k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

仏教の霊的基盤


 このブログでは、これまで何度か仏教とキリスト教の関係について触れてきた。キリストの地上への受肉ゴルゴタの秘儀)に際し、仏陀が霊的に参与していたこと、また逆に大乗仏教の誕生は、キリストのゴルゴタの秘儀が契機となっていることなどである。

 仏教であれキリスト教であれ、この宇宙の源でもある、同じ一つの霊的世界を源泉としている。従って、様々な宗教も、この霊的世界が、それぞれの地域や時代に応じて現われたものであり、そのおおもとは同じはずである。シュタイナーの霊学(精神科学)は、こうした立場で、諸宗教を把握し、それらの関係について理解するための示唆を与えている。

 仏教とキリスト教の関係について、日本において研究を進めた方に、人智学者の西川隆範氏がおられる。残念ながら故人となってしまったが、生前には沢山の人智学関係の著作を残された。

 

 宗教は、神霊的存在を信仰あるいは崇敬の対象としている。諸宗教の根本は同じと言うが、それこそ宗教によってその対象は異なるという指摘もあろう。だが、実際はどうであろうか。

 世界宗教に限って考えれば、先ずキリスト教イスラム教(そしてユダヤ教も)については、イエス・キリストの捉え方に違いはあるが、「唯一神」としてのエホバ(ヤーヴェ)を共に崇拝している(秘教的理解ではエホバは天使存在であり、実際はそう単純ではないが)。では、残るもう一つの世界宗教である仏教では、どうであろうか。

 仏教にも色々宗派があり、神霊存在の捉え方にも相違がある。そもそも仏教は、「神」を信仰していないという主張もあるだろう。だが、時代的経過を見れば、大乗仏教の誕生なども契機として、ゴータマ仏陀以外の「神霊的」仏陀、菩薩達が信仰されるようになったと言えるだろう。大日如来阿弥陀仏文殊菩薩弥勒菩薩等々、日本においてもなじみのある仏様達である。また仏教を守護するという12神将などの「天部」はまさに「神々」である(ただしその実体はおそらく天使的存在と思われる)。

 これらの仏様達は、明らかに非キリスト教的であるように見える。では、仏教は、やはりキリスト教とは全く異なる神霊存在を信仰しているのだろうか?

 この問題を解く一つの解釈は、仏教の説く神霊存在は、アジアにおける諸民族の民族魂的存在とすることである。だが、秘教的理解では、至高の神以外の神霊的存在は、ヒエラルキー存在つまり、それぞれ階層の異なる天使達にほかならない。一つの民族あるいは時代を導く神霊存在、それも天使なのである。そしてキリスト教において、ヒエラルキーは9種類に分類されている。9種類の天使群が存在するのだ。

 とすれば、このヒエラルキー存在の観点から、仏教の神霊存在とキリスト教のそれとの対応関係を考えることができるだろうか。

 西川隆範氏は、『仏教の霊的基盤』という著書の中で、この対応関係に触れておられる。この本は、隆範氏としては初期の時代の著作だが、副題にあるように「神秘学の観点から仏教の本質と未来を探求」したものである。

 この本の「七 天・明王・菩薩・如来」の章で、西川氏は次のように説明している。

 

 「仏教の世界観では、宇宙の構造は、欲界六天、色界十八天、無色界四天から構成されている。(注:欲界は、最下層の霊的世界で、欲望の支配する地獄や人間界を含む世界であるが、『六欲天』の場合は、欲界に属する人間に近い神霊存在の世界を指す。同様に、色界、無色界もそれぞれに多重構造をなしている。)」

 そしてヘルマン・ベック(人智学派の仏教学者)によれば:

「これら世界領域のそれぞれには、その世界領域に相当する一種の生類が属している。いやそれどころか仏教の立場からすれば、実際のところ、その世界領域は、その様な霊的生類のみで構成されているにほかならない。」

「瞑想者は、それに該当する段階において、いわばそれらの神々の意識に沈潜する」

という。

 つまり、仏教の説く宇宙の構造をなす霊的世界のそれぞれの領域は、霊的存在自体がその領域の実体を成している、それぞれに属する霊的存在達によって構成されているということであり、それぞれの領域に意識を高めると言うことは、それぞれに属する霊的存在の意識に入り込むと言うことであろう。

 そして、西川氏は、欲界に始まる天界の位階の基本をなす9つの領域を示し、それに対応するキリスト教ヒエラルキー存在を次のように挙げる。

 

四王天四大王衆天] = 天使

忉利天 = 大天使

夜摩天 = 権天使(アルカイ)

兜率天 = 能天使(エクスシアイ)

化楽天 = 力天使(デュナメイス)

他化自在天 = 主天使(キュリオテテス)

梵衆天 = 座天使(トローネ)

光音天 = 智天使(ケルビム)

浄居天 = 熾天使セラフィム

 

