k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

電子的ドッペルゲンガー①

 「人間をめぐる闘争 - 人間の自我に対する科学技術の全能幻想の攻撃」で紹介したように、アンドレアス・ナイダー氏は、コンピュータにより電子的ドッペルゲンガーが創り出されていると語っている。

 今回はこの問題について更に詳しく見ていきたい。

 ナイダー氏は、前回の本とは別に、『電子的ドッペルゲンガー-インターネット時代のダブルの秘密』という本で、詳しく論じている。この本は、このテーマに関するシュタイナーの講演記録を内容としているのだが、ナイダー氏がそれに序言と後書きを付しているのである。

 今回は、これを辿ることにより、ナイダー氏の「電子的ドッペルゲンガー論]

を見ていくこととする。部分的に引用しながら、途中に訳者の補足、解説をはさんでナイダー氏の文章をたどることとする。また長文となるため、2回に分けて掲載することにする。

 

*****

 まず、電子的ドッペルゲンガーについて述べる前に、その理解の前提となる現代の状況についてナイダー氏は解説していく。

 既に掲載済の記事にも何度か出ている話であるが、シュタイナーは、「物質主義を広めて、それによってますます多くの死者がこの世の存在から逃れられなくなるようにすることに関心を持っている西洋のオカルト同胞団が存在している」と話している。「死後も物質界に絡め取られた魂は、それを同胞団が自らの目的のために利用することができる破壊的な影響を与える」ことができるのだ。

 この西洋のオカルト同胞団は、主にアングロサクソン系であると考えられる。テーマの全体に関わるコンピュータ技術が主にアメリカで発達してきたことは、このことと関係するだろう。

 ある西洋オカルト集団は、「物質的・技術的手段によって地球を支配しようとし、その活動が死者の領域にまで及んでいる利益と関連している。シュタイナーによれば、このような力の行使は、ある秘密が秘匿され、慎重に保持されることによってのみ可能となる。これらの秘密は、人間の超感覚的な性質に関係し、「アーリマン的」または「地理的」ドッペルゲンガーに関係する。」

 本来ドッペルゲンガーはアーリマン的または地理的なものである。それは、人間が地上に誕生して以来存在するものだ。これに対して、電子的ドッペルゲンガーというのは、現代の技術文明において誕生しようとしているドッペルゲンガーである。ナイダー氏は、さらにその前提となる出来事について触れる。

 それは、シュタイナーの言う「闇の霊の墜落」に関するものである。シュタイナーによれば、「1841年から1879年にかけて起こった歴史的だが超感覚的な出来事を、黙示録に描かれた竜との戦いの一種の反映として説明した。大天使ミカエルは、1879年以降、時代霊として支配するための準備として、闇の霊を地球、すなわち人間の意識に追い出す必要があった。このエーテル世界での戦いは、38年後の1879年に終結した。ミカエルは、それ以来、物理的な世界、つまり人間の地上の意識の中でしか活動できない闇の霊に勝利したのである。そして、1879年から38年後の1917年に、この墜落の地上の結果が現れた」のである。

 ミカエルやラファエロなどの大天使は、交替で一つの時代を統治していく(時代霊)。これにより1879年以降は、ミカエルの時代といわれる。その準備のために、ミカエルは、自分に従う人間の魂や天使のために霊界に学院を設けた。人智学の霊統もここに由来する。

 またヨハネの黙示録12章に、ミカエルが竜と戦って打ち負かし、これを地上に落した、と記述されているように、霊界においてミカエルと竜の戦いがあったのである。

 竜とはこの場合、神々に反逆した闇の霊である。それらは霊であるので、地上に落ちたといっても、物質的に存在するのではない。ナイダー氏は、この戦い以降、地上の人間の意識に闇の霊が住むようになったというのである。

 この結果、シュタイナーによれば、1840年代から、この墜落の究極の表現としてた人間世界に唯物主義が広がったという。

 

 闇の霊は、もともとはアンゲロイ(天使)の領域に属する存在である。ナイダー氏は、その意味を解説する。

 「天使は肉体を持たず、エーテル体を最下部に持つ。」人間は、最下部の構成要素として肉体をもつが、人間より先に進化した天使は、エーテル体が最下部となる。このため、天使は思考するのに肉体を要しない。思考において、エーテル領域に直接生きているのだ。エーテルの世界では、「時間は空間となる」という法則が適用される。物理的な世界では、時間的に連続して考えなければならないことが、エーテルの世界ではすべて同時に現れるのである。

