k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

人間の多様な自我

※先週は急用によりお休みしました。今後も基本的に毎週木曜日更新です。


 このブログでは、「自我」という言葉がよく出てくる。以前、「自我」の問題について論じたこともある。シュタイナーは、人間を構成する要素を、肉体・エーテル体・アストラル体そして自我としており、自我は、一つの独立した(もちろん他の体と有機的につながっているが)実体とされている。抽象的な概念、あるいは意識の一現象ではない。考えられたものではなく、考える主体である。

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 また、シュタイナーによれば、自我は、アストラル体等の低次の体に働きかけて、霊我等の高次の人間の構成要素をつくりあげていくという。まさに、ある意味で人間の中心的要素なのだ。

 それはしかし、人間なら誰もがもっているが、その実体を理解するのは実は非常に困難である。それは、自己、エゴ、「私という存在」など様々な呼び方をもっており、その内実も様々である。エゴイスティックと言えば、自己中心的で低俗な人間性を意味することになるが、他方では、以前の記事でも述べたように、それは「神の名」ともなり、最も神聖なものでもある。

 一般的には、人間性の主体と言えるだろうか。感覚、認識そして判断や行動の主体である。他者を顧みず。自己の欲望のみを追求すれば、低俗となるが、思いやりを持って他者に奉仕するなら高貴にもなれる。まさにそれは自分次第なのだ。

 それゆえ、それはまた責任の主体となる。自己意識がない状態で罪を犯しても罪には問われないだろう。判断能力とともに責任能力もないのである。

 このことにも現われているが、自我は、幼い子どもの場合、未熟であるといえる。あるいは一定年齢に達するまでは、むしろその存在は不明瞭で、「潜在的に存在している」とも言えるだろう。
 親との一体感の中で生きていた子どもは、ある日、突然、自分の個的存在に気づき、自分を、親から与えられた名前ではなく「私」や「ぼく」と呼ぶようになる。そして、その後、その意識を更に(他者とぶつかりながら)発展させていくのである。つまり一定年齢に達しないと、自我は、その力を発揮できないのだ(まだ「生まれていない」とも言えよう)。

 実は、このことは、人類全体の歴史を見ても言えることである。古代の人間は、現代人のようにみなが自己意識、個人意識をもっていたのではない。むしろ血縁等による集団への帰属意識が強く、その個我は集団的なものであった。自分をいわば人の指のように、集団全体の一部としか感じていなかったのである。

 人類の意識の進化の途上である時、個々の人の中に自我が生まれたのだ。

 

 今回は、この自我についての人智学派の論考を紹介する。作者は、ミヒャエル・キエンツラーMichael Kientzlerという、ドイツ、カナダ、英国でキリスト者共同体の司祭を務められた方で、『購いRedemption キリストの復活と人類の未来』という本で、自我論に触れておられる。この本は、題名の通り、キリストによる人類の救済を論じたものなのだが、それに人間の自我の発展が深く関わっているのである。

 文中には、ego、self、“I”などの言葉が、自我の類似語として出てくる。エゴ、自己、「私」などと訳したが、訳語は厳密に統一されていないところがあるのでご容赦いただきたい。

 

 キエンツラーは、自己・個性(Self,individuality)について3つの側面があるとする。第1は、エゴとよばれるもので、肉体、エーテル体、アストラル体に基づいており、欲求や情動の担い手である。第2は、「私」で、責任、自由、愛などの特性を持ち、他者と関係を構築している。第3は、高次の自己で、無意識から働きかけ、人の内的発展を導くものである。

 人間の進化・発展は、低次の自己から高次の自己に至るものということができる。その導き手は、宇宙的自己(自我)であるキリストである。

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「高次の自己」への努力

・・・身体に含まれる「物質」は死に関連しており、私たちが死ぬとバラバラになる。物質には、私たちが何者であるかの本質は含まれていない。私たちの受肉は、私たちが世界に抵抗を感じ、世界から分離しているという事実に関係している。私たちは神から分離し、自分自身からも分離している。

