k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

意識には脳が必要か? ②

 以前「意識には脳が必要か?①」で、脳がほとんどないのに普通に暮らしている人の話を紹介した。もともと秘教の教えでは、人間の意識(魂・霊)は、肉体を離れても存在しているとされており、こうした人物の存在は、脳が意識を生み出すという常識に疑問を投げかけるものである。

  上の記事の中ではまた、全身麻酔の作用機序が実はわかっていないのだが、それには脳内の水が関係しているのではないかと述べた。それはつまり、意識と脳内の水には何かつながりがあるということでもある。 このことに関連する文章を、最近読み始めた本の中に発見したので、今回はこれを紹介したい。
 書名は、『超自然と下自然の間の人間という。「超自然」とは、原語では「übernatur」で、英語で言えば「overnature」、「下自然」は「Unternatur」で、英語で言えば「undernature」となる。内容は、シュタイナーが予言した、エーテル界のキリストを見るようになるという人間の意識の変様(進化)が起きている中で、それに対する攻撃がなされている、というものらしい。
 著者は、
アンドレアス・ナイダー氏で、「1958年生まれ、ベルリンで哲学、民族学歴史学政治学を学ぶ。ミヒャエル・テウニッセンとのヘーゲル法哲学における自由に関する論文で哲学修士号を取得。作家、編集者、講師、イベントマネージャー、フリーランスのスピーカーとして、青少年と成人教育におけるメディア教育とデジタルメディア、人類学、スピリチュアリティ、瞑想の講師」(アントロウィキ)という方である。

 以下に出てくる「エーテル体」とは、これまで何度もこのブログで出てきた名称だが、これは人間や他の生物の生命活動を支えている超感覚的体というように述べ、これまでは主に、生命原理としての側面に触れてきた。これに対して、意識や感覚を司るのが、人間が動物と共通してもっているアストラル体である。
 しかし、人間の精神活動において、肉体とアストラル体をつなぐものとして、エーテル体は働いており、精神活動にとってもエーテル体は不可欠である。
 シュタイナー教育で、エーテル体は、人が誕生して歯が生え替わる頃まで肉体の形成に作用し、それ以降は記憶の担い手になる(従って早期に記憶に働きかけるに教育は弊害がある)といことがよく言われるのは、このことに関連している。

 エーテル体は、それ自身人の体内を流動しているのだが、液体の中で最も良く働く。植物が水を必要とするのは、それによってこそエーテル体が植物の生命を維持できるからである。エーテル体は水と親和性があるのである。

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自然と文明-エーテル体の2つの側面 
(『超自然と下自然の間の人間』より)

  アンドレアス・ナイダー

自然と文明-エーテル体の2つの側面

 人のエーテル体は、先ず、物質的体に生命を与え、形作り、器官を組織化する機能を持っている。諸器官を形成し、それらの関係を組織化するのである。この力は、それだけでなく、自我とアストラル体により形成(bilden)された思考と表象を把握し、具体化(gestalten)し、保持するためにも用いられる。人は、記憶によって、思考と表象をいつでも再度生き返らせる可能性を持つ。

 エーテル体の自然に関わる側面は、7歳頃に変化する。次の7年間のうちに、生命維持に関する機能の一部は、形態形成が終わり、身体が構築されると、自由になり、以後は、思考と記憶の形成に使われることになる。思考と記憶の力は、変成した生命力なのである。

 「通常の思考力は、精妙となった[エーテル体の]形成及び成長力なのである。」

 この変様は、7歳からどのように行なわれるのだろうか。脳の内部の脳室には、静脈の脈絡叢がある。ここで、生命維持とエネルギー供給に用いられた動脈の血液は、脳水と静脈血液に変わる。この2つの液体は、人の呼吸のリズムの動きに支配されている。それらは、人が息を吸いまた吐くのに応じて、脊柱管の中を上昇・下降するのである。(訳注)

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(訳注)ここで脳水と訳したものは、医学的には「脳脊髄液」と呼ばれるものである。本書ではこの場所に脳の断面図が掲載されている。

〔中央のギザギザが脈絡叢で、脳脊髄液を産生する。矢印は脳脊髄液の流れを示す。〕

 呼吸が脳脊髄液を動かす仕組みについては、本書がこの部分で引用している本の和訳本(『耳を傾ける人間』アーミン・フーゼマン著、本田恒雄訳 涼風書林刊)に説明されている。それによれば次のようである。
 脳と脊髄は脳脊髄液の中に浮かんでいる。脳及び脊髄と体の他の組織の間には隙間があり、その中を脳脊髄液が流れているのである。息を吸うと横隔膜が下がり、腹腔の容量が小さくなる。腹腔は圧縮されない液体を含んでいるため、容量が減った分の血液が臓器から静脈へと移行する。静脈と脳脊髄液は、圧が同調しており、脊髄静脈には弁がないため、静脈血は、脳脊髄液と同じように、呼気と吸気とともに自由に流れるのである。

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 この生理学的現象の中に、動脈血液にそれが表現されている生命-形成力の、透明な液体に表現されている、[身体の]素材供給から自由になった脳水と、静脈血液の、体験-表象(イメージ)力への移行の正確なイメージが存在する。アストラル体は、呼吸の中に生きており、横隔膜の上で脊柱管の中を流れる液体に伝わる呼吸の動きにより、脳水に働きかけ、それにより素材供給から自由になった、エーテル体の形成力を自分の目的に用いるのである。イメージを伴う表象と感情生活は、生理学的には、これに基づいているのである。

