k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

砂上のイスラエル建国

 ガザでの虐殺がいまだに続いている。これは世界中の人間がリアルタイムで見ている中で起こっているジェノサイドと言えるだろう。

 これは、「自衛権の行使」だとイスラエルや米英そしてEU諸国は主張しているが、日本の報道でも明らかなように、既にその域は大幅に超している。病院や学校も攻撃されており、非難している無抵抗の非戦闘員、婦女子もターゲットになっている。公的機関の建物も根こそぎ破壊され、今や墓地も破壊されているという。つまり、二度とこの地にパレスティナ人が戻れないようにしているのだ。

 これが国家的な犯罪であることは明らかだろう。これを擁護することは出来ない。

 

 この発端は、ハマスにより行なわれた昨年のイスラエル人虐殺の「テロ」とされている。しかし、世界有数の諜報機関をもつ監視国家においてなぜそのようなことが可能であったのかという疑問や、また実際には、「混乱」の中でイスラエル軍自身により多数の人々が殺害されたことなどが明らかになり、ハマスイスラエル、米国の思惑などが絡む複雑な背景が指摘されるようにもなっている。

 

 また人智学的に考えるなら、その霊的背景も探らなければならないのかもしれない。なぜなら、そうした無辜の一般市民、女性や子ども達の虐殺が行なわれているのは、パレスティナ、かつてイエス・キリストがその地で過ごした「聖地」であり、かつてイエス誕生に際し、嬰児虐殺が行なわれた地であるからである。

 パレスティナが特別な土地であることについて、キリスト者共同体のエミル・ボックは、イエスの子ども時代について論じた『イエスの子ども時代と青年時代』の中で次のように記している。

 「キリストの出来事により、パレスティナは聖地となったと言えよう。しかし、その聖地は、たまたまイエスの生涯の舞台となった、単なる小アジアのはずれの場所ではない。キリストの運命の光跡が、地球歴史の惑星的な始原の時代から既にパレスティナの土地のもつ本質を形成してきた、その中心的で、劇的な比類なさと、表に現われている元型的性格を見えるようにしているのである。」

 世界を集約したような、その持つ比類さから、まさにこの土地が地球の中心として選ばれたというのだ。

 今回は詳しく述べないが、それは、地上で最も低い場所である死海がこの地にあることにも現われている。堕罪により苦しみの底にある人類をそこから救い出すために、キリストは、地上で最も低いその地に降りたのだ。

 

 今回は、ガザの問題をきっかけとして、テリー・ボードマン氏が、その歴史的背景となるイスラエル建国の問題について論じた記事を紹介する。

 「イスラエル国家」の建国は、英米やフランスの欺瞞に満ちた外交政策シオニスト運動が絡み合う中で行なわれたものであり、その矛盾が解決されないまま現代に至っており、そして今それが、ガザの虐殺として爆発しているのだ。

 長文の記事のため、以下では、途中を省略してある。

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砂上の楼閣 イギリス、アメリカ、そしてイスラエル建国

投稿者:Terry Boardman 投稿日:1月 27, 2024 カテゴリー:東西問題, 第一次世界大戦,

 ニュー・ビュー誌110号(2024年1月~3月)に掲載された記事を若干修正・訂正したものである。

 

 イスラエルの初代首相ダヴィド・ベン・グリオンは1948年5月14日、テルアビブ博物館ホールでイスラエルの独立宣言を読み上げた。

「5657年(1897年)、ユダヤ国家の精神的父テオドール・ヘルツルの召集により、第1回シオニスト会議が開催され、ユダヤ民族が自国において国家的再生を果たす権利を宣言した。この権利は、1917年11月2日のバルフォア宣言で認められ、国際連盟の委任状で再確認された。・・・われわれの自然かつ歴史的な権利によって、また国連総会の決議に基づいて、ここにエレツ・イスラエルユダヤ人国家を樹立し、イスラエル国家として知られることを宣言する」1

 

・・・1917年以前には、ユダヤ人が国家や民族であることを否定する人はほとんどいなかった。彼らは明らかにすでにそのような存在であり、「再生する」必要はほとんどなかった。1917年に英国政府を代表してアーサー・バルフォア外相の名で発表されたバルフォア宣言には、「国家の再生」については何も書かれていない。それは「ユダヤ人民のための国民的故郷a national homeをパレスチナに樹立すること」に言及しており、「ユダヤ人民のための国民的故郷the national homeをパレスチナに樹立すること」とは言っていない。国際法上、「国民的故郷national home」という言葉には前例がなく、文面からはユダヤ人の国家を意図しているのかどうかは不明だった。しかし、1948年の独立宣言にある「自国において」という文言は、パレスチナ全土がユダヤ人のものであることを暗示していた。その頃、パレスチナには1917年当時よりはるかに多い約65万人のユダヤ人がおり、そのほとんどが1920年代後半以降に入植していた。1919年2月3日、世界シオニスト機構はパリ講和会議に声明を提出し、「国民的故郷a national home」ではなく「国民的故郷the national home」に言及した。シオニスト声明は、パレスチナの土地に対するユダヤ人の「歴史的権原」を大いに主張し、「パレスチナは古代と同じように今作ることができる......」と主張したが、古代においてユダヤ人は、この土地にいくつかの期間にわたって王国を構成していた、すなわちユダヤ人の自治国家を構成していたのであり、これこそシオニストが常に目指していたものであったが、1917年のバルフォア宣言以前から1922年のパレスチナ委任統治権の確立に至るまで、公式には言及できなかったものであった。 シオニスト声明はまた、「暴力によって彼らはパレスチナから追い出された」と主張しており、ローマ帝国による追放を指しているのは間違いないが、そのような追放は起こらなかった。西暦132年から136年にかけてシモン・バル・コクバが率いたユダヤ人の反乱をローマ帝国が鎮圧した後、ユダヤ人に対する残酷な扱いがあったにもかかわらず、西暦136年から7世紀にイスラム征服者が到来するまでの間、パレスチナには決してユダヤ人がいなかったわけではない。そして、西暦66-70年と132-136年の二度にわたるローマ帝国に対する悲惨なユダヤ人の反乱の数世紀前から、はるかに多くのユダヤ人が、ユダヤ人の故郷の中よりも外に住むことを選んでいた: 「アレキサンダーからタイタスまでのおよそ4世紀の間に、おそらく300万から500万人のユダヤ人がパレスチナの外に住んでいた。イタリアからイランまで、ディアスポラユダヤ人は本国のユダヤ人をはるかに上回っていた。エルサレム(と神殿)は彼らの国家としての自己認識において大きな存在であったが、彼らのうちエルサレムを見たことのある者はほとんどいなかったし、見る可能性のある者もほとんどいなかった」3。

 

   1948年の独立宣言は、新しいイスラエル国家が、a) 1905年に亡くなるまでのセオドア・ヘルツルによる意志の行動、および1897年から1948年までのシオニスト運動による行動、b) 1917年の英国内閣によるバルフォア宣言、c) 国際連盟委任統治領(1922年)、d) 1947年11月の国連総会による「取消不能」の投票によって誕生したことを認めている。この4つの要因のうち最初のものを除けば、他の3つはすべて、バルフォア宣言を発布し、国際連盟国際連合を創設したイギリスとアメリカのエリートたちの行動から生じたものであることに留意すべきである。実際、1947年の国連投票の結果自体も、フランスをはじめとする他の国々に対するアメリカの圧力によるところが大きかった。