 人間の「私」の属性とさまざまなレベルについて話を続ける前に、キリストの7重の「私」について触れておこう。

 旧約聖書の中で、燃える柴の中で神がモーセに現れたとき、主はこう言われた。「私は、私である者である。」地上の他の人々は、このように極端に普通でない名前を持つ神をもっていなかった。イスラエル人に自分たちの神の名は何かと聞かれても、あまりに新しくて珍しかったので、彼らは答えることができなかった。これは、「私はあるI-am」の神である。当時の人々には " 私はある"という意識はなかった。彼らには、集団意識、つまり特定の家族や部族に属しているという意識があった。だから、それを理解することはできなかった。その名前は神秘であり、発音することも許されず、代わりに、「わが主」と訳されるアドナイと言っていた。

 洗礼から十字架につけられるまでの間、キリストは徐々にご自分を現された。この自己啓示は、ヨハネ福音書では、7つの「わたしはある」*という言葉を中心に構成されており、それぞれ特殊な文脈で与えられている。: 【訳注】

【訳注】この場合のキリストとは、いうまでもなくロゴス、宇宙的神霊としてのキリストであり、それは、ヨルダン川でのイエスの洗礼においてイエスの体に降った。そして、その後、徐々に深くイエスの体に浸透していったのである。

 

* 新約聖書の言語であるギリシア語では、「私は」を単に「am」と言う。「私」(あるいは他の代名詞)は動詞の形によって示される。「私」という言葉はめったに使われない。しかし、ヨハネによる福音書では、「私は、私は」と訳すことができる、この強調された「私」が7つ存在する。

 

わたし、わたしは命のパンである。

わたし、わたしは世の光である。

わたし、わたしは門戸である。

わたし、わたしは良き羊飼いである。

わたし、わたしは復活であり、命である。

わたし、わたしは道であり、道であり、真理であり、命である。

わたしはまことのぶどうの木である。

 

 私たちは、これらの自己啓示の言葉から、イエスにおいて地上に受肉された偉大な宇宙の創造主なる神の存在は、これら7つの「I AM」の言葉で表現される7重の「私I」を持っていると推測できるかもしれない。

 先に指摘したように、人間には、3重の自己、エゴ(低次の自己)・私 I・高次の自己がある。

エゴ(低次の自己)

 エゴは利己主義の源である。エゴは、貪欲、嫉妬、虚栄心、野心、個人的な過敏さ、その他多くの不完全さが由来する魂やアストラルの領域と密接に関係している。他者に対して力を得ようとしたり、ひいきしたりするのもエゴだ。これらの性質は、所与のものだ。嫉妬したり誰かを憎んだりするために努力する必要はない。否定的なもの、あるいは否定的なものは最初から与えられているものである。

一方、美徳は、努力が必要である。恋に落ちるのでもなく、本当の愛を生み出すこと、与えられた愛でもなく、無欲の愛は、非常に難しい。他の美徳の多くを身につけるには、本当に懸命に働かなければならない。それには一つの生涯以上が必要かもしれない。

 私たちはエゴを求心力としてとらえることができる。凝集力と重力をもつ物質そのもののように、あらゆるものが私のほうに引き寄せられる。川底の丸い花崗岩の石を想像してほしい。この石は求心的な力を持っている。この石にどんどん圧力をかけていくと、石はどんどん密度が高くなり、最後には粉々に砕けてしまう。極端な場合、この硬化プロセスは最終的に重い物質に変化し、放射性物質となって死を放射し始める。自然放射能は、地球上の物質の老化プロセスである。【訳注】

【訳注】シュタイナーによれば、物質的地球は既に崩壊のプロセスに入っている。人間同様に地球も転生、進化してきており、霊化されていく。その兆しが放射性物質に見られるのだ。

