k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

フリーメイソンと世界大戦②

 アメリカのFOXテレビの人気政治トークショウの司会者だったタッカー・カールソン氏が、ロシアのプーチン大統領にインタビューしたことが、(日本を除く)世界中で話題になっている。
 カールソン氏は、親トランプで、アメリカのウクライナ支援を厳しく批判してきたことから、FOXテレビから追い出されたのだが、今でも根強い人気があり、そのネットでの情報発信はテレビよりも影響力があるとされる。
 今回、プーチン大統領にインタビューしたのは、これまでのウクライナ支援の問題追及の延長戦で、西側の主流メディアがロシアの主張を全く取り上げず、一方的な情報になっているからだという。
 これに西側の各国政府は、「真実が明らかになってしまうと」慌てているとされ、アメリカでは、カールソン氏の帰国の禁止や逮捕、UEでは入国禁止などの話が出ているという。
 「陰謀論」界隈では、このインタビューに期待する声が大いに盛り上がっているようである。公開は明日の予定である。

 さて、今回は「フリーメイソンの歴史」の第2回目である。

 前回は、カルル・ハイゼ氏の『協商フリーメイソンと世界大戦』から序言部分を掲載したが、今回はそれに続く、フリーメイソンにつての概論的説明である。
 ここでは、前回①で述べられていたように、本来、フリーメイソンは、特定宗教や政治の思惑から無縁であったのだが、やがてそれが変質していく過程にも触れられている。それは、主にイギリスのフリーメイソンに関する話となるのだが、イギリスにおいては、当初から、特定のグループの政治的目的のために活動する組織であったと説明されている。
 これに対してフリーメイソンの本来の理念、理想を維持していたのがドイツ系のフリーメイソンであり、そこから、人類の文明に貢献するゲーテのような偉大な人物達が生まれてきたというのだ。
 また、フリーメイソンは特定の信仰にこだわらないため、カトリック自身は否定するが、カトリックを含む宗教者がメイソンであることも可能であったという。

 本文の前に、前回詳しく触れなかったハイゼ氏 (Karl Hermann Heise、1872年11月27日- 1939年8月18日)の略歴について紹介したい。

 ウィキペディアにもハイゼ氏の項目があるが、ハイゼ氏の『オカルト・ロッジ』の記載と合わせて述べれば次のようである。

 ハイゼ氏は、ベルリンで、父から印刷技術を学び、チューリッヒで植字工として働いた。ドイツ語のウィキペディアでは、「彼は民族的なルーン文字神秘主義者であるアリオソフィストのグイド・フォン・リストの支持者で、チューリッヒ人智学協会とマズダズナンの宗教のメンバーだった。彼は後に新しく設立されたイルミナティ教団に加わった。彼の『協商フリーメーソンと世界大戦』は、反ユダヤ主義と反フリーメーソンの陰謀文学の古典」とあり、評価としては、批判的なニュアンスが加えられているように見える。

 彼の著作(『オカルト・ロッジ』)の記述によれば、シュタイナーが、英国のロッジの秘密地図について講演し、「誰かがこれらのことを扱い、書くべきだ」と発言したことを聞いて、フリーメイソンに関する著作の執筆を決めたという。

 彼は、「メーソンの思想にいつも熱中していた・・・自身はフリーメーソンになったことはなかったが、フリーメーソンについて知ることのできるものはすべて--すでに何年も--読んでいた」という。

 シュタイナーは、彼の最初の本である『協商フリーメイソンと世界大戦』に、献辞を送っただけでなく、その出版費用の一部を提供したという。

 しかし、シュタイナーの献辞については、その本の内容から、それによってシュタイナーが更に今以上に攻撃を受ける危険性があるために、掲載を見送ったという(私が購入した本にシュタイナーの文章がなかった理由はこれであったようだ。もともと付いていなかったのだ)。

――――――――

一般的な考察

 ここで、ロッジについての一般的な事実から、詳細な考察を始めることにしよう。最初に言っておかなければならないのは、ロッジにはたくさんの色合いがあるということだ。実際、非常に多くのロッジがあるため、最も学識のある団員メイソンでさえ、それらを完全に探求することはできていない。団員 J. D. Buck博士(F.T.S.S.R., - 32.-)は、その著書『神秘のメイソンリー』9ページ(Berlin-Großlichter-felde 1908年)の中で、メイソンリーに導入された800の異なる階位について述べている。ベルギーの団員 J.M.ラゴン1)(最も著名なメイソン入門者の一人)は、その『Rituels maeonniques』の中で、105の異なるメイソン組織、48の儀式、30つの秘密結社、1400以上の階位について述べている!パリのメイソン作家フュスティエ(フランスのグランド・オリエントの幹部)は、40数種類のメイソン高位の階位のコレクションを持っており、メイソン界には少なくとも数千の異なる階位に関する文献がある。これだけあれば、バック博士と同じように言うことができる。「メイソンの正当な歴史については何も知られていない。ある時代に特定の組織や運動が存在し、意見の相違や外部からの迫害のために消滅したことを伝える支離滅裂な事実や断片があるだけである。」

 それでも、多くのことを知ることができる。そして私たちは、何十年も "その渦中 "にいた人々のためにも、いくつかのことを明らかにするよう努める。

 しばしば“青いロッジ"2)について語られる。しかし、これまでは、それぞれの階位や階位グループ、あるいはそれぞれの役職が独自の色を持っていた;

 

1)「団員ラゴンの死によって、フランスのメイソン友愛会は、メイソンに歴史を研究するよう促そうとする力を失った。なぜなら、そうすることによってのみ、偏見から自由になることができるからである」と、この偉大な人物--彼はまた、同時代で最も傑出したオカルティストの一人でもあったが、1862年に死去した--を称えて、第2巻の『フリーメーソン総覧』p.214に書かれている。

