k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

自我の秘密

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シュタイナーの指示に基づくファウストの絵(ゲーテアヌム)

 人智学では、人は肉体の他に、エーテル体、アストラル体そして自我よりなると言われる。肉体以外は超感覚的な実質で、肉眼では見えないものである。肉体は鉱物と共通してもつものであり、更にエーテル体は植物が、アストラル体は動物が人間と共にもっているものであが、自我は、人間しかもっていないとされる。つまり、人間を地球上の他の存在と区別するものなのである。

 自我は、当然、人間ならすべての者がもっているのだが、それが何であるかを具体的に説明するのは実に難しい。

 西洋哲学にカント・シェリング・へーゲルらのドイツ観念論というこれまた非常に難解な学派があるが、その本質は実に自我を巡る哲学とも言える。観念論は唯心論と言っても良いが、ごく簡単に言えば、観念・心が万物の根源であるという思想である。またその根源が自我なのである。この立場では、自我は神的なものである。

これらの考えでは、人の自我は神的・霊的なものであるが、人間の自我はやはりそのようなものなのだろうか。その答えは、イエスでありまたノーでもある。通常の、我々が日常に意識している自我意識は神的な存在ではないが、その奥底にはそうした要素が存在しているのだ。

こうした自我を巡るいくつかの考えを更に見ていこう。

ユングの自我観

ユング 現代の神話』(M-L・フォン・フランツ著)に次の記述がある。

 

 ユングは、1925年アフリカに旅行し、ナイロビからアティ平原の広大な野獣保護地区を訪ねた時、意識の宇宙進化論的意味がまったく明らかに理解できるようになったという。その時のことを彼は詩的な言葉で記している。

 

地平線上の遙か彼方に至るまで巨大な動物たちの群れを見ることができた。ガゼラ、カモシカ、牛カモシカ、シマウマ、イボイノシシの群れが、草を喰み、頭を上下にふりながらゆっくり流れるように移動していた。食肉鳥の憂鬱な鳴き声の他には何も聞こえてこなかった。永遠の発端の静けさがそこにあった。その世界は今までずっと非存在の状態でありつづけてきた。なぜならつい最近まで『この世界』があることを知っているものは誰もいなかったのだから。……ここで意識の宇宙的意味が圧倒的な明瞭さで理解できた。……人間である私は、見るという創造行為によって、この世界をはじめて完成させ、この世界を客観的な存在に変えたのである。人はこの行為を造物主のものとしてきた。そしてそうすることで人間の魂をも含めた生命と存在とが、あらかじめ定められた規則に従って、無意識に運転されていく機械の計算しつくされた運動のようなものになってしまうのに気がつかなかった。このような慰めのない時計幻想の中では、人間と世界と神とのあいだのドラマなど存在しうる筈もなく、新しい岸へ導いてくれる『新しい日』も存在しえない。ただ計算し尽くされた荒涼たるプロセスだけが存在する。……宇宙創造の行為を成就させるために、人間は不可欠な存在なのだ。それどころか人間自身が第二の造物主として、宇宙を客観的存在に変える。もしこの行為がなければ、宇宙は聞かれることも見られることもなく、沈黙のうちに、喰い、産み、死を迎え、非存在のまっくら闇の夜を、数十億年間、ただ首を上下に振りながら、いつとは知れぬ終末へ向かって進んでいくのみであろう。・・・

 無限なものだけが本質的なのだ、ということを知ったとき、大して意味のない事柄に関心を寄せることを私はやめた。……すでにこの世で無限なものとの関わりが自覚できるなら、人生に対する期待や態度も変わってくる。つきつめていけば、人はただ本質的な事柄の故のみに生きているのだ。そして本質的なものが存在しない人生は救いようがない。他人との関係においても、無限なものが表現されている関係かどうかが決定的となる。自分が極度に制限されていると感じられているときにのみ、私は無限なものに対する感情を獲得する。人間は霊我において最大の制限をうけている。霊我は、「自分とはこんなものだったのかという体験の中で自己を現す。霊我体験におけるこの極度に狭い意識だけが無意識の無限性と結びついている。この意識の在り方においては、私は自分を制限されていると同時に永遠なるものとして、一者でもあり他者でもある存在として、体験する。