 

 つまり、どんどん重くなり、放射能を放射し始めるある種の物質と、凝縮され、ますますエゴイスティックになっていく人間のエゴとの間には、このような興味深い関係があるのだ。

 しかし、私たちにはエゴが必要だ。このエゴがなければ、私たちは分離の感覚を持つことができず、そして「私」がなければこの分離を克服することができないだろう。しかし、エゴがこのように求心的に発達していくと、ある時点で-私たちの時代に、私たちはその時点に到達し、それを超えている-破壊的になるのだ。また、それは、重い物質のように死を放射するようになる。この軌跡がもたらす結果は悲惨だ。私たちの中のエゴがますます硬くなり、ますます密度が濃くなれば、私たちは地球上で他のエゴを許容できない地点に達するだろう。世界の他の部分に対して、私が対抗することになるのだ。私たちが今経験していることは、将来起こるであろうこと、つまり「万人の万人に対する戦争」のリハーサルのようなものなのだ。【訳注】

【訳注】アトランティス時代が洪水で滅んだように、やがて人類には、滅びをもたらす「万人の万人に対する戦争」がやってくる。それがヨハネの黙示録で本来予示されたものである。この試練を越えて生き残れるのは、霊的に成長した者のみである。

 

私(あるいは自己)

 この悲劇に対する対抗する力のある要素は、すでに生まれつつある。「私」とは何か?「私」あるいは自己(まだ高次の自己ではない)の属性とは何か?それは、責任、説明責任、寛容、他者を認め理解する能力、良心、共感、信頼性であり、いわば精神的な岩のようなものである。この「私」は、自由、愛、責任という一種の魂と霊の三位一体を発展させることができる。知恵のない愛は愛ではないから、愛はおそらく知恵と置き換えることができるだろう。ルドルフ・シュタイナーはある講演の中で、娘を愛するあまりに境界線を設けなかった母親について、奇妙で少々ショッキングな例を挙げている。その娘が後に毒殺犯になったのである。それは、母親の愛に知恵がなかったからである。知恵のない愛は悪の種を生む。いつも優しいだけでは十分ではない。

 同様に、自由のない愛は本当の愛ではない。人に愛を強制することはできない。自由から生まれるものでなければならない。私たちは誰かを教育して責任感を高めることはできるが、愛することを教えることはできない。これらはすべて「私」の属性だ。これは、他者を破壊しなければならないエゴの対極にあるものだ。エゴは世界に存在し得るのは一つのエゴだけであり、それは私なのだ!これらのエゴの性質は、しばしば「影」や「二重人格」と呼ばれる、個人の暗黒面に深く関わっている。

 ソビエト連邦の劇作家、エフゲニー・シュワルツの『影』という素晴らしい戯曲がある。若く気立てのいい王子が、小道を隔てた向かいに住む少女に恋をする。彼はバルコニーで彼女を見かけ、彼女と会話する。ある時、彼は自分の影を彼女に求愛するために送り込む。影は分離し、独自の生を歩むようになる。が、影は王子とは正反対である。その影は謀略的で人を操る邪悪な性格だが、少女はその影に恋をしてしまう。

 私たちはみなそのような影をもっている。その反対が、真の私たちであり、故人としての私たちの使命なのである。しかし、それは、国も同じである。ドイツ国家の使命が何であるかを知りたければ、その影を見ればいい。ナチス・ドイツ支配下で起こったあらゆる出来事を180度回転させれば、地上におけるドイツの真の使命が何であるかがわかるだろう。ドイツはその影に簒奪され、正反対の存在となったのだ。ドイツがカナダよりも若い国家であることに気づいている人は多くない。建国は1879年。それ以前のドイツは小さな王国や公国で構成されていたが、フランスやイギリスのような統一国家ではなかった。ゲーテの友人であったドイツの偉大な劇作家シラーは、『メアリー・スチュワート』『ドン・カルロス』『ヴィルヘルム・テル』といった素晴らしい戯曲を書いた。これらの戯曲は、他国の本質を映し出す鏡のようなものだった。シラーは戯曲の中で彼らの本質を映し出し、事実上、「ほら、これがあなたたちの素晴らしさですよ」と言ったのだ。これは、料理の塩の粒が素材の味を引き立てるように、ドイツ民族の仕事であったろう。これも、真の自己、「私」の性格である。