 「外的世界のイメージ(像)を人が作ることができるのは、呼吸のリズムが神経の流れに結びついていることに基づく。思考、抽象的思考の方は、全く神経生命に結合しているが、心像[イメージ]的なものは、呼吸生命に結合している。ゆえに、ここに我々は、形成する生命をもっていると言える。」

 アストラル体、意識を持って生きている人間は、意識、即ち表象形成のために、この体験を写し取る、あるいは反射することができる身体的基盤が必要である。死んだ、抽象的な思考、感情の乏しい表象は、神経を基礎としている。生きた表象と体験は、これに対して、呼吸のリズムと関連している。このリズムは、素材供給から自由になった、以前は動脈の血液であったもの、脳水をその基盤としている。動脈血液内の素材を生命器官に運び込み、それにより身体を形成するエーテル体の形成力、この造形力は、およそ7歳から自由になり、我々の表象を形成するようになるのである。

 人間が、アストラル体と自我のみ有し、エーテル体を持っていないとすると、確かに体験と印象を持つことはできるが、それらは、直ぐに消え去り、保存されることはできない。エーテル体は、体験が消失する前にそれを、それも上述の事象の助けによって脳内に保持するものである。上述の事象が、体験を事実上保存することをエーテル体に可能にする身体的基盤を作っている。(訳注)

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(訳注)ここで「脳内に保持する」とあるが、この場合、これは、物質的な脳そのものに蓄えるということではないと思われる。この後に続く文章や、別の節で、「肉体において体験され、エーテル体により保存されたものは、肉体によって、エーテル的霊的な周囲から分離されていたのである。」とあることから、保存にはエーテル体が関わっており、肉体は、それが宇宙エーテルのなかに四散していくのを阻んでいるのである(人のすべての表象、体験は保存され、死後に宇宙エーテルにもたらされる)。

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 動脈血液が透明な、素材を含まない脳水に変化することにより、以前は、体の素材に結びついていた形成力は自由になる。この力は、そこにアストラル体が働いている呼吸と脳水が関係を持つことにより、アストラル体によって表象形成のために用いられる。そこで働いた形成力は、しかし今度は、身体の形成力に戻ることはないので、それが、表象内容を保持する。その際、脳の対応する部分は、物質的な基盤となる。アストラル体が形成力を再び開放すると、もはや意識の中にはない、純粋にエーテル的な形である記憶表象が生まれる。ゆえに、エーテル体は、「物質的」体の「保持者」から意識内容の「保持者」になるのである。この保存された記憶内容は、その後、過去の体験として、アストラル体によってエーテル体の中で「読まれる」のである。

 「記憶とは、荒く言えば、表象を作る時に平行して起きたものを、後に魂が読むことである。魂は、自我が表象した時に、形成されたものを自分の中で読むこの能力を意識下にもっている。」

 「しかし、同時に、魂と外界の間で、もう一つの事象が起きる。」魂的生命のもっと背後にあるようなものである。そこは、成長力、生命インパルスが働くところである。知覚に際して、魂的生命のこの部分に、過ぎ去るイメージ(像)だけでなく、リアルな持続する模像が刻印される。それは、世界の内容としての人間存在に関係するので、人間はそれを担うことができる。完全な意識なしに成長するとき、自己を失うが、これがなされることにより、自己を失うことはない。

 人が、自己の内面から記憶を取り出すと、それは、外的なものの知覚に際し生じる第2の事象の中に維持されたものを知覚するのである。

 しかし、その保存することは単純ではなく、体験されたものがエーテル体と身体に加工されるまでには、通常、3昼夜を要する。体験は、先ずエーテル体の法則に適合させなければならない。それは主に夜に行なわれる。アストラル体と自我がエーテル体と身体に接触する事により目覚めの時に生じる夢は、夜における記憶の働きの表現なのである。故に、人は、意識の中で自分の体験と感覚印象と関係しているが、人のエーテル体は、常に、これらを自分に組み込み、身体に刻印することに従事しているのである。

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 記憶の固定には睡眠が必要とされることは既に定説となっている。記憶を担う海馬のニューロン神経細胞)の働きが活発になるのは、人が寝ている間であるからというような説明がされているようである。しかしこれは、おそらく逆であろう。上の記述によれば、睡眠中に、日中の体験がエーテル体に保存されるのに付属する身体の現象が海馬の活発化なのではなかろうか。

 日中に人が体験したこと、考え、感じたことは、エーテル体に全て保存される。その人が忘れてしまったことも含めて残っているのである。死の淵に立った人がよく自分の全生涯をパノラマ(走馬灯)のように見たという話がある。これは、疑似死によりエーテル体が身体から離れることにより、実際の死の場合(死ぬと自我・アストラル体エーテル体が身体を離れる)の時と同じように、保存されたものを一挙に眼前に見ることになるからである。
 自我・アストラル体により精神活動が行なわれているが、物質世界において、後でそれらを想起するには、エーテル体が必要なのである。エーテル体は、言わば、それらが書き込まれている本である。
 エーテル体は、7歳までは、身体を造形することを主な仕事としている(その終了の印しが歯の生え替わり)。その後は、その役割を一定程度終えて、その自由となった部分で、思考や記憶の担い手となるのである。そして、エーテル体が働くには、脳内の水が必要なのだ。
 では物質的脳自体は何なのか? シュタイナーによれば、精神活動に伴う排出物、分泌物なのである。脳は、腸と同じような役割をしているというのである。
 このテーマは、更に続けることにしよう。