k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

シュタイナーと隠秘学の伝統

自然の錬金術的三つ組み

 シュタイナーの人間観では、人間は身体・魂・霊からなるとされ、また、更に細分して身体・エーテル体・アストラル体そして自我の4分肢からなるともいわれる(他に「霊我」等のより高次の霊的構成要素が現在の段階では潜在的に存在しているとされる)。

 これらの超感覚的な人間の構成要素としてのエーテル体・アストラル体というようなものは、シュタイナーも所属していた神智学協会で既に唱えられていたものであるが、シュタイナーは、それをより精緻にしたと考えることが出来る。それは、シュタイナーのみがなしえた、近代隠秘学(オカルティズム、オカルト哲学)の大きな成果といえるだろう。

 勿論、人間に魂や霊的なものが存在するということは、古来、語られてきたことである。人類の歴史で言えば、そうした考えが常識であった期間の方がずっと長い。さらにアジアにおいては、確かに、エーテルと共通するような、「プラーナ」や「気」の存在がずっと信じられてきた。だが、その働きや性質はあいまいで、体系的ではないように見える(これは勿論個人的な感想であるが)。

 超感覚的な体も含めて人間の全存在を体系的・論理的に明らかにしたのは、やはりシュタイナーが初めてではなかろうか。

 

 では、西洋では、シュタイナーが唱えたような霊的人体論は、近代になって、ブラバツキーやシュタイナーによって初めてもたらされたものなのだろうか。

 神智学は、その思想において使われている用語も含めて、東洋の神秘学の影響が指摘されている(神智学にインスピレーションを与えたとされるマスターはアジア系と考えられている)。確かにシュタイナーも神智学の系譜にあるのだから、シュタイナー自身の源流もやはり東洋にあるのだろうと推察することが出来る。

 私も、神智学や人智学を知ったときは、ブラバツキーやシュタイナーの思想は西洋にとって全く新しいものであり、源流があるとすれば、それはやはり東方ではないかと考えていた。西洋の宗教や哲学を見渡しても、「魂」や「霊」というようなものはあっても、エーテル体・アストラル体の様な概念が見当たらないと思ったからである。実際に今、ウィキペディアを見ても、エーテル体・アストラル体については、主に神智学にその源泉が求められているようである。

 

 だが、実は、それは誤っている。

 そもそもシュタイナー自身は、一時神智学協会に属していたものの、彼の霊的系統は、むしろ秘教的キリスト教あるいは西洋の隠秘学に属している。シュタイナーが神智学とたもとを分かったのは、東と西の隠秘学、神秘思想の根本的立場の違いにあったとも言えるのである(その一つで、最大のきっかけは「キリストの再臨」に関する問題)。

 シュタイナーの霊統についてもう少し具体的に言うと、それには薔薇十字団の創始者であるクリスチャン・ローゼンクロイツが関係しており、実は、神智学も当初は、同様の流れの下に誕生したという指摘もあるのだ(しかし、神智学は後にその流れからそれてしまったという)。

 シュタイナーが自身の霊学(人智学)を造り上げるうえで、その用語を神智学や東方の隠秘学から借用したのは事実であるが、その内容自体は、西洋の隠秘学の伝統の中にもあったと考えられるのである。

 つまり、エーテル体・アストラル体等を語る秘教的人体論は、シュタイナーによって体系的に論じられ広められたが、その思想自体は洋の東西を問わず、古来連綿と存在してきたということである。

 では、実際にそれはどこに見いだせるだろうか?

