k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

ジョン・ラスキンの夢と世界政府

ジョン・ラスキン

 ガザでは虐殺がまだ止まない。イスラエルの軍や政治家の姿勢を見ると、初めからパレスティナ人の命を軽視し虫けらのように扱っているのが分かる(もちろんこれは今回に限ってではない)。しかし、それを見ながら欧米諸国の政治家はイスラエルに正義があるとしてこれを止めようとしない。ブラジルなどがイスラエルと断交しようとしているが、全ての国がこれに見習うべきなのだ。

 欧米の民主主義や人権尊重とは口先だけだったのか?

 ウクライナでの戦闘も、既に多くの者がロシアの勝利を確信してきているのに、やはり欧米の政治家は、これを止めようとしない(その権限がゼレンスキー大統領にないのは明らかだろう)。

 ゼレンスキー大統領は、ウクライナの死者31,000人と、最近表明したという。これを信じる者がいるだろうか。国内にいるウクライナ国民は、その嘘を身にしみて知っているだろう。現役予備役合わせ116万人の軍隊と言われていたのだ。その損失がその程度なら、女性や高齢者、病人が戦地に出されるはずはない。実体としては、100万人に及ぶ死傷者がでているという指摘もあるのだ。

 ウクライナは、既に1つの世代全体が抜け落ちてしまっているのである。必要なのは、「ウクライナ支援」ではない。停戦である。

 このような中で、ロシアが、5~10年の内にウクライナの次にNATO諸国に攻めてくるという論調がNATO事務局や加盟国の軍事筋から声高に叫ばれ出している。実際に、軍事費の増額が予定され、NATOのロシア周辺での軍事演習も活発化しているらしい。

 しかしこれも明らかに欺瞞の論調であろう。ロシアに他国を侵略する理由が全く見当たらないのである。あえてひねり出すなら、プーチン大統領の「妄想」であろうか?

 それに、NATO諸国の軍備は、ウクライナ支援で底をついており、復元するには何年もかかるという。またその装備が、ロシアの最新兵器には全く太刀打ちできないこともウクライナの闘いで明らかになっているのだ。つまり、ロシアにそうした野心があるなら、実行するのは、何年も先ではなく「今すぐに」こそがベストな時期なのだ。

 このように、今、欧米の政治的リーダー達の欺瞞は際限を知らないようだ。それは、これまで実際に世界をリードしてきたことからくるおごりかあらくるものもあるだろうが、異常なロシア敵視を見ると、これまでこのブログで見てきた背景をぬきには理解しがたいと思われる。

 ところで、今、EUで好戦的な主立った政治的リーダー達には、かつてのナチス関係者の血筋に当たる者がいるという。私が言いたいのは、やはりそんな血筋だというのではない。ナチスの主な首謀者は第2次大戦後、もちろん処罰されたが、それによりナチスの流れが完全に絶たれたのではない。アメリカは対ソ連政策に活用するため、その残党を引き取ったのである。これは、欧州でも同じではなかったのか。ドイツでも!

(日本でも、旧軍の亡霊が依然として自衛隊に残っているように)

 これには、確かに、ソ連に対抗するという大義名分があるが、私には、それ以上に、もともと欧米のエスタブリッシュメントナチスには親和性があったからではないかと思うのである。

 欧米のエスタブリッシュメントが支援している今の、ウクライナ(ロシア人への無慈悲な態度)、イスラエルパレスティナ人への無慈悲な態度)に現われているように、今も人種差別は生き続けているのである。というか、彼らの他民族蔑視は彼らの体質そのもなのではなかろうか。

 ここで更に妄想を膨らませるなら・・・シュタイナーは、自分を含め当時の人智学協会の主だったメンバーが、その死後、時を余りおかず、つまり21世紀には戻ってくると言うようなことを予言したという。これは21世紀が人類にとって大変重要な時期となることを示唆しているが、そうであるなら、当時、人智学協会に敵対していた勢力、例えばナチスの指導者達にもその様なカルマがあるのではなかろうか。
 今、欧米で国民にロシア憎悪を煽り、戦争による滅亡の淵に人類を立たせようとしている政治的リーダー達の魂に、あるいはその様な魂がないのだろうか?・・・


 さて、欧米の政治的エリート達の構築した戦後の世界秩序、国際機関の多くが、口当たりの良い理想を掲げるが、その内実が伴っていないことは散々指摘されてきている。それは本来、誰のための、何のための組織であったのだろうか?

 今回は、おなじみの『ヨーロッパ人』誌(2024年2月号)から、いわゆる「陰謀論」でよく語られている「世界政府」に関する論考を紹介する。

 中身は、色々な場所でこれまで語られてきているWEFやビルダーバーグ等の組織が実質的な影の世界政府の役割を果たしているというものだが、そのイギリスにおける思想的起源について語られているのが珍しいと思われる。

 著者は、それをジョン・ラスキンとしている。

 私は、名前は聞いたことがあるが、これまで余り知らなかった人物である。ウィキペディアによれば次のようである。

 ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819年2月8日 - 1900年1月20日)は、19世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する評論家・美術評論家である。同時に芸術家のパトロンであり、設計製図や水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また中世のゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した。

 

 現在の国際秩序は、欧米主導というが、さらに詳しく見るなら英米中心であることがわかる。英米は、もともと運命共同体である。そこにあるのは、やはりアングロサクソン系のエリートの妄執なのであろうか?

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ジョン・ラスキンと世界政府

ビルダーバーグ、ダボス会議、そしてヴィクトリア朝イングランドの衝動

『ヨーロッパ人』 Jg. 28 / Nr. 4 / Februar 2024

 

 今日の社会生活は、遠心力に支配されつつあるようだ。個人的な人間関係の不調和が増大し、信頼関係を築くこと、あるいは自分を理解してもらうことさえ難しくなっている。人々はよりイライラするようになり、人々の注意の閾値は下がり、容認できない意見が表明されれば、友人関係はますます早く解消されるようになっている。ある面では、生活は「万人の万人に対する闘い」というネガティブなユートピアに向かって流れているように見える。

 その一方で、政治には驚くべき、時にはほとんどファンタスティックな統一や合意も存在している。例えば、コヴィド19のパンデミック-しかし、判明している事実は、そのような方向を示しているようにはまったく見えなかった-との闘いにおける世界のほぼすべての政府の統一的なアプローチを考えてみよう。また、ウクライナ戦争における、少なくとも西側諸国による絶対的な統一戦線を見てみよう-しかし、ここでも私たちは非常に複雑な状況に直面している。結婚生活を維持することはほとんど不可能になったが、西側諸国は固く団結している。このような事態は、この団結にはもう一つ、別の源があるに違いないという人々の印象を強めるだろう。そしてこのことは、どこかに世界を統一する何らかの組織があるに違いないという考え、明らかに目に見えない世界政府、世界の影の政府があるに違いないという考えを強めている。このような考えは、「陰謀論」という非難的な言葉とともに、猛烈で非常に攻撃的な拒絶にさらされる。

 しかし、「咬まれた犬は吠える」というドイツの諺によれば、そこに間接的な確認もできる。この防衛は、精神分析で使われる意味での防衛であり、潜在意識に長い間存在していた知識から意識を守るものである。それは意識と潜在意識の間の膜が不透明のままであるように保つことを意図しているのだ。

 そのような予感を持って世界を見れば、あなたがすでに知っているかもしれないが、これまではあまり注目していなかった機関が、今や大きな疑問符を周囲に広げ、世界の影の政府の候補となるにふさわしい性格を示しているのに出くわす。

 

世界の影の政府

 ここで特に目立ち、いつも名前が挙げられる組織には、ダボス世界経済フォーラム、ビルダーバーガー、外交問題評議会などがある。世界経済フォーラム(WEF)1の構造は、「企業の世界政府」という考えに最も近い。そのメンバーである「パートナー」は、今日の世界経済で最も重要な企業である。世界経済フォーラムのモットーは、「政治、ビジネス、市民社会が一体となり、世界をより良い場所にする」ことである。WEFは「ヤング・グローバル・リーダーズ」ネットワークを運営しており、WEFが注目し、将来の人類をリードする能力があると思われる40歳未満の人々に、WEFの適切なコネクション、行軍装備、羅針盤を提供している。WEFのヤング・グローバル・リーダーズ・プログラムを経た現在の政治家には、マクロン現フランス大統領、ゼレンスキー・ウクライナ大統領、クルツ前オーストリア首相、ベアボック・ドイツ外相などがいる。WEFは、スイスの山間の村ダボスで毎週開催される会議で最も有名であり、会議、セミナー、ネットワーキング会議、裏話などが混在している。ダボス会議は、国際的なエリートが毎年集まる最も重要な会議である。これらのグローバリストは、故郷がなく、大陸を渡り歩く歴史のないジェット族、機械化と人間生活世界の平準化という顔の見えないアジェンダのために働く人々であり、英語で、「ダボス・マン」は呼ばれている。

 ビルダーバーグ2 は、年に一度、半分秘密に開催される一連の会議である。一連の会議には、財界、政界、ヨーロッパ貴族、ジャーナリズム、学界から数百人の参加者が、通常聖霊降臨祭の週末かその前後に、ヨーロッパかアメリカのどこかの高級ホテルに集まる。そのホテルは、このイベントのために他の訪問者を完全にシャットアウトし、きわめて厳重に監視されている。ビルダーバーグ会議は1954年に初めて開催された。その名称は、最初の会場となったオランダのホテル・ビルダーバーグに由来する。その目的は当初、ヨーロッパとアメリカのエリートたちが互いに意見を交換し、調和を図るためのフォーラムを提供することだった。

 1919年にニューヨークで設立された外交問題評議会3は、おそらく米国で最も強力な外交ロビイング組織であり、多くの場合、米国大統領が自国政府の外交政策担当者を集める中継拠点でもある。長い間、世界で最も重要な外交政策雑誌であった『フォーリン・アフェアーズ』を発行し、独自のシンクタンクを維持している。もしアメリカの政策が一種の世界政府および西側の実際の政策と見なされるなら、CFRは、他方で、コントロールセンター、つまり命令基地であり、このアメリカの政策の実際の頭脳と見なされるだろう。そうなると、CFR自体が一種の世界影の政府ということになる。

 これらの組織は、系統的な関係であれ、重複するメンバーや個人をとおしてであれ、提携関係であれ、相互につながっている。例えば、外交問題評議会は長い間、それぞれのビルダーバーグ会議の議題を準備してきたし、WEFの創設者であるクラウス・シュワブは、ハーバード大学ヘンリー・キッシンジャーの教え子だった。1973年から77年まで米国務長官を務めたキッシンジャーは、数十年にわたりビルダーバーグの最も重要な中心人物の一人であり、同時にCFRがそのキャリアにおいて重要な役割を果たした人物でもある。ビルダーバーグ会議には多くの大企業のオーナーやトップが出席するため、世界の大企業のほとんどすべてをネットワークに持つWEFと重なる部分が多い。

 これらの組織はすべて、一般的に大西洋横断的、親西側的、親米的と言える方向性を持っている。英語が支配的な言語なのだ。これらの組織は、アングロサクソン英語圏の国々が世界システムの中で持つ特別な機能と結びついている。彼らは「西側」、「西側価値共同体」の最も内側の核、最も内側の輪を形成している。このことは、「ファイブ・アイズ」と呼ばれる、イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド英語圏5カ国による緊密な諜報・スパイ活動の協力体制を見れば一目瞭然である。つまり、西側の真の中心国であるアメリカが本当に信頼しているのは、この4カ国なのだ。西側諸国の他の国々はすべて、程度の差こそあれ、自身の信念でそこで活動しているものの、この共同体に押し込められた多かれ少なかれ不安定なカントニスト(少年兵)である。そのため、内なる反抗心や静かな離脱運動の危険性が常に存在する。西側とそれの構築したグローバリズムは、それゆえ、「アングロサクソン的世界」--ヘーゲルがこのような表現を使っている意味において--とも言える。あるいはアングロ文明化と表現することもできる。

 WEF、ビルダーバーグ、CFRを、アメリカの世界システムの重要な民間組織として、また経済力が政治力よりも究極的に基本的な影の世界政府として言及するならば、今日、これには更に異なる組織の巨大で見通すことのできないネットワークが含まれる。例えば、CFRの姉妹組織として、西側世界システムに属するすべての重要な国々で外交政策研究所が設立され、民間企業によって支援され、独自のプログラムや機関誌を持つシンクタンクとして政策形成に貢献している。たとえばドイツでは、ドイツ外交問題評議会(DGAP)がその機関誌『国際政治』を発行している。ドイツ側では、DGAPは1950年代半ばに、ローズ奨学生で元CDUの外交専門家であったパウル・レヴァーキュンによって創設された。今日、この衝動は多くの機関、シンクタンク、財団、大学の講座などに波及し、実際に遍在するようになった。その権威、威圧力、カリスマ性は非常に大きく、今や欧米の知的生活のほとんどすべてが、この衝動に支配されているように見える。このような制度は膨大な数にのぼるが、それらはすべて共通の基本的衝動によって結ばれており、究極的にはすべて共通の系譜を持っている、

ネットワークの起源

 これらの制度の起源をたどると、その系譜は19世紀末にさかのぼり、1891年にイギリスの植民地政治家セシル・ローズ(1853-1902)によって設立されたイギリスの秘密結社に行き着く。世界大戦の時代、世界の守護者、世界の警察官、世界の支配者としてのアメリカの外交政策がイギリスの世界政治から引き継がれたように、アメリカの世界システムの制度も、もともと大英帝国に奉仕しようとしていたものから引き継がれた。しかし、セシル・ローズは当初からアメリカをその巨大な計画に取り込もうとしていたのだから、このことに奇妙さや矛盾はほとんどない。

 ローズは1902年に亡くなり、莫大な遺産をローズ・トラストに残した。 この奨学金制度は、主にアメリカや英連邦からの学生をオックスフォードに呼び寄せ、数年間オックスフォードで学ばせ、大英帝国英米世界システムの考え方を教え込ませるために使われた。ロードス奨学生はそれ以来、この衝動を広めるのに少なからぬ役割を果たしてきた。

 ローズ・ソサエティのオリジナル・メンバーには、ジャーナリストのウィリアム・T・ステッド、銀行家のロスチャイルド卿、植民地政治家のアルフレッド・ミルナー(1854~1925年)らがいた。ローズの死後、1899年から1902年にかけて南アフリカボーア戦争を起こしたミルナーは、協会の指導権を引き継ぎ、イギリスの政策に長期的な影響力を行使しようと有能な若者を集めた。「ミルナーの子供衛兵」と呼ばれることもあるこのグループから、雑誌『ラウンドテーブル』が生まれた。いわゆる「円卓会議グループ」は、英連邦諸国やアメリカにも設立された。第一次世界大戦前後の数年間、これらのグループは特に、英語圏諸国民の団結とドイツの危険という話題に熱心だった。彼らは1914年から1918年の世界大戦につながる政治の一因となり、その影響力は戦争によってさらに強まった。ミルナー自身は1916年に英国政府の大臣となり、中央列強が無条件降伏するまで戦争遂行のキーマンとなった。その間に、彼の若い戦友の多くも重要な政治的地位に上り詰めた。1918年から19年にかけてのヴェルサイユ講和交渉は、英米両陣営でミルナーのネットワークに何らかの形でコミットしていた人々によって決定的な影響を受けた。

 この交渉の雰囲気は、英米間の濃密な友情を育んだ。最終的に、この和平交渉の結果として、円卓会議の支持者たちはロンドンとニューヨークに初の民間外交政策機関、王立国際問題研究所(ロンドンのトラファルガー広場に本部があったことから「チャタムハウス」と呼ばれる)と外交問題評議会を設立した。第二次世界大戦後、このローズ・ミルナーの衝動は、アメリカの世界システムとイギリス世界文明の中心的な衝動となった。事実、第二次世界大戦中、CFRは国務省から戦後秩序の立案を任されていたため、それは、1945年以降、CFRのメンバーがそこに再び見出される、実際にはCFR自身の秩序だった。

このような出来事については、アメリカの歴史家キャロル・クイグリー(1910-1977)の研究によって知ることができる。彼の著書『英米エスタブリッシュメント』には、第二次世界大戦までの「エスタブリッシュメント」の発展が詳細に描かれている。

ジョン・ラスキン

 クィグリーによれば、セシル・ローズに大きなインスピレーションを与えたのはヴィクトリア朝の知識人ジョン・ラスキンであり、ローズは1870年にオックスフォードの美術教授に就任した際のラスキンの講義録を、亡くなるまで常に携帯していたという。それ自体では、ラスキンダボス会議やビルダーバーグの資本家オリガルヒや世界指導者/世界思想家の先祖とは思えない。

 ラスキン(1819-1900)は、ヴィクトリア朝時代を代表する知識人の一人であり、今日でも英語圏でかなりの影響力を持つ人物だが、その域を超えることはあまりない。一方、例えばマルセル・プルーストラスキンを高く評価していた。彼はアミアンの大聖堂に関するラスキンの本を翻訳し、中世建築への愛と知識を深め、発展させるためにこの本を利用した。ラスキンは卓越したヴィクトリアンであり、それが意味する人間的な奇妙さをすべて備えていた。

 美術愛好家、美術評論家として執筆活動を始め、ウィリアム・ターナーの名声の創始者となり、『現代の画家たち』でその名声を強調した。その後、特に中世の美術と建築に関心を向け、ヴェニスの建築に関する3巻の著作『ヴェニスの石』(The Stones of Venice)を著した。彼は、トマス・カーライルを文学の模範であり導き手として選んだ。ラスキンの執筆や講演のスタイルは聖書の影響を強く受けており、成長するにつれて預言者としての特徴も身につけた。1862年、彼は、近代経済と近代国家経済に関する3つのエッセイを書き、資本主義とそれに関連する科学が促進する貪欲さと、それが喚起する利己主義を激しく非難した。本質的に保守的な視点から書かれたこの作品は、聖書的なタイトル『Unto this Last(この最後のために)』とともに、イギリスではある種のスキャンダルとなり、ラスキンは多くの人々から狂人扱いされた。この作品は後に、レオ・トルストイマハトマ・ガンジーといった重要人物に多大な影響を与えた。そして1870年、ラスキンはオックスフォード大学に新設された美術学講座に任命され、イギリスの美学文化の刷新を図った。

 ラスキンは、人として完全に「正常」であったわけではない。精神病理学的な特徴--おそらく体の構成要素【肉体・エーテル体・・】が緩んでいたのだろう--を持っていたことは間違いない。彼の人生が進むにつれ、内面のバランスを保つことが次第に難しくなり、怒りの爆発はより過激になっていった。彼は早くに結婚したが、ラスキンが女性の陰毛を見るのが怖くて嫌悪感を抱いたため、妻は、自分に手を出さなかったという理由で離婚した。人生の最後の10年半、彼は次第に一種の精神錯乱に陥っていった。その一方で、彼の存在の構造がこのように緩んでしまったことが、彼の文学が興味深い分野にまで広がっていった原因であると同時に、彼の作品にある種の統一性や一貫性が欠けてしまった原因でもあるのかもしれない。

 

 もしこの貴重な伝統がこの2つの大きなマジョリティーに広がらなければ、少数派のイングランド上流階級はやがてマジョリティーに圧倒され、伝統は失われてしまうだろう。もしこの貴重な伝統がこれら2つの巨大なマジョリティに広がらなければ、少数派のイングランド人上流階級はやがてこれらのマジョリティに圧倒され、伝統は失われてしまうだろう。これを防ぐためには、伝統を大衆と帝国に広げなければならない」4。

 したがって、伝統を世界中に広める必要があり、それは当然、世界征服を目指す帝国主義的、帝国主義的な意図を意味していた。

 1877年に書かれたセシル・ローズの最初の遺書(当時、ローズはまだ24歳だった)には、秘密結社の設立が記されていた。この結社の目的は

「イギリスの支配を全世界に拡大すること、イギリスからの移住制度を完成させ、エネルギー、労働力、事業によって生計を立てることが可能なすべての国々をイギリス臣民によって植民地化すること。(そして最終的には、戦争を不可能にし、人類の最善の利益を促進するほどの大国を樹立することである」5。

 これらには、イギリスとアメリカの統一や、必ずしも世界国家の樹立が含まれているわけではないが、他のすべての国を十分に威嚇し、彼らの同意なしに何かをすることを望まないようにするのに十分なほど偉大な大国の樹立が含まれている。

 ラスキン、ローズ、そして英語圏帝国への衝動

 クイグリーは、ローズとその一派がラスキンから受けたインスピレーションを次のように語っている:

ラスキンはオックスフォードの学生たちに、特権的な紳士階級の一員として語りかけた。ラスキンはオックスフォードの学生たちに、教育、美、法の支配、自由、良識、自己規律といった偉大な伝統の所有者であることを告げた。しかし、もしこの伝統がイングランド自体の下層階級や、世界中のイングランド以外の下層階級に広がらなければ、この伝統は生き残ることはできないし、生き残る資格もないだろう。もしこの貴重な伝統がこれら2つの巨大なマジョリティの間に広がらなければ、少数派であるイングランドの上流階級はやがてこれらのマジョリティに圧倒され、伝統は失われてしまうだろう。これを防ぐためには、伝統を大衆と帝国に広げなければならない、と。」4したがって、その伝統は世界中に広がらなければならず、それは当然、世界支配を目指す帝国主義的、帝国主義的な意図を意味する

 1877年に書かれたセシル・ローズの最初の遺書(当時ローズはまだ24歳だった)には、秘密結社の設立が記されている。この結社の目的は

「イギリスの支配を全世界に拡大し、イギリスからの移民制度を完成させ、人々がそこでエネルギーと労働力と事業によって生計を立てることが可能なすべての国々をイギリス臣民が植民地化すること。(中略)最終的には、アメリカ合衆国大英帝国の不可欠な一部として再獲得し、帝国全体を強化し(中略)最終的には、戦争が不可能となり、人類の最善の利益を促進するほどの大国を樹立することである。」5

 これらは巨大な権力のビジョンである。それには、米国と英国の再統一、絶対条件ではないが、世界国家の樹立、他国を十分に威圧し、自分たちの同意なしに何もしたくないと思わせるのに十分な大きさの権力、言い換えれば、一種の世界の警察官となりうる権力の獲得が含まれる。

 ローズは、ラスキンの1870年の就任演説を生涯持ち続けたと語っている。それは彼にとって、中心的なインスピレーションであり、中心的な信念であったに違いない。この就任講演(1870年2月8日)の中で、ラスキンは当初、イギリスの芸術水準と芸術感覚をいかに向上させるかについて長々と述べている。そして最後の方で、彼はまったく唐突に、もっと広い別の話題に移る。彼は生徒たちに世界を征服するよう促しているのだ。:

「今、われわれの目の前に可能な運命がある。私たちはまだ人種として退化していない。私たちはまだ気質が凶暴ではなく、統治するための堅固さと服従するための優しさを持っている。われわれは純粋な慈悲の宗教を教えられてきたが、今それを裏切るか、あるいはそれを自覚して守ることを学ばなければならない。そしてわれわれには、千年にわたる高貴な歴史によって受け継がれてきた名誉という豊かな遺産がある。これを日々、貪欲に増大させ、イギリス人が名誉を欲することが罪であるとしても、生きている中で最も攻撃的な魂となるようにしなければならない。ここ数年の間に、自然科学の法則は、その明るさに目がくらむほどの速さで、われわれにその姿を現した。そして、われわれに、居住可能な地球を一つの帝国に統合する輸送手段と通信手段が開かれた。帝国......しかし、誰が王になるべきなのか?それとも王など存在せず、誰もが自分にとって正しいと思えることをすればいいのだろうか?それとも、恐怖の王と、マモンとベリアルの猥雑な王国だけでいいのか?それとも、イングランドの若者たちよ、君たちの国をもう一度、王たちの王座にするのか。全世界の光源となり、平和の中心となる笏の島を作るのか; 学問と芸術を愛し、不遜で儚い幻影の中で偉大な思い出を忠実に守り、僭越な実験と淫らな欲望の誘惑にさらされながらも、長い間試行錯誤されてきた原則に忠実な奉仕者であり、あらゆる国の残酷で騒々しい嫉妬の中で、人に対する優しさという類まれな勇気において栄誉を受ける国である。

「Vexilla regis prodeunt」[王家の旗が叫ぶ。]しかし、どちらの王が?2つの旗がある。遠い島に立てるのはどちらか?天の炎にはためくものか、それとも地上の金の汚れた布で重く垂れ下がるものか。私たちの前には、死すべき魂を持った哀れな集団がかつて経験したことのないような栄光の道が確かにある。“支配するか、それとも死ぬか。”そして、いつの日かこの国について、'Fece per viltate, il gran rifiu- to'(ダンテ『インフェルノ』3./60)6と言われる日が来るならば、この王位拒否は、歴史が語る中で最も恥ずべき不適切なものであっただろう。

 そして、次のようになるに違いない。そうでなければ滅びる: できるだけ早く、できるだけ遠くまで植民地を築き、最も立派で精力的な国民が定住するようにしなければならない--足を踏み入れることのできる肥沃な空き地は、すべて無料で手に入れなければならない; 遠く離れた土地に住んでいても、遠く離れた海を航海するイングランドの艦隊の船員と同じように、祖国の一部であると感じるべきである。(...) 」7

 

 これが、ローズにとって偉大なインスピレーションとなったに違いない。ラスキンによるイギリスの若者たちに呼びかけた世界征服である。そしてそれは、略奪的な征服ではなく、文化的で神聖な義務としての世界征服である。科学、通信、輸送を通じて世界はひとつになり、ひとつの世界には「王」と呼ばれる権力の中心が必要だった。これが、ローデスの秘密結社、そしてそれから100年以上後のビルダーバーグ、WEF、CFRが花開く種となった。イギリスの世界帝国と広範囲に及ぶ植民地化事業はとうの昔に終わったが、世界支配への衝動は残っている。この帝国に対するラスキンの高邁な理想が実現されたのかどうか、私たちは自問自答しなければならないだろう: その実現が2度の世界大戦や今日に至るまで数え切れないほどの戦争の対象となった帝国を「平和の中心」とは呼ぼうと人は思わないだろう。「光の源」は、蔓延する嘘と解き放たれた汚れたメディアに支配され、永久に暗くなり続ける公共の生活と調和させるのは難しいように思われる。「人々に親切にする稀有な勇気」?ローデスやミルナーでさえ、人々を独立した個人としてよりも、目標を実現するための歯車としてしか見ていなかったと言われている。そして、この帝国は、ラスキンに反して、その幻想的な貨幣の蓄積と貨幣の移動で、その中心には大企業がある、マモンの帝国になってしまったと言わざるを得ないのではないだろうか?  絶え間なく、以前よりも速く、この帝国は、どこかで打ち負かされ、破壊されなければならない「恐怖の王国」であることを示しているが、それはとうの昔に、空から、そして遠く離れたところから、突然の死により世界中を脅かしている恐怖の帝国そのものになしまっているのである

  アンドレアス・ブラッハー

 

1     ウェブサイト: www.weforum.org

2     ビルダーバーグに関するウィキペディアの記事は、すべての警告(常に適切)を付した上で、簡単な情報とトピックの紹介としてとらえることができる:ビルダーバーグ会議https://de.wikipedia.org/wiki/Liste_von_Teilnehmern_an_Bilderberg 会議、https://de.wiki-pedia.org/wiki/Liste_der_Bilderberg-Konferenzen https://de.wikipedia.org/wiki/

3     ウェブサイト: www.cfr.org

4     キャロル・クイグリー『カタストロフィと希望 私たちの時代の世界の歴史』 参照:アンドレアス・ブラッハー著、ペルセウスバーゼル、2009年、94ページ。

5     キャロル・クイグリー『英米エスタブリッシュメント』フォーカスNY 1981年の本、S.33。(フォン・A・ブラッハー)

6     ダンテの場合、これは教皇セレスティヌス5世、フランシスコ会の霊的修道士ピエトロ・モローネの元隠遁修道士を指しており、1295年、彼の選出の数週間後に、彼の教皇職に耐えられず、辞任した。そうすることで、彼は歴史上最も権力に飢え、横暴な教皇の一人である後継者ボニファティウス8世への道を切り開いた。

7     ジョン・ラスキン「芸術に関する講義」学位論文:ジョン・ラスキンの作品、エドワード・タイアス・クック、アレクサンダー・ウェダーバーン編集。Vol.20:芸術とアラトラ・ペンテリチの講義。ジョージアレン、ロンドン1905年、hier: 41-42頁

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 セシル・ローズの名はこのブログでも時々登場してきたが、そのイギリスの植民地主義の元祖の師が美術評論家ラスキンとは意外な気がするが、そのヒントは、文中に出ていた、ラスキン精神病理学的体質かもしれない。

 著者は、明確に述べていないが、体の構成要素がゆるんでいるというような表現がこれを示唆していると思われる。構成要素がゆるんでいるとは、通常現代人では、肉体、エーテル体、アストラル体はしっかりと結びついているのだが、例えば、肉体とエーテル体が緩むというようなことである。それがいわゆる臨死体験なのだが、彼の場合は、逆にこのような状態が普通にあったと言うことだろう。実はこのような状態は、かつての、神霊存在を身近に感じていた古代の人々の普通の状態でもあった。今で言えば、霊媒体質と言えるかもしれない。

