k-lazaro’s note

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良心とは何か?

 今回のテーマは「良心」である。

 先ず個人的な経験から語ろう。

 私は、子どもの頃、ときどき嘘をついていたように思う。嘘をつくことにあまり罪悪感をもたなかったのだ。勿論、嘘がばれれば親にしかられた。それでも嘘をつくのは平気だったのだ。しかしある頃から嘘がつけなくなった。嘘のせいで親にひどく叱られたことが原因かもしれないが、罪悪感を覚えるようになり、「嘘は駄目」だと思うようになったのである。

 今思えば、これは子どもの心理の自然な成長を示しているのかもしれない。小さな子どもにおいては、善悪についての意識が弱いのは当然のことだろう。だから親や社会からの「しつけ」が必要なのである。つまり、判断や行動の規範を外から与えられなければならないのだ。

 そうして成長する内に、人は自然とそれを内面化する。つまり当初外から与えられた規範を自分のものとするのである。外からの強制でなく、それを自分自身で判断し、それに従うようになるのである。人間の中でこうした善悪の判断を生み出すものが良心であろう。

 

 上に述べたことは、一人の人間の精神的成長の経過であるが、実は、これは人類全体の精神的発展にもあてはまるといわれる。秘教の考えでは、個人の発展は、それが属する種(人類)全体の発展をなぞるからである。個を見ればその種全体が分かるのである。

 このことからすれば、同じ人間でも、幼い頃と成人してから、さらには年老いてからの精神構造が異なる(成長と老化を伴う)ように、人類全体もまた過去と現在、そして未来の精神構造には違いがあると想定することができる。

 良心についても、人類の歴史において、それ現れ方は常に同じであったのではないのである。

 このことについて触れる論考を今回は紹介しよう。これは、『新しい密儀とキリストの叡智』という本に収録されたものであるが、この本は、この論考の著者ヴァージニア・シーズVirginia Sease氏ともう一人の著者マンフレッド・シュミット=ブラバントManfred Schmidt=Brabant氏の講演をまとめたものである。

 シーズ氏は、キリストの受肉を軸にして人類と良心の関わりを説いている。

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キリスト教以前の時代とゴルゴダの謎以降の良心の発展

ヴァージニア・シーズ

 何世紀も昔の人々が何を感じていたかについて、しばしば質問が投げかけられる。そのような質問は今日では当然のことのように思えるが、それ以前の時代には聞かれることはなかっただろう。何百年もの間、人々は常に同じように感じ、考えてきたと考えられてきた。そこで私たちに問われるのは これは本当に真実なのか?ということである。別の言い方をすれば、こうも言える: 古代ローマの人々は、クリスチャンをライオンの群れに投げる手配をしたとき、実際に何を考え、何を感じたのだろうか?彼らは何かを感じたのだろうか?これは歴史的に妥当な疑問であるだけでなく、ここ数十年の間に特に関連した疑問でもある: 20世紀にはどうだったのだろうか?現代人として残虐行為を行ったとき、人々は良心の感情や呵責を抱いたのだろうか?もしあるとすれば、今日でも彼らが残虐行為を行うときに何を感じるのだろうか?

 ルドルフ・シュタイナーは、人間が時間の経過とともにどのように変化していくのか、人間の資質、すなわち魂の資質までもがどのように変化していくのかを指摘している。この事実は、それ以前の時代の人々がどのように感じ、考えていたかという問題を理解するために不可欠な背景である。魂の質には使命がある。魂の質として良心を見るとき、それが変容を遂げ、過去、現在、未来に対して重大な使命を持っていることを真摯に受け止める必要がある。

 良心という現象―キリストと密接な関係にある-は、それを表現する言葉が生まれる前から、すでに素質として存在していた。私たちはこの講義の中で、人類が魂の発達のさまざまな段階とレベルを経てきたこと、そして全体として、現在生きているほとんどすべての人が、意識魂の時代に位置していることについて述べてきた。人里離れた生活を送り、この時代の表面的なことを経験していない人たちもまだいる。たとえば、缶切りをもらってもどうしたらいいかわからないような人たちだ。しかし、これは意識魂の時代の文化的側面ではない。ある特別な文化に属すると言って良いだろう。一般的に言って、すべての人間(彼らの実際の魂の発達は別として)は、意識魂の時代の文明の一員である。

