k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

人間と天使

 このブログでは時に「神々」という言葉が出てくる。

 人智学は、特定の宗教宗派に属してはいないが、シュタイナーの思想の中心には「宇宙的キリスト」論があり、キリスト教にシンパシーがあるのは確かである。そのキリスト教一神教といわれるので、「神々」という言葉は一見ふさわしくないように見える。

 しかし、キリスト教の神はもともと父・子・聖霊の三位一体であり、キリスト教を単純に一神教と断じるのはそもそも微妙だと思うのだが、実は、「神々」という場合の神は、神霊的存在という意味であり、その真実は神のしもべである天使達を含んでのことなのである。

 これは聖書でも見られることで、旧約聖書の創世記には、「神は言われた。“我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・」(1:26)とある。この「我々」という複数形の神は、三位一体の神という解釈も成り立つが、天使達と考えることができるのだ。

 

 突き詰めれば天使を含め存在する万物は始原の神から生まれ出たものである。そこから、長い時間を掛けて今の物質的地球と人間が誕生したのだが、これを始原の神から最も遠い存在とすると、その間にあって、神の創造行為(それは今も続いている)を助けているのが天使達である。そして、天使達にも、その神からの距離により違いが存在する。より神に近い天使と、逆に人間に近い天使が存在するのだ。つまり、その距離により、天使群はいくつかの階層に区分できるのである。

 一般にキリスト教において知られているのは、全部で9つの階層で、それらは、3つの階層が1グループを形成するので大きく3つのグループにくくられている。一番下位の天使が、単に天使と呼ばれる場合の天使存在であり、その直ぐ上にいるのがミカエル、ラファエルなどの大天使である。上位の天使ほど、その「力」はより強大となる。

 シュタイナーによれば、天使は、全ての人間に付き添っているとされ、それがいわゆる守護天使である。

 

 さて、今回は、人智学派の天使論を紹介する。

 『第10の門 Die zehnte Pforte』という本からのもので、著者は、ハルトヴィッヒ・シラーHartwig Schiller氏で、彼は、1947年生まれで、ドイツのハンブルクシュタイナー学校の教師を務めた後、教員養成などに従事した方である。

 以下の文章は、特に人間と守護天使の関わりについて論じた章であるが、その前段に、ディオニュソスの天使論の概説がおかれている。

 ディオニュソスとは、キリスト教の天使論の大本を築いた「ディオニュソス文書」の「偽ディオニュシウス・アレオパギタ」のことである。名前に「偽」と付くのは、この文書の作者は、パウロの弟子のディオニュシウス・アレオパギタとして伝わっているものの、実際には年代的にそれが合わないことから、作者名は偽名とされているためである。

 しかし、シュタイナーは、その真の作者は間違いなくディオニュシウスであるとする。彼こそが、パウロの秘教的教えを受け継いだ者だというのである(パウロ自身もまた秘儀参入者であった)。つまり当初は口伝であったのだ。

 

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天使についての意識、または天使の意識

 ディオニュソスヒエラルキー(階層)論では、階層は3つのオーダーに分かれている。

「第一は、常に神の周囲にあり、伝統的に言われているように、他のものに先駆けて、神と途切れることなく直接的に結合しているものである。聖なる聖典の啓示は、最も聖なる王座(スローン)、ヘブライ語の言葉に従ってケルビムとセラフィムと呼ばれる多くの目と多くの翼を与えられた位階が、そのすべてを包含する近さのために神のすぐそばに置かれていることを伝えたからである。」(ディオニュソス)この3体の位階は、一つのそして同じ階層に属する、本来最初の階層である。これほど神に似ており、原初の神性の直接の放射のもとにあるものは他にない。

 第2の3組は、権力、支配、権威によって形成されるものである。第3の3組は、天界の階層の中でも最後のもので、天使、大天使、権勢で構成されている。

 

【訳注:ケルビム・セラフィム以外の天使名は、単に普通名詞が並んでいるように見えるが、これが天使の種類を表わす名前なのである。聖書にもこのような言葉が使われており、上の訳のような意味で多くは訳されているが、実は、天使を表わしている場合もあるのだ。これらをもっと天使らしく言い表すと次のようになる(名称は他にも色々あるが)。

