k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

ブッダからキリストへ

 人智学は、宗教を人間生活の重要な分野だと考えているが、特定の宗派を特に推奨するという事はない。ただ、シュタイナーの教えの中でキリストが特に重要視されているので、キリスト教に近いと思われているという状況はあるだろう。

 実際、シュタイナーが、「東洋的」な雰囲気の強かった当時の神智学協会を離れ、人智学協会に移行したきっかけは、「再臨のキリスト」を巡る問題であった。

 しかし、このキリストは、確かにキリスト教諸教会の信仰する神的存在であるが、シュタイナーの考えでは、キリスト教のみに関わる存在ではない。簡単に言えば、あらゆる宗教(それが宗教の名に値するなら)に意味を与える存在である。

 かつて、人間イエス受肉したが、その実体は、宇宙の創造や発展に関わる高次の神霊的存在であり、その意味では、あらゆる宗教が、このキリスト的要素を自らの内に含まざるを得ないのである。ゆえに、他の世界宗教にもその要素が見られるのである。

 こうしたことから、これまでこのブログでは、特に仏教とキリスト(教)の関連を見てきた。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/12/19/085614

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2023/11/02/085004

 今回は、この中で既に登場しているヘルマン・ベック氏の論考を紹介したい。

 彼は、ベルリン大学サンスクリットを学び、多数の仏典をドイツ語に翻訳したドイツの仏教学者で、その本(『仏陀』)は、日本の著名な仏教学者である渡辺照宏氏により日本語に翻訳されている。ベック氏は、このように有能な仏教学・チベット学の学者であったが、その後半生は、人智学に傾倒し、人智学系のキリスト者共同体において活動するようになった。

 こうした経緯から、ベック氏は、ブッダとキリストの関係を何度も論じている。

 以下の論考は、ベック氏のこうしたテーマの論考をまとめた『ブッダからキリストへ』(英語版)という本に掲載された、両者の関係、その異なる役割を論じた論考である。

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ブッダからキリストへ 知識の木

  1. 知識の木と生命の木

 

  ブッダとキリストの名前から連想される2つの偉大な霊的衝動の特徴は、2つの宇宙的な絵に示されている。ひとつは、インドの最も偉大な賢者であり聖者であったブッダが、孤独な真夜中の瞑想の中で悟りの境地に達し、人間の苦悩とそれを克服する方法を学んだ、神聖な葉を戴いたイチジクの木である。人類の「知らない」という眠りから、彼は自らをブッダの目覚めた状態へと引き上げたのだ。もうひとつは、人の子の命なき肉体が吊るされた十字架の乾いた木である。ブッダの中には、すべての形成的な力の解消を含む最高の知識があり、彼自身の意識の中で、十分に深く沈潜すると、インド人の霊的な努力は、これらの形成的な力、すなわちサーンスカラsamskaras【訳注】を見つけるのを助ける。キリストには崇高な愛があり、それはノヴァーリスの言葉を借りれば、死をより高次の生の啓示と思わせるものであり、死の中に生の秘密を見出し、永遠の存在の隠された源を明らかにする愛である。ブッダには苦悩の知識があり、そこから、存在を通して、また存在の中で苦悩するすべてのものに対する深い慈しみが生まれる。キリストにおいては、最も深い苦しみから、未来についての新しい愛に満ちた知識が生まれる。ブッダは誕生に勝利し、キリストは死に勝利した。ブッダには終わりがあり、地上の束縛からの解放があり、消滅がある。キリストには若返りがあり、復活があり、地上の要素の変容があり、変成あるいは実体変化がある。

 

【訳注】仏教用語のサンカーラ(巴: Saṅkhāra)、サンスカーラ(梵: Saṃskāra)とはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。伝統的に行(ぎょう)と訳される。サンカーラには主に二つの意味がある。一つ目の意味では、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象をさす。二つ目の意味では、サンカーラは行蘊として業をさし、それらは縁起の原因とされる。心の中の「なにかをしたい」という衝動のことであり、その衝動はその直前の状態から生まれているのである。(ウィキペディアより)

 

 ブッダの教えは、東洋の初期の精神が最後に成熟させた果実である。キリストの出来事は、新しい時代と新しい精神の始まりとして、新しい人類と新しい世界の萌芽として現れる。ブッダのメセージは、原初の宇宙的知恵の、この知恵を理解する能力が、古代の遺産として最も長く存続していたインドの人々の間でさえも失われつつあった時代における、最後の明滅のようなものであった。しかし、ゴルゴダの行いは、消えてしまった天上の光を再び灯すようなものだった。ブッダは、初期の人類の偉大な教師であり指導者の最後の一人であった。死につつある地上存在に再び生命を与えることが、キリストの業がある。キリストにおいて再上昇が始まる。キリストは、人間が地球存在の再生の協力者となる道へと、新しい人類を導く。ブッダにおいては、すべてが終わりの雰囲気にあり、キリストにおいては、すべてが新たに始まる。ブッダは人間の過去を、キリストは人間の未来を見つめる。キリスト教の復活祭思想は、人間の意識の遠い未来を指し示し、死を通過されたキリストを見ることで、初期の秘儀の意味が更新され、若返る。