 1948年の独立宣言にある「この権利」-ユダヤ民族が自国において民族的再生を果たす権利-は、「...特にユダヤ民族とエレツ・イスラエルとの間の歴史的つながりと、ユダヤ民族が民族の故郷を再建する権利に国際的承認を与えた国際連盟委任統治領において再確認された」という一文は問題である:パレスティナ紛争についての1947年の国連のパレスティナ特別委員会は、次のように述べているからである。

 

アラブ諸国は、バルフォア宣言を盛り込んだパレスチナ委任統治は違法であるとの立場を堅持してきた。アラブ諸国は、それが有効であると認めることを拒否してきた。

アラブ諸国は、パレスチナ委任統治国際連盟規約第22条の文言および精神と矛盾していると主張している。・・・民族自決の原則と権利が侵害された。・・・パレスチナ委任統治が承認されたとき、アラブ諸国国際連盟に加盟しておらず、したがって国際連盟に拘束されない。」

 

"国際法"

 2023年10月7日の奇妙な出来事の余波で、世界で最も技術的に進んだ国家のひとつであり、世界で最も洗練された諜報・警備システムを持つと広くみなされている国が、7時間以上も「失敗」したとされる(! この事態は、世界中のメディアや政府によってほとんど見過ごされてきたが、2001年9月11日に米国で起こった同じように奇妙な出来事と比較されることは間違いない。それ以来、多くの西側諸国政府は、「イスラエル国際法の下で自国を防衛する権利を有する」、また「イスラエルは戦時中の民間人の扱いに関して国際法を遵守しなければならない」と頻繁に述べている。

   民主主義社会における「法」は、民主的に選出された社会の住民代表の多数決によって決定されることになっている。しかし、「国際法」や政府間、あるいは政府と国連のような国際組織との間の国際条約となると、「民主的な社会」の住民やその代表者は、しばしば突然、蚊帳の外に置かれる。民主主義社会であっても、こうした分野での提案や決定は、その国の外交政策や法律の「専門家」、つまり個人の小さなサークルによってなされるのであって、国際問題にあまり関心も知識もない国民やその代表者たちによってなされるのではないということが受け入れられているようだ。しかし、このようなまったく非民主的な手続きによって新たな「国際法」が制定された結果、民主主義社会の住民たちは、その後何十年にもわたって、自分たちが相談もされなかった「国際法」に縛られることになる。さらに、議会外の民間ロビー団体は、国際法に関する政府の行動や決定にかなりの影響を与えることができる。

 たとえば、どのように1948年にイスラエルは誕生したのだろうか。それは「国際法」の下で下された決定、すなわち国連パレスチナ委任統治領)分割計画によるもので、1947年11月29日の国連総会で33票対13票、棄権10票で可決された。棄権国のひとつであった英国は、1919年以前には存在しなかった国際連盟から、1922年にパレスチナの統治を委任されていた。この国際連盟の「委任統治」に関して、1922 年 5 月 17 日、バルフォア卿は国際連盟理事会に対し、委任統治の創設における国際連盟の役割についての自国政府の理解を次のように伝えている。・・・

 このような国際連盟の「委任統治」は、第一次世界大戦後の戦勝国(イギリス、フランス、アメリカ、日本)による事実上の「合法化された窃盗」行為であった。確かに、それ以前の250年間、植民地大国間の戦争後、このような窃盗行為は珍しくなかったが、それでも窃盗であった。イギリスとフランスは、植民地国として(1919年当時)アメリカに大きな負債を負っていたが、1918年の敗戦国であったドイツとオスマン・トルコが1914年以前に統治していた植民地と領土を、自国の国益のために自分たちの手で手に入れようと提案した。しかし、戦時中に世界の債権国となったアメリカは、「理想主義的」かつ「反植民地主義的」なウッドロー・ウィルソン大統領の影響力のもと、国際連盟の創設に際して、敗戦国の旧植民地を単に英仏の植民地帝国に移譲するのではなく、これらの植民地の民衆はこれらの帝国国家の統治によって自治の準備を整えるべきだと主張した。これが国際連盟の「委任統治」に対する理解であった。

  1921年3月にウィルソンが大統領を退任すると、アメリカの新政権は、国際連盟にも常設国際司法裁判所にも参加しなかった。こうして、中東におけるイギリスとフランスによるベールに包まれた窃盗行為6(イギリスはパレスチナを手に入れ、フランスはシリアを手に入れた)に続き、アメリカはそれらの窃盗行為を「正当化」し、その性質を決定づけ、さらにそれらの「国際的」行為に対する責任を一切取らないという無責任な態度をとった。

 イギリスの外交政策立案者たちは、-これらすべては、もちろん、これらのプロセスには一切関与することを許されなかったイギリスの有権者とは何の関係もなかった-事実上、トルコ人パレスチナ植民地を「盗んだ」ことで、このアメリカが考案した国際連盟という制度によって、期限が明確でない将来にわたって、かつての植民地であったパレスチナを「管理」するという重荷を背負わされることになった。

 

「国民的故郷」?

 しかし、イギリスの高官たちは、世界大戦中、ユダヤ人とアラブ人の双方に、イギリスの戦時中の敵国に対する彼らの支持を得るために、矛盾した約束をし、自らにさらなる重荷を課していた。1916年、イギリスのエリートたちは、アラブ人にトルコへの反乱を起こさせるために、戦後はアラブの王子たちが統治する独立国家を持つと約束した。また、対独戦において、アメリカやロシアをはじめとする富裕なユダヤ人の支持を得るために7、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアは1917年11月、政府を代表して、後に「バルフォア宣言」として知られる約束を文書で取り交わした。この文書は、バルフォアが、明らかに英国におけるユダヤシオニスト運動の指導者とみなしたウォルター・ロスチャイルド卿(彼は正式にはそうではなかったが、ユダヤ人にも非ユダヤ人にも大英帝国におけるユダヤ人の「王子」と広くみなされていた。)に宛てたもの出会った。

 それは次のようなもの出会った。- 英国政府は「パレスチナユダヤ人のための国民的故郷National Homeを建設することを支持し、この目的の達成を促進するために最善の努力を払う。それは、パレスチナに存在するユダヤ人以外の共同体の市民的・宗教的権利や、他のいかなる国でもユダヤ人が享受している権利や政治的地位を損なうようなことは一切行ってはならないということであると明確に理解さる。」

促進するために最善の努力を払う。"ただし、パレスチナに存在するユダヤ人以外の共同体の市民的・宗教的権利、あるいは他のいかなる国においてもユダヤ人が享受している権利や政治的地位を損なうようなことがあってはならない