 上位3隊:熾天使智天使座天使

 中位三隊:主天使力天使能天使

 下位三隊:権天使、大天使、天使    】

 

・・・・・

 人間の天使についての意識と、天使の意識そのものとは区別されなければならない。

薄暮の子、夕暮れの霊、生命の子そして使者などの用語は、2つの領域を指す。それらは、一方では、人間特有の意識とは別の意識を語り、他方では、天使の意識を知っていることを物語る名前である。

 これにより、この2つの方向には、ディオニュソスの「2つの神学」の特徴が表れている。そこには、認識できないものと、理解の手がかりとなるものの両方が含まれている。

 天使は第三階層に属し、霊的存在の階層では人間の一段上である。その上には、第三階層に属する大天使(民族または集団の霊として)とアルカイ(人格の霊)という二つの天使の位階がある。天使たちは、すでに人間の段階、すなわち「自我」または「自我意識」の発達を、古月期で終えているのである。現在、彼らは、彼らの霊我を形成している。古代インドのサンスクリット語でディアニ(ジャニ)と呼ばれる。

 ルドルフ・シュタイナーは『霊的存在の人間への影響』の中で、天使の意識を次のように特徴づけている。「もし今、私たちが、天使の意識はどのようなものか?と問うなら、答えは次のようになる。それは、ある点で高次の意識である。そして、その意識は、鉱物界にまで及ばないという事実によって、高次の意識として特徴づけられるのである。天使の意識は、石のあるところ、鉱物のあるところまでは下ることはない。一方、この天使の意識には、植物的存在、動物的存在、人間的存在、そして、そこでは人間の領域が我々にとってそうであるのと同じ役割を担っている天使自身の領域があるのである。従って、この天使たちも、植物界、動物界、人間界、天使界の4つの領域を認識していると言える。

 これが天使の特徴である。肉体を持たず、そのために肉体の器官もなく、目や耳などもない。そのため、物理的な領域を認識することができないのだ。彼らは、最低の構成要素としてエーテル体を持っている。そのため、植物とある種の類似性をもつのである。だから、植物まで意識で下りてきて、植物を知覚することはまだできるのだ。しかし、人間は、デヴァーチャン状態にあるとき、物理的な平面上に鉱物で満たされている空間を空虚な空間として感知すると説明したのと同じように、彼らは、鉱物があるところで、空虚な空間を感知する。つまり、この天使たちは、物理的な領域があるところならどこでも、空虚な空間を知覚しているのである。一方、彼らの意識は、人間の意識がまだ到達していないところにまで達しているのである。

 『人間と人類の精神的な導き』では、この記述にもう一つ、最初は不思議に思える側面が補足されている:

古代エジプト人は、神や天使、あるいはディヤニ的な存在と呼ばれるものとのつながりを、指導的な人物たちが生き生きと意識していた、そんな状態をまだ覚えていたのです。それらは、エーテル体で、霊視できる人たちだけに現れることができたのです。そして、彼らは、霊界から地上に降りて現れ、アトランティス後の時代でも地上を支配していたのです。

 これらの存在には、考える必要がないという不思議な性質があり、それは現在でも変わっていません。人間はどのように考えるのでしょうか?多かれ少なかれ、ある地点から出発して、これこれこういうことがわかったから、今度はそこからいろいろなことを理解しようというふうになります。これが人間の考え方でなければ、通学路もいろいろと大変なことにはならないはずです。人は、数学を、あるところから始めてゆっくり進歩させなければならないので、一夜で身につけることはできないのです。それには時間がかかります。人間の思考は時間の中で動いているので、一目で、思考の世界を全部見ることはできません。思考の構造は、魂に一挙に存在するものではありません。思考の歩みを見つけるためには、探さなければならないし、努力しなければならないのです。先に述べた存在には、人間のこのような特殊性はありません。そうではなく、たとえば動物が、本能で目の前に食べられるものがあるとわかると、それに食いつくというような速さで、より広大な思考構築物が彼らの中に起こるのです。本能と思考の意識は、これらの実体においては、何の違いもなく、同じものです。動物がそのレベル、その領域で本能を持っているように、ディヤニ的な存在や天使達は、すぐに霊的思考、すぐに霊的表象をもつのです。この本能的な表象の内面ゆえに、人間とは本質的に異なる存在なのです。」