 

 「見るという創造行為」ができるのは自我である。客観的世界は、それを認識する主観的(認識する)存在がいなければ、存在していないのと同じである。

 ユングは、心理学者の立場で自我の神的性格(造物主性)を見いだし、その思想はやがて、霊界(精神世界)に迫る集団的無意識という学説に至った。

 自我のこのような性格を説く考えは、現代科学にも見られる。宇宙論における宇宙の「人間原理」である。宇宙に人間が存在するのは偶然ではなく、必然である。人間を、宇宙を認識する存在として宇宙自体が生み出した、宇宙にとって人間は欠かせない存在であるとする考えである(その内容に、実際には、色々バリエーションがあるが)。

宗教上の自我

 さて、では宗教の立場ではどうであろうか。まさに神は自我であるというのである。旧約聖書出エジプト記に、モーセが神の山ホレブで神にあった時の会話が、次のように記述されている。

 

3章13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

 

 「わたしは、有って有る者」の部分は、英語版聖書では“I am who(that) I am”となる。神の名は、“I am”であるということになるが、これは日本語版の聖書のように「有る」、「存在する」と解するよりも、「私である」と解する方がふさわしいのだ。「私(神)は、私という存在である」ということである。つまり、神は自我そのものなのである。

シュタイナーの自我観

 シュタイナーは、どのように語っているだろうか?

 これもまた、実に全体を把握するのが難しい。例えば、よく引用させてもらっている『シュタイナー用語辞典』(西川隆範著)では、個我(自我)の項目が4ページにも渡っているのだ。

 すべてを引用できないので、そのごく一部を引用しよう。

(個我は」地球進化期に、エクスシアイ(エロヒムヤハウェの共同)によって、人間に与えられた(レムリア時代に、エクスシアイの実質が内に入ってきたことによって、人間は個我を形成した)。自由・内なる神性への原基であると同時に、自己の内に硬化する原因でもある。個我意識の創造者は、ヤハウェであり「私は存在する」がヤハウェの本名、キリストの本名である。

 ここで、先の出エジプト記の記述が思い出される。モーセに現れた神はヤハウェであるが、ヤハウェは、エロヒム天地創造の神々)の1柱であり、他の6柱のエロヒムは太陽に、ヤハウェは月に住むという。そして、キリストは、ヤハウェを通してモーセに現れたのである。従って、キリストとヤハウェは同じ名を持つのである。

 人類は地球(その最初の段階は古月と呼ばれる)と共に神々によっての創造されたのだが、この記述のように、その初めから自我をもっていたのではなく、進化のある段階(レムリア期)に与えられたのである。

 これは、現代の人間の意識の成長段階でも見られることで、幼い子どもは、自分を名前で呼び、「私は」などと言わないように(例えば、「私は、イチゴが好き」とは言わず、○○(自分の名前)は、イチゴが好き」などと言う)、自我は、成長のある段階で生まれてくるのである。

 ちなみに、キリストの名も「私(は存在する)」であるが、シュタイナーは、ドイツ語がよくそれを表していると語っている。ドイツ語の「私」、つまり第一人称は、Ich(イッヒ)というが、それは、Jesus Chrisus のイニシャルでもあるのだ(かつてJとIは同じように用いられた)。

 

 次に、人智学者のエルトムート・ヨハネス・グロッセ氏(オイリュトミストで、後にマネイジメント・コンサルタント、講演者としても活動した)の『自我のない人々は存在するか?』(英語版)から次に引用しよう。

 