 それにもかかわらず、今日でも、いくつかの言語には「良心conscience」を意味する言葉がない。マンフレッド・シュミット=ブラバントと私は、日本で驚くべき体験をした。日本で講演をする場合、いくつかの文章を話し、日本語に訳すために間を置く。講演の中で、マンフレッド・シュミット=ブラバントはこんな短い発言をした: 「良心は重要な魂の質です。」それから翻訳が始まったが、非常に時間がかかり、終わりがないように見えた。このことは、その後の議論でも話題になった。「なぜ、この小さな文章の翻訳にこんなに時間がかかったのか」と私たちは尋ねた。私たちは、日本語にはこの「良心」という言葉の表現がないことを知った。彼らはこの言葉が何を意味するのか、頭を悩ませていたのだ。そこでマンフレッド・シュミット=ブラバントが言った。「例えてみましょう。ある部屋に一人でいて、壁に日本の巨匠の素晴らしい書が飾ってある。あなたは何かの拍子に、この芸術作品を壊してしまった。自分のしたことを見て、何を考え、何を感じるか?」大きな驚きがあった。そして、ようやく意見が一致し、ある答えが出された。彼らは、こんなことをしている人を誰も見ていないことを願ったのである。もちろん、良心の質は日本にも個人差はあれ存在するし、良心は、観念や魂の質として存在する。しかし、それを表す言葉はないようだ。

 良心が言語を通してどのように表現されるかは、日本語の場合のように必ずしも明確ではない。ロマンス語でさえ、良心conscienceと意識consciousnessの違いを表現するために、conscientiaという言葉に何かを付け加えなければならない。属性を加えることで言葉を区別するのである。この単語が古高ドイツ語でgiwizzaniとして初めて登場するのは偶然ではない。このことは、ノトカー・チュートニクス(950-1022)の用語集に記されている。古高地ゲルマン時代、ノトカー・チュートニクスは非常に多くの単語とその語源を収集した。古英語と中英語では、良心を意味するinwitは「内なる知識」を意味する。【訳注】

【訳注】この文章は、日本人には逆に腑に落ちないだろう。日本人にも確かに「良心」は存在するのだから。この文章は、この原語をふまえないと意味をなさないように思われる。ここで「良心」と訳されている言葉は、英語のconscience、ドイツ語のGewissenである。文中にあるように、当然日本語にも善悪を判断する「良心」という概念はあるが、それを表現する言葉の成り立ちが異なるのである。Conscienceは、「エティモンライン - 英語語源辞典」によれば、「古フランス語の“conscience”(「良心、内なる思考、欲望、意図、感情」)(12世紀)から派生し、直接ラテン語の“conscientia”(「何かについての共同の知識、他の人と一緒に物事を知ること; 意識、知識」)に由来します」とあり、ドイツ語の場合も語源には同様な意味合いがある。「共に知る」とか「確実に知る」というようなことらしく、「知る」ことと関係している。英語のconsciousnessとなれば意識を意味する事からも理解できる。また逆に、その語源には日本語のような「良い」を意味する部分はなく、従って「悪い良心」というような日本語的には矛盾した表現もあり得るのだ。このように、日本語と英語・ドイツ語などでは、その言葉に微妙な違いが存在しており、上の文章は、このような問題が背景にあるエピソードであると思われる。

 

 私たちは、「良心」という言葉の一般的な意味が、何世紀にもわたってどのように現れてきたかを知ることができる。私たちはまた、ある言葉に対する一般的な見解が、より低い発展段階にあるルシファー的存在によってどのように造語され、形成されるかを知っている。「・・・と言われている。It is said・・・」という定式は、これらの存在によって造られたのである。

 200年前、アーサー・ショーペンハウアーは、良心の解釈で最もよく行なわれている仕方に問題があると指摘した。彼はこう書いている。「あらゆる宗教の人々は、良心を自分の宗教の教義や戒律としてしか理解していないことが多い。彼らの良心は、自分たちの教会の教義や教えについて知っていることすべてと、戒律とで構成されている。」そして、これは現在でも同じことが言える。

 ゲーテアヌムで働く人々は、ルドルフ・シュタイナーに「良心とは何ですか」と尋ねたことがある。ルドルフ・シュタイナーは、ドイツ語のGewissen(良心)がgewiss sein(確実であること)と関連していることを説明し、良心とは人間の魂に宿る最大の確実性であると述べた。しかし、conscienceやconscientiaという言葉は、言語学的には別の側面からこの問題にアプローチする。この言葉は「共に知っているもの」、con scientiaを意味し、従ってこの言葉には「地上の知識の集合体」という意味が含まれているのである

