k-lazaro’s note

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シュタイナーの社会三層化論

シュタイナーによる社会三層化講演会のポスター 1919年

 今回は、このブログで初めて取り上げるテーマになると思うが、シュタイナーの社会論を紹介したい。
 シュタイナーは、今後の人間社会のあるべき姿として「三層化」された社会を提唱した。このためこの思想は「社会三層化論」と呼ばれている。これが提起されてのは、第一次世界大戦後のことで、ドイツ社会が混乱に陥った中で、そのことを契機として理想の社会を築き上げるためであった。
 それは、社会を一つの有機体と捉え、人とのアナロジーから、人体が 頭部系 ・ 胸部系 ・ 四肢系 に 三分節されているように、 社会も三 つの部分 、 精神 文化領域 ・政治 法領域 ・ 経済領域の三つの部分に分節化され 、それらが独立しつつ連携しなければならず、精神 文化領域 では自由、政治 法領域 では平等、経済領域 では友愛の原則が支配しなければならないとするものである。

 今回紹介する記事は、バレンティン・ヴェンバーという方の三層化に関する本のブックレヴューで、『ヨーロッパ人』誌2023年3月号掲載のものである。ヴェンバー氏は、ドイツ・クレーフェルトに生まれ、シュタイナー(ヴァルドルフ)学校で学んだ。その後、文学や哲学、教育学を修め、倫理と美学の博士号を取得している。人智学協会の青年部門で仕事をしたこともあるが、2012年にシュトロス出版を設立し、以来、米国、アジア、アフリカ、オーストラリア、ヨーロッパで教師のトレーニングと組織開発に取り組んでいるという。

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ブックレビュー

ヴァレンティン・ヴェンバー:「社会三層化」

 2022年末、ヴァレンティン・ヴェンバーは小冊子『社会三層化Dreigliederung(Threefolding)』を出版しました。これは、副題にあるように、グローバル社会の健全な組織に関するルドルフ・シュタイナーの発見を、最新かつ一般的に理解できるように紹介するものです。彼は、現代の荒波をよりよく理解し、より目的を持って行動できるようになるために、この本を書きました。彼は、十分な根拠を持って、ルドルフ・シュタイナーが100年前にすでに、最も多様な危機の深い理由を明らかにしたと確信しています。本書は、ただ、彼の最も重要な発見を辿り、現在の出来事に照らして説明し、現代の言葉に置き換えることを行なっているのです。

 社会組織の三層化に関する思想は、一般市民にも多くの専門家にも、今日ほとんど知られていません。ヴェンバーの意見では、それゆえ、多くのことがこの変化にかかっています。必要なのは、最低限の公平さ、認識するための一定の勇気、そして、ある考えや別の考えがこれまでの考えと根本的に異なる場合に過度に恐れを抱かないこと、といったいくつかの前提条件だけです。本書は、知識に対する好奇心が、自分の考えが正しいと考える無意識の欲求よりも大きい人たちを対象としています。

 

入門的な質問と予備的な考察

 序文で述べられたこれらの目的は、本書のコンセプトの中で完璧に実現されています。ヴェンバーはまず、文明の現状について重要な問いを投げかけ、読者に考えさせる方法を知っています。彼はまず、「栄養と病気」というテーマで、広範な太りすぎが病気や死者の激増に関係していることを指摘します。主な原因のひとつは、生活環境からくるストレスとされます。何百万人もの人々が、自分自身の人生をコントロールできないという感覚を持っています。彼らは、匿名性をもった状況に翻弄されていると感じています。自分の労働生活を決定する当局に対して何の影響力も持たないため、実存的な不安の中で生きているのです。カナダの医師ガボール・マテは、西洋世界の生活環境をこのような理由で有毒であるとしました。現代社会が病気を作り出し、すべての戦争を合わせたものの400倍もの殺傷力があるとしたら、何が間違っているのでしょうか?