2)A.ホルネファー博士は、キリスト教においても、古いゲルマン宗教においても、青は神聖な色と考えられていたと指摘する。「ヴォータンは聖母マリアのように青いマントを着ている。それはすべての神話を貫いている」「青は洗礼式で子供たちに授けられる衣服の色である。アズール(青)は、神秘的には「深み」または「混沌から勝ち取った世界」を示す。薔薇十字会の著者であるH・ジェニングスは言う。- 青はエジプトのイシスの色であり、オシリスやインドのヴィシュヌは天界の支配者として描かれている。青は修士と職工の衣服の色であり、石工の旗は青い布で作られている。ドルイド教団では、吟遊詩人マスター(Bardd ynys Pryadain)も空色の衣を着ていた。アメリカの神秘の神「ヴィッツリプッツリ」は、紺碧の球体(世界が出現した世界の卵)の上に座っている姿で描かれ、儀式の行列の際には、彼の像は空色の輿に乗せられて運ばれた。インディアンと同様、彼の額と鼻には青い縞模様が描かれ、これは「カーストにおける最高位の記章」であった。最後に、古いユダヤ教のテント(無限の空間の象徴)の主な色として青が選ばれた。現代の高位のアルマネン団員であったウィーンのGuido v. Listはその "Bildersprache der Ario-Germanen "の中で、青は痛みを伴う覚醒の色であり、精神的な内面化と受精の色であると述べていることに注目すべきである。。

 

 フリーメイソンにとって、青は最も神聖な色であり、高位の階位においては、他の色が現れる。アウグスト・ホーネファー博士が『Symbolik der Mysterienbünde』p. 147/48で述べている。青または聖ヨハネの3つの階位に加え、「スコットランドの高位階位」が考慮され、またこれらのうち、影響力のある「灰色ロッジ」(いわゆる「灰色の人々」と呼ばれる人々。これについて、1917年6月15日付の『ノイエ・ズュルヒャー・ナッハリヒテン』は、フランス外交のためにスイスで行われた政治活動に関して、いくつかの「有益な」情報を与えている)、および赤、オレンジ、緑のロッジが考慮される。その理想的な組織において、「ブルー・ロッジ」は今日でも尊敬に値するが、この少数のロッジでさえも、当時の利害関係にまだまみれていないものの、「古い秘儀の継続というよりは、むしろ模倣とみなすことができる」(レボルト博士『メイソンの歴史』): それ自体、「フリーメイソンとは、人間の中に生きる(あまりにも)人間的なものを、神的なものによって征服することであり、道徳と理性によって情念を克服することであり、絶え間ない努力である。. 物質的で感覚的なものに対する精神的なものである」(バック博士、『Mystische' Maurerei』1908年、242ページ)。このような理由から、神への崇拝は、古代の秘儀の知恵の響きとして、時代のあらゆる物質主義的な流れにもかかわらず、今日でも内面的に認識されるメイソンリーにおいて神聖な役割を果たしている。「フリーメイソンは、神を宇宙のマスタービルダーとして崇拝し、その奉仕の中に身を置いている。もしフリーメイソンが神という観念から切り離されるなら、その理想的な努力は永続的な力と最高の目標を失うだろう。神への畏敬の念を見失った者は、ロッジから追放されるであろう」(『Handbuch der Freimauierei』I、p.375)。1813年の英国グランド・ロッジの儀式では、聖書はキリスト教の肯定的な文書として登場し、愛への賛辞の中で、「私たちはキリスト教徒であり、メイソンであることを思い出そう」と述べている。(それにもかかわらず、英国のグランド・ロッジが非キリスト教徒を受け入れたとすれば、『フリーメイソン一般ハンドブック』II、237頁にあるように、-そして残念ながら、このことは破滅的な現在の政治的出来事にとっても決定的なことになっている!- つまり、その代わりに、(イギリスの)ロッジが、非キリスト教国におけるイギリスの影響力とイギリスの支配を促進し、強化する手段とみなされることにより、交易と植民地政策の利益が先ず決定的になっているのである。【訳注】) 「祈りは(また)フリーメイソンの真剣さの本質的かつ必要な表明であり、すべてのロッジの仕事は祈りで始まり、祈りで終わる」("Allgemeines Handbuch der Freimaurerei" I, p. 341): そして、炎の六芒星(キリストのシンボルであり、しばしばダビデの印、あるいはゲルマン語で「シギル・サルマンス」=イニシエートの力の印と呼ばれる)の「G」の文字は、「神」、「幾何学」、「グノーシス」(すなわち、知識と認識)だけでなく、「スウェーデン・システム」のように、「厳格な服従」(厳格に精神化されたメイソンリーにおいて)、「ゴルゴダ」と「ゴットフリート・フォン・ブイヨン」(1096年から1099年にかけて、このブローニュの騎士の下で行われた最初の十字軍を記念して、彼はエルサレム王に選ばれ、聖墳墓の後援者となった)をも意味する。

 「諸国家の差異をもつ様々な義務を決して廃止しないメイソンリー」の目的は、「すべての国々の人々で構成され、科学、道徳、徳の絆で結ばれた新しい民族を創造することである」(参照:アルバート・パイク著『道徳』)。この下では、しかし、現実に追求される国家政策が考えられているのではない。なぜならそれは次の意味だからである。カーストによる偏見をなくし、民族と民族を和解させ、戦争の火種を抑え、「一言で言えば、......永遠の模範に到達すること」を意味していたのである。人間一人ひとりが、自分に与えられたあらゆる能力を自由に開花させ、すべての人の幸福のために力を尽くして協力し、全人類を愛情、知恵、労働によって結ばれた兄弟の家族にする」(リボルド『歴史』p_ 62、バック博士による引用)。ことなのだ。

