k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

太陽の臓器としての心臓

  2024年は、まさに激震の年を予感させるスタートとなった。

 今回の大地震だが、不幸中の幸いだったのは、石川県の珠洲市にはかつて原発建設が予定されていたが、地元住民を中心とする反対運動により計画は凍結されていたことである。もしそこに原発が実際に存在したとするなら、福島の二の舞になっていたかもしれない。当時の反対派住民に感謝するばかりである。
 しかし残念ながら、同じ石川県の志賀原発を含め、電力会社は否定するが、実際には日本の多くの原発の敷地内に断層が存在しているという。一部の者の目先の利益のために、日本全体が、巨大なリスクを抱えるようになってしまっているのだ。

 さて新年最初の更新なので、 一般的にめでたいと思われる太陽に関係する話をしようと思う。(以下の部分も含め、話の出だしが少し暗いのは勘弁してください)。

 コロナワクチンの害については色々情報が流れるようになってきているが(マスコミ以外でだが)、そこに心臓へのダメージというものもある。それは、主に心筋炎が発生するということのようだが、余りにも多いので隠しようがないのか、心筋炎なるとしても「軽い心筋炎」というように語る者もいるようである。しかし、それはごまかしで、心筋炎は治らないので、それを発症したら、一生健康不安を抱えることとなるようだ。
 さて、このブログでは、何度か心臓の秘密をテーマとしてきた。心臓は、ある意味で、脳と並んで、人間存在の中枢ともいえるのだが、シュタイナーによれば、今後変容していく臓器でもある。未来において更に重要な役割を担うのである。
 このことを考えると、今回のワクチンは、こうした点においても、人類の未来への攻撃と言えるのかもしれない。

 

 以前、「心臓はポンプではない」とするシュタイナーの指摘に関する記事を何度か掲載した。

k-lazaro.hatenablog.com

 以前は、トマス・コーワン氏の著作の紹介が中心であった。それは、コーワン氏が医者であるため、当然であるが(人智学的な)医学的・科学的視点からの論考であったが、今回は、より霊的な視点からこれを論ずるものである。

 秘教的には、心臓は太陽と関係しており、太陽はキリストと関係がある。従って、以下の論考はこの3者を巡る議論であるとも言えるだろう。これは、2003年の『ヨーロッパ人』誌に掲載されたものである。

 なお、以下に出てくるエーレンフリート・プファイファーという方は、既にこのブログで紹介済だが、シュタイナーに直接教えを受けた人智学者である。

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太陽の臓器としての心臓

エーレンフリート・プファイファーにおける "第五心室 "の概念について  1 第1部

Der Europäer Jg. 7 / Nr. 7 / Mai 2003

 クラウディア・テルペル(ベルリン)著

「自らを形成し、その心臓で天と地を創造された神聖なる神は、......」。(J.アスマンによる:エジプトの賛美歌と祈り)

 

1 歴史と科学における心臓のイメージ

   あらゆる文化の無数の神話が、人間の最も神秘的な器官である心臓をめぐって絡み合っている。古代エジプトでは、心臓は人間の生命力、魂、精神の器と考えられていた。神々の思し召しに従って行動しない者は、自分の心臓に背く行動をとることになり、死後、心臓がその者に不利な証言をすることになる【訳注】。心臓では、地上的な流れと霊的な流れが出会うのだと考えられていた。それは「太陽器官」であり、「光」と「重力」の原理を統合する金と関係していた。

【訳注】古代エジプト人の信仰では、「脳ではなく心臓が感情、思考、意志、意向の座であった。・・心臓は、来世にとっての鍵であった。心臓は、死後も冥界において生き続け、その所持者に有利もしくは、不利な証言をするとされていた。」(ウィキペディア)もちろんこの場合、物質的な心臓が死後も生き続けるということではないだろう。古代エジプト人は、死後も生き続ける超感覚的な力が心臓に宿っていることを知っていたのだ。

 

 ギリシャ人はまだ、魂と霊の次元を含む心臓の考えを持っていた。アリストテレスによれば、心臓は魂の活動によって動かされる。同時に、アリストテレスにとって心臓は、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の知覚を内側に取り込み、それらを統合する感覚器官でもある。彼は、この内的感覚を「共同感覚」(sensus communis)と呼んでいる。

