k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

「運動神経」は存在するか?

神経細胞

 昨日興味深いテレビを見た。世界中の「不思議な」現象を紹介する番組なのだが、そこで見たのは、少年時代から約10年間も、原因不明で、 意識がありながら体を動かせなかった(体に閉じ込められた)という「ゴースト・ボーイ」の話である。彼は、施設に入って、そこの職員と意思疎通ができるようになり(瞳が僅かに動くことをその職員が気づいたため)、やがて回復していったという。結局、その原因は、脳神経の病気とされているようだ。
 しかし、健康な者でも似たようなことが起きることがある。いわゆる「金縛り」である。一般に睡眠中に起きることが多いらしく、その説明としては、体は眠っているが、意識が完全に覚醒してしまった状態ということらしい。
 私も、若いときに経験があるのだが、驚きと共に、もうこのまま戻れなくなったらどうしようと少し怖くなったことを覚えている。しかし、その頃は、既に金縛りというものがあると知っていたので、いずれ戻れるとも思ったのだが・・・
 私は、これらは、ひょっとして、身体からの意識の独立性を示すものではないかとも考えているのだが、どうだろうか?シュタイナーは、アストラル体と自我は、睡眠中、身体とエーテル体を離れて霊界に赴くと語っている。目覚めとは、これらが又身体に戻ってくることである。それが何らかの不具合が生じ、身体に完全に戻れなかったのが金縛りというわけである。

 さて、今回のテーマは神経、特に「運動神経」である。

 よく人は、「彼は運動神経がいい」あるいは「悪い」などと言うが、勿論、この場合の運動神経とは、運動能力の喩えである。しかし、実際に人間には運動神経が存在していると考えは「科学的見識」であり、それは、「体や内臓の筋肉の動きを指令するために信号を伝える神経の総称」(ウィキペディア)とされる。つまり身体の動きを制御する神経である。このことの根底にある考えは、脳が随意的な運動を指令しており、そのための信号が運動神経をとおして四肢等に伝わっているということであろう(遠心性)。

 一方で、人は5感をもっており、それらは神経によって脳に伝達されるとされる(求心性)。これが感覚神経である。従って、大きくいって人間は二種類の神経をもっているのだ。

 

 これは現代の一般常識である。だが私たちは、今の一般常識に実は正しくないものがあることを、何度もシュタイナーによって指摘されてきた。そう、シュタイナーによれば、存在するのは感覚的神経のみであり、運動神経とされるものは存在しない、それも感覚神経と同じものだというのである

ルドルフ・シュタイナーは、いわゆる運動神経と感覚神経の間に根本的な違いはないとしばしば指摘してきました。すべての神経は実際には感覚です。意志の活動は、代謝・四肢系へのアストラル体の直接介入から生じます。いわゆる運動神経は、結果として生じる動きのみを知覚するのです。」(アントロウィキ)

 今回は、このことについて二人の人智学者の論考を見てみよう。

 

 先ず、以前紹介したことのある『頭(Brain Box)の外で考えるーなぜ人間は生物学的コンピューターではないのか』の著者であるアリー・ボスArie Bos氏の、やはりこの本の中の論考である。

k-lazaro.hatenablog.com

 この本はもともと、意識は脳とは別に存在している(脳が意識を造り出しているのではない)という説(それは秘教の一般的考え方であるが)を論じたもので、その根拠を色々説明しているのだが、その中で、脳と神経に関わる問題が出てくるのだ。

 

 一般に、身体の痛みは、身体のどこかが刺激され、それが電気信号となって脳に伝達されることにより「脳が感じる」と考えられている。しかし、そうでない例もある。例えば、幻肢という現象は、手足などを失った人が、それがもはや存在しないにも関わらず、それが以前存在した場所に痛みなどを感じるというものである。

 これは、意識は必ずしも脳や神経を必要としないことを示唆していないだろうか。確かに脳がなければ意識も無くなるが、存在の順序としては、意識が脳や神経の前に存在している、つまり意識の方がより根本的なものであるということである。こうした立場で考えると、脳に関する意外な事実の謎が解けることがあるのである。 

 以下の文章では、脳と痛みの関係が語られる。

 例えば指を切ったような場合、その刺激は神経を通って脳に伝達され、「痛みが意識される」。一方、脳の痛みを感じる部分を直接刺激しても人は痛みを感じる。では、その刺激から痛みを感じるまでの時間を、この両者で比較するとどうなるか?