 実は、それについては既にこのブログで記事にしている。

k-lazaro.hatenablog.com

 フレッド・ゲッティングズというオカルト研究家が、ボッティチェリは自分の絵画にエーテル体を密かに描いているという解釈を示した記事である。

 これによれば、名前は違うものの、エーテル体という概念が西洋において近代以前に存在してきたということになるのだ。

 ゲッティングズ氏には『オカルトの事典』(青土社刊の和訳がある)という著作もあり、この中で、アストラル体(星気体)について、「古代人は、星気体を恒星体またはエンス・アストラーレと呼んだ」と記しており、エーテル体と同様に、アストラル体についても、そのような概念が古来存在してきたと主張されているのである。

 

 今回は、このようなことについて、更に“別の”研究家の記事を紹介したい。

 この本は、ある人物の半生の物語(伝記)という形式を取っている。あるスクールで秘儀の伝統を学んだとされるマーク・ヘッセル(あるいはヘドセル)Mark Hedselという人物から託された原稿を下に、このブログで既に『二人の子ども』の著者として紹介済みのデイヴィッド・オーヴァソン氏が編集した、ヘドセル氏の半生記なのである。それゆえ、この本は隠秘学の解説書ではないのだが、随所に秘教的な知識がちりばめられているのだ。

 その本は、『魔術師、マグスあるいは秘儀参入者 ゼラターZelator-マーク・ヘッセルの秘密の回顧録』といい、そのところどころで隠秘学の様々なテーマについて解説されているのだが、その中に次のような一文がある。

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・・・動物はアストラルの象徴として中世美術に広く採用され、愚者を追いかけ攻撃するこの犬(または猫)も例外ではない。愚者の中にあるアストラルの要素が飼いならされていないのだ。それは一種の影の存在であり、詩人ダンテが自らのイニシエーションの道を歩き始めたときに出会うアストラルの生き物を思い出させるものである。アストラルは感情の源であり、動きの源でもある。生において、アストラルの内面的な現れである感情と、外面的な現れである動きをコントロールすることは特に難しい。このe-motion(外への動き)は、動物の攻撃的な行動に表れている。初心者は成長の初期において、感情に即座に表現を与える傾向、そして実際、感情そのものを外的にコントロールすることを学ぶよう勧められる。秘教的な道を歩み始めたら、感情は、魂を惑わしたり溢れさせたりする力を持つ、惑わしの源ではなく、世界を経験するための道具となるべきである。初心者は努力によって、この内なる動物をコントロールすることを徐々に学んでいく。表1を参照すると、このようなコントロールの目的のひとつは、アストラルを変容させてマナスにすることである。愚者が持っている棒は、愚者のエーテル体を表している。秘教の伝統によれば、木や植物の生命はエーテルのエネルギーによって支えられている。

 万が一、「愚者」のカードのこの解釈が拡大解釈されすぎていると思われるかもしれないので、「アストラル」と「エーテル」に関する標準的な秘教な象徴主義を示す17世紀の錬金術の版画(上図)を見てみると参考になるかもしれない。アストラル、すなわちアニマリスは、宇宙と「生命線」で結ばれた人間によって表されている。この人間には、感情のアストラル体エーテルの生命体、肉体が組み込まれている。

 エーテル体、すなわち植物体は、花を咲かせる植物によって象徴される。この植物は感情のアストラル体を持っていないが、植物の肉体的存在を維持するエーテルの生命体を持っている。肉体、すなわち鉱物体は、山、すなわち大地の塊、あるいは岩で表される。これが単なる不活性物質ではないことを示すために、画家はこれを7つの惑星の紋章で覆っている。こうすることで、すべての霊的な可能性が潜在的に存在し、この地上の物質の中に埋もれていることを暗示している。このような文脈において、7という数字は通常、伝統的な7つの惑星とのつながりを示している。このイメージは、錬金術師ベッヒャーの代表的な作品に描かれたもので、エーテルの性質を明確に示している。植物のエーテル的な生命力は、物質の四大元素を形へと引き込む。しかし、植物はアストラル面との重要な接触を持っていないため、アストラルの基調である感情的な生命に絡め取られることはない。