   ヒポクラテスの著作では、心臓は「いわば全身の手綱を握っている」器官であり、暖かさとも関係があるとされている。後にトマス・アクィナス(1225-1274)にも同様のアプローチが見られ、彼もまた魂を心臓の原動力とみなし、温かさを非常に重要視している。アリストテレスと同様、彼は心臓を共通感覚の器官と見なしている。この感覚は、外的感覚と、トマスが「表象力」、「推察力」、「記憶力」と名づけた3つの内的感覚との間の移行部を形成する。第四の内的感覚としての共通感覚は、このように外的知覚と内的知覚の中間に位置し、その上、優れた能力、すなわち区別する能力を持っている。トマスにとって、この区別をすることができる心臓は、信仰の器官でもある。

 さらに歴史の流れの中で、心臓の概念に根本的な変化が生じた。大循環系の発見者であるウィリアム・ハーヴェイ(1578~1657)は、それでも心臓を「小宇宙の太陽」、太陽を「大宇宙の心臓」と呼んだ。とはいえ、彼の発見は、科学者たちの目には、心臓がますます物理的な臓器としてしか映らなくなり、純粋に機械的な機能、つまり「ポンプ」としての機能に還元される根拠となった。

 

  しかし、この心の魂的側面と霊的側面の分離は、それまでドイツ語には存在しなかった新しい言葉の誕生を伴うものであった-「Gemüt心情・気質」が生まれたラテン語で心臓を意味する「cor」がフランス語の「courage」、すなわち「勇気」の語源となったように、「Gemüt心情・気質」がそこから生まれた中高ドイツ語に由来する«gemüete»もまた、勇気と関係している。しかし、ここでいう勇気とは、勇敢さや大胆さだけを意味するのではなく、むしろGemütとは、魂的な感情、思考、意志の衝動の総体、すなわち、かつてその昔、心臓に帰属していたすべてのものを意味する。

 精神科学の助けを借りて、心臓を心情の座として認識し、機械論的な見方のパラダイムを克服することが可能になった。例えば心臓の機能障害に対する治療薬として金が用いられていると3、これは特に治療において明白である。シュタイナーが、より高次の存在や宇宙的な力の器官における働きについても記述したことは、彼の功績である。シュタイナーは講義の中で、時には肉体的側面から、時にはエーテル的側面やアストラル的側面から心臓にアプローチし、何よりも、心臓が血液と関連して持つ自我の力との関係を何度も何度も強調している。

 『オカルト生理学』4の中で、彼は心臓という臓器についての記述を行い、心臓が代謝と意識の両極を媒介する位置を占め、血流を介してすべての臓器の作用のバランスをとっていることを読者に示している。シュタイナーは、臓器の機能を「知覚する」というこの機能について詳しく述べている。そこには、同時に宇宙的側面が生じている。心臓と他の臓器との関係は、太陽と惑星との関係に似ているからである。シュタイナーによれば、血液は心臓から動脈に送り込まれるのではなく、その逆で、停滞した臓器である心臓を動かすのである。それは、「自我の道具」なのだ。一方ではある臓器の内的作用を吸収し、他方では肺と神経系を介して外界と接触するからである。「...つまり、心臓の中には、この2つのシステムが出会う器官があり、その中で人間は織り合わされ、2つの面で関係しているのだ。」5

  最近の研究は、この見解を裏付けている6。それにより、私たちは今、シュタイナーの促しのひとつである、ポンプの概念を真実の概念に置き換えることに一歩近づいているのである。しかし、正統派医学はまだこのことを認識するにはほど遠いため、シュタイナーが『労働者の講義』7で述べたことが当てはまる。「自分が快適であるために、心臓を、あたかも人間が血液循環のポンプを持っているだけであるかのように説明してきた科学は、人間が従わなければならないようにその機械を造ることに良心を得ることはない。心臓がポンプだと信じている限り、人は外界の生活の中に自分を正しくおくことはできない。目に見えない人間は心臓よりも上位にあり、心臓を動かすのはその人間なのだと知ったとき初めて、人はまた、人間にその機械を従わせるようになるのだ。」

 

2.心臓の第5の部屋の謎

 シュタイナーは心臓に関する発言で敵も作っただろう。ある種のオカルトサークルが心臓の霊的機能についての知識を封じ込めようとしたことと、シュタイナーの病、それにより死に至った気が関係していた可能性さえある。ルドルフ・シュタイナーと長い間一緒に仕事をしていたエーレンフリート・ファイファーは、講演(1950年)8で、シュタイナーの病気はそのようなオカルト的な攻撃の結果であるとオカルトの第一人者から聞いたと報告している。シュタイナーは「血液のエーテル化について、また肉体的・霊的二重機能を持つ器官としての心臓について、もっと明らかにするつもりだった」とファイファーは付け加えている9

