現在のウクライナ問題の根底には偏った民族主義があると思われる。ウクライナの実権を握る「ナチス的民族主義者達」は、国内のロシア語話者、ロシア系の人々を暴力により弾圧してきたが(東部では砲撃による殺害もあった)、それが今回のロシアの軍事侵攻の1つの原因であると言われている。このことからロシアは、侵攻の理由に、このロシア系スラブ人の保護を挙げている。
またロシアの思惑としては、ソ連崩壊で失われたロシアの勢力圏の回復ということも指摘されているが、プーチンや現在のロシア指導者達にも、強烈な民族主義的傾向があるようである。
実際、今の構図は、ウクライナを代理にしている英米のアングロサクソン民族とロシアを中心とするスラブ民族の対立となっている(それに英米側にヨーロッパや日本等のその従属国、ロシアに中国や中東、アフリカ、中南米の非同盟諸国がついている)。
現在の国家は、民族を主な構成単位としていることからこのような国家間の対立が生まれるのだが、本来、民族愛は即他民族の排斥ではない。これを利用して、自己の利益を得ようとする者達(霊的存在も含め)がいることが問題なのである。
これを見ても民族主義というテーマは、未だ人類が解決できてない問題であることがわかるのだが、霊学的にも、人は、民族主義を超えていかなければならない。
シュタイナーは、真の霊的探求者は「故郷喪失者」であるとする。人間が霊界に参入するとき、人間は、自己の民族性からも離れなければならない。霊界に民族性をもちこんではいけない。民族性を持つ前の、原初の人間に戻らなければならないのだ。つまり普遍的(宇宙的な)な人間になるのである。
そもそも、民族性は、人間の地上界での一時的な属性でしかない。シュタイナーは、人間は輪廻転生していくとするが、それは地上で多様な経験を積んで人間が学んでいくと言うことである。ゆえに、輪廻転生するとき、人の性別は、通常、男・女が交互に繰り返されるとする。そのように、人は、また同じ民族に生まれ変わるよりも、他の地域、他の民族、人種に生まれ変わるケースが多いのである。
今回紹介するのは、この民族の生まれ変わりに関するシュタイナーの講演である。20世紀初頭における各地域の人達が、前世でどこに、どのように暮らしていたかが述べられている。そこには、日本人の過去生も語られている。
ーーーーーーーーー
地球と星界との霊的関係をとおした
世界の発展に対する人間の責任
1921年1月から4月にかけて、シュトゥットガルト、ドルナッハ、ハーグで行われた18回の講演。
第2講演
今日、すべては、精神科学を通じて知識として、また魂の衝動として流れ込もうとするものを、真に生きた形で存在させることにかかっています。・・・
人智学的な精神科学を信奉する私たちは、地球生活が繰り返されること、人間に起こることの、あるいは人間が現世で行うことの原因が-自由が完全に存在するにもかかわらず-前世にあることを確信するようになることは間違いないでしょう。しかし、具体的な生活を理解する問題となると、私たちはあまりにも簡単に、前世紀が生み出した、人間の生活を把握するには実は全く不十分な概念に服従してしまいます。この概念は、自然現象の特定の事実を理解するにはかなり適していますが、人間の生活全体の複雑さの前では役に立たないのです。そして、科学的な生活こそ、実は、今の生活に求められているものから最も遅れているものだと言いたいのです。しかし、このような科学的な生活は、今度は広く大衆の思考に大きな影響を与えることになります。・・・
今日、あれこれの人が精神科学に近づくと、繰り返される地上生活の根底にあるものを理解し始めます。しかし、もし彼が現在起こっていることについて自分自身で知りたいと思うならば、そしておそらく彼が歴史に近づくならば、まさに歴史というものの中に、自然の事物と自然の事実を説明するためにのみ適した考え方が優勢となります。ますます、人類は歴史から精神的なものすべてを排除するようになったのです。そして、もし今日の誰かが、どんな分野でも歴史的な生から生まれる事実を自分自身に説明しようとするならば、何世紀にもわたって、前の世代、二番目の世代、三番目の世代などが経験してきたことを知らせる以外に、ほとんどすることはないでしょう。・・・そして、そのような世代交代の中で起こる、歴史的な「なりゆき」の連続的な流れを知ることができるのです。息子は父親からあるものを受け継いでいる、それは資質であるとか、父親が授かったものが残っているとか、そういうことです。つまり、現在の世代から前の世代へと、時間を遡っていくわけです。