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痛みとは意識である

  痛みを感じるには脳が必要なのは明らかだ。ほとんどの鎮痛剤は脳に作用する。つまり、痛みという感覚は脳で作られるということだ。しかし、この場合にも、私たちが何を感じ、何を知覚するかを決定するのは脳ではなく、脳で起こっているプロセスを決定するのは意識であるという、かなり説得力のある指摘がある。

 まず第一に、私たちが痛みを感じるのは意識があるときだけである。眠っているときは痛みを感じない。音や光で目が覚めるように、痛みで目が覚めることはある。また、レム睡眠中には、痛みが夢に影響を与えることがある。興味深いことに、睡眠中に痛みを感じると、起きているときと同じように、痛みの局在に関係する中枢が活性化する。これは、被験者が眠っているときも起きているときも、レーザー光線で手の皮膚に痛みを与えたときに判明した。唯一の違いは、レム睡眠時には、方向感覚や回避行動に関係する帯状皮質や脳回の真ん中が活性化しなかったことである。(レム睡眠中、身体はある意味で麻痺しているので、夢の中のような動きはしない)。しかし、それ以外では、痛み刺激に対する脳の反応は、起きているときも眠っているときも同じであった。

 このように、痛みの意識と大脳皮質の反応との間には不明確な関係がある。例えば、ここでの原因は何なのか、そしてその結果は何なのか。ほとんどの人、そしてほとんどの神経科学者は、脳の活動が意識を生み出すと考えているが、それとは別の可能性を考える人もいる。では、どうすればそれを知ることができるのだろうか。もし時間的に一連の流れをたどることができれば、その因果関係は明らかになるだろう。1960年代、神経科学者のベンジャミン・リベットは、痛み刺激に対する意識とその脳内処理に関する驚くべき研究を行った。この実験が示したことは、意識が脳に存在するという考えに重大な疑念を抱かせるものであった。それゆえ、神経科学界はこの実験をどう扱うべきかわからず、この実験が引用されることはほとんどなかった。

 リベットは、皮膚に直接加えられた刺激は、皮膚のその領域に属する大脳皮質が刺激された場合よりも速く感じられることを示したパーキンソン病や難治性の痛みのためにバートラム・ファインスタインによる手術を受けた被験者の脳に、手の甲に対応する脳の感覚野の場所に電極を埋め込んだ。脳皮質のこの場所に一連の電気刺激を与えると、被験者は手の甲に電気刺激が加えられたように感じた。手の甲に直接電気ショックを与えたのと同じ感覚である。しかし、大脳皮質の刺激が0.5秒以下という非常に短い時間しか続かなかった場合、被験者はまったくそれに気づかなかった。刺激が500ミリ秒以上続いた場合のみ、その刺激が意識されたのである。それ自体はそれほど衝撃的なことではなく、脳が感覚を生み出すという見解を支持しているように見える。

 しかし、次のことに注目してほしい: リベットは次に、大脳皮質への刺激と手の甲への単一刺激を比較した。まず右手の甲に対応する大脳皮質の場所を刺激し、その200ミリ秒後に左手の甲の皮膚に直接刺激した。感覚は脳で作られると確信するならば、私たちは何を期待すべきなのだろうか?左手の刺激は、脳への刺激(右手の甲で感じられた)の少なくとも200ミリ秒後に感じられるはずである。しかしそうではなかった。左手に直接与えられた刺激は与えられた瞬間に感じられ、右手の甲に対応する大脳皮質に与えられた刺激は500ミリ秒後、つまり左手に与えられた刺激の200ミリ秒前に与えられた刺激の300ミリ秒後にしか感じられなかった!