 しかし、ナチス・ドイツでは正反対のことが起こった。その真のエッセンスの代わりに、その影を見せたのである。

 少なくともドイツの一部の人々は、ナチス政権下で起こった恐ろしい出来事の後に目を覚まし、何が起こったのかを集団で認識するようになった。しかし、このような自己認識や内省が起こらなかった他の国も他にもたくさんある。

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 さて、もちろん、外からは決して耳にすることのできないという神秘的な名前がある-「私」である。それは私のみが自分に言うことができる名である。もし私が「あなたには "私 "がいる」と言ったら、それはまったく間違っている。子供が初めて 「私」と言う瞬間は、美しい日の出のように感動的だ。当時2歳か2歳半だった息子の一人が、鍵のかかったトイレに入っていたのを今でも覚えている。「そこにいるのは誰だ」と私が尋ねると、彼は初めて「僕、僕だよ」と言った。それまでは自分の名前を言うだけだったのだ。

 ヨーロッパの言語には、「私」を表すさまざまな言葉がある: 英語では「I」、イタリア語では「io」、フランス語では「je」、スウェーデン語では「jag」、そしてドイツ語では「ich」である。これらは、キリストの名前「Iesus Christosイエスス・クリストス」【訳注】の頭文字であり、ドイツ語で明らかにされた人間の自己とキリストの神秘的な関係を指し示している。これは偶然の産物ではない。紀元前4世紀頃、キリスト教以前の時代にすでに、言語の発達に関わる霊たちが、ドイツ語でこの言葉を作り始めたのだ。

【訳注】「Iesusイエスス」は、現代の英語やドイツ語ではJesusとなるが、昔は、Jの文字がなく、Iが使われていた。

 

高次の自己

 「私」は私たちの存在の中心の経験である。私は、それを自分の中で感じる。しかし、高次の自己は周縁から私に向かってくる。それは私の運命のサインを背負っている。私が自分の人生や経歴の中で嫌だと思うことは、高次の自己の行いや啓示であることが多い。私たちの身に起こる恐ろしいことの多くは、実は自分で作り出したものなのだ。私が言っているのは、低次の自己、動物的本能や衝動に突き動かされた、自分の行いの明らかな結果のことではない。自分でも説明できないようなことが起こるということだ。なぜそれは私に起きるのだろうか、なぜ別のものではないのか?私の運命を作り出しているのは、高次の自己なのだ。物事は一見、外から偶然に起こるように見えるが、その原因が私自身の高次の存在にあること、私自身がそれをもたらしていることに気づくのは難しい。もし私が、自分は神から罰を受けているとか、いつも不運に見舞われていると言うのであれば、それは現実には高次の自己によってもたらされていることの原因を外においていることになる。

 年をとると、このことに気づきやすくなり、感謝の念を抱くようになる。そして、これらの「悪い」ことが起こらなかったら、今の自分はなかったと気づくのだ。

 私の罪、私の不法、私の失敗など、私に起こった一見悪いことのすべてを取り除くことができたとしたら、何が残るだろうか?それほど多くはない!私が人間として成長できたのは、人生の苦難や障害、さらにはトラウマとなるような出来事のおかげであり、とりわけ自分の罪過や不法のおかげなのだ。私たちは自分の過ちや傷から学ぶ。時には早く、時にはゆっくりと。

