では、これらの変容の力は魂的部分にのみ浸透し、アストラル部分を浄化し、それが、それによって「霊我(マナス)」となるのである。しかし、私たちが自分の内面により深く入り込むと、エーテル体が次第に「生命霊・ブディ」へと変化していく。そうして初めて、霊的な温もりと愛の力が徐々に肉体に到達し、肉体の「霊的形姿」を物質の地下牢から解放して、「霊人(アートマ)」が私たちの中に誕生するのである。それは、人類が自由と確信のもとにこの苦難の多い道を歩んだとき、地球の発展における最後の惑星的ステージのひとつで起こるだろう。しかし、現代のように、人間が自分に委ねられた力を主にエゴイズム的な意味で自分のために使ってしまうと、世界の関連からその力を解き放ってしまうのだ。他人のものを奪うことで、罪を犯してしまう。与えるのではなく、奪う-温め、ほどくのではなく、固め、消耗させる。それにより、霊への回帰が妨害されるのだ。そのため、新たな地上生活でカルマの負債を精算し、過去を償う必要が生じるのである。

 世界や自分の運命と向き合う中での経験で得たものは、自分にとって、つまり自分の構成要素を完成させるために意味があるだけでなく、霊的世界そのものにとっても意味がある。「神々」は、私たちのすべての行動に参加し、これを世界計画に織り込んでいくのだ。例えば、シュタイナーはかつてこう言っている(GA168号76頁)。

「私たちは、自分のためだけに生きていると思っていますが、神々は私たちの経験を通じてあるものを生み出しており、それにより、神々は、今度は世界に紡いでいくあるものを得ているのです。私たちは思考し、心情体験をしました-神々はそれを受け取り、彼らの世界に伝えます。そして、私たちが死んだ後、私たちは、私たちが生きた理由は、神々がこの織物を紡ぐためであり、それは、今、私たちからエーテル体の中に来ており、また全宇宙に伝えられていることを知るのです。神々が私たちを生かしたのは、彼らが、自分たちの世界を一かけらでも豊かにする何かを紡ぎ出すことができるようにするためなのです」。

 霊的な世界からは、物質は知覚できない、ある意味それは、「空っぽの空間」である。したがって、霊的な存在には、空間におけるいかなる経験もできないのである。だからこそ、人間は、自分の思考と行動によって世界を豊かにすることができるのである。それゆえ、シュタイナーは今引用した講演の中で、次のように続けている。「それは、衝撃的な考えです!私たちがこの世界を一歩、歩くだけでも、その一歩は、神々の出来事の外的な表現であり、あとで私たちから取り去り、宇宙に取り込むため、ただ私たちが死の門をくぐるまで、私たちにまかされている、神々が世界計画のために使う織物の一部なのです。これらの私たちの運命は、同時に神の行為なのです。そして、私たち人間にとってのそれは、ただ外側だけのものなのです。それこそが意義であり、重要であり、本質なのです。」(GA 168, p.77)。

 私たちが善を行い、創造的な新しいものを誕生させれば、「神々」との協力のなかで、世界は発展を遂げ、そうでなければ阻害され、破壊されてしまう。ここに、人間の大きな責任がある。この地球上で唯一、観念の力によって、発展を進めることができる存在であると、私は言ってきた。人間の体組織は死後、分解し、その力は霊界に移行するため、私たちの人生の果実は、世界計画に組み込むことができる。しかし、私たちが人生で行った良くないこと、罪深いこと、「悪いこと」は、世界計画では破壊的な影響しか及ぼさない。神々に「拒絶」され、「残滓」として残り、世界の真夜中に胴体器官と手足が再構築される際に、自分の中に取り込まれるのである。従って、死後、胴体が頭部に変容し、私たちのカルマが埋め込まれる胴体-四肢人間が常に新たに作り出されることは、人間が霊的ヒエラルキーと協力して世界の発展を推進する「仕組み」なのである。この上なく遠大な思想!

 私たちは世界を救済する能力を持っていると同時に、しかし世界を破壊する能力も持っている。霊的世界のことを真剣に考える人は、自分の人生に対するこの大きな責任に鑑みて、その結果をも引き受けなければならないのである。

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 さて、以上の文章は、生理学の本と言うより、やはり輪廻転生の意義がメインとなった人智学者の文章であったが、解剖学者としてのローエン氏の本来の真価が発揮されているのは、実はこの文章とは別の文章である。

 そこでは、例えば、「前世での生き方が、来世の頭の外観に影響する」と前述したことに関連して、上の本文中でも「天上の霊界では、足と脚が頭の顎に変身しています。腕と手は、頭の頬骨に変容します。」と述べられていたが、彼は、この本の中で、解剖学の知識をふまえて、実際にこの問題を具体的に論じているのだ。

 これらについては、また後に譲りたい。