 意識は脳の中でしか生まれないと考えるなら、これは当然おかしい。というのも、大脳皮質で受けた刺激は、手の皮膚で受けた刺激はまだ脳へと伝わらなければならないので、それよりも速く感じられるはずだからだ。リベットは超自然的な解決策を考え出した。彼は、感覚は脳から手に投影され(結局のところ、大脳皮質の刺激は手の甲で感じられた)、同時に時間の後退も経験したと示唆した。彼はそれを次のように定式化した:

 

「...主観的な感覚体験の時間的後退がある。... 特異的投射システムはすでに、空間における感覚体験の主観的参照など、微細な空間識別に機能する局所的な大脳信号の供給源とみなされている。われわれの仮説は、このシステムの役割を時間的な次元での機能へと拡大するものである。」

 

 しかし、それをどのようにイメージすべきなのだろうか?どちらの投影も自然法則に反する。彼がこのような突飛な解決策を提案する唯一の理由は、意識は脳の中だけで生じるという仮定である。

・・・私の考えでは、リベットが提案した解決策よりもはるかに単純で、一見素朴な解決策しかありえない。意識は注意のあるところに存在する--この場合は手にある--という選択肢だけが、時間と空間におけるかなり突飛な投影に頼ることなく、この違いを説明することができる。動物進化の最初の脳のない段階ですでに観察することができる具現化された[肉体を与えられた]意識である。この具現化された意識は、杖の先で感じる盲目の人々、ラケットでボールを感じプレーするテニスプレーヤー、ダ・ヴィンチ・ロボットを通して、同じ部屋にいる必要さえない、患者を手術する外科医、そして雄牛の目に意識を向ける射手のように、外へと拡大することもできる。簡単に言えば、意識は、脳の中に存在しているのではないということである。なぜなら、意識は物質的なものではなく、生物全体の機能、プロセス、能力だからである。

その点、リベットは自分の発見を、彼の専門分野では異端とされる「脳と意識は同一である」という説を決定的に否定するものと考えていた。・・・

 

 したがって、意識は脳のプロセスと同一視することはできない。それは何か違うものであり、おそらく自然科学のモデルには当てはまらないものでさえある。

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 上の文章では先ず、意識が脳と別に存在する可能性が指摘された(この本全体のテーマである)。

 脳においてのみ痛みが意識化されるなら、指先への刺激よりも、脳へ直接刺激した方が早く感じられるはずだが、実はそうではなかったのである。著者によれば、意識=脳ではない。「意識は物質的なものではなく、生物全体の機能、プロセス、能力」であるする考えの方が、このような現象をよく説明できるというのだ。

 

 ちなみに、神経での情報伝達は、電気によってなされるが、これは例えば、電線を電流が流れるようなものとは異なる。

 電子の流れは、電線の場合、その伝導率に応じて遅くなるが、真空中であればそのスピードは光と同様である。電線のようなものの場合、始めから末端までが一つの流れとなるのだが、神経では、伝達に関わる部位毎に電気・化学的反応が生じて、それが次の部位に伝えられてというように、反応が順次連続して行なわれて電気信号が流れていくことになる。いわば駅伝方式である。当然、電線の電気のようなスピードは出ないのだ。それは、およそ毎秒120mだという(身体の部位によって異なる)。案外遅いのである。

 では、本当にこのようなスピードで我々は動いている(ものを認知しそれに対応する)のだろうか。

 

 上の文章に続けて、ボス氏は、身体が、脳の反応よりも早く反応するという事例を紹介している。身体は、脳が介在することなく動いている可能性があるというのである。

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意識は時に脳にとって早すぎる

・・・脳卒中によって動きが損なわれた人が、動きのイメージを作ることができるようになると、手間のかかる練習をしなくても、すでにその動きができるようになることが示されている。神経学のテオ・マルダー教授は、脳卒中でほとんど歩けなくなった患者のことをインタビューでこう語っている。脚はブラブラし、腕は翼のように突き出ている。その患者は70歳までアイススケートに熱中していた。理学療法士はひらめきを得て、歩く代わりに靴下のままつるつるの床を滑るように頼んだ。それは見事に成功した。