 ルドルフ・シュタイナーによれば、良心とは生まれも死にもしない質である。それは人間の中にある崇高なものであり、キリストの神秘と深く結びついている。人間が良心の感覚を持ち始めるまでには、さまざまな転生を経なければならない。ルドルフ・シュタイナーはまた、人類がいかに若い魂と年老いた魂で構成されているかについても述べている【訳注】。これらの呼称に価値判断は含まれていない。古い魂であることが若い魂であることよりも優れているわけではなく、新鮮で新しいことが古くて疲れていることよりも優れているわけでもない。価値における違いは、ここで意味されていない。私たちはこのことから、年老いた魂は若い魂よりも地球にいる回数が多く、多くの転生を経験してきたということだけを理解すればよい。したがって、より大きな宇宙的文脈の中では、年老いた魂の転生回数は多く、若い魂の転生回数は少ないのである。

【訳注】シュタイナーは、人々は皆同じ時期に、また同じ間隔で転生してきたのではないとしている。これにより、特に、その回数が多く地上での経験が豊富な「年老いた」魂と、転生経験が少ない、地上経験のより乏しい「若い」魂に区分されるようである。

 

 良心の発達は決して完全ではない。良心は、私たちの中にある魂の性質として、ほとんど潜在的な状態で存在しているが、私たちはそれでも、それを経験することができる。やがて、それは一層体験されるようになる。良心の問題は、人類の進化に関する議論の一部である。

 私たちが知っているように、自然は飛躍的に進歩している。自然の発展は、一定ではない。物事はAからBへ、そしてCへ、さらにDへ、といった具合に進むものだと思っていると、自然現象は私たちを驚かせる。人間の魂の成長も同じだ。研究によると、時代の転換期を迎える前のギリシア時代のBC5世紀、アイスキュロスエウリピデスの間のごく短い間に、劇的な変化が起こっている。アイスキュロスが死んだとき(紀元前456年)、エウリピデスは24歳だった。このことは、二人がほぼ同時代人であったことを示すために述べた。どちらも劇作家であり、同じような題材を扱っていた。しかし、この題材の扱い方には大きな違いがある。

 おなじみのオレステスの物語を描いたアイスキュロスの戯曲では、トロイア戦争を終えて故郷に戻ったアガメムノンが、彼の帰還を予期していなかった妻のクリュテムネストラに殺害される。そして息子のオレステスは、母クリュテムネストラを殺して父の仇を討つ。オレステスは、この復讐を実行するように忠告されたと言える。彼は、その忠告が神の世界、アポロから来たものだと思っていた。しかし、劇の第2部で、オレステスは、自分の行為の結果が何をもたらすかを幻視的に体験する。古代ギリシア悲劇でしばしば起こったように、彼は怒りの女神エリニュス(ローマ時代にはフューリーとして知られていた)の猛攻撃を経験する。彼はその怒りを体験する。アポロンの導きによって復讐を果たしたとはいえ、彼はまた、より高次の世界秩序の存在を体験する。怒りの女神たちは、この高次の世界秩序から彼のもとに来たのである。

 エウリピデスでは、事件の経過が異なる。エウリピデスオレステスについても書いているが、エリニュスについてはもはや触れていない。その代わりに、彼は、内なる力について書いている。あるものが内面にシフトしたのだ。エウリピデスはそれを良心とは呼ばないが、この変化を語っている。ここで何が起こったのか。

 これらの戯曲の間の短い間に、人間は自分の存在の中心をより自我の中に経験できるようになった。悟性魂の出現によって、彼は自分のエゴが自分を自分の中に置いていることに気づく。その結果、彼は、自然界が彼に与える影響から遠ざかる。ギリシア神話、特に最も古い神話では、霊的世界の変容の特質も現れている。たとえば、悪行が善行に変容したとき、現れるのは復讐の女神ではなく、善の女神であるエウメニデスである。

 時の流れの中で-私たちは今、第3のエポックについて話している-、私たちは、様々な発展段階で共に生きている魂を見いだす。第3エポックの高度な文化である、エジプト人カルデア人バビロニア人、神殿の文化などである。例えば、ルーブル美術館に展示されているこれらの文化の工芸品、洗練され繊細に作られた美術品、宝石、何千もの像が描かれた石棺、そしてピラミッドや神殿の建造物などを思い浮かべる。

 これらのものを見れば、悟性(感覚)魂の影響がいかに深かったかがわかる。人間は外界にあるものを知覚し、それを形づくるために自らの能力-彼の手と指の洗練されたコーディネーション-を開発した。これは音楽の場合にも当てはまる。人間の魂に直接影響を与えるものであるため、音楽とさまざまな音色様式の発達は、長い間、秘儀の最高の教師たちの指導の下にあった。これらの教師たちは、他の魂の力が偶発的に活性化される可能性があるため、音調の音程を作る際には注意を払わなければならないことを知っていた。そして、禁じられた音程を演奏することの罰は死であった。

 