 つまり、一挙に全体を見通せるのである。「天使にとって思考は連続して生じるものではなく、一種のパノラマとして、同時で永続的に観察可能なものである。」臨死体験者や死の危機に瀕した者が、パノラマのように自分の人生を一度に目にするという経験をするというのも(実は、それは実際に死後の体験であるが)、これに基づくのだろう。

 「さらに、天使は体を維持するためにエーテル体を必要としないので、思考活動に全エネルギーを捧げることができる。その結果、天使は、先を見る能力と霊視能力(人間に寄り添う守護天使が、その人の運命を導くのもこの能力)を持つ。」

 天使が闇の霊になったと言うことは、天使の一群がアーリマンに走ったということであり、それにより「エーテル領域が暗黒化し、不明瞭になった。エーテルとは、人間の構成要素の一つ(エーテル体)であるが、物理的地球自身もエーテルに浸透されている、これがエーテル領域あるいはエーテル界である

 このため、エーテル的思考圏の支配者であるミカエルは、これらの存在を地上界に追い出すことで、これを是正しなければならなかった闇の霊となってエーテルから地上の領域、つまり人間の意識の領域に追い出された天使は、その過程でそれまでの霊視能力を失うこととなった。彼らは、エーテルの光の網と同時性のパノラマ眺望から、時間の連続性が物理的な物質性によって決定される」人間の地上の意識に投げ出されたのである。

 エーテル界のような超感覚的世界を見えにくくするのは、アーリマンの本質的な特徴の一つである。「アーリマンは、人間の意識、自由な注意力を地上の領域に縛り付けようとする。闇の霊の助けを借りて、人間からエーテルを見えにくくしようとするのだ。」

 しかしこれは、人間の進化上は必要なことでもあった。

 「現代の夜明け前、人間は肉体の頭脳で考えるのではなく、エーテル体で考えていた。つまり、思考は、神経・感覚系とそれほど密接に結びついていなかったのだ。しかし、現代以降、思考は肉体に反射されるようになった。生きた観念は、神経・感覚系に縛り付けられ、それを体験するとき、麻痺させられているのである。そしてそれにより、我々が、物質的経過を正確に探求し理解することが可能となっているのであるエーテルの中に織りこまれている生きた思考は、ある意味で肉体に制限され、死滅しているのである。」

 人間は、自由を獲得するために物質世界に生きるようになったのだが、それは、超感覚的世界、霊界とのつながりを失うという事でもある。それは一度にではなく緩やかに行なわれていった。物質的世界を正確に、厳密に認識するには、物質体、肉体による思考が必要なのだ。実はそれが可能となったのは、アーリマンの作用によるということであろう。

 それにより、現代の物質的技術文明が生まれたのだが、もちろん、アーリマンの狙いは、そうした世界に人間を埋没させたままにすることである。

 しかし今、人間に求められているのは、再び霊的認識を獲得して、霊界へ帰ることである。「人間の意識のさらなる進化は、我々がエーテル的な思考の質に目覚めることで、唯物的な意識に結びついた暗黒を克服することにあるはずである。しかし、闇の霊であるアンゲロイは、そのアーリマン的な色彩のために、エーテル的な領域を離れ、物質的な意識という地上の領域でしか活動できないので、まさにそれを阻止しようとしているのである。」

 こうした秘教的知識もまた、西側の同胞団が、力を行使できるように、自分たちの中に留めておきたい秘密であった。「闇の霊」の力が、他の誰も知ることができないような方法で使われるなら、それは当然、死後も、人間の意識を純粋な物質に固定する最良の方法となるからである。逆にシュタイナーは、これらの事柄の知識を人類にアクセスできるように努力したのである。

 

 次に、ナイダー氏は、ドッペルゲンガーと関係の深い人間の神経についての説明に進む。

 私たちの神経系の中に、人間を構成するものにはまったく属さない存在があると説明している。それがドッペルゲンガーである。生まれる直前に人間に入り込み、人間の死とともに再び出て行かざるを得ないアーリマン的存在である。このアーリマン的存在が、感覚を処理し、それらを調整し、反応するために神経系に必要なすべての電流の基礎を提供するのである。