 別の患者、元鉱夫は、脳卒中の後、体幹のバランスを失っていた。機転の利く理学療法士は、テーブルを並べた廊下のようなものを用意し、小さなカートを用意した。患者はカートに仰向けに横たわり、以前鉱山にいたときと同じように、腕を使って以前はまったくできなかったことができるようになった。最後に、同じく脳卒中の後遺症で腕が動かなくなった音楽監督がいた。しかし、『以前はこれができたのに』と言ったとき、彼はどうしたのだろう?彼は腕で典型的な指揮者の動きをした。

 私たちは、脳がまったく関与しない動きをすることもできる。神経細胞は8~10ミリ秒に1回発火する。被験者がある刺激に稲妻のように素早く反応する実験が行われた。被験者たちは、下あごを非常に素早く短時間に斜めに引っ張られながら、文字を発音しなければならなかった。被験者は、この不都合を下唇で修正し、文字を正しく発音できるようにした。これは、脳が介入する可能性がない、5ミリ秒から10ミリ秒の間に行われた。私たちは話すときに70種類ほどの筋肉を使うが、そのすべてが口の新しい位置に適応しなければならない。この反応では、脳が適応の仕方を「計算」する時間はない。

 研究者セバスチャン・ワロットとガイ・ファン・オルデンは、論文『超高速認知』の中で、刺激に対する2種類の反応をできるだけ早く選択しなければならない、このような反応速度の実験を数多く集めた。観察された時間では、知覚から特定の反応を選択するまでの間に起こるはずの脳内プロセスにその可能性は全くなかった。例えば、神経インパルス自体がすでに反応を決定するのに十分な情報を持っているとする説明は、不十分であることがわかった。そこで彼らは、意識を制御する中心的なコンピューターとしての脳という比喩は成り立たないと結論づけた

 彼らは別の比喩を提案した。意識は身体、環境、心の相乗効果を伴うものであり、それゆえ、これらは相互に作用し合う。ワロットとファン・オルデンの提案は、私たちの反応は、いわば先回りして具現化され、環境に根ざしている、そしてそのため、脳の神経細胞の不十分な速度を上回るほど速くなることがある、というのである。この理論によれば、意識は頭だけにあるのでなく、身体や環境にも存在し、神経プロセスが満たさなければならない要求によって制限されることはない。私流に言えば、意識は脳によって生み出されるのではなく、脳と相互作用するのである。ワロットとヴァン・オーデンが言うように、これらは相乗作用しているのだ。

 このように、身体は脳を介さずに動くことができるように思える。コンサートピアニストは、ある曲を何度も練習したとき、私たちが言うところの「指」にその曲が入っている。ピアニストは、練習をすべて忘れて、自分の指の動きに身を任せるのだ。「指にしみこませる」という表現は、私たちが考えているよりもずっと文字通りにとらえる必要があるのかもしれない。

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 さて、以上のボス氏の論考から、意識が脳とは別に独立して存在していること(ただし物質世界において、脳は意識の道具として必要とされる)、身体を動かしているのは脳(及び脳の指令を伝達する神経)でない可能性があることが示された。

 そもそも人は、意識せずに体を動かすことが出来るし、意識的に動く場合、例えば何らかの知覚をきっかけとして身体を動かす(知覚⇒神経⇒脳⇒神経⇒反応)とすると、人は、情報伝達に本来要する想定される時間よりも早く反応することができようなのだ。

 これは、脳を中継してはじめて人は随意的運動を行なうことができるという常識では説明できないのである。

 