 ラテン語では、棒はvirgaであり、virgin(処女)、さらにはVirgin(聖母)に近い音であり、棒のもう一つの役割であるアイデアの肥料としての役割を示唆している。マーク・ヘッセルは、スティックの図形的な語源がエジプトの女神マアトに遡る可能性があることを強調した。肉体はもちろん、愚者自身の肉体である。おそらく、乗り手(もちろん、それは自我である)によってコントロールされていることを示唆するために、驢馬、あるいはロバと呼ばれることもある。この象徴の単純さは、密儀の伝承において、肉体が偉大な秘儀のひとつであり、その真の霊的本性はほとんど探求されていないという事実を見えなくさせてはならない。密儀の文献の中では、肉体は「凝縮された知恵」と呼ばれることもある。このカードのデザインでは、頭部を下半身から切り離す棒という象徴的な装置によって、身体は頭 - 霊的な思考部分 - から区別されている。ヘルメス学的シンボリズムに従って、身体は衣服をまとっている。衣服はそれ自体、内なる形を包み込み、明らかにする物理的要素の象徴にすぎない。この真理は、愚者の右脚の裂け目に表れている。裂けた衣服の隙間から皮膚が見え、愚者の変装の背後にある人間の存在を思い起こさせるからである。ボッシュの『さまよえる愚か者』の愚者の絵にも、同じような裂け目が見られるかもしれない。これらの絵では、肉体が衣服によって覆い隠されており、中世のフェストゥム・ファトゥオルム(愚か者の祭り)を想起させる。マーク・ヘッセルによれば、「愚者の道」で肉体につけられた名称のひとつである「驢馬」は、「愚者の祭り」を想起させるものである17。

.  これらの図像では、肉体は衣服によって覆い隠され、中世の「愚か者の祭り」(Festum Fatuorum)を想起させる。マーク・ヘッセルによれば、「愚者の道」で肉体に与えられる名称のひとつである「ろば」という名称は、「愚者の祭り」を想起させるものである 。マークは、キリスト教の秘儀に付随する伝説では、ろばはキリストをエルサレムに凱旋させるために贖われたと指摘する。この贖罪のしるしとして、キリストはその肩に暗い十字架を残していった。これは、四大元素から作られた私たちの肉体は、私たちが背負わなければならない四重の十字架でもあるという考えに関する秘教的なたとえ話である。異教の秘教文献でさえ、驢馬を神秘の象徴として、つまり高位の秘儀参入者が生まれるかもしれない生き物として見る用意は十分にあった。古代より残る最も有名なイニシエーション物語には、次のようなものがある。・・・

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 この文章にも、高次の霊体を表わす「マナス」(霊我)という言葉が出てきたが、この後には、これらの高次霊体について古代ギリシアでどのように表現されていたのかという文章が続いている。これらはシュタイナーの語るものと同じと考えられる。

 また、上の文章に「ヘルメス学」という言葉が出てきた。これに関連する「ヘルメス思想あるいはヘルメス主義」とは、西洋の神秘主義的な哲学・宗教的思想の伝統をさす言葉で、それは、エジプト文明及びその秘儀思想の始祖とされる神話的人物(ヘルメス・トリスメギ)とストス)の名に由来する。

 従って、オーヴァソン氏(あるいはヘッセル氏)は、エーテル体やアストラル体などの霊的体の思想の源流がここにあり、古代からずっと伝わってきたことを示唆していると考えられるのである。

 オーヴァソン氏のこのような考えは、既に何度か紹介してきたオーヴァソン氏の著作『二人の子ども』のなかでも開陳されている。次に引用しよう。

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・・・古代の秘教文献では、男と女は、身体を支え、霊化し、生気を与えるいくつもの霊的鞘の特殊な霊的性質のために物資的次元で存在することができると言われている。人類のこのモデルでは、全ての人間は、一定の時間の間、地上界の物質性の流れに浸った霊であることを当然のこととしている。物質性(それは実際、霊に有害で対立している)の暗黒の領域に存在するためには、物質界との間をつなぐ、不可視のグローブのようなもの、幾つかの媒介する鞘が、この受肉した霊には必要であった。