 つまり、ラスキンは、その体質により、霊感を受け取り、それを弟子達に伝えたのだ。ラスキンの主張は、必ずしも文明的優位性の話で、軍事力による世界征服ではないようであるから、その霊感の主が人類に敵対する霊的存在ではなかったのかもしれないが、それを受け取った側は、明らかに、力による支配に転換してしまったようであり、結果的には、敵対する霊的勢力の思惑の中にあったと見るほかないだろう。

 

 もとより欧米文化を否定するものではない。欧米の先人は、人類史にとって必要な優れた文明を築いたのは間違いない。ただ全てには、適した時期というものがあるのだ。それを無視して過去の栄光を引きずり無理に延命を図ることに問題が生じるのである。

 時代は変わっていくのだ。人類は今、新しい時代に向けた産みの苦しみの中にいるのだろう。

ミケランジェロ「最後の審判」と聖骸布の秘密の関係【後編】

16世紀の画家ジュリオ・クローヴィオの絵画(聖骸布がどのように作られたかが分かる)

 前回に続き、「ミケランジェロ最後の審判』と聖骸布の秘密の関係」の後編を掲載する。

 

 本文に入る前に、聖骸布についてまた補足説明をしておきたい。それは、聖骸布に関連すると思われる伝説についてである。

 マンディリオンというものがある。イエス・キリストパレスティナで活動していたとき、古代都市エデッサ(現在トルコ領)にアブガルという王がいた。この王は病気となり、その癒しを求めて、イエスの下に使者を送った。するとイエスは、自ら布に顔を押し当て、そこにイエスの顔を写しとった。そしてその布を使者に持たせ、王のもとに帰らせた。その布の姿を王が見ると、奇跡的に病気が癒され、これに喜んだ王は、一族もろともキリスト教に改宗した、アブガルは、最初にキリスト教徒になった王となった、という。その布が、マンディリオン(麻布)である。

 また、王は、これを記念し、エデッサの城門にこのイエスの顔を写し取ったタイルを掲げたという。

 さて、このマンディリオンは、確かに、今回のテーマの聖骸布とは異なるものである(マンディリオンはイエスの生前にできた)が、研究者の中には、これと聖骸布には、何らかの関係があるのではないかと主張する者もいる。全身像の聖骸布を折りたたみ、顔のみ見えるようにすれば、まさに顔のみのマンディリオンとなるからである。

 また、東方のイコンを含め、古代以来、作成されてきたイエスの肖像はどういうわけか、その容貌がみな類似しており、これは、まさに聖骸布(あるいはマンディリオンやエデッサのタイル)がその原型となったからではないかという仮説もあるのである。

 

  さて、ここで今回紹介する論考にもどるが、エデッサの城門に掲げられたイエスの顔を写し取ったタイルをケラミオンという。今回紹介するヨス・フェルハルスト氏の論考のきっかけとなったフィリップ・デイヴォールトPhilip E. Dayvault氏の主張は、彼がこのケラミオンをトルコで発見した、それはまさに聖骸布の顔がそれの原型になっているというもので、彼は、その主張を『ケラミオン、紛失と発見 THE KERAMION,LOST AND FOUND』という本にまとめて出版したのである。

 しかし彼は、考古学者ではなく、前歴はなんとFBIの特別捜査官及び物理化学技術者なのだ。だがそれゆえ、犯罪捜査で使われる顔認証技術を駆使してケラミオンと聖骸布の顔の同一性を確認したとするのである。

 ただ、そもそも彼の発見したイエスの顔のタイルは本物のケラミオンではないとする指摘もあるので、氏の主張をそのまま受け入れることは出来ないのだが、彼のケラミオンの発見が誤ったものであったとしても、顔認証の知識・技術をもっていることは間違いないようなので、最後の審判聖骸布との類似の指摘を否定する必要はないだろう。

 

 以下の後半では、デイヴォールト氏の主張をふまえつつ、さらにフェルハルスト氏独自の視点で、「最後の審判」に込められた聖骸布の顔との関係が明らかにされていく。

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ミケランジェロの『最後の審判』におけるトリノ骸布の顔の埋め込み

デイヴォールト仮説の実証(後編)

 ヨス・フェルハルスト著

 

ε字型の血痕と「元々の折り目」の表現

  図5は、聖骸布上の「元々の折り目」の位置(左、オレンジ色の線)と、フレスコ画上の対応する仮想線(右、オレンジ色の線)を示している。どちらの画像でも、この襞の線と目(または眼球)の位置関係が同じであることに注目してほしい。

 聖骸布では、元々の折り目は偶然にもε字型の血痕をかすめている。デイヴォールが指摘したように、このε字型の輪郭は、最後の審判の上に座る預言者ヨナの横顔に模倣されている。この預言者は、望まれる輪郭を作り出すために、普通とは異なる、かなりぎこちない姿勢をとっている(図5)。聖骸布では、ε字型の血痕は小さな突起を示しており、それはちょうど元々の襞に接している。この小さな突起の位置と方向は、図5の緑色の矢印で示されている。明らかに、ミケランジェロ(あるいは彼の情報提供者)は、この小さな突起の存在と、元々の襞との空間的な関係を認識していた。ε字型の血痕から発した小さな突起に対応する人差し指が伸びている、預言者の手の非常に珍しい位置は、画家がこれらの細かい要素をすべて絵の中に表現したいと願ったからだと説明される(図5のA)。

 

14 キリスト教の秘教的伝統によれば、これは磔刑の日付である。コリン・ハンフリーズ(最後の審判の秘密. イエスの最後の日々を再構築する 2011, Cambridge: Cambridge U.P.)は、福音書の一見矛盾する要素をすべてこの日を中心に調整することが可能であることを示している。システィーナ礼拝堂のヘンドリック・ファン・デン・ブルック(アリゴ・フィアミンゴ)作のフレスコ画には、33年4月5日(日)が復活の日として符号化されている。西暦33年4月3日と4月5日の日付は、アントワープの聖母大聖堂にあるピーテル=ポーウェル・ルーベンスの絵画にも埋め込まれている(J.Verhulst De Rubens Code 2011; Antwerp: Via Libra, p.109-111; オランダ語参照)。

 

図4:トリノの聖骸布の顔(Enrie 1933年)。オレンジ色の矢印は、いわゆる「元々の折り目」15の位置を示す。赤の矢印は、元々の折り目とともに左眼窩内に十字を作る小さな襞を示す12。緑色の矢印は、右12眼球領域上の縦帯パターンを示す。青い矢印は、いわゆる「中心襞」の位置を示す。

 

15 この元々の折り目は、中心褶曲が位置する聖骸布の実際の正中線とは一致しない。可能性のある説明については、César Barta (2010) Le Pli Primitif in: Revue Internationale du Linceul de Turin n° 33-34. p.4-10.

 

図5:聖骸布と「最後の審判」に見られる元々の折り目(オレンジ色の線)。この折り目は、額(A)にあるε形の血痕の小さな突起(緑色の矢印)をかすめるだけである。聖骸布画像の左目内では、この折り目は十字架の縦の梁を作り出している。フレスコ画の対応する縦の梁は、左の遠心性の十字架をかすめるだけである。フレスコ画の対応する垂直線は、左の円形部の十字架をかすめるだけである。さらにその下で、折り目は口ひげの像を横切り(B)、次に叉ひげの左側部分を横切る(C)。ここでミケランジェロは、復活した魂が上方に向かうV字型の群れを描いている。この細いV字型は、襞の線を中心に正確に配置され、元々の折り目の襞の鋭さと薄さをイメージしている(一方、中央の襞はもっと鈍い)。「頭部のない四角形」の位置は赤で示されている。

 

図6:垂直の元々の折り線(図5)と、聖ペテロの鍵を通り、混紡の打撃を表す線(図2参照)のそれのぞれの位置を示す「目印の人物達」 聖アンデレ(2)(キリストの最初の弟子としてキリストの近くに立っており、十字架を背負っていることで認識できる)と洗礼者ヨハネ(1)(この聖人の識別は不確実)の後ろにいる緑色の服を着た女性の聖人(A)は、左手の人差し指で元々の折り目を表す仮想の線を指している。この線はまた、彼女の「ティラカ」16を貫いている。聖ペテロ(3)の鍵によって示されている平行線は、伸ばした右腕に沿い、右上隅の無名の男性聖人(B)のティラカを通っている。この男性聖人も緑色の服を着た女性聖人も、絵の中に埋め込まれた秘教的な意味を持つ線を識別するのに役立つ「目印の人物」である。作品に秘教的な内容が潜んでいることは、聖ヨハネと聖ペテロの足の後ろに四つん這いでしゃがみ込んでいる二人の隠れ人物(CとD)によって、極めて直接的に表現されている。実は、ミケランジェロは、左手の聖アンデレと洗礼者ヨハネの後ろ(AとC)と、右手の聖ペテロの後ろ(3)に、相補的な緑と赤のコンビを描いている。聖ペトロの鍵は、福音書記者聖ヨハネ(4)(聖ペトロの背後; 同定は不確か)の赤い服を背景に見えるが、その下の緑色の服を着てしゃがんでいる人物(D)の背中を、銀の鍵に沿って走る線がほとんどかすめている(図2も参照)。左手では、元々の折り目を表す線が、洗礼者(1)の後ろに隠れている人物の顔をかすめ、「目印の聖人」(A)の緑色のドレスに沿って上方に伸びている。ひざまずいている人物も隠れている人物も、「自分の」線から後退しているか、身をひそめているように見える。

 

16 ここで言う「ティラカ」とは、額の中央の後ろにある特別な点を指しており、目覚めている人間はそこに「自己」があるという感覚を持つ。ヒンドゥー教では、ティラカはこの点を示す額の目立つ印である。キリスト教美術では、多くの芸術家(ラファエロ、カラヴァッジョ、ルーベンスなど。Verhulst 2011 14参照)ミケランジェロもまた、この秘教的な慣例を利用しているようだ。例えば、メシュベルガーの仮説3が成り立つなら、アダムに命を授ける神の腕はティラカをとおるように指している。ゴンサレス6が提唱した仮説が成り立つなら、聖ペテロの鍵(図2)によって定められた線は、ダンテのティラカを通っていることになる。図10も参照。

 

 預言者ヨナの下肢は、多くの著者によって指摘され、聖骸布の顔の主な「ヴィニョンの印」17のひとつに数えられる、いわゆる「頭部なしの箱」あるいは「頭部なしの四角形」に対応している(図5、赤い印)。多くの場合、人間の顔にはその場所に2本の縦溝が見られるが、聖骸布では織物自体の小さな欠陥に起因するようだ18

 

 メヒティルド・フルーリー=レンベルクが元々の折り目を「...しっかりと刻まれたV字型の溝」、「...非常に顕著な折り目」と表現したことはすでに述べた。この特殊な襞の輪郭は、フレスコ画では、襞の線の基部にある、復活する魂の群れによって示されている。集団の輪郭は鋭いV字形をしており、ε形の血痕から垂直に落とされた部分が、その対称的な軸と一致している(図5、C)。このグループの上にある小さな雲(図5のB)は、聖骸布の顔の口ひげのイメージに対応しているようだ。聖骸布では、元々の褶曲線が左目の十字架の垂直部分を作り出している。フレスコ画では、十字架は、掲げられ、斜めになっていおり、その線は、右端を通っている襞に対応している(図5)。

 特に興味深いのは、それぞれ折れ目の線と聖ペテロの鍵を通る線に関連する目印の人物である(図6とキャプション参照)。これらの副次的な人物、特にしゃがんでいる二人の人物の奇妙で不可解に見える位置は、フレスコ画の秘教的な内容を考慮に入れると理解できるようになる。

 

髪の毛の血痕の表現

 聖ペテロ(一対の鍵を持つ)とキュレネのシモン(フレスコ画の右端、十字架を持つ)の間に、二人の男性の姿が見える。一番右の人物は、驚くべき半分かがんだ姿勢で描かれている(図7)。彼は仲間の手を頭上に伸ばしており、まるで守っているかのようである。この奇妙な構図を説明しうる特殊性を求めて聖骸布を調べたところ、この人物と聖骸布の顔の右側に見られる細長いZの形をした血痕とが全体的に似ていることに驚かされた(図8)。聖骸布上では、この血痕は、髪の毛の像の上に重なっているように見える。しかし、この血痕とこの像とは異なる条件下で形成されたものであり、聖骸布の血痕を作った傷は実際には顔の上にあった19

 

17 「頭部のない正方形」は、ポール・ヴィニョンによって「le carré supranasal」と呼ばれている("Le Saint Suaire de Turin" Paris: Masson & Cie.1939, p.137)。例えば Ian Wilson (1998) "The Blood and the Shroud" New York: free Press (pl.39).

18 Roy DolinerとBenjamin Blech ("I segreti della Sistinaシスティーナ礼拝堂の秘密" Milan: Burr 2008; p.284)は、預言者の脚にはヘブライ語の「彼」(これ)の字הが暗号化されていると提案するが、この.解釈では、預言者の左脚全体と右脚の下部のみが考慮されることになり、これはほとんど意味をなさない。

19 Alan D.Adler (2002) 『孤児となった原稿 トリノの聖骸布に関する出版物集』 Turin: Effatà Editrice; p.63-66.

 

 明らかにミケランジェロは、このZ字型の血痕を興味深いものと考えたようだ。彼は、自分の絵に取り入れたかったそのディテールを、トリノの聖骸布に描いた。しかし、血痕を絵の範囲内に収めるためには、血痕の位置を変形させなければならなかった。この変形は、図8(Aからaへ)に示されているように、血痕の位置を元の距離の50%以上、鼻筋の特定の点に向かって移動させることによってもたらされることが、少し調べればわかる。もちろん、このような単一の血痕の変位の仮説は完全に後付け的なものである。

 しかし、この仮説はチェックし、改良することができる、というのも、髪の下部にはまだ他の血痕が残っており、そこにも同じ変換が適用できるからである。目の上や目以外のシミの大半は除外する。なぜなら、それらは額や目に投影されるからである。しかし、図8でBとCと表示されている2つの主要なシミを調べることができる。

 まずBの血痕から見てみよう。Bの血痕はAの血痕と同じ顔の側面にあり、豆のような形をしている。驚くべきことに、提案されている変形は、この血痕ともう一組の人物、聖ブレーズと聖カトリーヌとの関連を示唆している(図7)。このカップルを包む輪郭は、この血痕の特徴でもある切れのない「C」の形をはっきりと示唆している。したがって、この第二の血痕を調べることは、私たちの当初の直観を強く支持するものである。いくつかの描画実験によって、投影中心Pの位置を非常に正確に決定することができる。その結果、聖骸布では、この投影点は鼻梁のよく知られたV字形の最下点、額の「四角い箱」の真下に位置することが判明した。

 

 投影の形状が正確にわかったので(投影中心の位置と縮尺係数の値は固定されている)、今度は3番目の血痕に目を向けることができる(図7)。そして、この3つ目の血痕の中心は、フレスコ画の左端にある、ひざまずく女性信者を守る教会を表すとされる一番手前のカップルの上に投影されることを発見する。より正確には、C点は信者の背中の手の上にある。ここでも、聖骸布上の血痕の形とフレスコ画上の表現との間に、おおまかな対応関係を見ることができる。

 このように、検討中の3つの血痕はそれぞれ二人の人物に対応しており、そのうちの一人がもう一人に対して守る、あるいはかばう仕草をしているように見える。これは血痕Bに対応する二人組にも言えることだが、後者の場合、ミケランジェロは悪戯の意図もあったかもしれない(彼の批評家ビアージョ・ダ・チェゼーナ肖像画-アウレリウスのロバと彼の性器を噛む蛇が描かれている-を『最後の審判』に取り入れたときのように。)

図7:上:聖骸布の男の髪にあると思われる3つの血痕(位置については図8を参照)。血痕Aの主な部分は「Ż」(上に点があるZ)の形をしており、ミケランジェロによって、屈伸して屈んだ姿勢の裸体男性として描かれ、頭上には同伴者の手がある。血痕Bはあいまいな感じの文字'C'の形をしており、フレスコ画では、オリジナルがミケランジェロによって描かれた聖ブレーズと聖カタリナの二人組で表されている(中央;1549年にマルチェッロ・ヴェヌスティによって模写されたもの。ナペルスのカポディモンテ美術館。わいせつ行為とみなされたため、システィーナ礼拝堂のオリジナルは変更されてい。) 血痕Cは、しばしば「信者を守る教会」と解釈される二人組によって表されている。

図8:髪の下の部分にある3つの主要な血痕の位置の変形(髪の下の部分にある)。シミの位置はA、B、Cと表示されている(図7と9を比較;エンリーの写真)。これらの位置は、投影点Pに向かって元の距離の50%以上移動させることによって変換される: Aをaに、Bをbに、Cをcに、Pa = 0.5.PA、Pb = 0.5.PB、Pc = 0.5.PCとする。この変換は、三角形ABCを同型の三角形abcに対応させ、3つの血痕の位置を、ミケランジェロが「最後の審判」の隠しテンプレートとして使用した顔の中心部分に投影する。

 

図9:ミケランジェロ最後の審判聖骸布(図8)で得られた形状の重ね合わせ。点Pはフレスコ画の対称軸の最も高い位置にある。眼球に関しては、この点は、両目に対して、聖骸布の点Pよりもやや低い位置にある。点aが、Ż字型の血痕を模倣していると思われる膝を曲げた人物の頭の真上に位置するように、縮尺が取られている。図8では、点AはŻ字型の血痕の上に置かれており、この血痕の上には、絵の上で膝を曲げている男の頭の上にある手と対応していると思われる小さな印が冠されていることに注意されたい。こうして点Pと点aの位置を固定することで、フレスコ画幾何学的構造を転写するための位置と縮尺が完全に決定した。点bとcは、他の二つの血痕(図8のBとC)の「中心」から導き出されたもので、それぞれ聖ブレーズ(b)と教会を象徴する女性(c)がした庇う仕草と一致する。

 

 仮説も変容の詳細も、最初の2つの血痕を考察することで完成するため、3つ目の血痕について得られた正確な一致は、仮説の非常に正確な確認と考えることができる。ミケランジェロはこのようにして、額にあるε形のマークとは別に、聖骸布に見られるさらに3つの血痕を符号化した。そのために彼は、図8に示すような単純な幾何学的操作を用いた。血痕を表現するために画家が用いたイメージは、フレスコ画全体の文脈の中で意味をなす。キリストの顔に描かれた打撃の再現が、ミケランジェロの『最後の審判』の中心的な要素であることはすでに述べた。その打撃を中心に、キリスト自身による防御のしぐさ、聖ペテロを囲む聖人たちによる憤慨して振り上げた手、そして3つの血痕を象徴する3組のカップルが見せる庇護の仕草は、すべて同じシーンの一部なのである。

 

聖バルトロメオと聖ローレンス

 ミケランジェロの『最後の審判』(図10)において、皮膚とナイフを持つ聖バルトロメオと鉤爪を持つ聖ローレンスは、目立つ位置を占めている。両者の背後には、正体不明の黄色の服の「補助聖人」がいる。両者とも、前景のキリストの足元に置かれ、それぞれが雲の上に座っている。キリストとその母とともに、彼らはフレスコ画の中心的なグループを構成しており、それは聖骸布の顔の鼻に対応している。ミケランジェロがなぜこの二人の聖人をこのような目立つ位置に配置したのかは、これまで説明されていない。聖バルトロメオと聖ローレンスが選ばれたのは、ミケランジェロトリノの聖骸布への示唆を絵の中にさらに封じ込めるために、彼らの図像的特性を必要としたからである。

 聖バルトロメオによってもられた皮が、聖骸布の中央の折り目の位置を示していることは疑う余地がない11(図4)。絵に描かれたぶら下がっている皮の位置と、聖骸布の中央の折り目の位置は完全に一致している。さらに、フレスコ画に描かれたバルトロメオの皮膚が示唆する中央の溝を囲む二重の折り目は、エンリーの写真にはっきりと写っている二重の隆起を持つ中央の折り目のイメージと見事に一致している。聖バルトロメオとその背後の黄色い服の聖人の目は、聖アンデレと聖ヨハネの背後の女性聖人の人差し指に向けられた同じ視線(図10の青)を共有している(図6,A参照)。預言者ヨナ(図5右上)と同じように、この女性聖人は聖骸布の元々の折り目を表す仮想線を指し示している。どうやらミケランジェロは、中央の襞を描いているバルトロメオの皮膚を、聖骸布上で中央の襞の左側に数センチメートル離れて平行に走る元々の襞(図4)をも示唆するようにしたかったようである。

 

 聖バルトロメオの持つアトリビュート聖骸布の織物の重要な側面を示唆しているという事実は、聖ローレンスがこのような独特な持ち方をした格子も、同じ織物に関連する何らかの隠された意味を持っている可能性を示唆している。

 コンポジションの中央部分を調べると、格子はより広範な暗号化複合体の一部であることがわかる、すなわち、左手の洗礼者ヨハネとロレンスの黄色い「助祭」のティラカ、右手の聖ペテロと聖バルトロメオのティラカを線で結ぶと、V字型になるのである(図10、オレンジ色の線、角度は約66度)。

 このV字型にはどのような意味があるのだろうか。私たちはすでに、聖バソロミューの持つ皮膚が聖骸布の主要な折り目を指していることを知っている。したがって、聖骸布の布地を考慮するのは論理的だと思われる。そうなると、このV字型は聖骸布の魚の骨のような形をした織り模様のことを指しているに違いない、と考えるのが自然だろう。実際、この模様(図11)は聖骸布の顕著な特徴である。例えば、よく知られているプレイ手稿の絵にも描かれているように見える。

図10 : ミケランジェロの『最後の審判』における聖骸布の布の構造の符号化。中央の折り目の位置は、聖バトロメオが持つ皮によって示されている。聖バルトロメオは、背後にいる黄色い服を着た「補助聖人」とともに、関連する元々の襞の位置を指し示す緑色の服を着た聖人の人差し指を見ている(青い線)(図6参照)。聖ローレンスの格子の対称軸は、聖ヨハネ、聖ローレンスの「助祭」である黄色の聖人、聖バルトロメオ、聖ペトロのティラカ(紫の点)とともに、聖骸布の布のヘリンボーン模様(オレンジの線)に対応するV字形を形成している。このV字形の中央軸(緑色の線)はキリストの手によって示されている。聖ローレンスは、聖骸布の織物構造(図11)を反映する非常に独特な方法で格子を保持している。ちょうど聖骸布の布地で縦糸が3本の横糸に重なっているように、彼の腕は、鉄板の3本の横棒を越えている。

 

 V字の最下点は格子の最下部の横木の中点と一致する。V字は垂直に対してわずかに傾いている。キリストはV字の中央軸(図10の緑色の線)を両手で挟んで微妙にバランスを取っているように見え、それを見ている聖ローレンスもそれに応じて格子の向きを合わせている。キリストの身振りは、左下の呪われた者たちを拒絶しているという通常の解釈は別として、また、受難の際に受けた打撃の再現(図2)に対する防御反応という第二の(秘教的な)解釈とは別に、聖骸布の布の織り構造を示唆する、さらなる意味層にここで出くわすことに驚かされる。この示唆は多かれ少なかれ戯れ的な性質を帯びている。あたかもミケランジェロの主要登場人物は、隠された内容が作品に埋め込まれており、キリスト自身がショーをリードしていることで、驚いているかのようである。このような軽妙な遊び心は、秘教的な芸術作品にしばしば見られる。

図11:トリノの聖骸布の織り構造20。I-IV:縦糸、1-8:横糸。左:隣接する8本の緯糸の方向から見た図、隣接する4本の経糸の絡み合った位置。右:出来上がったパターンを上から見た図。セント・ローレンスの腕が3本のクロスバーを越えているのは、3本の横糸を越えている縦糸を模している。

 

20 Piero Vercelli (2010) "La Sindone nella sua struttura tessile" Cantalupa (TO): Effatà Editirice; p.28; 若干脚色。

 

 私たちの解釈を検証するには、2つの方法がある。第一に、V字で作られた角度と魚の骨模様に見られる角度の一致を確認することができる。Vercelli (2010, p.36)によれば、魚の骨柄の針峰は縦方向に対して32~33度以上傾いている。したがって、V字の角度は64~66°と予想される。聖骸布の写真を使った私たち自身の測定では、64~66°をやや上回る値が出る傾向がある。全体として、対応関係は非常に良好である。私たちは、この一致が偶然の産物である確率を1:3と見積もっている。

 

 次に、針峰が、格子に対応している方向に傾いているかどうかを確認することができる。これは確かにそうであることがわかる:鼻の部分の対称軸(格子がそれに達している)とそのすぐ左側では、針峰は格子と同じように左上から右下に向かっている。鼻の右側、中央のひだが走っているところでは、針峰の方向が逆になり、これは「V」に対する聖バルトロメオの位置(図10のオレンジ色の線)が示唆する方向と一致する。この対応が偶然に起こる確率は1:2とすることができる。

 観察された一致の全体的な推定確率は1:6であり、有意ではない。

 しかし、ミケランジェロが本当に聖骸布の織り構造をコード化したことを証明する、さらに非常に驚くべき詳細がある。

 ミケランジェロの絵の中で、聖ローレンスは極めて異例でぎこちない方法で格子を手にしている。このような格子は、この聖人の標準的なアトリビュートである。しかし、ミケランジェロの「最後の審判」を除けば、聖人ローレンスが腕を、いわば格子の間を縫うように持っている姿は描かれていない。よく見ると、右腕、手、指は、格子の連続する3本の横木を越えているのである。

 聖骸布のリネンでは、縦糸は聖骸布の像の主軸と平行に、絵画の垂直方向と対応する縦方向に走っている。もちろん、横糸は縦糸と直交している。したがってその方向は、フレスコ画における水平に対応する。実際、絵画上では厳密に水平である格子縞の横木は、一連の横糸を表している。聖ローレンスの腕は、格子の中を縫っているように見え、連続する3本の横木を越えているが、これは3本の横糸を越える縦糸を表している。実際、聖骸布に見られる顕著なフィッシュボーン(魚の骨)模様は、縦糸が横糸の三つ組を越えるたびに、四つ目の横糸の下を通るという、非常に特殊な織り方のパターンから生まれている(図11)。

 一方では格子縞、他方では聖骸布の布地構造の間に、偶然の産物だけでこのような多面的な同型性(魚の骨模様の角度や方向と、その下にある織り模様の構造との組み合わせの表現)が生まれた可能性は、明らかに非常に低い。さらに、聖ローレンスの格子の意味に関するこの解釈は、元々の折り目や中央の折り目など、生地の他の詳細も同じ絵の中で暗号化されているという観察とうまく一致する。明らかに、ミケランジェロ聖骸布のこれらの非常に特殊な性質を知っていたのである。彼は、自身でこの対象について深く研究していたか、あるいはそうしている他の人々と接触していたのだろう。

 

結論

 ミケランジェロトリノの聖骸布最後の審判のテンプレートとして使用した。彼がトリノの聖骸布を本物のイエスの埋葬の骸布と考えていたことは疑う余地がない。彼はこの絵の中に、その対象から、そのイメージから、そしてその生地から得た多くの要素を封じ込めた。そして明らかに、彼はこの物体に関する非常に広範な知識を持っていた。ミケランジェロトリノの聖骸布フレスコ画のテンプレートとして、また非常に多くの絵画的ディテールの隠れたソースとして使用したという事実は、キリスト教美術における秘教的側面の重要な例を構成している。

 フレスコ画を構成する隠されたソースとしてトリノの聖骸布を使うという決定は、ミケランジェロの気まぐれではなかった。聖骸布を使ったのは、彼が最後の審判の本質と信じているもののゆえである。彼の考えでは、最後の審判ではすべての人間が、キリストの受難を、前に見たように、言わば、キリスト自身の目を通して振り返る。そして、こうして振り返って、人間存在が、自分自身の最終的な審判者となるのだ。ミケランジェロは、トリノの聖骸布をこのキリストの受難-それは最後の審判の核心に置かれることになるもの-の際だった遺物と考えていたのは間違いない。それゆえ、聖骸布に描かれた顔をテンプレート、そして絵画のインスピレーションの源とすることは、彼にとって論理的なことだった。

 また、預言者ヨナがフレスコ画の上に描かれたのは、それに関連した理由からではないかと推測できる。ヨナはマタイによる福音書(12:38-41)で言及されている。この箇所では、ファリサイ派の人々が、キリストがご自分について語った主張の証拠として、キリストからのしるしを求めていると語られている。キリストは答える: 「邪悪で姦淫な世代は、しるしを求める!しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、だれもしるしを与えられない。ヨナが三日三晩、巨大な魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中心heartにいる21」【訳注】。つまり、キリストが約束した「しるし」とは、キリストの死と復活なのだ。確かに、聖骸布に描かれた像はキリストが約束した "しるし "とは考えられない。しかし、ミケランジェロの目には、トリノの聖骸布が「キリストのしるし」の第一のしるしであったことは明らかである。

 

【訳注】ヨナは、三日三晩、巨大な魚の腹の中にいて、その後それを抜け出した。これは、キリストが、磔刑の後に埋葬され、その後復活したことを予示するものでもある。

 

21 「地の中心heart(言わばmidpoint)」から見ると、常に昼と夜が同時に存在する。地球の片側で12時間の昼があるごとに、反対側では12時間の夜がある。つまり、「三日三晩」という表現は、「地球の中心で」という指定と組み合わされ、地球の自転の1.5回転、あるいは約36時間に相当する時間の経過を指している。これは、33年4月3日(金)午後15時のキリストの死から、33年4月5日(日)未明の復活-その時、空に広がっていたイースターの十字架の星空の下を、最初の弟子たちが丘の斜面を登り始めた-までの時間間隔に相当する。