   この "ユダヤ民族のための国民的故郷 "という言葉は、"ユダヤ人の国家 "を意味するのかという論争をやがて多くの巻き起こすことになる。その証拠に、関係者の大半は、たとえ初期には否定していたとしても、遅かれ早かれ、この言葉は確かにそのような意味になると感じていたようである。 例えば、デイヴィッド・ロイド・ジョージ首相、アーサー・バルフォア、ウィンストン・チャーチルは後に、1921年7月21日にロンドンのバルフォアの自宅でシオニストの指導者チャイム・ワイツマンと会談する。そこでは、ロイド・ジョージとバルフォアはワイツマンに「宣言は常に最終的なユダヤ人の国家を意味していた」と保証した。ロイド・ジョージは1937年、パレスチナユダヤ人連邦となるのはユダヤ人が「住民の過半数を占めるようになった」場合であり、1946年にはレオ・アメリ(元植民地長官)も同じ立場を表明している8

 バルフォア宣言」の最終草案はバルフォアの名で作成されたが、実はバルフォアはこの文章にはほとんど関与していない。戦争内閣で間違いなく最大の権力者であったアルフレッド・ミルナー無任所大臣(1916-1918)の秘書官兼右腕であったレオ・アメリー(ユダヤ人)が書いたのである9。しかし、アメリーは後に「1946年1月の英米調査委員会で宣誓証言」している:

「『パレスチナユダヤ民族のためのナショナル・ホームを建設する』という言葉は、バルフォア宣言の時点では、ユダヤ人が十分な数でやってきてそこに定住しさえすれば、パレスチナは最終的に「ユダヤ人連邦」あるいは「ユダヤ人国家」になるということを意図し、関係者全員が理解していた10。」

 その後30年間、彼らはまさにそうした。1939年まで、英国政府はそれを阻止することはしなかった。

 なぜこのようなことになったのか。古代に祖国を失ったはずの民族が、約1900年後に祖国を取り戻し、そこに国家を樹立できたというのか。同じ長い期間に、世界中の無数の民族や文化が祖国の支配権を失い、あるいは祖国を追われ、二度と祖国に戻ることも支配権を取り戻すこともなかったのに、ユダヤ民族は「世界」、すなわち当時世界の運命を支配し、国連をも支配していたイギリスとアメリカのエリートたちに、自分たちユダヤ人は古代の祖国に戻り支配することを許されるべきだが、他の民族は祖国に戻ることを許されるべきではないと説得することができたのだろうか。もし同じ原則が、いわば歴史全体にわたって適用されるなら、世界地図はまったく違ったものになるだろう: 例えば、イングランドウェールズ人に、アメリカはアメリカの先住民族に返還されなければならないだろう。

 

ガブリエル、アラブ人、ユダヤ人の時代

 ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)のスピリチュアルな研究に基づくアントロポゾフィー人智学)の観点から、上記の質問に対する答えはこうである。

 

 16世紀初頭から、人類の歴史の導きは、火星の大天使サマエル(1190-1510)から月の大天使ガブリエル(1510-1879)へと、強大な霊的な存在から別の存在へと引き継がれた。このような7人の大天使が交代で活動しており、それぞれが約350~400年の歴史を「担当」している。月の大天使ガブリエルのフェーズの間、人類はガブリエルの影響の下で、物質世界と肉体的な生活の要求、つまり「受肉」【訳注】という言葉と結びついているすべてのものに非常に注意を向ける。

 

【訳注】大天使ガブリエルの使命は、受肉、あるいは誕生と結びついていることは、マリアへの「受胎告知」を大天使ガブリエルが行なったことにも現われている。

 

 この時代は自然科学の時代であり、西洋の植民地主義と帝国の時代であり、世界貿易の時代であり、資本主義の時代であり、産業主義の時代であり、ナショナリズムの時代であった。また、英語圏の人々が世界的な大国となり、セム文化(アラブ人やユダヤ人の文化)の影響が西洋文化、特に英語圏文化(イギリスや後のアメリカなど)の中で特に大きな力を持つようになった時代でもある。17世紀から18世紀にかけて、自然科学はしばしばアラブの文献からの翻訳に基づき、教会に対する勝利の行進を始めた。(興味深いことに、イスラム教のトルコから輸入されたコーヒーも、この知性の拡大に伴っていた)。超越的で抽象的で、イスラム教やユダヤ教の香りが少なからずする、イギリス独特の哲学的宗教形態である理神論は、多くの「賢明な」イギリス人、特にフリーメイソン-そのオカルティズムと儀式は、ソロモン神殿とユダヤのカバリストたちの著作に多くを負っている-の間で好まれる信仰となった。 火星の大天使サマエルの時代、1290年にエドワード1世によって追放されたユダヤ人は、月の大天使ガブリエルの時代、1655年にオリバー・クロムウェルによって英国に再入国した。ガブリエルの時代の後期には、ロスチャイルドの名は世界中に知られていた。実際、ヴィクトリア朝時代のイギリス帝国の権力は、ロスチャイルドなしでは考えられなかった。1810年以降の数十年間、ロスチャイルドの資金はイギリスの軍事作戦に資金を提供し、イギリスの鉄道を建設し、王室に財政的な助言と融資を行い、スエズ運河を購入し、経済を安定させ、他のイギリスの銀行を支援した。ロスチャイルド家はまた、パレスチナにおけるユダヤ人移民の入植地にもいち早く資金を提供した。

 英国におけるロスチャイルド家の成功は、英国生活におけるユダヤ文化の地位向上の象徴に過ぎなかった。たとえば、17世紀のイギリス清教徒たち。彼らは宗教生活において、古代イスラエルの人々、特に旧約聖書とその厳格さに基づいた。彼らはユダヤ人のように黒と白を身にまとい、常に頭を覆い、宗教的な図像に反対し、聖典の本文とその解釈者だけを尊び、自分たちを亡命者とみなして、罪深い「エジプト」から逃れて、神から与えられた約束の地であるアメリカのへ向かい、そこで原理主義的な価値観を持ち込み、移植した。イギリスでの彼らの後継者である国教反対者たちは、政治活動から追放され、ビジネスと産業に転じ、資本家として成功した。これらのピューリタンや国教反対者たちは-これに、後にメソジスト派福音派が18世紀に続く-、自分たちを「イスラエル」とみなし、未来を読み、神の意志を見極めようと、古代イスラエルのモデルと預言者たちを見た。彼らは、今や自分たちが新しい「選ばれた民」であるだけでなく、「古代の選ばれた民」であるユダヤ人が聖地に集められ、キリスト教に改宗するまでは、メシアは再び来ないと信じるようになった。英語圏ピューリタンの多くは、ユダヤ人が聖地に戻れるようにするのは、主の(新しい)選ばれし民の役目だと信じていた。このような聖書の概念や解釈は、1600年から1850年にかけて、低教会派の福音派やバプテスト派から高教派の英国国教会まで、聖書を読むプロテスタント社会の幅広い層にわたって、英語圏の文化にしっかりと根を下ろした。デイヴィッド・ロイド・ジョージやアーサー・バルフォアのような政治家たちは、このような解釈をよく知っていた。

 ガブリエルの時代は1879年に終わったが、その衝動はそれだけで終わったわけではなかった。このような大天使の衝動は常にその時代の終わりに最も強く、新しい大天使の波が押し寄せてきてフェードアウトし始めるまで数十年間続く。こうしてナショナリズムは1870年から1970年、特に2つの世界大戦の時期にピークに達した。西洋におけるユダヤ人の影響力もこの時期にピークに達した。シオニスト運動、バルフォア宣言、そして政治的なイスラエル建国への努力も、この時期に起こったとしても驚くにはあたらない。厳密に言えば、それは太陽の大天使ミカエルの時代の初期であったが、彼の衝動はその時成長し始めたばかりであった。彼の衝動は真にキリスト教的な衝動であり、キリストの衝動はこの世のものではない王国の創造である。

 

国家的動機

 国際連盟は、去りゆくガブリエル的原理と新しく始まったミカエル的原理の典型的な現れであった。国際連盟英語圏のエリートたちによって、自文化の国益のために設立されたが、同時に超国家的な衝動も持っていた-国家(民族)自決の原則に基づく超国家的機関という矛盾をはらんでいたのである!