 

【訳注】イギリスが植民地支配にフリーメイソンを利用したということだが、それに似た例は、まさに日本でも見られるだろう。明治維新の背後にはイギリスの動きがあり、実際にロッジも作られているからである。日本へのこうした影響がいつまで続いた(続いている)かは分からないが、先の大戦後に日本を占領した米軍にフリーメイソン・メンバーがいたことは指摘されている。

 

 古代の秘儀から引き出されたこの非常に独創的なメイソンの目的は、1723年以前の古い「メイソンまたは石工の会則」-それはまた、中世に生まれた、石工職の、しかし純粋に霊的にも理解できる「石工ギルド」としてのいわゆる「自由石工メイソン」に基づいている。-により支えられている。現代のメイソン象徴主義の精緻化(真に思弁的なメイソンリーであり、それ自体は-1月1日付のチャールズ・S・アンのブラヴァツキー宛て手紙によれば-、「1717年のメイソン革命」に始まる。)は、その本質的な特徴と、ロンドン・グランド・ロッジ協会の大多数のロッジによるその採用の中で、1723年から1730年頃までの期間に、団員モンターグ大公1)、アントン・セイヤーズ、デサグリエ博士(ニュートンの弟子)、ワールトン公爵(後者はその後、23年ロンドン協会のグランド・マスターが不可能になった後、分離して「ゴルモン騎士団」の主要な担い手となった)という兄弟たちのグランド・マスターまたはグランド位階の指導の下で行われた。「石工憲章」は、画家でグランド・マスターで、1751年にアイルランドの石工たちによって創設された「グランド・ロッジ・オブ・エンシェント・メイソン」(このグランド・ロッジは、1813年に1717年のロンドン協会のイングリッシュ・メイソン・ロッジと合併し、現在世界的に有名な「ユナイテッド・グランド・ロッジ・オブ・イングランド」を形成した)の魂であった団員ローレンス・ダーモットにより作られた。『Annuaire de la Maconnerie Universelle』によれば、1717年に設立されたイングランド・グランド・ロッジは、1721年にスコットランド長老派の説教者であるアバディーンのジェームス・アンダーソンに、1723年に承認された『会則集』の作成を依頼し、1738年に校訂された。

 

1) このグランド・マスターの記憶は、現在もライム・リージス(ドーセット州)にあるイングリッシュ・ロッジ "Mon, tague "によって尊重されている。

 13 p

 

 団員アンダーソンはしばしば批判されるが、当時のプリンス・オブ・ウェールズは、メイソン団員として、アンダーソンに捧げられた著作を受け入れた。団員ゴットホルト・エフライム・レッシング(ハンブルクのロッジ "Absolom von der strikten Observanz "に最初に参加した偉大なドイツ人詩人)によれば、アンダーソンの会則は、寒々としたいんちき狂詩曲である。ゲオルク・シュスター博士もアンダーソン牧師を高く評価していないようであり、前述の団員チャールズ・サザラン(32階級)【訳注】は、この編纂物は「メイソンの詐欺師の作品」であるとさえ述べている。 確かに、1717年の「革命的メイソンリー」にとって心強い推薦ではない。サザランは、この【改訂前の】会則はイギリスの「自由で認められたメイソン」の新しく開花した最初の偉大なロッジのために書かれたものであり、この組織から、「全地球に広がる他のすべてのロッジはこのロッジから発している」と付け加えた(現代の思弁的ロッジの前には、とりわけ、1650年に早くもロンドンで創設された「愛国的メイソンロッジ」に先行しており、フランツ・フロイデンベルク=ドレスデン医学博士は、彼の "薔薇十字の初期の歴史", p. 25の中で言及している)。32階級の団員サザランもまた、この会則は他のロッジの規則などから編集・改造されたもので、「沼地で育った」と述べている1)。メイソンリーの傑出した著名人の一人によるこの告白によれば、『時代の声』(1917年、p. 260)が言うように、1723/38年の会則集に特徴づけられたメイソンリー-特筆すべきは、ドイツとスイスのメイソンリーを含む現代のすべてのメイソンリーがそこから生まれた-においては、元々のまた真のメイソンとはただ一定の外的形式で一致しており、会則本に取り込んだ文章-しかしそれ自身は、もとより、濁りなく霊的な仕方で、生あるものになることがない-にその意図がある根拠付けが重要であった、と確かに考えることができるだろう。1723年のこの会則集(その一部は、再び発見された70以上の中世フリーメイソンの古い写本に少なからず基づいている)に従った、いわゆる「古い義務」は-後に抜粋された文章はそれに由来する-、常に、一般的に従えば、全世界の救済に役立つとしか言いようがないほど、評価に値するものである。

 

【訳注】イギリスの古物商、書店、ジャーナリストであるが、神智学協会の設立に関与し、ブラヴァツキーらに影響を与えたとされる。

1)サザランのブラヴァツキーへの手紙参照

 

 世界 1901年、ドイツ・フリーメイソン協会発行の『フリーメイソンリー一般ハンドブック』第二巻、150~154頁から引用する:

 

1:「メイソンは道徳律に従う義務があり、その術を正しく理解すれば、神を否定する愚かな者にも、不信心な自由思想家(リベルタン、異端者2))にも決してならない。すべての人の中で彼が最も理解すべきなのは、神は人が見るようには見ないということである。それゆえ、メイソンは特に、自分の良心の命令に背く行為をしてはならない。メイソンは、兄弟愛の堅固で心地よい絆の中で、あらゆる説得力のある高潔な人々と団結する。彼らは、人類の逸脱を憐れみ、自らの行動の清らかさによって、彼らが公言する信仰の優れた功徳を証明するよう努めるように教えられている。