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 以上のフェルハルスト氏の分析は、単に形態的共通点だけを示すのではなく、ミケランジェロ最後の審判は、それについての彼の神学的理解・解釈から構図が構想されたとして説明しており、結構説得力のある内容ではなかろうか。聖骸布を下敷きにするということは、ミケランジェロの考える最後の審判の意味から導かれたものなのだ。

 ここで特にこの論考から学ぶべきことの一つは、ルネサンス期の芸術家達は、キリスト教(場合によっては秘教的キリスト教)の知識を十分に備えており、その思想をその作品に盛り込んでいたということである。

 ミケランジェロが「二人の子どもイエス」の考えを同じシスティーナ礼拝堂の天井画に盛り込んでいたことは既にこのブログで取り上げている。

「二人の子どもイエス」とは㉓」https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2022/04/26/082626

 ここでは、特に、信仰の本拠地の壁画を描くという大事業を行なうというものである。ミケランジェロは、自己の持てるすべの能力や(秘教的なものも含めて)知識をそこに全て傾注したであろうと想像できる。結果して、芸術史に残る大傑作が生まれたのである。

 それゆえ、その作品は、そうした知識がなかったとしても、見る者の心に訴える力を有しているのだ。

 しかし、そこに密かに込められた秘密を知ると、一層その作品の偉大さを感じるのである。

 

 さて、本文の最後にヨナの話が出てきたが、ヨナが魚の体内に三日三晩いたというのは、彼の秘儀参入を意味しているという説がある。新約聖書にでてくるラザロの復活も実は秘儀参入であったとするのがシュタイナーの主張である。大きな意味では、キリストの埋葬から復活までもこの文脈で捉えることが出来るようである。ポイントは、「三日三晩」という表現である。通常秘儀参入には「三日三晩」を要するというのだ。

 フェルハルスト氏の、キリストの埋葬から復活までが約36時間とする解釈は、なるほどと思わせるものがある。単純に「三日三晩」とすると丸々3日間となるが、それではキリストの埋葬から復活まで、3日の午後から5日の朝までの時間と合わなくなってしまうが、フェルハルスト氏の説明のように解釈すれば、両者は合致するのである。

 今回、フェルハルスト氏の上の論考を訳すにあたり、改めて彼の他の論考も眺めてみたが(ネットから無料で取得できる)、色々面白いものが見つかった。また、以前購入した本に(まだ未読だったので気づかなかったのだが)フェルハルスト氏の著作があったので、見直したところ、これも大変興味深いものであった。いずれこれらも紹介していきたいと思う。

ミケランジェロ「最後の審判」と聖骸布の秘密の関係【前編】

聖骸布(上半分は体の裏側、下半分は表側を示している)

 「聖遺物」は昔から信仰の対象となり、どの宗教でも大切に守られてきた。仏教では、シャカの骨を納めた仏舎利塔というものがある(これが五重塔などに発展する)。キリスト教では、キリストは復活して墓には遺体が残っていなかったとされるので、遺体にまつわるものはないが、磔刑の時の十字架や槍(の一部)とされるものがあちこちの教会に保存され、多くの信者によって礼拝されている。

 それらのキリスト教の聖遺物は、キリストは罪人として処刑されたのであるから、当時の十字架などが直ぐに信者によって大事に保存され、それが引き継がれてきたということではなかったようで、後のキリスト教徒が「発見」したものである。伝説によれば、3世紀の初めにコンスタンティヌス帝の母ヘレナがエルサレムゴルゴタの丘を発掘させて、十字架や釘、イバラの冠などを発見し、ヘレナが亡きあとは、それらが細かく分割されて各地の教会に与えられたということになっているようである。

 その真贋の科学的な検証が行なわれたかは、自分は知らないが、それらは信仰の対象であり、外野がとやかく言う必要は無いだろう。

 だが、実際にこれまで科学的な検証が行なわれ、論争が続いている聖遺物が存在する。それが、今回のテーマのトリノの「聖骸布」である。それは、キリストの死体をくるんだ布で、そこにはキリストの姿が写し取られているというものである。

 

 今回紹介するのは、ヨス・フェルハルストJos Verhulst氏という方の、ミケランジェロの「最後の審判」とこの聖骸布の間にある隠された秘密に関するものである。

 フェルハルスト氏は、1949年生まれのベルギー人で、ルーヴァン・カトリック大学で量子化学の博士号を取得した科学者であるが、大学では哲学も学んだ。シュタイナー学校で教鞭をとった後は、人智学系研究所の研究員、政治家、執筆家など様々な活動を展開してきた方である。

 フェルハルスト氏のこの論考はネットでたまたま見かけたのだが、フェルハルスト氏自体は、以前から「二人の子どもイエス論」関係で見かけたことのある方なのだ。ただ少し変わった切り口の論考で私には理解が十分に出来なかったため、まだ紹介したことはない。

 今回の論考には、題名に「shroud」(死体を包む白布、聖骸布)とあったので、聖骸布については以前から関心があったことから、少し読んでみたのだが、その内容は、デイヴォルトという人物の、システィーナ礼拝堂ミケランジェロの『最後の審判』は、この聖骸布のキリストの顔をテンプレート(モデル)として描いたというものであった。

 正直に言うと、初めは、いくら何でもそれは突飛すぎると思ったのだが、読んで分かったのは、その様な説は、これまでも幾度か提出されてきたようなのである。

 そして実際に、このことをふまえて『最後の審判』の絵を見直してみると、確かに、人の顔に見えるのだ!

 

 この論考は、長いので、2回に分けて掲載するが、先ず、ご存じない方のために、聖骸布について若干補足説明をしておきたい。

 

 「聖骸布(せいがいふ、トリノの聖骸布、Holy Shroud)は、キリスト教の聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布。トリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている。

【特徴】

 本体は、縦4.41m、横1.13mの杉綾織の亜麻布(リンネル)である。生成りに近い象牙色の布の上に、痩せた男性の全身像(身長180cm)がネガ状に転写されているように見える。布上に残された全身像の痕跡から、頭を中心に縦に二つ折りにして遺骸を包んだと見られ、頭部、手首、足、脇腹部分には血痕が残っている。1532年にフランス・シャンベリの教会にて保管されていた際に火災に遭い、その一部を損傷した。1978年の科学調査では、血は人間のものであり血液型もAB型と証明された[5]。聖骸布の裏側には人物の姿は見られず、血のしみ込みのみが見られた。」(ウィキペディア

 元々は、1353年に、伝来の経緯は不明であったが、フランスで発見されたもので、その後、保管場所が変遷し、結局今のトリノに落ち着いたようである。

 「1898年にイタリアの弁護士・アマチュア写真家セコンド・ピアが、初めて聖骸布の写真を撮影し、1983年にサヴォイ家からローマ教皇に所有権が引き渡され、以降はトリノ大司教によって管理されている。」(同上)

 このピアの写真撮影が、聖骸布研究の一つの転機となったとされる。聖骸布に写し取られている姿は写真で言う「ネガ」であり、ピアの写真によってこれが反転し、通常の写真のように、自然な姿で詳細にはっきりと見えるようになったからである。

 これまで幾度か、科学的調査が行なわれており、1988年の調査では、放射性炭素年代測定(炭素14法年代測定)が行われ、その結果、この布自体の織布期は1260年から1390年の間の中世である、と推定された。

 しかしこの年代測定には疑義も提出されており、「ヴァチカンは1年後に、炭素14法年代測定結果を無視すると発表した。」(同上)

 一方、布に付着した植物痕、花粉などは、まさにパレスティナ地方との関連を示しており、その布の織り方も、死海のほとりにあるマサダ(要塞)の遺跡で発見された生地と同様の、独特の縫い方であると判明しているという。

 最も不思議なのは、そして聖骸布が真正のものであることを予感させるのは、その姿がどのようにして布に写し取られたかが分からないことである。

 「本物説の補強材料として、布に写し出されたネガ状の全身像特有の色の濃淡、筆あとの無さ、画像の表層性などが生じた過程は科学的に説明や再現ができないと主張されることもある」(同上)のである。

 つまり、この人物の姿は、単純に布に筆等で描いたのではないかと考えられそうだが、そのような痕跡は見えないのだ。むしろ、手法として似ているのは写真であり、人の全身が、何らかの方法でまさに布に焼き付けられたと考えられ、その方法は謎となっているのである。(再現実験を行ない成功したという主張もあるようだが、まだ結論は出ていない。)

 ちなみに、作成年代は古代ではなく中世としても、上のことから、この聖骸布のようなものを造り出すことは常人にはもちろん無理なことであろう。このようなことから、レオナルド・ダビンチをその制作者とする説も生まれてくるのである。

 しかし、もしそれが人工のものであるなら、類似するものが他にあってもおかしくないだろう。だが、聖骸布は唯一無二のものである。このようなものは、他には存在しないのだ。これはある意味奇跡の品であり、真の聖遺物と考える人がいるのも無理のないことなのである。

  以下のフェルハルスト氏の論考は、聖骸布の真贋については触れていないが、この説の元々の提唱者であるフィリップ・デイヴォルト氏は、それがまさにイエスの遺体を包んだ聖なる布であると信じているようである。

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ミケランジェロの『最後の審判』におけるトリノ骸布の顔の埋め込み

デイヴォルト仮説の実証(前編)

ヨス・フェルハルスト

はじめに

 

最後の審判」は、システィーナ礼拝堂バチカン市国)にあるミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)による大きなフレスコ画(13,70 m x 12,00 m; 180,21 m2)である。この絵画は1533年から1541年にかけて制作され、391人の人物が描かれている。

 

 2012年10月、フィリップ・デイヴォルト1が、トリノの聖骸布に描かれた顔がミケランジェロの「最後の審判」のテンプレートとして使われたという考えを紹介した。フレスコ画の眼は顔の眼に、絵の中心的なグループ(キリストとその母、聖ローレンスと聖バルトロマイ)は鼻に、ラッパを吹く天使の一群は口の下辺りに、それぞれ対応すると提唱された(図1)。

 

 本稿では、デイヴォルト仮説が成り立つことを示す。

図1:デイヴォルト仮説の概要。フレスコ画は長方形の上に2つのルネット【半円形部分】が乗っている形をしている。この仮説によれば、眉毛の形をしたルネットは「聖骸布の男」の目に相当する。キリストとその母を含み、聖ローレンスと聖バルトロメオがその足元にいる洋ナシ型の中央の群像は、鼻に対応している。デイヴォルトは、聖骸布の顔のいくつかの特徴(ひげの部分が左にずれていること、左の鼻孔に角度のついた印があること、右の鼻孔に円形の印があることなど)を指摘している。

 

1 http://www.datument.com/encoded-article.html

 

方法論的所見

 ミケランジェロは、同時代の伝記作家から、作品に秘密の内容を埋め込んでいると言われている2。 しかし、「最後の審判」のような絵画に隠された形態を特定するのは、微妙な作業である。パレイドリア現象【訳注】は、時折、希望的観測やデータの事後的解釈と相まって、調査者を容易に惑わす。

 

【訳注】パレイドリア(英: Pareidolia)とは、心理現象の一種。視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる現象を指す。(ウィキペディア

 

 システィーナ礼拝堂については、隠されたメッセージや埋め込まれた形態の同定が数多く提案されている。その一例として、ミケランジェロシスティーナ礼拝堂の天井に描いた絵の解剖学的解釈を考えることができる。メシュベルガー3は、「アダムの創造」に描かれた神は、人間の脳の解剖学的イメージの中に置かれていると提唱した。エクノヤン4は、隣接するフレスコ画「水から大地を切り離す神」において、創造主は人間の腎臓の解剖学的描写の中に置かれていると提唱した。SukとTamargo5によれば、ミケランジェロは「光と闇の分離」を脳幹の前面図に隠している。ミケランジェロが多くの解剖学的研究を行い、非常に多くの解剖を行ったことはよく知られているので、これらの同定はあり得ないことではない。

 

 第二の例として、ダンテの横顔を挙げることができる。ホアキン・ディアス・ゴンサレス6によれば、この横顔はミケランジェロの『最後の審判』に取り入れられているという。ここでも、(ダンテの大賞賛者であった)ミケランジェロについて知られていることと一致しており、この発見も受け入れられそうであると言える。

 とはいえ、これらの提案された解釈はすべて証明されないままである。というのも、いずれの場合も論証は事後的なものだったからである。まず第一に、研究者は絵の中に埋め込まれているようなある形状や形姿に衝撃を受ける。その後、その形姿を呼び起こした同じ絵の細部が、その形姿が画家によって意図的に作られたことを示す証拠として再利用される。形姿を認識するきっかけとなった絵画的要素は、まさに同じ形姿の錯覚でないことの証拠として再び使われる。しかし、形姿の認識を誘発した細部は、形姿が作品の中に意図的に埋め込まれたことの証明にはならない。なぜなら、予期せぬ形姿を呼び起こす細部の最初の集まりは、単なる偶然によって生み出された可能性があるからだ。

 

2 ヴァレリー・シュリンプリン(ミケランジェロの「最後の審判」における太陽の象徴と宇宙論) Kirksville: Truman State UP 2000, p.xiii)は、ミケランジェロと同時代のピエトロ・アレティーノの見解を引用している: 「ミケランジェロは、人間と神の哲学の謎を、俗人には理解できないようにベールの下に隠した偉大な哲学者たちを模倣した。」

3 Meshberger, F. (1990) 神経解剖学に基づくミケランジェロの「アダムの創造」の解釈。

JAMA, 264, p.1837-1841.

4 Eknoyan, Garabed (2000) Michelangelo: 「芸術、解剖学、腎臓 腎臓」インターナショナル37, p.1190-1201

5 Suk, Ian & Tamargo, Rafael (2009) 「ミケランジェロシスティーナ礼拝堂における『光と闇の分離』における隠された神経解剖学的特徴」神経外科 66, p.851-861

6 Joaquín Díaz González (1951, 1956) ミケランジェロの「普遍の詩」における芸術の重大な秘密の発見。

「Miguel Ángel Barcelona (Spain): Seix y Barral. イタリア語版もある(1951年、1954年): Scoperta d'un grande segreto dell'art nel giudizio universale di Michelangelo ローマ(イタリア): Belardetti (初版は異なるタイトルで出版された)。

 

 従って、この形姿の知覚を誘発する絵画の要素は、「作業仮説」の確立のためにのみ使用されるべきである。第二段階では、この作業仮説(すなわち、「知覚された形や形姿は、作者が意図的に作品に組み込んだものである」)から、検証すべき予測を導き出すことができる。重要なことは、これらの予測は、作業仮説の定式化を誘発した要素から完全に独立した絵画的要素に言及しなければならないということである。

 

デイヴォルトの仮説を確認する定量化可能な要素

 デイヴォルト7以前にも、ミケランジェロが「最後の審判」を顔の輪郭を下敷きにして構築したという指摘はあった8。しかし、この顔がトリノの聖骸布に描かれた男の顔であると最初に特定したのはデイヴォルトだった。デイヴォルトは2003年1月に「最後の審判」に描かれた顔を認識した。顔識別のための法医学的手法を用いて、彼はミケランジェロの絵の顔が聖骸布の男の顔であることを特定するいくつかの特徴を示していると結論づけたのである9

 

7 Dayvault, Philip (2012) Encoded. The man of the Shroud of Turin is encoded within the Sistine Chapel frescoes(トリノの聖骸布の男の顔はシスティーナ礼拝堂フレスコ画の中に暗号化されている) Paper published online, retrieved dec.2013 http://www.datument.com/uploads/1/2/7/9/12790801/encoded-article-de_website-download-r-1-21-13.pdf

8 スー・ビンクリーによる驚くべき描写がある。

「礼拝堂の丸天井は目と眉を形作っている。目、鼻、口の部分は瑠璃色で、まるで頭蓋骨の中に入って青い空を眺めているかのようだ。もしシスティーナ礼拝堂を頭蓋骨の彫刻として想像するならば、そして彫刻家ミケランジェロがそうしたと考えるならば、彼が描いたのは『松果体』(第三の目と呼ばれることもある)の眺めである。- 裸の人々は、口となる穴の中で吹きならすカケス」(Biological Clocks: Your Owner's Manual Newark NJ: Harwood Academic Publ. 1997, p.121)。」

9 デイヴォルトによれば、ミケランジェロは意識することなく、フレスコ画の中で顔を符号化したという。デイヴォルトは、ミケランジェロの著作や初期の伝記にトリノの聖骸布についての記述がないことを指摘している。しかし、証拠がないことは、不存在の証拠にはならない。キリスト教の芸術と文学において、神聖な知識を「ベールの下に」隠すという伝統は、最初から存在していた(マタイ.7:6; マルコ.4:11-12; 2ヨハネ.1:12; 3ヨハネ.1:13)。このキリスト教の秘密の伝統を擁護し、説明している教父については、次を参照。Strousma, Guy. (1996) Hidden Wisdom. Esoteric traditions & the roots of christian mysticism Leiden: Brill.

 

 「ミケランジェロ最後の審判は、トリノの聖骸布に描かれた顔をテンプレートにして描かれた可能性がある」という我々の作業仮説を検証するために、我々は、デイヴォルトの観察を利用する。この仮説を検証するには、デイヴォルトが考慮しなかった顔の特徴を探さなければならない。その求められる特徴は、顕著で、聖骸布の顔のイメージの特徴を表わすものでなければならない。しかも、その特徴は何らかの方法で数値化できるものであることがのぞましい。

 このような特質を持つ特徴は確かに特定できる(図2と3)。聖骸布の顔には非常に目立つ傷があり、ピエール・バルベの古典的著作では次のように説明されている10。「...最も目立つ病変は、右側の眼窩下にある三角形の擦り傷である。この三角形の底辺は約2cmで、頂部は上方、中央を向いており、鼻の上3分の1と中央3分の1を隔てる位置にある別の擦過傷に達している。その位置では、軟骨が鼻骨(無傷のまま残っている)とつながっている部分のごく近くで、軟骨が折れているため鼻が変形している。明らかに、これらの傷害の総体は(中略)イエスの右手に立っていた加害者によって操作された直径4~5センチの棒の衝撃によって引き起こされた。」

 

10 「...la lésion la plus évidente est faite d’une large excoriation de forme triangulaire dans la région sousorbitaire droite. Sa base a deux centimètres: sa pointe se dirige en haut et en dedans, pour rejoindre une autre zone excoriée sur le nez, entre son tiers moyen et son tiers supérieur. A ce niveau, le nez est déformé par une fracture du cartilage dorsal, tout près de son insertion sur l’os nasal, qui, lui, est intact. L’ensemble de ces lésions semble bien avoir été produit (...) par un bâton ayant un diamètre de 4 à 5 centimètres, et manié」p.105参照: Pierre Barbet (1950) La Passion de N.-S. Issoudun (France): Dillen & Co.

 

 バルベに倣えば、図2に示す衝撃線の位置(鼻背の軟骨が始まる点を通る)と方向(水平に対して18°+/-1°)が、聖骸布の顔面に認められる最も顕著な外傷と関連していることは疑いない。したがって、この衝撃線は、その正確な位置と方向とともに、聖骸布の顔を特徴づける顕著で非常に特異な特徴である。

 これは聖骸布の顔の特徴であり、デイヴォルトでは議論されなかった。ある顔の画像にこの線が描かれていれば、その画像が聖骸布の顔に由来することを証明することになる。ミケランジェロの『最後の審判』には、これから見るように、この衝撃のラインが表現されているのである。したがって、そのフレスコ画に描かれた顔は聖骸布の顔に由来するものであり、デイヴォルト仮説は裏付けられることになるのである。

 

 図2(下)は、聖骸布の顔の衝撃線に対応するフレスコ画の線を示している。この線は、聖ペテロが持っていた2つの鍵に沿って走っていることが明らかであり、あたかもこれらの鍵が衝撃線の位置と方向の両方を示しているかのように、これらの鍵と平行に走っている。また、この一対の「鍵の線」は、フレスコ画全体に伸ばすと、絵に描かれた二つの主要な十字架を結んでいることがわかる。より具体的には、これらの線は、両十字架の基部が保持されている点を結んでいる(右端の十字架はキュレネのシモンが持っている)。フレスコ画全体を観察してみると、一対の鍵によって指定された線ほど、正確かつ顕著な形で示された線は他にないことがわかる。図2のオレンジ色の線は、それぞれ鍵とバットの衝撃によって固定されたもので、基本となる顔に対する位置と方向が同じである。この一致は偶然の結果とは考えにくい。控えめに±2°の範囲とすると、両方の方向が一致する確率は約1:20である。これらの同じ線が同じ点を中心に面の対称軸を切る確率は、これもまたせいぜい1:20である。したがって、図2と図3の線が対応する位置にある確率は1:400以下である。我々は、聖骸布上の衝撃線とミケランジェロの絵に描かれた一対の重要な線は、その基本となる顔に対して同じ位置を共有していると結論づける。

 

 しかし、この話にはまだ続きがある。両方の画像の線の意味的側面も密接に関連している。聖骸布の顔に描かれた線は、キリストが受難の際に受けた一撃を意味している。この一撃は絵の上でも模倣されており、鍵を持って険しい表情をした聖ペテロがキリストに仮想の一撃を与えている。

 聖ペテロが非常に独特な方法で鍵を持っていることに注目してほしい。【二つの】鍵が互いに平行に、また聖ペテロの視線と平行に置かれているだけでなく-これはすでに非常に珍しいことである-しかも、鍵はキリストの方を向けている。鍵の線を観察すると、キリストは鍵から発せられる仮想のストロークを避けるかのように、これらの線に反応しているように見える(図3)。キリストのジェスチャーは、ほとんどの場合、呪われた者を拒絶するサインとして解釈される。しかし、ミケランジェロのキリストには、苛立ちや憤り、拒絶の表情は見られない。それどころか、キリストもその母も、中立と完全な諦めを表している。聖ペテロの憂鬱な表情、周囲の聖人たちの間に表れている困惑、そしてキリストの防御的な身振りは、すべて同じ解釈を指し示している: 聖ペテロは、キリストが受難の際に受けた顔面への一撃を模倣しているのだ。

 

 どうやらミケランジェロは、この驚くべき再現によって、明確に定義された神学的概念を描きたかったようだ。彼の絵では、最初の使徒が全人類の代理人となっているのだ。聖ペテロによって加えられた明白な打撃は、人間の罪によってキリストが傷つけられたことを表している。最後の審判では、すべての人間の魂が過去の罪を自覚する。これらの罪は、キリストに与えられた多くの打撃と同じであると認識されるようになる。聖ペトロを取り囲む聖人たちが激しい憤慨と苦悩を表すのはこのためである。彼らの顔には狼狽が表れ、悲しみのあまり両手が挙げられているのは、自ら自身の罪がキリストに与える影響を見つめているからである。ミケランジェロによれば、最後の審判のとき、私たちは自分の罪を自覚するが、それは、人間の悪行ひとつひとつを残忍な一撃のように受け止めるキリストの視点から見るようになるのである。

 

 ミケランジェロの描写では、キリストの受難の再現が最後の審判の中核をなす。円形部の中で、十字架と、鞭打ちの柱が、再び建てられる途上にあるのもそのためである。その根底にあるのは、キリストの目が、最後の審判において、人間一人ひとりの目になるという考え方のようだ。ミケランジェロが『最後の審判』で表現したこの見方は、福音書11で表現されている見方と一致している。それは次のように要約できる: キリストは裁かず、拒まない。しかし、最後の審判では、すべての人間の魂、すべての人間の精神が、主の受難を振り返り、キリストの視点からすべての人がキリストを見、キリストの言動を思い出す。そして、そのような背景のもとで、人間一人ひとりが自分自身を裁く者となる。

 

11 ヨハネ 12:44 そこでイエスは叫ばれた、「人がわたしを信じるとき、それはわたしだけを信じるのではなく、わたしをお遣わしになった方を信じるのである。45 その人がわたしを見るとき、わたしを遣わした方を見るのである。46 わたしは光として世に来たのであって、わたしを信じる者が暗闇にとどまることがないようにしたのである。47 わたしの言葉を聞いても、それを守らない人については、わたしは裁かない。わたしは世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たのだから。48 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者にはさばきがある。わたしが語ったそのことばが、終わりの日にその人をさばくのである(...)」。

図2:

上:聖骸布の男が受けた一撃の衝撃線。方向は水平に対して約18度。この衝撃の痕跡は右頬と鼻背の両方に見られる。赤いアスタリスクは、衝撃線のすぐ下にある三日月形の腫れの位置を示している。鼻背は衝突点でわずかにずれている。

下図: 聖ペテロの鍵(オレンジ色の線。図3も参照)が示す線の位置。

 図3:キリストに鍵を向ける聖ペトロと、困惑して反応する周囲の聖人たち。

 

デイヴォールト仮説を裏付けるその他の絵画的要素

 キリストと聖ペテロの奇妙な相互作用に関する我々の解釈が正しければ、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれた他の印象的な細部も、トリノの聖骸布に見られる要素を密かに埋め込んでいると予想できる。実際その通りである。

 

トリノの聖骸布の目の表現としてのルネット(半円形部)

 一方では円形部の中の風景が、他方では聖骸布の顔の眼窩の中に見られる特異なものとの間に明らかな対応関係が存在する。図4(赤とオレンジの矢印)に示すように、左側の眼窩12には十字のような模様があるが、これは垂直方向の「元々の折り目」を横切る小さな局所的な折り目によるものであり、織物の専門家Mechthild Flury-Lemberg13によって次のように述べられている。

 

12 この論文では、図2、図4、または図5に描かれた面に関して、「左」と「右」という用語を使う。これらの写真では、額の血痕は「ε」のように見える。この向きは、聖骸布に見られる向きと同じであり、ミケランジェロ最後の審判のテンプレートとして使用した向きでもある。しかし、聖骸布に写し取られた像は、写し取られた遺体を映し出していることに注意すべきである。例えば、原像あるいは "身体像 "では、ε型の血痕は "3 "に見えたに違いない。

13 Mechthild Flury-Lemberg (2003) Sindone 2002.  L'intervento conservativo.  Konservierung Turin: Editrice ODPF; p.43. また、図4には「中心の折り目」の位置も示されている。この折り目は聖骸布の中心軸上にあり、「......布は、その貴重な内容を保護するために、非常に早い時期から、画像が内側になるように縦に折られていた」ことにより作られた。(Flury-Lemberg 2003, p.42; 図10のキャプションも参照)

 

 「中央の折り目から数センチしか離れていないところに、2本目の、より繊細でしっかりと刻まれたV字型の溝がある。聖骸布が完成した後の最初の折り畳みであることから、私はこれを「元々の折り目」と呼びたい。今日でも新しい布地に見られるこの種の非常に顕著な折り目は、初期の絹織物にも保存されており、11世紀のベル型のチャズブルにも繰り返し観察されている。これらの折り目は生地の製造過程によるもので、生地を使用した結果ではない。」

 

 聖骸布に描かれたこの十字架のような模様は、左の円形部に描かれた十字架と対応しているようだ。聖骸布に描かれた他の細部もまた、元々の襞を示すものであることがわかるだろう。

 右側の眼窩には、リネン生地の欠陥に起因する縦縞模様が見られる。そのような縦縞のひとつが図4(緑の矢印)に示されている。どうやらミケランジェロは、右側の眼窩に鞭打ちの柱を置く際に、この模様に触発されたようだ。

 フレスコ画では、十字架も柱も、聖骸布の模様が示唆する垂直の位置に向かって、再び立て直されている状況が表現されている(図4)。ミケランジェロは、あたかもAD33.4.314の金曜日の出来事【鞭打ちと磔刑】が繰り返されるかのような、十字架と円柱の両方を再び建てられる過程にあるダイナミックなイメージを作り出したのである。

 

【以下、後編に続く】

フリーメイソンと世界大戦②

 アメリカのFOXテレビの人気政治トークショウの司会者だったタッカー・カールソン氏が、ロシアのプーチン大統領にインタビューしたことが、(日本を除く)世界中で話題になっている。
 カールソン氏は、親トランプで、アメリカのウクライナ支援を厳しく批判してきたことから、FOXテレビから追い出されたのだが、今でも根強い人気があり、そのネットでの情報発信はテレビよりも影響力があるとされる。
 今回、プーチン大統領にインタビューしたのは、これまでのウクライナ支援の問題追及の延長戦で、西側の主流メディアがロシアの主張を全く取り上げず、一方的な情報になっているからだという。
 これに西側の各国政府は、「真実が明らかになってしまうと」慌てているとされ、アメリカでは、カールソン氏の帰国の禁止や逮捕、UEでは入国禁止などの話が出ているという。
 「陰謀論」界隈では、このインタビューに期待する声が大いに盛り上がっているようである。公開は明日の予定である。

 さて、今回は「フリーメイソンの歴史」の第2回目である。

 前回は、カルル・ハイゼ氏の『協商フリーメイソンと世界大戦』から序言部分を掲載したが、今回はそれに続く、フリーメイソンにつての概論的説明である。
 ここでは、前回①で述べられていたように、本来、フリーメイソンは、特定宗教や政治の思惑から無縁であったのだが、やがてそれが変質していく過程にも触れられている。それは、主にイギリスのフリーメイソンに関する話となるのだが、イギリスにおいては、当初から、特定のグループの政治的目的のために活動する組織であったと説明されている。
 これに対してフリーメイソンの本来の理念、理想を維持していたのがドイツ系のフリーメイソンであり、そこから、人類の文明に貢献するゲーテのような偉大な人物達が生まれてきたというのだ。
 また、フリーメイソンは特定の信仰にこだわらないため、カトリック自身は否定するが、カトリックを含む宗教者がメイソンであることも可能であったという。