 残念なことに、プファイファーはこの講義の中で、彼がどこでこの情報を得たのか語っていない。一流のオカルティスト」から得たのだろうか。それともシュタイナー自身から?それとも彼自身のオカルト研究から? 彼はまた、この文脈で言及した表現、すなわち「心臓の第5室」の表現の起源についても沈黙している。ファイファーはこう説明する:

 

 「現代において、人間の心臓にある変化が起こり、第5の室が徐々に発達するという考えである。この第5の室では、人間は現在とは異なる方法で生命の力をコントロールできる器官を持つことになるのである。」10

 

 オカルトのサークルの中には、「心臓の第5室」という表現が存在するものがある11 ので、ファイファーがこの概念を採用したかどうかは疑問の余地がある。いずれにせよ、この概念はシュタイナーの著作や講演のどこにも見当たらない。しかし、シュタイナーは将来、心臓が変容すると予言している12

   シュタイナーは、心臓に横紋筋線維があるのは、意志によって制御される臓器だけがそうであるのように、心臓はすでに、受動的に動く臓器から、人間の意志に従う能動的に動く臓器へと自らを変容させる能力を持っているからだと考えている。

 

3.血液のエーテル

 シュタイナーは、講義サイクル「社会的出来事における過去と未来の脈動」13の中で、ここしばらくの間、「人間の肉体の心臓とエーテルの心臓との間のつながり」がますます緩んでいるという事実からなる問題にも言及している。シュタイナーによれば、他の臓器にも及ぶであろうことが、心臓の場合にはすでに本格化している。シュタイナーによれば、心臓のエーテル的なものから肉体的なものへの分離は2100年までにはかなり進んでおり、人々はそのとき、「肉体的な心臓とエーテル的な心臓との間の自然なつながりによって、自然にもたらされていた何かを、別の方法、霊的な生の方法で 」求める必要が出てくるだろう、というのである。シュタイナーが言う「以前は自然に 」もたらされていたものとは、より生き生きとしたイメージ的な思考法のことである。それは、心臓の構成要素の構造が変化する過程で、次第に生気を失い、抽象的になっていったのである。

 シュタイナーが心臓のプロセスを思考と関連づけているのは興味深い。ここで、心臓は思考の器官であり、思考の乱れは心臓の不整や混乱に起因するという古代エジプトの教義を思い出すかもしれない14。シュタイナーは、18世紀以降、思考がいかに表面的なものになっていったか、いわゆるジャーナリストの病について述べている。さらに、心臓の中でエーテル的なものと物理的なものが分裂することで、「知識」と「信仰」への分離が起こる。: 知識はますます抽象的になり、現実から離れたものとなる。一方、信仰は「霊的世界との素朴な感情的関係を発展させたいだけ 」である。思考の意志だけでは、本質的なものには到達できない。そして信仰は具体的な霊的生活に到達しない。だからこそシュタイナーは、科学は精神(霊)化されなければならないと繰り返し強調する。精神的な深化によって、特定の軌道だけを歩む表面的な思考は、地球や宇宙と内的につながっていることを自覚する「心臓の思考」に変わることができる15

 思考が変われば、人間には別の力が利用できるようになる。シュタイナーは「血液のエーテル化」16 についての講義の中で、血液が心臓を流れるとき、エーテル的な力が解放され、それは、心臓から頭へと絶えず移動すると述べている。 

 「これらの流れは、物理的実質であり素材である人間の血液が、絶えずエーテル的実質に溶解することによって生じる。それにより、心臓の領域で血液が微細なエーテル的実質への移行が絶えず生じるのである。

... この血液のエーテル化というプロセスは、目覚めている人間には常に見られる。このプロセスは、目覚めている人の意識活動によって引き起こされるが、その質は実にさまざまで、エーテル流の質にも影響を与える。その人がどのように考え、どのような道徳的原則を持っているかによって、睡眠中に他の霊的な力が影響を及ぼすことがある。」

 

 シュタイナーのこれらの発言を考慮に入れるなら、シュタイナーが『高次の世界の知識を得る方法17』で示した6つの「副次的な訓練」は、今日、より適切なものとなる。これらの訓練は、人間のアストラル体の心臓の近くに形成される超感覚的知覚器官、「十二弁の蓮の花」の形成に役立つ。蓮の花(「チャクラム」とも呼ばれる)の形成により、エーテル体のある種の変化が生まれる。「意識とは無関係なエーテル体の流れや動きに、人間自身が意識的な方法で引き起こすものが加わるのだ。...