 

2)"Haraesie "は、原語のギリシャ語の秘儀の意味では、より高い召命のために "選ばれる "という意味であり、異端は、中世またはより最近の時代における後の歪曲された言葉の意味においてのみ、"異端 "とみなされる。

 

2.メイソンは、どこに住み、どこで働こうとも、市民当局の平和的臣民であり、人民の平和と福祉に反する陰謀や謀略に関与せず、下級当局に対して義務に反する行為をしない。したがって、兄弟が国家に対する反逆者である場合、その反逆を強化してはならない。

  1. ロッジの会員として認められる者は、善良で忠実な者でなければならない。

4.従って、マスターまたは監視者は、年齢によって選ばれるのではなく、功績によって選ばれなければならない。

5.グランドマスターは、特に功績の大きい者でなければならない。

6.ロッジの門前で論争を持ち込んではならない。ましてや、宗教、国家、憲法について論争してはならない。なぜなら、われわれメイソンは、上記の一般的な宗教を信仰しているだけであり、同様に、われわれはあらゆる国家、言語、民族、言語を信仰しており、ロッジの福祉に好ましいことはこれまでも、これからもないであろう政治への干渉には断固反対する。

 

 さて、ドイツの8つのグランド・ロッジと、ドイツ・グランド・ロッジ連盟の中で互いに結合している5つの独立したドイツ・ロッジは、常にこれらの原則に従ってきたと、明確な良心をもって言うことができる。そしてこのことこそが、おそらく彼らが、最終的に「沼地メイソンリー」として協商兄弟団に蔓延した悪い影響から免れていた理由であろう。しかし、これはおそらく、ドイツ・フリーメイソン全体が、世界大戦勃発時に、協商フリーメイソンの世界的な連鎖から完全に孤立し、拒絶されていた理由でもある-「帝国皇帝の寛容者」であった前の団員フリードリヒ3世の意味で、人類の和解という崇高な理想の意味で、愛と寛容と自由の拠点として。人間性の大聖堂への取り組み--これは常に明確な良心をもって言うことができる--、永遠の思想は、常にドイツのメイソンの焦点であったし、そうあり続けた!J.C.シュワーベが『世界大戦をとおした世界メイソンの新構築』(ベルリン、1918年)の中で述べているように、ドイツは、常に、普遍的な人類思想の祖国であり、団員アレクサンダー・アダムによれば、「人類を精神的、道徳的、社会的堕落と悲惨から救済する愛の業を、フリーメイソンのメシア的使命と」を感じていたからである。

 現代のメイソンリーについてそれなりに詳しい人なら誰でも、「スコティッシュ・ライト(スコットランド儀礼)」が世界大戦にどのような影響を及ぼしたかを知っている。団員サザランは、1877年の時点で、この「古くかつ受け入れられた(古代公認)スコティッシュ・ライト」を「青いロッジによって認められていない」雑種と呼び、さらに、このスコットランド・ライトはもともとイエズス会の Chevalier Ramsay 1【訳注】のアイデアから生まれたものであり、このスコティッシュ・ライトは1736/38年にスチュアートの大義を促進することを意図したものであると付け加えている1)。これは、スコティッシュ・ロッジが最初から政治的なものであったことを特徴づけるものである

 

【訳注】一般にシュヴァリエ・ラムゼイとして知られる、サー・アンドリュー・マイケル・ラムゼイ(Sir Andrew Michael Ramsay、1686年7月9日 - 1743年5月6日)は、スコットランドのエアーでパン屋の息子として生まれた。作家で、成人してからの人生のほとんどをフランスで過ごした。彼はジャコバイト(名誉革命反革命勢力)貴族の男爵だった。ラムゼイは1710年にオランダのフランソワ・フェヌロンを訪れ、彼の静寂主義に惹かれローマ・カトリックに改宗した。

 

1) 『フリーメイソンリー総覧』II、215頁は、アンドリュー・マイケル・ラムゼイを擁護し、ラムゼイの政治的陰謀への参加を否定している。しかし、スチュアート王家の僭称者チャールズ・エドワード【ジャコバイトの主張したイングランドスコットランドの王位継承者(または王位請求者)】の家庭教師として、ラムゼイはエドワードに影響を与えた。チャールズ・エドワード・スチュアートがグランド・マスターであると主張していたことは、『ハンドブック』439ページにも記されており、このスチュアートあるいはその追随者がフリーメイソンの高位階位を政治目的に利用した可能性も認めているいずれにせよ、このスチュアートはメイソンであり、いくつかのロッジは今日でも彼の名を冠しているし、さまざまなメイソンの著作によれば、彼はまた、アラスとトゥールーズのローズ=クレオールのロッジの後援者であり、「エルサレムの神殿」のグランド・マスターであったとされている。実際、団員. ラムゼイは、団員オルレアンのフィリップ2世、聖ラザロ団のグランド・マスターによりフリーメイソンに紹介された。Dr. Ludw. Keller, 『神殿騎士団フリーメイソン』 (Diederichs, Jena)によると、1490年に教皇インノセント8世によって解散させられた聖ラザロ騎士団は、16世紀に再興され、ルドウィグ14世がグランド・マスターの職を引き継いだ。団員. フェネロン大司教は、ラムゼイがプロテスタントイエズス会の信仰を交換した後、ラムゼイをこの聖ラザロ修道団に引き入れた。ケラー博士によれば、ラムゼイはプロテスタントイエズス会の信仰を交換した。団員ケラー博士は、フランスの政策がスチュアート家に有利な方向に向かったとき、ラムゼイはクリスに向かったと付け加えた。ラムゼイが博士号を取得したのは、(ケラーによれば)スチュアート朝代理人とみなされたからである。1723年当時、ラムゼイは「スチュアートの代理人として、誰もが知っている人物」であり、「イングランドのグランド・ロッジは、1717年以来、ハノーファーの保護下で活動していた。ラムゼイはまた、ルイ15世枢機卿フルーリーとも親密な関係にあった。クロースの報告によると、ある晩、カトリック界では「6人以上の騎士がパリでこの聖霊騎士団に入団した」という。グランド・マスターの団員Karl Derwentwaterは、1716年に反乱罪で死刑の判決を受けた(彼は逃亡したが、1746年に運命は彼をつかまえた)。・・・また、(ケラーによれば)このエルサレムの聖なる神殿の高位勲章」は、教皇庁によって禁じられたことはなかった。したがって、団員サザランの言うとおりである。しかし、英国王室をスチュアート家に返還するための努力は完全に失敗した。