 本文の前に、前回詳しく触れなかったハイゼ氏 (Karl Hermann Heise、1872年11月27日- 1939年8月18日)の略歴について紹介したい。

 ウィキペディアにもハイゼ氏の項目があるが、ハイゼ氏の『オカルト・ロッジ』の記載と合わせて述べれば次のようである。

 ハイゼ氏は、ベルリンで、父から印刷技術を学び、チューリッヒで植字工として働いた。ドイツ語のウィキペディアでは、「彼は民族的なルーン文字神秘主義者であるアリオソフィストのグイド・フォン・リストの支持者で、チューリッヒ人智学協会とマズダズナンの宗教のメンバーだった。彼は後に新しく設立されたイルミナティ教団に加わった。彼の『協商フリーメーソンと世界大戦』は、反ユダヤ主義と反フリーメーソンの陰謀文学の古典」とあり、評価としては、批判的なニュアンスが加えられているように見える。

 彼の著作(『オカルト・ロッジ』)の記述によれば、シュタイナーが、英国のロッジの秘密地図について講演し、「誰かがこれらのことを扱い、書くべきだ」と発言したことを聞いて、フリーメイソンに関する著作の執筆を決めたという。

 彼は、「メーソンの思想にいつも熱中していた・・・自身はフリーメーソンになったことはなかったが、フリーメーソンについて知ることのできるものはすべて--すでに何年も--読んでいた」という。

 シュタイナーは、彼の最初の本である『協商フリーメイソンと世界大戦』に、献辞を送っただけでなく、その出版費用の一部を提供したという。

 しかし、シュタイナーの献辞については、その本の内容から、それによってシュタイナーが更に今以上に攻撃を受ける危険性があるために、掲載を見送ったという(私が購入した本にシュタイナーの文章がなかった理由はこれであったようだ。もともと付いていなかったのだ)。

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一般的な考察

 ここで、ロッジについての一般的な事実から、詳細な考察を始めることにしよう。最初に言っておかなければならないのは、ロッジにはたくさんの色合いがあるということだ。実際、非常に多くのロッジがあるため、最も学識のある団員メイソンでさえ、それらを完全に探求することはできていない。団員 J. D. Buck博士(F.T.S.S.R., - 32.-)は、その著書『神秘のメイソンリー』9ページ(Berlin-Großlichter-felde 1908年)の中で、メイソンリーに導入された800の異なる階位について述べている。ベルギーの団員 J.M.ラゴン1)(最も著名なメイソン入門者の一人)は、その『Rituels maeonniques』の中で、105の異なるメイソン組織、48の儀式、30つの秘密結社、1400以上の階位について述べている!パリのメイソン作家フュスティエ(フランスのグランド・オリエントの幹部)は、40数種類のメイソン高位の階位のコレクションを持っており、メイソン界には少なくとも数千の異なる階位に関する文献がある。これだけあれば、バック博士と同じように言うことができる。「メイソンの正当な歴史については何も知られていない。ある時代に特定の組織や運動が存在し、意見の相違や外部からの迫害のために消滅したことを伝える支離滅裂な事実や断片があるだけである。」

 それでも、多くのことを知ることができる。そして私たちは、何十年も "その渦中 "にいた人々のためにも、いくつかのことを明らかにするよう努める。

 しばしば“青いロッジ"2)について語られる。しかし、これまでは、それぞれの階位や階位グループ、あるいはそれぞれの役職が独自の色を持っていた;

 

1)「団員ラゴンの死によって、フランスのメイソン友愛会は、メイソンに歴史を研究するよう促そうとする力を失った。なぜなら、そうすることによってのみ、偏見から自由になることができるからである」と、この偉大な人物--彼はまた、同時代で最も傑出したオカルティストの一人でもあったが、1862年に死去した--を称えて、第2巻の『フリーメーソン総覧』p.214に書かれている。

2)A.ホルネファー博士は、キリスト教においても、古いゲルマン宗教においても、青は神聖な色と考えられていたと指摘する。「ヴォータンは聖母マリアのように青いマントを着ている。それはすべての神話を貫いている」「青は洗礼式で子供たちに授けられる衣服の色である。アズール(青)は、神秘的には「深み」または「混沌から勝ち取った世界」を示す。薔薇十字会の著者であるH・ジェニングスは言う。- 青はエジプトのイシスの色であり、オシリスやインドのヴィシュヌは天界の支配者として描かれている。青は修士と職工の衣服の色であり、石工の旗は青い布で作られている。ドルイド教団では、吟遊詩人マスター(Bardd ynys Pryadain)も空色の衣を着ていた。アメリカの神秘の神「ヴィッツリプッツリ」は、紺碧の球体(世界が出現した世界の卵)の上に座っている姿で描かれ、儀式の行列の際には、彼の像は空色の輿に乗せられて運ばれた。インディアンと同様、彼の額と鼻には青い縞模様が描かれ、これは「カーストにおける最高位の記章」であった。最後に、古いユダヤ教のテント(無限の空間の象徴)の主な色として青が選ばれた。現代の高位のアルマネン団員であったウィーンのGuido v. Listはその "Bildersprache der Ario-Germanen "の中で、青は痛みを伴う覚醒の色であり、精神的な内面化と受精の色であると述べていることに注目すべきである。。

 

 フリーメイソンにとって、青は最も神聖な色であり、高位の階位においては、他の色が現れる。アウグスト・ホーネファー博士が『Symbolik der Mysterienbünde』p. 147/48で述べている。青または聖ヨハネの3つの階位に加え、「スコットランドの高位階位」が考慮され、またこれらのうち、影響力のある「灰色ロッジ」(いわゆる「灰色の人々」と呼ばれる人々。これについて、1917年6月15日付の『ノイエ・ズュルヒャー・ナッハリヒテン』は、フランス外交のためにスイスで行われた政治活動に関して、いくつかの「有益な」情報を与えている)、および赤、オレンジ、緑のロッジが考慮される。その理想的な組織において、「ブルー・ロッジ」は今日でも尊敬に値するが、この少数のロッジでさえも、当時の利害関係にまだまみれていないものの、「古い秘儀の継続というよりは、むしろ模倣とみなすことができる」(レボルト博士『メイソンの歴史』): それ自体、「フリーメイソンとは、人間の中に生きる(あまりにも)人間的なものを、神的なものによって征服することであり、道徳と理性によって情念を克服することであり、絶え間ない努力である。. 物質的で感覚的なものに対する精神的なものである」(バック博士、『Mystische' Maurerei』1908年、242ページ)。このような理由から、神への崇拝は、古代の秘儀の知恵の響きとして、時代のあらゆる物質主義的な流れにもかかわらず、今日でも内面的に認識されるメイソンリーにおいて神聖な役割を果たしている。「フリーメイソンは、神を宇宙のマスタービルダーとして崇拝し、その奉仕の中に身を置いている。もしフリーメイソンが神という観念から切り離されるなら、その理想的な努力は永続的な力と最高の目標を失うだろう。神への畏敬の念を見失った者は、ロッジから追放されるであろう」(『Handbuch der Freimauierei』I、p.375)。1813年の英国グランド・ロッジの儀式では、聖書はキリスト教の肯定的な文書として登場し、愛への賛辞の中で、「私たちはキリスト教徒であり、メイソンであることを思い出そう」と述べている。(それにもかかわらず、英国のグランド・ロッジが非キリスト教徒を受け入れたとすれば、『フリーメイソン一般ハンドブック』II、237頁にあるように、-そして残念ながら、このことは破滅的な現在の政治的出来事にとっても決定的なことになっている!- つまり、その代わりに、(イギリスの)ロッジが、非キリスト教国におけるイギリスの影響力とイギリスの支配を促進し、強化する手段とみなされることにより、交易と植民地政策の利益が先ず決定的になっているのである。【訳注】) 「祈りは(また)フリーメイソンの真剣さの本質的かつ必要な表明であり、すべてのロッジの仕事は祈りで始まり、祈りで終わる」("Allgemeines Handbuch der Freimaurerei" I, p. 341): そして、炎の六芒星(キリストのシンボルであり、しばしばダビデの印、あるいはゲルマン語で「シギル・サルマンス」=イニシエートの力の印と呼ばれる)の「G」の文字は、「神」、「幾何学」、「グノーシス」(すなわち、知識と認識)だけでなく、「スウェーデン・システム」のように、「厳格な服従」(厳格に精神化されたメイソンリーにおいて)、「ゴルゴダ」と「ゴットフリート・フォン・ブイヨン」(1096年から1099年にかけて、このブローニュの騎士の下で行われた最初の十字軍を記念して、彼はエルサレム王に選ばれ、聖墳墓の後援者となった)をも意味する。

 「諸国家の差異をもつ様々な義務を決して廃止しないメイソンリー」の目的は、「すべての国々の人々で構成され、科学、道徳、徳の絆で結ばれた新しい民族を創造することである」(参照:アルバート・パイク著『道徳』)。この下では、しかし、現実に追求される国家政策が考えられているのではない。なぜならそれは次の意味だからである。カーストによる偏見をなくし、民族と民族を和解させ、戦争の火種を抑え、「一言で言えば、......永遠の模範に到達すること」を意味していたのである。人間一人ひとりが、自分に与えられたあらゆる能力を自由に開花させ、すべての人の幸福のために力を尽くして協力し、全人類を愛情、知恵、労働によって結ばれた兄弟の家族にする」(リボルド『歴史』p_ 62、バック博士による引用)。ことなのだ。

 

【訳注】イギリスが植民地支配にフリーメイソンを利用したということだが、それに似た例は、まさに日本でも見られるだろう。明治維新の背後にはイギリスの動きがあり、実際にロッジも作られているからである。日本へのこうした影響がいつまで続いた(続いている)かは分からないが、先の大戦後に日本を占領した米軍にフリーメイソン・メンバーがいたことは指摘されている。

 

 古代の秘儀から引き出されたこの非常に独創的なメイソンの目的は、1723年以前の古い「メイソンまたは石工の会則」-それはまた、中世に生まれた、石工職の、しかし純粋に霊的にも理解できる「石工ギルド」としてのいわゆる「自由石工メイソン」に基づいている。-により支えられている。現代のメイソン象徴主義の精緻化(真に思弁的なメイソンリーであり、それ自体は-1月1日付のチャールズ・S・アンのブラヴァツキー宛て手紙によれば-、「1717年のメイソン革命」に始まる。)は、その本質的な特徴と、ロンドン・グランド・ロッジ協会の大多数のロッジによるその採用の中で、1723年から1730年頃までの期間に、団員モンターグ大公1)、アントン・セイヤーズ、デサグリエ博士(ニュートンの弟子)、ワールトン公爵(後者はその後、23年ロンドン協会のグランド・マスターが不可能になった後、分離して「ゴルモン騎士団」の主要な担い手となった)という兄弟たちのグランド・マスターまたはグランド位階の指導の下で行われた。「石工憲章」は、画家でグランド・マスターで、1751年にアイルランドの石工たちによって創設された「グランド・ロッジ・オブ・エンシェント・メイソン」(このグランド・ロッジは、1813年に1717年のロンドン協会のイングリッシュ・メイソン・ロッジと合併し、現在世界的に有名な「ユナイテッド・グランド・ロッジ・オブ・イングランド」を形成した)の魂であった団員ローレンス・ダーモットにより作られた。『Annuaire de la Maconnerie Universelle』によれば、1717年に設立されたイングランド・グランド・ロッジは、1721年にスコットランド長老派の説教者であるアバディーンのジェームス・アンダーソンに、1723年に承認された『会則集』の作成を依頼し、1738年に校訂された。

 

1) このグランド・マスターの記憶は、現在もライム・リージス(ドーセット州)にあるイングリッシュ・ロッジ "Mon, tague "によって尊重されている。

 13 p

 

 団員アンダーソンはしばしば批判されるが、当時のプリンス・オブ・ウェールズは、メイソン団員として、アンダーソンに捧げられた著作を受け入れた。団員ゴットホルト・エフライム・レッシング(ハンブルクのロッジ "Absolom von der strikten Observanz "に最初に参加した偉大なドイツ人詩人)によれば、アンダーソンの会則は、寒々としたいんちき狂詩曲である。ゲオルク・シュスター博士もアンダーソン牧師を高く評価していないようであり、前述の団員チャールズ・サザラン(32階級)【訳注】は、この編纂物は「メイソンの詐欺師の作品」であるとさえ述べている。 確かに、1717年の「革命的メイソンリー」にとって心強い推薦ではない。サザランは、この【改訂前の】会則はイギリスの「自由で認められたメイソン」の新しく開花した最初の偉大なロッジのために書かれたものであり、この組織から、「全地球に広がる他のすべてのロッジはこのロッジから発している」と付け加えた(現代の思弁的ロッジの前には、とりわけ、1650年に早くもロンドンで創設された「愛国的メイソンロッジ」に先行しており、フランツ・フロイデンベルク=ドレスデン医学博士は、彼の "薔薇十字の初期の歴史", p. 25の中で言及している)。32階級の団員サザランもまた、この会則は他のロッジの規則などから編集・改造されたもので、「沼地で育った」と述べている1)。メイソンリーの傑出した著名人の一人によるこの告白によれば、『時代の声』(1917年、p. 260)が言うように、1723/38年の会則集に特徴づけられたメイソンリー-特筆すべきは、ドイツとスイスのメイソンリーを含む現代のすべてのメイソンリーがそこから生まれた-においては、元々のまた真のメイソンとはただ一定の外的形式で一致しており、会則本に取り込んだ文章-しかしそれ自身は、もとより、濁りなく霊的な仕方で、生あるものになることがない-にその意図がある根拠付けが重要であった、と確かに考えることができるだろう。1723年のこの会則集(その一部は、再び発見された70以上の中世フリーメイソンの古い写本に少なからず基づいている)に従った、いわゆる「古い義務」は-後に抜粋された文章はそれに由来する-、常に、一般的に従えば、全世界の救済に役立つとしか言いようがないほど、評価に値するものである。

 

【訳注】イギリスの古物商、書店、ジャーナリストであるが、神智学協会の設立に関与し、ブラヴァツキーらに影響を与えたとされる。

1)サザランのブラヴァツキーへの手紙参照

 

 世界 1901年、ドイツ・フリーメイソン協会発行の『フリーメイソンリー一般ハンドブック』第二巻、150~154頁から引用する:

 

1:「メイソンは道徳律に従う義務があり、その術を正しく理解すれば、神を否定する愚かな者にも、不信心な自由思想家(リベルタン、異端者2))にも決してならない。すべての人の中で彼が最も理解すべきなのは、神は人が見るようには見ないということである。それゆえ、メイソンは特に、自分の良心の命令に背く行為をしてはならない。メイソンは、兄弟愛の堅固で心地よい絆の中で、あらゆる説得力のある高潔な人々と団結する。彼らは、人類の逸脱を憐れみ、自らの行動の清らかさによって、彼らが公言する信仰の優れた功徳を証明するよう努めるように教えられている。

 

2)"Haraesie "は、原語のギリシャ語の秘儀の意味では、より高い召命のために "選ばれる "という意味であり、異端は、中世またはより最近の時代における後の歪曲された言葉の意味においてのみ、"異端 "とみなされる。

 

2.メイソンは、どこに住み、どこで働こうとも、市民当局の平和的臣民であり、人民の平和と福祉に反する陰謀や謀略に関与せず、下級当局に対して義務に反する行為をしない。したがって、兄弟が国家に対する反逆者である場合、その反逆を強化してはならない。

  1. ロッジの会員として認められる者は、善良で忠実な者でなければならない。

4.従って、マスターまたは監視者は、年齢によって選ばれるのではなく、功績によって選ばれなければならない。

5.グランドマスターは、特に功績の大きい者でなければならない。

6.ロッジの門前で論争を持ち込んではならない。ましてや、宗教、国家、憲法について論争してはならない。なぜなら、われわれメイソンは、上記の一般的な宗教を信仰しているだけであり、同様に、われわれはあらゆる国家、言語、民族、言語を信仰しており、ロッジの福祉に好ましいことはこれまでも、これからもないであろう政治への干渉には断固反対する。

 

 さて、ドイツの8つのグランド・ロッジと、ドイツ・グランド・ロッジ連盟の中で互いに結合している5つの独立したドイツ・ロッジは、常にこれらの原則に従ってきたと、明確な良心をもって言うことができる。そしてこのことこそが、おそらく彼らが、最終的に「沼地メイソンリー」として協商兄弟団に蔓延した悪い影響から免れていた理由であろう。しかし、これはおそらく、ドイツ・フリーメイソン全体が、世界大戦勃発時に、協商フリーメイソンの世界的な連鎖から完全に孤立し、拒絶されていた理由でもある-「帝国皇帝の寛容者」であった前の団員フリードリヒ3世の意味で、人類の和解という崇高な理想の意味で、愛と寛容と自由の拠点として。人間性の大聖堂への取り組み--これは常に明確な良心をもって言うことができる--、永遠の思想は、常にドイツのメイソンの焦点であったし、そうあり続けた!J.C.シュワーベが『世界大戦をとおした世界メイソンの新構築』(ベルリン、1918年)の中で述べているように、ドイツは、常に、普遍的な人類思想の祖国であり、団員アレクサンダー・アダムによれば、「人類を精神的、道徳的、社会的堕落と悲惨から救済する愛の業を、フリーメイソンのメシア的使命と」を感じていたからである。

 現代のメイソンリーについてそれなりに詳しい人なら誰でも、「スコティッシュ・ライト(スコットランド儀礼)」が世界大戦にどのような影響を及ぼしたかを知っている。団員サザランは、1877年の時点で、この「古くかつ受け入れられた(古代公認)スコティッシュ・ライト」を「青いロッジによって認められていない」雑種と呼び、さらに、このスコットランド・ライトはもともとイエズス会の Chevalier Ramsay 1【訳注】のアイデアから生まれたものであり、このスコティッシュ・ライトは1736/38年にスチュアートの大義を促進することを意図したものであると付け加えている1)。これは、スコティッシュ・ロッジが最初から政治的なものであったことを特徴づけるものである

 

【訳注】一般にシュヴァリエ・ラムゼイとして知られる、サー・アンドリュー・マイケル・ラムゼイ(Sir Andrew Michael Ramsay、1686年7月9日 - 1743年5月6日)は、スコットランドのエアーでパン屋の息子として生まれた。作家で、成人してからの人生のほとんどをフランスで過ごした。彼はジャコバイト(名誉革命反革命勢力)貴族の男爵だった。ラムゼイは1710年にオランダのフランソワ・フェヌロンを訪れ、彼の静寂主義に惹かれローマ・カトリックに改宗した。

 

1) 『フリーメイソンリー総覧』II、215頁は、アンドリュー・マイケル・ラムゼイを擁護し、ラムゼイの政治的陰謀への参加を否定している。しかし、スチュアート王家の僭称者チャールズ・エドワード【ジャコバイトの主張したイングランドスコットランドの王位継承者(または王位請求者)】の家庭教師として、ラムゼイはエドワードに影響を与えた。チャールズ・エドワード・スチュアートがグランド・マスターであると主張していたことは、『ハンドブック』439ページにも記されており、このスチュアートあるいはその追随者がフリーメイソンの高位階位を政治目的に利用した可能性も認めているいずれにせよ、このスチュアートはメイソンであり、いくつかのロッジは今日でも彼の名を冠しているし、さまざまなメイソンの著作によれば、彼はまた、アラスとトゥールーズのローズ=クレオールのロッジの後援者であり、「エルサレムの神殿」のグランド・マスターであったとされている。実際、団員. ラムゼイは、団員オルレアンのフィリップ2世、聖ラザロ団のグランド・マスターによりフリーメイソンに紹介された。Dr. Ludw. Keller, 『神殿騎士団フリーメイソン』 (Diederichs, Jena)によると、1490年に教皇インノセント8世によって解散させられた聖ラザロ騎士団は、16世紀に再興され、ルドウィグ14世がグランド・マスターの職を引き継いだ。団員. フェネロン大司教は、ラムゼイがプロテスタントイエズス会の信仰を交換した後、ラムゼイをこの聖ラザロ修道団に引き入れた。ケラー博士によれば、ラムゼイはプロテスタントイエズス会の信仰を交換した。団員ケラー博士は、フランスの政策がスチュアート家に有利な方向に向かったとき、ラムゼイはクリスに向かったと付け加えた。ラムゼイが博士号を取得したのは、(ケラーによれば)スチュアート朝代理人とみなされたからである。1723年当時、ラムゼイは「スチュアートの代理人として、誰もが知っている人物」であり、「イングランドのグランド・ロッジは、1717年以来、ハノーファーの保護下で活動していた。ラムゼイはまた、ルイ15世枢機卿フルーリーとも親密な関係にあった。クロースの報告によると、ある晩、カトリック界では「6人以上の騎士がパリでこの聖霊騎士団に入団した」という。グランド・マスターの団員Karl Derwentwaterは、1716年に反乱罪で死刑の判決を受けた(彼は逃亡したが、1746年に運命は彼をつかまえた)。・・・また、(ケラーによれば)このエルサレムの聖なる神殿の高位勲章」は、教皇庁によって禁じられたことはなかった。したがって、団員サザランの言うとおりである。しかし、英国王室をスチュアート家に返還するための努力は完全に失敗した。

 

『時代の声』(1917, p. 267)は、グランド・マスター、公爵フォン・ワルトンが、マドリードの宮廷へのスチュアートの特使として、1728年に最初のスペイン・ロッジを創設したとも述べている2)英国グランド・オリエト・メイソンリーとスコティッシュ・ライトが、当初から英国フリーメイソンリーに蔓延していた底流の影響から解放されていないことは、以下の事実からも明らかである。イングランド連合グランド・ロッジの中では、ベッドフォードのスチュアート・ロッジ、クロイドンのクレアモント・ロッジ、そしてヘイスティングスとウィークスワース(ダービー)のダーウェト・ウォーター・ロッジが、今日でも繁栄しているのだ。

 

2)フランスに関して言えば、そこでも(『国際評論』1917年10月号のレオポルド・カッチャーによれば)フリーメイソンは直ちに大規模な政治組織として登場した。フランスにおけるメイソンの導入は、イングランドにおけるスチュアート朝の復古を支持する立場に直接依存していた。(グランド・マスターのダーウェント・ウォーター卿は1746年、断頭台でこの政策の代償を払わなければならなかった【第5代伯爵はイギリス軍に捕らえられ処刑された】)。こうして英仏メイソンは、新会則が制定されて30年経過するうちに、非政治的であるという基本目標を後回しにした

 

 団員サザランについては、彼はメイソン「ニューヨーク・リベラル・クラブ」の連絡幹事であり、「ロージー・クロス」という現代のイギリスの友愛会の入会者であり、メンフィス儀式の入会者であり、「ニューヨーク・アドヴォケイト」のメイソン編集者であった。しかしキリスト教に対する彼の立場を考慮すると、彼を真のイニシエートとみなすことはできない。というのも、彼は聖書を偽りの啓示とみなし、フランスのグランド・オリエントが無神論者や唯物論者をメイソン兄弟として受け入れることに全面的に同意しているようだったからである。真の薔薇十字団 が同じことをするかどうかは疑問である。しかし、我々はまた、団員サザランが所属していた「ブルー・ロッジ」を含むフリーメイソンリー全体が、恐ろしい袋小路に陥っていることも見ている。「青」であろうと、「灰色」であろうと、「オレンジ」であろうと、ロッジのシステム全体が、時の流れの中で完全に不愉快な袋小路に陥っていることを我々は見ている。その中で、それらは、スコティッシュ・ライトの "灰色とオレンジの男たち "と一緒に、世界大戦に巻き込まれるのを見なければならなくなるのだ。

 我々だけでなく、深く観察する多くの人々にも、しかし、「青」であろうと「灰色」であろうと「オレンジ」であろうと、-- イタリアのように、グランド・オリエントとスコティッシュ・ライトが対立することがあったとしても、-すべてのロッジ存在が時間の経過とともに完全に融合したと思われるのだ。1)

 

1)イタリアの "スコティッシュ・ライト"は、1905年に故フェラ牧師のもとで発展した。グランド・オリエントはパラッツォ・ジュスティニアーニで、スコティッシュ・ライトはピアッツァ・デル・ジェズーで開かれる。1917年7月14日(この日、フランスとイタリアとの間で、イタリアへのトリエンテとダルマチアアルバニアなどの割当ての可否をめぐってロッジの危機が勃発した)までのグランド・オリエントのグランド・マスターは団員エットーレ・フェッラーリで、スコティッシュ・ライトでは、国会議員Cameraが代表していた。 イタリア・グランド・ロッジには、ジョルダーノ・ブルーノ協会、「コルダ・フラトレス」協会、「ラティーナ・ジェンズ」協会、「ダンテ・アリギエーリ」協会がある。最初の3つの団体はフェッラーリによって設立され、社会主義者のボゼッリ首相は「ダンテ・アリギエーリ」協会を長い間率いていた。イタリアのグランド・オリエントには、トリエステ・トリエンツ、ダルマチアなどをイタリアに併合することを宣伝する多数の民族解放主義者の団体も含まれていた。グランド・オリエントは当時、「美術」の全分野とイタリアの大学制度を支配していた(『ノイエ・チュルヒャー・ナッハリヒテン』1917年、205号)。ドイツの団員レオポルド・ヴォルフガングが 『見えない神殿』1916年7号で述べたところによると、サヴェリオ・フェラ司祭の 「スコティッシュ・ライト」は、政治的にやや従順な感じのもの(いわば右翼)であった。フェラのグループには団員アントニオ・サランドラもいる。サン・ジュリアーノに続く主要な聖職者であった彼は、(エットーレ・フェッラーリのもとで)イタリア・メイソン界の「左派」の要求の激化にまったくついていけず、そのため団員ソンニーノ(温情主義でより厳しい論調の人物)が彼の座につき、トリエステ紛争が再燃するまでその座にとどまった。

 

「グランド・オリエント(大東)」は、しばしば「グランド・ロッジ」の別名として使われる。この表現は「東方」のみを意味し、太陽が東から昇る(少なくとも見かけ上は)こと、光が東から来る("ex oriente lux")こと、そして多くの霊的知識が地理的に遠い東方から西方に実際に流れてきたという事実と結びついている。インド、ペルシャカルデア、エジプト、そしてキリスト教の原秘儀に関する限りにおいて。

東方の民族は祈りを東方に向け、神殿の主要な入り口は、キリスト教の教会でさえ、東方に向いていたモーセが設置した天幕(エジプトからの脱出のため)も、入り口の門は東を向いていた。知識の目覚めの夜明けは「魂の東」にあり、ドイツのロッジが「内なるオリエンテ」を習慣に取り入れたのはそのためである。グイド・リストは『アリオゲルマリアの神秘言語』(『研究成果』第6巻391ページ)の中で、「オリエント」が常にインドやペルシャなどを意味すると考えるのは完全な誤解であると明確に指摘している。そして実際、人類の偉大なイニシエーション、ヨーロッパを通過した文化は、常にインドやペルシャからのみ始まったわけではない。ヒマラヤ(ガウリシャンカール)やアララトやオリンポスからだけ始まったわけではない。その例として、古いゲルマン民族や「秘教的キリスト教」(本物の薔薇十字団でもある)のイニシエーションが挙げられる。とはいえ、青や聖ヨハネの階位に「古代公認スコティッシュ儀式」を組み込んだ「大オリエント」は、結局のところ、自分たちがそこで成長すべき本来の基本的義務の基盤を離れ、完全に政治の餌食になってしまったと言える。グイド.V.リストがその著作『Armanenschaft der Ariogermanen』Ⅱの28ページでこう書いているのは、残念ながら正しい。:

 

「個人のメセナティズムに惑わされてはならない。なぜなら、これらの人々は、彼らの事業所が、“アライアンス・イスラディット-ユニヴェルセル”、(協商の)“フリーメイソン”(すなわち、グランド・オリエントとスコティッシュ・ライト)のような、最も多様な会社の下で知られている、一つの(共通の)党の知識のある人物として前面に押したてられた、名義だけの人間だからである。実際、低階級の者は、上位の者が誰で、何をしようとしているのかを知らない。だから偽証を犯すことなく、「(共通の指導者と支配者で結ばれた)大インターナショナル」(政治権力とマインモニズムの支配を目指す)や「未知の上位者」とのつながりについて何も知らないと、冷静に誓うことができるのである

 

 グイド・リストは、ロッジやメイソン的に組織された結社では、宗教的、政治的、商業的方向に関係なく、あらゆる種類の人々、すなわち、最も支離滅裂な外見上は正反対の人々-プロテスタンティズムイエズス会ユダヤ教反ユダヤ主義保守主義社会主義などなど-が集まり、同じ組織の上層部や内部で導く人間や存在に支配されており、.....迷わされていることを強調している。団員.マッケンジー(『メーソニカ百科事典』)もまた、ある種の同胞団員を認めている:「彼らは特別な服装をしていないので、彼らを見分けるのは非常に困難である。なぜなら、彼らは、自分に託された特定の『使命』によって、プロテスタントにもカトリックにも、民主主義者にも貴族にも、無神論者にも敬神な者にも見えるように現われるからだ。彼らのスパイはどこにでもいる1)私たち自身は、やみくもに狂信的に、区別することなくすべてを同じ鍋に放り込むような人間ではない。 しかし、神が神殿を建てれば、ルシファー王はすぐにその隣に礼拝堂を構えるという古いことわざが常に真実であることを、私たちはよく知っている。つまり、ユダ体質がすぐに加わって、財布と大言壮語を借り受け、陰謀や謀略、政治的な裏切りや欺瞞などが行なわれる-それらを人は、しっかりと見張ることができなかったし今も出来ない-ことがない理想的に完璧な制度などひとつも存在しないのである。

