k-lazaro’s note

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キリストの復活体と生命の意味

ローエン『霊的キリスト学の概要』

 キリストは死後、復活したとされる。シュタイナーは、その時にキリストがまとった復活した体は、物質的体ではなく、ファントム体であるとする。それは人間の肉体の原型ともいうべき霊的体であるが、キリストにおいては実際に触れることが出来た。それは、人類の未来の体でもある。

 

 以前何度か紹介したことのあるドイツの世界的解剖学者で人智学者のヨハネス・W・ローエンJohannes W.Rohen氏の著書に『霊的キリスト学の概要』という本がある。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/09/08/075647

 この本は、題名のとおり人智学的立場でキリストのことを論じたもので、二人の子どもイエスのことなども語られているのだが、キリストの復活体=ファントム体についても詳しく解説している。これは、解剖学者らしく、医学・解剖学的な視点を加味したものとなっており、未来の人間の体を考える示唆を与えるものとなっている。

 ここで「未来の人間の体」というのは、シュタイナーは、時と共に人間の体は変容してきており、またこれからも変容していくとしているからである。変容というのは、質的にも、形態的にもである。例えば、今の人間の生殖器官はやがて別の機能を持つようになるとされているのである。

 今回はこの本から。キリストの復活体に関する部分を紹介する。

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復活体と生命の意味

 

 キリストの復活体がどのように造られたかを考えることが出来るだろうか。復活体は、ルシファーの誘惑による欠陥を克服しなければならなかった。つまり、肉体がより高いレベルに引き上げられたに違いない。神経系を例にとってみよう。神経系が三重構造であることは前述した。シュタイナーによれば、ルシフェルの感染という恐ろしい力が外部に現れて害を及ぼすことがないように、3つの機能システムのそれぞれに、人間の異なる構成要素が「つなぎ止め」られていた。自我は「植物性(自律性)神経系に、アストラル体は脊髄系に、エーテル体は脳に、それぞれつなぎ止められていた」(GA174、1917年1月14日)。さて、神経系の基本的な構造原理は、常に、求心性神経(神経系につながる)と遠心性神経(神経系から離れる)(ニューロン)の2つの要素からなる伝導弧または反射弧である。脊髄のような最も単純な場合、筋から脊髄に伝導する神経要素(求心性ニューロン)と脊髄から筋に伝導する神経要素(求心性ニューロン)のみが接続され、機能的回路を形成する。ここで、両要素はほぼ等価である。しかし中枢神経系では、特に感覚器官において、求心性神経枝が一方的に支配的である。その結果、ルシファーによって目覚めた意識は外側に向けて移ることになり、私たちは自分の内側ではなく外側の世界を経験することになる(「あなたの目は開かれる」)。逆に植物神経系の領域では、この経路の遠心性枝が支配的であるため、神経の神経叢によって制御される代謝プロセスは無意識のままである。ここでは自我は物質的なプロセスに縛られている。復活した方のファントム体では、こうしたアンバランスが解消され、求心性と遠心性のプロセスの相互作用が調和し、【人の物質体、エーテル体などの】構成要素が「束縛」から解放されたと想像できる(J.W.ローエン、2006年、2009年参照)。そうなれば、もはや、現在のように鉱物質で重荷を負わされることもなく、常に死の入り口で生きることもなくなった神経系により、人間は再び、宇宙の霊的な力や存在、そして地上の自然の王国を直接知覚することができるようになるだろう。

 

 ルドルフ・シュタイナーが初めて、ルシファー的存在とアーリマン的存在による人間の構成要素のずれをより詳細に特徴づけたサイクル(GA134)では、「一方では感覚、腺、消化器系の人間であり、他方では神経、筋肉、骨の人間である」という区別がなされた。

 前者で起こることはすべて「直近の過去」に属するが、後者で起こること、あるいは発展させることができることは未来に影響を及ぼす。従って、私たちの中には、崩壊あるいは過去の人間と未来の人間がいる。感覚器官はこの尺度のマイナス側にあり、神経系はプラス側にある。これは、感覚世界が現在の形で消滅するということをまさに意味している。これは必ずしも、感覚器官がファントム体に存在しなくなることを無条件に意味するわけではない。それらは確実に変成を遂げ、まったく別の形で機能するようになるのである。