 北欧の状況はまったく異なる。感覚魂の文化の時代の北方の文化について、南方の支流について語るのと同じように語ることはできない。このことは、時代の転換点まで、あるいはその後の何世紀にもわたっても同じである。そこでは、他の偉大な文化の外からの影響から守られた雰囲気の中で、別の何かが発展していた。自我は、感覚魂の中で力強く発達した。覚者の魂は非常に強力な魂である。そして、感覚魂の中のこの自我が、北ヨーロッパの森や谷で発達するにつれて、強い性格を獲得していった。

 ルドルフ・シュタイナーはかつて、キリストの受肉がヨーロッパで行われることを想像するのは難しいだろうと述べたことがある3。なぜかというと、ヨーロッパの人類は個性の原理をこれほどまでに進化させ、人々の間にある種の平等性を育んでいたからである。私たちはここで、北欧の公民集会(?.)という制度と自治を思い浮かべる。このような状況下では、キリストは北欧文化の中で働くことはできなかった。しかしその後、そこで自我が発達したため、ヨーロッパは、キリストが自我意識、つまり個性の意識をもたらす存在であるということを、特に強く完全に理解するようになった。これは数世紀後、ヨーロッパにおける神秘主義の力強い発展に反映された。この神秘主義は、キリストとの直接的で個人的なつながりを見出そうとする努力の表れである。

 キリストの出現は、キリストが地上の進化に降り立つ前から、ヨーロッパの北方諸国で予期されていた。それは、霊視的に予言され、ドルイドの文化全体の中で期待されていた。彼らは、宣教師たちが到着したとき、彼らが、人々の魂の中にすでに存在する知識体系を見出すことができるように、地ならしをしたのだ。とはいえ、宣教師たちはゲルマン民族の間で必ずしも楽な時を過ごしたわけではなかった。南方のギリシアやローマでは、キリスト教化の努力が始まった後も、古い神々の知識や神々の体験が残っていた。北方でも同じであった。北方では、初期のキリスト教の聖人たちが、古いゲルマンの神々やヨーロッパ北欧の神々の資質、あるいは資質のブレンドを身につけることが多かったのは興味深い。宣教師たちは、異なる語彙を開発する必要さえあった。

 また、旧約聖書ヘブライ語には良心を表す言葉がないことにも注目したい。この言葉はまだ存在していなかったのだ。多くの場合、「心=レブ」という言葉は、良心が姿を現し始めたときに、良心を表す一種の代用品として使われた。例えば、神が語り、人間が耳を傾けるときに使われる。魂は、神が語ることを、内側からの声としてではなく、外側からくる声として聞きかなければならない。この外からの声が、内へと浸透していくのだ。

 ダビデに関する聖書の記述の中に、良心の前兆を見出すことができる。彼はまだ羊飼いの少年だったころ、良心の兆候を経験した。これは時代の転換点より約1000年前のことであり、良心の発達という観点から見れば非常に早い時期である。サムエル記上24:5-6にこのことが書かれている。サウル王とダビデは敵対しており、サウルとその軍隊はダビデに向かって進撃していた。夜、ダビデと従者たちは洞窟の奥に隠れ、サウルとその軍勢が近づいていることに気づく。ダビデは隠れた場所から、サウルの衣の角を器用に切る。その瞬間、ダビデの部下たちは彼の好機を見て、「今がチャンスだ」と言う。しかし、ダビデはサウルを殺さない。その後、ダビデはサウルのすそを切り落としたので、心を痛めた(心臓が彼を打った)。そして彼は部下に言った、「主は、私が私の主人、主の油注がれた者にこのようなことをすることを禁じられた。」翌朝、ダビデはサウルとその部下たちが出発するのを許した。洞窟から出てきたダビデはサウルに立ち向かい、彼の衣のすそを見せ、危害を加えるつもりはなかったと言う。

 これは、良心の発展の重要な瞬間である。ダビデの中の何かが彼を引き留めたのだ。ここで、ダビデが音楽家であったことが関係していると思う。私たちは、発達する人間の体-感覚印象と肉体、生命器官とエーテル体、そして魂、アストラル体-に秩序を取り戻すために、汚れのないアダムの魂がキリストによって浸透さたことを聞いてきた-それにより思考、感情、意志の間にバランスが造り出された。このバランスは常に、竪琴を持つアポロとして表現される。アポロは、キリストのこの作用の、地上に来る前の代表者である。ダビデの魂は、部下たちの懇願に抵抗できるだけのバランスを保っていた。その結果、彼は自分の中に深い力を呼び起こすことができ、それは後に良心の力へと発展したのである。

 やがてキリストの衝動は、人間の中に神性がどのように息づいているのか、人間がどのように神の雫を自分の中に持っているのか、分離し、個別化されているのかを把握することを可能にした。ゲーテはこれを非常に美しく表現している:

 「人間が神として崇めるものは、自分の内面が外側に向けられたものである。」

 ゲーテは、この秘密によく接近している。キリスト自身、しばしば良心の力を呼び起こしている。私たちは、これをキリストのたとえ話で読む。姦通の女の話も特にこれを明らかにしている。ファリサイ派や律法学者たちは、彼女をキリストのもとに連れてきた。彼らは実際に、キリストが何をするか確かめるために、キリストに罠を仕掛けようとしたのだ。彼らは、それで大騒ぎしたのだ、『モーセの律法によれば、彼女は石打ちにされるべきだ』と言う。それに対するキリストの反応は?