 

1)参照:"Neue Metaphysische Rundschau", 1912, p. 202

 

 そしてそれゆえ、P. ブラヴァツキー(『ヴェールを脱いだイシス』II, p. 377)が、「メイソンは、利己的な人間たちの集まりに堕した。粗悪な人間によって劣化した」と語っていることを我々は理解できるのだ。にもかかわらず、選ばれた者が、真のヒエロファント【秘儀参入の導師】(真のキリスト教徒にとっては、究極的にはキリスト自身である)の指導の下で、自らの魂を通して行う、唯一の真のイニシエーションが残っている。-それに対して、"仏教的 "あるいは "メンフィス的 "儀式は、そこで可能な最高の知識の輝きへと導き、そこからまたキリストへの道、そしてあらゆる地上のメイソンの33階級をはるかに超えた最高の秘儀参入へとそれは導くのである。(ブラヴァツキーは7つの真のイニシエーションについて述べている。そのイニシエーター1)は、同時に死の広間を通り抜け、宇宙の本当の意味、-その惑星の意味-を明らかにする。しかし、それらは生き方の最高の純粋さを必要とし、戦争において現代の思弁的で抽象的なグレート-オリエントや灰色の人間のメイソンが教え、実践しているように、復讐をすることを許さない。

 

1)『ベールを脱いだイシス』 II, p. 364/65  しかし、ブラヴァツキーもまた、キリスト教に関するある種の異常の結果として、秘密の門を通過することが出来ないままであった。ブラヴァツキーの多数の著作、"Am'Johannesfeste", p. 147を参照)。

 

 ロッジを見分けるのは、現実的にはかなり難しい。例えば、「青」と「灰色」などを区別したり、スコットランド儀式を他のグランド・ロッジから区別したりしたい場合である。最初の3つの階位は「ヨハネ階位」と呼ばれ、他の階位は「スコッツ階位」と呼ばれるが、相補的であるからだ。「独立した」ロッジすら、決してグランド・ロッジの外にあるわけではなく、ドイツ語版『ローゲン・ロッジ』(Arndt'Logen-Rodge')にあるように、グランド・ロッジと相補的関係(対応関係)にある。団員ヴィルヘルム・アルントの『ロッジの話 人間性の神殿の礎石』 1906, p.151/52の言うように、ロッジはグランド・ロッジの外にあるわけではなく、グランド・ロッジと互恵関係(対応関係)にあるからである。

 いずれにせよ、わずかな例外を除いて、誰にでもメイソンの生活に加わることは可能であり、その結果、ユダヤ教や反ユダヤ教イエズス会の底流が入り込むことも大いにあり得るのである。カトリックがしばしば強調する、カトリック教徒であると同時にロッジの団員であることの不可能性については、私たちは、実践的な経験、文学的知識、そしてフランス-イタリアの政治的事実から、即座に否定するイタリアのメ全てのイソンは反体制派かユダヤ人であるということは全くあり得ないと思われる。さらに、本物のメイソンは実践的なキリスト教とまったく矛盾しない。メイソンの教理問答集にはこう書かれている。「聖書は私たちの信仰を方向づけ、命令し、定規は私たちの行動を測り、コンパスはすべての人との関係を決定する。...」 (アルント『ローゲン・レーデン』「ヨハネの祝祭について」147頁)

 

 そしてまた、1756年に、「会則本」は、キリスト教を厳格に信仰する聖職者ジョン・エンティックによっても改訂され、1717年以前(すなわち、メイソンが「職工的」から「思弁的」へと変貌を遂げる以前)に既に存在していた「旧義務」に戻ることとなった(これについては、「時の声」47. Jahrgang" p.270を参照)。さらに、1723年の最初の「会則本」の第6条第2項には、メイソンは「カソリック的な」(即ち普遍的な)宗教の指示を公言していると記されている。真に客観的で中立的な判断では、「カトリック」や「イエズス会」が「メイソン」であることはありえないということは、我々は理解できない1)。他方、物事は、それらの神父や代父が最初から表面的に正直にそれを受け取ると、すぐに駄目になる。我々は、ロッジがヒューマニズムの代わりに専制政治になり下っていることを(それらが引き続きヒューマニズムを強調していても)驚かない。1723/38年の「元々の会則」の編集者である長老派の聖職者ジェームズ・アンダーソンや、彼の後援者であるグランド・マスターのモンタギュー公やウォートン、多くの高名なメイソンたちであっても、レッシングのような強い意志を持った性格の持ち主と認められない場合は。

 

1)32階位、団員バック博士は、『神秘のメイソンリー』の103と24/11ページで、「今日のメイソンリーで、宗教的同胞団の会員が混じっていない階位はおそらく存在しない」と指摘している。- このように、ミュンヘンの『歴史系図年鑑』1952年572も、教会のポルトガル高官の中で最初に共和主義陣営に改宗したリスボンのKardinal Nettoは、ユダヤ人の両親のもと、ベルクハイム(上アルザスのRanpoltsweiler地区)で生まれたが、Netter, Franziskaner という名で世界的秘密組織の会員であると報告している。その後、団員博士教授 Ernst Friedrichs は、『ロシアとポーランドフリーメイソン』72頁で、ポーランドのメイソンロッジでは、「カトリック教会」がよく支持されている、と伝えている。ヴィルナの「熱心なリトアニア人」ロッジの議長は、プジナという名の領主司教が務めており、彼の周囲にはメイソンの聖職者がそろっていた。しかし、カトリックの作家である ハインツ・ブラウヴァイラー博士によれば、前世紀の40年代まで(それ以降もそうでないということがあるだろうか?)、数多くのカトリック信者がプロイセンのロッジの会員になったという(『ドイツとローマのフリーメイソン』p.40)。死後ロッジの庭に埋葬された。以前はカソリック信者だった聖職者団員ルイ・クロード・ド・サン・マルタン【訳注】は、フランスのアカデミーでの、聖ルードヴィッヒ(フランス王ルイ9世)の弔辞で知られている。そして我々はまた、教皇ピウス9世(1846-1878)は若い頃、メイソンだった時期がある(彼自身はそれを否定しなかった)ことを知っている。そして、最終的にカトリックイエズス会の敵であると同時に、自分の著作で批判したフリーメイソンと同様に、結局、カトリックイエズス会からも不都合な存在となった大詐欺師、レオ・タクシルは、矯正施設でイエズス会の教育を受けたが、それは、(たとえ見習い階級にしかなれなかったとしても)メイソンのロッジに入ることを妨げなかった。逆に、元イングランド・グランド・ロッジのグランド・マスターで、陸軍省国務長官であったジョージ・フレデリック・サミュエル・リポリ・ギ・アフ・デ・グレイは、イエズス会に改宗した。我々は、二人の主人-フリーメイソン団員とイエズス会-に仕え、そしてフェルドキルヒナーの司祭で、ロッジの権威であり、擁護者であるグルーバー氏Herm.Gruberを知っている。彼は、ロッジの兄弟たちとの親密な関係をもつ以外には、メイソンリーに関する膨大で深い知識を得ることはできなかっただろう!もう一人の熱心なフリーメイソンは、プラハの「三冠の星」のロッジに所属していた、有名なイエズス会員でボヘミアのスラブ主義者、アベ・ヨゼフ・ドブラウスキーである。自分のロッジの青を好んだことから、彼は「青いアッベ」と呼ばれた。

 

【訳注】Louis Claude de Saint-Martin、1743年1月18日 - 1803年10月14日)は、フランスの哲学者で、le philosophe inconnu(無名の哲学者)として知られる。彼は、神秘主義者と人間の心の進化の影響力を持ち、マルティニスト修道会の設立にインスピレーションを与えた。

 

「時の声」(1917年p. 265/67)はまた、「王立協会」【訳注】の指導部全体が、その定款に反して、当初から政治的活動にふけっていたと説明している。それゆえなおさら、ドイツ人の忠誠を尽くす性質には驚かざるをえない。そのために、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、 「フリーメイソンは私の最高の臣民である!」と言うほど、そのようなロッジの木の小枝として、自身の誠実を貫いたのである (団員セットガスト博士Dr Settegast, 『ドイツのフリーメイソン』p52)。あるいは、カイザー、ウィルヘルムⅠ世は次のように語ることが出来た。:

 

【訳注】「王立協会(英語: Royal Society)は、1660年にロンドンで作られた民間の科学に関する団体である『自然についての知識を改善するためのロンドン王立学会』(The Royal Society of London for Improving Natural Knowledge)のことである。グランドロッジの始まりは、1717年、王立協会において当時会長を務めていたアイザック・ニュートンの弟子で王立協会員のフリーメイソンジョン・デサグリエがロンドンの4つのロッジを集結させ「Grand Lodge of London and Westminster」を設立したことが始まりである。王立協会は多数のフリーメイソンが在籍する。」(ウィキペディア

 

フリーメイソンは、すべての会員を真の宗教性へと教育し、漸進的な自己改善を通じて彼らを幸福にするだけでなく、全人類の救済のために働き、祝福された成功を収めるのに適している。」(セットガスト、前掲書p.58)

 

 しかし、ドイツの中核が常に善であったからこそ、ドイツのロッジ構造とその支部(「3つの世界球」、「ドイツ・グランドロッジ」、「プロイセン王立ヨーク・グランドロッジ」、「ハンブルク・グランドロッジ」、......「グレート・マザー・ロッジ」、.... ......「エクレシアの偉大なマザー・ロッジ」、「ザクセンのグランド・ロッジ」、「バイロイトの太陽のグランド・ロッジ」、「ダルムシュタットコンコルドのグランド・ロッジ」、神殿とヨハネ・グランド・ロッジ「バルデュイン」など)、 ゲーテ1)レッシング、ルッケルトフィヒテモーツァルトハイドン、(・・・)ヘルダー、(・・・)のような人々などは、活躍することができたのだ。あるいは、フリードリッヒ大王、皇帝フリードリッヒ3世、その他の戴冠者が、あらゆる地位の多くの栄誉ある人物とともに最大の尊敬を受けたのである。

 

1)団員ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、31歳でロッジに入会し、1782年3月2日にマスターに昇格した。ゲーテは、スイスのディートヘルムやハインリヒ・ツォッケと同様、厳格な遵守を特に好んだ。ゲーテの息子アウグストもマスターブラザーとなった。1830年6月23日、ゲーテはマスターとしての50年記念祭が行なわれた。-エフライム・レッシングは、グランド・マスター v.ツィンネンドルフによってロッジに入会し、1775年にマスターの階位を授与された。- 詩人団員. Friedrich-R ück er tがHildburghausenで「光」を受ける。- 兄弟。ヴォルフガング・アマデウスモーツァルトはウィーンのロッジに入会し、1785年に葬送曲、1795年にカンタータを作曲した。ゲーテが詩的に発展させた。ゲーテが詩的に発展させた。フランツ・アベルトは1853年にブランズウィックで就任した。グスタフ・アルベルト・ロルツィングがライプツィヒでマウラー同盟を結成。Franz Josef Ha y d n もウィーンで「光」を受けた。- 団員.-. キリスト Fürchtegott G e 11 e r t が1735年にロッジに入会。- 国家評議員で詩人のEr.-Friedr.Aug.Ferd.v o n K o t z e b u e が、レヴァル(ロシア)でロッジに入会。- 詩人セーエンク・エンドルフが、コブレンツのロッジで「執事」となる。ゲルフ・ダヴ・フォン・シュアルンホルストはゲッティンゲンで「光」を見つけた。- ヨハ.・ゴットフル・フォン・ヘルデルは、有名な説教者であり、傑出したメイソン団員であった。シュティルフィングは、深遠な神秘主義者であり、独創的な著述家、仕立屋、炭焼き職人、医師、農学教授、枢密顧問官であったが、マックス・ヴォート・シュテン・ドルフの紹介でメイソン団員になった。フィヒテは、エングブンデの2代目監督兼上級講演者であった。- 団員. チューリヒヴィンタートゥール、ベルンで長い間修練を積んだクリストフ・マルティン・ウエルンは、76歳で入信した。1813年、ゲーテ兄弟が彼のためにメイソンの儀式を執り行った。- テオドール・ケルナーの父、団員o. テオドール・ケルナーの父、クリスト・ゴットフ ル・ケルナー師がシラーの著作を出版。フリードリヒ・V・シラー自身、メイソンやイルミナティと親密な関係を築いた。- 詩人の団員. ルードヴィッヒ・ベックシュタインは、マイニンゲンのメイソンの師匠であり、多くのメイソンソングが彼に由来している。- 団員. 詩人エミール・リットがシュヴェルムのロッジの会員になった。- 団員.、ハイン男爵、フリードリヒ・カール・v.シュタイン。シュタイン男爵、フリードリヒ・カール・V・シュタイン。ウッドロウ'ワゴン'からその政治家らしい'芸術'を評価され、ヴェッツラーのロッジに入会した。- 皇帝フリードリヒ3世は、プロイセンのグランド・ロッジで騎士団のグランド・マスターを務め、彼のマスター・スピーチは団員のために印刷出版された。

 

【以下、③に続く】

砂上のイスラエル建国

 ガザでの虐殺がいまだに続いている。これは世界中の人間がリアルタイムで見ている中で起こっているジェノサイドと言えるだろう。

 これは、「自衛権の行使」だとイスラエルや米英そしてEU諸国は主張しているが、日本の報道でも明らかなように、既にその域は大幅に超している。病院や学校も攻撃されており、非難している無抵抗の非戦闘員、婦女子もターゲットになっている。公的機関の建物も根こそぎ破壊され、今や墓地も破壊されているという。つまり、二度とこの地にパレスティナ人が戻れないようにしているのだ。

 これが国家的な犯罪であることは明らかだろう。これを擁護することは出来ない。

 

 この発端は、ハマスにより行なわれた昨年のイスラエル人虐殺の「テロ」とされている。しかし、世界有数の諜報機関をもつ監視国家においてなぜそのようなことが可能であったのかという疑問や、また実際には、「混乱」の中でイスラエル軍自身により多数の人々が殺害されたことなどが明らかになり、ハマスイスラエル、米国の思惑などが絡む複雑な背景が指摘されるようにもなっている。

 

 また人智学的に考えるなら、その霊的背景も探らなければならないのかもしれない。なぜなら、そうした無辜の一般市民、女性や子ども達の虐殺が行なわれているのは、パレスティナ、かつてイエス・キリストがその地で過ごした「聖地」であり、かつてイエス誕生に際し、嬰児虐殺が行なわれた地であるからである。

 パレスティナが特別な土地であることについて、キリスト者共同体のエミル・ボックは、イエスの子ども時代について論じた『イエスの子ども時代と青年時代』の中で次のように記している。

 「キリストの出来事により、パレスティナは聖地となったと言えよう。しかし、その聖地は、たまたまイエスの生涯の舞台となった、単なる小アジアのはずれの場所ではない。キリストの運命の光跡が、地球歴史の惑星的な始原の時代から既にパレスティナの土地のもつ本質を形成してきた、その中心的で、劇的な比類なさと、表に現われている元型的性格を見えるようにしているのである。」

 世界を集約したような、その持つ比類さから、まさにこの土地が地球の中心として選ばれたというのだ。

 今回は詳しく述べないが、それは、地上で最も低い場所である死海がこの地にあることにも現われている。堕罪により苦しみの底にある人類をそこから救い出すために、キリストは、地上で最も低いその地に降りたのだ。

 

 今回は、ガザの問題をきっかけとして、テリー・ボードマン氏が、その歴史的背景となるイスラエル建国の問題について論じた記事を紹介する。

 「イスラエル国家」の建国は、英米やフランスの欺瞞に満ちた外交政策シオニスト運動が絡み合う中で行なわれたものであり、その矛盾が解決されないまま現代に至っており、そして今それが、ガザの虐殺として爆発しているのだ。

 長文の記事のため、以下では、途中を省略してある。

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砂上の楼閣 イギリス、アメリカ、そしてイスラエル建国

投稿者:Terry Boardman 投稿日:1月 27, 2024 カテゴリー:東西問題, 第一次世界大戦,

 ニュー・ビュー誌110号(2024年1月~3月)に掲載された記事を若干修正・訂正したものである。

 

 イスラエルの初代首相ダヴィド・ベン・グリオンは1948年5月14日、テルアビブ博物館ホールでイスラエルの独立宣言を読み上げた。

「5657年(1897年)、ユダヤ国家の精神的父テオドール・ヘルツルの召集により、第1回シオニスト会議が開催され、ユダヤ民族が自国において国家的再生を果たす権利を宣言した。この権利は、1917年11月2日のバルフォア宣言で認められ、国際連盟の委任状で再確認された。・・・われわれの自然かつ歴史的な権利によって、また国連総会の決議に基づいて、ここにエレツ・イスラエルユダヤ人国家を樹立し、イスラエル国家として知られることを宣言する」1

 

・・・1917年以前には、ユダヤ人が国家や民族であることを否定する人はほとんどいなかった。彼らは明らかにすでにそのような存在であり、「再生する」必要はほとんどなかった。1917年に英国政府を代表してアーサー・バルフォア外相の名で発表されたバルフォア宣言には、「国家の再生」については何も書かれていない。それは「ユダヤ人民のための国民的故郷a national homeをパレスチナに樹立すること」に言及しており、「ユダヤ人民のための国民的故郷the national homeをパレスチナに樹立すること」とは言っていない。国際法上、「国民的故郷national home」という言葉には前例がなく、文面からはユダヤ人の国家を意図しているのかどうかは不明だった。しかし、1948年の独立宣言にある「自国において」という文言は、パレスチナ全土がユダヤ人のものであることを暗示していた。その頃、パレスチナには1917年当時よりはるかに多い約65万人のユダヤ人がおり、そのほとんどが1920年代後半以降に入植していた。1919年2月3日、世界シオニスト機構はパリ講和会議に声明を提出し、「国民的故郷a national home」ではなく「国民的故郷the national home」に言及した。シオニスト声明は、パレスチナの土地に対するユダヤ人の「歴史的権原」を大いに主張し、「パレスチナは古代と同じように今作ることができる......」と主張したが、古代においてユダヤ人は、この土地にいくつかの期間にわたって王国を構成していた、すなわちユダヤ人の自治国家を構成していたのであり、これこそシオニストが常に目指していたものであったが、1917年のバルフォア宣言以前から1922年のパレスチナ委任統治権の確立に至るまで、公式には言及できなかったものであった。 シオニスト声明はまた、「暴力によって彼らはパレスチナから追い出された」と主張しており、ローマ帝国による追放を指しているのは間違いないが、そのような追放は起こらなかった。西暦132年から136年にかけてシモン・バル・コクバが率いたユダヤ人の反乱をローマ帝国が鎮圧した後、ユダヤ人に対する残酷な扱いがあったにもかかわらず、西暦136年から7世紀にイスラム征服者が到来するまでの間、パレスチナには決してユダヤ人がいなかったわけではない。そして、西暦66-70年と132-136年の二度にわたるローマ帝国に対する悲惨なユダヤ人の反乱の数世紀前から、はるかに多くのユダヤ人が、ユダヤ人の故郷の中よりも外に住むことを選んでいた: 「アレキサンダーからタイタスまでのおよそ4世紀の間に、おそらく300万から500万人のユダヤ人がパレスチナの外に住んでいた。イタリアからイランまで、ディアスポラユダヤ人は本国のユダヤ人をはるかに上回っていた。エルサレム(と神殿)は彼らの国家としての自己認識において大きな存在であったが、彼らのうちエルサレムを見たことのある者はほとんどいなかったし、見る可能性のある者もほとんどいなかった」3。

 

   1948年の独立宣言は、新しいイスラエル国家が、a) 1905年に亡くなるまでのセオドア・ヘルツルによる意志の行動、および1897年から1948年までのシオニスト運動による行動、b) 1917年の英国内閣によるバルフォア宣言、c) 国際連盟委任統治領(1922年)、d) 1947年11月の国連総会による「取消不能」の投票によって誕生したことを認めている。この4つの要因のうち最初のものを除けば、他の3つはすべて、バルフォア宣言を発布し、国際連盟国際連合を創設したイギリスとアメリカのエリートたちの行動から生じたものであることに留意すべきである。実際、1947年の国連投票の結果自体も、フランスをはじめとする他の国々に対するアメリカの圧力によるところが大きかった。

 1948年の独立宣言にある「この権利」-ユダヤ民族が自国において民族的再生を果たす権利-は、「...特にユダヤ民族とエレツ・イスラエルとの間の歴史的つながりと、ユダヤ民族が民族の故郷を再建する権利に国際的承認を与えた国際連盟委任統治領において再確認された」という一文は問題である:パレスティナ紛争についての1947年の国連のパレスティナ特別委員会は、次のように述べているからである。

 

アラブ諸国は、バルフォア宣言を盛り込んだパレスチナ委任統治は違法であるとの立場を堅持してきた。アラブ諸国は、それが有効であると認めることを拒否してきた。

アラブ諸国は、パレスチナ委任統治国際連盟規約第22条の文言および精神と矛盾していると主張している。・・・民族自決の原則と権利が侵害された。・・・パレスチナ委任統治が承認されたとき、アラブ諸国国際連盟に加盟しておらず、したがって国際連盟に拘束されない。」

 

"国際法"

 2023年10月7日の奇妙な出来事の余波で、世界で最も技術的に進んだ国家のひとつであり、世界で最も洗練された諜報・警備システムを持つと広くみなされている国が、7時間以上も「失敗」したとされる(! この事態は、世界中のメディアや政府によってほとんど見過ごされてきたが、2001年9月11日に米国で起こった同じように奇妙な出来事と比較されることは間違いない。それ以来、多くの西側諸国政府は、「イスラエル国際法の下で自国を防衛する権利を有する」、また「イスラエルは戦時中の民間人の扱いに関して国際法を遵守しなければならない」と頻繁に述べている。

   民主主義社会における「法」は、民主的に選出された社会の住民代表の多数決によって決定されることになっている。しかし、「国際法」や政府間、あるいは政府と国連のような国際組織との間の国際条約となると、「民主的な社会」の住民やその代表者は、しばしば突然、蚊帳の外に置かれる。民主主義社会であっても、こうした分野での提案や決定は、その国の外交政策や法律の「専門家」、つまり個人の小さなサークルによってなされるのであって、国際問題にあまり関心も知識もない国民やその代表者たちによってなされるのではないということが受け入れられているようだ。しかし、このようなまったく非民主的な手続きによって新たな「国際法」が制定された結果、民主主義社会の住民たちは、その後何十年にもわたって、自分たちが相談もされなかった「国際法」に縛られることになる。さらに、議会外の民間ロビー団体は、国際法に関する政府の行動や決定にかなりの影響を与えることができる。

 たとえば、どのように1948年にイスラエルは誕生したのだろうか。それは「国際法」の下で下された決定、すなわち国連パレスチナ委任統治領)分割計画によるもので、1947年11月29日の国連総会で33票対13票、棄権10票で可決された。棄権国のひとつであった英国は、1919年以前には存在しなかった国際連盟から、1922年にパレスチナの統治を委任されていた。この国際連盟の「委任統治」に関して、1922 年 5 月 17 日、バルフォア卿は国際連盟理事会に対し、委任統治の創設における国際連盟の役割についての自国政府の理解を次のように伝えている。・・・

 このような国際連盟の「委任統治」は、第一次世界大戦後の戦勝国(イギリス、フランス、アメリカ、日本)による事実上の「合法化された窃盗」行為であった。確かに、それ以前の250年間、植民地大国間の戦争後、このような窃盗行為は珍しくなかったが、それでも窃盗であった。イギリスとフランスは、植民地国として(1919年当時)アメリカに大きな負債を負っていたが、1918年の敗戦国であったドイツとオスマン・トルコが1914年以前に統治していた植民地と領土を、自国の国益のために自分たちの手で手に入れようと提案した。しかし、戦時中に世界の債権国となったアメリカは、「理想主義的」かつ「反植民地主義的」なウッドロー・ウィルソン大統領の影響力のもと、国際連盟の創設に際して、敗戦国の旧植民地を単に英仏の植民地帝国に移譲するのではなく、これらの植民地の民衆はこれらの帝国国家の統治によって自治の準備を整えるべきだと主張した。これが国際連盟の「委任統治」に対する理解であった。

  1921年3月にウィルソンが大統領を退任すると、アメリカの新政権は、国際連盟にも常設国際司法裁判所にも参加しなかった。こうして、中東におけるイギリスとフランスによるベールに包まれた窃盗行為6(イギリスはパレスチナを手に入れ、フランスはシリアを手に入れた)に続き、アメリカはそれらの窃盗行為を「正当化」し、その性質を決定づけ、さらにそれらの「国際的」行為に対する責任を一切取らないという無責任な態度をとった。

 イギリスの外交政策立案者たちは、-これらすべては、もちろん、これらのプロセスには一切関与することを許されなかったイギリスの有権者とは何の関係もなかった-事実上、トルコ人パレスチナ植民地を「盗んだ」ことで、このアメリカが考案した国際連盟という制度によって、期限が明確でない将来にわたって、かつての植民地であったパレスチナを「管理」するという重荷を背負わされることになった。

 

「国民的故郷」?