 現代において、これらの鞘は多くの名前を持ち、時々、人の周囲のオーラあるいは霊的放射において現れているものとして特徴づけられている。イエスと同時代の古代の秘教知識では、霊的鞘は、エジプト語の名前のkhaibit、「光り輝く空気」と訳される言葉で呼ばれていた。(注 G.R.SMead 『Thrice-Greatest Hermes.Studies in Hellenistic Theosophy and Gnosis』 1964)このエジプト語が後のギリシアの学派の秘密の言語に入っていった可能性がある。もはや理解されていないが、密議に関連する同じような音の幾つかのギリシア語があるからである。リムノス、サモトラケ、ボイオーティアの神々に付属する古代の密議に関連する Kaberoiという名前すら、エジプト語からとられたのかもしれない。この言葉自身は初期のキリスト教徒に採用されなかったようだが、光り輝く層に付属するシンボリズムはキリスト教シンボリズムに流れ込んだことを示すものがある。鞘に与えられた古代の名前に関する研究で、G.R.SMeadは、ヘルメティック文献に、高次の鞘が「光輝のローブ」と呼ばれていたと記している(『精妙体のドクトリン』)。「光輝・栄光(Glory)」(あたかも秘教的含意がないようであるが)と普通訳されているギリシア語は、福音書記者ヨハネがキリストについて描いた時に用いたまさにそのものである。

 

 言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ伝1:14)

 

 ヨハネがこの有名な節で使っているギリシア語は、δοξάν(doxan、δοξάの対格)で、その意味は、「名声」あるいは「人の内で他者に見えるもの」である。この文脈では、ヨハネがこの言葉を光り輝く身体を指すためにより選択的に使っていることは明らかである。ギリシアの秘教文献において、それは、augoeides ochema(光り輝く乗り物)またはastroeides(星のような)として知られている。この特殊な意味では、この言葉は、「人の内にある、高次のヴィジョンをもって現れるもの」を意味している。

ワニに乗るキリスト(グノーシス的 宝石)

 最も低次の鞘、あるいは「エーテルの包み」のエジプトのシンボルの一つは、ワニのようであると言われている(注)。これは、最下層の霊的身体は、人の感情に従属するというサインであったようである。キリストについての初期のグノースティックなイメージは、頭の上に魚を持ち、ワニの上に立っている救世主として描かれている。このデザインを生み出した宗派の見解では、このイメージは、キリストの最下層の身体は、人の感情と一体であることを示している。彼が人間である限り、物質体だけでなく、生ける物質体を流れている感情の流れにも関与している。この種のシンボリズムは何世紀にもわたってキリスト教芸術において使われて来た。-ワニの形はドラゴンの形に代わってきたが。

 

 (原注) ヘルメティックな表現では、ワニは暗い感情のシンボルである。(G.R.SMead)この生き物は、水の中に生きているだけでなく、陸の生き物でもある(人間と同じように)。その形は五芒星形に似ており、このため暗い星と呼ばれる(通常はアルゴル星の通称、悪魔の星)。ワニは、人が内的光を増大させなければ、人類の暗黒面を示すこととなる。

 

 前述したように、キリスト教シンボリズムでは、魚は最上位の霊的原理を表す。しかし、この特殊な文脈では、魚は全くキリスト教にとってのもののようで、エジプトのイメージでは、霊的身体の最上位のものは黄金の鷹-常にホルス神を表したシンボルの一つ-として表されている。ワニが人間を大地に引き下ろすように、魚は、人類をキリスト、光の原理に引き上げるものとしてイメージされる。おそらく魚の銀のうろこは、光り輝く身体、あるいはaugoeides ochema?(訳注:光り輝く乗り物)を示唆する光のかけらとして見られていた。