アラブ人は1919年にすでに、新国際連盟の礎石とされるウィルソン流の「民族自決」原則によれば、19世紀半ばにトルコの支配下にあった「南シリア」として、80%のイスラム教徒と10%のキリスト教徒アラブ人に対し、ユダヤ人の人口がわずか5~7%にすぎなかったパレスチナへの移住をヨーロッパ列強が奨励するのは正しくないこと抗議していた11民族自決」とは、パレスチナが、イスラム教徒である大多数のアラブ人に帰属することを意味すると広く解釈されていた。しかし、イギリスとアメリカのエリートたちは、自分たちのイギリス帝国やアメリカ擬似帝国の利益に従って、そうではないと「決定」した。アラブ人は後進的すぎて、この地域でそのような利益に貢献することはできないと考えたのである。

 その利益とは、何よりもスエズ運河の安全と、メソポタミアの石油を地中海のハイファなどパレスチナの港に安全に輸送することであった。イギリスにとってスエズ運河は、インドやその他のアジア、南東部のオーストラレーシア方面における帝国の権益を守ることを意味していた。メソポタミアの石油は、英国海軍の将来を保証するものであり、それなくして大英帝国はありえない。世界大戦の少し前に、英国海軍の燃料として石油が石炭に取って代わり始めて以来、これが現実だった。イギリスには石炭は豊富にあったが石油はなかった。そのため、石油が豊富にある地域の支配権を確保する必要があった。20世紀になって自国の石油供給が減少し始めたとき、アメリカ人も同じ動機を持ようになっただろう。パレスチナに移住したユダヤ人は、比較的近代的で、教育を受け、文化的にもヨーロッパ的で、その多くは世俗的であった。チャイム・ワイツマン(1874-1952)やハーバート・サミュエル(1870-1963)のような、イギリスにおけるシオニストの擁護者や指導者たちは、移住者たちがこの地域の支配的要素になることを許されれば、大英帝国に効果的な奉仕をすることになるという事実を強調した。

 

バルフォアとその宣言

 第一次世界大戦中、バルフォアとミルナー周辺は、さらなる要因を繰り返し述べていた: すなわち、1897年(スイスのバーゼルで開催された第1回シオニスト会議)以来、シオニズムユダヤ民族のための国家、後に特にシオニストたちが古くから「イスラエルの地」と呼んでいたパレスチナ(エレツ・イスラエル)に国家を建設しようとする大義)が、米国の多くの有力で裕福なユダヤ人、すなわち英国がその支持を失うわけにはいかないユダヤ人の関心を集めていたことである:

 1917年9月3日、バルフォアは、「この問題は外務省が過去長い間非常に強く圧力をかけてきた問題であると指摘した。特に米国には、この問題に熱心に取り組む非常に強力で熱狂的な組織があり、このような人々の熱心さと熱意を味方につけることは、連合国にとって最も実質的な助けになるというのが彼(バルフォア)の考えだった。何もしないことは、彼らとの直接的な対立を招く危険があり、この状況に直面する必要があった」12

 

 1917年4月、バルフォアは米国を訪問し、米国シオニスト組織会長でウィルソン米大統領の最側近の一人であったルイス・ブランデイスと会談した。バルフォアはブランディスから、アメリカのユダヤ人、特に裕福なユダヤ人がシオニズムを支持しているという印象を得た。

 

英国外務省が1923年に書いた記述によると、シオニズム支持の声明を出すという考えが固まったのは、バルフォアがアメリカを訪問したときであった。陛下の政府が、パレスチナへのユダヤ人の帰還がイギリスの政策の目的になったという保証を与えれば、アメリカの世論は好意的な影響を受けるだろうと思われた」13

 

 イギリスのシオニスト指導者チャイム・ワイズマンは、オスマン・トルコと同盟を結んでいたドイツが、シオニストの戦術を利用してアメリカの裕福なユダヤ人に平和主義を支持するよう説得し、アメリカが参戦したばかりの戦争へのアメリカの支持を弱めようとするかもしれないとイギリス政府を説得しようとした(1917年4月)。1917年秋、ワイツマンの主張を立証するかのような証拠が現れた。

 5人の閣僚からなる戦争内閣の中で、パレスチナにおけるユダヤ民族の祖国を支持する宣言に反対したのはカーゾン卿だけであった:

 

「このような行動方針を採用する政治的理由は重要かもしれないが、我々は少なくとも、現実的な理想を後押ししているのか、それとも失望と失敗への道を用意しているのかを考慮すべきである。」

 

 カーゾンは、「(パレスチナの)ユダヤ人農業植民地のほとんどは成功していない」と主張した。そして、「アラブ人は1500年もの間、この国を占めてきた。. . 彼らは、ユダヤ人移民のために土地を収用されることにも、後者のために薪をくべたり水を汲んだりする役割を果たすことにも満足しないだろう」と14

 

 この言葉は、どちらの点でも先見の明があった。

  しかし、1917年10月31日の戦争閣議で、カーゾンの反対は却下された。バルフォアは、「宣戦布告の根拠を主にプロパガンダとしての価値に置くことにした」。彼は、「ロシアとアメリカのユダヤ人の大多数」はシオニズムを支持していると述べた。「そのような理想に好意的な宣言を行うことができれば、ロシアとアメリカの両方で極めて有益なプロパガンダを行うことができるはずだ」と彼は言った。戦争内閣はその場で、外務大臣としてのバルフォアに宣言を発表する権限を与えた。

 イギリス政府が「パレスチナユダヤ民族のためのナショナルホームを建設する」と公式に約束した、すなわちバルフォア宣言は、戦時に有利になるための一時的な戦術のためになされたものであった。植民地局が1924年に出した極秘覚書も、バルフォア宣言が戦争戦術であったことを示している。同宣言はこう述べている:

 

「宣言には明確な戦争目的があった。この宣言は、世界中の有力なユダヤ人とユダヤ人団体の同情を連合国のために集めるために作成された。この宣言が発表されたのは、軍事情勢が極めて危機的であった時期である。ロシアは同盟を脱退した。イタリアは最後のあがきをしているように見え、ドイツは東方での不安から解放され、1918年の大攻勢に備えて西部戦線に大軍を集結させていた。ユダヤ人との約束は、事実、国家的危機が深刻化しているときに交わされたのである。」16

 