 

『時代の声』(1917, p. 267)は、グランド・マスター、公爵フォン・ワルトンが、マドリードの宮廷へのスチュアートの特使として、1728年に最初のスペイン・ロッジを創設したとも述べている2)英国グランド・オリエト・メイソンリーとスコティッシュ・ライトが、当初から英国フリーメイソンリーに蔓延していた底流の影響から解放されていないことは、以下の事実からも明らかである。イングランド連合グランド・ロッジの中では、ベッドフォードのスチュアート・ロッジ、クロイドンのクレアモント・ロッジ、そしてヘイスティングスとウィークスワース(ダービー)のダーウェト・ウォーター・ロッジが、今日でも繁栄しているのだ。

 

2)フランスに関して言えば、そこでも(『国際評論』1917年10月号のレオポルド・カッチャーによれば)フリーメイソンは直ちに大規模な政治組織として登場した。フランスにおけるメイソンの導入は、イングランドにおけるスチュアート朝の復古を支持する立場に直接依存していた。(グランド・マスターのダーウェント・ウォーター卿は1746年、断頭台でこの政策の代償を払わなければならなかった【第5代伯爵はイギリス軍に捕らえられ処刑された】)。こうして英仏メイソンは、新会則が制定されて30年経過するうちに、非政治的であるという基本目標を後回しにした

 

 団員サザランについては、彼はメイソン「ニューヨーク・リベラル・クラブ」の連絡幹事であり、「ロージー・クロス」という現代のイギリスの友愛会の入会者であり、メンフィス儀式の入会者であり、「ニューヨーク・アドヴォケイト」のメイソン編集者であった。しかしキリスト教に対する彼の立場を考慮すると、彼を真のイニシエートとみなすことはできない。というのも、彼は聖書を偽りの啓示とみなし、フランスのグランド・オリエントが無神論者や唯物論者をメイソン兄弟として受け入れることに全面的に同意しているようだったからである。真の薔薇十字団 が同じことをするかどうかは疑問である。しかし、我々はまた、団員サザランが所属していた「ブルー・ロッジ」を含むフリーメイソンリー全体が、恐ろしい袋小路に陥っていることも見ている。「青」であろうと、「灰色」であろうと、「オレンジ」であろうと、ロッジのシステム全体が、時の流れの中で完全に不愉快な袋小路に陥っていることを我々は見ている。その中で、それらは、スコティッシュ・ライトの "灰色とオレンジの男たち "と一緒に、世界大戦に巻き込まれるのを見なければならなくなるのだ。

 我々だけでなく、深く観察する多くの人々にも、しかし、「青」であろうと「灰色」であろうと「オレンジ」であろうと、-- イタリアのように、グランド・オリエントとスコティッシュ・ライトが対立することがあったとしても、-すべてのロッジ存在が時間の経過とともに完全に融合したと思われるのだ。1)

 

1)イタリアの "スコティッシュ・ライト"は、1905年に故フェラ牧師のもとで発展した。グランド・オリエントはパラッツォ・ジュスティニアーニで、スコティッシュ・ライトはピアッツァ・デル・ジェズーで開かれる。1917年7月14日(この日、フランスとイタリアとの間で、イタリアへのトリエンテとダルマチアアルバニアなどの割当ての可否をめぐってロッジの危機が勃発した)までのグランド・オリエントのグランド・マスターは団員エットーレ・フェッラーリで、スコティッシュ・ライトでは、国会議員Cameraが代表していた。 イタリア・グランド・ロッジには、ジョルダーノ・ブルーノ協会、「コルダ・フラトレス」協会、「ラティーナ・ジェンズ」協会、「ダンテ・アリギエーリ」協会がある。最初の3つの団体はフェッラーリによって設立され、社会主義者のボゼッリ首相は「ダンテ・アリギエーリ」協会を長い間率いていた。イタリアのグランド・オリエントには、トリエステ・トリエンツ、ダルマチアなどをイタリアに併合することを宣伝する多数の民族解放主義者の団体も含まれていた。グランド・オリエントは当時、「美術」の全分野とイタリアの大学制度を支配していた(『ノイエ・チュルヒャー・ナッハリヒテン』1917年、205号)。ドイツの団員レオポルド・ヴォルフガングが 『見えない神殿』1916年7号で述べたところによると、サヴェリオ・フェラ司祭の 「スコティッシュ・ライト」は、政治的にやや従順な感じのもの(いわば右翼)であった。フェラのグループには団員アントニオ・サランドラもいる。サン・ジュリアーノに続く主要な聖職者であった彼は、(エットーレ・フェッラーリのもとで)イタリア・メイソン界の「左派」の要求の激化にまったくついていけず、そのため団員ソンニーノ(温情主義でより厳しい論調の人物)が彼の座につき、トリエステ紛争が再燃するまでその座にとどまった。