 シュタイナーは、次のように語っている。「人間は、自分を包みこむ体組織とともにこの世にやってくるのだが、自分の魂によってこの体組織の中にまで入り込むことはありません。しかし、私たちが生まれる少し前(生まれてからそれほど時間が経たない間に)に、私たちの魂に加えて、別の霊的存在が私たちの肉体、私たちの肉体の潜在意識の部分を所有する機会があるのです。私たちが生まれる少し前に、アーリマン的霊的存在と呼ばれる別の存在に浸透させられるという事実があるのです。この存在は、私たちの魂が私たちの中にあるのと同じように、私たちの中にあるのです。このような存在は、自分の望む領域に存在するために、人間を利用して生活しています。彼らは非常に高いレベルの知性と非常に高度に発達した意志を持っていますが、感情の生活という性質のものはもっていません。私たちは、魂と、私たちよりもはるかに賢いドッペルゲンガーと一緒に人生を歩んでいるのです。この存在は高度な知性を持っていますが、メフィスト的な知性、アーリマン的な知性と同時に、非常に強い意志、つまり、感情の生活によって和らげられた、私たち人間の意志よりもはるかに自然の力に近い意志を持っているのです

 19世紀、自然科学は神経系が電気的な力に貫かれていることを発見し、自然科学はそれを正しいとしました。しかし、もし科学が、私たちに属し、私たちの思考の生活の基礎となる神経の力が、私たちの神経を通る電流と関係があると考え、あるいは科学者がそう信じているとしたら、それは間違いです。なぜなら、電流は、私が今説明したもう一つの存在によって私たちの存在の中に置かれた力であり、私たちの存在にはまったく属さないからです。私たちも自分の中に電流を持っていますが、それは純粋にアーリマン的な性質のものなのです。」

 この説明の理解は少し難しい。神経及びその力自体は人間本来のものだが、そこに流れているとされる電気は、実は、アーリマン的ドッペルゲンガーに属するものである。 本来霊的存在であった人間が物質世界で生きていくには、物質世界とのやりとりが必要となる。こうした仲立ちを、本来は人間に属さない存在が行なっている。従って、それらは人間の物質世界での生存にとって必要であるということだろうか。体内の電気は人間にとってその様な存在である。

 「医学的には、電流、いわゆる活動電位は、私たちの脳と神経系の残りの部分の両方で構築され、伝達されると言われている。・・・電流が流れていれば、それは、関係する化学反応の引き金となるメッセージである。・・・

 我々の全神経システムは、外界から感覚器を通じて受けた刺激を脳に伝える、その様な波により浸透されている、それらはまた、感覚器官から受けた刺激に対して、神経経路や神経細胞を通じて、筋肉を動かすための調整も行っている。例えば、ホットプレートから手の表面に強い刺激が伝わると、腕は瞬時に反応し、手はすぐに引っ込められる。この反応には、思考も感情も必要ない。このとき、魂は完全に排除されたままであり、肉体は自発的な反射で反応する。」

 ここで補足すると、脳から出る運動神経の刺激により肉体が動かされているという考え方は、実はシュタイナーの考えとは異なるようだ。これも理解が難しいが、神経は、肉体を含む外部からの情報を脳(心)に伝える役割をするものであり、従って、感覚神経と別に運動神経があるのではないというのだ。

 更に説明は続く。「私たちの肉体に同居するアーリマン的存在は、私たちの地上意識にとって必要な存在である。神経系に電流が流れなくなった瞬間に生命が絶たれることからもわかるように、この存在なしには生きていけないのである。

 しかし同時に、ルドルフ・シュタイナーは、このアーリマン的ドッペルゲンガーが病気の元凶であるとしている。特に、地理的条件に依存する病気である。それはなぜか。それは、地球もまた電磁気的な力に支配されているため、アーリマン的ドッペルゲンガー自身も地理的な条件に左右されるからである。この力は、地球の山脈によって配列され、特に山脈が東から西ではなく、南から北に走っているところで強くなる。シュタイナーは、この力が、人間の神経系のなかで、こうした電気的、磁気的な力に対応して活動していることを指摘している。」

 そして、シュタイナーは、20世紀の人類は、これらの力を機械に移し替えることができるようになるだろうと」予言しているというのである

 またシュタイナーは、次のように語っている。

 「私は、人間の意識が破壊の力と結びついていることを、たびたび指摘してきました。・・・私たちは、神経系において死ぬのです。これらの力、つまり死の力は、今後ますます強力になっていくでしょう。そして、電磁気的な力に関連する人間の中の死の力と、外界の機械の力との間につながりができるようになるのです。ある意味で、人間は自分の思考を機械の力の中に流し込むことができるようになります。人間の中にあるまだ発見されていない力が、つまり、外側の電気や磁気の力に影響を与える力が発見されるでしょう。」

 シュタイナーによれば、人間の意識に欠かせない神経は、「死の力」に結びついているというのである。身体そのものは、その形を維持しまた成長することに見られるように、まさに命をもっているのだが、人間は、この生命のなかでは意識を持つことはできない。ある意味死んでいる神経により意識が生じるのだ。なおこれに関してはまた後に出てくる。

 この神経の電気は、機械の中に流れる電気と通じるものであり、(「まだ発見されていない力」というのは判然としないが)人間の思考がそれにより機械の中に流し込まれることになるというのである。こうした機械とは具体的には何であろうか?