 この発達の目的は、肉体の心臓の領域に、そこから限りなく多様な霊的色彩と形態で流れと運動が発する一種の中心が形成されることである。このセンターは実際には単なる点ではなく、非常に複雑な構造、素晴らしい器官である。特に、十二弁の蓮の花は、説明したセンターと特に密接な関係を持っている。18

 このことにより、修行の道の助けを借りて、自分の中に「より高次の自己」を誕生させるための前提条件を作り出すことであり、人間は「今、徐々に、エーテル体の流れを通して本来の高次の生命要素を操り、肉体から高度に自由になることができるように成熟していくことが出来る。」19

 プファイファーが、人間は心臓の第5室に「肉体から自由になれる」器官を持つようになると書いているのは、このことを意味しているのだろうか。

  それは、現在とは異なる方法で生命力をコントロールすることを可能にするものなのだろうか?シュタイナーは、血液のエーテル化に関する講義の中で、ゴルゴタの秘儀」以来、心臓から発せられる自分のエーテル流と同時に、キリスト-大地に注がれたその血も同時にエーテル化のプロセスを経ている。それにより地球のエーテル体もキリストのエーテル化した血に浸透されている-のエーテル流を取り込むことが可能になったと述べている。こうして人間の心臓は、キリストの(エーテル化された)血を受け取る「聖杯の器」となり、それを通して人間は癒しの宇宙の力と再びつながるのである。

 

  クラウディア・テルペル(ベルリン)

【注】

1 in: Thomas Meyer (ed.): A Life for the Spirit - Ehrenfried Pfeiffer (1899-1961), Perseus Verlag Basel.

2 Georg Berkemer and Guido Rappe: Das Herz im Kultur- vergleich, Akademie-Verlag Berlin 1996を参照。

3 Matthias Girke: "Gold und das menschliche Herz", article in Der Merkurstab, issue 4, 1999を参照。

4 ルドルフ・シュタイナー:『オカルト生理学』(GA 128)。

5 同上。

6 Paolo Bavastro, Hans Christoph Kümmell (eds.): The Human Heart, Verlag Freies Geistesleben, Stuttgart 1999を参照。

7 Rudolf Steiner: Rhythms in the Cosmos and in the Human Being.

(GA 350)。

8 "The Heart as a Spiritual Organ of Perception and the Aetherisation of the Blood" in: A Life for the Spirit (op. cit.).

9 エーレンフリート・ファイファー: A Life for the Spirit』(前掲書)137ページ。

10 同書、137ページ。

11 オトマン・ザール・アドゥシュト・マズダズナン(1844-1936)の教えにおける「本当の自分」の位置づけなどについては、www.mazdaznan.de。

12 例:『ルドルフ・シュタイナー:薔薇十字団の神智学』(GA 99)。

13 ルドルフ・シュタイナー:社会的出来事における過去と未来の衝動(GA 190)。

14 Claudia Törpel: Man denkt nur mit dem Herzen gut(2003年5月にEuropäer-Schrif-tenreiheで出版予定)参照。

15 『クラウディア・テルペル:信仰の治癒力について』(Der Merkurstab, issue 5, 2002)の書評を参照。

16 『ルドルフ・シュタイナー:秘教的キリスト教』(GA 130)所収。

17 『ルドルフ・シュタイナー:いかにして高次の世界の知識を得るか?(GA 10)。

18 同上。

19 同上。

【以下に続く】

 

太陽の器官としての心臓

(エーレンフリート・プファイファーにおける "第五心室 "の概念について) 1 第2部

 

4. 聖杯の器としての心臓

 聖杯の器としての心臓-これはプファイファーが「心臓の第5屋」という考えと結びつけたものなのだろうか。ルドルフ・シュタイナーの講義シリーズ『東洋とキリスト教の神秘』2には、マリー・シュタイナーによる序文があり、その中で彼女は「隠された部屋」という表現を使っている。彼女は書いている。「いわば、隠された部屋で世界の出来事の鼓動を導き、人類の霊的な血液循環に生命を吹き込む。そのように、(神秘的な知識の)放射は働く。」この一連の講義で言及されたエジプトの秘儀は、外部世界から隠されて、秘密裏に行われた。しかしそれは同時に、太陽器官、自我器官としての心臓についての知識を含んでいた。ルードルフ・シュタイナーは、イニシエイトの中心的な経験であるについて次のように述べている。真夜中に太陽を見ること、「その経験は常に呼ばれていた。特にエジプトの神秘的な時代には、人間が真夜中に眠っているときに霊、的に太陽を見、今特徴づけたような形で太陽の力と一体化していると感じることを、最もはっきりと経験していたからである。: 肉体とエーテル体を照らす太陽の力として、自我の中に太陽のようなものを体験することを。」というのも、彼はあらかじめこう説明しているからだ:

 「太陽が下に生えている植物に語りかけるように、私は、肉体とエーテル体にこう言うことができる。“植物が太陽のものであるように、私は肉体とエーテル体の太陽のようなものである。”」

 シュタイナーによれば、エジプトの高度な文明の時代にも、イニシエートたちは、太古の昔から世界叡智から生まれた世界言葉(ロゴス)を生きることができたという。世界言葉とのつながりによって、自分自身を最も深い意味で人間として、すなわち霊的な自我存在として認識することが可能だった。しかしある時、「世界言葉」が沈黙する時が訪れた。何かが取り返しのつかないほど失われたように見えたが、それは水面下に沈んだだけだった。水の流れが、しばらく地表から姿を消し、また別の場所に現れる川のように。

 どのようにして古代エジプトでは水没していたものが、どのようにして甦ったのか。それは、「聖杯」と呼ばれ、聖杯の騎士たちによって守られている神聖な鉢の中に見えるようになったのである。そして、聖杯の出現の中に、古代エジプトに降臨したものを感じることができるようになったのだ。」3

 では、エジプトの秘儀において「隠された[心臓の]部屋」で起こったことは、今日、つまり第5文化期において、もし人々が自分の心臓を聖杯の器に変えることができれるならば、個々の人々の心臓の中で再現すことができる出来事なのだろうか4。そして、プファイファーが「第5の心臓の部屋」という言葉で表現したかったのは、このことなのだろうか。

 キリスト・イエスによって--これは薔薇十字団の古くからの信念である--"第5のもの "が世界にもたらされる。それは、以前には存在しなかったものであり、そこから新しい生命が生まれる十字架の中心を形成している。"第5の要素"("第5の精髄 クイント・エッセンス=クインテッセンス")が、万物の根底にある統一的な要素を表し、同時に他のすべての要素のエッセンスに点状に凝縮しているように、プファイファーは、心臓の第5室によって、人間全体を要約したような、精神的な核を形成すると同時に、神的なもの、世界的な自我への入り口の門や器としての役割を果たすものを考えていたのかもしれない5

 

5.霊的認識器官としての心臓

 心臓の活動には、地上では中心でありながら、宇宙的な広がりの中に故郷を持つ「自我」の、【人の】全構成要素を統括する性質が明らかになっている。プファイファーが講演の中でシュタイナーの「点と円周」5に関する瞑想に言及したのはこのためである。彼は次のように説明している。「球体のイメージを作り、それを中心に向かって変成させ、その点から再び球になるようにする。球のイメージを球の形にし、球の中心点まで変成させ、そこから再び球になるようにする。同心円がだんだん小さくなっていき、ある一点になる。そしてそこからまた広がっていくのを想像することができる。いつか、このエクササイズを宇宙の最果てまでに適用してみるだろう。そうすれば、宇宙全体が、それに属するものすべてを含めて、地球に収縮し、地球は、球体の中心に収縮するのという感覚を得ることができるだろう。

  そのとき人は、自分の心臓の中心が球体全体の中心であることを感じるだろう。これは経験しなければならない。単に想像するだけでは何の価値もない。この経験をしたとき、人は再び拡大しようと努力する。そして今拡大しているのは計り知れない宇宙ではなく、自分自身である。もし今、人が客観的で十分な強さを備えているならば、その時、人は境域の守護者に出会う。そして、守護者があなたを通過させるなら、あなたは自分がいかに小さいかを知ることになる。拡大しつつあるこの新しい球体は、不完全でつぎはぎだらけの宇宙であり、ある部分では他の部分よりも精巧にできている。これは気持ちをくじくことではなく、客観的な経験である。人は、(自分の中にある)霊的な性質を持つものすべてがどのように放射しているのかを見て、放射する力を感じる。そして、それに並んで、暗い空間を体験する。

 人がしたことは、神が創造した宇宙全体を中心に収斂させ、そしてこの点から、いつか新しいコスモスとなるものを外に放射することである。これが心臓を動かし、心臓に、そこからまた外へと放射する動きを与えているものなのだ。6