 聖書によれば、キリストは「身をかがめて」、「地面に......書いた。」それから、「御自身をあげて言われた。あなたがたのうちで罪のない者は、まず彼女に石を投げなさい。そしてまた身を低くされた。」主は自省を促し、この人々の良心の力に直接語りかけられた。それから、ファリサイ派の人々が去っていく様子が描かれ、キリストは女に尋ねる。彼女は言った。そしてイエスは彼女に言われた、「わたしもあなたを罪に定めない。去りなさい。そしてもう罪を犯さないように。」

 シュタイナーは、次のようにコメントしている。地面に書くというキリストの行為は、もっと広い意味を持っている。それは、キリスト自身が間もなくこの地上と一体化するという事実と結びついている。ゴルゴダの秘儀において、キリスト存在の最も親密な要素である血が地に流れ込むとき、キリストは地の一部となる。そして、キリストが、女はもう罪を犯してはならないと言われたとき、これは一般の人々に対して、「もう罪を犯してはならない。」と述べたのである。アカシャに記録されたことは、その人自身のカルマをとおして彼自身によって償われる。死後、自分が何をしたかを見れば、その後の人生で自分の行いをどう償うべきかがわかるだろう。しかし、個人がこれを行うのは、個人的な、個人の領域においてだけであり、地球そのものに対してではない。キリストは、地球自身のためにこれらの行いを正さなければならない。優れた霊視能力のある人は、アカシャ(宇宙の記憶)を覗くことができるかもしれないが、その人でさえも、キリストの衝動を通してそれを見ることができなければ、これがどのように行われるかを見ることはできないだろう。この法則は、ゴルゴダの秘儀の後だけに適用されるものではない。キリストはこの償いを、地球のためだけでなく、キリスト教以前の時代に死んだ人々のためにも重要な行いとして行なったのである。これは、キリストが死者の領域に下られたことの一つのレベルの意味である。キリストはこのことを引き受け、そして自ら背負われたのである。【訳注】

【訳注】正典でない聖書外典、偽典には、福音書に記載されていないイエスの物語が述べられていることがあるが、その一つに、イエスの「冥府降り」というものがある。イエスは、磔刑後、死者の国(冥府・地獄)に降り、そこで天国に昇れずにいた魂を救ったというのである。人智学派は、これは実際に起きた出来事と考えている。キリストは人類を救済するために地上に受肉したのであるが、それ以前に既に亡くなっていた魂もそれにより救われたということである。

 

 これら全ては、全地球のために、地球が前進続けられるようになされたのだ。地球が人々の悪行によって重荷を負わされ、人間の魂を受け入れることができなくならないように、人間の魂が発展を続けるために何度も戻ってくることができるように、地球自体も木星の状態へと移行することができるように。

 初期の教父たちは、天文学に由来する概念を持っていた。天文学では「一時的に変化した星の配置の復元」と呼ばれる。教父たちはこれをもとに「アポカタスタシス」という言葉を作った。アポカタスタシスとは、特にアレクサンドリアのクレメンスとその弟子のオリゲンによれば、終末の日にすべての悪が終末論的に排除され、それを通して被造物の回復が起こるという意味である。すべてのものが贖われ、元の栄光のうちに再び存在するようになるのだ。それは、悪魔ですら救済され、すべてのものが、全体にして善に戻るという救済である。

 やがて、この善の回復という概念は大きな影響を及ぼし、後に中世教会がプルガトリウム(純化の火)として語った火による罰と結びついた。この火は永遠ではなく、浄化の火である。この火は、後に、13世紀のカタリ派の人々の考えに反映した。彼らは、火あぶりの刑に処された時、歌いながら死に向かった。この火は一過性のものであり、この火によって私たちの魂の不浄なものはすべて焼き払われると信じたからである。

 オリゲネスでは、この火による罰には、人の良心を通して経験する痛みも含まれる。ここでオリゲネスとアレクサンドロスのクレメンスは、パウロ、特にコリントの信徒への手紙一3章を参照している。ここでパウロは、すべての人の行いは火により吟味されると述べている。金、銀、宝石、木、干し草、切り株など、各自が持ってきたものが火に焼かれる。これは普遍的な和解の教義である。