 では何が動かしているのだろう。シュタイナーによれば、身体を動かしているのは、人間の自我であるという。

 自我が動かしているというのはある意味当然であるが、それは、自我の意志が(運動)神経を通って身体の各部分に伝わり、それにより動いているということではない。自我に発する意志が、身体全体を浸透しているアストラル体をとおして、それにより神経を経ずに、身体を動かしているということだろう。神経はその結果を脳に伝えているのだ。

 

 では、ここで次の人智学者の論考に移ろう。これまで何度か紹介してきた世界的解剖学者、ヨハネス.W.ローエン氏のこれに関する文章である。これは、ローエン氏の『人間組織のモルフォロギー』という本の一節である。

 ローエン氏は、人智学者でもあるので当然シュタイナーの立場に立ってこの本を書いている。この中の筋肉と運動についての章の中で神経の問題について触れているのだが、正直言って内容が専門的すぎて、理解が難しい部分がある。だが、大筋は分かると思う。

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三肢構成の精神身体的過程としての運動

 各筋繊維(多核巨細胞)には収縮性のフィブリル(筋原線維)があり、このフィブリルは2つの異なるフィラメント(ミオシンフィラメントとアクチンフィラメント)からなり、互いに関連して動くことができる。これらのフィラメントの変位が、筋線維の収縮の、あるいは弛緩運動につながる。収縮運動の中心的なプロセスは、「運動性の」エンドプレートによって誘発される筋繊維の細胞質内のCa++イオンの放出と、エネルギーを豊富に含むリン酸の切断(ATPからADPへ)であり、これによりエネルギーが利用可能になる。カルシウム濃度は突然100倍に増加し、筋原線維は収縮し、筋肉は硬くなる(図72 B)。同じことが死後にも起こり、筋肉は最初、硬直して動かなくなる(いわゆる死後硬直)。したがって、筋肉の収縮は、質的に言えば、まず固化と死の過程、すなわち形成過程である。したがって、これが神経プロセスによって引き起こされるのは、情報あるいは興奮プロセスの際にも神経系で起きているように、驚くべきことではない。活動電位は常に(簡単に言えば)、NWイオンが神経線維に流れ込み、ICイオンが流れ出すとき、すなわち、負の膜電位が短時間局所的に崩壊するときに生じる。同じイオンシフトは死後にも起こり、エネルギーを必要とする再充電が行われなければ、神経は励起不能となり、死に至る。

 横筋の骨格筋線維では、神経線維と筋線維の間にシナプスに似た密接な膜接触があるため、マイナスに帯電した筋線維膜も、いわゆる運動終板の領域で遠心性(「運動」)神経線維によって急速に脱分極されることができる、即ち、Na+イオン が筋細胞に流入し、Ka-イオンが流出する。これにより、筋繊維に存在するCa++イオンが活性して細胞質に導入され、エネルギーに富むリン酸(ADP中のATP)の分解によってエネルギーが放出され、筋原繊維が収縮する(図72 B)。

もし今、筋肉が再び弛緩しなければならないのであれば、この「死にかけプロセス」に 対して、エネルギー供給による一種の活性化を行わなければならない。実際、"硬化 "は、エネルギーを与えて筋原繊維を再び滑りやすくすることによってのみ、元に戻すことができる。ATPの再構築にはエネルギーが必要であり、これは主に酸素供給後の糖(グルコース)の「燃焼」から得られる(好気的解糖)。筋繊維には通常、グリコーゲン(動物性デンプンで、そこからグルコースが生成される)が大量に供給されているが、筋肉は、筋収縮後に伸縮性と柔軟性を回復するには、糖と酸素の十分な供給が常に必要である。

 

 血管系は、細胞内の "燃焼 "の際に発生する分解産物(炭酸、乳酸など)を除去する必要もあるため、機能的には、分解する神経系とは正反対の、活性化と再生の要素である。また、収縮している筋肉と弛緩している筋肉が同時に対峙して初めて運動が起こることも考慮しなければならない。拮抗筋は同時に、作動筋が収縮するのと同じ量だけ伸ばされなければならない。この順序付けは神経系によって行われる。