 

「グランド・オリエント(大東)」は、しばしば「グランド・ロッジ」の別名として使われる。この表現は「東方」のみを意味し、太陽が東から昇る(少なくとも見かけ上は)こと、光が東から来る("ex oriente lux")こと、そして多くの霊的知識が地理的に遠い東方から西方に実際に流れてきたという事実と結びついている。インド、ペルシャカルデア、エジプト、そしてキリスト教の原秘儀に関する限りにおいて。

東方の民族は祈りを東方に向け、神殿の主要な入り口は、キリスト教の教会でさえ、東方に向いていたモーセが設置した天幕(エジプトからの脱出のため)も、入り口の門は東を向いていた。知識の目覚めの夜明けは「魂の東」にあり、ドイツのロッジが「内なるオリエンテ」を習慣に取り入れたのはそのためである。グイド・リストは『アリオゲルマリアの神秘言語』(『研究成果』第6巻391ページ)の中で、「オリエント」が常にインドやペルシャなどを意味すると考えるのは完全な誤解であると明確に指摘している。そして実際、人類の偉大なイニシエーション、ヨーロッパを通過した文化は、常にインドやペルシャからのみ始まったわけではない。ヒマラヤ(ガウリシャンカール)やアララトやオリンポスからだけ始まったわけではない。その例として、古いゲルマン民族や「秘教的キリスト教」(本物の薔薇十字団でもある)のイニシエーションが挙げられる。とはいえ、青や聖ヨハネの階位に「古代公認スコティッシュ儀式」を組み込んだ「大オリエント」は、結局のところ、自分たちがそこで成長すべき本来の基本的義務の基盤を離れ、完全に政治の餌食になってしまったと言える。グイド.V.リストがその著作『Armanenschaft der Ariogermanen』Ⅱの28ページでこう書いているのは、残念ながら正しい。:

 

「個人のメセナティズムに惑わされてはならない。なぜなら、これらの人々は、彼らの事業所が、“アライアンス・イスラディット-ユニヴェルセル”、(協商の)“フリーメイソン”(すなわち、グランド・オリエントとスコティッシュ・ライト)のような、最も多様な会社の下で知られている、一つの(共通の)党の知識のある人物として前面に押したてられた、名義だけの人間だからである。実際、低階級の者は、上位の者が誰で、何をしようとしているのかを知らない。だから偽証を犯すことなく、「(共通の指導者と支配者で結ばれた)大インターナショナル」(政治権力とマインモニズムの支配を目指す)や「未知の上位者」とのつながりについて何も知らないと、冷静に誓うことができるのである

 

 グイド・リストは、ロッジやメイソン的に組織された結社では、宗教的、政治的、商業的方向に関係なく、あらゆる種類の人々、すなわち、最も支離滅裂な外見上は正反対の人々-プロテスタンティズムイエズス会ユダヤ教反ユダヤ主義保守主義社会主義などなど-が集まり、同じ組織の上層部や内部で導く人間や存在に支配されており、.....迷わされていることを強調している。団員.マッケンジー(『メーソニカ百科事典』)もまた、ある種の同胞団員を認めている:「彼らは特別な服装をしていないので、彼らを見分けるのは非常に困難である。なぜなら、彼らは、自分に託された特定の『使命』によって、プロテスタントにもカトリックにも、民主主義者にも貴族にも、無神論者にも敬神な者にも見えるように現われるからだ。彼らのスパイはどこにでもいる1)私たち自身は、やみくもに狂信的に、区別することなくすべてを同じ鍋に放り込むような人間ではない。 しかし、神が神殿を建てれば、ルシファー王はすぐにその隣に礼拝堂を構えるという古いことわざが常に真実であることを、私たちはよく知っている。つまり、ユダ体質がすぐに加わって、財布と大言壮語を借り受け、陰謀や謀略、政治的な裏切りや欺瞞などが行なわれる-それらを人は、しっかりと見張ることができなかったし今も出来ない-ことがない理想的に完璧な制度などひとつも存在しないのである。

 

1)参照:"Neue Metaphysische Rundschau", 1912, p. 202

 

 そしてそれゆえ、P. ブラヴァツキー(『ヴェールを脱いだイシス』II, p. 377)が、「メイソンは、利己的な人間たちの集まりに堕した。粗悪な人間によって劣化した」と語っていることを我々は理解できるのだ。にもかかわらず、選ばれた者が、真のヒエロファント【秘儀参入の導師】(真のキリスト教徒にとっては、究極的にはキリスト自身である)の指導の下で、自らの魂を通して行う、唯一の真のイニシエーションが残っている。-それに対して、"仏教的 "あるいは "メンフィス的 "儀式は、そこで可能な最高の知識の輝きへと導き、そこからまたキリストへの道、そしてあらゆる地上のメイソンの33階級をはるかに超えた最高の秘儀参入へとそれは導くのである。(ブラヴァツキーは7つの真のイニシエーションについて述べている。そのイニシエーター1)は、同時に死の広間を通り抜け、宇宙の本当の意味、-その惑星の意味-を明らかにする。しかし、それらは生き方の最高の純粋さを必要とし、戦争において現代の思弁的で抽象的なグレート-オリエントや灰色の人間のメイソンが教え、実践しているように、復讐をすることを許さない。

 

1)『ベールを脱いだイシス』 II, p. 364/65  しかし、ブラヴァツキーもまた、キリスト教に関するある種の異常の結果として、秘密の門を通過することが出来ないままであった。ブラヴァツキーの多数の著作、"Am'Johannesfeste", p. 147を参照)。

 