 

 ナイダー氏は、コンピュータについて語る。コンピュータ技術の先駆者の一人であるジョン・フォン・ノイマンは、1950年代にコンピュータを開発する方法を次のように語っているという。

 「この機械を設計するために、私と同僚は、生きている脳の既知の操作のいくつかを模倣しようとしたのです。このことがきっかけで、私は神経学を学ぶようになり、最終的には、生きた脳の極めて単純化されたモデルを人工機械にコピーする可能性について講義をするようになったのです。」

 フォン・ノイマンは、最初のコンピュータを開発する仕事と並行して神経学を学んだのである。

 このことをふまえナイダー氏は次のように述べる。

 「コンピュータにおける情報の伝達は、神経系と同じように、電流の極性によって行われる。しかし、人間の場合は、メッセンジャー物質や神経伝達物質と呼ばれる化学的な要素も大きく関わっている。コンピュータ技術について考えてみると、以上のことから、私たちが扱っているのは、外部化したアーリマン的ドッペルゲンガーであることがわかる。私は、これを、シュタイナーの講義の文脈で、“電子的ドッペルゲンガー”と呼びたい。」

 コンピュータは、人間の脳を模倣して造られ、その機能もまた脳を代替するものである。使うほどに、その使用者に関わるデータがそこに蓄積されていく。

 ナイダー氏は、「コンピュータがPC、パーソナル・コンピュータと呼ばれてきたのは偶然ではない」という。「私たちが頭を使って行う仕事のほとんどは、今やコンピュータとインターネットを介したネットワークの助けを借りてのみ行われている。個人情報、仕事、買い物など、私たちの生活のほとんどすべての領域がコンピュータによって捕捉され、記録されている。“パーソナル2コンピュータ、まさに電子のドッペルゲンガーとして、私たちとともにいるのだ。パーソナル・コンピュータの性質は、ルドルフ・シュタイナーがアーリマン的ドッペルゲンガーについて説明したのとまったく同じである。」

 「コンピュータとは、非常に高度な知能と、妥協しない意志、言い換えれば効率性としてしられる、冷たい機械である。・・・今日ではその[社会生活の]大部分がこの機械によってコントロールされている。このように、シュタイナーは、20世紀の技術発展を幅広く俯瞰し、産業時代からデジタル時代への移行を予見していたことがわかる。」

 ドッペルゲンガーは、人の誕生と共に人間に入り込むが、またその死と共に去らなければならない。これを克服し、地上世界に永遠に生き続ける手段が、コンピュータ及びそれにより形成されるネット、というのがナイダー氏の主張のようである。

 

 シュタイナーによれば、「西洋のオカルト集団がこれらの事実を秘密にして、権力を行使し、超越的現実に対する人々の意識を暗くするための意図的な手段として利用しようとした」という。

 次にこれに関して説明が続く。

 「私たちには、感覚に縛られた意識を支える神経系がある。この神経系は、私たちの魂の体験と同一ではない。感覚印象を認識するためには、感覚器官と、脳と神経系にある関連する神経経路が必要だ。生成した神経インパルスは、物理的に計測・観察できるが、我々の魂の体験はそうではない!赤い色も、黒鳥の鳴き声も、物理的に脳や神経経路には存在しないのだ。では、魂の体験は、身体の中にみつからないなら、どこで起きるのだろうか。

 その答えは、私たちの魂の体験は、身体の中ではなく、感覚的な現象がある場所、つまり身体の外側で起きるということである。結局のところ、私は 黒鳥の鳴き声が頭の中で聞こえるのではなく、木の枝の上で聞こえるのだ。赤という色も、自分の目の中で見るのではなく、外側の壁で見るのだ。魂の生命では、我々はいつも、我々がその瞬間に知覚しているものごととともにいるのである。」

 現代人の常識では、脳によって意識が生まれるのだから、感覚的印象も脳内の現象に過ぎないとされる。何らかの神経内物質の動きがそうした感覚を生み出していると考えるのだ。しかしもしそうであるなら、この世界は本当に存在しているとそもそも言えるのだろうか。まさに、リアルとバーチャルの世界の区別は本質的になくなるからである。

 シュタイナー及び人智学派は、その様に考えない。神々により創造された世界は現に存在している。そしてそれに付属する性質は、実際にそれがもっている性質であり、それを、そこにおいて実際に人は認識しているのである。