 もちろん、消化器系も同様である。消化器系は現在、物質的な素材の分解と、自らの力によるこれらの物質の再構築に完全に集中している。福音書には、復活したキリストが弟子たちの前に現れ、一緒に食べようと誘う様子が何度か描写されている(例えば蜂蜜や魚)(ヨハネ21章、ルカ24章)。これらが超自然的な体験であったとしても、霊的な滋養のプロセスがここで示されたと考えなければならない。自然に由来し、その実質と結びついている形成力を吸収することで、新しい体、すなわち復活の体における関連する力を刺激することができ、その結果、そのような形を維持することができたのである福音書に記されている例は、それを物語っている。ハチミツは、最も高度に発達した非脊椎動物であるミツバチによって生産され、ミツバチはすでに地上界で一種の愛の共同体を実現している(R.シュタイナーのいわゆるミツバチ講座、GA 351を参照)。魚は動物界の脊椎動物の系統の根源であり、今も水と地球の原始的な状態(新しいものを生み出すことのできる無垢な存在)と完全につながっている。古代において魚がキリストの象徴であったのは偶然ではない。最後に、共同体の食事でいつも割られ、祝福され、祝福されたパンは、太陽によって熟した穀物から生まれ、太陽の生命力を宿している。このため、パンは最も古い文化においてさえ、常に神聖視されてきた。現代の人間では、代謝の大部分が特大であり、「崩壊人間」に属している。しかし、ひとたび人間が物質の束縛から解放されれば、それにより老化と死と再生はもはや役割を果たさなくなり、もしかすると諸実質の霊性に関連するプロセスはおそらく残るかもしれないが、そこに巻き込まれている構成要素のアンバランスは消滅する有機組織の代謝は、素材の吸収と「消費」で成り立っているのではなく、分解された素材が細胞内で何度も再合成される循環プロセスで、素材(タンパク質など)の構築と分解が進行しているのである。しかし、不可解なことに、これらの物質の一部は常にこのサイクルから外れ、入れ替わらなければならない。これは最終的に老化と死につながる(J.W. Rohen, 2016, F. Husemann, 1951-1986も参照)。もしこのプロセスが(排泄に至る汚染なしに)機能的なプロセスとして維持されていれば、消耗や死は起こる必要がないのである。

 こうした関係は、腎臓機能の例で特にはっきりと見ることができる。1日に約1500~1800リットルの血液が腎臓を通過し、そこから1日に150~180リットルの限外濾過液が濾別され、その98~99%が再吸収されるため、1日に排泄される水分はわずか1~1.5リットル程度である。腎臓はいわば、体液中の鉱物質と代謝最終産物の濃度を内側で見て、これらの体液の流れの分離と再吸収から、上方に放射されて脳に達し、想像力と知覚の基礎となる力を得る内なる目なのであある(いわゆる腎臓放射)(R. Steiner, GA 218)。物質が肉体を浸透しなくなれば、腎臓を通してこれらの物質を排泄する必要はなくなる。流体の流れは再び完全な生命の流れとなり、濾過された生命エーテル流を100%再吸収することによって、腎臓器官は純粋な感覚器官となり、そこから全身を通して光輝が放射されるようになる。「遺伝の流れ」が消滅し、性の分離がなくなるため、現在も腎臓系とつながっている生殖器官は不要になるだろう。シュタイナーが様々な場面で述べているように、現在まだ生殖に役立っている器官は、遠い将来には発声器官(喉頭など)に変成する。つまり、その時には、人間は「言葉」によって自分と同じものを生み出すことができるようになるのだ(GA 94、1906年10月27日)【訳注】。

 

【訳注】シュタイナーは、未来において、今の喉頭生殖器官になると述べている。

 

 呼吸器官には未来の力が宿っているのでありー今既に認識可能であるー、一方、統計が示すように、人間の繁殖力はすでに(少なくとも工業国では)ますます低下している。遺伝学者は、男性の出生率が着実に低下しているという事実は、人類が今後125,000年の間に滅亡することを意味しているとさえ計算している(Bryan Sykes, 2003)。もちろん、このような数字は非常に仮説的なものである。しかし、シュタイナーは、地球の発展の過程で人類の生殖能力が低下することも予言しているのだ(GA 94; GA 312, April 1920)。

 シュタイナーが言うように(GA 134)、「未来の人間」はより高次の認識能力(イマジネーション、インスピレーション、イントゥイッション)を自分の中で発達させ、それによって霊的世界とのつながりを取り戻すだろう。イマジネーションは主に骨格系に基づくもので、その骨格系には現在、形成力が最も強く集中している。インスピレーションの能力は筋肉系と結びついており、その運動により生成された活動を通じて、天球のハーモニーを体験することができるようになる。イントゥイッションにより、神経系に基づて、未来の人は霊的存在そのものとつながる。