 民族的記憶では、「守護天使」は人間個人に属する守護霊で、危険な状況下で人間を守ってくれるという知識が長い間保存されてきた。

 ルドルフ・シュタイナーが言及した、まだ神々が人間の間に住んでいた頃の古代エジプトからの報告に対応する天使の描写は、前8世紀のサルゴン2世の宮殿にあったアッシリアの石造レリーフに示されている。

 聖書では、この支配者は、預言者イザヤによって「アッシリアの王サルゴン」として記憶されている。彼の恥ずべき死は、イザヤが伝えたあざけりの歌に歌われている。「主は悪い者のつえと、支配者の笏を折られた。彼らは憤りをもってもろもろの民を絶えず撃っては打ち、怒りをもってもろもろの国を治めても、そのしえたげをとどめる者がなかった。世界全体が静まり返り、静かになった。彼らは喜びを爆発させた。レバノンの糸杉もあなたのことを喜んだ。あなたがそこに横たわってから、だれも私たちを倒そうとはしない。下界の死者の国は、あなたとあなたの来訪のために震え上がった。あなたのために、死者の霊、地のすべての支配者をよみがえらせ、その座からすべての国の王をよみがえらせた。彼らは皆、あなたに答えて言う。『あなたもまた、私たちのように無力になった。』あなたの高慢と琴の音は、冥界に落ちた。あなたの下にはウジがひろがり、あなた覆うのは虫である。あなたは、いかにして天より落ちたのだ、輝ける者よ、あなた、曙の子よ。もろもろの国を倒した者よ、あなたは地に投げ落とされてしまった。」

 イザヤの非難は、多神教から一神教に移行する時期のものである。サルゴンが求めた神格化は終わりを告げた。神は今後、人間の中で語り、聞こえるようにならなければならないからである。この点で、自分の人生の物語を注意深く探せば、誰もが今日、自分の天使との出会いを見つけることができるのだ。

 グリム童話には、そのような体験の証言が見いだせる。いわば、それらは、過渡期由来のものである。雪白と薔薇紅の物語がそれを物語っている。

「ある家に一人で貧しいやもめが住んでおり、その庭には2本のバラの木があり、1本は白いバラ、もう1本は赤いバラがついていた。彼女は、2本の薔薇の木に似た二人の子どもを持っていた。二人の娘はそれぞれ「白雪」と「紅薔薇」と名付けられた。しかし、二人はこの世に二人しかいないような、敬虔で善良で、勤勉で辛抱強い子供たちだった。小さな白雪は、紅薔薇より静かで優しいだけだった。紅薔薇は草原や野原を飛び回って花を探したり、夏鳥を捕まえたりするのが好きだったが、白雪は家にいて母親の家事を手伝ったり、何もすることがないときは本を読んであげたりしていた。白雪が『私たちは離れたくない』と言うと、紅薔薇は『私たちが生きている限り、離れたくない』と答え、母親は『片方が持っているものは、もう片方に分けてあげなさい』と付け加えた。

 しばしば彼女らは二人で森をさまよい、赤い実を集めたが、動物は彼らに危害を加えず、親しげにやってきた。ウサギは彼らの手からキャベツの葉を取り、鹿は彼らのそばで草を食べ、鹿はかなり陽気に飛び跳ねて通り過ぎ、鳥は枝に座ったまま、彼らが知っていることを歌ったのだ。森で迷って夜になると、苔の上に横になり、朝が来るまで寝ていた。母親はそれを知っていたので心配しなかった。あるとき、森の中で一夜を過ごし、夜明けに目が覚めると、ベッドの横に白く輝くドレスを着た美しい子供が座っていた。それは立ち上がり、親しげに二人を見たが、何も言わずに森に入っていった。そして、周りを見渡すと、断崖絶壁のすぐそばで寝ていて、暗闇の中、あと数歩進んでいれば確かに落ちていたのである。しかし、母親は『きっと天使が良い子たちを守ってくれているんだよ』と言った。」