 オリゲネスは自分の考えを古いイメージで表現している。ハインツ・キットシュタイナーは、オリゲネスが、いかに火を人間の有機体におけるプロセスと比較しているかについて説明している。もし人が腐敗したものを食べたとしたら、その腐敗した食べ物は、内なる火によって、内なる燃料によって焼かれ、取り除かれる。理性が病的になるときも同じだ。その病的なものは良心によって焼き払われる。: 良心と火はオリゲンによって結びつけられ、彼の解釈は後の時代にも受け継がれている。

 中世では、トマス・アクィナスが『神学大全』の中で良心の内なる力の問題を取り上げている。私たちの議論にとって重要なのは、彼がすでに良心のまったく異なる、拡大された次元を指摘していることである。「正しく言えば、良心は力ではなく活動である。このことは、その名称にも、また通称で良心と称されるものにも見て取れる。本当の意味での "良心 "とは、具体的な何かに対する知識の関係を意味する。」トマス・アクィナスが良心を力としてではなく、活動として言及したのは、かなり先見の明がある。

しかし、中世以来、ローマ教会は常に良心を強力な力として扱ってきた。このことは、1864年教皇ピウス9世が発行した回勅『Quanta cura』において、個人の良心が市民的権利であり、それゆえ自由であると考えるのは誤りであると述べている(回勅は実際に、このような考え方を「狂気」と呼んだグレゴリウス16世を引用している)!なぜこのような声明が19世紀半ば過ぎに発表されたのだろうか。当時、ミカエル時代が始まる直前、人々は「良心の本質とは何か?人間は自分の良心の支配者ではないのか?人間は自分の良心の主人ではないのか?自分の良心についての責任を何かより高い権威に委ねなければならないのだろうか?」と問わなければならなかった。それに対するローマ教会の答えが、クアンタ・クーラだったのである。

 数千年の間、つまり18世紀に至るまで、存在し続けている良心のイメージのひとつは、特にヘブライ語の伝統において、古くから受け継がれてきたものである。私たちはここで、ヤハウェと、ヤハウェの力が嵐、雷雨の中でエリヤによってどのように経験されたかの描写を思い浮かべる。主はエリヤに出よと命じられ、主が通り過ぎられると約束された。大風が吹いて山を裂き、主の前で岩を砕いたが、主は風の中にはおられなかった。地震の後には火が起こったが、主は火の中にはおられなかった。そして火の後には、静かな小さな声がした。エリヤはそれを聞いて、顔をマントにくるんで出て行き、洞穴の入口に立った。見よ、彼のもとに声がして言った、『エリヤよ、あなたはここで何をしているのか?』」

 嵐、超自然的な要素、予測不可能なものは、常に神からの罰として、あるいは復讐に燃える神々からの罰として人類に襲いかかった。ギリシア・ローマ時代でさえそうだった。そしてやがて、嵐という現象は良心と結びついた。当時の人々は、嵐が起こるのは誰かが禁じられたことをしたからだと経験した。この初期の経験を想像するとき、当時、雷は最も強大で、最も予測不可能な光の現れであったことを理解する必要がある。雷は人間が聞くことのできる最も強烈な音だった。今日でも、突然の雷雨に驚かされることは衝撃的である。地震も嵐と関係している。聖金曜日の出来事と合わせて考えると、あの瞬間も自然がいかに力強く語っていたかがわかるだろう【訳注】。

【訳注】キリストは、金曜日に磔刑により死んだとされる。このとき大地を揺るがす地震が起きたとも伝えられている。

 

 良心のもうひとつの側面は啓蒙時代に現れるが、それ以前にはバロックの時代があった。このバロックの時代、つまり17世紀は、ヨーロッパの精神生活において特に重要な発展段階を意味し、私たちはこれを過小評価してはならない。なぜなら、この時代は、私たちがクリスチャン・ローゼンクロイツとして知っている偉大な個性が激しく活動した時代だったからである。この時代は、特に中欧において、完全にクリスティアンローゼンクロイツの印しの下に立っていた。その頃、薔薇十字の流れの中に、ダニエル・フォン・ツェプコ(1605-60)という、その後ほとんど無名に追いやられた人物が生きていた。彼の著作には良心に関する記述が頻繁に見られる。良心はしばしば、魂と霊の厳格な教育者として登場する。良心は、しばしば、魂と精神の厳格な教育者として登場する。たとえば、彼の時代の劇的なバロック様式や、ドイツ語の詩の正書法にさえ、そのことが見て取れる。