 社会人生活では、やっている本人でさえ意義を説明できない仕事がたくさんあります。2018年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの経済学教授であるデヴィッド・グレーバーは、著書『うそつき仕事-働くことの本当の意味について』を出版しました。こうした意味のない仕事には、例えば、書類に記入して仕事をするふりをしなければならない「ボックスティッカー」[日本で言う窓際の仕事]や、約束の時間にほとんど人が来なかったり、電話がかかってこなかったりするオフィスの受付嬢などがあります。しかし、最も衝撃的な情報は、グレイバー教授によると、15歳から50歳までの約40%の人が、自分の仕事がなくなっても何も変わらないと主張していることです。つまり、自分の仕事は余計なものだと考えているのです。2021年のギャラップ・エンゲージメント・インデックスでは、ドイツでは68%の社員が杓子定規にしか仕事をしていないとしています。そこまで不満足な仕事があるとしたら、何が間違っているのでしょうか。

 

人間共存の原初的な現象

 社会の潜在能力をきちんと伸ばそうと思ったら、さまざまな器官システムとその相互作用を持つ社会の本質を一から知らなければなりません。大きなコミュニティで人間が共存していくための原初的な現象は何でしょうか?

 

- 第一に、人にはニーズがある。

- 次に、人はニーズを満たすための能力を持ってる。

身体的能力(器用さ)、心魂的能力、霊的能力などである。

- 第三に、人は感情を持ち、自分の生活をどのように整えたいかを互いにコミュニケーションする。

 

 この3つの基本的な現象から、3つの社会的な生活領域が生じます:

 まず、人々の身体的な欲求を満たすという任務を担うものがあります。これは、いわゆる「経済生活」の課題です。第二に、人々が自分の能力を開発する生活領域があります。ルドルフ・シュタイナーはこの領域を「精神生活」と呼んでいます。なぜなら、すべての能力は本質的に精神に基づくものだからです。肉体的な巧みさも究極的には精神であり、すなわち肉体的な知性です。第三に、すべての人に平等に適用される法律を作ることによって、人々が自身の感情に基づいて共同の生活を調節する生活の領域があります。これは「法生活」で起こることです。

 根本的な問題は、3つの器官システムができるだけ最適にその役割を果たし、その機能ができるだけ疎外されないようにするために、それらの機能の仕方と生活条件をどうするかという問題です。そして最後に、3つの器官システムの相互作用、すなわち、どのような協力形態が実り多く、どのような協力形態が逆効果になるか、という決定的な問題があります。

 ヴェンバーは、「三層構造の中心的な関心事は何か、一言で言うことは可能か?」と問います。それは、次のように言うことができます「まず第一に、人間の大きな共同体の性質をできるだけ徹底的に研究し理解することであり、そこから、大きな共同体を構成するさまざまな要素を、いかにその性質に応じて適切に共同作用させるかを導き出すことである。」つまヴェンバーは、「まず知識ありき」と結論付けている。まず、社会の基本的な力についての知識、次に、認識された要素をどのように適切に扱うべきかという洞察。つまり、3層化は、政党のプログラムとはまったく異なるものなのです。ドグマではありません。基本的な認識を提供し、それを吟味し、納得できるものであれば、自分なりの結論を出し、適切な対策や体制をとるよう人々に求めるものです。ルドルフ・シュタイナーは、社会の基本的な力について何百もの研究成果を公表しています。この入門書では、彼の最も重要な発見のいくつかが紹介されています。

 