 そんな守りが、人生では現実に起こるのである。それは美しいイメージとしてではなく、現実の出来事として現れるのだ。

 夏の暑い日、10歳くらいの男の子が自転車に乗って近くの水浴び場に向かっていた。兄は友人を連れて先を急いだが、年長者である彼らは自分の用事があるからだ。若い方が池に着くと、向こう岸で二人の友人がすでに話に花を咲かせていた。

 なぜ、彼は、そこで止まらなければならなかったのか?

 そこで、自転車を止め、海水パンツをはいて、海に飛び込んだ。泳げないからこそ、慎重にやったのだ。

 しかし、彼は、やんちゃで、水に飛び込むのが大好きだった。そこで彼は、走りながら水に飛び込めるように、岸辺を伝ってより深い池の方向へと進んでいったのだ。そうすると、彼は大満足で、どんどん深みにはまっていくのを感じた。そして、ついに自分にぴったりの場所にたどり着いたのである。それを存分に楽しむために、彼は上手に駆け上がり、岸まで走り、両手を広げて水面に向かって飛んでいった。

 水面に向かって その勢いを生かすために、できるだけ長く水面を滑るように走った。ついに立ち上がった彼の手足に恐怖が走った。足が底ついていないのだ。池の底が真ん中に向いて、水深が深くなっていた。波が頭上で砕けた。見上げると、暗い鐘の中に自分がいる。頂上に向かって光で照らされているが、はるか彼方で手が届きそうもない。

 友人たちは、彼に気づいていなかった。誰も彼のゲームについていけなかったのだ。誰も彼を助けてはくれない。溺れるとは、そういうことだった。彼は必死で解決策を探した。そして実際、彼の脳裏には「底まで沈んでから、足で押し出せばいいんだ」という考えが浮かんだ。その勢いで水面まで到達しようとすると、息を整えて再び沈んでいく。そして、水面下で岸に向かって一歩踏み出し、再び体を押し上げる。こうして、あなたは救われるのだ。

 作戦は成功した。岸に戻ると、彼は仲間のところへ行った。何も気づかず、邪魔をされたくないと思ったのだろう。この時のことは、この少年の秘密のままである。

 その時、彼は、「ああ、これだ!」と、稲妻のような衝撃を受け、一瞬にして状況を把握したのである。水の力、重力の力、浮力の力、傾斜面の滑走の力、これらすべてが事態の解決を一瞬にして可能にしたのである。

「思考の構造 は、魂に一挙に存在するものではありません。(中略)より広い思考の構築物が、たとえば動物が目の前に食べられるものがあると、それに食いつきたいという本能に気づくのと同じ速さで発生するのです。本能と思慮豊かな意識は、何の違いもなく、同じものです。動物がそのレベル、その領域で本能を持っているように、このディヤニ的な存在、天使は即座に霊的な思考、霊的な表象をもつのです。」

 このことに少年が気づいたのは、何年も後のことだった。最初は、彼にとり、特別な体験というだけであった。また、液体を吸い込むと永久に声門が痙攣し、死に至ることがあり、そのため彼にはあまり時間がなかったということも学んだ。

 別のケースでは、2人の学生が、ヒッチハイクで長旅をしていた。第一段階の後、数時間は接続が見つからなかった。交通量は少なかった。待ち合わせの場所を通過する車は少なくなった。

 そして、ついに2人は、トラックのドライバーに声をかけることにした。あるドライバードライバーは、不機嫌な様子だった。行き先は言わず、若者の行き先を知りたがった。乗せるかどうか迷っていたのだ。所定の休憩所で、他のドライバーも巻き込んでピリピリした雰囲気を漂わせた。