 キリスト教共同体における「相談」の秘跡は、カトリック教会における告解のように、あなたの罪を「赦し」、「取り除く」ものではない。その代わり、この刷新された秘跡において、私たちの自己は、私たちの「罪」とより強く、より深く結びついている。私たちの内におられるキリストを見分けることを通して、私たちは自分の罪や失敗を背負い、それを変容させる力をいただくのだ。【訳注】

【訳注】罪や失敗あるいは悪を変容させる能力を人間は持っており、霊的に進化した者は、自分以外の悪を変容させることができる。悪(その実体としての霊や人間)は、本来、人類の進化のために生まれてきたものであり、いずれそれらも救済されなければならない。それが先に進化を進んだ者の役割である。

 

 この秘跡では、アプローチも性格も異なる。私たちは、自分の中にいる、自分が本当に必要としているものを知っている存在と一体化するために努力するよう奨励される。この存在は、「私」や自己の上にある、マナスとも呼ばれる次の個々の霊的存在である霊我の約束と予言のようなものである。【訳注】

【訳注】マナス(またはマナ)とは、霊我とも呼ばれ、人間のアストラル体が自我によって変容することにより生まれるとされる。人間は、さらにブッディ(エーテル体の変容)、アートマ(肉体の変容)という高次の要素も獲得していく。

 

 ルドルフ・シュタイナーが説明している魂の3つの側面のひとつである意識魂【訳注】は、自分が何をすべきかを正確に知っているが、まだ実行できないという特徴を持っている。

 次の段階は、知ることと実行することが一体となるところである。高次の自己は、私たちが異なる種類の意識を持つようになる、この次の発展段階へと私たちを導く。低次の自己であるエゴが求心的で、あたかも自分自身に集中するかのようであるのに対し、高次の自己は正反対のダイナミズムを持つ。光と愛を放射し、生命を与え、創造的である。これは太陽の存在であるキリストと関係している。

【訳注】人間の魂には、感情魂、悟性魂、意識魂があるとされる。これらは、順次人間が獲得してきたものであり、意識魂が最も新しく、また霊的要素をもっている。(ただ、上のように霊我というものもあり、それらとの関係を説明するのは難しい。私もよく理解できておらず、まだ勉強中)

 

 高次の自己は、低次のエゴや身体内の自我組織なしには地上に存在できないことを理解しなければならない。この神秘は、洗礼者ヨハネとキリストの姿に原型的なイメージとして現れている。キリストの先駆者であるバプテスマのヨハネは、「彼は栄え、私は衰えなければならない」と言ったヨハネ 3:30)。過去には--過去というのは、キリスト教、さらにはキリスト教以前の過去という意味である--この関係は、太陽を運ぶ月のイメージで描かれていた。月は、肉体とつながっている私たちの地上の低次の自己のイメージである。このエゴは自分のことで精一杯だ。このイメージは、このエゴが減少しなければならないことを示している。そのために、私たちには運命の一撃という大きな助けが与えられる。ハンマーのように、運命の一撃は、私たちのエゴの月のような球を、三日月のような鉢のようになるまで叩き続ける。しかし、運命や宿命がそうしてくれるのを待つ必要はない。自分の自由意志でこれを行えるからだ。もし私たちが自発的にエゴに働きかけ、それが鉢のようになれば、運命の打撃は必要なくなる。なぜなら、自己と高次の自己が一体となり、私たちは自らの意志で必要なステップを踏むことを学んでいるからだ。

 聖地を旅したとき、私は石に彫られた、カトリック教会で聖体顕示台として知られるイメージであるキリスト教以前のカナンのイコンを発見した。古代の異教の祭壇では、三日月の像が太陽の円盤で埋め尽くされていた。これらの石像は、ゴルゴダの神秘の千年以上前の予言のようなものだった。