 したがって、収縮と弛緩は主に細胞内の代謝過程(Ca++濃度の変化、エネルギー代謝など)によるものである。一方、運動の形成(情報要素としての運動像)は、神経系によって引き起こされる膜プロセス(Na+、K+イオン交換など)を通じて行われる。結局、血管系が仲介する呼吸とそれに対応する物質の交換が、これらの自身における極性プロセスのバランスをとる役割を果たす。この結果、人体の機能システムの一般的な三者構造を反映した三者プロセスが生まれる。

 筋肉の動きは、第一に、筋繊維の代謝プロセスに作用する私たちの意志の表現である。力の流れの秩序、すなわち個々の収縮過程の調和と地球の重力場との調整(平衡を保つためのバランス運動など)は、神経系の仕事であり、それによって「運動の表象(心像)」が実現可能となる。第三の、通常は無視されがちな要素を、感覚の物理的基礎であるリズム系が提供する。呼吸と循環のプロセスを通じて、心魂的な感覚は、均衡や修正により運動プロセスに介入することができるのである。芸術家だけでなく、スポーツマンなら誰でも、自分のパフォーマンスがそれぞれの感情状況にどれほど強く左右されるかを知っている。無意識の中で自然に行われている筋繊維の呼吸と循環のプロセスは、運動プロセスにとって中心的な重要性を持っている。結局のところ、それは硬直(収縮)と活性化(拡張)の間を行ったり来たりする、組織内に織り込まれた物質とガスの交換によって可能になるリズミカルな振動が問題なのである。意識に現れる感覚(「調子がいい、悪い」)は、結局のところ付随する現象に過ぎない。このように、運動の場合、意志の過程は最も無意識的であり、リズムの過程はいわば半意識的(「感覚的」)であり、神経過程は、いわゆる「随意運動活動」で運動について我々が形成する観念に関するものである限り、多かれ少なかれ意識的に経験することができる。当然ながら、組織における有機的なプロセスは、3つの要素すべてにおいて無意識的なプロセスである。

 この観点から、運動過程を三分肢構成の精神身体的過程と見なせば、いわゆる随意運動神経を「意志の神経」あるいは意志インパルスを導く神経と見なしてはならない。それは何度も、シュタイナーによって強調されたことである。運動終末板によって骨格筋に接続されている神経は、遠心性伝導神経で、形質内収縮過程を命令し、筋系全体において調和的に調節することができるが、意志の事象そのものとは何の関係もないのである。

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 シュタイナーの人体論では、人体は、頭脳・神経系、新陳代謝・四肢系、呼吸・血液循環系の3つ要素に区分されている。人体の動きにも、この3つの要素が同時に働いている、そしてそれは、神経によって意志が伝達された結果ではないというのだ。

 また、神経については、筋肉系に調和をもたらす機能をもっているという。

 以前、シュタイナーのこうした神経説を聞いたときに、しかし、実際には、神経に電気刺激を与えると筋肉は反応するではないか、これとシュタイナー説は矛盾するのではないかと思っていたのだが、上の文章によりこの謎が多少解けたように思う。

 神経は、確かに筋肉を動かす機能も持っているが、しかしそれは、筋肉全体を調和させて動かすための機能である(それは無意識になされる)。これを、意識的な、意思の伝達機能と捉えてはならないという事だろう。

 しかし、やはり疑問は残る。「運動神経」とされるものが実際に損なわれれば、体を動かすことは出来ないからである(脊髄や脳の障害による身体麻痺等)。
 この問題については、人智学派の中でも、未だに様々に議論されているようである。簡単に了解できる問題ではないのだ(もし出来ていたら、現在の医学がひっくり返っている)。

 なお、この問題について、ローエン氏はこの本の他の場所でも触れているようである(まだ読み終わっていない)。またこのテーマについては、他の人智学者の著書もあるようなので、いずれまた触れていくこととしたい。