人間は克服されるべきものである。」ニーチェのこの格言は、ニーチェとはかなり異なる意味でではあるが、ブッダの教えにも適用できるかもしれない。しかし、ブッダがこのような言い方をすることはないだろう。なぜなら、ブッダは「人間」という言葉をまったく口にしなかったからだ。ブッダの時代には、「人間」という言葉は、その意味を完全に理解していたわけではなかったからだ。インドの叡智の全内容は、「人間」という言葉をまったく使わなくても正確に表現されることができただろう。初期のインド人にとって、人間や人類は単なる淡い影に過ぎなかった。ブッダは、そのような人類、堕落による罪への退廃を克服する者として、私たちの前に立っている。私たちはブッダを、堕落の結果を自らの力で消滅させることができる最後の偉大なイニシエートとして見ている。

 キリスト=イエスが私たちの前に立っているのは、その人類に対する勝利者としてではなく、その完成者としてである。人間の堕落によって見えなくなっていた人間の神の原型が、キリストのうちに地上に降臨したのである。キリストは、失われた人類の回復者となられた。万物の始まりにおいて、エロヒムによって、原初の霊の光の中に創造された人間は【訳注】、人間の堕落によって、本来の地上の現実を取り戻すことを妨げられた。イエスの中で、キリストが人間として地上世界に入った時、人間は、地上的に人間になったのだ。彼をとおして、人間は再び、原初の光の中で、神的存在達の霊的思考が創造したイメージの似姿を取り戻すことができるのである。

 

【訳注】旧約聖書創世記第Ⅰ章で、「神は言われた。”我々にかたどって、我々に似せて、人を造ろう」と人間の創造が述べられているが、この「我々」が、「エロヒム」である。

 

 神的な「私」は、人間が光の中の自分の起源のうちに持ち続けていたこのイメージに織り込まれた。彼を創造した神格は、彼の中でまだ「私」と言うことができた。この「私」によって、人間は真の「神の像」であった。堕落によって神の原型が見えなくなったとき、その神の本質である人間の真の「私」は失われた。キリストにおいて、彼はそれを再び見出すことができる。正しく理解された「イエス・キリスト』という名前は、人間の「私」のすべての謎を含んでいる。彼を通して、実際に「私」は人間の意識の発展の中に再び組み込まれる。この「私」をとおしてのみ、人類は真に人間となるのである。彼は、その存在だけが、彼を低次の意識と存在から完全に区別するあの存在になるのだ。【訳注】

 

【訳注】イエス・キリストJesus Christの頭文字を取るとJ・CHとなるが、古くはICHと綴られた。これはドイツ語で「私、自我」の意味である。人智学によれば、人類を他の存在と分けるのは、人間のみが自我を有していることである。動物は、肉体・エーテル体及びアストラル体からのみなり、自我をまだ有していない。

 

 それは結果的に、人間の意識の発達に深く根ざしている。それは、ブッダ教えでは、人間がその中で隠遁するのと同じように、「私」もまた役割を持っていない。人間の「私」や「自己」について、ブッダは、感覚的な世界や瞑想の高次の意識状態においてさえ「私」とみなされるかもしれないものは、実際には「私」や「自己」ではない、とだけ教えている。そのような「私」が存在するのか、あるいはどのようにしてそれを見出すことができるのか、ブッダは明らかにしていない。仏教の知識の道は、「私」を見つけることにはつながらない。ブッダが、ここでも他の場所と同じように、否定的な態度を保っているとすれば、それはブッダが見出した人間の意識の嘆きに自らを正しく適応させたのである。初期の古代のインド人が夢のような状態でアートマンとして体験した、より高次の「私」は、人間の意識から徐々に失われていった。死の力によって高められて、それは、ゴルゴダを通して地球と人類に結ばれたものの中にしか、再び見出すことはできなかった。人類のイニシエートや教師たちは、人類が下降していく期間中、「私」について語ることができなかった。ゴルゴダの出来事以来、意識が再び上昇の方向へと進化している人類にのみ、それは知られるようになったのである。

 菩提樹(知識の木)とは、ナイランジャラ川沿いのウルヴェラで聖なる夜にブッダが知識の光を見出した木に、インド人がつけた名前である。心の目の前には、パラダイスの物語に登場する「知識の木」が立っている。その傍らには、楽園のもうひとつの木、生命の木がある*。人間は、自分の時代に先立って、神の意志に反して知識の木を食べたため、生命の木を失った。知識の果実は彼にとって死の果実となった。知識の木といのちの木は、人間の堕落以前は枝をつないで一体となっていたのに、対立する極性に引き裂かれた。こうして人間は死の力の犠牲になった。光に包まれた高みから、人間は物質的存在へと深く沈んでいく。知識の木から発せられる死の力の影響はますます強くなり、その影響は人間の血に感じられる。生命の樹の力の影響はますます弱くなる。最古の、歴史以前の最も古いインド文化では、文書が残っておらず、天文学的な計算から私たちの時代より数千年前と考えなければならないが、生命の影響の多くがまだ存在していた。【訳注】初期のヴェーダウパニシャッドはずっと後に生まれたものだが、その反響を含んでいる;神の木は、その根を天に、その枝を大地にお辞儀をしながら美しく輝いている。この聖なるイチジクの木はアスヴァッタ(菩提樹)と呼ばれ、そこに神々の不滅の生命が顕現し、癒しのハーブであるクスタが見られる。初期のヴェーダでは、この神聖なイチジクの木は生命の木と見なされている。「それは光であり、純粋さであり、不滅であり、ブラフマンである」 初期のインドで聖職者の力を担い、伝統を受け継ぐために「バラモン」と呼ばれる人々は、神聖な言葉に宿る神聖な生命、言葉の霊的創造力、魔力であるブラフマンを自らの中に感じていた。古代インドのヨーガは、呼吸によって知識の力を習得しようとする試みであり、それによって生命の力との結びつきを新たにする。インドのヨギは、心臓から三重の人間の器官のあらゆる部分に枝分かれしている血液の木の中に、生命の木と死の木の交錯と変容の秘密を見たのである。