 現代の秘教では、人間の霊的鞘は4つあるとされる。人は、物質体、エーテル体(時々生命体と呼ばれる)、アストラル体(感情の身体)、そして自我である。

 物質体自体は、今日エーテル体と呼ばれるものに浸かっているので、命に必要な細胞活動の中で維持されている。それは物質体の中で、リンパや腺システムを通して働き、身体の中の液体の流れを制御している。この点から、それは、「時間の身体」あるいは「律動の身体」とも呼ばれうる。エーテル体が身体から抜けていけば、身体は細胞レベルで活動するのをやめる。これが起きると、体は死に、直ぐに化学・物理的構成要素に戻る。言わば、エーテル的力が抜けて、物質体の細胞活動は、原子の活動に戻り、その構成要素がばらばらになるのである。

 人の生涯においても、分離しようとする物質体の衝動は、エーテルから離れようとする。物質体は、自身の内的衝動に対抗して、命が維持されているだけである。統合する衝動はエーテルから来る。

 古代の深遠な文献では、物質体の構成物を統合するエーテル体の力は「第5の元素、エッセンシャル」と認識されていた。エーテルは、物質体を構成する、炎、水、空気、大地の4要素の分裂しようとする衝動を一緒に保持する、第5のエッセンス、第5の力だからである。

 多くの錬金術の文章では、第5の元素、第5の力はエーテルと同じである。古代の秘教システムにおいて、エーテルは「生命の力」と呼ばれる。(人間の有機組織に関する限り)成長の状態において物質体を維持しているからである。

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 さて、これらの文章をふまえると、当たり前ではあるが、シュタイナーの人智学の教えが、確かにシュタイナーの独創の面もあるが、根本的には、古からの隠秘学、秘教的考えの伝統の下にあることが理解されるだろう。真理は昔から密かに伝えられてきており、シュタイナーの人智学は、シュタイナーの「発明」したものではなく、その真理をいわば現代人に合うように整え、新しい衣をまとわせたものなのだ。

 ただその時、西洋においてはそれらの霊的知識を伝える適当な言葉がない場合に、一部で東洋の秘教の伝統にある言葉を借用するということがあったのだ。それらが、神智学協会系においても用いられており、そもそもシュタイナーが神智学協会に属していたことから、シュタイナー思想、人智学を神智学の亜流とみなす者もいるようだが、そうではないのだ。

 オーヴァソン氏も、彼の、薔薇十字運動、特にイギリスのそれを論じた『シェイクスピアの秘密の書物』で、西洋の秘教的伝統において、数字の33は(高次の)自我を象徴するものとして用いられてきており、それはまたキリストと関わるものであることを解説していくのだが、その中で、このような考えはシュタイナーにおいても見られることであり、このようなことでシュタイナーの語ることに新しいことがあるわけではないとし、次のように述べている。

 「シュタイナーは、変化したまた現代的な世界に適合した形で、中世の薔薇十字運動の指針と道徳的規範の多くを教えていたのである。」

 即ち、オーヴァソン氏もまたシュタイナーを薔薇十字運動の系譜においているのである。(なおこの本については、後日又紹介する予定である。)

 このようなことからまた、人智学は、一個人の「創作」ではないということが言えるだろう。シュタイナーは、人智学をまた精神科学(霊学)と表現した。科学(学問)という言葉を使ったのは、自然科学のように、誰もがその方法を使えば客観的真理に至ることが出来るからである。そしてその探求の対象は、自然と同様に、客観的に存在している霊界なのだ。

 従って、人智学が伝えるものは、(正しく認識されるなら)客観的、普遍的な真理そのものであると言えるのである(しかしシュタイナー自身は、それらを鵜呑みにするのではなく、自分の思考で吟味することを求めた)。

 それは、現代において、霊的世界によりシュタイナーという人間をとおして人類に与えられた真理なのだ。