今、精神科学的な観点から見てみると、それは完全な現実なのでしょうか。現在の人間の肉体を持つ世代の魂は、その前の地上生活でこの中央ヨーロッパに受肉する必要はなく、おそらく全く異なる状況下で別の場所に受肉したのではないでしょうか?- 彼らは以前の身体から持ってきた力を、現在の身体に持ち込んでいるのです。それは、代々受け継がれてきた血筋と同じように、外見的、肉体的に受け継がれた特性とともに効果を発揮するのです。・・・現在の人々の中には、世代を通して働くのではなく、むしろ前世で彼らが生きていたのとは全く別の地域へと我々を導く力が働いている魂が生きているのです。-繰り返される地球生という事実を認識し、そのことを具体的に真剣に考えなければ、地球で起こっていることは理解できません。・・・精神的な背景から真理として認識していたものを、生活の中で実際に見る必要性がますます高まっています。なぜなら、今日、人類は現実の全体の理解を求めており、現実の全体の理解に向かわないものはすべて、単に衰退した生に属するからです。もちろん、現代人の多くは、精神科学的な真理を目の当たりにすると、萎縮してしまうのは事実です。彼らにとっては、あまりにも大胆なことなのです。・・・
以下の議論をする前に、私がしばしば注意を喚起してきたことを、もう一度強調しておかなければなりません。精神世界の研究から何かを見つけようとする者は、単なる概念の組み合わせやアイデアの連想に気をつけなければならないと、私はよく言っています。なぜなら、人が想像するものは、たいてい真実の反対であり、少なくとも真実とはまったく異なるものだからです。深い真理こそ、最初は逆説的に見えるものなのです。それは、実体験を通してしか見つけることができません。
そこで、このような大災害をもたらしたこの文明の人々と、現在の状況、現在の人々を真の精神科学の観点から見た場合、どのような状況にあるのだろうかという問いを真剣に受け止めてみましょう。・・・
私は、現在、キリスト教誕生後100年[紀元1世紀]の間の前世に南ヨーロッパで受肉した魂が生きており、彼らは、中央ヨーロッパで多く受肉していることを、しばしば指摘してきました。これは真理ですが、ある一定の数の魂を指しているに過ぎません。今日は、現在の地球上の人口の大部分に関係することをお話ししたいと思います。ヨーロッパ西部の人口の大部分、中央ヨーロッパの人口の大部分、そしてロシアに至るまで、その魂は前世でどこにいたのでしょうか?- この問題を、私たちが自由に使える霊的な研究手段を使って考えてみると、私たちは、最後の死から今回の誕生まで[再受肉するまでの期間]比較的短い生を生きた魂を相手にしていることがわかるのです(訳注)。西を見てみましょう。アメリカ発見後、ヨーロッパ人の多くがこのアメリカに入植し、もともとの住民を絶滅させたか、少なくとも異常なまでに抑圧したということが研究により示されています。アメリカ征服の世紀へと目を向けると、そこには、征服されたインディアンの肉体に宿っていた魂へと導かれます。ヨーロッパ人に絶滅させられたインディアンを正しく判断してこそ、私の言うことが理解できるでしょう。しかし、彼らは、今日考えるような教養ある人々ではありませんでしたが、その魂には、普遍的な汎神論的宗教心とでもいうべきものがありました。まさにこのインディアン、退化した人々の間ではなくそこで主導的な要素を形成していた人々の間では、一神教的とさえ言える精神的存在に向けられた、自然の現象や人間の行いの中にも、統一的な霊を生き生きとまた強烈に感じる宗教感情に出会うことになります。この魂の気分を把握し、多くの偏見を下草のようにかき分けて、外面的、自然主義的な方法に従って、いわば半分野生のように、インディアンを見たときにのみ見えるものとは別のものが、これらの魂の中にあることを理解することが必要なのです。そして、この絶滅させられ敗れたインディアンの魂は、今日、西ヨーロッパと、遠くロシアまでの中央ヨーロッパの大多数の人々の中に住んでいるのです。この一見パラドックスに見えることを理解に持たないと、現実がどのようなものであるか理解できないのです。
(訳注)シュタイナーは、一般に人間が再受肉するのは、2100年(あるいは2600年)に2度といっているようである(『シュタイナー用語辞典』)から、だいたい1000年に1度、地上に戻ってくると言うことになる。しかし、今ヨーロッパにいる人達がかつて絶滅させられてインディアン(アメリカ大陸の先住民)であったとすると、コンキスタドールによるスペインのアメリカ大陸征服は15世紀からなので、それ以降の再受肉ということなので、長くて霊界にいたのは500年くらいとなり、通常のペースより霊界の滞在期間が短いということになる。