 

【訳注】シュタイナーは、アトランティス滅亡後の最初の文明はインドで生まれたとしている。しかしこれは、いわゆるインダス文明とは異なり、その元となった文明で、ヴェーダウパニシャッドなどの文献もずっと後に誕生したものである、とする。

 

 しかし時が経つにつれ、古い力はますます弱まり、生命の木はますます枯れていった。ブッダが生き、活動した時代、すなわち我々の時代[西暦]の500年前まで、わずかな残滓だけが存続していた。バラモン教は衰退の一途をたどっていた。ブッダはこの衰退に対応するため、一種の宗教的・霊的刷新をもたらしたが、古代世界を特徴づけていた豊かな生命と知恵の充溢を回復することはできなかった。生命の樹の力は衰え、人間の進化は知識という死の果実へと彼を導いた。聖なるイチジクの木が私たちの前に立っているというのは、知識の木としてなのである。私たちは、ブッダとともに、それを知識の木として見いだす。しかしこの知識は、パラダイスの人間が早々にこの知識を摘み取ることによって、彼からその無垢さを奪い、善と悪を認識することを教えた。この知識は彼を神聖な生命から分断し、罪に絡め取り、地上に支配する死の力へと導いた。私たちは、ブッダがまさにこの知識を最も高尚で透明な純粋さに高め、人間の罪への堕落、その原因と克服を完全に理解していることに気づく。(キリスト教徒が「人間の堕落」あるいは「罪への堕落」と呼ぶものは、ブッダにとっては、誤りによってこの世の苦しみに堕ちることだった。ブッダが実際に「罪」について語ったことはないのは事実である。ブッダが語ったのは、「知らないこと」に起源を持つもの、苦しみを生み出す激情的な欲望についてである。) 人間を地上の束縛に絡めていた知識は、その束縛から解放する知識となった。この知識は非常に純粋であるため、客観的に見れば、純粋で明るい水晶の器に入った純粋で透明な水が感覚的な目には「無」に見えるように、地上の思考には常に「無」に見える。

 

 この知識は理論的なものではない。ブッダの知識は瞑想によって発展したものであり、存在の根底にまで浸透している。この知識によって、人間の堕落が意識の奥底にある生命の力に及ぼした影響について、そのようなヴィジョンが得られ、それによって存在の根そのものに斧が突き立てられる。瞑想によってそれを得た者を、生命と存在の力そのものを支配する者とする知識には、何か独特なもの、何か驚異的なものがある。これによって、仏教の伝説が示す全体像の深い意味が明らかになる。この伝説によれば、ブッダが自分の知識を見つけた夜、知識の木は再び豊かな葉を茂らせたという。とはいえ、ブッダが聖なるイチジクの木の下で見つけたものは、インドの資料にもこの表現が見られるが、まだ本当の死の克服ではなかった。それはまだ、「死の木」を「生の木」に変える真の変容ではなかった。ブッダの高尚な知識によって達成されたのは、時代を超えて初期のインド人が問い続けた、輪廻転生、地上の生、地上の苦悩、地上の死の繰り返しから逃れるためにはどうすればよいのか、という問いに対する最後の決定的な答えにすぎない。生まれない術をどのように身につければいいのか?最も偉大な聖者や賢者だけが、瞑想のエネルギーによって、存在の根源に本当に触れるような形で、意識の奥底からその知識を呼び起こす力を持っていた。伝承によれば、ブッダはそれを見つけたとき、勝利の言葉を口にしたという: 「家を建てる者よ、お前は発見されたのだ。二度と家を建てることはない。」家を建てる者として、ここで彼に、エーテル体の力から肉体を作るこの能力が現われたのである。この能力は、インドのサンキャ哲学やヨーガ哲学、また仏教の書物では、より抽象的な用語でサムスカーラ(パーリ語のサンカーラ)【訳注】、「形成力」と呼ばれている力である。これは、人間を地上の存在、転生へと導き、ヨギが自分の意識のコントロール下に置く、潜在意識の形成力、造形力を意味する。

 仏教用語のサンカーラ(巴: Saṅkhāra)、サンスカーラ(梵: Saṃskāra)とはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである[1]。伝統的に行(ぎょう)と訳される。

 

【訳注】仏教用語のサンカーラ、サンスカーラとは、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。伝統的に行(ぎょう)と訳される。サンカーラには主に二つの意味がある。一つ目の意味では、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象」をさす。二つ目の意味では、サンカーラは行蘊として業をさし、それらは縁起の原因とされる。(ウィキペディア))

 

 ゲーテの『おとぎ話』*では、これらの存在の力は、魂を「流れの彼方」の地から、霊的世界から、地上の肉体的存在へと連れ出す渡し守として認識されている。この地からは、シュタイナーの神秘劇「秘儀参入の門」で元素の霊として現われるのと同じ力である。渡し守の「小屋」はゲーテの童話にも出てくる。ただ、ここでの関心は、ブッダのように、家である小屋の単なる破壊や消滅にあるのではなく、神殿が深淵から立ち上がることにある。この小屋は、まず壊され、それから地上に引き上げられた神殿の銀の祭壇として現れるのだ。

 

*Atharva Veda, 19, 39. f Kalhaka Upanishad 6, .1 `G tithe, The Green Snake and the Beautiful Lily (1795), tr. Thomas Carlyle (1832)、

 