 聖体顕示台は、銀色の三日月のような形をした容器である。聖体拝領の儀式で聖別されたパン、ホストが収められており、放射する太陽のような金色の光線で装飾されている。ヨーロッパの一部の聖体祭では、この聖体顕示台が行列をなして畑を練り歩き、農作物を祝福する。聖体化された聖体顕示台が畑を祝福し、聖体顕示台が放射状の太陽、すなわち霊的な太陽のようである。

 同様に、エゴは太陽のような高次の自己の担い手となることができる。この古代の象徴的描写は、現代においても有効である。私たちは、キリスト者共同体で表面的には使わないとしても、これがすべてなのだ。

 だから、聖ヨハネが「彼は栄え、私は衰えなければならない」と言うとき、彼はこのダイナミズムを象徴的でありながら現実的な身振り-退き、それによりキリストが現われることができる-で行っているのだ。それは、地上の自己が高次の自己に向かって行う必要のある身振りである。もしこの身振りをしなければ、エゴはより濃くなり、死、破壊、悪を放つようになる。これが、今日私たちが目にする光景である。

 キリスト教共同体の聖体拝領の儀式につけられた「人間聖別」という名前は、私たちが人間存在として完全ではないということを意味している。私たちはまだ、より人間になるための道を歩んでおり【訳注】、それによって、私たちの肉体にすでに現れている預言が成就されるのである。肉体の領域では、私たちはすでに人間であるが、私たちの道は、魂と霊的な領域でより人間になることである。聖体拝領の儀式では、私たちの運命を背負い、運ぶ助けとなる聖体化したパンとともに、道のための食物(ヴィアティカ)をいただき、新しい方法で霊とつながる助けとなるぶどう酒をいただく。

【訳注】私たちは人間であるが、発展途上にあり、また完全には人間となっていないということ。その道はまだ中間地点に至ったに過ぎない。聖書にあるように、本来、人間は神の似姿として創造された。人間として完成したとき、人は第10のヒエラルキーとなるのだろう(ブログの他の記事参照)。

 

 私たちが高次の自己を持っているという事実は、キリストのおかげである。私たちの中にあるこの高次の「私」は、私たちの行いを裁き、良心、共感、そして遠い未来には、母親の子どもへの関係に予言的に既に現われているように、無私の愛を生み出す。もちろん、これには、まだ克服しなければならない血縁的な要素がある。いつの日か、血のつながりのない人たちにも同じ愛を注ぐことができるようになるはずだ。それが真の高次の自己の表現なのだ。

 堕罪が起こらなければ、このようなことは不可能だった。分離は自由の前提条件であり、自由は愛の前提条件である。例えば、私の指は私の手を愛しているのではない。それは、その一部である。もし私たちが、お互いから、そして神から分離していなければ、愛を育むことはできなかった。愛とは分離を克服しようとする衝動である。再びひとつになろうとする衝動なのだ。私たちは、物質的な身体と、それによってもたらされた分離なしには、自由も愛も手に入れることはできない。もし私たちが雲の存在であったなら、私たちは決して分離することはないだろう-互いに浸透し合っているように。人類の初期段階、いわば楽園の状態であった、空のような領域では、人類はまだ地上に降りていなかった。抵抗を感じ、互いに分離していると感じるためには、固い体が必要なのだ。もちろん、これは長いプロセスだった。

 しかし、この分離の代償は死である。人間(アダムとエバ)は知識の木から食べた。これには代償がある。その代償とは、個的な死だけでなく、時の終わりに避けられない物質の死である。そして、物質の死とともに、私たちは肉体をも失うことになる。なぜなら、肉体は、肉体を満たしている物質的要素とあまりにも深く結びついてしまったからだ。ここにとげがある。私たちの感覚、自我、自己意識など、私たちが持っているもの、あるいは発展させることができるものはすべて、最初の堕落に負っている。しかし同時に、その影響は死の宣告でもある。そして、もし死が勝利し、本書のテーマである復活と贖罪がなければ、すべてが無駄になってしまう。苦しみも、進化も、道徳的な努力も、地球上の人間に起こったことすべてが、宇宙の墓場で終わるのであれば無駄になってしまう。死を克服することこそ、極めて重要なことなのだ。

 堕罪の責任は最終的に誰にあるのか?