 この瞑想の描写は、最も内なるものと最も外なるものがリズミカルに融合と発散を繰り返す、一種の霊的な心臓の呼吸のように思える。そしてプファイファーは、関連して、血液を吸引し、また外へと脈打たせる「心臓のエーテル的中心点」について、次のように語る。

 

 「ここは、物理的な実質がエーテル的な実質に変化する場所である、シュタイナー博士は、形がどのようにしてエーテル脳に達し、そこから肉体の脳に到達するのか、それによって肉体の脳が機能し、肉体の器官に調和がもたらされるかを語った。肉体の器官とその機能は、エーテル的な心臓とエーテル的な脳の間で起こる出来事によって調整されている。」7

 

6 .古くて新しい心臓の思考

 シュタイナーはかつて、人は、人間の内部で起こっていることについては「ほとんど知らない」と述べた8

 

 「なぜなら、私たちは心臓の魂的・道徳的・霊的な意味を知らないからである。古代エジプト人はもっと知っていた。彼らは心臓について、生きた、本質的な考えを持っていた。一方では、これは古代の神秘体系(真夜中に太陽を見る)と関係があるが、同時に、彼らが自由に使えるより強力なエーテルの力と関係がある。そうゆえ、彼らはまだ(エーテルの)心臓で考えることができるのだ9。ヒーリング効果や医学的知識も、この異なる種類の生命組織(古代のエーテル心臓)まで遡ることができる。なぜなら、エジプト人が使い方を知っていたヒーリングパワーは、エーテル体にあるからだ。

 同質のものは同質のものでしか認識できないのだから、キリストのインパルスを通してエーテル的な力を刷新することが現代には必要なのだ。- この新しいエーテル心臓は、今日の意識の力の助けを借りて、生者を探求するための知識の道具となることができるのである。医学において、生あるものの計量、計測できるものだけが考慮される限り、人は物質的な死んだものしか把握することができない。しかし、生あるものをプロセス的なもの、つまり「なりつつあるもの」の中に把握する思考法を開発することが重要であり、それによって初めて本質を明らかにすることができるのである。ゲーテはメタモルフォーゼ論で、この新しい考え方の素晴らしい例を示した。

 心臓の生理学、形態学、発生学を掘り下げるとき、人は最大の畏敬の念に捕らわれ、心臓は全生物の完成形であるというアリストテレスの意見に容易に賛同することができる10。それは今も昔も、自然の最大の驚異である、いわば「ジャンプ台」11であり、そこから全人類が出発するのである。心臓は、私たちに、意識という点では外に対して自らを開き、それでもなお自己を感じる自我であることがいかに可能であるかを教えてくれる。対人関係においては、これが他者への真の理解を深めるための基本的な前提条件であり、思いやりは、健全な自己意識の上にのみ育まれる。あらゆる真の人間的な出会いは、相手の自我と自分の自我の間でリズミカルに揺れ動くプロセスである。究極的には、心臓こそが、人間が世界の出来事に心を温めるとき、実際の「人間」が発展しうる有機的な基盤を表す、律動の中心器官なのである7

 

7.心臓でしかよく見えない

 生理的なレベルで観察できることは、人間のより高い能力の表現である。したがって、サン=テグジュペリはこう語る。「人は、心臓でよく見えるだけで、本質的なものは目には見えない」12。カール・ケーニッヒは、かつて、癒しの仕事は、実際にはキリストの力である、心臓の中で働いている霊的な力を自分自身の中に感知することができたときにのみ、社会生活の中で行うことができる、と述べた13。ここに自由と愛を理解する鍵がある。また、これまで述べてきたことから、心臓なくして人間のより高い発展は考えられないということがわかる。なぜなら、人は心臓によってのみ、地上と霊の "2つの世界の市民 "になれるからだ。前述したキリストの血のエーテル流の吸収によって、心臓が随意的な器官へと変化することも、やがて可能になる。なぜなら、この器官の深く賢明な活動は、自分自身の意志が「私ではなく、私の内におられるキリスト」という意味において、より高次の神の意志と結びついた場合にのみ、自我主導の活動となりうるからである。