 ここで起こるのは破壊ではなく変容である。この変容において、物質的要素は、以前の形態と異なり死に従属しない、より高く、より純粋で、よりエーテル的な形態への復活を経験する。そしてそのように、ゲーテの「おとぎ話」ではキリスト教の復活の考えが、意味深く表現されている。それは、パウロが第2コリント5:4で、「私たちがこの天幕の中にいる間、私たちはうめき、重荷を負っていますが、それは地上の住処を脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられた住処を上に着たいからです。」(同様に、1コリント15:51,53:「......私たちは皆、変えられるのです。この滅びゆくものが、滅びないものを身にまとわなければならないからです」)と語り、小屋あるいは幕屋の絵に関連させた復活あるいは変容の考えと同じものである。物質的要素の変容という思想における最も深く、同時に最も絵画的な表現は、黙示録(特に21章と22章)の絵の中に見出される。天から降ってくる変容した新しい大地、すなわち「新しいエルサレム」には、ルター(1545年)が「ホルツ・デス・レーベンス」(文字通りには「生命の木」)と訳したエウロン・ドーエース(黙示録22:2)もある。これは、パラダイスで失われ、キリストによって再び勝ち取られた「いのちの木」にほかならない。そこにおいて、滅びゆくものが、滅びないものを身にまとうのである。死の木は、命の木に変容した、あるいはそれに飲み込まれたのだ。

 このことは、私たちの考察の出発点に立ち戻らせてくれる。ゴルゴダで最初に起こった、死の木そのものが生命の木に変わるという変容に、ブッダはまだ到達できなかった。ブッダは、死から逃れるために、また、今後の地上生活で死を繰り返すことから逃れるために、輪廻転生を排除したのである。これは、ブッダの道に真に従うすべての人が試みることである。ブッダは、地球と人類、そしてそれらのさらなる進化から自らを切り離すことになる。ブッダがそのような崇高な悟りをその下で見出した「知識の木」は、依然として「死の木」のままである。ブッダが知識を得たとき、霊的に見ると、葉を燦然と茂らせていた聖なるイチジクの木は、500年の地に、キリストが、「今から後、いつまでもお前から実を食べる者がいないように」(マルコ11:14)と宣言したその木と同じイチジクの木である。ブッダ自身もまた、彼の知識と教えが人間の間で本当に生きるのは500年間だけだと予言していた。【訳注】

 

【訳注】イチジクの木は古い秘教的知識や秘儀参入の象徴であり、それらは、キリストの地上での誕生と活動により、乗り越えられて、新しい秘儀が誕生した。キリストの言葉は、それを示唆するものである。

 

 ゴルゴダの神秘の瞬間が近づくにつれ、ブッダにとって単なる知識の木となっていた生命の木の命を生み出す力は、人間の間から完全に枯れてしまった。十字架の枯れ木は、その木がどうなったかを象徴するものである。外的な目には、枯れ木とそれにぶら下がった生気のない体しか見えない。霊的な視覚は、キリストが光を放ち、愛を放つ太陽であることを見る。死からの、命を与える若々しい新緑である。無尽蔵の深みを持つ古代のサーガ*には、セトがアダムの墓に生命の木の3つの種を埋めたことが書かれている。その種から木が育ち、その木から素晴らしいものが造られ、ついにはゴルゴダの十字架ができた。地上の発展の全過程において、ゴルゴタの十字架ほど、太陽の光と愛の明るい力が、地上の暗い底や意識の深淵に降り注いだ場所はない。カルバリ(ゴルゴタ)の十字架から輝く霊的な太陽の光線は、そこで存在の形成力の秘密に到達した意識の深みにまで射し込んだ。ブッダにとってこの秘密は、存在の根源と輪廻転生の根源に斧が突き立てられたことを意味するだけであったが、キリストにとって、地球の再創造、地上の死を生命の太陽の力で浸透させることは、存在の形成力に対する支配と復活を意味した。

 ブッダが終わりを見出した存在の底に、キリストにとっての始まりがあった。人間の堕落の結果は、地上の存在を消滅させるだけでは消し去ることはできない。存在の再創造によってのみ、人間は堕落によって見えなくなった神のイメージへと再び成長することができる。人間の堕落は、個人だけのためではなく、人類と地球のために克服されなければならない。

 しかし今、堕落は克服されたのだろうか?人類は本当に進歩したのだろうか?罪と苦しみ、闇と混沌のあらゆる力に、かつてないほど深く絡め取られてはいないだろうか?古代インドは、ブッダの時代でさえ、霊魂の探求がはるかに深く、霊的理解がはるかに深く、霊的文化がはるかに深かったのではないか?当時、人間の魂はもっと内的に調和していたのではないか?人生全体がもっとリズミカルだったのではないだろうか?ここで私たちは、事実と、物事の深い根底にある図式に目を向ける、透徹した思考を必要としている。時の流れの中で、初期のインド人はエーテル的な人間性の中に生き、宇宙の偉大なリズムに夢のように身をゆだねていた。ブッダの時代は、下降と終焉を示しているため、ある種の熟成、実際、過熟によって特徴づけられる。それは、成熟した果実が熟し、今にも落下しそうであることを示唆している。キリストによって、霊的な「自我」が地球と人類の進化に参入するという画期的なことが起こった。人間の意識、人間の魂の構成全体が、あらゆる変化の中で最も急激な変化を経験したのだ。あらゆるものが、新しい始まり、革命、危機の兆候の下にある。「自我」の進化と密接に結びついているのは、あらゆる困難である。それは、対立、葛藤、つまり、今日彼が格闘している、そして将来彼がますます格闘しなければならなくなる、新しい時代のすべての産みの苦しみである。黙示録の作者の予言的な眼が見た絵の陰鬱な壮大さは、キリスト教の「自我」の衝動を完全に受け入れることが人類にもたらす強大な危機を想像させてくれる。