これらの魂は、その前の転生ではキリスト教とは無縁だったのです。したがって、ヨーロッパの大多数の人々にとって、キリスト教は、現在の誕生や受胎以前にすでに彼らの魂の中にあったものではありません。それは、大部分、言葉の音により彼らに教え込まれたものです。それは、外部から獲得されるものです。今日のヨーロッパ人の魂の中にキリスト教がどのように生きているかは、これらの魂の大部分には、前世においてキリスト教の衝動は全くなく、一種の汎神論的宗教感情で偉大な普遍的霊に従う衝動があったことを知る者には理解できるでしょう。しかし、これらの民族には、南方から多くきた魂が混じっています。彼らは、キリスト教の最初の1世紀にもっと南の地域に受肉し、北アフリカ地域に住んで、その後に、今説明した大部分に再受肉したのです。先ほど言った、ロシアに至るまでの西ヨーロッパと中央ヨーロッパの住民は、その主な部分が、この2種類の魂により構成されているのです。私たちは、魂が現在どのように表現しているか、その願望は何か、その考え方は何かを研究しなければならないという事実をはっきりさせなければなりません。・・・
そんな霊的な研究から見えてくる、もうひとつの真実があります。民族大移動の時にヨーロッパに、ある者はより早く、ある者はやや遅く、存在した住民を、南からキリスト教を受け取ったヨーロッパの住民を振り返ることができます。彼らは、原始的で根源的な内なる魂の力にまだ完全に貫かれており、その力は、生命全体の中に働いていたので、今日とは異なる形でキリスト教を受け取ったのです。それは、まだ抽象的で知的な神学に貫かれておらず、何よりも魂の基本的な感情に働きかけるものでした。当時ヨーロッパに存在し、このような方法でキリスト教を受け入れたこれらの魂は、まさに当時人々に入り込んだ、この特殊な魂の形成により、死と新しい生の間の生の期間が延ばされた、死と新しい生の間の人生が他の場合よりもいくらか長く続いた後、これらの魂は大部分、今日アジアで受肉しているのです。特に、この時期にキリスト教化した多くの魂は、現在、日本人の身体に再受肉しているのです。多くの謎を見せるアジアのこの特異な生を理解しようとする者は、アジアに住む多くの魂は、前世でキリスト教的な感情を吸収し、その感情を、より古い東洋の文明から退廃した形で残ったものに、言葉を通して子ども時代から取り囲まれている現在の東洋人の肉体に持ち込んでいるのです。真にキリスト教的なものが、そのような魂がかつて身を預けたキリスト的なもの浸透の中に生きており、それは、彼らの耳に聞こえるもの、心に聞こえるものが、退廃した東洋の宗教界やその他の文化界から聞こえてくるのとは対照的に、真のキリスト教の何かが生きていると言いたいのです。・・・ラビンドラナート・タゴールのような人格が実際に何を意味するのか、それを明確にすることではじめて明らかになるのです。これもまた、前世がヨーロッパのキリスト教徒であった魂が、そのヨーロッパのキリスト教から、ある種の暖かい感情を、すべての発言を通して注いでいるのです。 一方、退廃的なオリエンタリズムからは、タゴールにおいて、なまめかしい性質、この文化的コケティッシュさで、私たちに立ち現われくるものが流れ出てくるのです。タゴールの人格には、奇妙な雌雄同体性があります。一方では、人が自然で健康的な感覚を持っていると、今日の東洋的ななまめかしさがすべて備わっていることにいつも気づきますが、他方で、計り知れない心の温かさに惹かれることも事実なのです。
繰り返される地上生という考え方として提示されたものをつまみ食いするだけでは、今日では通用しないのです。・・・人は、ありのままの自分で世の中に立ちたいと思わないのです。そのため、この分野の実態を本気で検証することに眉をひそめています。現在の生活にある混乱や困惑は、私が今、皆さんの前に示したようなことを考えれば、理解できるはずです。
しかし、別の住民を考えてみましょう。今お話したような調査をしたときこそ、霊的研究者は問いを立てざるを得なくなるのです。さらに時代をさかのぼった、あそこのアジアにいる人たちは、実際どうなっているのでしょうか。・・・もしあなたが、インディアンの魂はどうなったのか、かつてのヨーロッパ人の他の魂はどうなったのかを調べたいのなら、その質問をしなければなりません。そうすれば答えは出るでしょう。キリスト教が誕生したとき、つまりゴルゴダの秘儀が行われたとき、当時の特別な教育を受けて、近東、アジア全般、アフリカにいた魂はどうなったのでしょうか。―私が考えているのは、ゴルゴダの秘儀の教えを受け取った魂ではなく、それを受け取らなかった魂、古い東洋のアジア文化を継続させた魂です。ゴルゴダの秘儀が行われた当時、この古い東洋のアジア文化-今日では退廃していいます-が存在したことについて、人は必ずしも正確な概念を持っていません。非常に多くの人々にとって、それは非常に精神化された文化でした。そこでは、多くの人が、霊界とのある関係について、非常に明確な考えを持つようになりました。今私が話している人たちには、キリスト教に貫かれた時に、人間から生成するものは、当然存在していません。