精神生活からの観察

 予備的考察の後、本書の主要部分は、精神生活、経済生活、法律生活における発見に費やされていまヴェヴェンバーの説明は、常に生き生きとして理解しやすく、時には驚くべき洞察と結びついており、常に刺激的です。例としてまたその特別な意義のために、精神生活から得た一つの観察に注目することにします。ヴェンバーは、世界中の公立学校制度が、経済と政治からの基準に従って設計されていることを指摘しています。公立学校制度は、人々にとって当たり前のこととして受け止められています。しかし、それは全くそうではないのです。それらは人によって作られ、その方向性は全く特定の目的に従っているのです。19世紀以前には、国家が管理する公立学校制度は世界のどこにもありませんでした。国が学校を管理するようになったのは、高度に工業化された時代になってからです。なぜか?急成長する経済のために、科学者、技術者、エンジニアを十分に確保するためです。経済の要求に加え、政治的な利害も常に存在しました。国家が学校制度を自らの手に握ったため、どの国家も自らの政治的指針を学校にも持ち込むようになったのです。例えば、ドイツ帝国では、王政に忠実な公務員や兵士を養成することが目的でした。東欧やアジアの共産主義国家では、子供や若者を優秀な共産主義者に育てることが常に目的であり、単に優れた科学者や技術者を育成するためだけではなかったのです。つまり、子どもたちを自分たちの社会的・政治的システムに適合させ、自分たちの視点から主観的に最善と考えるようにしたかったのです。

  そして、その最善が子どもたちにとっても最善であると主張するのは当然です。しかし、子どもたちを何かに適合させようとすることは、どんなに善意の意図であっても、根本的には干渉です。この侵害は、政治的、経済的からの指針の結果であり、教育システムを不自由なものにしています。教育制度が人間に関する知識からのみ形作られることが許されるときにのみ、それは自由となるのです。

そして、それこそがルドルフ・シュタイナーが関心を寄せていたことなのです。: 経済的、政治的な指針によらず、純粋に人間に関する知識に基づいて教育や指導を発展させることです。具体的な教育方針を決定するのは、子どもたちと一緒に働く教師だけです。医師、心理学者、人類学者、その他の教育者などの特定の専門家が助言を与えることはできますが、それ以上のことはできません。すべてに適用されなければならない法律もなければ、拘束力のあるガイドラインもありません。

 現在の国家による学校制度が非常に問題なのは、子どもたちが人的資源と化し、付加価値生産連鎖のように学校で処理されていることです。このように、子どもたちは目的のための手段として扱われ、つまり対象物(モノ)にされているのです。その目的は科学、産業、国家の後継者であり、その手段が子供たちなのです。深刻な問題は、人間は決して目的のための手段としては扱われてはいけないということです。この洞察は、ヨーロッパの啓蒙思想の偉大な成果のひとつです。人間を手段として使うことは、人間の尊厳を侵すからです。ドイツでは、これは連邦憲法裁判所の判例にも合致しています。珍しいのは、しかし究極的には論理的なのは、この原則を公立学校制度に適用していることです。

 国家管理がもたらす社会的結果は、壊滅的であり、後に成人になって、思いやりに欠けた行動をとることになるという重大な結果をうみます。もし子供が学校で、無意識にせよ意識的にせよ、人間そのものが重要なのではなく、むしろ達成のための手段としての人間であることを学ぶと、この教えは深く刻み込まれます。そして、大人になってからは、「他者は私の目的のための手段である」という行動様式が反射的に繰り返されるようになるのです。

 ルドルフ・シュタイナーは、教育システムと社会的行動の間には強い関係があるという意見を持っていました。彼は、極端な社会的不公平の主な原因を、人々のメンタリティにあると考えたのです。例えば、近代国家の消費者が、消費財を生産する人々の生活環境に概して無関心であるとすれば、それにはさまざまな理由があります。なかでも、自分の目的のために他人を手段として利用しようとする無反省な態度が挙げられます。加えて、他者や相互関係への関心があまりにも低いことです。これについて、彼は、ルドルフ・シュタイナーの講演(1918年8月25日、シュトゥットガルト、GA294)「教育芸術-方法論的教授法」を引用しています。:

 「子どもたちが環境や仲間に再び注意を払うことを学ぶような方法で、本当に子どもたちを教育することが重要です。それこそが、すべての社会生活の基本なのです。今日、誰もが社会的衝動について話していますが、人々は反社会的な衝動に満ちています。社会主義は、人々が再び人々自身を尊重することを学ぶことから始まるはずです。そのためには、お互いの話に耳を傾けなければなりません。教育者、教師になるには、自分の感性を、もう一度こうしたことに向けることが極めて重要なのです。」