 ロッジを見分けるのは、現実的にはかなり難しい。例えば、「青」と「灰色」などを区別したり、スコットランド儀式を他のグランド・ロッジから区別したりしたい場合である。最初の3つの階位は「ヨハネ階位」と呼ばれ、他の階位は「スコッツ階位」と呼ばれるが、相補的であるからだ。「独立した」ロッジすら、決してグランド・ロッジの外にあるわけではなく、ドイツ語版『ローゲン・ロッジ』(Arndt'Logen-Rodge')にあるように、グランド・ロッジと相補的関係(対応関係)にある。団員ヴィルヘルム・アルントの『ロッジの話 人間性の神殿の礎石』 1906, p.151/52の言うように、ロッジはグランド・ロッジの外にあるわけではなく、グランド・ロッジと互恵関係(対応関係)にあるからである。

 いずれにせよ、わずかな例外を除いて、誰にでもメイソンの生活に加わることは可能であり、その結果、ユダヤ教や反ユダヤ教イエズス会の底流が入り込むことも大いにあり得るのである。カトリックがしばしば強調する、カトリック教徒であると同時にロッジの団員であることの不可能性については、私たちは、実践的な経験、文学的知識、そしてフランス-イタリアの政治的事実から、即座に否定するイタリアのメ全てのイソンは反体制派かユダヤ人であるということは全くあり得ないと思われる。さらに、本物のメイソンは実践的なキリスト教とまったく矛盾しない。メイソンの教理問答集にはこう書かれている。「聖書は私たちの信仰を方向づけ、命令し、定規は私たちの行動を測り、コンパスはすべての人との関係を決定する。...」 (アルント『ローゲン・レーデン』「ヨハネの祝祭について」147頁)

 

 そしてまた、1756年に、「会則本」は、キリスト教を厳格に信仰する聖職者ジョン・エンティックによっても改訂され、1717年以前(すなわち、メイソンが「職工的」から「思弁的」へと変貌を遂げる以前)に既に存在していた「旧義務」に戻ることとなった(これについては、「時の声」47. Jahrgang" p.270を参照)。さらに、1723年の最初の「会則本」の第6条第2項には、メイソンは「カソリック的な」(即ち普遍的な)宗教の指示を公言していると記されている。真に客観的で中立的な判断では、「カトリック」や「イエズス会」が「メイソン」であることはありえないということは、我々は理解できない1)。他方、物事は、それらの神父や代父が最初から表面的に正直にそれを受け取ると、すぐに駄目になる。我々は、ロッジがヒューマニズムの代わりに専制政治になり下っていることを(それらが引き続きヒューマニズムを強調していても)驚かない。1723/38年の「元々の会則」の編集者である長老派の聖職者ジェームズ・アンダーソンや、彼の後援者であるグランド・マスターのモンタギュー公やウォートン、多くの高名なメイソンたちであっても、レッシングのような強い意志を持った性格の持ち主と認められない場合は。

 

1)32階位、団員バック博士は、『神秘のメイソンリー』の103と24/11ページで、「今日のメイソンリーで、宗教的同胞団の会員が混じっていない階位はおそらく存在しない」と指摘している。- このように、ミュンヘンの『歴史系図年鑑』1952年572も、教会のポルトガル高官の中で最初に共和主義陣営に改宗したリスボンのKardinal Nettoは、ユダヤ人の両親のもと、ベルクハイム(上アルザスのRanpoltsweiler地区)で生まれたが、Netter, Franziskaner という名で世界的秘密組織の会員であると報告している。その後、団員博士教授 Ernst Friedrichs は、『ロシアとポーランドフリーメイソン』72頁で、ポーランドのメイソンロッジでは、「カトリック教会」がよく支持されている、と伝えている。ヴィルナの「熱心なリトアニア人」ロッジの議長は、プジナという名の領主司教が務めており、彼の周囲にはメイソンの聖職者がそろっていた。しかし、カトリックの作家である ハインツ・ブラウヴァイラー博士によれば、前世紀の40年代まで(それ以降もそうでないということがあるだろうか?)、数多くのカトリック信者がプロイセンのロッジの会員になったという(『ドイツとローマのフリーメイソン』p.40)。死後ロッジの庭に埋葬された。以前はカソリック信者だった聖職者団員ルイ・クロード・ド・サン・マルタン【訳注】は、フランスのアカデミーでの、聖ルードヴィッヒ(フランス王ルイ9世)の弔辞で知られている。そして我々はまた、教皇ピウス9世(1846-1878)は若い頃、メイソンだった時期がある(彼自身はそれを否定しなかった)ことを知っている。そして、最終的にカトリックイエズス会の敵であると同時に、自分の著作で批判したフリーメイソンと同様に、結局、カトリックイエズス会からも不都合な存在となった大詐欺師、レオ・タクシルは、矯正施設でイエズス会の教育を受けたが、それは、(たとえ見習い階級にしかなれなかったとしても)メイソンのロッジに入ることを妨げなかった。逆に、元イングランド・グランド・ロッジのグランド・マスターで、陸軍省国務長官であったジョージ・フレデリック・サミュエル・リポリ・ギ・アフ・デ・グレイは、イエズス会に改宗した。我々は、二人の主人-フリーメイソン団員とイエズス会-に仕え、そしてフェルドキルヒナーの司祭で、ロッジの権威であり、擁護者であるグルーバー氏Herm.Gruberを知っている。彼は、ロッジの兄弟たちとの親密な関係をもつ以外には、メイソンリーに関する膨大で深い知識を得ることはできなかっただろう!もう一人の熱心なフリーメイソンは、プラハの「三冠の星」のロッジに所属していた、有名なイエズス会員でボヘミアのスラブ主義者、アベ・ヨゼフ・ドブラウスキーである。自分のロッジの青を好んだことから、彼は「青いアッベ」と呼ばれた。

 