 しかし、イギリスの高官たちは、世界大戦中、ユダヤ人とアラブ人の双方に、イギリスの戦時中の敵国に対する彼らの支持を得るために、矛盾した約束をし、自らにさらなる重荷を課していた。1916年、イギリスのエリートたちは、アラブ人にトルコへの反乱を起こさせるために、戦後はアラブの王子たちが統治する独立国家を持つと約束した。また、対独戦において、アメリカやロシアをはじめとする富裕なユダヤ人の支持を得るために7、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアは1917年11月、政府を代表して、後に「バルフォア宣言」として知られる約束を文書で取り交わした。この文書は、バルフォアが、明らかに英国におけるユダヤシオニスト運動の指導者とみなしたウォルター・ロスチャイルド卿(彼は正式にはそうではなかったが、ユダヤ人にも非ユダヤ人にも大英帝国におけるユダヤ人の「王子」と広くみなされていた。)に宛てたもの出会った。

 それは次のようなもの出会った。- 英国政府は「パレスチナユダヤ人のための国民的故郷National Homeを建設することを支持し、この目的の達成を促進するために最善の努力を払う。それは、パレスチナに存在するユダヤ人以外の共同体の市民的・宗教的権利や、他のいかなる国でもユダヤ人が享受している権利や政治的地位を損なうようなことは一切行ってはならないということであると明確に理解さる。」

促進するために最善の努力を払う。"ただし、パレスチナに存在するユダヤ人以外の共同体の市民的・宗教的権利、あるいは他のいかなる国においてもユダヤ人が享受している権利や政治的地位を損なうようなことがあってはならない

   この "ユダヤ民族のための国民的故郷 "という言葉は、"ユダヤ人の国家 "を意味するのかという論争をやがて多くの巻き起こすことになる。その証拠に、関係者の大半は、たとえ初期には否定していたとしても、遅かれ早かれ、この言葉は確かにそのような意味になると感じていたようである。 例えば、デイヴィッド・ロイド・ジョージ首相、アーサー・バルフォア、ウィンストン・チャーチルは後に、1921年7月21日にロンドンのバルフォアの自宅でシオニストの指導者チャイム・ワイツマンと会談する。そこでは、ロイド・ジョージとバルフォアはワイツマンに「宣言は常に最終的なユダヤ人の国家を意味していた」と保証した。ロイド・ジョージは1937年、パレスチナユダヤ人連邦となるのはユダヤ人が「住民の過半数を占めるようになった」場合であり、1946年にはレオ・アメリ(元植民地長官)も同じ立場を表明している8

 バルフォア宣言」の最終草案はバルフォアの名で作成されたが、実はバルフォアはこの文章にはほとんど関与していない。戦争内閣で間違いなく最大の権力者であったアルフレッド・ミルナー無任所大臣(1916-1918)の秘書官兼右腕であったレオ・アメリー(ユダヤ人)が書いたのである9。しかし、アメリーは後に「1946年1月の英米調査委員会で宣誓証言」している:

「『パレスチナユダヤ民族のためのナショナル・ホームを建設する』という言葉は、バルフォア宣言の時点では、ユダヤ人が十分な数でやってきてそこに定住しさえすれば、パレスチナは最終的に「ユダヤ人連邦」あるいは「ユダヤ人国家」になるということを意図し、関係者全員が理解していた10。」

 その後30年間、彼らはまさにそうした。1939年まで、英国政府はそれを阻止することはしなかった。

 なぜこのようなことになったのか。古代に祖国を失ったはずの民族が、約1900年後に祖国を取り戻し、そこに国家を樹立できたというのか。同じ長い期間に、世界中の無数の民族や文化が祖国の支配権を失い、あるいは祖国を追われ、二度と祖国に戻ることも支配権を取り戻すこともなかったのに、ユダヤ民族は「世界」、すなわち当時世界の運命を支配し、国連をも支配していたイギリスとアメリカのエリートたちに、自分たちユダヤ人は古代の祖国に戻り支配することを許されるべきだが、他の民族は祖国に戻ることを許されるべきではないと説得することができたのだろうか。もし同じ原則が、いわば歴史全体にわたって適用されるなら、世界地図はまったく違ったものになるだろう: 例えば、イングランドウェールズ人に、アメリカはアメリカの先住民族に返還されなければならないだろう。

 

ガブリエル、アラブ人、ユダヤ人の時代

 ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)のスピリチュアルな研究に基づくアントロポゾフィー人智学)の観点から、上記の質問に対する答えはこうである。

 

 16世紀初頭から、人類の歴史の導きは、火星の大天使サマエル(1190-1510)から月の大天使ガブリエル(1510-1879)へと、強大な霊的な存在から別の存在へと引き継がれた。このような7人の大天使が交代で活動しており、それぞれが約350~400年の歴史を「担当」している。月の大天使ガブリエルのフェーズの間、人類はガブリエルの影響の下で、物質世界と肉体的な生活の要求、つまり「受肉」【訳注】という言葉と結びついているすべてのものに非常に注意を向ける。

 

【訳注】大天使ガブリエルの使命は、受肉、あるいは誕生と結びついていることは、マリアへの「受胎告知」を大天使ガブリエルが行なったことにも現われている。

 

 この時代は自然科学の時代であり、西洋の植民地主義と帝国の時代であり、世界貿易の時代であり、資本主義の時代であり、産業主義の時代であり、ナショナリズムの時代であった。また、英語圏の人々が世界的な大国となり、セム文化(アラブ人やユダヤ人の文化)の影響が西洋文化、特に英語圏文化(イギリスや後のアメリカなど)の中で特に大きな力を持つようになった時代でもある。17世紀から18世紀にかけて、自然科学はしばしばアラブの文献からの翻訳に基づき、教会に対する勝利の行進を始めた。(興味深いことに、イスラム教のトルコから輸入されたコーヒーも、この知性の拡大に伴っていた)。超越的で抽象的で、イスラム教やユダヤ教の香りが少なからずする、イギリス独特の哲学的宗教形態である理神論は、多くの「賢明な」イギリス人、特にフリーメイソン-そのオカルティズムと儀式は、ソロモン神殿とユダヤのカバリストたちの著作に多くを負っている-の間で好まれる信仰となった。 火星の大天使サマエルの時代、1290年にエドワード1世によって追放されたユダヤ人は、月の大天使ガブリエルの時代、1655年にオリバー・クロムウェルによって英国に再入国した。ガブリエルの時代の後期には、ロスチャイルドの名は世界中に知られていた。実際、ヴィクトリア朝時代のイギリス帝国の権力は、ロスチャイルドなしでは考えられなかった。1810年以降の数十年間、ロスチャイルドの資金はイギリスの軍事作戦に資金を提供し、イギリスの鉄道を建設し、王室に財政的な助言と融資を行い、スエズ運河を購入し、経済を安定させ、他のイギリスの銀行を支援した。ロスチャイルド家はまた、パレスチナにおけるユダヤ人移民の入植地にもいち早く資金を提供した。

 英国におけるロスチャイルド家の成功は、英国生活におけるユダヤ文化の地位向上の象徴に過ぎなかった。たとえば、17世紀のイギリス清教徒たち。彼らは宗教生活において、古代イスラエルの人々、特に旧約聖書とその厳格さに基づいた。彼らはユダヤ人のように黒と白を身にまとい、常に頭を覆い、宗教的な図像に反対し、聖典の本文とその解釈者だけを尊び、自分たちを亡命者とみなして、罪深い「エジプト」から逃れて、神から与えられた約束の地であるアメリカのへ向かい、そこで原理主義的な価値観を持ち込み、移植した。イギリスでの彼らの後継者である国教反対者たちは、政治活動から追放され、ビジネスと産業に転じ、資本家として成功した。これらのピューリタンや国教反対者たちは-これに、後にメソジスト派福音派が18世紀に続く-、自分たちを「イスラエル」とみなし、未来を読み、神の意志を見極めようと、古代イスラエルのモデルと預言者たちを見た。彼らは、今や自分たちが新しい「選ばれた民」であるだけでなく、「古代の選ばれた民」であるユダヤ人が聖地に集められ、キリスト教に改宗するまでは、メシアは再び来ないと信じるようになった。英語圏ピューリタンの多くは、ユダヤ人が聖地に戻れるようにするのは、主の(新しい)選ばれし民の役目だと信じていた。このような聖書の概念や解釈は、1600年から1850年にかけて、低教会派の福音派やバプテスト派から高教派の英国国教会まで、聖書を読むプロテスタント社会の幅広い層にわたって、英語圏の文化にしっかりと根を下ろした。デイヴィッド・ロイド・ジョージやアーサー・バルフォアのような政治家たちは、このような解釈をよく知っていた。

 ガブリエルの時代は1879年に終わったが、その衝動はそれだけで終わったわけではなかった。このような大天使の衝動は常にその時代の終わりに最も強く、新しい大天使の波が押し寄せてきてフェードアウトし始めるまで数十年間続く。こうしてナショナリズムは1870年から1970年、特に2つの世界大戦の時期にピークに達した。西洋におけるユダヤ人の影響力もこの時期にピークに達した。シオニスト運動、バルフォア宣言、そして政治的なイスラエル建国への努力も、この時期に起こったとしても驚くにはあたらない。厳密に言えば、それは太陽の大天使ミカエルの時代の初期であったが、彼の衝動はその時成長し始めたばかりであった。彼の衝動は真にキリスト教的な衝動であり、キリストの衝動はこの世のものではない王国の創造である。

 

国家的動機

 国際連盟は、去りゆくガブリエル的原理と新しく始まったミカエル的原理の典型的な現れであった。国際連盟英語圏のエリートたちによって、自文化の国益のために設立されたが、同時に超国家的な衝動も持っていた-国家(民族)自決の原則に基づく超国家的機関という矛盾をはらんでいたのである!

アラブ人は1919年にすでに、新国際連盟の礎石とされるウィルソン流の「民族自決」原則によれば、19世紀半ばにトルコの支配下にあった「南シリア」として、80%のイスラム教徒と10%のキリスト教徒アラブ人に対し、ユダヤ人の人口がわずか5~7%にすぎなかったパレスチナへの移住をヨーロッパ列強が奨励するのは正しくないこと抗議していた11民族自決」とは、パレスチナが、イスラム教徒である大多数のアラブ人に帰属することを意味すると広く解釈されていた。しかし、イギリスとアメリカのエリートたちは、自分たちのイギリス帝国やアメリカ擬似帝国の利益に従って、そうではないと「決定」した。アラブ人は後進的すぎて、この地域でそのような利益に貢献することはできないと考えたのである。

 その利益とは、何よりもスエズ運河の安全と、メソポタミアの石油を地中海のハイファなどパレスチナの港に安全に輸送することであった。イギリスにとってスエズ運河は、インドやその他のアジア、南東部のオーストラレーシア方面における帝国の権益を守ることを意味していた。メソポタミアの石油は、英国海軍の将来を保証するものであり、それなくして大英帝国はありえない。世界大戦の少し前に、英国海軍の燃料として石油が石炭に取って代わり始めて以来、これが現実だった。イギリスには石炭は豊富にあったが石油はなかった。そのため、石油が豊富にある地域の支配権を確保する必要があった。20世紀になって自国の石油供給が減少し始めたとき、アメリカ人も同じ動機を持ようになっただろう。パレスチナに移住したユダヤ人は、比較的近代的で、教育を受け、文化的にもヨーロッパ的で、その多くは世俗的であった。チャイム・ワイツマン(1874-1952)やハーバート・サミュエル(1870-1963)のような、イギリスにおけるシオニストの擁護者や指導者たちは、移住者たちがこの地域の支配的要素になることを許されれば、大英帝国に効果的な奉仕をすることになるという事実を強調した。

 

バルフォアとその宣言

 第一次世界大戦中、バルフォアとミルナー周辺は、さらなる要因を繰り返し述べていた: すなわち、1897年(スイスのバーゼルで開催された第1回シオニスト会議)以来、シオニズムユダヤ民族のための国家、後に特にシオニストたちが古くから「イスラエルの地」と呼んでいたパレスチナ(エレツ・イスラエル)に国家を建設しようとする大義)が、米国の多くの有力で裕福なユダヤ人、すなわち英国がその支持を失うわけにはいかないユダヤ人の関心を集めていたことである:

 1917年9月3日、バルフォアは、「この問題は外務省が過去長い間非常に強く圧力をかけてきた問題であると指摘した。特に米国には、この問題に熱心に取り組む非常に強力で熱狂的な組織があり、このような人々の熱心さと熱意を味方につけることは、連合国にとって最も実質的な助けになるというのが彼(バルフォア)の考えだった。何もしないことは、彼らとの直接的な対立を招く危険があり、この状況に直面する必要があった」12

 

 1917年4月、バルフォアは米国を訪問し、米国シオニスト組織会長でウィルソン米大統領の最側近の一人であったルイス・ブランデイスと会談した。バルフォアはブランディスから、アメリカのユダヤ人、特に裕福なユダヤ人がシオニズムを支持しているという印象を得た。

 

英国外務省が1923年に書いた記述によると、シオニズム支持の声明を出すという考えが固まったのは、バルフォアがアメリカを訪問したときであった。陛下の政府が、パレスチナへのユダヤ人の帰還がイギリスの政策の目的になったという保証を与えれば、アメリカの世論は好意的な影響を受けるだろうと思われた」13

 

 イギリスのシオニスト指導者チャイム・ワイズマンは、オスマン・トルコと同盟を結んでいたドイツが、シオニストの戦術を利用してアメリカの裕福なユダヤ人に平和主義を支持するよう説得し、アメリカが参戦したばかりの戦争へのアメリカの支持を弱めようとするかもしれないとイギリス政府を説得しようとした(1917年4月)。1917年秋、ワイツマンの主張を立証するかのような証拠が現れた。

 5人の閣僚からなる戦争内閣の中で、パレスチナにおけるユダヤ民族の祖国を支持する宣言に反対したのはカーゾン卿だけであった:

 

「このような行動方針を採用する政治的理由は重要かもしれないが、我々は少なくとも、現実的な理想を後押ししているのか、それとも失望と失敗への道を用意しているのかを考慮すべきである。」

 

 カーゾンは、「(パレスチナの)ユダヤ人農業植民地のほとんどは成功していない」と主張した。そして、「アラブ人は1500年もの間、この国を占めてきた。. . 彼らは、ユダヤ人移民のために土地を収用されることにも、後者のために薪をくべたり水を汲んだりする役割を果たすことにも満足しないだろう」と14

 

 この言葉は、どちらの点でも先見の明があった。

  しかし、1917年10月31日の戦争閣議で、カーゾンの反対は却下された。バルフォアは、「宣戦布告の根拠を主にプロパガンダとしての価値に置くことにした」。彼は、「ロシアとアメリカのユダヤ人の大多数」はシオニズムを支持していると述べた。「そのような理想に好意的な宣言を行うことができれば、ロシアとアメリカの両方で極めて有益なプロパガンダを行うことができるはずだ」と彼は言った。戦争内閣はその場で、外務大臣としてのバルフォアに宣言を発表する権限を与えた。

 イギリス政府が「パレスチナユダヤ民族のためのナショナルホームを建設する」と公式に約束した、すなわちバルフォア宣言は、戦時に有利になるための一時的な戦術のためになされたものであった。植民地局が1924年に出した極秘覚書も、バルフォア宣言が戦争戦術であったことを示している。同宣言はこう述べている:

 

「宣言には明確な戦争目的があった。この宣言は、世界中の有力なユダヤ人とユダヤ人団体の同情を連合国のために集めるために作成された。この宣言が発表されたのは、軍事情勢が極めて危機的であった時期である。ロシアは同盟を脱退した。イタリアは最後のあがきをしているように見え、ドイツは東方での不安から解放され、1918年の大攻勢に備えて西部戦線に大軍を集結させていた。ユダヤ人との約束は、事実、国家的危機が深刻化しているときに交わされたのである。」16

 

   しかし、ひとたび宣言が公表されると、イギリス政府はこの宣言に固執し、後戻りはできないと考えた。戦争が終わった後、イギリス政府はすぐに、宣言の本来の理由である戦争宣伝戦術としての利用はもはや当てはまらないにもかかわらず、自縄自縛に陥ったことに気づいた。宣言に対する反対、ハーバート・サミュエルを高等弁務官に任命することへの反対、政府の一般的なシオニスト寄りの姿勢に対する反対など、パレスチナの軍部内や民政部内の多くの反対にもかかわらず、政府はかたくなに宣言に固執し、シオニストとアラブの両コミュニティの要求を満たすよう試みると主張した。

 英仏両政府は1918年11月9日、シリアで偽善的な声明を発表した:

 

「フランスとイギリスが、ドイツの野望によって解放された戦争を東方で遂行する際に目指している目的は、トルコ人によって長い間抑圧されてきた諸民族の完全かつ明確な解放と、先住民の自発的かつ自由な選択によってその権威を得る国民政府および行政機関の樹立である17(強調 - TB)。

 

 しかし、1918年12月、英仏両国は、パレスチナをイギリスが単独で統治することで合意し、1916年1月にロシア側と最終合意した秘密協定(1915年に交渉が開始されたサイクス・ピコ協定)を変更した。それによれば、戦後、パレスティナは国際的に管理されることとなっていた。

 バルフォアの他の声明は、イギリス自身の利益の皮肉な評価の程度を示している。

     1919年8月、国際連盟の規約について議論したメモの中で、バルフォアはこう説明している:

 

「私は、シオニズムがアラブ人を傷つけるとは思わないが、アラブ人はシオニズムを望んでいるとは決して言わないだろう。パレスチナの将来がどうなるにせよ、パレスチナは現在『独立国家』ではないし、その途上にあるわけでもない。そこに住む人々の意見にどのような敬意を払うべきかは別として、列強は、私が理解するところでは、委任統治国を選ぶ際に、彼らに相談しようとはしない。要するに、パレスチナに関する限り、列強は、明らかに間違っていない事実の陳述はしておらず、少なくとも書簡の中では、常に違反することを意図していない政策の宣言はしていないのである。」そして「シリアの『独立国』の場合よりも、パレスチナの『独立国』の場合の方が、規約の文言と連合国の政策との間の矛盾はより顕著である。パレスチナの場合、われわれは、この国の現在の住民の意向を聞くという形式をとることさえ提案しない。四大国はシオニズムにコミットしている。そしてシオニズムは、それが正しいか正しくないか、良いか悪いかにかかわらず、古くからの伝統、現在のニーズ、将来の希望に根ざしたものであり、現在その古代の土地に住む70万人のアラブ人の欲望や偏見よりもはるかに重要なものなのである。」(強調 - TB)

 

   バルフォアの頭の中には、2つのことが重なっていたようだ:伝統主義的な英国国教会(High Church Anglican)の強い信念を持つ有力貴族セシル家の分家として、彼は、ウェールズのバプテスト派デイヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)とはまったく異なるキリスト教の宗派の出身であったが、二人は同時代の多くの人々と同様、聖書に基づいて育ち、聖書をよく知っていた。二人とも根っからのロマンチストで、ユダヤ民族の古くからの運命にある種の憧れを抱いており、シオニストの指導者チャイム・ワイツマンの魅力と、ユダヤ民族の運命に関する歴史観や宗教観に訴える彼の訴えに誘惑されていた。

 しかし、二人とも、特にネイサン・メイヤー・ロスチャイルド(1777-1836)の時代からの、英国におけるユダヤ金融の力をよく知っていた。彼は、ウェリントンのナポレオンに対するワーテルロー作戦の勝利や、その後数十年にわたるイギリスの鉄道開発に資金を提供していた。有力政治家として、バルフォアとロイド・ジョージは、英国初のユダヤ系首相ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881)が1875年、ロスチャイルド家とのコネクションを利用してロスチャイルドの融資を受け、英国政府にスエズ運河の支配権を獲得させたことも知っていた。彼は1914年11月に英国とトルコの間で戦争が勃発した直後、次のように述べた。

 「スエズの東にユダヤ人の植民地を作ることを支援することで、イギリスはスエズ運河の支配権を脅かす可能性のある敵対外国勢力をその領土から排除することができる。サミュエルは1915年3月に、『多くのユダヤ人が何世紀にもわたる苦難を乗り越え、決して絶やすことなく大切にしてきた思想の実現に向けて今行われる援助は、遠い未来に至るまで、全人類の感謝の念を裏切らないはずはなく、その好意はやがて価値がなくなることはないだろう』と主張した。」19(強調 - TB)。

 

 イギリス政府は後に、サミュエルを初代パレスチナ高等弁務官に任命する。サミュエルの任命はアラブ人には不評だったが、彼は公平であろうと努め、その役割はそれなりに成功した。しかし、ユダヤ人歴史家のバーナード・ワッサーステインは、彼の政策は「英国の...親シオニスト政策にアラブ人を融和させるために微妙に設計された」ものであったと書いている20。また、サハル・フネイディは、『壊れた信頼-ハーバート・サミュエル、シオニズムパレスチナ人』(2001年)の中で、サミュエルのパレスチナにおける政策のほとんどは、実際にはバルフォア宣言で約束された「ユダヤ人の国民的故郷」という概念を超えており、ユダヤ人国家の実現を目指していたと書いている

 

   西側連合国に裏切られたというアラブ人の感情や、シオニスト移民の増加に対する反発から、何度も暴動が起こった。1921年8月18日、パレスチナに駐留するイギリス軍に対するアラブ人の暴力はなかったものの、共同体間の情勢が悪化したため、イギリス内閣は情勢を協議するために閣議を開いたが、パレスチナに直接関係する4つの主要な論点のうち、最後の論点だけが討議された:

 

1) 「政府の名誉はバルフォア氏による宣言に関わるものであり、我々の誓約を反故にすることは、世界中のユダヤ人の目から見たこの国の威信を著しく低下させるものである。2) カナダと南アフリカの首相は最近、わが国のシオニスト政策がこれらの領土で役立っていると述べた。3) この問題が容易かつ迅速に解決されるとは思われなかった、

 特にパレスチナと国境を接する地域でアラブ人が勢力を拡大していることを考慮すると。4) ユダヤ人のための国民的故郷の設立とアラブ人の権利の尊重を含むバルフォア宣言の路線では和平は不可能であると主張された。この矛盾の結果、アラブ人とユダヤ人の双方が疎遠になり、無益な軍事支出に巻き込まれることになるに違いない。この立場に対して、アラブ人は、自分たちが最善の利益を遂げることのできなかった国への、何らの規定的権利を持っていないと議論された。」21

 

 カナダと南アフリカにおけるシオニストの利益のため、そしてイギリス政府の「名誉」のために、宣言を守らなければならなかった。100万人近いイギリス人が、しばしば悲惨な状況で、イギリス政府のために戦争で戦死した後であったにもかかわらず、「バルフォア宣言の路線では和平は不可能である」と認識されていたにもかかわらず、である!

 1922年7月、国際連盟パレスチナ委任統治を承認し、イギリスを統治権力とし、イギリスによるバルフォア宣言の実施を承認した。8月、パレスチナ・アラブ会議はパレスチナ委任統治をアラブの権利の侵害だとして拒否した。

 

1923年の秘密キャベンディッシュ報告書

 それから1年も経たない1923年2月、新植民地長官となった第9代デヴォンシャー公爵ヴィクター・キャベンディッシュ(イギリス屈指の貴族)は、10人の秘密委員会に、バルフォア宣言を維持するかどうか、さらには委任統治を維持するかどうかを含め、イギリスのパレスチナ政策を総合的に再評価させた。キャベンディッシュは、委員会の調査結果を受けて閣議に提出した報告書の中で、記者団に不評であったことを認めたこのプロジェクトの困難にもかかわらず、イギリスは国の、すなわちエスタブリッシュメントの「名誉」のために、宣言と委任統治の両方を基本的に継続すべきだと結論づけた:「宣言を否認し」、「全世界の面前でユダヤ人と交わした約束を破り」、国際連盟に「委任統治領を返還する」ことは、次のことを意味する。

 

「われわれはまさに背信行為によって有罪判決を受けることになり、そこからわれわれの名誉が回復することはないといっても過言ではない。われわれは、トルコ人から聖地を救い出したにもかかわらず、勝ち取ったものを守る力も勇気もなかったキリスト教国として、永遠にその名を残すことになる。」22

 

 13世紀の貴族に典型的な名誉へのこだわり。宣言がもはや現実にそぐわず、意味をなさないと言うことは問題ではない、宣言は続けなければならない。―このようなことが、実際、キャベンディッシュの理由付けであった。

 しかし、キャベンディッシュは、委任統治を継続する2つの明らかに不名誉な理由も思いついた。 1922年、イギリスはエジプトからの撤退を交渉していた。そのような状況では、スエズ運河の近くに軍事的プレゼンスを保つために、スエズ運河の東にあるパレスチナに軍隊を保持することが、イギリスにとって好都合であり、実際に不可欠であると彼は言った。この利己的な動機は、委任統治国ではなく委任統治地域の人々のためになるはずの委任統治 の原則に真っ向から反するものであったが、「キャベンディッシュの覚書は...イギリスがパレスチナから 撤退した後(つまり 1948 年以降)になって初めて公表された」23 ので、国際連盟は知る由もなかった。

 第二の不名誉な動機は、キャベンディッシュが、ユダヤ人がパレスチナに多くの投資をもたらし、経済に利益をもたらしていると主張したことである:「彼らにその機会を与えることで、散り散りになった民族を古代の祖国に戻すという感傷的な考慮とはまったく別に、文明全体の利益に貢献しているのだ。」しかし、これは正しくない。ユダヤ人の投資はパレスチナにおけるユダヤ人経済のみに利益をもたらしたのであって、アラブ人には利益をもたらさなかったからである。ユダヤ資本はアラブ人が所有する土地の購入に使われ、ユダヤ民族基金が所有する土地ではユダヤ人の労働力のみが認められた。1921年シオニスト執行部の報告書には、次のように記されている:

 

シオニストの活動がアラブ人に、彼らがシオニストに期待するよう招かれていたような物質的利益をもたらしていれば、状況はそれほど深刻ではなかったかもしれない。」24

 

   したがって、1923年の内閣は、ユダヤ人の国民的故郷は、アラブ人の利益の保護と最終的な独立と同時に実現することはできないと結論づけた。にもかかわらず、このような矛盾が続いているにもかかわらず、内閣は、再び帝国の利己的な理由(すなわち、結果として生じる「面子」の損失)から、宣言のユダヤ人の国民的故郷の約束を継続することを決定した。その結果、アラブ人とユダヤ人の対立は避けられなくなり、1945年以降、経済的に窮地に立たされたイギリスは、最終的にそれに対処することができなくなり、1948年には、「名誉」と「名前」を汚されたにもかかわらず、不名誉なパレスチナからの撤退を余儀なくされた。そして、1923年の秘密のキャベンディッシュ・レポートから100年経った今もなお続く、恐ろしい対立の状況を残した。

 ・・・

    キャベンディッシュ委員会は、アラブの利益のためにパレスチナにアラブ機関を設立し、すでに存在するユダヤ人機関と並行して活動することを提案した。この提案は公表されたが、キャベンディッシュ委員会の報告書は秘密にされた。そのため、内閣が実際に委任統治を実行不可能と考えていたことは、国民には知らされていなかった。

・・・

 イギリス政府は1920年代、国際連盟の常設委任委員会に対して、パレスチナにおける両共同体の利益は適切に提供されていると述べていたが、1923年7月の時点で、イギリス政府自身の実際の評価は、そのような状況にはほど遠く、実際には事実上不可能であるというものであった。

 一方、ユダヤ人の移民は着実に増え続けた。テルアビブの人口は1920年の2,500人から1924年には25,000人に増加し、委任統治パレスチナ全体のユダヤ人人口は1923年の90,000人から1940年には450,000人に増加した。1948年のイスラエル建国時のユダヤ人人口は65万人だった。1930年代に人口が大幅に増加したことで、アラブ人の大規模な抗議、暴動、暴力が起こり、1936年から39年にかけてのアラブ人の大反乱で頂点に達した。この反乱では、非正規のユダヤ武装勢力がイギリス軍と協力してアラブ人と戦い、その後、イギリス政府はついにユダヤ人の移民にかなりの制限を課し、パレスチナ委任統治を10年以内に終了する、つまり撤退すると発表した。1937年、イギリスは領土を3つに分割する計画を発表した。アラブ人国家、ユダヤ人国家、そしてエルサレムとハイファ港の継続的なイギリス委任統治である。英国がエルサレムとハイファの石油港を支配したかったのは明らかだ。1937年と1939年のこうしたイギリスの計画は、1940年代にユダヤ人のリーハイ(イスラエルの自由のための闘士)運動とイルグン(国民軍事組織)運動による不法移民とイギリス当局に対するテロ暴力につながった。イギリスはついにアラブ人とユダヤ人両方を敵に回すことに成功したのだ。ユダヤ人の暴力は、1946年にホテル・キング・デイヴィッドの英国本部で起きた爆破テロで頂点に達し、91人が死亡、45人が負傷した。

 

アメリカと1947年11月の国連投票

 第二次世界大戦後、労働党政権は経済的に大きな苦境に立たされ、アメリカからの大きな圧力もあり、現実的に可能な限り早くインドとパレスチナから撤退することを決意した。一方、英米が考案した国際連盟は、1946年に英米が考案した国際連合に道を譲った。この国際連合が、1948年のイスラエル建国をどのように承認したのか。1945年4月にルーズベルト大統領が死去すると、ユダヤロビー団体は、パレスチナへの移民枠を増やすよう英国に迫るように、経験の浅い新大統領に圧力をかけた。その一つである自由パレスチナアメリカ連盟(ALFP)は、ユダヤ人テロリスト集団イルグンの隠れ蓑であり、イルグンの幹部ヒレル・クックに率いられていた27。1946年、ドイツの強制収容所の悲惨なフィルム映像が人々の脳裏に焼き付き、多くのユダヤ人がヨーロッパでまだ悲惨な状況で待機していたため、アメリカのユダヤ人は妥協する気にはなれなかった。彼らのロビー活動は執拗で、パレスチナでイギリスと戦う過激なユダヤ人グループのために、ハリウッドの有名人やマフィアからも多くの資金が集められた。クックらは、これらのグループの武装闘争を、1770年代のイギリスからの自由を求めるアメリカ革命家の闘争のように表現し、1770年代と同様に、クックとその仲間たちはフランス人を巻き込むことをためらわず、ALFPのフランス支部を設立し、シモーヌ・ド・ボーヴォワールジャン=ポール・サルトルといった著名人の支持を得た。ニューヨークの有力なユダヤ人ロビーからの政治的圧力を受け、ハリー・トルーマン大統領は「実行可能なユダヤ人国家」を求め、共和党のトーマス・デューイ知事は「数十万人の移民がパレスチナに受け入れられるべきだ」と強く迫った。トルーマンユダヤ人の強引なロビー活動に苛立ちを示したが、「ヘブライ人」が約束の地を取り戻すのを助けなければならないと考える聖書ベルト地帯のアメリカ人プロテスタント有権者が大勢いたこともあり、屈服せざるを得なかった。その一因となったのが、アメリカの原理主義牧師サイラス・I・スコフィールド28の『スコフィールド参照聖書』(イギリスではオックスフォード大学出版局から出版)である。第二次世界大戦の終わりまでに、スコフィールド聖書は200万部以上売れた。スコフィールド聖書の注釈は、とりわけ終末論的ディスペンセーション主義、つまり、神は個別の歴史的段階において人間の歴史に介入するという考え方を促進した29

   ユダヤ人によるテロ行為はより大胆に、より暴力的に、より成功を収めるようになった。1919年から21年にかけてアイルランドIRAがそうであったように、イギリスは次第にテロリストたちのますます陰惨な攻撃に屈服し、ユダヤ武装集団を弾圧するための強硬な努力にもかかわらず、事態のコントロールを失いつつあることが明らかになった。1947年9月、英国は1948年5月14日に一方的に撤退すると発表した。1947年11月29日、国連は国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)が作成した分割案を討議した。この案を可決するには3分の2以上の賛成が必要だった。ニューヨークのユダヤ人たちは、国連ビルの内外で効果的なロビー活動を行った。彼らの焦点は、それまで明確な立場を取らなかったフランスにあった。バーナード・バルーク(1870-1965)は熱烈なシオニストで、1912年にウッドロウ・ウィルソンを大統領にするための資金を提供し、ルーズベルト大統領とトルーマン大統領に助言を与え、ウィンストン・チャーチルの親友であり、さらにイルグンとALFPの支援者でもあった、フランスの国連代表アレクサンドル・パロディに直接圧力をかけ、もしフランスが国連投票で分割を支持しなければ、フランスの株式市場は急落するだろうと個人的に伝え、トルーマン大統領がフランス向けの援助を別の場所に送ることを選ぶかもしれないとほのめかした。この明確なメッセージはパリに伝えられた。11月29日の国連総会での投票では、パロディが分割に賛成し、フランスの隣国であるベルギー、ルクセンブルク、オランダも賛成した。これらの投票により、分割は3分の2以上の賛成(33対13)を得た。パレスチナでは、ユダヤ人は "フランス万歳!"と叫んだが、むしろ "バルーク万歳!"と叫ぶべきだった。こうしてシオニストは、1948年5月14日に建国したイスラエル国家に対する国連の支持を得たのである。

 

古くからのライバル関係 イギリスとフランス

 一方、パレスチナユダヤ武装集団に武器を提供するためのフランスの資金は、パレスチナに届き続けた。1948年1月、フランスのジョルジュ・ビドー外相は、ハガナ・グループのために2600万米ドル相当の武器を認可した。