「自我の本質は何か?」

 その答えは、ゲーテファウストとルドルフ・シュタイナーが第1ゲーテアヌムに描いた彼の絵[上図]に見ることができる。それは、人間の自我を描いている。

知識を求める人間の代表であるファウストは、完全に意識化された自我-言葉で表されている-を求めている。

 その言葉ICHは、ファウストの仕草と一体となっている。自我の強さで考え、自我を体験しているファウストは、シュタイナーによって、自我をもった人間(自我人間)として、豊かな色彩で描かれている。この絵により、自我は、知的にではなく、直感的に把握される。

 自我の使命は、ゴルゴタの秘儀、そのイニシャルがICHであるキリスト(Jesus Christ)との個人的な関係を発展させることである。

 他人の自我は、その自我が自ら教える衝動が生まれるまで、霊視者に直接知覚されることはない。オーラの中の自我の働きは、霊視者に見えるが、自我自身は、彼にも見えない。それは、真に、人間にとっての「聖なるものの中のベールを被った聖なるもの」である。

 

「自我感覚」

 自我は、しかし、霊視でない観察で捉えることができる。人は12の感覚をもっており、その中の自我感覚で、人は、他人の自我を知覚する。

 「自身の内側に自我を知覚するのと他人の自我を知覚することには違いがある。他人の自我の知覚は、自我感覚による。自我感覚の器官は、体中に分散しており、極めて微妙な実質でできている。他人の自我を知覚するのは本質的に認知プロセスであり、それに比べて、自分の自我を体験するのは意志のプロセスである。

 誰かを前にすると、短い間にその人物を知覚する。人に印象を与えるが、それは、人の内面に障害をもたらす。人は、自分と同じ種類の存在が、攻撃のような印象を自分に与えていると感じる。その結果、人は、内的に自分を防衛する。攻撃に対抗し、それにアグレッシブ(攻撃的)になるのだ。そして人は、その攻撃反応の中で旗を立て始める。攻撃が終わり、前にいる人物は、再度人に印象を与える。これは、人に、自分の攻撃のエネルギーを再度高める時間を得る。そして人は、攻撃の別の一撃を繰り出す。人は旗を掲げ、前の人はまた印象を与える。そしてまた・・これが人と人の間にある関係である。他人への開放-内的防御:他人への開放-内的防御:共感-反感:共感-反感 これは、感情ではなく、目の前にいる者に知覚である。魂は振動する。共感と反感の振動があるのである。」(シュタイナー)

 シュタイナーは、共感は、短時間の間、他人の自我を「眠りながら」探求することである、と語っている。反感では覚醒し、眠りの中で知覚したものを覚醒に中にもたらす。それにより他人を体験し、存在として認識するのだ。

 無意識のうちに、自我存在として、人は、他人に影響を及ぼしたいと感じている。しかしまた、他人は何者であるかと言うことも体験したいと感じている。それにより、他人に対して自分自身を測れることができ、自分自身を学ぶからである。

 

 シュタイナーによれば、自我は、人にとって「聖なるものの中の(ベールを被った、最も)聖なるもの」なのである。それは、勿論、日常生活で私たちが自分として意識している自我意識とは別のものである。それは、真の自我の影にすぎない。そしてそれは、両刃の剣であり、人の自我は、聖なるものに至ることができる一方で、利己主義に陥り、自己の欲望に囚われる危険も持っているのである。

 

 なお、グロッセ氏の本については、その表題が示すように、自我を持たない人が存在するかどうかというテーマを扱っている。実は、この表現は、自己矛盾である。人の定義は、「自我をもったもの」であるので、持っていないものは、そもそも人間とは言えないからである。

 しかし、そのような「人間」も存在するらしいのだ。そしてそれは、シュタイナーによれば、現代世界にとって重要な課題を示しているというのである。

 いずれ機会があれば、グロッセ氏のこの本についても紹介したいと思っている。

 

 さて、実に「自我」は不思議なものである。第一人称の「私」は、「それ」や「彼」のように、相手があればどれにでも、誰にでも使える言葉ではなく、自分自身しかそれで指すことができない。私が「私」というのは、自分自身にしか言えないのである。それを語れるのは世界中でただ一人だけなのだ。このように単純な事実の背後に、大きな秘密が隠されているのである。