 悪を知る木の実を食べた前、私たちは善と悪の区別を知らず、無垢であった。 子どもは悪ではない。子ども達は、従わなかったとしても、悪ではない。子供には子供の意識がある。責任を負う可能性が出てくるのはその後であり、それが堕罪によって起こったことなのだ。 したがって、責任は神の世界そのものにある。

 禁断の木から食べた結果、「その人は私たちの一人(神)のようになった」と神は言った。人類が善悪を識別できるようになったのは、堕罪の後である。これは霊的な神的世界の領域からしか贖うことができず、だからこそ贖いは神からしかできないのだ。神の子キリストは来なければならなかった。それは父なる神と一体となった神なる御子の自由な行いであった。だからこそ、御子神は、人間の肉体に受肉することによって、偉大な犠牲を払われたのである。すべての収縮には痛みが伴う。 痛みとは魂の収縮である。苦しめば、私たちは収縮し、喜びに満ちれば、私たちは拡大する。 キリストは収縮しなければならなかった。世界の創造主は、被造物である人間と一緒にならなければならなかった。受難と十字架上の苦しみの前でさえ、受肉の全過程は宇宙的な痛みと苦しみと結びついていた。この強大で、全てを包括する、創造的宇宙の神性は、人間の体と一体になるために、「小さく」ならなければならなかったからである。【訳注】

【訳注】本来霊的存在で、宇宙自体の創造者であった霊が、ちっぽけな人間の体に入り込むということ自体が、大変な苦痛を伴うものであったのである。更にその上で、キリスト霊は、捕縛後、むち打たれ肉体的苦痛を受けて、最後に人間として十字架上で死をも経験したのである。

 

 人間の肉体、形姿体、あるいはルドルフ・シュタイナーが「ファントム体」とも呼んだもものは、目に見えず、物質で満たされて初めて目に見えるようになる。したがって物質は、ファントム体と目に見える肉体をつなぐものである。何百万年もの間、物質と肉体は相互に浸透しあい、それらがもはや適切に分離することができなくなった。時の終わりには、この驚くべき神の像である肉体は滅びなければならない。だからこそ、人類の未来のためにその体の復活が必要なのだ。【訳注】

【訳注】人間の物質的体は、実は、この形姿体(ファントム)とそれに結合した物質的素材によりできている。そしてこの形姿体は、見えない存在であり、霊的なものなのだ。だが、人類が歴史を重ねる内に、その本来の姿は歪んでしまった。それを修復することが、地上に降ったキリストの一つの目的であり、それがイエスの「復活した体」なのである。

 

 このことは、キリスト者共同体の信条にも反映されている・・・

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 上の論考では、自我には3種類ある(霊我を自我と捉えれば4種類)ということが説明されている。この文章では大まかには理解できるが、それらの関係の細部については、理解しがたいかもしれない。この他に、人の魂にも3種類があり、それらとの関係も問題となる。

 私が最初シュタイナーから学んだのは、人間は、肉体・魂・霊からなるということであった。しかしまた、肉体・エーテル体・アストラル体、そして自我からなるともいわれ、さらには、未来において、自我の働きにより、霊我、生命霊(ブッディ)、霊人(アートマ)が生まれるという。

 では、自我はこれらの構成要素のどこに存在し、他の構成要素とどのように関係しているのだろう?

 これらは、シュタイナーの人間学では基礎的な事項なのだが、実は、このように細部をおっていくと、これらの間の関係を理解するのは非常に難しいのだ。

 人間は小宇宙である。宇宙ほどに複雑な存在である。簡単には説明できないのだ(恥ずかしながら私もまだ理解できていない)。
 このよううに、何度も言うが、「自我」の問題は奥が深いのである。