 キリストのその衝動は、人類により、ある種の意識的理解において取り入れられたのではない。早々に消滅してしまった古代のグノーシスの素晴らしい深遠な教えでさえも、人類が下降していた時代に由来する意識のある種の初期的な力とまだ結びついていた。キリストに現れた新しい要素に対する真の理解からは、まだ遠く離れていたのである。その後に教会の発展として生じたものでさえ理解からは非常に遠かった。教会史の事実は-それ自体の重要な仕方で-パレスチナの出来事から深い影響を受けたことを証明している。歴史的事実の中では、ここでも、どこでも、時の転換点という大きな出来事を通して地上の流れに入り込んだキリストの生涯の出来事の多くの影響が明らかである。時代の転換点で起こったことの実際の理解は、個々の人間の魂の中で、教会の発展における主要な人物たちの中にさえ、実際には生きていなかった。今日においても、この理解はほとんど生きていない。キリストのインパルスは、個人の魂により、受け取られておらず、その本質においてまだ完全に見通されていない。地球と人類のすべての出来事と現実の事実としてつながっているにもかかわらず、それが個々の人間の魂にまったく理解されず、取り込まれていないために、あるいはごく一部しか理解されていないために、このインパルスからの不調和が人間の魂から生じ、そのために今日、多くの苦しみを強いられているのである。人間の魂は、その無意識の奥底で、キリスト教以前の人類がこのような形で考える必要のなかった力に直面しているのだ。堕落によって失われた人間の原型的な姿がそこに見出される。それは再び取り戻されなければならない。たとえ魂がその事実を意識していなくても、このキリストの姿は、戒めながら、魂の前に立っている。隠れた深みから意識に立ち上げられないものは、苦痛をもたらすものとなるのだ。

 

参照:Rudolf Steiner, I hrist and the Spiritual World, I ,ei pzig 1913 It ;A WI, lecture I.

K

知識の木と生命の木 11

 

 地球と人類に対するキリストの客観的な影響力(それは同時に、各個人の無意識の深みへの影響力でもある)は、個々の魂がキリストの衝動をどれだけ意識的に認識するかというもう一つの問題と注意深く区別されなければならない。文学、芸術、科学といった人類の営みの中で、個々の詩人、芸術家、学者がキリストの衝動をまったく、あるいはほとんど取り上げていないこれらの領域においても、キリストがどのように働いているかを示すことができるだろう。現代の自然科学的研究の全存在は、当初はまだ唯物論的であり、即ちキリストが浸透していなかったが、人間の意識の発達のある事実との関連においてのみ理解することができる。その事実はまた、地球進化へのキリストインパルスのインパクトにより決定的に前提されるものである。キリスト教以前の人類には、このような自然科学は存在し得なかった。他方、13世紀のマイスター・エックハルトのようなある種の宗教的人物や宗教的神秘主義者の例には、客観的なキリストの影響と主観的なキリスト化の分離がはっきりと見て取れる。

 マイスター・エックハルトの著作の中には、例えば、孤独に関する論考を思い浮かべることができるが、徹底して偉大で霊的な何かが、彼の言葉の全調子、その力強さ、本質的な神聖さの中に息づいている。これらの言葉には、ブッダやインドの神秘主義者やキリスト教以前の哲学者には決して表現できなかった何かがある。

 

*ここで概説した概念は、ベックの研究『ワーグナーの音楽劇におけるパルジファルのキリスト体験』において、パルジファルの物語の最も深い根底にあるモチーフとして明らかにされている: また、マルコの福音書『宇宙のリズム』と、その続編であるヨハネ福音書『宇宙のリズム』に関する著者の解説でも詳しく研究されている: 宇宙のリズム-星と石-」(注)。#英訳はMeister Eckhart, The Essential Sermons, Commentaries, Treatises and Defence, tr. and ed. New York: l'aulist Press, NHL Modern scholarship' question Eckhart's authorship of this.

 

 エックハルトの言葉の調子には、キリストが、彼自身と地球とを結びつけたという事実が響いている。エックハルトの意識的な「私」、あるいは彼と霊的に関係のある人々の意識には、地上的存在の若返りの共同創造者となるよう私たちに呼びかけているキリストの衝動は、実際には生きていない。ただその衝動は、地上的要素から完全に背を向け、自分自身の存在の中だけに生きている意識の中に生きている。しかし、この衝動は、ここで理解されているようなキリストの衝動ではなく、ブッダの衝動にほかならない--ブッダの教えの外側のインドの枠組みを無視して、ブッダがその存在の奥底で何を望んでいたのかだけを見れば。そして、深く宗教的なもの、外見上はキリスト教的な宗教的努力であっても、その内面的存在によれば、キリスト教的というよりはむしろ仏教的でありうる。現代全体が、ここでいう意味での仏教に溢れている。霊的な探求者の間で、特に神智学的な努力の文脈の中で、多くのことがこのように見出される。今日、多くの人々が極東に目を向け、そこから光を受けようとしている。19世紀以降、西洋の精神生活にインド、主にインド仏教のルネサンスが起こったことは重要な事実である。それによって、「ブッダからキリストへ」という言葉に横たわる要求が強調するものは、内的進歩に関するその切実さと深みのうちに、ここで努力する魂という意味での真の前進の自覚のうちに、感じられなければならない。