   しかし、ひとたび宣言が公表されると、イギリス政府はこの宣言に固執し、後戻りはできないと考えた。戦争が終わった後、イギリス政府はすぐに、宣言の本来の理由である戦争宣伝戦術としての利用はもはや当てはまらないにもかかわらず、自縄自縛に陥ったことに気づいた。宣言に対する反対、ハーバート・サミュエルを高等弁務官に任命することへの反対、政府の一般的なシオニスト寄りの姿勢に対する反対など、パレスチナの軍部内や民政部内の多くの反対にもかかわらず、政府はかたくなに宣言に固執し、シオニストとアラブの両コミュニティの要求を満たすよう試みると主張した。

 英仏両政府は1918年11月9日、シリアで偽善的な声明を発表した:

 

「フランスとイギリスが、ドイツの野望によって解放された戦争を東方で遂行する際に目指している目的は、トルコ人によって長い間抑圧されてきた諸民族の完全かつ明確な解放と、先住民の自発的かつ自由な選択によってその権威を得る国民政府および行政機関の樹立である17(強調 - TB)。

 

 しかし、1918年12月、英仏両国は、パレスチナをイギリスが単独で統治することで合意し、1916年1月にロシア側と最終合意した秘密協定(1915年に交渉が開始されたサイクス・ピコ協定)を変更した。それによれば、戦後、パレスティナは国際的に管理されることとなっていた。

 バルフォアの他の声明は、イギリス自身の利益の皮肉な評価の程度を示している。

     1919年8月、国際連盟の規約について議論したメモの中で、バルフォアはこう説明している:

 

「私は、シオニズムがアラブ人を傷つけるとは思わないが、アラブ人はシオニズムを望んでいるとは決して言わないだろう。パレスチナの将来がどうなるにせよ、パレスチナは現在『独立国家』ではないし、その途上にあるわけでもない。そこに住む人々の意見にどのような敬意を払うべきかは別として、列強は、私が理解するところでは、委任統治国を選ぶ際に、彼らに相談しようとはしない。要するに、パレスチナに関する限り、列強は、明らかに間違っていない事実の陳述はしておらず、少なくとも書簡の中では、常に違反することを意図していない政策の宣言はしていないのである。」そして「シリアの『独立国』の場合よりも、パレスチナの『独立国』の場合の方が、規約の文言と連合国の政策との間の矛盾はより顕著である。パレスチナの場合、われわれは、この国の現在の住民の意向を聞くという形式をとることさえ提案しない。四大国はシオニズムにコミットしている。そしてシオニズムは、それが正しいか正しくないか、良いか悪いかにかかわらず、古くからの伝統、現在のニーズ、将来の希望に根ざしたものであり、現在その古代の土地に住む70万人のアラブ人の欲望や偏見よりもはるかに重要なものなのである。」(強調 - TB)

 

   バルフォアの頭の中には、2つのことが重なっていたようだ:伝統主義的な英国国教会(High Church Anglican)の強い信念を持つ有力貴族セシル家の分家として、彼は、ウェールズのバプテスト派デイヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)とはまったく異なるキリスト教の宗派の出身であったが、二人は同時代の多くの人々と同様、聖書に基づいて育ち、聖書をよく知っていた。二人とも根っからのロマンチストで、ユダヤ民族の古くからの運命にある種の憧れを抱いており、シオニストの指導者チャイム・ワイツマンの魅力と、ユダヤ民族の運命に関する歴史観や宗教観に訴える彼の訴えに誘惑されていた。

 しかし、二人とも、特にネイサン・メイヤー・ロスチャイルド(1777-1836)の時代からの、英国におけるユダヤ金融の力をよく知っていた。彼は、ウェリントンのナポレオンに対するワーテルロー作戦の勝利や、その後数十年にわたるイギリスの鉄道開発に資金を提供していた。有力政治家として、バルフォアとロイド・ジョージは、英国初のユダヤ系首相ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)が1875年、ロスチャイルド家とのコネクションを利用してロスチャイルドの融資を受け、英国政府にスエズ運河の支配権を獲得させたことも知っていた。彼は1914年11月に英国とトルコの間で戦争が勃発した直後、次のように述べた。

 「スエズの東にユダヤ人の植民地を作ることを支援することで、イギリスはスエズ運河の支配権を脅かす可能性のある敵対外国勢力をその領土から排除することができる。サミュエルは1915年3月に、『多くのユダヤ人が何世紀にもわたる苦難を乗り越え、決して絶やすことなく大切にしてきた思想の実現に向けて今行われる援助は、遠い未来に至るまで、全人類の感謝の念を裏切らないはずはなく、その好意はやがて価値がなくなることはないだろう』と主張した。」19(強調 - TB)。

 

 イギリス政府は後に、サミュエルを初代パレスチナ高等弁務官に任命する。サミュエルの任命はアラブ人には不評だったが、彼は公平であろうと努め、その役割はそれなりに成功した。しかし、ユダヤ人歴史家のバーナード・ワッサーステインは、彼の政策は「英国の...親シオニスト政策にアラブ人を融和させるために微妙に設計された」ものであったと書いている20。また、サハル・フネイディは、『壊れた信頼-ハーバート・サミュエル、シオニズムパレスチナ人』(2001年)の中で、サミュエルのパレスチナにおける政策のほとんどは、実際にはバルフォア宣言で約束された「ユダヤ人の国民的故郷」という概念を超えており、ユダヤ人国家の実現を目指していたと書いている

 

   西側連合国に裏切られたというアラブ人の感情や、シオニスト移民の増加に対する反発から、何度も暴動が起こった。1921年8月18日、パレスチナに駐留するイギリス軍に対するアラブ人の暴力はなかったものの、共同体間の情勢が悪化したため、イギリス内閣は情勢を協議するために閣議を開いたが、パレスチナに直接関係する4つの主要な論点のうち、最後の論点だけが討議された:

 

1) 「政府の名誉はバルフォア氏による宣言に関わるものであり、我々の誓約を反故にすることは、世界中のユダヤ人の目から見たこの国の威信を著しく低下させるものである。2) カナダと南アフリカの首相は最近、わが国のシオニスト政策がこれらの領土で役立っていると述べた。3) この問題が容易かつ迅速に解決されるとは思われなかった、

 特にパレスチナと国境を接する地域でアラブ人が勢力を拡大していることを考慮すると。4) ユダヤ人のための国民的故郷の設立とアラブ人の権利の尊重を含むバルフォア宣言の路線では和平は不可能であると主張された。この矛盾の結果、アラブ人とユダヤ人の双方が疎遠になり、無益な軍事支出に巻き込まれることになるに違いない。この立場に対して、アラブ人は、自分たちが最善の利益を遂げることのできなかった国への、何らの規定的権利を持っていないと議論された。」21

 

 カナダと南アフリカにおけるシオニストの利益のため、そしてイギリス政府の「名誉」のために、宣言を守らなければならなかった。100万人近いイギリス人が、しばしば悲惨な状況で、イギリス政府のために戦争で戦死した後であったにもかかわらず、「バルフォア宣言の路線では和平は不可能である」と認識されていたにもかかわらず、である!