【訳注】Louis Claude de Saint-Martin、1743年1月18日 - 1803年10月14日)は、フランスの哲学者で、le philosophe inconnu(無名の哲学者)として知られる。彼は、神秘主義者と人間の心の進化の影響力を持ち、マルティニスト修道会の設立にインスピレーションを与えた。

 

「時の声」(1917年p. 265/67)はまた、「王立協会」【訳注】の指導部全体が、その定款に反して、当初から政治的活動にふけっていたと説明している。それゆえなおさら、ドイツ人の忠誠を尽くす性質には驚かざるをえない。そのために、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、 「フリーメイソンは私の最高の臣民である!」と言うほど、そのようなロッジの木の小枝として、自身の誠実を貫いたのである (団員セットガスト博士Dr Settegast, 『ドイツのフリーメイソン』p52)。あるいは、カイザー、ウィルヘルムⅠ世は次のように語ることが出来た。:

 

【訳注】「王立協会(英語: Royal Society)は、1660年にロンドンで作られた民間の科学に関する団体である『自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会』(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)のことである。グランドロッジの始まりは、1717年、王立協会において当時会長を務めていたアイザック・ニュートンの弟子で王立協会員のフリーメイソンジョン・デサグリエがロンドンの4つのロッジを集結させ「Grand Lodge of London and Westminster」を設立したことが始まりである。王立協会は多数のフリーメイソンが在籍する。」(ウィキペディア

 

フリーメイソンは、すべての会員を真の宗教性へと教育し、漸進的な自己改善を通じて彼らを幸福にするだけでなく、全人類の救済のために働き、祝福された成功を収めるのに適している。」(セットガスト、前掲書p.58)

 

 しかし、ドイツの中核が常に善であったからこそ、ドイツのロッジ構造とその支部(「3つの世界球」、「ドイツ・グランドロッジ」、「プロイセン王立ヨーク・グランドロッジ」、「ハンブルク・グランドロッジ」、......「グレート・マザー・ロッジ」、.... ......「エクレシアの偉大なマザー・ロッジ」、「ザクセンのグランド・ロッジ」、「バイロイトの太陽のグランド・ロッジ」、「ダルムシュタットコンコルドのグランド・ロッジ」、神殿とヨハネ・グランド・ロッジ「バルデュイン」など)、 ゲーテ1)レッシング、ルッケルトフィヒテモーツァルトハイドン、(・・・)ヘルダー、(・・・)のような人々などは、活躍することができたのだ。あるいは、フリードリッヒ大王、皇帝フリードリッヒ3世、その他の戴冠者が、あらゆる地位の多くの栄誉ある人物とともに最大の尊敬を受けたのである。

 

1)団員ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、31歳でロッジに入会し、1782年3月2日にマスターに昇格した。ゲーテは、スイスのディートヘルムやハインリヒ・ツォッケと同様、厳格な遵守を特に好んだ。ゲーテの息子アウグストもマスターブラザーとなった。1830年6月23日、ゲーテはマスターとしての50年記念祭が行なわれた。-エフライム・レッシングは、グランド・マスター v.ツィンネンドルフによってロッジに入会し、1775年にマスターの階位を授与された。- 詩人団員. Friedrich-R ück er tがHildburghausenで「光」を受ける。- 兄弟。ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトはウィーンのロッジに入会し、1785年に葬送曲、1795年にカンタータを作曲した。ゲーテが詩的に発展させた。ゲーテが詩的に発展させた。フランツ・アベルトは1853年にブランズウィックで就任した。グスタフ・アルベルト・ロルツィングがライプツィヒでマウラー同盟を結成。Franz Josef Ha y d n もウィーンで「光」を受けた。- 団員.-. キリスト Fürchtegott G e 11 e r t が1735年にロッジに入会。- 国家評議員で詩人のEr.-Friedr.Aug.Ferd.v o n K o t z e b u e が、レヴァル(ロシア)でロッジに入会。- 詩人セーエンク・エンドルフが、コブレンツのロッジで「執事」となる。ゲルフ・ダヴ・フォン・シュアルンホルストはゲッティンゲンで「光」を見つけた。- ヨハ.・ゴットフル・フォン・ヘルデルは、有名な説教者であり、傑出したメイソン団員であった。シュティルフィングは、深遠な神秘主義者であり、独創的な著述家、仕立屋、炭焼き職人、医師、農学教授、枢密顧問官であったが、マックス・ヴォート・シュテン・ドルフの紹介でメイソン団員になった。フィヒテは、エングブンデの2代目監督兼上級講演者であった。- 団員. チューリヒヴィンタートゥール、ベルンで長い間修練を積んだクリストフ・マルティン・ウエルンは、76歳で入信した。1813年、ゲーテ兄弟が彼のためにメイソンの儀式を執り行った。- テオドール・ケルナーの父、団員o. テオドール・ケルナーの父、クリスト・ゴットフ ル・ケルナー師がシラーの著作を出版。フリードリヒ・V・シラー自身、メイソンやイルミナティと親密な関係を築いた。- 詩人の団員. ルードヴィッヒ・ベックシュタインは、マイニンゲンのメイソンの師匠であり、多くのメイソンソングが彼に由来している。- 団員. 詩人エミール・リットがシュヴェルムのロッジの会員になった。- 団員.、ハイン男爵、フリードリヒ・カール・v.シュタイン。シュタイン男爵、フリードリヒ・カール・V・シュタイン。ウッドロウ'ワゴン'からその政治家らしい'芸術'を評価され、ヴェッツラーのロッジに入会した。- 皇帝フリードリヒ3世は、プロイセンのグランド・ロッジで騎士団のグランド・マスターを務め、彼のマスター・スピーチは団員のために印刷出版された。

 

【以下、③に続く】