   1948年5月にイギリスの委任統治領が終了するまで、イギリスとフランスは、1870年代にディズレーリがロスチャイルドの資金でフランスを出し抜き、スエズ運河(これはフランスが建設したものだった!)の支配権を買い取ったときから、1882年にイギリスの首相ウィリアム・E・グラッドストンがイギリス軍をパレスチナに派遣したときから、レバントと東地中海をめぐって争ってきた。・・・

   第一次世界大戦中、イギリス政府がパレスチナユダヤ人の祖国を作るというハーバート・サミュエルの提案に耳を貸したのは、実はシリアを支配しようとするフランスに対するイギリスの不満が原因だった。1914年11月、イスラム世界全体のカリフでもあったトルコのスルタンがイギリスに対して聖戦(偉大なるジハード)を宣言すると、イギリスは翌年、ガリポリ経由でコンスタンティノープルに大規模な帝国軍攻撃を仕掛けてこれに対抗した。これは大失敗に終わったため、1916年、イギリスは預言者ムハマンドの子孫であり、イスラム世界で唯一スルタン/カリフを凌駕する存在であったメッカのシャリフ、フセインに目をつけた。

 ・・・

「ジョルジュ・ピコによってこの協定[1916年1月3日]を強要されたことに憤慨したイギリスは、直ちにこの協定を回避する方法を模索し、特にパレスチナの不満足な解決によって残された防衛の隙間を埋める方法を模索し始めた。そのために英国は、1年前から政府内で流布していたあるアイデアに目をつけた。それは、シオニズムパレスチナユダヤ人国家を建設するという、まだ成功していない政治運動)への支援が、イギリスが中東での地位を確保するためのよりよい方法だというものだった。」30

 

   また、1915年1月にトルコ軍がシナイ半島を攻撃してスエズ運河を奪取しようとした試みが失敗した後、イギリスはシナイ半島を奪還したが、1917年春にはガザで2度の戦闘に敗れている。エドモンド・アレンビー将軍(オリバー・クロムウェルの子孫)はその後、イギリス軍を率いてシナイからエルサレム(1917年12月)、ダマスカス(1918年10月)へと北上し、勝利を収めた。この作戦は、フセインの息子ファイサル王子の盟友で、アラブ人の独立と国家化を目指していたT・E・ロレンス大佐(「アラビアのロレンス」)率いるシャリフ・フセインのアラブ軍の支援なしには成功しなかっただろう。

 18世紀、さらには12~13世紀の十字軍にまでさかのぼるイギリスとフランスの古くからの帝国間対立は、1948年のイスラエル国家成立につながる出来事にも少なからず影響を及ぼした。アレンビーは1917年12月7日、13世紀以来のヨーロッパ軍を率いて、謙遜から徒歩でエルサレムに入った。彼は、「十字軍が終わったのは今だけだ」と発言したと言われているが、彼は報道官に「十字軍」や「十字軍」という言葉を使わせず、自分はイスラムではなくオスマンと戦っているのだと考えていた。しかし、20世紀にパレスチナに入植したシオニストは圧倒的にヨーロッパ人であり、アラブ人は彼らを現代の十字軍の一種であり、700年前に十字軍がそうであったように、抵抗し追い出さなければならない植民地侵略者であるとみなした。

 シオニストたちは、ガブリエルの時代からの民族主義的な衝動に従い、自分たちの民族がこの土地に対して唯一無二の古代の権利を有していると信じ、1000年以上にわたって他民族が居住していた土地に近代的な国民国家を樹立しようとしたのだ。

1 https://www.timesofisrael.com/israels-declaration-of-independence-may-14-1948/

このエッセイでは、1939年から1945年にかけてのナチスによるユダヤ人大虐殺については言及していない。というのも、上記のダヴィド・ベン・グリオンの演説から引用したイスラエルの独立宣言の部分は、大量虐殺に言及しているのではなく、むしろ本稿の19ページで言及した4つの要素(冒頭の段落: 「1948年の独立宣言は......」と始まる段落)。もし大虐殺が起こらなかったとしても、シオニスト運動はユダヤ人国家の建設を主張し、必要であれば、イギリスを追い出し、目的を達成するためにイギリス政府と軍事的に戦っただろう。

2 テルアビブ大学名誉教授シュロモ・サンド著『ユダヤ民族の発明』(2009年、英文訳)p.181f.参照。

3 https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_diaspora

4 https://en.wikipedia.org/wiki/Mandate_for_Palestine#cite_note-247 注釈 [t]

5 https://en.wikipedia.org/wiki/Mandate_for_Palestine#cite_note-224

6 帝国列強はもちろん、他の窃盗、征服、欺瞞行為によって自国の植民地の多くを獲得していた。

7 以前は、特にアメリカでは多くのユダヤ人が親独派であり、ドイツ政府は彼らの支持を維持しようとしていた。

8 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration

9 ロイド・ジョージ首相よりも強力だったのは、戦争継続を確実にするために、何カ月も前からそのような動きを計画していたミルナーとその支持者たちによって、1916年12月にクーデターによって政権を奪取されたロイド・ジョージ首相であった。それに比べると、ロイド・ジョージは政治的レトリックの才能に恵まれた元弁護士であり、政治的日和見主義者に過ぎなかったが、ミルナーはイギリスの帝国の将来に関して、彼自身の徹底した信念と信条に従っていた。

10 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration#cite_note-250

11 Cheryl A. Rubenberg, Israel and the American National Interest: A Critical Examination. University of Illinois Press, 1989, p. 26.

12 https://en.wikipedia.org/wiki/Balfour_Declaration#CITEREFHurewitz1979

13 https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=1650658. J. B. Quigley, 'The Perfidy of Albion: The Perfidy of Albion: Britain's Secret Re-Assessment of the Balfour Declaration", Ohio State University, 2010, p. 3.

14 同書4ページ。

15 同書 p. 5.

16 同書 p. 5. この英国政府メモは正確ではなかった。宣言は1917年11月2日に発表された。

14 同書4ページ。

15 同書5ページ。

16 同書 p. 5. この英国政府のメモは正確ではなかった。宣言が行われたのは1917年11月2日で、サンクトペテルブルクボリシェヴィキがクーデターを起こす5日前だった。ソビエトが1918年2月18日にドイツとの和平を最終的に求めるまでに少なくとも3ヵ月を要し、ドイツ軍は「1918年(3月21日)の大攻勢に備えて西部戦線に大軍を集結」させることができた。

17 前掲書、クイグリー、6 ページ。

18 https://www.scribd.com/fullscreen/60431057?access_key=key-136ulpy32ssl2l27p8nb

英国の外交政策に関する文書、1919-1939 年。(London: H.M. Stationery Office, 1952), 340-348 Nº. 242. シリア、パレスチナメソポタミアに関するバルフォア氏(パリ)の覚書」1919 年 8 月 11 日。

19 J. Barr, A Line in the Sand - Britain, France and the Struggle that Shaped the Middle East (2011) p. 32.

20 B. Wasserstein, The British in Palestine: The Mandatory Government and the Arab-Jewish Conflict 1917-1929 (1978), p. 92.

21 Quigley, p. 11.

22 前掲書、Quigley, p. 13.

23 前掲書、Quigley, p. 14.

24 前掲書、クイグリー、14頁。

25 前掲書、クイグリー、18頁。

26 前掲書、クイグリー、19頁。

27 J. Barr, A Line in the Sand, pp.

28 スコフィールドは、彼の新しい聖書の作成と宣伝において、裕福なユダヤ人から多くの援助を受けていた。スコフィールドの神学は、プリマス・ブレザレン創始者の一人であるイギリス系アイルランド人ジョン・ネルソン・ダービー(1800-1882)のディスペンセーション主義の教えに基づいていた。

29 これらには、ユダヤ人のイスラエルへの帰還と、「艱難の時」に信仰深い「教会」が天に召される「携挙」が含まれると主張された。これらは、20世紀のアメリカにおけるキリスト教原理主義と「キリスト教シオニズム」の主要なテーマとなった。

30 J. Barr, op. cit., p. 32.

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 現在の問題の根源を歴史的に探れば、英米仏等の相矛盾した政治的思惑に求められるが、更にその背景には、ある種の宗教的熱情があげられるようである。

 それは旧約聖書の民としてのユダヤ人に対する一部の英米人の特別な感情である。自らをユダヤ人になぞらえ、自分たちこそ新たな「選ばれた民」であるとし、救いの成就のためにユダヤ人の「故郷への帰還」を望むというものである。

 それは、また、アメリカの福音派の、キリストの再臨(そして自分たちの救い)のためにイスラエルの地でのハルマゲドンを待望するという、我々からすれば常識を越えた宗教的信念とも結びついているのだが、今のアメリカでは、このような宗教勢力の政治に対する影響力が大きいことも、アメリカの強固なイスラエル支援の一つの要因と言われている。

 

 これらのことには、今のイスラエルを支配している「シオニズム」とも密接に結びついている。

 以前紹介した『影のブラザーフッド』という本の中で、著者のハインツ・プファイファー氏は、シオニズムについて次のように述べている。

「『約束の地』、イスラエルパレスチナ、そしてシオン(エルサレム)へのユダヤ人の帰還を目指す潮流もまた、メシア主義の中に数えなければならない。シオニズムという言葉は1893年に作られたもので、このメシア的期待の宗教的な根源を表現している。」

 シオニズムもメシア待望の宗教的信条と関係があるというのだが、それゆえにまたイスラエルや欧米でそれが正当性をもっているのであろう。

 今これらの宗教的信条の是非を論じることはしないが、無辜の人々の命を奪うことをそもそも宗教が許容してよいのか、という疑問は提起しておきたい。

 残念ながら宗教の名の下に人殺しが正当化されてきたことは、宗教の影の側面として人類の歴史に刻まれている。だが、そうした宗教は、本来の姿を失ったもの、影の勢力に変質させられてしまったものと考えることが出来るかもしれない。

 

 イスラエルユダヤの問題は、非常に複雑な要素を含んでいる。

 ハインツ・プファイファー氏は同書の中で、第2次世界大戦中、シオニスト運動は、ナチスと協力関係を持ち、パレスティナへのユダヤ人移住を進めていたと述べている。

 一方、今の問題についても、正統派ユダヤ教徒の中には、本来のユダヤ教の教えにシオニズムはないとして、ガザの虐殺を批判する人達がいるという。

 当然、ユダヤ人とされる人々にも色々な立場、考えが存在するのだ。実際に世界的にユダヤ系とされる人々の影響が大きいのは明らかと思われるが、「ユダヤ陰謀論」に単純に追随することには問題があるだろう。

 ただ、そこに、例えば純粋な宗教的心情を利用して、自己の利益を追求している勢力がないかどうかに注意を向けることは意味があると思われる。

 パレスティナの地は、世界の地理的中心であると同時に、歴史的にも中心と見ることができるとするなら、そこで起きる出来事には、確かに、世界の歴史を動かす力が潜んでいるのではなかろうか?

アメリカは内戦の危機?

 昨日アメリカの移民問題に触れた記事を掲載したが、Xをチェックしていて、その移民問題に関連する少し衝撃的なニュースがあったので、速報としてお伝えする。
 現政権の不法移民受け入れ政策に共和党系知事達は反対してきているのだが、今、メキシコと接するテキサス州連邦政府の間で大きな対立が起きているというのである。

 テキサス州知事は、不法移民達を民主党支持の他の州に送り込んだりして抵抗していたのだが、更に実力行使で国境封鎖を行なおうとしているようで、これに対して連邦政府が待ったをかけたのだ。しかし、それを無視してテキサス州はこれを進める構えで、この対立は深刻な様相を呈してきているようのだ。
 州は、これに州兵を動員しており、なんと、連邦離脱も辞さないと主張しているという。そして他の共和党系州にその支持が広がり、トランプなどは、他の州に、州兵の応援を呼びかけているという。

 さらに、この対立がエスカレート(連邦軍が出動など)すれば、内戦、第2次南北戦争が勃発するのではと指摘をする者もいるというのである。

 ただ、こうした情報は、日本のマスコミでは全然取り上げられていないようだ。上の情報は、いわゆる「陰謀論系」の情報源によるものかもしれない。しかし、テキサス州連邦政府が対立してきていることは事実のようである。日本でも、国境封鎖を解くように連邦政府テキサス州に求めていることは報じられているからである。

 さて、内戦とはにわかに信じられないかもしれないが、大統領選挙を前にして、この話題がネットに時々登場していることを知っている方もいるかもしれない。トランプ氏の優勢の情勢のなかで、民主と共和党の対立が抜き差しなら無い状態に陥る危険性があることは、陰謀論ではなく、織者も指摘していることである。
 ただ、アメリカの内戦という話題は、今に始まったことではない。やはりトランプ大統領が登場してからとは思うが、既に2020年代以前にネットでそうした記事を目にしていたのである。
 当時はまさかそんなことはないと思ったが、今回の事態は、もしネット情報の通りとすれば、ひょっとするとと思わせるものである。

 一方、ウクライナで敗北が必至となり、イスラエルでも袋小路に入ってしまったアメリカ現政権は、いよいよ第3次世界大戦でリセットを図ろうとしていると語る者もいる、そうなるなら、内戦どころではないだろう。

 いずれにしても、大変な事態が迫っていると言えるが、杞憂であることを願うばかりである。

方向と人類史の関係、そして移民問題

米国に向かう移民キャラバン

 南北問題というものがある。地球の北半球に多くの先進国が、南には発展途上国があり、その格差が問題であるという事である。しかしそれは、先進国の多くが、実は発展途上国を支配し(かつては武力で今は経済的力で)、途上国を搾取してきたと言うことであった。

   この格差が、今は、移民の南から北への移民・難民の大量移入をもたらし、先進諸国で大きな問題となってきている。
 上の写真は、米国に向かうメキシコ方面からの「移民キャラバン」のものである。まるで大河の流れのような人のうねりである。この中には、実は、治安や経済状況が悪い中南米諸国からだけでなく、中国をはじめ世界各地から来ている人々もいるという。
 アメリカの都市ではこれを受け入れるために、空港内の一部や学校施設を収容所に使っているという。既に負担の限界を超えており、共和党は厳しく批判しているが、バイデン政権は受け入れを止めようとしない。なぜか?
 移民に選挙をさせて、民主党の優位を得ようとしているという者もいる.。確かにそれもありうると思われるのが今のアメリカの恐ろしいところであるが、真相は分からない。
 ヨーロッパでも過剰な移民政策に反対する声が高まっており、移民に反対する「極右」とされる政党の支持も上がってきている。一方で、最近、ドイツでは、こうした主張をする「極右」政党に「反対する」大規模なデモが起きている。ただし、発端は、この政党が移民を国外に追い出す謀議をしたという報道とされており、その背景に注意を払う必要がありそうだ。なぜなら、この政党は世論調査で1あるいは2位の支持を集めるようになっており、危機感を持ったドイツ政府は、この政党を非合法化する検討もしているとされおり、内情は複雑だからだ。

 さて、また南北というのは方向を表わすものだが、秘教的には、方向は意味をもっているとされる。自然の地理が文明の発達にとって重要な要素でることは自明であるが、それと同じ様に、東西南北の「方向」が、人類史においてはある働きをしてきたというのである。

 例えば、シュタイナーによれば、アトランティス後の文明は、インド、ペルシア、エジプト、ギリシア・ローマ・・・とその中心を移してきた。これはまさに、東から西への移動である。

 こうした考えは、だが、現代人(特に欧米人)には説得性がないと思われる。地理は、実際にその場所により違いがあるが、方向は純粋に抽象的な概念であると考えられるからだ。

 しかし、方向、方角というものに意味を見るのは、日本人などにはむしろ普通の感覚であった。昔から、鬼門などといい、日本人は方角を気にして暮らしてきたからだ。悪い方向というものがあり、目的地に行くのにわざわざ「方違え」ということまで行なっていた時期もあった。「恵方巻き」は、その年の吉方に向いて食べるとよいとされ、今でも多くの人が行なっている。

 

 今回は、こうした問題にも関わる人智学派の論考を紹介する。

 以前紹介したマルティン・バルコフMartin Barkhoff氏の、『ヨーロッパにおけるミカエルの戦い』からの一部分である。

https://k-lazaro.hatenablog.com/entry/2023/08/24/085738

 前回は、地政学に関係して、海のパワーと陸のパワーについての秘教的背景が語られていたが、今回は方角、方向の問題である。

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方向性

 海や陸のパワーの背後には、実在する物理的・霊的なパワーがあるという事実は、科学的唯物論で訓練された私たちの思考では到底理解できない。そして、この「何もできない」ことが、現代の出来事や歴史の原動力を理解できないことにつながっている。英米の世界権力の創始者や拡大者たちが世界を動かし、形成しているのは、まさにこうした思考形態なのである。

 「陸と海」と同じように、従来の考え方では理解できないのが、民族と時代の霊が存在し、それが、特に方向、天の方角に現れるという考え方である。方角は実在的でない。家や道、山や平野は現実である。しかし、私が途中で右に曲がろうが左に曲がろうが、今日は北から、明日は南から目的地に到着しようが、それは現実に比べれば些細なことだ。- そう考える。

 そうではあるがしかし、人の感じ方は違う。社会生活で最も大きな感情の揺らぎを経験するのは、人が自分をどの方向に向けるかが議論されるときである。あなたは「左」ですか、それとも「右」ですか?問題は、あなたが今どこにいるかではなく、あなたの大まかな方向性、つまり何事においてもどこから出発し、長期的にはどこに向かって努力しているかということである。精神的な方向性の決定、つまりどこに向かうべきか、どの方向に進むべきかについて人が下す判断、それはフィーリングの判断である。それについては、感情が理解できる言葉で語られる。それゆえ、人は、それを「 ... 方向」により表現する。

 昔は、「右」や「左」よりも、異なる極性の方向が重要だった。当時、感情、共同体、願望の大きな方向性は、「晩の国=西洋」と「朝の国=東洋」という言葉にあった。朝と夕方は方角だった。西の地は「夕方へ向かう」地であり、東の地は「朝へ向かう」地であった。もっと重要で明確な方角があっただろうか?それらは純粋な時代霊の極性だった。これは東西冷戦の時代にもまだ残っていて、東西の緊張関係が中心だった。部分的には、思想の戦いとして、魂の中でまだ比較的高い警戒レベルで行われていた。今、壁の崩壊とともに、それは崩壊し、消滅した。思考の霊の軋轢に代わり人々の感情を解放し、育てようとする魂に対する言論と思想を支配する魂の闘いが現われた。これは方向性の対立でもあるルドルフ・シュタイナーは講義の中で、「北からと南からの働きかけの対立」と述べている。

 この現象は、私たちが今、単なる言論と感情の戦いに突入していることをはっきりと示している。言語によってこれほどまでに人々がコントロールされることは、かつてなかったことだ。人が考え、表現しようとするもの、言葉以上のものであり、言葉や行間を読み解き、見出さなければならない思考は、いまだに何の役割も果たしていない。冷戦の時代とどれほど違うことか!今は、単に決められた言葉の使い方に従うだけである。悪い民族霊、言葉の霊、そしてポリティカル・コレクトネスのすべてが、慣習を守ることだけをコントロールしている。私たちは、規則を外れた民族霊、アーリマン的大天使たちによる一種の文化的クーデターを目撃している。彼らとその主人は、西洋文化において、独立した思考と、独立した思考なしには成り立たない独立した感情を消滅させる力を、何年も前から与えられている。言論規定への感情コントロール。正しい思考と間違った思考、あるいは健全にする思考と病気にする思考を区別する代わりに、何か別のものが使われるようになった: それは、許された言葉と禁じられた言葉を区別することである。言葉の調教。言葉による「人間」のプログラミング。言葉の調教をされた人々のこの世界では、人は、「真実」や「嘘」といった考え方はもはや意味をなさないほど、あらゆる思考存在から遠く離れている。

 

 2012年から13年にかけてベルリンで、将来ヴァルドルフの教師になる人たちに人智学を紹介し、実際に自分の頭で考えることを教えなければならなかったとき、私は模範的な体験をした。学生たちは、良い点数を取るためには何を書かなければならないのか、実際にどのような言葉を使うのかを知りたがった。ある日、私は生徒たち全員に、授業中に「自分が本当に考えていること」を言わせることに成功した。若い女性が始めた。「正しい人とそうでない人がいると考えるのはひどいことだと思った。そして、真実というものは存在しないのだと気づいたのです。それはとても素晴らしいことでした!それなら誰もが正しい!それなら、人は本当に平等だ!みんな正しいんだ。次に、ある若者がこう言った!何をしようが、何であろうが、すべてが良いことなんだ!」私は、路上で母親の子どもを乳母車から降ろして歩道に叩きつけることも良いことだと、私が正しく理解しているかどうか尋ねた。「そうだ。それもいいことだ!" 新進のウォルドルフ幼稚園の先生たちからは、矛盾も反論も不快感もなかった。彼らは自分たちではそうは言わないが、そのような "本物の "何かは大丈夫だと思っていたのだ。そして今、一人また一人と、自分たちも同じように『考えている』ことを明かした。「真実は存在しない。何が良いとか悪いとか、誰も言えない」等々。彼らは明らかに、真実が存在するという考えは嘘であり、嘘、それが真実であると考えていた。授業の終わりに、私は黒板に10センチほどの文字で「真実は嘘であり、嘘は真実である」という有名な公式を書いた。はい、それは彼らの確信でしょう。そして突然、試験でもそのように書けるのか、書くべきなのか、正しい成績を取るためには何を書かなければならないのか、という不安な質問が投げかけられた。このようなことの背後には何の考えもなく、言葉による単なる集団統制であることはすぐに明らかになった。

 クラスには、真実は存在し、真実でないものは悪いものである、生まれてもいない命を勝手に殺してはならない、何が善で何が悪なのかはっきりわかるはずだ、というような別の意見を持つ、輝くような黒人のクリスチャンがいた。クラスは全員一致で、この異端者を教育から追放するよう要求した。彼らはそのような考えを持つ人物に常に遭遇することに耐えられなかった。それは受け入れがたいことだった。その若いクリスチャンは、宣教師でも狂信者でもなく、新しい考えを受け入れやすかった。だから彼女は、私から輪廻転生とカルマについて初めて聞き、大きな関心を持って関わった。彼女もまた、あまり頻繁に関わることはなかったが、関わるときはしっかりとした態度で、よく考え抜かれた、生きた議論をしていた。しかし何よりも、彼女は神の近くにいるという生命を与える確信を放っていた。それは他人の赤ん坊を殴り殺すことよりも明らかに悪い。許しがたいことだった。クラスはヴァルドルフ教育機関に、「社会平和のために」その若い黒人少女に教育を終えるよう要請するよう説得した。私は信じられなかった。・・・結局のところ、彼女がいじめられたのは黒人だからではなく、クリスチャンだからだった。それでいいのだ。

 だから、"All are right "という言葉は、「私たちの群れに属していない人々でさえも正しい」という意味ではないことが明らかになった。その言葉の意味は、「私たちのように、霊的なものの敵として、真理と善に関わりたくないと思う者は、自分だけが正しい。真理と善を霊的な糧とする者は消え去らなければならない」ということである。

 これが、言葉によって人々を支配しているアーリマンの大天使たちのやり方である。この悪の天才は、同時に冷酷な群れの自己イメージを植え付ける。: 「あなたはとても寛容だ」と。単なる言葉による支配は、人々の魂の感情を植物化してしまう。彼らは野菜のように眠るだろう。意志の中で、彼らは家畜のような残忍さを示す。シュタイナーは、「言葉で考えることは自我をなくすことにつながる」と飽くことなく指摘した。

 今、この解き放たれた新しい言葉の支配者たちにとって、以前の文明は本当に無価値なものだと考えなければならない。彼らにとって、まだ存在する文化を完全に粉砕し、一掃することは理にかなっている。そして彼らはそうする。このアーリマン大天使のクーデターは、地理的にはロサンゼルスからゲッティンゲン、ベルリンあたりまで起こっている。テューリンゲンではすでに別の領域が始まっており、それはヴィスグレイド諸国とロシアを越えて上海にまで達している。東洋では、通常の民族霊が陣地を守っている。(これらの領域では、危険は逸脱した時代霊に由来する。)これらの圏域の境界は、今日でもはっきりと認識できる。スウェーデンフィンランドの間を通り、その後、旧ドイツ民主共和国の国境とほぼ同じとなる。バイエルンの一部を通って下り、アドリア海まで続いている。したがって、オーストリアハンガリー、スラブ諸国は東方圏に属する。ルドルフ・シュタイナー第一次世界大戦中、すでにこの国境線に注目していた。これを理解することなしに、人は過去を理解することはできないし、何よりもヨーロッパで長期的に起こるであろう出来事を理解することはできない。このように、言語により働きかける力の働きは、この現象からよく読み取ることができる。

 この「アーリマンの大天使のクーデター」に気づけば、いわゆる移民危機にも決定的な光が当たる。もし(西)ヨーロッパの人々の中に、通常の民族霊と時代霊がまだ働いていたなら、貧しく、文明と目的のない移民はヨーロッパにとって問題にはならなかっただろう。そうすれば、自立した思考と世界に適合した現実感覚が諸民族を支配し、問題に対する合理的で愛情に満ちた、そして何よりも有益な解決策が取り組まれるだろう。ロサンゼルスからゲッティンゲンまで、かつてキリスト教国であった国々に、文明のない、霊的にも魂的にも貧しい姿があふれており、彼らを一種の犯罪行為や徒党に向かうのを余儀なくさせることによって、北と同様に南の問題が解決できるとは誰も信じないだろう。しかし、通常の時代、民族霊の働く場である、理性と心は、もはやアーリマン的な民族霊の指示の下で、「私たちの国では」役割を果たすことはない。それらは、数十年来、公の生活から排除されてきた。空虚な言葉の殻、寛容と人類愛というルシファー的なブリキの飾りの背後に、新たな大いなる残忍性がすでに準備を整え、その「輝く」闇の中で働こうとしているからだ。それは善なる神々によってそう定められている。闇の神々の働きが明らかならなければならない。

 したがって、移民問題は-事実を直視する勇気を振り起こすことが必要だ-ドイツ人、フランス人、イギリス人、アメリカ人、スウェーデン人などのアーリマンの大天使たちによる憑依の問題なのだ。アラブ人、アフガニスタン人、アビシニア人、モロッコ人、ガーナ人の本当の問題ではない。問題は私たち自身の悪魔、アーリマンの大天使、そして大量に憑依されている私たち自身の民族の仲間の問題であることを理解する勇気を見つけなければならない。そして、この問題には数十年の「解決策」はない。「解決策』はまず数十年かけて育っていかなければならないのだ。

 「解決」の前に、人はまず問題を冷静に考えることを学ばなければならない。「今すぐ世界の問題を解決してやる」と子供じみたことで自分に麻酔をかけることをしてはならない!小説『ロード・オブ・ザ・リング』で、闇の支配者がナズギュール(黒い騎兵隊)に囲まれて登場するのと同じように、西洋に帝国を築き上げる擬キリストの姿を想像すべきである: キリストに仕えるアメリカ人、イギリス人、スペイン人、フランス人、ドイツ人の言語民族の霊の輪の中で、時代の霊とともに。ある者は思考を消し去り、ある者は感情を悪性の昏迷にねじ曲げ、最低の使者は本能を通して人々を悪行へと導く。

 解決策は勇気ある認識から始まる。まず必要なのは、精神的状況の現実的な認識である。そして、私たちはまさにその始まりにいる。そのためには、「彼」と一緒に学校に行かなければならない。しかし、私たちはそれを望まない。「私は自分でできる、ヨーロッパ・アメリカを救う方法を知っている!私は世界の救世主だ!僕は世界の救世主なんだ! 最初から学び直す必要なんてないのだ。」 このような感情、このようなプライドのために、私たちは何も学ばない。「彼」から学ぶべきものは、彼の学徒、ルドルフ・シュタイナーにおいてわかる。私たちは、繊細になりすぎてはいけない、また「彼の」学校に行ってはならない。

 そして、誰も学ぼうとしない限り、西欧人の大多数は、自分たちをおしゃべり人形にする存在に支配される-支配されることを望む-だろう。思考停止と群れのような非社会性から救われない限り、である。そして、これらは必然的に私たちを貧困、無法、あらゆる分野における無能力へと陥れる。私たちの文明が一掃されようとしているとき、移民によって引き起こされる社会構造へのダメージは、それ自体では解決できない、非常に特徴的で覚醒した部分的な現象にすぎない。

 しかし、話を講義の方向性に戻そう。

 なぜ正規と非正規の霊達が北と南に関係しなければならないのか?このことを理解するためには、ルドルフ・シュタイナーが1909年に「人智学」というテーマで初めて行った講義のように、明確にしなければならない、彼は、そこで、人間の研究と歴史の地理学とを重ね合わせている。それを今、私たちも行なう。地理学に移行する人間学について少し研究してみよう。

 人間には3つの異なるタイプの「私性」が存在する:

 

肉体的な「私」-「私-体」

魂的な「私」-意識の中心

霊的な「私」-身体と運命を形成する、無意識のうちに働く発展の力

 

 肉体的な「私」は、生まれながらにして私たちに与えられている。それは、本質において、私たちが受動的に受け入れるものである。この自我体は、多かれ少なかれ魂と霊的エゴの影響を受けて形成される。この肉体的な「私」は、21歳頃に独立していわば生まれる。この自然なエゴは、自分自身を自明の自然な事実として、肉体的対象として認識し、自然な自我中心主義の中でこの自己認識を生きている。これを点自我と呼ぼう。