 学生たちは嫌な予感がした。やっとの思いで目的の方向に連れて行くと申し出たこの男の行動には、何か隠れた意図を感じた。そこで、二人は人目のつかない場所に退避した。男が去るのを待ってから、また立ち去ろうと思ったのだ。

 しかし、しばらくすると、指示した方向とはまったく違う方向に車が通過していったので、驚いた。彼らは、自分たちの漠然とした思いに耳を傾けたことを喜んだ。

 ガブリエルは、ミカエル、ラファエルとともに、キリスト教の、しばしば歌で讃えられ描かれた大天使の一人で、金色の背景で強調されていることで知られている。この神の使いは、聖母マリアに神の子を産むことを約束する。この国ではあまり知られていないが、彼はイスラム教でも仲介者として採用されていた。"ガブリルはモハメッドにコーランの最初の啓示をもたらしたのである。預言者の妻であるハディタが、キリスト教徒の従兄弟にそのことを話した。彼は、かつてモーゼの前に現れた「偉大な親しい友」と同じ人物であることを説明した。

 一神教がこのような高い存在を想像する力は、コーランの別の物語に見ることができる。モハメッドは、ガブリエルの抵抗にあい、ガブリエルの真の姿を見ようとした。ガブリエルが天国の姿で現れたので、預言者は気絶した。大天使は、美しい男の姿で、3つのスーラに書かれているように、「明瞭なアラビア語」で彼にアッラーの啓示をもたらしたのである。

 同じ写本は、別の絵で、ムーア人の印象を持った天使を描いており、それにより、個別で、人種や宗派を超えた、天使の活動領域が示唆されている。

 

 

人間と天使

 1919年の「人間学講座」の開始については、すでに前述したとおりである。その頃、ルドルフ・シュタイナーは、最初のウォルドルフの教師たちに、天使が近くにいることに注目させた。彼は、彼らの仕事ぶりを説明することで、彼らの活動が教職にとって重要であることを明らかにした。

 最初の教師の一人であるヘルベルト・ハーンは、何年も後にシュタイナーの言葉を次のように伝えている。

「生まれつつある教師陣の個々のすべてのメンバーの背後には、天使が立っているのが見えます。保護を託された地上の人間の頭に、両手を置いています。そして、この姿勢と身のこなしで、力を送るのです。それは、やるべき仕事に必要なイマジネーションの力を付与する力です。創造的にイマジネーションし、力強くイマジネーションの力を呼び覚ます天使は、こうして個々人の背後に立っているのです。」

  このとき、教育的文脈における天使の活動への言及がなされた。その1年前の1918年10月9日、チューリッヒでシュタイナーは、「天使は私たちのアストラル体の中で何をしているのか」というテーマで、一般的な人間の視点を交えた講義を行っている。その中で彼は、彼らの仕事の性質と内容に関して、広範囲に及ぶ示唆を与えている。

 彼は、「時代のしるし」に目覚めるようにという呼びかけを通して、人間の生活において払われなければならない天使の影響について特別な注意を向けさせたのである。

 その際には、現在の人間の素質は、意識魂の発達した時代には、過去の発達期の性質と大きく異なっていることを考慮しなければならない。

 惑星期の一連の発展は、人間が誕生する際の高次のヒエラルキー達の協働によって特徴付けられる。このことを知ることが、抽象的な知的論争にならないためには、人間とヒエラルキーとの関係を、実際的かつ具体的に探求されなければならない。

 人間に最も近い高次の存在はアンゲロイ(天使)であり、自我の意識力に対して最もアクセスしやすい人間の構成要素はアストラル体である。これらの事実は、アストラル体における天使の活動という問題を、現実的で同時にかつ難しいものにしている。