 

 私の良心は引き裂かれ/千々に砕け散った: 私の魂は芯から蝕まれ/萎縮し、爛れ、もはや完全ではない: 火の中の恐怖と恐怖が/火刑台で私の魂をつかむ: そして私の心は石と化し、助けを求めて叫ぶ力も消え失せてしまった。

 

 ここには、魂そのものとその内的気分を観察することのできる意識魂の始まりが感じられる。

 良心をこのように理解すると、現在と未来に対する良心の巨大な使命が見えてくる。この課題は、個々の人間の成長なしには完成しないが、個々の人間だけの成長よりもはるかに高い。ある人生で抱いた道徳観は、次の人生、そしてその次の人生でも良心として戻ってくる。これは少しショックなことかもしれない。もし私たちが悪い良心を持ったら、「私の前世での道徳観に何が起こったのか」と考えることができる。今日、誰かが悪い考えや悪い感情を抱くと、たとえ悪事を犯していなくても、その考えや感情が彼の中から染み出て、彼の周りに空洞の膜のようなものを作ってしまう。これらの空洞は、邪悪な本性のものがその中に入り込むと満たされうる。無感覚な人は、邪悪な想念や感情の膜の中にいるこれらの存在に邪魔されることはない。それらは、単に、彼を取り囲むものといて存在しているのだ。もう少し敏感な人は、特定の人の周りにオーラとしてこれらの存在の存在を感じる。そのような人がさらに敏感になれば、これらの存在を良心の痛みとして経験することができるのだ。

 死後、良心は実際に私たちの自己となり、私たちの外的な環境となる。私たちは死後も良心の実質の中で生きる。もちろん、これは良心の質によってさまざまな形で経験される。良心は創造的であり、人間が持つ最も創造的な要素である。誰も、他人に何かをさせることはできない。彼の良心がするなと言うことをさせることは出来ないのだ。考えてほしいのは、これは、人が自由である場合に限られるということだ。今日、何百万という人々が自由ではない。その明らかな例が、ある人の良心が「殺してはならない」と言う場合である。しかし例えば、その人は軍隊にいれば、この内なる声に従う自由はない。しかし、人間の創造的な資質として、良心は人の行いに働いているのである。

 良心は、[天使の]第一ヒエラルキーの領域、特にケルビムの領域で高貴な霊的起源を持つ。それは次第に地上に降りてきて、内的な性質として人間と一体化した。その外的なイメージは、アダムとエバを楽園から追い出したケルビムである。

 人間は将来、キリストと一体化する。私たちは、キリストが地上で働くために必要な身体をどのように受け取ったかを見てきた。ツァラトゥストラのエゴ、この偉大な個性がヨルダン川での洗礼でどのように退き、キリストがどのように準備された身体を貫くのか。この身体は、キリストの受肉のために準備され、キリストに捧げられたのだ。それは贈り物として差し出された【訳注】。

【訳注】ツァラトゥストラのエゴとは、キリストが地上に受肉するまで、イエスの肉体に宿っていた自我である。ツァラトゥストラ(マタイ伝のイエス)は、キリストにその肉体を譲るために、それを去ったのだ。ユダヤ民族の使命の一つは、長い年月をかけてこの肉体を造り出すことであった。

 

 地球の進化が完了したとき、キリストは地球と結びついた偉大な衝動であり続けるだろう。地球はキリストの衝動によって、次のレベル、進化の木星段階に到達することができるだろう。しかし、それを達成するためには、人類はキリストの鞘の中に自らを完全に織り込まなければならない。つまり、人類自身がキリストの鞘を作り上げ、創造しなければならないのだ。キリストのアストラル体エーテル体、肉体は人間によって形成されるだろう。

 私たちはここで、古い秘儀の秘密についてしばしば語ってきた。しかし、これは新しい秘儀の秘密である。この秘密を考えることができる。ゴルゴダの秘儀以来、この秘密は形成段階にあるが、それが成就するまでにはかなり長い時間がかかるだろう。人間がその魂において、畏敬の念、驚嘆の念によって成し遂げるすべてのこと-以前にも、現代にも、そして未来にも-は、アストラル体、すなわちキリスト存在のためのこの鞘を創造する。自然に対する驚き、芸術に対する驚き、他の人間に対する驚き......こうした驚きの力はすべて、キリスト存在によって時をとおして取り込まれ、まとまってキリストのアストラル体を形成する。今日、このアストラル体の形成を妨げるようなことが起きていることを認識すれば、このことがいかに重要であるかがわかる。人々の間に軽蔑と嘲笑の傾向が強まっている証拠を、私たちはいたるところで目にする。私たちはこうした現象にあまりにも慣れ親しんでいる。