 1922年7月、国際連盟パレスチナ委任統治を承認し、イギリスを統治権力とし、イギリスによるバルフォア宣言の実施を承認した。8月、パレスチナ・アラブ会議はパレスチナ委任統治をアラブの権利の侵害だとして拒否した。

 

1923年の秘密キャベンディッシュ報告書

 それから1年も経たない1923年2月、新植民地長官となった第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャベンディッシュ(イギリス屈指の貴族)は、10人の秘密委員会に、バルフォア宣言を維持するかどうか、さらには委任統治を維持するかどうかを含め、イギリスのパレスチナ政策を総合的に再評価させた。キャベンディッシュは、委員会の調査結果を受けて閣議に提出した報告書の中で、記者団に不評であったことを認めたこのプロジェクトの困難にもかかわらず、イギリスは国の、すなわちエスタブリッシュメントの「名誉」のために、宣言と委任統治の両方を基本的に継続すべきだと結論づけた:「宣言を否認し」、「全世界の面前でユダヤ人と交わした約束を破り」、国際連盟に「委任統治領を返還する」ことは、次のことを意味する。

 

「われわれはまさに背信行為によって有罪判決を受けることになり、そこからわれわれの名誉が回復することはないといっても過言ではない。われわれは、トルコ人から聖地を救い出したにもかかわらず、勝ち取ったものを守る力も勇気もなかったキリスト教国として、永遠にその名を残すことになる。」22

 

 13世紀の貴族に典型的な名誉へのこだわり。宣言がもはや現実にそぐわず、意味をなさないと言うことは問題ではない、宣言は続けなければならない。―このようなことが、実際、キャベンディッシュの理由付けであった。

 しかし、キャベンディッシュは、委任統治を継続する2つの明らかに不名誉な理由も思いついた。 1922年、イギリスはエジプトからの撤退を交渉していた。そのような状況では、スエズ運河の近くに軍事的プレゼンスを保つために、スエズ運河の東にあるパレスチナに軍隊を保持することが、イギリスにとって好都合であり、実際に不可欠であると彼は言った。この利己的な動機は、委任統治国ではなく委任統治地域の人々のためになるはずの委任統治 の原則に真っ向から反するものであったが、「キャベンディッシュの覚書は...イギリスがパレスチナから 撤退した後(つまり 1948 年以降)になって初めて公表された」23 ので、国際連盟は知る由もなかった。

 第二の不名誉な動機は、キャベンディッシュが、ユダヤ人がパレスチナに多くの投資をもたらし、経済に利益をもたらしていると主張したことである:「彼らにその機会を与えることで、散り散りになった民族を古代の祖国に戻すという感傷的な考慮とはまったく別に、文明全体の利益に貢献しているのだ。」しかし、これは正しくない。ユダヤ人の投資はパレスチナにおけるユダヤ人経済のみに利益をもたらしたのであって、アラブ人には利益をもたらさなかったからである。ユダヤ資本はアラブ人が所有する土地の購入に使われ、ユダヤ民族基金が所有する土地ではユダヤ人の労働力のみが認められた。1921年シオニスト執行部の報告書には、次のように記されている:

 

シオニストの活動がアラブ人に、彼らがシオニストに期待するよう招かれていたような物質的利益をもたらしていれば、状況はそれほど深刻ではなかったかもしれない。」24

 

   したがって、1923年の内閣は、ユダヤ人の国民的故郷は、アラブ人の利益の保護と最終的な独立と同時に実現することはできないと結論づけた。にもかかわらず、このような矛盾が続いているにもかかわらず、内閣は、再び帝国の利己的な理由(すなわち、結果として生じる「面子」の損失)から、宣言のユダヤ人の国民的故郷の約束を継続することを決定した。その結果、アラブ人とユダヤ人の対立は避けられなくなり、1945年以降、経済的に窮地に立たされたイギリスは、最終的にそれに対処することができなくなり、1948年には、「名誉」と「名前」を汚されたにもかかわらず、不名誉なパレスチナからの撤退を余儀なくされた。そして、1923年の秘密のキャベンディッシュ・レポートから100年経った今もなお続く、恐ろしい対立の状況を残した。

 ・・・

    キャベンディッシュ委員会は、アラブの利益のためにパレスチナにアラブ機関を設立し、すでに存在するユダヤ人機関と並行して活動することを提案した。この提案は公表されたが、キャベンディッシュ委員会の報告書は秘密にされた。そのため、内閣が実際に委任統治を実行不可能と考えていたことは、国民には知らされていなかった。

・・・

 イギリス政府は1920年代、国際連盟の常設委任委員会に対して、パレスチナにおける両共同体の利益は適切に提供されていると述べていたが、1923年7月の時点で、イギリス政府自身の実際の評価は、そのような状況にはほど遠く、実際には事実上不可能であるというものであった。

 一方、ユダヤ人の移民は着実に増え続けた。テルアビブの人口は1920年の2,500人から1924年には25,000人に増加し、委任統治パレスチナ全体のユダヤ人人口は1923年の90,000人から1940年には450,000人に増加した。1948年のイスラエル建国時のユダヤ人人口は65万人だった。1930年代に人口が大幅に増加したことで、アラブ人の大規模な抗議、暴動、暴力が起こり、1936年から39年にかけてのアラブ人の大反乱で頂点に達した。この反乱では、非正規のユダヤ武装勢力がイギリス軍と協力してアラブ人と戦い、その後、イギリス政府はついにユダヤ人の移民にかなりの制限を課し、パレスチナ委任統治を10年以内に終了する、つまり撤退すると発表した。1937年、イギリスは領土を3つに分割する計画を発表した。アラブ人国家、ユダヤ人国家、そしてエルサレムとハイファ港の継続的なイギリス委任統治である。英国がエルサレムとハイファの石油港を支配したかったのは明らかだ。1937年と1939年のこうしたイギリスの計画は、1940年代にユダヤ人のリーハイ(イスラエルの自由のための闘士)運動とイルグン(国民軍事組織)運動による不法移民とイギリス当局に対するテロ暴力につながった。イギリスはついにアラブ人とユダヤ人両方を敵に回すことに成功したのだ。ユダヤ人の暴力は、1946年にホテル・キング・デイヴィッドの英国本部で起きた爆破テロで頂点に達し、91人が死亡、45人が負傷した。

 