 

 「神経感覚組織は、私たちの魂の経験を意識化するための一種の鏡として機能しているに過ぎない。しかし、肉体の外での魂の体験は、神経感覚組織とどのように関係しているのだろうか?・・・シュタイナーは、魂と肉体のつながりを生理的な細部に至るまで理解しようとした。その結果、彼はエーテル体の本質的な機能を発見したのである。

そもそもエーテル体の機能は、私たちの肉体に命を与え、それを構築し、組織化することである。それは、臓器を形作り、それらの相互作用を調整する設計者である。しかし、こうした形成と組織化の力は、物理的な素材に命を与え、組織化するために使われるだけでなく、私たちの魂的-霊的な能力(すなわち、「自我」とアストラル体)によって得られた経験を、思考や知覚の形で把握し、形作り、保持するためにも使われる。記憶によって、私たちは魂の経験を繰り返し蘇らせることができるのだ

 シュタイナーは、エーテル体の性質が、人生の7年目頃に変化することを、彼の中心的な発見の一つとして何度も指摘している。肉体の形成と構築が終わった後、エーテル体の生命機能の一部は、第二の7年の間に解放され、以後、思考と記憶の創造に役立つようになる。私たちの思考と記憶の力は、注意の力とも言えるが、それゆえ、変化した生命の力なのである。肉体の生命を維持する仕事から「解放」されたのだから、「自由な力」とも言える。」

 7歳頃から外面的に明らかになる、この変容は、正確にはどのようの起きるのだろうか?これについて、既に紹介済の記事と内容が重複するが、ナイダー氏は次のように説明する。

 「脳の内部には、血管のネットワーク(脈絡叢)である脳室がある。ここでは、生命を維持するための動脈血が脳脊髄液に変化している。脳や中枢神経系は、この脳脊髄液の中でほぼ浮いている状態にあり、脳脊髄液自体は呼吸のリズムによって常に動いている。息を吸ったりはいたりするリズムによって、脳脊髄液は脊柱管内を上昇したり下降したりするのだ

 この生理現象は、形成的な生命力(それは動脈血の中に表現されている)が、私たちの経験を形成する力へと変化する様子を正確に反映しているのだ。これらは“自由な力”であり、代謝プロセスから解放され、透明な脳脊髄液として現われるのだ

 私たちのアストラル体は、私たちの呼吸の中に生きている。呼吸のリズムが横隔膜を介して脊髄の中を流れる液体に伝わるからである。

 アストラル体はそれによって、エーテル体の形成力(代謝プロセスにもはや必要ないもの)を自らの目的のために利用することができるようになる。生理学的な観点からは、これが私たちの心的イメージと感情生活の基礎を形成しているのだ。」

 ”自由な力“については、既にナイダー氏の別の論稿で触れられており、紹介済みなのでそちらも参照願いたい。

k-lazaro.hatenablog.com

 

 シュタイナーは、「私たちの外界のイメージを形成する能力は、呼吸のリズムが神経の波に触れているという事実に由来しています。思考、抽象的な思考はまだ完全に神経系と結びついていますが、視覚的な要素は私たちの生きた呼吸と結びついています」と語っている。

 更に、ナイダー氏によれば「意識的な体験をする人間のアストラル体は、意識の形成、すなわち心的イメージの形成のために、これらの体験を模倣または反映することができる身体的基盤を必要とする。神経系は、死んだような抽象的な思考や、感情を欠いた想像力のない概念の基礎を形成しているが、生きた思考と経験は、呼吸によって振動させられる脳脊髄液に関係している*。アストラル体の魂の体験は、以前は動脈血液で、今は代謝から自由になった脳脊髄液のリズミカルな呼吸によって、神経系の物質的/物理的なプロセスとのつながりを見出すことができるのだ。エーテル体の同じ彫刻的、形成的な力(それは、動脈血で栄養分を運び、生きた器官に供給することによって、以前は肉体を構築していた)は、すでに述べたように、7年目以降、意識と意識的な心象形成に自由に使用されるようになる」のである。

 

*このことは、アルミン・フーゼマンが『人間の聴覚と音楽の現実』で示しているように、何よりも、音楽を体験する際に、内なる歌声に合わせて息を吸い、吐き出すというリズムに基づくことに見られる理想的なケースでは、リスナーは、歌手や楽器奏者が演奏するリズムと全く同じリズムで呼吸をする。・・・。シュタイナーは、次のようなことを付け加えている:

「・・・すべての物質的な存在は、霊的な存在を含んでいるのです。このことを、音楽という芸術と結びつけて考えてみましょう。人間が、常の意識で受けとる、音楽などの心象を作り出すと同時に、体の中では、複雑なプロセスが起こっています。しかし、そのような現象が起こっているにもかかわらず、人は何も知りません。霊視意識は、このような内面的で複雑な、素晴らしい身体的体験に入り込みます。脳内にある脳漿は、吐く息で脊髄組織に流れ出し、血液を下腹部の静脈に押し流し、吸う息ですべてが押し上げられます。私たちが想像し、知覚するすべてのものに付随する素晴らしいリズムが起こります。この呼吸、この形成は、脳からリズミカルに出入りさせるのです。人間の体験に貢献するプロセスが起こるのです。それは潜在意識で行われるものであり、魂はそれに気づいています。今の生理学や生物学ではまだほとんど何もわかりませんが、これからは科学の分野として広く普及していくでしょう。・・・」

 

 人間は、身体の他に、エーテル体、アストラル体そして自我をもっている。自我は、勿論知覚や認識の主体である。しいかし、もし、人間が、エーテル体を持たないとしたら、体験や感覚印象を持つことはできても、それははかないものであり、それを保持することはできない、という。

 ナイダー氏は、「エーテル体は、私たちが体験したことを、それが解消されるまで-アストラル体から手放されるとき、つまり忘れ去られるとき-保持するものでもある。エーテル体は、静脈血を通して、体験を保持することができ、その体験は、書き文字のように、さまざまな器官や、それに関連して、脳に刻み込まれる。したがって、これらのプロセスは、記憶の形成の根底にあるものでもある」とする。

 ここで、体験が「さまざまな器官や、それに関連して、脳に刻み込まれる」とされるが、しかし、実際のその保持者はエーテルあるいは他の超感覚的実質なのではなかろうか。身体を離れた死後に、生前の全体験が追体験されるからである。人間の全ての体験は、超感覚膿的世界に残るのである。それがいわゆる「アーカシャ年代記」といわれるものである。

 従って、この場合、人間が、あくまでも地上において身体を有する限りにおいては、記憶や想起の過程で身体を必要としており、脳神経等がその働きをしているということであろう。自我は霊的で、時間を超越している存在である。その様な存在が時間のなかに存在している物質世界で活動するには、物質界に即したそのような機構が必要なのだろう。

 

 エーテル体の形成力は、「自由な力として利用可能であるため、心像の内容の物質的な表現を身体に刻み込むことができるのである。このプロセスでは、脳の関連部分が物質的な基礎を形成する。

 アストラル体が形成力を放棄するとき、つまり、心象や魂の体験が意識から消えるとき、その代わりに、もはや意識に留まらない純粋なエーテルの形態が作られる。生理的には、脳脊髄液が静脈血に再吸収されるのに相当する。このように、エーテル体は肉体の“保存者”から、意識の内容の“保存者”へと変化するのだ。想起のプロセスでは、保管された記憶内容は、エーテル体の中でアストラル体によって、過去の経験として“読み取られる”のである。

 魂は、私たちが物理的に響く音を通して音楽を聴くのと同じように、肉体に刻み込まれたサインを読み取る(音楽の本質は、音の間の霊的領域にあるが)。それは、書かれている内容がページ上に生きていないものの、私たちがページ上の文字を読むのと同じである。このように、魂は身体的な記憶痕跡に表されている過去の経験を思い起こすのである

 しかし、“記憶痕跡の書込み”はすぐに行われるわけではなく、体験したことがエーテル体と肉体で実際に処理されるまで、通常は3日3晩かかる。この処理は、主に夜間に行われる。夢は、この夜間の記憶化の現れである。私たちは、自分の体験や感覚印象に意識して注意を払っている一方で、エーテル体は、常に、それらを身体に取り入れ書き込むように働いているのだ。」

 

 以上のように、記憶する力、心象イメージを創り出す力は、実はエーテル体に宿っており、それらは、死んだ抽象的思考や心象風景のように、神経系に縛られている。そしてシュタイナーによれば、これらの力、死の力は、ますます強力になり、電磁気的な力に関係する人間の中の死の力と、外部の機械の力との間につながりができるようになる。「ある意味で、人間は自分の思考を機械の力の中に流れ込ませることができるようになる」という。