 真のキリスト教的衝動は、外見上はキリスト教的に見えるものの多くにおいて失われている。同様に、外見だけを見る者にはわからないところにも、キリスト教的衝動は特に存在するのだ。たとえば、彼のキリスト教的信仰を疑う人もいるゲーテだが、彼の思考、著作、研究のあり方全体には、滅びゆく地球存在の再生のための直接的な、さらなる発展につながるものが多く息づいており、この点で、キリスト教的な衝動がそれ自体に宿っている。今日の自然科学の物理的思考は抽象化され、死んだ鉱物の要素しか理解していないが、ゲーテの思考と研究の中で、生きた思考、エーテル的な生きた要素への感情、生きた要素を構想することへと再び引き上げられた-結果的に、ゲーテの色彩理論のようなものは、現在も一般的な科学思考によっては把握され得ない。ゲーテおとぎ話にあるように、死んだ思考や知識は、(今日のアカデミズムの)幻影によって散らされた知恵の黄金を緑の蛇が拾い上げることにより、死んだ黄金が生きた光に変えられ、透明で輝くようになって、生きた思考になるのである。

 

 再変容は、ブッダによりまだ達成されていなかったが、キリストにより達成された。死の木、知恵の木の生命の木への再変容という超感覚的なイメージで、あるいは2つの木の絡み合いのイメージでも上で示されたもの、ゲーテの思考様式では、今日の自然科学的思考とは大きく異なるが、これは少なくとも種子の形で、しかも具体的な形で存在しているのである。ゲーテ自身は、彼の詩的な断片「秘密」の中で、生命の木と絡みついた死の木のイメージをバラの絡みついた十字架の絵として示している。この薔薇十字のイメージで、ゲーテは、死の淵から新たに発芽してくる命を見ている。そして、彼の童話*の絵の中には、キリストの衝動の深みから引き出された、人類の未来を担う偉大な神殿の共同作業と建築の思想が完全に息づいている。これは、これまではバラバラに努力していた、人類の力を集めて、大きな調和にもたらすものである。それは、地下淵で初めて見られ、堕落によって失われた人間の原型的な姿を、再び白日の下にもたらすものである。ゲーテの童話には「キリスト」という言葉は一度も出てこないが、最も深いキリスト教的衝動が息づいている。

 ノヴァーリスの「青い花」でも同じものが見られる。より高次のレベルでは更に人類の未来を指し示し、真に黙示録的な深みのあるイメージの中で、地上の要素の浄化と変容というキリスト教の思想が、天上から降りてくるものによって地上の要素を再び活気づけられるという、復活と変成という途方もない思想が、私たちの前に置かれている。この思想は、ブッダの衝動に取り込まれることはなく、キリストにおいて現実となった。偉大な指導的霊の一人が、ここで私たちに語りかけている。彼は、人類の未来のキリスト理解のために、道をしました者である。仏教的な意味での知恵を求める単なる仏教徒的な感覚にとって、あのおとぎ話の絵は空虚なファンタジーだろう。

 地球上におけるそして人類の中でのキリストの出来事についてのこの客観的なビジョンは、キリスト教的衝動が人間の魂に意識的に受容されることとは区別されるべきだが、仏教の進化そのものによって非常に驚くべき形で示されている。ブッダ自身が、その教えは500年後に変わらずにあることはない、つまり、この大いなる時代を超えることはない、 と予言したことはすでに述べた。そして、仏教思想がそのオリジナルの形を変え、アジアを代表する宗教となったのは、実際にその頃であった。

 

*上記脚注5参照。クリングソールのおとぎ話は、ノヴァーリスの小説『ハインリヒ・フォン・オフタースン』の第8章で語られている。

 

 この「大乗仏教」と呼ばれるものによって、「道」あるいは「大乗」の教えが入り、単なる個人の自己解放ではなく、人類の解放のための協力を強調し、輪廻転生から可能な限り早く逃れることを強調した。つまり、人類の使命と進歩のための活動が、明らかに東洋的な形ではあるが、始まったのである。この意味で、大乗仏教では「ブッダの後継者」とは、自分一人のために輪廻転生からの解放を望んだのではなく、人類に救済への道を示すことを望んだ者のことを指す。大乗仏教において、キリスト教の衝動を意識的に理解したり、意識的に受け入れたりしたとは言えないし、仏教のこの新しい段階が、ゴルゴダの出来事を意識的に可視化するようになったわけでもない。しかし、個人の思想が宇宙的な思想に取って代わられているところで、仏教の基本的な教義が変化する中に、ゴルゴダの出来事が作用している。宗教的信条とはまったく無関係に、ゴルゴダの神秘は普遍的な地上の事実である。これは、どこか人間の意識や思考を、何らかの痕跡を残さずに通過したわけではない。キリストの行為によってもたらされたあらゆる価値の大きな再価値可は、仏教の精神にも影響を与えた。

 ブッダが輪廻転生からの解放につながる道を見出した聖なるイチジクの木の下には、人類にとって「死の木」となっていた「知識の木」があった。ブッダがそこから最後の決定的な知識を得たとき、まだ豊かな葉を茂らせていたこの木は、未来の霊的ヴィジョンでは、しおれて死んでいくのが見えた。(同様に、北欧神話ワーグナーの『神々の黄昏』では、宇宙のトネリコの木であるユグドラシルは、オーディンが永遠の知識であるルーンの槍を得たときに枯れてしまう。)対照的に、カルバリの十字架の乾いた木の下では、霊的なヴィジョンが、未来に向かって新たに芽吹く木を見る。宇宙に目を向けると、月と太陽の姿の中にも、知識の木と生命の木のこれらの力を見ることができる。インドの精神生活全体には月の性格があり、物理的な世界では月の力によって誕生するという事実を常に見つめている。インド人はそれから自分を切り離すつもりだが、そうすることで、いわば誕生前の領域に戻ろうとする。この月領域は、誕生が起こる場所であり、今はもう続いてはならない場所である。このような月の衝動もまた、ブッダの偉大な知識の中に生きている。