 以前は、古い霊視の霊感は、アストラル体における天使の行いを意識的に観察することを遮るで、この質問をすることができなかった。

 これは、現代は異なっているが、天使の活動を意識的に意識するためには、ある種のイマジネーション的な認識能力が人間に備わっていなければならない。今日、天使の階級の存在が人間のアストラル体にイメージ-つまり「全く特定の衝動に基づき、全く特定の原理に従って形成される」イメージ-を形成していること、これらのイメージの生じ方に人類の将来の発展のための一定の力が存在していることが、注意深い人間には示され得るのである。天使達は、人間のアストラル体の中に、「将来、人間の共存における全く特定の社会的状態をもたらす」ようなイメージを作り出そうとしているからである

 このイメージ形成には、物質生活における社会的状態に関する正しく理解された友愛への衝動が含まれている。例えば、未来の人は、自分のそばにいる他の人が不幸であれば、幸福を享受して安らぐことはない。我々の時代は異なるメッセージを信奉し、最貧困層と超富裕層の間の格差が絶えず拡大しているにもかかわらず、長期的にはこうした状況が暴力と動乱をもたらすに違いないという一般的な確信が高まっている。

 しかし、天使たちは、より大きな目標を追っている。人間の精神生活に関して、将来的にはすべての人間が、すべての人間の中に隠された神性を見るようにならなければならないと促しているのだ。「そうなれば、宗教的強制はなくなるでしょう。その必要がなくなるのです。そうなれば、すべての人間とすべての人間との出会いは、はじめから宗教的行為、聖餐式となり、誰も、物理的次元に独自の施設を持つ特別な教会を通じて宗教生活を維持する必要はなくなるのですから。」

 ルドルフ・シュタイナーは、この徹底した宗教擁護の語りをもってして、組織的な公式キリスト教の代表者たちの間に友人を作ることはできなかった。なぜならこの真実は、見かけの黄金と真の黄金を分ける実際の分金液だったからである。

 そして3つ目は、天使の衝動にある。彼らは人間の思考に、霊に到達する可能性、深淵を越えて霊的な体験をする可能性を与えたいと考えているのだ。

「霊には精神科学、魂には宗教的自由、肉体には友愛、これらはすべて人間のアストラル体で、天使の働きによって世界音楽のよう響いているのです。」

 意識魂の特性は、この天使の衝動を、アストラル体の中で自主的に見いだせることにある。人間はこれを、自分自身の真の存在に近づくこととして経験する。

 もし人間が、天使を通してアストラル体のこれらの刺激に対して眠ったままでいるなら、獲得すべきものは、彼の自由な協働なしに、意識的には眠っているアストラル体と肉体への影響を通して達成されなければならないだろう。発展の目標が、より高次のヒエラルキーの働きの中に創造衝動として横たわっているからである。発展は、文化的に自律した過程ではなく、本性的に強制される経過になった

 その結果、人間の自由ではなく、本能的な反応パターンが現れ、発展の目標が失われ、天使自身もその結果、問題ある変化を受けることになったのである

 このような状況下では、生命と誕生、妊娠、受胎そして性生活の領域における知識は、有害で破壊的なものにならざるをえない。自己の存在の微妙な楽しみ、個人的な快楽や自己実現の過剰な楽しみの中に、社会生活の破壊の種が、友愛の衝動に対する抵抗として隠れているからである。自分の愉悦感覚が、仲間との互恵的体験以上に、あまりにも好ましく見えてしまうのである。

 単に外的に記述する科学は、記述上のこの発展を必然的なものと見なす。プロセスを登録し、それを自然なものとして記述することで十分だからである。最終的には、無関心に記述し、事実を「客観的に」受け入れようとする、没価値的記述として、その任務を理解しているのだ。

 また、医療現場での意識が欠けていることの否定的結果として、「健康」「病気」という概念の見直しが挙げられる。病人の世話は装置で、毒物は延命を刺激する機能を持ち、死体は再利用可能な「リサイクルヤード」として機能しているのだ。