 現在の人間において、骨系には-シュタイナーは1911年(GA 134)、次のように述べている-

「......物質化されたイマジネーション、物質化されたイメージ性が、筋肉系に、物質化されたインスピレーションが、そして神経系に、物質化されたイントゥイッションが存在している......」。人間が死の門をくぐるとき、......骨系は徐々に崩壊するが、残るのはイマジネーションである」。「筋肉系が崩壊してもインスピレーションは残り、神経系が崩壊してもイントゥイッションは残る。......もしこのようなプロセスが起こらなかったら、私たちの地球がその発展の終わりを迎えたとき、普遍的な宇宙空間にチリとしてちらばる粉々になった物質しか残らないだろう。しかし、地球の物質的なプロセスから人間により救われたものは、普遍的な宇宙空間の中で生きている.....イマジネーション、インスピレーション、イントゥイッションによって生まれるものとして。このようにして、人間は、世界が、それらを構成要素として自らを新たに造り出すものを世界に与えるのである。人間は死の門をくぐって個々の魂を運び、地球は、イマジネーション、インスピレーション、イントゥイッションによって生まれたものを[次の惑星状態である]木星の存在へと運ぶ。...感覚を把握し...腺から分泌し、消化し栄養を自らに与える人間は、時間性の中の裂け目に定められている。しかし、神経系、筋肉系、骨系の存在によって働きかけられたものは、それが存続し続けることができるように、地球に組み込まれる。」 (GA 134, p. 87 ff)。

 

 いわば宇宙が言っているのだ: 「人間のイマジネーション、インスピレーション、イントゥイッションは、"私はそれらを使うことができる、私はそれらを吸収する "と。そして木星存在まで運ぶのだ。

「しかし、彼は他のものを押し戻す。それは宇宙に残り、溶解することはできない。......つまり、私たちが放射するものは、すぐに宇宙に吸収されるものと、拒絶されて残るものの2つに分裂するのである。」

 この拒絶されるものは、私たちのカルマだ。

「私たちは、これを自分で処分しなければならない。宇宙は思考的に正しく、感情的に美しく、道徳的に良いものしか吸収しないからだ。」

「朽ち果てていく人間は、それゆえ完全に時間的な運命にある」のに対して、もう一人の人間、骨と筋肉と神経の人間には、「人間的なものを永遠に救うこと」、すなわち、この地上で経験したことを「後の存在」に引き継ぐことが認められているのである。」(GA134、91-92頁)。

 血液は今、現在の有機体のこの2つの大きな機能領域の間に立っている。シュタイナーによれば、他のシステムではルシファーの影響はずれを引き起こすだけであったのに対し、私たちは、血液の中に、「ルシファーの影響を物質そのものとして直接受けたもの」(GA134、93頁)をもっているのである。これが、ルシファーによってもたらされたこの肉体の物質が非物質化あるいは霊化されることができるために、ゴルゴダでイエスの体から血が流れ出なければならなかった理由である(GA 112, p. 166)。

 復活体では、下方の運動器官(筋肉、骨)と上方の神経系の間を行ったり来たりする生命の流れが、今日のルシファーによって劣化させられた血液のような物質性をもはや持たず、これらの流れは、心臓の中に、調和し、調整し、動かす中心を得るようになり、それによりそれが人間の実際の自我器官となると、おそらく想像しなければならないだろう。愛の力はここから、肉体そのものにも世界にも放射される。シュタイナーがさまざまな機会に強調したように、心臓は将来、自分の意志で活動できる器官になるのである(GA 94)。心臓の筋肉は、すでに四肢の筋肉と同じような横紋筋繊維で構成されている。心臓では、それらはまだ不随意的かつ自律的に働いている。しかし、将来、キリストの衝動に従う人々においては、それらは随意的な器官となり、心臓は新しい体(すなわち、復活体を模したファントム体)の中で、高次の自我にとって中心的な位置を占めるようになる

 キリストの力を吸収すればするほど、その人は自分の現在の身体に、今特徴づけられた「未来の人間」の方向への変化をもたらし、復活者が輝く模範としてゴルゴダで世にそれを置かれたような形をとるようになるのである。

