k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑩

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ネルケンマイスター「羊飼いの礼拝」(左)、「王の礼拝」(右)

 日本では、クリスマスは、クリスチャンであるないに関わらず多くの人が行う行事となっている。誰でも、それがイエスの誕生を祝う行事であることを知っている。
 クリスマスは、「キリストのミサ」が語源である。一般に家庭では、「クリスマスイブ」の12月24日の夜に行われるが、キリスト教会ではキリストの降誕祭を25日に行う。しかし、実は、教会の使用する教会暦は、1日が日没から始まり翌日の日没に終わるユダヤ暦を踏襲しており、24日の夜はすでに教会暦の25日に当たるのである。
 クリスマスにちなみ、よくこの時期、イエスの降誕の場面を描いた絵等を目にする。多くの場合、そこには、聖家族(イエスと母マリアと父ヨセフ)の他に、羊飼いや3人の王(あるいは賢者)が描かれている。人々の認識は、イエスが生まれた時、先ず、天使から教えられた羊飼いがやってきてイエスを礼拝し、次に3人の王(あるいは賢者)がやってきた、というものであろう。
 こうした物語の根拠は聖書、更に言えば、その中のルカ福音書とマタイ福音書にあるのだが、実は、ルカ福音書はマギについて、マタイ福音書は羊飼いについて全く何も語っていない。つまり、ルカ福音書によれば、イエスを礼拝するのは羊飼いのみ、マタイ福音書によれば、3王のみとなっているのである。これは、単なる記録の欠如であろうか。
 この事実は、昔から神学者の頭を悩ませてきたようである。実は、この二つの福音書は、それぞれイエス幼年時代を伝えているのだが、両者で矛盾していると思われる記述があり、これも神学者にとっては問題であった。

 この謎に、クラウゼ=ツィンマーの『絵画における二人の子どもイエス』によって迫っていきたい。

 クラウゼ=ツィンマーが、これを論じるために先ず対象としたのは、スイスのフリブールにあるフランシスコ派教会の「ネルケンナデシコ)のマイスター」の祭壇画である。「それは、1480年に、名前の代わりに白と赤のナデシコを記している、一人ないし二人のマイスターによって制作されたものである〔上図〕。」
 一つの祭壇に、イエスの誕生を描くこの二つの絵が存在するのである。それらは、一見、二組の訪問者を別々に描いたように思われる。しかし、クラウゼ・ツィンマーは、次のように、そこに存在する謎を解き明かしていく。