 ヴィルヘルム・ハウフが童話『冷たい心臓』で描いたように、心臓の霊的なレベルが否定されると、人は生きた心臓を "石のような "心臓と交換することになる。- そこに書かれているように、その結果は、モラルの枯渇である。均等化の力を持つ機械化の犠牲者になりたくなければ、人間がより高い意味での "私 "であることを認識することが重要である。現代の自然科学は、人間を自分自身から疎外し、その最も完全で高貴な器官である心臓から霊的な次元を取り除くことで、人間から尊厳を奪っている。これを取り戻す必要がある。そして、霊が物質を支配するのであって、その逆ではないことを認識することによって、そのスタートが切られたのである。

 もしシュタイナーがもっと長生きしていたら、心臓の霊的な意義についてもっと多くのことが言えたかもしれないし、言うつもりであっただろう。シュタイナーが言ったことは、それを本当に理解するならば、かなりのことであり、この点に関しては、まだ探求すべきことがたくさんある。しかし、確かなことは、心臓の力は、将来、人間が心臓の質--それは同時に「太陽の質」でもある--を自分自身で徐々に身につけることができるかどうかに、ますます左右されるということである。それは、「心臓」と「心情」への概念的な分裂が起こり、--変化した意識状態から--このつながりを再確立することができるのと同じように、人間は血液【自我の器官】を介して心臓に癒しをもたらす力との新たなつながりを求めることができるのである。

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内なる太陽-宇宙における太陽

 太陽についての考えが書かれたプファイファーのノート "Vom Erleben des Christus "1

 

 「キリストは太陽の霊であり、その肉体は太陽であり、その呼吸と思考は太陽の光と知恵であった。すべての生命は、物理的な世界のそれも、永遠の叡智の法則がその中に明らかにされ、活動する限り、光と生命によってのみ創造される。

 太陽であるということは、物理的・霊的空間のあらゆる面に光を放射するということである。しかし、太陽の光線(物理学者の言う光線)という言葉は、何も語らない抽象的なものであり、真実ではない。太陽の本質は「光ですべてを満たす」ことだからだ。「光線」ではなく、太陽の「織物、溢れる織物」2という表現が適切だろう。

 そして、太陽は、その実体を無限に永遠に燃やし続け、燃やすことで光を生み出し、光に変え、光の中で霊的な実質の新たな源を永遠に開き、自分自身を更新することを意味する。

 太陽は無尽蔵である。

 太陽は、それが見え、受け取られるか否かにかかわらず、すべてのものの上に、すべてのもののために輝く。太陽はそれ自体であり、無限であり、終わりはない。

 太陽は輝けば輝くほど、太陽は自らを更新する力を得る。太陽は一瞬一瞬、自らを犠牲にし、その犠牲を「犠牲」と認識することなく、新しい太陽を誕生させる。

 太陽は温め、輝かせ、不純なもの、うつろうものを燃やす。何の準備もなく太陽に出会った者は、盲目となり、焼かれる=炎の中で浄化される。

 太陽は浄化の火の灰から蘇り、新たな生命を輝かせることができる。

 太陽は絶え間なく自己を更新する。

 太陽と愛は一体であり、不滅の統一体である。

 太陽はキリストであり、キリストは太陽である。

 太陽は外に生き、太陽は内に生きる。

 内なる太陽があってこそ、私たちは外の太陽、宇宙の太陽、他人の心の太陽、自分自身と他人の心の太陽を認識し、把握し、理解し、体験することができる。

 太陽はすべてである。(...)

 しかし、キリストはもはや今日の物理的な太陽の上にはいない。それは徐々に燃え尽きる火の玉だ。キリストは地上に降り立ち、地底に浸透し、地上の物質にキリストのエッセンスを吹き込み、溶解、救済、エーテル化の準備を整え、地を通して、そして地から外に向かって輝いている。キリストは、人を太陽に変え、エーテル化を実行できるようにするために、人の心臓の中に入り込んだ。自然の中のキリストは、何千、何万の人間の心臓の中にいる。一個の太陽から千個、千個の太陽が生み出される-新しい、光り輝く、温かみのある、愛を放つ世界体が。

 【注】

1 Ehrenfried Pfeiffer: A Life for the Spirit, Perseus Verlag, pp.184-186.

2 参照: ルドルフ・シュタイナー『入門の門』第7図(GA 14): ベネディクトゥス:「光の織りなす本質、それは/人から人へと輝き、/真理で世界を満たす。 (...)」

・・・

 

【本文注】

1 in: Thomas Meyer (ed.): A Life for the Spirit - Ehrenfried Pfeiffer (1899-1961), Perseus Verlag Basel.