しかし、そこでは、イメージ的概念の中に、霊的関係に貫かれた非常に強い理解がありました。この人たちが属していたのは、高度に霊的な世界観であり、多くの点で霊界だけを真の世界、目指すべき世界と考え、ある意味で外側の感覚的現実の世界から逃避していた世界観です。彼らは多くの思弁を行なう人々であったが、その思弁は、古い、本能的な霊視能力によってまだ養われている部分がありました。それは、より遠い過去の時代の様々な精神的な発展段階から世界が出現したことについての思弁です。彼らは、"イーオン "が次々と続き、どんどん粗くなり、より物質的になり、最終的に現在の外側の物理的な現実世界の構造が出来上がったと語りました。つまり、霊的なものを真剣に、深く見上げている人たちだったのです。これらの魂は、この特別な魂の構造、魂の体質によって、まさに死と新しい生との間の長い生の準備を行ないました。彼らは、新しい肉体に降り立つ衝動に目覚めるまで、長い時間を必要としました。そして、その魂の多くは、非常に多く、今日のアメリカの人々の中に受肉しています。このアメリカの住民は、多くの点で、実用的な物質的生活の構想に向かう傾向がありますが、その全体の体質は、その魂は、かつて私が述べたような世界の霊的把握の中に生きており、しかし、今や、非常に、非常に濃密な身体性の中に身を沈めており、今は基本的に、かつて繊細な霊性において持っていたものを、この物質世界の洗練された扱い方のなかで生き抜こうとしていることに起因しています。アメリカ人の精神が、世の中のことについて実に実用的で科学的に取りかかろうとするのは、それがいかに以前の霊界への傾倒にさかのぼるかを知れば、理解できます。それは、今日では意識せずに、物質生活に持ち込まれ、霊的なものを物質的に把握しようとしているのです。それは、これらの魂が地上での前世で経験した霊的なものの物質的な対極にある姿なのである。
・・・
ーーーーーーー
この講演については、西川隆範氏も、『民族魂の使命』の「あとがき」で触れておられる。西川氏によれば、『民族魂の使命』は、シュタイナーの民族論の最重要文献であるという。
シュタイナーは、人類の発展史において、その時の使命を担う民族が交代していくというようなことを述べているため、シュタイナーは人種あるいは民族差別主義者であるというような批判をする者もいるようだが、それは今の常識にもとづいた皮相な見方である。霊学探求者にとって重要なのは、個人であって、そもそも民族ではないのだ。自分の属する団体や民族のみの利益を求める秘儀参入者は、左道のオカルティストなのであり、彼らこそが、悪い意味の民族主義者である。
ところでこの講演で気になるのは、日本人が過去生においてキリスト教を受け取っていたという指摘である。1世紀前の講演なので、現代の日本人も、この講演の内容が当てはまるのかわからないが、やはりそれに近い魂が集まっているようには思われる。しかし、現代日本人は、かなり欧米化してしまっており、あるいは別のコースを歩んだ魂がきているのかもしれない。
では実際にシュタイナーと同時代人の日本人はどのようであったろうか。私が頭に浮かぶのは宮沢賢治(1896年(明治29年) - 1933年(昭和8年))である。
いうまでもなく日本を代表する詩人、童話作家であるが、実は彼は霊能の人であった。その作品は多分に彼のその特別な能力に源泉があるのである。生家が仏教の信仰の篤い家で、彼自身は、その宗派とは別の宗派を選んだものの、やはり熱心な仏教徒であった。だが、「銀河鉄道」を読むとわかるように、キリスト教にもシンパシーをもっていたようなのである。
宮沢賢治の中には、万物に神性を感じる縄文的な心性-それは日本人としての彼の血を通して受け継がれたものと言えるかもしれない-と共に、キリスト教-具体的な宗派というよりその普遍的な宗教性-への憧憬が存在していたのではなかろうか(この2つは、結局、同じものに行き着くのかもしれない。シュタイナーによれば、仏教も霊的なキリスト教に統合される)。彼の作品の、日本やアジアという地域性を越える性格は、このことにも理由があるのだろうか。
さて、アジアに住む「元キリスト教徒」が近代以降の日本人であるなら、アジアとヨーロッパ等のキリスト教世界をつなぐ役割を、日本人は担っているのだろうか。しかし残念ながら、今の日本は、アングロサクソンの勢力圏に組み込まれた、偏った民族主義の国である。
また、シュタイナーは、実は、日本から唯物主義的のインパルスがやってくるというようなことも語っているが、現在の日本の姿を見ると、うなずかざるを得ないように思えるのが残念である。本当の日本人の使命は、どこにあるのだろうか?