 このように仏教の説く霊的領域とキリスト教ヒエラルキー(天使)の対応関係が挙げられているのだが、西川氏は残念ながらこの文章において、このように説明する根拠を示していない。ただ、この説明の中にヘルマン・ベックの名が出ているので、ベックの著作にそれを求めることができるのかもしれない。
 ヘルマン・ベックというのは、ドイツの高名な仏教学者で、後にシュタイナーの指導の下にできたキリスト者共同体の司祭となった人物である。
 そこで、私は、ヘルマン・ベックの本を当たってみることにした。彼の『仏教』という著作が日本の仏教学者、渡邊照宏氏により翻訳されており、岩波文庫になっている。若い頃に一度読んだことがあるのだが、面白かったという記憶があるだけで内容はほとんど覚えていない。
 しかし、その頁をめくってみると、若い頃に、その本の文章に傍線を付していた箇所が出てきた。その先をずっと読んでいくと、何と、上の文章に該当する部分があったのである。若い頃に啓発された文章に、また引き戻されたという次第である。
 さて、ベックの説明は、仏教経典を根拠として、仏教では「上位にあるこれらのものたちが本来の意味における神々の序列であり、・・・原則として9序列に区分される。それは下から・・・」と述べて、上述の四天王にはじまる9つの序列を列挙するのだ。しかし、それがキリスト教の天使のヒエラルキーに相当するとは書いていない。
 従って、両者に対応関係を見るのは、西川氏個人の考察であるのかもしれない。ただ、ベック氏にしてみれば、この著作は一般人に向けた仏教の解説書であるので、ここでそうした説明を加えるのは不適切であると判断したとするなら、それも当然のことである。ベック氏が、両者の関係を意識していなかったとは言えないだろう。
 西川氏の説明は、あるいは、ベック氏を含む人智学者の他の研究に基づくものかもしれない。引き続き、私としても探してみたいと思っている。

 さて、ウィキペディアによれば、四王天あるいは四大王衆天には、四天王が住み、忉利天には帝釈天ヒンズー教のインドラ)が住む、四天王は帝釈天に仕えているという。ここに、天使と大天使の関係を見ることはできるが、疑問に思うのは、仏教の四天王とは4柱の神、帝釈天は1柱の神であることである。例えば天使であれば、人間の守護天使となるので少なくとも人間の数ほど存在するはずであるが、それが4柱の神であるというのはどう理解すれば良いのだろうか。

 また実は、仏教の世界観はもっと複雑で、霊的世界も、上の説明よりもっと多くに分かれている。上の○○天がどうして選ばれたのかも説明がないため、自分の現在の知識では解説が出来ない。さらに研究が必要である。言えるのは、ただ、仏教の「○○天」というのは、前述のように霊的世界の一領域を表わしており、それらに天使、大天使など霊的存在者達が属するという考え方があるというのみである。

 西川氏は、前掲書で、「インドの叡智は天動説にたって、地球領域を越えた欲界を月領域、金星領域、水星領域、太陽領域の4領域からなるものとし、色界初禅天(注:兜率天含む)を火星領域、二禅天(注:光音天を含む)を木星領域、三膳天を土星領域、四禅天(注:浄居天含む)を恒星の領域としている。」と記している。

 これは、神秘学あるいは秘教的キリスト教の教えも同様で、やはり地球を宇宙の中心に置いた天動説的世界観に基づいて(シュタイナーは、秘教的世界観によれば、地動説ではなく、天動説が正しいとする)、天使は、月下の世界、つまり月領域を支配しており、以降、上位の天使群ほどその支配領域が大きくなり、セラフィムは恒星天までを支配領域としているとするのである。

 このようなことからも、西川氏においては、仏教の各世界領域がキリスト教ヒエラルキーとの対応関係のもとに理解されていたことがわかる。

 

 ところで、仏教で言う「神」とは、仏陀に仕える神的存在である。仏教学的には、「仏教以前にインドで信仰されていた神々が仏教に取り込まれたもの」ということになるようだが、そもそも仏陀とは悟りを開いた「人間」を指す。とするなら、ここでは、人間と神的存在の上下関係が逆転しているのではなかろうか。このことも、実は、神的な菩薩(菩薩とは本来仏陀になる前の「人間」である)が存在することとあわせて、長らく私には疑問に感じる点であった。

 もちろん、ここでいう神は、キリスト教的な至高神とは異なるだろう。キリスト教的理解では、その神に仕える天使的存在ということになる。

 しかし、そうであっても、ヒエラルキー的には人間の上にたつ天使が、人間のしもべとはいかなることだろうか。

 このことを理解するうえでも、以前このブログで触れた「菩薩問題」の理解が役立つようだ。

神智学と再臨のキリスト、そして菩薩問題 - k-lazaro’s note (hatenablog.com)

 それは、菩薩と言っても、それには人間の菩薩とそれに霊感を与える神霊的菩薩の二種類が存在するという事である。そしてこれは、仏陀においてもあてはまるのである。仏陀は、菩薩がいわば一段上の位に昇った存在である。同様に、仏陀を指導する神霊的存在は、菩薩の神霊的存在よりも上位に位置する存在となるのである。