 しかしこれは、人間が霊的なものとの関係を失うことにつながる

 それは「もはや工業技術ではなく、意識技術、より正確には注意力技術になるということに他ならない。この技術は、正確にエーテル体の自由な力を介して両者がつながっている地点で、神経感覚系と私たちの魂・霊とのつながりを断ち切り、「自由な力」を電子的ドッペルゲンガーに置き換えてしまう!記憶の創造を含む私たちの魂の体験は、それによって機械に縛られる。別の言い方をすれば、インターネットやコンピュータの意識技術の助けを借りて、人類の注意力の大部分が機械に束縛されるようになったということだ。私たちの記憶機能の多くも、コンピュータとインターネットに取って代わられつつある。後者は、仮想的ではあるが、世界的な技術媒体という意味である。

 インターネットを利用するとき、私たちはそれによって世界とつながっているような印象を受けないだろうか。・・・インターネットやウィキペディアを通じて、人間の普遍的な記憶のようなものにつながっているように見えないだろうか?」

 誰もが感じていることだろうが、パソコンを使っていると漢字を忘れてしまう。しかし、漢字だけでなく他の物事についても同様だが、それらを忘れていても、どうせネットを検索すれば出てくるし、どのようなデータであれ、自分のパソコンやネット上に保管できるので、忘れていても困らない、という状態になっていないだろうか。

 そして実際に、これを極端に推し進めようというのが、トランスヒューマニズムによる、人間と機械(ネット)の一体化ではなかろうか。脳とネットをつなげ、脳自体を端末とするのだ。そうなれば、もはや人間は自ら考え、あるいは記憶する必要もなくなるだろう。しかし、端末というのは、それを使うものにとっての端末である。それは、もはや人間ではない。

 ナイダー氏は、これに関連するシュタイナーの「予言」に触れる。アメリカ発のこれらのテクノロジーノロジーが、どのように世界中に広がっていくかについても述べている」というのである。

 

 「反キリストをキリストとして紹介しようとする人々は、力の中で最も物質的なものによって作用することができるが、実際には、最も物質的な力によって霊的に作用するものを利用しようとしているのです。とりわけこのグループは、世界中に影響を及ぼすために、電気と地球の磁気を利用しようとしています。」(シュタイナー)

 

 これらの「反キリスト的」な勢力の狙いは、闇の霊の墜落に関連しており、私たちの意識の、自由でエーテル的な力の発展を吸収することにある。

 「なぜなら、闇の霊はエーテルの領域から離れなければならなかったので、人間の意識をこの領域から遠ざけることにますます大きな関心を持っているからだ。現在、彼らは主に、人間の体組織内の意識プロセスを模倣する機械、感覚に縛られ電流に基づくプロセス、つまり究極的にはアーリマン的ドッペルゲンガーに基づくプロセスによってこれを実現する。」

 もともと人間の思考や記憶は、エーテル領域と関わりのあるものだが、それに関われない闇の霊達は、人間の意識自体をエーテル領域から切り離そうとしているのだ。ある意味、人間の今後の霊的進化は、身体に拘束されないエーテル的認識を再び獲得することにある。エーテル領域は、物質世界に直ぐに接している、最初の超感覚的世界、霊的世界なのであり、そこに今、キリストが出現しているのだ。こうしたことの認識も、闇の霊には邪魔なのである。

 

 しかし、「ここで重要なのは、シュタイナーが、新しい機械の創造、つまり人類がますます融合していくと考える機械を、避けられないものとして捉えていることである」とナイダー氏は述べる。

 

 「このような場所では、人間の力を機械の力につなごうとする意志が存在します。このようなことを、あたかも反対する必要があるかのように扱ってはなりません。それは全く誤った見解です。なぜなら、これらのことは実現しないのではなく、実現するからです。重要なのは、地球進化の大目標について無私の知識をもつ人間によって、それが世界史の流れに導入されるかどうかです。問題は、これらのものを導入する者が、人類の救済のために行うのか、それとも、これらのものを自己中心的または集団エゴイスティックな目的のためにのみ利用する人間の集団によって登場させられるのか、ということです。この場合、重要なのは何が来るかではなく、何が来るかは確実なのだから、これらのものをどう扱うかが重要なのです。来るものは、単に地球の進化に沿ってやってきます。人間の本性と機械の本性が一体となることは、地球の残りの進化にとって重要な問題です。」(シュタイナー)

 

 そしてシュタイナーが未来の霊的意識の開発を試みたのは、まさにこの点である、という。シュタイナーによれば:

 