 このことを認識して、ルドルフ・シュタイナーはこう力強く語る(GA 155, p. 206, 16.7.1914)。

「私たちは、体、個々の転生から凝縮された地上体で復活するようになります。本当に、親愛なる皆さん、私は、ここで、深く心を動かされながら語ります: 私たちは身体の中で復活するのです!」

 そうすれば、私たちは遺伝の流れから解き放たれ、さらなる発展のために転生を繰り返す必要がなくなる。しかしそのとき、私たちのカルマと世界への罪の勘定はどうなるのだろうか?ここを明確にするためには、2つの異なるカルマのプロセスを峻別しなければならない。シュタイナーによれば、ゴルゴダの後、キリストはカルマの支配者となった。つまり、彼は、私たちが地球に対する誤った行為によって作り出した罪を、自らに背負ったのだ。これが客観的罪である!【訳注】しかし、私たち自身が引き起こした罪は、私たち自身が精算しなければならない。それが個人的な罪である!人間は死後、月の圏内に入ると、地球で負った個人的な罪を少しずつ償っていかなければならない。人間が地上での誤った行為によってもたらした客観的な罪は、

「キリストによってその王国に取り込まれ、実体として持ち続けられる。それゆえ、...アカシック・レコードでは見つけることができない。カルマの正義は残り続けるが、霊界における罪の影響に関しては、キリストが分け入り、キリストはこの罪を自分の王国に取り込み、引き継ぐのである。」(GA 155, p. 184)

【訳注】客観的罪とは、ある人がなした誤った行為により他の人や地球にもたらされた悪影響といえるだろう。その罪の責任を負わない他の人や地球がその結果により苦しみを受けることになるので、それをキリストが引き受けるという事である。例えば、ある者が戦争を自己の利益のために引き起こしたとすると、その結果は何の罪のない他の人や地球にとっては災厄となり、それに苦しまなければならないのだ。だが、戦争を引き起こした者の罪まであがなわれるということではない。それは個人的な罪として、その人自身が償わなければならないのだ。

 

 これは、(私たちの善のために!)私たちに残る "カルマの正義 "である。"人間が地上での誤った行為によってもたらした客観的な罪は、「しかし、霊界における罪の影響に関しては "言ったように、キリストが分け入り、この罪を自分の王国に引き継ぎ、引き継いでくださる"。

 世の終わりについて考えてみよう。

「......人々が地上での転生を終えたとき。確かに、最後の1銭まですべてを支払わなければならないことが起こるだろう。...しかし、すべての罪が地上に残ったままと想像してみよう。そうすれば、人々は償われたカルマを背負って地球時間の終わりに到着するだろうが、地球は木星に進化する用意ができておらず、地球人類全体が住む場所を失ってそこにいることになる......。地球全体が人類とともに進化するのは、キリストの行いの結果である。罪として地球に蓄積されるものはすべて、地球を暗闇に陥れ、私たちはさらなる発展のための惑星を持たなくなるのである。」(GA 155. S. 186.)

 

  私たちが地球に対して犯した "罪 "を償い、次の惑星状態へのさらなる発展を可能にするために、キリストはこのように途方もない犠牲を払われたのである。発展が続けば続くほど、人類はキリストの衝動を受け入れる人々とそうでない人々に分かれていくだろう

 シュタイナーは強調している(GA 155, S. 207)。

「...... 人類は木星で、魂が地上のゴールに到達したものと......木星の人間王国と木星の動物王国の中間の王国を形成する魂とに分かれるだろう。これらの魂は、ルシファー的な、つまり単に霊的な魂である。そしてその体を下の方に持つのだ!この体は、彼らの内なる魂全体の明確な表現となるが、彼らはそれを外から指揮することしかできない。二つの種族、善と悪の種族が、木星で互いに区別される。」

 これは、人間が地上で得た自由を維持できるのは、キリストの衝動を吸収し、ファントム体に働きかける場合のみであることを明確に語っている、なぜなら、カルマから解放されたこの霊化された体だけが、木星の存在に引き継ぐことができるからである。人が自分に働きかけるほど、キリストの助けの力がその人に放射されるようになる。しかし、これは人類の歴史においては異なっていた。

 復活後の時代には、キリストの衝動の刺激と活力を与える力が、霊界のさまざまなレベルから人々に降って働きかけた。西暦800年までは高次の霊界(デーヴァチャン)から、1600年頃までは低次の霊界から地上に降りてきたが、1600年から2400年にかけては魂界(アストラル界)から降りてくる。

「そして、西暦2400年以降、キリストを理解する力が地上のみから発せられ、キリストが肉体の次元から人々に働きかける時代がやってくる。しかし、2400年以降に本質的なものとなることの前触れは、私たちの時代にも届いている: キリストは、エーテルの形で物理的な次元に自分自身を明らかにするのである。」(GA 152. p. 96.)