 シュタイナーは、このような風潮の根本的な原因を、公立学校のシステムが全体として生徒たちに概して「手段ー目的思考」を生み出し、他方で、興味や共感する力、全体から考える力をあまりにも育てないことにあると考えました。このようなことが起こるのは、国の学校制度が人間の本質を深く知り尽くしたものではなく、経済的、政治的指針やさまざまな教会的伝統に従って開発されたものだからです。

 したがって、精神生活にとって最も重要な生活条件は、国家と経済からの自由です。この自由がなければ、すべての社会変革は断片的なものにとどまるでしょう。さらに悪いことヴェヴェンバーによれば、この自由がなければ、素描された相互関係についてほとんど何も知らない人々が、尊大な思い込みで社会の旅の行く末を決めてしまうことになるのです。精神生活の自由という要求は、思いつきでもなければ、生活に根ざしていない空論でもありません。それどころか、それは人間の性質そのものから読み取ることができるものです。植物の性質が十分な水と光を受けることを求めるように、精神生活は、花開くために、自由という日光と(教育学という分野の)人間認識という生きた水を十分に受けることを要求しているのです。

 

三層化の良いところは?

 ヴェンバーにとって、三層化の良いところは何でしょうか?その基本的な考え方の多くは、魅力的で新しいものであり、硬直した考えや、きっぱりと自分をコミットした固定的なイデオロギーを持つ人には向かないものです。三層化は、ハードコアな共産主義者にとっても、ダイハードな保守主義者にとっても、同じように難しいものなのでヴェヴェンバーは、三層化が固定したルールを与えないことに感激している。それは、人間社会の3つの器官システムを提示し、その性質に応じてどのように扱うべきかを示しているのです。それは後者の例をいくつか挙げている。しかし、それらの例は三組ではありません。このため、人々を不自由にするのではないのです、逆です。:それは、ほとんどの具体的な問題を、人々の創造的な想像力に委ねているのです。認識された法則性の考えにより、あれやこれやをどのように形作ることができるかについて、他の創造的な人々と公平でオープンな方法で考え、話し合うこと以上に刺激的なことがあるでしょうか。三層化には、「この方法しかない」「他の方法はない」というような権威はありません。唯一の権威は、その事柄自体です: 器官システムを持つ大きな有機体、その内部の生活条件、そしてそれらの相互作用です。三層化は、教義やプログラムではありません。それは知識の道を提供するものであり、この点で、自由にする精神が働いているのです。

 このようなヴェンバーの結論は、全面的に同意できるものです。この結論は、独立した思考と、取り上げられたトピックのさらなる検討、追加、あるいは根拠のある反論を求めます。いくつかの補足も必要でしょう。特に「法的生活」という難しい分野では、法律、条例、規則というほとんど不可解な藪で人間生活のあらゆる領域を覆ってしまい、文字通り木を見て森を見ずになってしまっています。ルートヴィヒ・ポルツァー=ホーディッツは、1928年に『ヨーロッパセンターの謎』の中で、すでにこのことを指摘していました。「今日起こっているように、人類の発展を法的な問題にしようとすることは、さらに混沌へと導くだけであり、それは、主要な権力者がそれを今日持ちたいと望み、その科学的に刻印された知識人の権威を通して可能にするような、精神的に見捨てられた時代にのみ考えられることである。社会政治的な問題も本当は芸術の問題であり、人々があまりにも芸術的でなく、過剰な知恵を持つようになったために、世界には多くの混沌が支配するようになってしまったのだ。」

 しかヴェンバーが概説した、ルドルフ・シュタイナーが三層化に関する著作で言及していない(ヴェンバーが明確に強調している)「アレアトリカル(偶然)民主主義」※という形態など、個々の問題についてより深く議論すると、この書評の範囲を超えてしまいます。

 

【訳注】アレアトリカル・デモクラシーとは、自治が可能な集団(古典的には「国民国家」)の直接的かつ同時に代表者による自己決定の形態。代表(政党)民主主義とは対照的に、全体の代表者は選挙で選ばれるのではなく、くじ引きで選ばれる。

 