アメリカと1947年11月の国連投票

 第二次世界大戦後、労働党政権は経済的に大きな苦境に立たされ、アメリカからの大きな圧力もあり、現実的に可能な限り早くインドとパレスチナから撤退することを決意した。一方、英米が考案した国際連盟は、1946年に英米が考案した国際連合に道を譲った。この国際連合が、1948年のイスラエル建国をどのように承認したのか。1945年4月にルーズベルト大統領が死去すると、ユダヤロビー団体は、パレスチナへの移民枠を増やすよう英国に迫るように、経験の浅い新大統領に圧力をかけた。その一つである自由パレスチナアメリカ連盟(ALFP)は、ユダヤ人テロリスト集団イルグンの隠れ蓑であり、イルグンの幹部ヒレル・クックに率いられていた27。1946年、ドイツの強制収容所の悲惨なフィルム映像が人々の脳裏に焼き付き、多くのユダヤ人がヨーロッパでまだ悲惨な状況で待機していたため、アメリカのユダヤ人は妥協する気にはなれなかった。彼らのロビー活動は執拗で、パレスチナでイギリスと戦う過激なユダヤ人グループのために、ハリウッドの有名人やマフィアからも多くの資金が集められた。クックらは、これらのグループの武装闘争を、1770年代のイギリスからの自由を求めるアメリカ革命家の闘争のように表現し、1770年代と同様に、クックとその仲間たちはフランス人を巻き込むことをためらわず、ALFPのフランス支部を設立し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールジャン=ポール・サルトルといった著名人の支持を得た。ニューヨークの有力なユダヤ人ロビーからの政治的圧力を受け、ハリー・トルーマン大統領は「実行可能なユダヤ人国家」を求め、共和党のトーマス・デューイ知事は「数十万人の移民がパレスチナに受け入れられるべきだ」と強く迫った。トルーマンユダヤ人の強引なロビー活動に苛立ちを示したが、「ヘブライ人」が約束の地を取り戻すのを助けなければならないと考える聖書ベルト地帯のアメリカ人プロテスタント有権者が大勢いたこともあり、屈服せざるを得なかった。その一因となったのが、アメリカの原理主義牧師サイラス・I・スコフィールド28の『スコフィールド参照聖書』(イギリスではオックスフォード大学出版局から出版)である。第二次世界大戦の終わりまでに、スコフィールド聖書は200万部以上売れた。スコフィールド聖書の注釈は、とりわけ終末論的ディスペンセーション主義、つまり、神は個別の歴史的段階において人間の歴史に介入するという考え方を促進した29

   ユダヤ人によるテロ行為はより大胆に、より暴力的に、より成功を収めるようになった。1919年から21年にかけてアイルランドIRAがそうであったように、イギリスは次第にテロリストたちのますます陰惨な攻撃に屈服し、ユダヤ武装集団を弾圧するための強硬な努力にもかかわらず、事態のコントロールを失いつつあることが明らかになった。1947年9月、英国は1948年5月14日に一方的に撤退すると発表した。1947年11月29日、国連は国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)が作成した分割案を討議した。この案を可決するには3分の2以上の賛成が必要だった。ニューヨークのユダヤ人たちは、国連ビルの内外で効果的なロビー活動を行った。彼らの焦点は、それまで明確な立場を取らなかったフランスにあった。バーナード・バルーク(1870-1965)は熱烈なシオニストで、1912年にウッドロウ・ウィルソンを大統領にするための資金を提供し、ルーズベルト大統領とトルーマン大統領に助言を与え、ウィンストン・チャーチルの親友であり、さらにイルグンとALFPの支援者でもあった、フランスの国連代表アレクサンドル・パロディに直接圧力をかけ、もしフランスが国連投票で分割を支持しなければ、フランスの株式市場は急落するだろうと個人的に伝え、トルーマン大統領がフランス向けの援助を別の場所に送ることを選ぶかもしれないとほのめかした。この明確なメッセージはパリに伝えられた。11月29日の国連総会での投票では、パロディが分割に賛成し、フランスの隣国であるベルギー、ルクセンブルク、オランダも賛成した。これらの投票により、分割は3分の2以上の賛成(33対13)を得た。パレスチナでは、ユダヤ人は "フランス万歳!"と叫んだが、むしろ "バルーク万歳!"と叫ぶべきだった。こうしてシオニストは、1948年5月14日に建国したイスラエル国家に対する国連の支持を得たのである。

 

古くからのライバル関係 イギリスとフランス

 一方、パレスチナユダヤ武装集団に武器を提供するためのフランスの資金は、パレスチナに届き続けた。1948年1月、フランスのジョルジュ・ビドー外相は、ハガナ・グループのために2600万米ドル相当の武器を認可した。

   1948年5月にイギリスの委任統治領が終了するまで、イギリスとフランスは、1870年代にディズレーリがロスチャイルドの資金でフランスを出し抜き、スエズ運河(これはフランスが建設したものだった!)の支配権を買い取ったときから、1882年にイギリスの首相ウィリアム・E・グラッドストンがイギリス軍をパレスチナに派遣したときから、レバントと東地中海をめぐって争ってきた。・・・

   第一次世界大戦中、イギリス政府がパレスチナユダヤ人の祖国を作るというハーバート・サミュエルの提案に耳を貸したのは、実はシリアを支配しようとするフランスに対するイギリスの不満が原因だった。1914年11月、イスラム世界全体のカリフでもあったトルコのスルタンがイギリスに対して聖戦(偉大なるジハード)を宣言すると、イギリスは翌年、ガリポリ経由でコンスタンティノープルに大規模な帝国軍攻撃を仕掛けてこれに対抗した。これは大失敗に終わったため、1916年、イギリスは預言者ムハマンドの子孫であり、イスラム世界で唯一スルタン/カリフを凌駕する存在であったメッカのシャリフ、フセインに目をつけた。

 ・・・

「ジョルジュ・ピコによってこの協定[1916年1月3日]を強要されたことに憤慨したイギリスは、直ちにこの協定を回避する方法を模索し、特にパレスチナの不満足な解決によって残された防衛の隙間を埋める方法を模索し始めた。そのために英国は、1年前から政府内で流布していたあるアイデアに目をつけた。それは、シオニズムパレスチナユダヤ人国家を建設するという、まだ成功していない政治運動)への支援が、イギリスが中東での地位を確保するためのよりよい方法だというものだった。」30

 

   また、1915年1月にトルコ軍がシナイ半島を攻撃してスエズ運河を奪取しようとした試みが失敗した後、イギリスはシナイ半島を奪還したが、1917年春にはガザで2度の戦闘に敗れている。エドモンド・アレンビー将軍(オリバー・クロムウェルの子孫)はその後、イギリス軍を率いてシナイからエルサレム(1917年12月)、ダマスカス(1918年10月)へと北上し、勝利を収めた。この作戦は、フセインの息子ファイサル王子の盟友で、アラブ人の独立と国家化を目指していたT・E・ロレンス大佐(「アラビアのロレンス」)率いるシャリフ・フセインのアラブ軍の支援なしには成功しなかっただろう。

 18世紀、さらには12~13世紀の十字軍にまでさかのぼるイギリスとフランスの古くからの帝国間対立は、1948年のイスラエル国家成立につながる出来事にも少なからず影響を及ぼした。アレンビーは1917年12月7日、13世紀以来のヨーロッパ軍を率いて、謙遜から徒歩でエルサレムに入った。彼は、「十字軍が終わったのは今だけだ」と発言したと言われているが、彼は報道官に「十字軍」や「十字軍」という言葉を使わせず、自分はイスラムではなくオスマンと戦っているのだと考えていた。しかし、20世紀にパレスチナに入植したシオニストは圧倒的にヨーロッパ人であり、アラブ人は彼らを現代の十字軍の一種であり、700年前に十字軍がそうであったように、抵抗し追い出さなければならない植民地侵略者であるとみなした。

 シオニストたちは、ガブリエルの時代からの民族主義的な衝動に従い、自分たちの民族がこの土地に対して唯一無二の古代の権利を有していると信じ、1000年以上にわたって他民族が居住していた土地に近代的な国民国家を樹立しようとしたのだ。