 このことからすれば、仏陀(の神霊的存在)に仕える神霊的存在=神(大天使に対する天使)も存在するといえるのである。

 実際には、「菩薩」や「仏陀」にも、また「神」にも、もっと多様な存在が意味されている場合があるだろう。そうであるなら、事態はもっと複雑になるが、上の理解が基本となるようには思える。

 

 話は逸れるが、以上からすると、諸宗教において神とされているものが、その実体は天使であるという場合があることが分かってくる。聖書に出てくるエホバやエロヒムという名の「神」も実は天使存在であることは既に触れたことがある。

 そして、ギリシア神話の神々も天使的存在であると、シュタイナーは、語っている(『シュタイナー・コレクション 4 神々との出会い』高橋巌訳)。ギリシア神話の神々は、人間と同様な欲望を持ち、誤りも犯す『人間らしい』存在である。その神々は、人間に近いヒエラルキー存在であるならば、そのようなことも理解できるかもしれない。

 また、「人間の直ぐ上に位するヒエラルキー存在たちも、人間と全く同じように、地上で進化を遂げるように努力している、とギリシア人は考えていました。・・・ギリシア人の神々は、エジプトやペルシアの神々に比べると、自分の進化のために努力するあまり、・・・人間にかまけていられなかった」。だからこそ、「ギリシア文化という、神々から自立した人間的な文化が生じた」というのである。

 エジプト時代に比べ、ギリシア時代は、人々の霊的認識は薄れていったとされる。神霊存在と人間が疎遠になったのである。人間的なギリシアの神々はその反面として現われたものであったのだ。

 このようなことからわかるのは、時代や民族の違いにより、神々の現れ方も異なるということだが、それはやはり人類の霊的進化の段階に応じたものであるということである。

 そしてまた、人間と同じように、神々(神霊存在、ヒエラルキー存在)も進化していくということである(本来の進化の道をはずれる悪魔的神霊も存在する)。更に言えば、同じ人間でも、一方に秘儀参入者のように、通常の人間より先を歩んでいる人々がいるように、同じ天使でも、他の天使よりも先を歩んでいる(より早く進化している)天使がいるということなのだ。人々から神と崇められるような天使は、通常の人間の守護天使ではなく、そのような天使ではなかろうか(秘儀参入者のような人々の守護天使はまた一般の人の守護天使とは異なる。大天使に近い存在である)。

 

 ここで話を本来のテーマに戻すと、仏教の教えによれば、通常の人間(凡夫)と異なり、菩薩は修行を通して悟りを約束された人間であり、仏陀はその悟りを得た人間である(もはや輪廻からは脱している)。そして、シュタイナーによれば、それぞれに、人間の直ぐ上の位に位置するヒエラルキー存在である守護天使がついている。菩薩、仏陀にも天使が付き添っているのである。

 だが、仏陀とは、もはや地上に転生せず霊界から働くことができる存在である。ということは、もはやそれまで付き添っていた天使も役割を終えることになるのである。具体的に言えば、釈迦仏陀守護天使は、もはやその役割を終えているのだ。そして、そのことにより、天使の上の位、大天使の位に昇ることができるようになったのである。これが神々の進化の一例である。

 

 さて、今回、議論してきたのは、大日如来阿弥陀仏文殊菩薩弥勒菩薩等々の仏教の神霊的存在達は、キリスト教ヒエラルキーと同じ存在であるかと言うことであった。その答えは、以上のことからすれば、肯定的なものとなるだろう。しかし、具体的個別に、それぞれの仏、菩薩をどのヒエラルキー存在かと同定することは、今は困難である。

 私自身はそのような知識を持ち合わせておらず、今のところ、それをテーマとした書籍も、西川氏の本以外に見いだせていない。ただし、いわゆる人智学派の「菩薩問題」をテーマとして、その中で、文殊菩薩弥勒菩薩等について論じた本が、ドイツの人智学者から出されている。アジア人としても大変興味深い内容であるので、いずれ紹介したい。

※この原稿を脱稿した後、たまたま西川氏の著作『シュタイナー仏教論集』(アルテ刊)のページをめくっていたところ、「ベックは、『涅槃教』を独訳したとき、その脚注で、これらの9つの天とキリスト教の9位階の天使との対応をしさしている。」と言う文章に巡り会った。やはり、西川氏の記述の根拠はベック氏にあったのである。
   そこでベック氏の『涅槃教』の著作(英語版)を見てみると(既にこのブログで紹介済であったが、この時には気付かなかった)、脚注に次のようにあった。

 「パーリ語で”33の神々【忉利天】”。これは、9位階の第2の者、それを指揮するのはインドラ-即ち民族魂でもある大天使のヒエラルキー-である。仏教における9位階の名は、『仏教』を参照。」そして、
 「本来、インド人は、”4人の偉大な王”(あるいは”世界の守護者”【四王天】)を最も下位のヒエラルキーとして、”大天使”については”33の神々”-それを指揮する者はインドラ、ドラゴンを退治する者、インドのミカエル-として語っている。」

 これらからすると、ベック氏がここで個別に同定しているのは、天使と大天使のみであるが、全部で9位階としていることから、天使の9位階が想定されており、他の7つのヒエラルキーについても、西川氏が示すように同定されると示唆されるのである。