 第三の問題は、超感覚的な領域への侵入として現れる。そこでは、ネットワーク化、振動、分割によって、その使用による結果が明確でないまま、人間のエゴイズムに奉仕し、享受されうる巨大な力が解き放たれているのだ。「人類に有害な薬、性的本能の恐ろしい異常、精神的力による自然の力を利用した純粋な世界機械の恐ろしい機構が来たとしても、霊的でない生の捉え方では、これらすべてを見抜けず、真の道からいかに逸脱しているかがわからないのです。(中略)それは憎むべきものであり、ある点ではすでに憎むべきものであるが、人はそれについて何も気づかないでしょう、なぜなら人はすべてを自然の必然として見るからです。しかし、それは、人類において、人間の固有の本性に定められている道から逸脱することになるのです。」

 この考察の最後に、シュタイナーは、単純な努力によってアストラル体の覚醒を促進することができる修練に言及している:

「私たちは、目覚めた人間になることを習慣にすることができます。私たちは、いろいろなことに気を配ることができます。私たちは警戒することで直ぐに始めることができます。私たちの生活の中で奇跡が起きない日は、基本的にないことに気づくことができます。今、私が話したこの文章をひっくり返して、こう言うこともできます。“もし、ある日、私たちの人生に奇跡を見出せなかったら、私たちは奇跡を見失ってしまっただけだ”と。- 夕方に、自分の生活を一度振り返ってみてください。すると、その中に大なり小なりあるいはその中間くらいの、それは私の生活に奇妙にも入り込んだ、全く奇妙に起きたと言えるような出来事があるはずです。- 幅広く考え、魂の目で人生の相互関係を総合的に把握しさえすれば、それができるのです。人は、しかし、普通の生活ではそんなことはしません。なぜなら、普通、“例えば、何かによって何が防がれたのだろう?“とは、問わないからです。

 ほとんどの場合、私たちは、それがもし起きていたら人生が大きく変わっていたであろう、未然に防がれた事柄については気にしないのです。これらの、ある意味私たちの生活から切り離されたものの裏には、私たちを注意深い人間へと教育するものが膨大に存在するのです。今日、私に何が起こったのだろう?- 毎晩、この問いを自分に投げかけ、その結果、こうなったのではないか、ああなったのではないか、と個々の事象に目を向けると、その問いは生活の観察につながり、それは、自己規律に注意深さもたらしてくれるのです。これは、始まりとなりうるものであり、自ずと延々と先に進み、最終的に、例えば、午前の10時半に出かけようとしたら、最後の瞬間に誰かがやってきて、それを止めたということが、私たちの生活において何の意味があるのかを見いだすことに私たちを導いてくれるものなのです。私たちは、彼により止められたことに腹を立てますが、本当に計画通りのタイミングで出かけていたらどうなっていたかは問わないのです。

 私たちは、何が変わったのかを問わないのです。」

 古代において、人間は古い霊視力によって天使について多くのことを知っていたが、現代の意識の発展、テクノロジー、世界理解の合理化(分析的悟性、教化)によって失われてしまったのである。

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 人は、自分一人で生きていると思っているが、実は、見えない人生の伴侶が常に見守ってくれているのだ。人生には幾つもの岐路が存在しており、何気ない偶然が人生を大きく変えることもある。偶然とも認識されない本当に些細な出来事も含めて、それは天使の采配であるかもしれないのだ。

 いわゆる「運命」を感じることが、天使認識の第一歩かもしれない。

 しかし、守護天使がいるのに、なぜこんなに不幸ばかり起きるのかというような疑問を持つ人もいるだろう。しかし、守護天使の役割は、その人間がその人の人生の課題を全うするのを助けることであり、その人がこの世で権力やお金を得ることではない。そして人生の課題とは、カルマの法則の下に霊的進化を目指すことであろう。そのカルマによっては、人生の苦難が必要となることがあるのである。

 

 さて、上の文章では、人間のアストラル体での天使の活動が語られている。現代人にとって、これは大変重要な問題であるようである。それは本来、来る次の時代に向けてなされていることだが、それに人間が無意識のままであれば、かえって否定的、破壊的な結果を生んでしまうのだ。人智学が生まれたのは、このような背景もあったのであろう。

 洗礼者ヨハネは、「目覚めよ」と語ったが、それから2000年を経て、再び人類の目覚めが求められているのだ。