1 https://www.timesofisrael.com/israels-declaration-of-independence-may-14-1948/

このエッセイでは、1939年から1945年にかけてのナチスによるユダヤ人大虐殺については言及していない。というのも、上記のダヴィド・ベン・グリオンの演説から引用したイスラエルの独立宣言の部分は、大量虐殺に言及しているのではなく、むしろ本稿の19ページで言及した4つの要素(冒頭の段落: 「1948年の独立宣言は......」と始まる段落)。もし大虐殺が起こらなかったとしても、シオニスト運動はユダヤ人国家の建設を主張し、必要であれば、イギリスを追い出し、目的を達成するためにイギリス政府と軍事的に戦っただろう。

2 テルアビブ大学名誉教授シュロモ・サンド著『ユダヤ民族の発明』(2009年、英文訳)p.181f.参照。

3 https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_diaspora

4 https://en.wikipedia.org/wiki/Mandate_for_Palestine#cite_note-247 注釈 [t]

5 https://en.wikipedia.org/wiki/Mandate_for_Palestine#cite_note-224

6 帝国列強はもちろん、他の窃盗、征服、欺瞞行為によって自国の植民地の多くを獲得していた。

7 以前は、特にアメリカでは多くのユダヤ人が親独派であり、ドイツ政府は彼らの支持を維持しようとしていた。

8 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration

9 ロイド・ジョージ首相よりも強力だったのは、戦争継続を確実にするために、何カ月も前からそのような動きを計画していたミルナーとその支持者たちによって、1916年12月にクーデターによって政権を奪取されたロイド・ジョージ首相であった。それに比べると、ロイド・ジョージは政治的レトリックの才能に恵まれた元弁護士であり、政治的日和見主義者に過ぎなかったが、ミルナーはイギリスの帝国の将来に関して、彼自身の徹底した信念と信条に従っていた。

10 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration#cite_note-250

11 Cheryl A. Rubenberg, Israel and the American National Interest: A Critical Examination. University of Illinois Press, 1989, p. 26.

12 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration#CITEREFHurewitz1979

13 https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1650658. J. B. Quigley, 'The Perfidy of Albion: The Perfidy of Albion: Britain's Secret Re-Assessment of the Balfour Declaration", Ohio State University, 2010, p. 3.

14 同書4ページ。

15 同書 p. 5.

16 同書 p. 5. この英国政府メモは正確ではなかった。宣言は1917年11月2日に発表された。

14 同書4ページ。

15 同書5ページ。

16 同書 p. 5. この英国政府のメモは正確ではなかった。宣言が行われたのは1917年11月2日で、サンクトペテルブルクボリシェヴィキがクーデターを起こす5日前だった。ソビエトが1918年2月18日にドイツとの和平を最終的に求めるまでに少なくとも3ヵ月を要し、ドイツ軍は「1918年(3月21日)の大攻勢に備えて西部戦線に大軍を集結」させることができた。

17 前掲書、クイグリー、6 ページ。

18 https://www.scribd.com/fullscreen/60431057?access_key=key-136ulpy32ssl2l27p8nb

英国の外交政策に関する文書、1919-1939 年。(London: H.M. Stationery Office, 1952), 340-348 Nº. 242. シリア、パレスチナメソポタミアに関するバルフォア氏(パリ)の覚書」1919 年 8 月 11 日。

19 J. Barr, A Line in the Sand - Britain, France and the Struggle that Shaped the Middle East (2011) p. 32.

20 B. Wasserstein, The British in Palestine: The Mandatory Government and the Arab-Jewish Conflict 1917-1929 (1978), p. 92.

21 Quigley, p. 11.

22 前掲書、Quigley, p. 13.

23 前掲書、Quigley, p. 14.

24 前掲書、クイグリー、14頁。

25 前掲書、クイグリー、18頁。

26 前掲書、クイグリー、19頁。

27 J. Barr, A Line in the Sand, pp.

28 スコフィールドは、彼の新しい聖書の作成と宣伝において、裕福なユダヤ人から多くの援助を受けていた。スコフィールドの神学は、プリマス・ブレザレン創始者の一人であるイギリス系アイルランド人ジョン・ネルソン・ダービー(1800-1882)のディスペンセーション主義の教えに基づいていた。

29 これらには、ユダヤ人のイスラエルへの帰還と、「艱難の時」に信仰深い「教会」が天に召される「携挙」が含まれると主張された。これらは、20世紀のアメリカにおけるキリスト教原理主義と「キリスト教シオニズム」の主要なテーマとなった。

30 J. Barr, op. cit., p. 32.

――――――――

 現在の問題の根源を歴史的に探れば、英米仏等の相矛盾した政治的思惑に求められるが、更にその背景には、ある種の宗教的熱情があげられるようである。

 それは旧約聖書の民としてのユダヤ人に対する一部の英米人の特別な感情である。自らをユダヤ人になぞらえ、自分たちこそ新たな「選ばれた民」であるとし、救いの成就のためにユダヤ人の「故郷への帰還」を望むというものである。

 それは、また、アメリカの福音派の、キリストの再臨(そして自分たちの救い)のためにイスラエルの地でのハルマゲドンを待望するという、我々からすれば常識を越えた宗教的信念とも結びついているのだが、今のアメリカでは、このような宗教勢力の政治に対する影響力が大きいことも、アメリカの強固なイスラエル支援の一つの要因と言われている。

 

 これらのことには、今のイスラエルを支配している「シオニズム」とも密接に結びついている。

 以前紹介した『影のブラザーフッド』という本の中で、著者のハインツ・プファイファー氏は、シオニズムについて次のように述べている。

「『約束の地』、イスラエルパレスチナ、そしてシオン(エルサレム)へのユダヤ人の帰還を目指す潮流もまた、メシア主義の中に数えなければならない。シオニズムという言葉は1893年に作られたもので、このメシア的期待の宗教的な根源を表現している。」

 シオニズムもメシア待望の宗教的信条と関係があるというのだが、それゆえにまたイスラエルや欧米でそれが正当性をもっているのであろう。

 今これらの宗教的信条の是非を論じることはしないが、無辜の人々の命を奪うことをそもそも宗教が許容してよいのか、という疑問は提起しておきたい。

 残念ながら宗教の名の下に人殺しが正当化されてきたことは、宗教の影の側面として人類の歴史に刻まれている。だが、そうした宗教は、本来の姿を失ったもの、影の勢力に変質させられてしまったものと考えることが出来るかもしれない。

 

 イスラエルユダヤの問題は、非常に複雑な要素を含んでいる。

 ハインツ・プファイファー氏は同書の中で、第2次世界大戦中、シオニスト運動は、ナチスと協力関係を持ち、パレスティナへのユダヤ人移住を進めていたと述べている。

 一方、今の問題についても、正統派ユダヤ教徒の中には、本来のユダヤ教の教えにシオニズムはないとして、ガザの虐殺を批判する人達がいるという。

 当然、ユダヤ人とされる人々にも色々な立場、考えが存在するのだ。実際に世界的にユダヤ系とされる人々の影響が大きいのは明らかと思われるが、「ユダヤ陰謀論」に単純に追随することには問題があるだろう。

 ただ、そこに、例えば純粋な宗教的心情を利用して、自己の利益を追求している勢力がないかどうかに注意を向けることは意味があると思われる。

 パレスティナの地は、世界の地理的中心であると同時に、歴史的にも中心と見ることができるとするなら、そこで起きる出来事には、確かに、世界の歴史を動かす力が潜んでいるのではなかろうか?