 R.シュタイナーはかつて、エーテル形態でのキリストの再来と、人間の発展にとってのその意味を次のように説明した。(GA 118、シュトゥットガルト、1910年3月6日):

「......人間は、新たに発達した能力によって......。、エーテル体だけが見られるその世界にキリストを見出すだろう。キリストの第二の物質体への受肉は存在しないからだ。

これは、キリスト=イエスの[エーテル界における]強大な出来事と呼ぶことができるものである。- 最初は少数の人々にとって、やがて地球上のより多くの人々にとって、徐々に体験されるものになっていくのである。」

 

 しかし、私たちの世紀のキリストの出来事は、霊的世界にも及び、亡くなった人々にも知覚されるようになる。「人間がこの地上で見つけるのとは違う形であるとしても。」

 あるいは、現在の反キリスト教運動の激しさは、人々が自分の高次の自己と新たな身体を発展させるのを助けようとする、輝くキリスト(太陽の神)の再来を、敵対勢力が阻止あるいは無力化しようとしていることから理解できるかもしれない。1922年、シュタイナーはこれを次のように特徴づけた。(GA 215、第8講):

「......われわれの頭という組織は、われわれの地球以前の存在の霊魂の肉体的変容である......人間の頭(は)われわれの地球以前の存在の適切なイメージである......思考を映し出す正確な鏡である。」

 

 今日の自我意識は、広範囲に肉体に基づいている。もし私たちがキリストの衝動と結びつかなければ、自我意識は死によって肉体とともに失われてしまうだろう。シュタイナーは次のように強調している。(GA215、第8講、140ページ):

「もし肉体の中で発達したこの自我意識が、それを保持するキリストと結びつかなければ、もし肉体とともに人間の魂から溶け去れば、人類は死をとおして自我意識を持ち運ぶことは決してできない。自我意識は肉体を通して獲得される。もし、聖パウロの「私ではなく、私のうちにおられるキリスト」という言葉の意味において、この「私」がキリスト存在とつながっていなければ、「私」は肉体とともに人間の魂から溶けだしてしまうだろう。キリストがそれを受け取り、死を通して運んでくださるからである。」

1909年の復活祭の日曜日、シュタイナーはさらにすすんだ発言をしている。(GA 109/111):

「... しかし、キリストが地上の存在、つまり肉体の骨格にまで深く働きかけられたという事実によって、大地の要素からその殻を形成したものは、この肉体の物質を浄化し、聖別し、彼は...」

 ファントム体を形成することができた。これにより最終的に未来の人間の姿が生み出されたのである。

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 進化論は今や常識であるが、私が普段から疑問に思っているのは、現在の進化理論の問題そのものもあるが、これまで進化してきたとするなら、これからも進化していくということと、また肉体の進化の他に意識の進化もあるのではないかということについて、あまり議論が見られないことである。

 進化は物質的側面のみで、これについても、もうこれからの進化はありえない、というのが暗黙の了解事項になっているように思えるのである。しかし、はたしてこれは、論理的であろうか。論理的なのはむしろ、上の問題を肯定的に捉える立場ではなかろうか?

 それが人智学派の立場でもあろう。

 これに関して、医学と人智学の両方に精通したローエン氏のこうした論考は大変ためになるものであると思う。肉体と意識がこれからも進化していくというのが、霊的進化論であり、今後、人類がもっと探求していかなければならない分野なのである。

 

上の文章の最後の部分で、「現在の反キリスト教運動の激しさは、人々が自分の高次の自己と新たな身体を発展させるのを助けようとする、輝くキリスト(太陽の神)の再来を、敵対勢力が阻止あるいは無力化しようとしていることから理解できるかもしれない」という文章があったが、これもまた私が日頃感じていることである。

 霊的進化を阻止したい勢力があるのだ。それらは、そのために真のキリストについての理解が進むのを邪魔しており、それに「反キリスト教運動」もつながっているように見えるのである。

 現在も続く、ヨーロッパにおけるキリスト教施設の放火や破壊は、移民問題もあるかもしれないが、その真の背景はここにあるのではなかろうか。