 いずれにせよ、彼の著書は、予備知識のない人々に三層化への関心を呼び起こし、その基本的な関心事の最初の理解を伝えようとする試みとしては、全面的に成功しているというのが、導き出される結論です。しかし、三層化の構造を知っている人であっても、現在の問題や現象について多くの有益な文献を発見することができるでしょう。この流麗な文章で書かれた200ページ弱のスリムな本が、一人でも多くの読者に読まれることを祈っています。

 

ジェラルド・ブライ、チューリッヒ

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 社会三層化論は、単に理論として提唱されたのではなく、シュタイナーは、その実現に向けて具体的な行動も起こした。この考えを宣伝し啓蒙活動を行なうと共に、実際に政府要人への働きかけも行なったのである。だが、結局、この運動はナチスの台頭により挫折することとなってしまった(その運動は、本来、第2次大戦のような悲劇を回避するためのものでもあった)。
 しかし、その後も、この運動自体は生き続けており、シュタイナー学校の運動もこの理念から生まれたのである。上の記事でも特に教育が論点となっているが、教育は政治や経済から本来独立していなければならないのであり、それを実践したのがシュタイナー学校なのである。
 教育は自由な人格をもった人間を形成することを使命としている。そのためには、教育自身が自由でなければならないのだ。しかし、今の日本では、教育に公費が使われているから政治が口を出すのは当然であるという主張が根強い。実際に、それがいかに教育をねじ曲げてしまうかを、日本は戦前、痛いほど経験しているというのにである。

 三層化の理念は、ドイツや他のヨーロッパ諸国で、ミヒャエル・エンデ等の文化人に影響を与え、欧州の緑の党の一つの淵源ともなった。地道に運動は継続されてきているのである。

 余談であるが、上のことからも理解できると思うが、今、ウクライナ問題で、ドイツにおいて緑の党が好戦的姿勢を見せているのは、党の誕生の経過を知っている者には到底考えられないことである。緑の党は、三層化運動の他に環境問題に取り組む人々などが集まって結成された。当時の硬直した既成の政党政治へのオルタナティブとして生まれたのだ。当初は、当然弱小の政党であったが、環境問題の高まり等を背景に次第に勢力を伸ばしていった。そして政権に加わるまでに成長していったのだが、どうもその途中で「変節」が生じたと思わざるを得ないのである。
 ひょっとして、それは、未来の芽を潰すための、外部からの意図的な攻撃の結果であるかも知れない(霊的対抗勢力も含めての)。

 シュタイナーの社会論というと、人智学派内では、一つの重要なテーマとなっているが、神秘学者がなぜ社会論を唱えるのかといぶかる者もいるだろう(私もそうであった)。しかし、人智学周辺に、教育や農業、医学等々様々な社会的実践が生まれているように、むしろそれが、シュタイナーの人智学の特徴なのである。
 人智学が霊的認識を求めるのは、人間の霊的進化のためであり、人間は社会的存在であるから、社会そのものもその対象となるのは必然なのであるが、実は、もっと別の意味もある。
 オカルト史観によれば、秘儀参入者(あるいはマスターといっても良い)とは、古来、人類の指導者であり、そこには、宗教や文化の分野だけでなく、人間社会全般の構築にかかわるという使命もあったのである。そのため、かつては、直接、社会のリーダーとして活動するという時期もあったが、やがて、社会を背後から支えるという立場をとるようになったようである。人間の自由を尊重するためであろう。例えば、フランス革命にも彼らの働きが見え隠れしていると指摘されているのだ(社会三層化と、自由・平等・友愛の理念が共通する背景がここにある)。
 つまり、シュタイナーは、真の秘儀参入者であったのである。だからこそ、人間生活のあらゆる分野にその活動が及んだのだ。

 現在、コロナ、ウクライナ問題に続き、世界的な経済的破局が迫っているとも言われている。今こそ、従来の社会システムに代わる新しい社会システムが求められているのではなかろうか。
 かつて、三層化運動の挫折の先に第2次世界大戦があった。人類は同じ過ちをまた繰り返すのだろうか?