 太陽的な衝動は、死の淵で命が新たに生み出されてくるのを許すゴルゴダの愛の行いの中に生きている。この太陽的衝動は、キリスト教的な地球と人類の再生、地球が再び太陽になるプロセスの中に生きている【訳注】。月光の反射、鏡映しの効果に、私たちは死の衰退の力と結びついた知識の本質を感じ取ることができる。太陽の光には、命を目覚めさせる強さが生きている。インド人自身、「知識の月の出」と語っている。そして、太陽が西の地平線の下に沈み、ちょうど満月が東から昇ってくるときの空を見れば、仏教の知識の高まりの中で、昼の光が消え、地球の昼の意識が消えていく様子が描かれている。ゴルゴダでのキリストの行いに帰依して外的な日の出を見るなら、私たちはキリストの光を私たち自身の日の光の中で体験する。そして私たちは、キリストの出来事において、人類の精神的な日の出を認識するのである。

 

【訳注】地球が太陽になるというのは比喩ではなく、現実のことと考えられている。かつて地球から太陽が分離したが、やがて地球自体が太陽になるのだ。

 

 この比喩では、可能な視点のひとつだけが示されている。それは、ブッダとキリストの対比を見るときに生じる視点である。しかし、ブッダキリスト教時代といかに近い時間的、霊的立場に立っていたかを考えることもできる。ブッダは、今この時が来る前に、人類を導いてきた最後のイニシエーターであり、教師であった。ブッダは、人間の意識を底まで下降させ、そこからキリストが反対側に導いてくれる。多くの点で、ブッダは、キリストの光にすでに照らされた先駆者として現れる。このことは、仏教書で詳細に記されているブッダの生涯に表れており、またブッダの教義、特にブッダが慈悲と愛を携えて世界の前に現れるところにも表れている。慈悲は、仏教の苦悩に関する知識の特徴から、最も重要な位置を占めている。しかし、ブッダはまた、愛の熱、すなわち、瞑想の中で天の下のあらゆる方角に放射される、全ての存在に対する親切な親しみをもって語っている。これは、特に『イティブッタカ』の有名な愛の讃歌に登場する。それは、「コリントの信徒への手紙一」におけるパウロキリスト教的愛の歌を予示するものと感じられてきた。パーリ語の文章には、愛について語られている。心の解放者である愛は、外的な敬虔の働きの全てを自らの内に吸収し、そしてそれよりも光り輝く。それは、月の光が星の光を凌駕するように、あるいは、雨季の終わりに晴れ渡った秋の空に昇る太陽が、最高天の闇をすべて消し去るようであり、あるいは、

 

「夜が明けると、早朝の明けの明星が輝き、きらきらと光り輝くように、心の解放者である愛は、それ自体に吸収され、あらゆる外的な信心の業を凌駕する。」

 

"it/matt/ha、Sutta-l'itakaのコレクション'Khuddakanikaya'のPaliテキストの1つ。

 

 この言葉は、この言葉が向けられた地球の広い領域において、とてつもなく大きな意味を持っていた。愛をこのように語った者はいまだかつていなかった。今、ブッダを通して、人間の意識のキリスト化のための最初の準備的な、しかし最も重要な一歩が、当時すでに踏み出されたのである。

 この一節においも、ブッダの他の比喩と同様に、太陽の光以上に明けの明星が特別に区別されていることは重要である。明けの明星が日の出前に輝くように、ブッダのメッセージ全体はキリストの太陽への準備なのだ。これによって、ブッダブッダの教えの霊的な要素を、明けの明星の霊的な要素から感じ取ることを助けるもう一つの視点が与えられる。同じように、私たちは太陽の霊的性質からキリストの霊的性質を感じ取る。インドの「Buddhaブッダ」(ブッダのマガダ方言でBudhaブッダ)という言葉は、この関係を明確に表現している。Budhaブッダは、その語源においてブッダと密接に関連しており*、とりわけ惑星水星(初期の教えでは常に金星の下位に置かれていた【訳注】)を意味する。ローマ神話の水星もマヤの息子であるように、ブッダの母親はマヤと呼ばれていた。

 

【訳注】シュタイナーは、かつて水星と金星の名が交換されたと指摘している。

 