 さらに、人間の魂、思考、行いにおいて集められる愛と共感はすべて、キリストのエーテル体のためにまとめられる。このエーテル体を形成するために、これらすべてが一緒に流れていくのだ。福音書に「これらの私の兄弟たちのうちで最も小さい者のひとりにしたように、あなたがたも私にしたのである」とあるのは、キリストのエーテル体から何かが取り去られたときに何が起こるかを垣間見せる。私たちは、対抗する勢力がこの創造的なエーテル的力と闘い、憎しみをとおして-国と国を、宗教と宗教を闘わせてなどにより-攻撃している様をもみている。今日、多くの場合、多くの状況において、良心の素質さえも、幼年期の早い段階で絶滅の危機にさらされている。

 この創造的なエーテルの力は、ゴータマ仏陀によって予示された。ゴータマ仏陀は、愛と慈悲の力という偉大な教義をもたらし、それは洗練された形で働き続けている。先ほど、人間自身がこれらの資質、すなわち慈悲と愛から形成される8つの資質をいかに身につけなければならないかについて話した。

 さて肉体の話に移ろう。地上の時間の終わりにおける、その実質の状況は、もちろん違っているだろう。最も創造的な要素がここで活動しなければならない。それは、人間が良心を通して貢献できることである。「良心は、あたかも、人間が従い、自分個人よりも高い価値を認める高次の世界から道徳的本能を人間の魂に引き寄せるものである。キリストは、最も親密にそれに結びついている。キリストは、人間の魂にある良心の衝動から肉体を得ているのだ。

 これらの洞察は、未来が意識的に創造されなければならないなら、まとめ上げられねばならない。これは人智学の偉大な課題の一つであり、良心の種から生まれるものである。良心はすべての人間の中で最も自由な要素でなければならない。すべての人間は、「自分の人生、自分の洞察力、キリストの衝動との個人的な関係をから何を造ろうとしているのか」を決断しなければならないのだ。

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 さて、以上の文章で語られたように、古代においては、現在の人々がもっているような内面的な良心は存在していなかったのだ。例えば、悪いことをすれば、その結果は、外から復讐の神による罰としてやってくると感じられたのである。良心が自分自身の心の声となるには、ある年月が必要だったのであり、それまで、それは外からくるように感じられていたのだ。

 これにより旧約聖書モーセ十戒の意味も分かるだろう。十戒とは、神からモーセに、ユダヤ民族に与えるように託された善悪の規範である。現在の人間からすれば、当然の道徳的・社会的規範であり、現代人はこれを内面の良心において判断しているが、当時の人々に、それは外部から与えられなければならなかったのである(幼い子どものように)。

 しかし、時が過ぎ、今や良心は一人ひとりの心の中に存在するようになっていった。内在化されたのである。そしてそれは、人の自立の証でもある。自身を個我として意識するようになっていったことと平行した発展・成長なのである(その過程で、悟性魂、意識魂が役割を果たしている)。内面で良心に基づき判断するその主体も成長してきたのである。

 

 上の文章の後半は、キリストによって与えられた人類の未来に関わる話となった。

 人類はキリストの肉体・エーテル体・アストラル体の形成に関わっているという(この場合、キリストは今エーテル界に再臨しているので、その最下層の体は今や肉体ではないことから、この場合の肉体は、人間の物質的な肉体とは異なる。霊化されたエーテル的な肉体と理解すべきであろう)。

 ここで良心と関連してくるのは、モラル(道徳・倫理)の問題である。これについては、既に関連記事が掲載されている。

k-lazaro.hatenablog.com

 人間は、キリストと共に、モラルをとおして未来の世界を準備しているのだ。モラルの起源も霊界にある。もともと物質的世界の背後には、モラルの世界があり、そのモラルを物質的世界で実現(実践)することが人間の使命なのである。

 一方「従来のモラルは古い、価値観は多様だ」という主張もある。確かに時代と共にものの見方は変わってきただろう。だが「人を殺すな」という規範はどうだろう。時代を超えた、人が守るべき規範ではなかろうか。
 しかし、今や、カナダでは、妊娠中ではなく、生まれてきた子どもの「安楽死」が認められてきているという。重度の奇形や苦痛を伴う不治の病を負った子どもが対象なのだろうが、本人の意志はこの場合、関係ないのだ。確かに難しい問題だが、背後に「優生思想」はないだろうか。
 従来のモラルが揺らいでいることは確かであろう。だが、そのの裏に、モラルや良心に基づきキリストの体の構築に関わる人間の働きを阻止しようとする霊的敵対勢力がうごめいている可能性があることを見る必要があるだろう。