2 Rudolf Steiner: The Mysteries of the Orient and Christianity (GA 144).

3 同上。

4 「今日、私たちは、古代の神秘における太陽と同じような体験を、心ですることができる」とプファイファーは書いている(Ein Leben für den Geist, op.cit., p.146)。ヨハネ一揆』についての著書の中で、プファイファーは次のように説明している。「秘教的な崇拝と道の最高の成就は、肉体が神の神殿であるという経験である。この神殿の祭壇、すなわち心臓の上で、イニシエートは、血のエーテル化によって自らを清め、地上の自己を神の存在(高次の自己)、霊我などに変容させることによって、犠牲の鉢、すなわち聖杯を自分自身に捧げる。この行為において、自己は「私ではなく、私の中のキリスト」という意味で、神そのものとなるのである。(霊のための生活』、前掲書、187頁)。

 5 例:『ルドルフ・シュタイナー:治療教育コース』(GA 317)。

6 『精神のための生活』(前掲書)、p. 140/141.

7 同書、p. 142。

8 Rudolf Steiner: Human Soul Life and Spiritual Striving (GA 212)。

9 Claudia Törpel: Man denkt nur mit dem Herzen gut, in Europäer-Schrif- tenreihe, published in May 2003.

10 『心理学』(第13章)より: Aristoteles Haupt werke, ausgewählt, übersett und eingeleitet nach Wilhelm Nestle, Stuttgart 1968.

11 アリストテレスが使用した用語("punctum saliens")で、鶏卵の中で発達する血液や心臓のこと。

12 アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ:『星の王子さま』。

13 カール・ケーニッヒの講演「社会的労働と幸福」。

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 上の文に「心臓の第5室」と言う言葉が出てきた。心臓は左右の心室・心房で4つの部屋からなることは常識であり、第5の部屋とはまたまた常識外れの言葉なのだが-シュタイナー自身はこの言葉を使っていないと言うが-、他にこれを語る者として、上の文の注記ででは、オトマン・ザール・アドゥシュト・マズダズナン氏の名があげられている。

 この人物は、ネットで調べると、ドイツ系のアメリカ人で、本名は「ハニッシュ」という。「マズダズナン」と呼ばれる、ゾロアスター教キリスト教ヒンドゥー教/タントラの要素を持つ混合宗教を創始したそうで、その信者は現在も活動しているようである。

 その関連と思われるサイトには、第5室について次のように書かれていた。

「これはオトマン・ザール・アドゥシュト・ハニッシュ博士(1844-1936)によって1920年には発見されていた。それによると、心臓の部屋は4つだけでなく、秘密の第5の部屋まであるという。第5室は心臓の後ろの壁にある。直径わずか4ミリの小さなもので、洞結節に囲まれている。」

 https://petrafeldbinder.de/das-geheimnis-der-5-herzkammer/

 

 現代医学的にはどうだろう。ネットで調べてみると、第5室が実際にあるというのだが、それは、小さくて機能していない、人が胎内にいた頃の名残であるとか、病的な動脈瘤を指しているようである。

 

 それでは、人智学派ではどうかというと、やはりネットで探し当てたのだが、ブラッドフォート・ライリーBradford Rileyという方のサイトに関連する記事があった。

 彼によれば、ミツバチはこの第5室をもっているというのだ。

 「ミツバチは、地球の事実によってではなく、ミツバチが私たちの中にいる文字通りの太陽の存在であるという事実によって、その生命機能を設定しているのだ。ミツバチの巣とコロニー、そして5つの部屋からなるミツバチの心臓の叡智はすべて、地球のマトリックスに流れ、隠されている太陽の力の叡智と効果と現実に閉じ込められているのである。」

https://rileybrad.wordpress.com/2009/12/09/heart/

 彼はこのように、ミツバチは太陽に関連していることを示している。
 ミツバチは、古代から神聖視されてきており、人智学派にはこれをテーマとした著作もある。これらもいずれ紹介したいと思っている。

 

 結局、今回の話は、心臓が、太陽とキリストそしてミツバチにつながっているということになるようだ。

 今年は、昨年以上に荒れた年になるという予想を昨年目にしていたが、それがまさに初日から当たってしまったようだ。
 このブログでは、これまでアーリマンの受肉が迫っているというような記事を取り上げきた。それは、世界中で様々な黙示録的ともいえるような状況が起きている背景を探った結果であり、もとより暗い未来を想定せざるをえないのだが、この困難な状況はいわば「産みの苦しみ」であることも示されている。
 明るい未来はそれを乗り切った先にあるのだ。このことを胸に刻む必要がある。