 ブッダとキリストの間には、対照的なものだけでなく、一方がすでに他方を指し示しているものを感じる。キリストによって、何かが終わりに近づいているところに新しい始まりが置かれるだけでなく、キリスト教以前の時代には古くなっていたものが、キリスト教の時代には別の形で若返って見える。キリストの光線は、人類と地球の最も遠い原初の過去にまで浸透し、人類の過去を、人類の未来において、「私」の力によって、より高いレベルで生き返らせる。将来、人類の偉大な教師たちが現れるだろう-インド人はブッダや菩薩と呼ぶ-彼らは人類にキリストの衝動を宣言するのだ【訳注】。過去と未来のブッダたちの真ん中には、霊的なキリスト=太陽が佇み、彼らすべてに光を放っている。したがって、外的な教会的キリスト教にとどまることなく、宇宙的なキリストの衝動を取り上げるには、パレスチナの出来事を背景にしてキリスト教を見るだけでなく、これらの事実を人類の発展におけるより大きな出来事に再び結びつけることが特に重要である。原初のインド時代、ツァラトゥストラブッダ、初期のエジプト、アッシリアバビロニア、すべてのものは、初期のヘブライ文化と並んで、キリストの衝動をその完全な世界を包含する偉大さの中に位置づけるために意味を持ってくるのだ。過去の偉大さはすべて、ある意味で未来のキリスト教の中に再び現れるのである。私たちが、今日、仏教の教えの霊的な内容に対する憧れを多くの人々に与えている、宇宙のリズム、霊的なもの、特にブッダから感じ取ることができるものについて感じることが出来るものは、キリストの光によって照らされるだろう。もしキリストの衝動が正しい方法で取り上げられれば、それは将来、別の形で現れるだろう。真に価値あるものは、この衝動によって私たちから奪われることはなく、それをとおして私たちは、もっと豊かな贈り物を受け取るのだ。

 

【訳注】「将来、人類の偉大な教師たち」と、教師(マスター)が複数になっていることに注意。未来のブッダとしては弥勒菩薩(仏)が知られているが、その他の菩薩・仏も存在する。これは過去も同じで、仏教ではシャカ以前の「過去仏」が知られている。シュタイナーは、12の菩薩がいるとしている。

 

* budhaは形容詞、buddhaは分詞で、いずれも語源は「目覚め」である。

 

ブッダからキリストへ』という言葉は、複数の見解を表している。内面的な進歩が表現されているだけでなく、同代的で進歩的なものへの転換であり、それ以前の段階に対するある種の否定的な判断を意味している。この表現はまた、キリストへの道を見出すことは、もちろん様々な出発点から起こりうるが、仏教の側からも可能であるとも言っている。特に、ブッダから出発してキリスト的要素にアプローチするとき、何か偉大で価値あるものが得られるだろう。ブッダの衝動をキリスト化することは、同時にキリスト教の視野を広げることになる。先ず、ブッダのメッセージとキリストのメッセージをともに見ることにより、地平を拡げる考えが与えられうるのである。

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 ブッダとキリストを考える上で、先ず押さえておかなければならないポイントは、ブッダは(今は霊界で活動しているが)人間であり、キリストは(その本来の姿としては)人間イエスとは異なる存在、神霊的存在であることである。

 これは、決定的な違いである。

 ブッダは、言わば秘儀参入者あるいはマスターであり、霊的に通常の人間よりずっと先を歩んでいる(つまり全ての人間が、時間は異なるが、その道を歩むことになる)人間であった。ただ、菩薩からブッダの段階に達したので、以後は、他の人間のように転生輪廻していく必要がなくなったのだ。

 これに対して、キリストは、聖書にあるように、世界を創造した宇宙的ロゴスである。天使は、9階級に分かれており、それゆえ天使群はヒエラルキーとも称されるが、この9階級よりも上に位置づけられる存在である。

 キリストは、宇宙を創造した以降も、この宇宙に関わり続けており、霊界を離れた人類が物質の中に埋没し、そのまま奈落に落ちていこうとした時に、地上に受肉し、その人類を救済したのだ。それが、シュタイナーの言うゴルゴタの秘儀である。従って、それ以降、人類は再び霊界へ帰還する旅路にあるのである(それを邪魔する霊達もいるため、その道は困難である)。

 このように、キリストによるゴルゴタの秘儀は、人類史のターニングポイントを意味しており、それは、それ以前と以後の人類のあり方、そして宗教のあり方をも変化させているのである。

 宗教であれば、それ以前の宗教はこのゴルゴタの秘儀を準備するものであり、以後は、キリストによって自らも宗教としての命を若返りさせ、それにより人類の霊的帰還を促進する役目を担っているのである。

 

 しかし、このような考えは、既成のキリスト教や他の宗教宗派においては、容認しがたいものであろう。これまでの教義、伝統と相容れない部分があるからである。

 しかし、シュタイナーの考えのもとでは、いずれそれらも変わっていかなければならないのだ。このような関係から、キリスト教において、その革新の必要性の中から生まれたのが、ベック氏が後半生をそこで活動したキリスト者共同体なのである。

 

 仏教も革新が必要ではなかろうか?それは、あるいは仏教とキリスト教の融合と言えるかもしれない。今は亡き、シュタイナー研究家・西川隆範氏は、かつて、「薔薇十字仏教」と言うことを語っていた。それは、おそらくこうしたことを構想してのことではないかと思われる。だが、残念ながら、早すぎるその死によりその試みは途中で終わってしまったのである。

 私は、日本においてこれまでこのような構想を抱いた人物として、他に宮沢賢治を挙げたい。彼の信仰は仏教(法華経)にあり、特に当初は熱心な日蓮宗の信者であったが、後年、より広い視野で宗教に向き合うようになったようである。それは、あの「銀河鉄道の夜」にも現われていると思われる。それは、キリスト教へのシンパシーである。

 宮沢賢治は、科学と宗教の統合を構想していた。科学は、普遍的なものである。とすれば、それと統合されるべき宗教もまたそうでなければならない。個別の民族、地域にのみ信じられている宗教の中にも普遍性が見いだされる-その様に考えたのではなかろうか?

 これは、人智学あるいは神智学とも共通するような考え方である。そして実は、宮沢賢治は、人智学に直接接した形跡はないが、神智学については知識があったようなのである。

 このことについては、いずれ詳しく触れてみたいと思っている。