 魂的「私」は、私たちが意識するものの、私たちの日常意識の中心である。この自我は魂とともに経験し、魂とともに理解し、魂とともに計画を立てる。魂的自我は、自然自我よりも内面的で、肉体から自由であり、同時に、制限された自我体よりも環境に関心がある。社会的環境により強く自らを向け、社会によってより強く形づくられる。それは社会的自我であり、自己中心的自我とは対照的な社会自我である。

 個人の中心と環境の間で呼吸する、呼吸自我と呼ぼう。

 霊的な「私」は、私たちの肉体にも意識にもその基盤はない。私たちの肉体の外で「活動的知性」として働いているのだ。それは夜の間、そして誕生と死を超えて、私たちの意識なしに働く。それは、私たちの周囲から私たちに働きかける。アントロポゾフィストはこれを円周エゴと呼ぶ。

 

 私たちはこの3種類の自我をすべて地球から受け取っている。それらは地球からの贈り物なのだ。私たちが地球に転生したのは、この贈り物を受け取るためであり、本来の人間になるためなのである。実際、これら3つの自我は、地球が行っていることの直接的な表現なのだ。地球全体として、地球は常に3つのことをしており、3つの動きをしている:

 

自分の周りを回転:日

太陽の周りを回転:年

軸を新しい星に向ける: 世界年

 

 昼と夜の動きによって、地球は私たちを目覚めさせ、眠らせる。これが自我体の基本である。覚醒するリズムは、自我の経験で自分の身体をつかむことと同じであり、眠りに落ちるリズムは、自我の経験を手放し、自我の意識を失うことと同じである。もし私たちがいつも自我を持っていたら、それに気づくことはできないだろう。自我を日々受け取り、失うことは、自然な自我の基本的なプロセスである。それは地球が自転しているおかげである。この自転によって、地球は宇宙の中で自らを安定させている。この自転によってのみ、整然とした気象プロセス、リズムのプロセス、そしてあらゆる高次の自然が可能になるのだ。地球の自転は、地球という惑星の自我性質、すなわち地球霊の基礎でもあるのだ。

日  = 自然自我

 

 年は、社会を作る。自然が年周期で組織化されているところでは--熱帯地方ではそうではなく、日周期しかない--人々は、稔り少ない時間に確実に生き残るために協力しあわなければならない。この年において、人々はその信頼性、社会にとっての存在意義を試される。この年は、共通の利益のために自分の価値と他人の価値を見極めるよう人々を教育する。そして年は、地球の社会的な動きによって誕生する。-大きな太陽のまわりを、他の惑星とともに太陽系として動くのだ。

年 = 社会的自我

 

 世界年は、「人類の変容」を意味する歴史のプロセスに衝動を与える。世界年の月は、歴史の偉大なエポック(時代)である:

最初の大帝国(メソポタミア、エジプト)

古代(ギリシャ、ローマ)

近代

 

 歴史は、いつものように、人間が生き(日)、創造する(年)だけでなく、自らを変容させ、別の存在となり、霊をもって創造的に介入する場に生まれる。世界年は、地球がそのすぐ隣を向いているだけでなく、ほぼ静止している恒星に対して、常に新たな別の位置を定めるという事実から生まれる。星空は、永遠を物理的に表わすものである。地軸の回転によって、地球は大きなリズム(2160年の12回)で新しい星の位置に自らを合わせている。一般的に言えば、2160年ごとに新しい北極星と整列する。

世界年 = 周辺自我

 

 これらの3つの地球の動きは、点自我、呼吸自我、周縁自我の存在を可能にしている。従って、地球は、これらの3つの自我が生まれ、自然に、霊的に働くことを可能にしているのだ。

 

 そして惑星的なものから地理的なものへ

 日、年、世界年は、時間において働いているだけでなく、空間にもそ場所をもっている。

 熱帯は、日のゾーンである。そこでは、いつも同じで、しばしば劇的な1日の動きにより特徴づけられる。年は感じられない。それが「南」である。南は、主に自我体を形成する。

 極域は年だけを知っている。そこには昼夜のリズムは存在しない。それが「北」である。ここでは社会的自我が形成され、自我を実証する。

 温帯では、その両方が互いに影響し合う。そこで歴史は本質的に行われてきた。歴史はそこに自然な基盤を持つ。温帯は、主な歴史的大陸であるユーラシア大陸で、東西関係として形成されている。

 こうして私たちは、人間学から地理的人間学へ、そして天空の方向へと戻ってきた。

 

 このような背景から、現在、一種の機械人間を一時的に作り上げなければならないアーリマン的大天使たちが、南から(熱帯から、「日」から)働こうとするのは筋が通っている。彼らは魂的自我とその自由の可能性を排除しようとしている。この目的のために、彼らは、温帯の人々において、日と年、南と北の諸力の調和したバランスを破壊し、南の力の過剰で間違った影響によって、肉体自我を広範囲に硬化させる。物質的肉体的なものに特別な影響を及ぼす南の力の誤った使用によって、不規則な民族霊は、もはや自分自身で考え、自分で感じない人間もどきを形成する。その結果、温帯では(南そのものではなく!)、自分自身を、ただ体として-魂を持たず-、世界から切り離された孤立したものとしてしか経験しないタイプの人間が優勢になる。ルドルフ・シュタイナーは、ある段階では避けられないこのプロセスを、私たちの前に差し迫った「魂の廃絶」と呼んだ。

 これに対抗しているのが、本来の進化を遂げている霊達である。彼らは、魂を導いて、自我から魂を強化させ、ひいては身体性をますます魂の模像とイメージにする。彼らは、何よりもエーテル的に強く、魂に肉体を刻印する力を与えることができる北の力と協力する。エーテルには結びつける作用がある。本来の進化を遂げている霊達は、その働きにおいて一層合流していく。そして、ルドルフ・シュタイナーが言うように、「輪舞」するように、人類の力になるのである。彼らは、また完全にエーテルから働くキリストの指導のもとでこれを行うのである。

 

 結論として、南の力そのものは問題ではないということをもう一度指摘しておく。それは、人類にとって絶対に必要なものなのだ。それがなければ、人間であることはまったく成り立たない。

 問題なのは、温帯地域でそれらが誰にどのように使われているかということである。南部の人々は、北部の人々に比べて精神世界とのつながりが薄いわけではない。マリドマ・ソームの著書に親しんでいる人、アフリカの精神生活に関心のある人、ブッシュマンに関するローレンス・ヴァン・デル・ポストの著作を真剣に読んだことのある人、クレド・ムトワのようなイニシエイトに関心のある人なら、霊的体験や霊界からの導きが、長い間私たちにおいては起こり得なかったような仕方で、熱帯地方の本来の生活に直接働きかけうるという出来事に、いたるところで出くわすだろう。

 肉体的物質的な自我存在は、地球の自転が、それがなければ地球の生命がないのと同じくらい不可欠なものである。しかし、あらゆる力がそうであるように、人間に対して敵対的、破壊的な目的のために、間違った、さらには邪悪な方法で使われることもある。私たちは今、それを研究することができる。そして、誰がその様に振る舞っているかを理解することが極めて重要なのだ。

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 最初に述べたが、移民の問題に関して、どうも欧米の動きは不可解である。政権側は、自国への不法移民を推奨すらしており、これにより社会が破壊されると右派は批判しているが、客観的に見てもそうなってきているようなのである。
 ヨーロッパでも、やはり大きな問題がうまれている。一部の国を除きEU諸国の指導者は、「人道的立場」から移民を受け入れる寛容な姿勢を示してきたが、結果的にEU諸国の治安と経済が悪化してきたことも事実である。先日、ドイツ在住の方の話を聞いたが、移民者への支援が優先され、ドイツ人自身への社会保障が削られた結果、街灯に溢れてきたホームレスの大半が、移民ではなく元々のドイツ人という状況だというのだ。

 なぜその様な状況を現政権は作り出しているのだろうか。単に人権という言葉では、説明できないように思われる。

 問題は経済面、治安面だけではない。受け入れる側の国の国民性や文化の破壊という面もあると思われる(逆に「多民族文化共存」とも言えるが)。

 だが、実は、大量の移民受け入れに批判的な考えは、一部の人智学派にも存在するのだ。それは勿論、その背景にある霊的問題からである。

 ルドルフ・シュタイナーは、基本的にコスモ・ポリタンで、民族や人種の枠にとらわれない思想、立場である。現代において第一に尊重されるべきは、その様な集団ではなく、人間個人そのものなのだ。だが、それは、現状の民族を主体とする国民国家の存在を一挙に否定するものでもない。それらを指導する民族霊は、大きな視点では、人類の同じ目標に向かって、それと調和するように各民族を誘導している。今の段階ではまだ各民族の「個性」も尊重されなければならないと言えるだろう(人は、過去のカルマにより、その課題を果たすために特定の民族に生まれてくるということもある)。

 そして、特定の民族には、その時代を先導する役割が与えられているのだ。

 シュタイナーによれば、次の(文化)時代を担うこととなるのはスラブ民族で、それを助け、西側との橋渡しをする役目を負っているのがドイツなど中欧の民族であるという。そして、現代史は、自分たちの覇権を維持するために、これに対抗し、それを阻止しようとアングロ・サクソン民族(その一部エリート、秘教主義者)の水面下での動きをふまえなければ、真の理解は得られないのだ。

 

 それでは続けて、こうした問題に関わる別の人智学者の論考を次に紹介する。

 著者については詳しく分からないが、ドイツの人智学者と思われ、人類の精神的発展史とそこにおけるドイツ民族の役割、これを阻止しようとする英米の秘教的勢力の策略としての移民政策を論じている。

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ドイツ国民と文化の破壊、それは人道に対する罪である

Der Europäer Jg. 28 / Nr. 2/3 / Dezember/Januar 2023/24

 

 中欧への国境なき大移動は、ドイツ民族の-しばしば顕著な-溶解をもたらす。

 ドイツ民族の、ひいてはそれが千年以上にわたって生み出してきたドイツ固有の文化の、そして未来の文化としてドイツにまだ内在するものの阻止である。この怪物のようなプロセスの加害者は、盲目的な憎悪に満ちた政党政治家たちであり、彼らは知ってか知らずか、世界帝国主義計画の実行者にすぎず、そのために意識的に自らを置き、あるいは無意識のうちに道具立てされている。しかし大衆文化の喪失は、その文脈の中で計り知れない結果をもたらす。

 

 人類の発展という観点からは計り知れない結果をもたらす。ほとんどのドイツ人は、この人道に対する罪の大きさに気づいていない。

 何十年もの間、EU、国連、アメリカの各界は、「同質的な民族」を混ぜ合わせることで解消し、「単一文化国家を根絶」し、「多文化的」な集団を作り出すために、大量移民を推進してきた。ドイツの左派・緑派が今日、自国民を消滅させることを最も熱心に主張しているのは、第二次世界大戦直後、英米戦勝国がドイツ人の「再教育」を通じて準備したことである。両大戦の責任はすべてドイツにあり1国家社会主義は悲劇的な悪への転落ではなく、ドイツ文化、とりわけドイツ理想主義の思想家たちに内在する論理的発展であると、彼らは絶えず示唆に富んだことを聞かされた。

 このような盲目的な文化的破壊は、全般的な物質主義的衰退、生活条件の野蛮化、身体的・精神的欲求の初歩的低下という時代においてのみ可能である。これは社会全体において、経済生活の絶対的な支配と、全能の国家の権力構造の中に表れている。

 

 しかし、人間であることの本質は、精神的・文化的な生活の中にある。人間と世界の知識、人間自身の存在の起源と目的、人生の実際の意味についての疑問が、人間の科学的、宗教的、芸術的な努力を促し、その中で動物的存在を超えた人間性が開花する。

 経済的な生活は、単に肉体的な存在を確保し、慰めるためのものであり、・・・動物の生活が、地上での生存を確保することに大きく疲弊しているのに対して、人間の経済生活は、人間が実際の人間性を発揮し、精神的、霊的な成長を遂げるための基盤を形成するものである。そして国家の法律は、文化的生活から引き出された人権に基づき、秩序ある共存が行われるための枠組みを確立する。

 経済と国家は、今日では第一義的なものであるが、真の人間秩序においては第二義的なものである。それらは文化に対して奉仕的な機能を持ち、文化的生活の教育システムからのみ、そのアイデアと能力を受け取る。

 

歴史

 歴史が支配者の政治的・軍事的行為や、最近では経済的発展にほぼ独占的に関係しているとすれば、それは人間生活にとって完全に二次的で表面的なものにとどまる。重要なのは、文化的発展の継続的な歴史であり、そこから他のすべてがそれぞれの形で現れてくるのである。

 多くの外部証言が残されているエジプトのキリスト教以前の数千年にさかのぼれば、経済と国家がいかに支配的な文化的生活によって特徴づけられていたかが、特にはっきりとわかる。そして文化は、宗教的生活、すなわち地上生活と、そこから生まれた霊的で神聖な世界との一体化の経験によって完全に決定された。そして、当時の神殿や学院で秘儀に入門した司祭たちは、神的存在との認知的なつながりを維持・育成し、その指示に従ってあらゆる分野の生活を組織しなければならなかった。

 「文化」という言葉も宗教的な起源を持ち、教会の礼拝における宗教的儀式「カルトゥス」に由来する。それがいまだに「文化省」に含まれていることに気づく人はほとんどいない。

 私たちは、神権政治が次の時代にどのように解消され、教会と国家に分割されたかを見ている。ギリシアキリスト教以前のローマでは、宗教生活はまだ秘儀と密接に結びついていたが、そこで今まさに発展しつつあった哲学的・科学的思考は、秘儀から文化生活としての公的領域に現れた。ヘラクレイトスプラトンのような偉大な哲学者たちは、彼らがまだ秘儀に入門していたことを示している。ローマ・キリスト教会は、アリストテレスに触発された哲学と世俗の諸科学を、中世に出現した大学や修道院の中で長い間保護し続けた。

 哲学的・科学的思想と教育が教会から解放されたのは、最後の数世紀になってからである。哲学・科学はますます国家に依存するようになり、国家を通じて経済生活にも依存するようになった。そして、国家政治生活の支配と産業経済生活の巨大な成長の中で、真の人間性、どこからどこへという問い、人生の意味と意義が展開される文化的生活の本質的な価値に対する卓越した感覚は、ほとんど失われてしまった-それは大教会の衰退にも表れている。

 

意識の発展

 しかし、人類の文化的発展の歴史であっても、文化が育まれる魂の状態、つまり意識の状態を考慮に入れなければ、不完全なままである。文化的な制度や人間関係は、人々の行動から生まれ、それは人々の中にある思考、感情、意志的な衝動からしか生まれない。したがって文化は、人々の魂と意識の状態が変化する限りにおいて変化する。したがって文化の歴史は、必然的に人間の意識の歴史でもある。何千年にもわたって絶えず変化してきた人類の文化は、必然的に人々の意識の変化に基づいている。しかし、人々の意識を絶えずゆっくりと変化させているのは誰なのだろうか?

 古代エジプトのように、生活のすべてに浸透する高次の神的世界との関係が浸透していたこと、人々の生活の中に神的存在が遍在していることが目撃されていたこと、それが自然現象の中にも、魂の中の道徳的事例としても創造的に体験されていたこと、人々の思考が今日のように陰影に満ちたものではなく、霊的存在の啓示に満ちていて、それらが介在することなく、外部の物理的世界の認識とともに流れていたことが前提となっている。

 今日の知識人たちが、これを初期の人間の豊かな想像力の産物だと鼻持ちならないことを言うとき、それは彼ら自身の無思慮な空想の表現にすぎない。

 

 しかし、この意識状態は、人々が高次の精神世界の圧倒的な経験によって決定され、それに完全に依存し、自由がないことを意味していた。子供のように、自らを認識し、自らの行動を決定できる強い自我をまだ持つことができなかったのだ。このことはまた、社会生活全体が、神または神から任命された上級の支配者に率いられた、階層的・神政的な構造であったことを説明する。

 その後のグレコ・ローマ時代のハイカルチャーでは、人々の魂の中にあった現実に満ちた思考イメージは明らかに廃れ、想像力のない概念や観念へと変化していった。その結果、より純粋な肉体的感覚と、人間と世界との内面的な対立が生まれ、さらに人間自身の自立の経験が深まった。ギリシア文化の哲学的・科学的性格、民主主義的努力の出現、ローマ共和国における市民の法的人格の強化は、このような理由から生まれた。

 キリスト教の出現以降、思考は神々から与えられたものではなく、むしろ感覚世界の知覚からその内容を引き出す自分自身の魂の産物として経験されるようになった。意識が人間の介入なしに生まれた物理的・物質的世界に還元されたことで、物質主義的な科学技術が支配的になり、物質的な経済生活が生活のすべてを支配するようになった2。

人々は地上の物質的なものしか認識せず、精神的で神聖な世界とのつながりをまったく感じなかったため、そのような世界は存在せず、人間は物質的なプロセスの進化的結果に過ぎないという考えに至った。

 発達史の観点から言えば、これはもちろん素朴さであり、意識の一時的な状態を見抜けず、それを絶対視する。一方、意識は「人類の教育」(レッシング)のために絶えず変化しており、人間は一定の発達段階を踏み出すために、常に意識の新たな状態に置かれている。

 そして、人間の内的自立、自律性、自由の可能な限り最大のプロセスが、神的世界から意識を完全に分離することによって出現するのを見るのである。

 しかし、純粋に肉体的・物質的存在という孤立した意識への下降は、人間がそこから抜け出せなくなり、それを全体的な発達の過渡的段階として理解しなくなるという大きな危険を伴う。生命、魂、精神は、高次の精神世界との関連においてのみ理解されるものであるが、その本質的価値を失い、第一の物質的過程から煙のように立ちのぼり、死とともに無に帰する第二の現象としてしか認識されなくなる。

 このことは当然、無数の人々に精神的・霊的な荒れ地と内なる荒廃をもたらし、彼らは富と他人を凌駕する力を外的に追求することでしか自らを麻酔することができない。

 人間の精神が、人間の起源である霊的・神的世界から完全に切り離されることは、一方では、独立した、自己決定された、自由な自己として自己を把握する可能性を秘めるが、他方では、絶対的な精神的・文化的荒廃、いわば、精神的存在が窒息してしまうような物質的窮屈さの危険性を秘める。私たちはすでに、このような衰退に向かって長い道のりを歩んできた。そして究極的には、それが現在の巨大な社会的・戦争的破局の根底にある。

 したがって、人類がさらに積極的に発展していくためには、精神的で神聖な世界とのつながりを、独立した自由な個性を認識する意識の中で、より高いレベルで再確立するような新しい文化に到達する必要があることは否定できない。

 

文化システム

 以上のことから明らかなように、人類の発展は、高次の創造的存在によってもたらされ、発展的目標に向かって導かれ続けてきたに違いない。異なる民族文化への分化を詳しく見てみると、高次の存在の影響と導きが明らかになる。

 ある民族の文化的共同体において、人々は世界に対する非常に特殊な基本的精神態度を採用し、そこから特定の種類の精神的、芸術的、宗教的努力に向かう傾向がある。言語において、言葉の形成と使用において、文法と構文において、民族共同体の精神的構成が最も直接的に明らかにされ、それは詩や文学において、音楽、絵画、造形芸術において、また科学や法律において特別な表現を見出す。

 しかし、ある国の国民が特別な方法で感情的に構成され、典型的なイタリア人、典型的なイギリス人、典型的なドイツ人と呼ばれるのは、どこから来ているのだろうか。この特殊性は、人々の間で合意されてもたらされるものではない。過去のある時点でも、後のある時点でも、誰もが今このように振る舞いたいという合意はない。その知恵と芸術的な構造を持つ言語は、確かに人間が意識的に作り上げたものではない。人間は無意識のうちに言語へと成長し、言語の中で動き、言語によって捕らえられ、形成される。彼はそれをさらに発展させるが、それは原則として人々の精神的構成の衝動からであり、それは彼にとってまったく無意識のままである。このことは、民族文化の言語と統一された様式は、人間以上の存在の影響によるものでなければならないという妥当な結論を導くだけである。

 

 過去の偉大な文化的エポック【時代】もまた、常に、発展の新たな一歩を踏み出す傾向が特に強く、進歩を遂げ、その足跡を他の人々がたどることができた民族によって特徴づけられてきた。たとえば、紀元前3世紀から2世紀にかけては、エジプト人バビロニア人、シュメール人がそうだった。そして紀元前1千年紀以降、ギリシア人とローマ人がまったく新しい発展の影響をもたらした。

 そして現代のどの民族が、今必要とされている進歩を促す文化的素養を持っているのかという疑問が生じる。文化的なものはすべて意識の可能性から生じるのだから、物理的な世界の鉱物的な死者の理解に完全に限定された、今日の影のような死者の思考を深化させ、霊的・神的世界から流れ込んでくる生命と魂・霊的本質を本当の意味で把握し、経験できるようにするためには、魂・霊的な素質がなければならないだろう。

 現代の民族の文化を見れば、その深層にその傾向があるのは、まさにドイツを中心とする中欧の民族であることがわかる。

 

ドイツ文化活動の核心

 ドイツ人の中心的な特徴は、徹底したものを好むことである。これは、科学的法則を完全に理解し、それを完璧な技術で実現した結果である物質的な製品の質だけでなく、あらゆる知的努力にも表れている。それは、物事の本質に迫ろうとする一般的な衝動であり、表層にとどまることなく、あらゆるものがそこから成長する究極の原因へと突き進もうとするものである。ゲーテは『ファウスト』の中で、この努力を劇的に擬人化した。ドイツ観念論の哲学者たちは、人間の最高の認識力である思考力を調査し、深めることによってこれを達成しようとした。

 たとえばヘーゲルでは、感覚世界や感情的経験に由来するあらゆる思考を控え、あらゆる非思考から解放された純粋な思考そのものに完全に集中している。・・・そして、本質的に世界の創造的思考がいかに自分の中で思考しているか、その思考は超感覚的な性質のものであり、この思考を深めることによって超感覚的-精神的世界へのアクセスが見出されることを経験するのである。

 ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、日常的な意識の概念を、人間がまだ完全な現実に目覚めていない夢の状態のイメージであると表現した。・・・私の魂には、すべての存在の創造的な力と一体となった力が生じる。その力は、私の純粋な思考に概念や観念を生じさせるが、それは知性のイメージのように平面的で生気のないイメージではなく、霊的存在の現実を生き生きと内に秘めている。認識と宗教は一体である。

・・・フリードリヒ・ヴィルヘルムシェリングにとって、自分の魂の中にある精神と自然の中で働く精神との間には関係がある。後者は外側のヴェールの後ろに隠れていて、いわば人相のようにそれを表現する物理現象に魅了されている。人間の顔立ちの筋肉の動きを描写するのではなく、それを通して人間の魂の動きを体験するように、人は自然の多面的な表情を読み取ることを学ばなければならない。

 18世紀から19世紀にかけて、ドイツの詩人や思想家たちが超感覚的な精神世界へと知識を広げようとした試みは、基本的には萌芽的なものにとどまった。ルドルフ・シュタイナーが、ドイツ文化の源泉を包括的に引き出したのは20世紀に入ってからのことであり、彼が開発した人智学的精神科学において、純粋で生きた思考を、「経験を通じて精神世界を認識することができる」見る意識へと導く方法を示した3。そして文化史の観点から、人類の発展にとってドイツ文化が現在極めて重要であることを指摘した。

 客観的な観察によれば、高度な文化を持つ古代ギリシア人が当時の時代に対して果たした役割は、現在の時代においてはドイツ人に当てはまる。そしてその課題は、包括的な「霊的経験を観念の世界へと形成する」ことにある4。観念の世界とは、人間から独立して客観的に存在する霊的神的世界の水準を意味し、そこから本質的な霊的世界の明確な視覚的認識を発展させることができる。

 しかし、ルドルフ・シュタイナーの現在の、そして文化史的な意義は、一般的な文明ではまだ認識されていない。それどころか、彼はあらゆるレベルで大反対されている。

 

破壊の意志

 歴史学者マルクス・オスターリーダー博士が示しているように、19世紀後半、イギリス、カナダ、アメリカの貴族、政治家、経済エリートの多くの代表者が、西半球に共通の文明的、政治的、社会的文脈を形成しなければならないという考えを追求していた。それは、「大西洋共同体」で、「アングロサクソン民族」、あるいは同義語として「英語を話す民族」であり、人類に対する指導権を主張するものである5

 彼らの多くはオカルトのロッジに所属しており、その教えから、現在と次の千年紀における中央ヨーロッパの文化的リーダーシップの課題など、人類発展の精神的法則に精通していた。しかしこれは、選ばれし「アングロサクソン民族」であるという彼ら自身の主張と矛盾していたため、彼らは大戦争でドイツを排除し、その座を奪おうとした。

第二次世界大戦の準備の一環として、英米の銀行を通じてドイツで急成長する国家社会主義を財政的に支援し、そうしなければ実現できなかったであろう権力獲得への道を開くことが行われた7

 この内部攻撃は、今や大量移民によって最終的なクライマックスに達した。それは、オカルト帝国主義の目的のためにアメリカが支配する国連やEUなどの国際機関によって画策されている。すでにかなり進んでいるこのプロセスが最終的にその目標に到達するならば、現在の文化的エポックはその発展目標に到達できず、その後の文化的エポックも到達できないだろう。

 この致命的な発展を少しでも食い止めることができるとすれば、背景を十分に知った十分な数の人々が、自らの認識能力を、すべてがその上に成り立っている精神的・神的世界の明確な科学的理解へと拡大する努力と組み合わせることによってのみ可能である8

 そうすることによってのみ、さらなる破壊の大惨事を防ぎ、健全な方向へと発展させることができるのである。

ヘルベルト・ルートヴィヒ

 

1 参照:

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2014/08/04/wie-einflussreiche- Circles-in-england-driven-to-first-world-war/

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2015/04/30/von-der-wegbereitung- ブリティッシュアメリカン・ファイナンシャル・サークルによる国家社会主義の/

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2015/05/29/zwang-england-hitler- for-the-attack-against-poland/

2 自由の条件としての死も参照。

3 ルドルフ・シュタイナー:人間の謎(GA 20)。

4 1916年3月12日のルドルフ・シュタイナー、GA 174b, p. 146.

5 参照:英米の世界支配...

6 参照:

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2014/07/14/elitarer-nationalismus- and-imperialism-in-england-before-the-first-world-war/

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2014/07/25/okkulte-einflusse-im- english-imperialism-before-world-war-1/

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2014/08/04/wie-einflussreiche-kreise- in-english-imperialism-before-the-first-world-war/

7 参照:

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2015/04/30/von-der-wegbereitung- of-national-socialism-by-british-american-financial-circles/

8 参照:

https://fassadenkratzer.wordpress.com/2022/12/16/uber-die-wissenschaftlichkeit- of-anthroposophy/

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 上で述べられた英米のオカルト・ロッジの目的や動きなどは既に何度か取り上げたものであった。これまでは、次の文明期を担うロシア、スラブ民族への攻撃が主に語られたと思うが、今回は、これら東の民族と連携する(西と東をつなぐ)役割を担うはずのドイツ、中欧民族への攻撃として大量の移民移入が論じられていた。

 ここで指摘しておかなければならないのは、このように移民問題の背景を説明しても、移民を排斥すべきと訴えているのではないことである。祖国で住めず逃れてきた移民は当然、人道的には保護しなければならない。

 ただ、単なる経済的理由で他国に不正に入り込もうとする人々もいるのだ(当然、正規のルートも存在する)。またその背景にある祖国の貧困状況や治安の悪化こそが根本原因であり、その解決に目をつぶって、むしろそれを煽るようにして、意図的に大量の移民を生み出していると思われることが問題なのだ。

 

 現在、このような主張をすればおそらく差別主義者として批判されるだろう。実際、シュタイナーは、欧米の一部で民族差別主義者として批判されているのだ。上の文章を見ても、その様に受け取られかねない点が確かにあると思う。

 しかし、前に述べたように、シュタイナーは、民族や団体、組織よりも個人を尊重する立場である。今後は益々、自由な個人の発展が重要となっていく。民族や団体、組織はそのための物質的基盤を一時的に提供しているに過ぎないのだ。

 むしろ、このような自由な個人を否定しようとしているのが、西の影のブラザーフッドなのである。

 きがかりなのは、上の論考はドイツの民族性、そしてその本来の役割を破壊しようとしている動きを論じているのだが、実際に今、ドイツはかなり危険な状態になっているように見えることである。
 もともと緑の党外務大臣は、国民が反対しようと、ウクライナへの支援を進めると公言していたのだが、農民や労働者層の大反対運動(ウクライナ問題に対してだけではないが)が行なわれてきているにもかかわらず、またウクライナの敗北が決定的になっているにもかかわらず、支援の姿勢を変えようとしないのだ。さらに、ウクライナが負けるなら、NATOあるいは有志連合でロシアに対抗しようというような姿勢まで見せているようなのである。
 ある者は、ドイツにナチスの亡霊が蘇ったと言うが、結局、かつてナチスに裏で手を貸していた西側の勢力の下にドイツは戦後も組み込まれていたのだから、もしそうであるとしても、それは当然のことなのかもしれない。

 しかし、実は、この枠組みは日本にも当てはまるものだ。東の民族として、日本人にも課せられた使命があるのだが、日本もやはり西のオカルト勢力の影響下において、まさに、今ドイツのように戦争の準備を着々と進めているように見えないだろうか?私たちは、これを先ず認識する必要があるだろう。