 「人間は、技術文明の中でアーリマンに圧倒されないために、強さ、知識の内なる強さを見つけなければなりません。下自然の正体を理解する必要があります。そのためには、技術的な知識で下自然に降りていくのと少なくとも同じくらい、霊的な知識で地上の外の超自然に登っていかなければなりません。なぜなら、今の時代は超越的自然の理解が必要であるからです。内面的には、自然のレベル以下に沈んでしまった生に割り当てられた目的の危険な影響と折り合いをつけなければならないからです。もちろん、重要なのは、以前の文化的条件に戻ることを提唱することではなく、人類が、新しい文化的条件を自分自身と宇宙との正しい関係に持ち込む方法を見出すことです。」

 

 シュタイナーが、「人間の本性と機械の本性が一体となる」と語る場合、勿論、トランスヒューマン的な人と機械の融合を考えているのではないだろう。既に掲載済の記事に、未来においては、エーテルをエネルギーとするような機械が出てくるとされている。しかしそれを動かすには、人の道徳性が必要とも言われていた。

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 両者の「本性の一体化」は、トランスヒューマン的な危険性を孕むものであるが、それは進化の過程における必然であり、そうならないためには、人間を人間以下の存在に引きずり下ろそうとする力に抵抗すること、そのために、超感覚的な霊的な認識を得ることが必要というのだろう。

 

 こうした意識と「注意」についての認識や技術が、西洋オカルティズムの利益のために、霊的なものすべてに闇を広げるように、一方的に利用されることになると、シュタイナーは警告していた、という。

 「シュタイナーがこの講演で重要視したのは、人類の将来の魂と霊の進化が、いかに新しいテクノロジーとの対決と折り合いの中で行われるようになるかを示すことであった。これらのテクノロジーは、私たちの意識を機械や下自然の領域に縛り付けようとするものなのだ。したがって、シュタイナーにとって重要なことは、新しい意識技術の中でアーリマンが持つ力を明確に理解することであった。なぜなら、それらは本質的には意識技術であるが、その効果を理解せずに一方的に使用すると、私たち自身の意識に影響を及ぼすことになるからである。そのため、シュタイナーはこの文脈で、人間はますます自分自身が考えているとおりの存在になると語っている

 私たちは、エーテル体の自由な注意力を手に入れなければならない。私たちの魂と霊の本質を通して記憶の力をつかみ、機械の世界に支配されないようにしなければならない。」

 

 そしてシュタイナーは、既にそのための具体的な方法も示している。ナイダー氏によれば、それは、シュタイナーによって与えられた「注意力を高めるための訓練(集中、 瞑想、毎晩の振り返りの訓練)」であるという。

 「私たちは、エーテル領域に目覚めることによって、注意力を決定的に強化することによってのみ、それらに対抗することができるのだ。とりわけ、注意力を意識的に使うためには、注意力のエーテル的な性質に精通する必要があることを意味する。ルドルフ・シュタイナーがこの点に関して行ったすべての訓練の目的は、これであった。

 私たちが自分自身の存在の本質を意識することが、シュタイナーにとって重要なことであった。シュタイナーは、以下の講義でアーリマン的ドッペルゲンガーに注意を促し、同時に、人間がそれを超えることを学ばなければ、純粋な地上的/物質的なものに縛られ続けることになる領域を示したのである。この講義で語られたテクノロジーの進化は、電子的ドッペルゲンガーの創造によって、アーリマン的ドッペルゲンガーを機械世界の中に転置した結果、人類がますます地上・物質界に縛られるようになるという危険をもたらしているのである。

 この文脈でシュタイナーは、自分自身の思考を強化し、注意力を訓練することによって、超感覚的な現実を知覚する能力を訓練することを指摘した。同時に、私たちは、死者の世界との関係、身体的、物質的な存在に結びついていない、私たちの注意力の領域であるエーテル界に属する関係に入る能力を発展させる。

 シュタイナーがこの講義で示したように、これからの人間は、ますます自分の思うとおりの存在になるとすれば、自分自身の超感覚的な存在を意識することによって、死後に地上界との結びつきから自分を解放する力を生み出し、それにより死後の生の超感覚的事実を意識するようになるのだろう。この点で、本講演は、人間一人ひとりの精神活動の覚醒を促すものでもあるのだ。」

 

 シュタイナーによれば、人間は、「自分の思うとおりの存在になる」という。自分を、電気的信号によって動く機械のようなものに過ぎないと考えれば、そのような機械になってしまう。だから人間は、自分の本性、霊的本性を自覚しなければならないのだ。

 そのためには、霊的知覚能力の開発も必要だが、上に述べられているように、シュタイナーは、そのための具体的な修練方法を本にして出版している。それはかつて秘教団体の中で秘匿されてきたものだが、シュタイナーは、今後、その様な知識は公開されるべきと考えたのである。

-以下、②に続く。(7/30に掲載予定)