両方の礼拝光景で、馬小屋に余り違いはなく、ヨセフとマリアはどちらも同じ様な服装をしている。しかし芸術家は、このテーマの語彙を用いて何を形作っているのだろうか。それは、その都度私達を別な世界にもたらすのである。
 磔刑の図の左では、マリアの傍に、生まれたばかりの子どもが、地面に広げられたオムツの上に裸で横たえられている。ヨセフは、馬小屋のランタンをその上に掲げており、その開いた口から、ロウソクが光の他に僅かな熱を送っているようである。母親の左には動物がおり、右手には、ヨセフの背後に二人の羊飼い達が、礼拝するために近づいてきている。しかし、彼らの眼差しはまだ中央の光景に向けられてはいない。絵の観察者が見ているものは、まだ彼らには遮られている。つまり彼らはまだ“到着”していないのである。
 彼らの体の向きと、外壁に沿って進んでいる眼差しを追うと、馬小屋の壁と牛から、マリアのマントのすそに沿って大きくカーブし、花の上を通り天使に至り、更にヨセフとマリアの間を通り、子どもの輝く中心に至る。すると、羊飼いの道が、内側に向かう螺旋として予感されるのである。オイリュトミー*1 を知る者は、ルドルフ・シュタイナーが、空間において内側に向かう螺旋の動きに対して「汝の内を見る」という言葉を添えたことを知っている。内面性と親密さが、とりわけその芸術的構図によって、この絵からも流れ出している。この画家は、聖家族がまだ自分達だけでいる時間を描いている。従って、秘密はまだ最も身近な参与者の内にあり、最初の啓示の光の中にある。マリアとヨセフ自身が礼拝している。ただ二つの人間以外のグループ、即ち、離れたところにいる動物と近くにいる天使達だけが居合わせている。それらの間に子どもがいるのである。
 豪華な衣装を着けて、楽器を持っている“女性的な”天使がいる。天使達は、生まれたばかりの赤子に天上の音楽を聞かせるために、小さくなっている。天使達は、ドームのように子どもの頭を覆っており、子どもが今しがたそこを去ってきたばかりの天界の最後の先端となっている。彼の視線は人間達の方に向いており、大きく弧を描く眉毛と開いた両手をもった、緊張感もって注意深く彼を見下ろしているマリアの視線と秘密の会話を交わしているようである。彼女は、ひざまずいているにもかかわらず、大きい。彼女の頭はヨセフの頭よりも上に出ており、太陽のような光輝に取り巻かれている。ただ彼女と女性のような天使達がこの子どもを見つめている。羊飼い達はまだ遠方にいて脇の方を向いており、ヨセフは真っすぐに絵を見る者の方を見ている。この誕生の秘密は、未だ女性的‐母性的なものの中に全く包み込まれているのである。
 絵を見る者から見て右、ヨハネ側に開く対の絵は、全く異なっている。同じ様に、ここでは一見して男性的な世界が支配しており、また礼賛されている。こちらでは、ヨセフは立っており、マリアより高くなっている。確かに光輪はマリアにのみ与えられているが、彼女はもはや礼拝しておらず、この子どもの生きている玉座のように馬小屋の壁の前で座っている。マントは、肩と腕の周りで豊かに膨らんでいる。広げられたすその間に、彼女は、高価なものであるかのように、愛くるしい子ども-希望をかなえる、王の恩寵の化身-を抱いている。
 左の図の小さな音楽を奏でる天使の代わりに-天上の音の調べの代わりに-、地上の“賢人”が現れる。彼らは、心の最奥から謙譲の気持ちを持っているのだが、自身の身体を天使のように小さくすることはできない。人間達の大きな身体が子どもを取り囲んでいる。一番前の王は、ひざまずき、子どもを仰ぎ見なければならないように頭を下げることにより、人間らしいやり方で、自分を小さくしようとしている。ひざまずいている王の頭は、この絵の幾何学的中心である。羊飼いの側では、しかしマリアの心臓の場所が絵の中心ポイントである 。
 左の絵の羊飼いの背後には、記憶のような天使の光景(野原にいる羊飼いの情景)があり、聞きそして見たことへの記憶が彼らを馬小屋に導いている。しかし、王達の上には、今そこにいて案内するものとして、「ここが正しい場所だ!」と指し示すような身振りで場所を教えている天使が浮かんでいる。王達は、片方の羊飼いのように目で地上の道を探しているのではなく、またもう一人の羊飼いのように地面を踏んでいるのではない。彼らは、むしろ、霊の現存の中で、この瞬間に天が実証したものに耳を傾けているのである。
 このもう一つの人間世界に存在する子どもも、全く異なっている。彼は裸で頼りなく地面に横たえられているのではなく、玉座のような母の膝の上に立っており、まだ意のままにはならない、子どもらしく丸く柔らかい手足の代わりに、成人の成熟さが、驚くほど繊細ではあるが、愛くるしい身体の中に既に生きている。その子どもの眼差しは、王達の明敏で、ほとんど試すような目に返答しており、黄金の宝石箱に向けて広げられたその手は、子どもがほしがっているというよりも、教え諭しているようである。
 王達の3人の宝箱の黄金の輝きに対して、この子どもは、無言のまま驚くべき仕方で応じているように見える。即ち、彼の頭には、マリアのような光輪はないが、光線を放射する、3つの植物のような不思議な形のものが黄金に輝き、その頭から突き出ているのである。これは、この上なく優美に、この絵の他の3つの黄金のポイント-乳香、黄金そして没薬の供え物の容器-に対応している。地上の死んだ黄金、過去の使い尽くされた智慧の黄金は、この子どもにおいて、生き生きとして芽吹く智慧となるのである。王が捧げている鋳造した黄金と子どもの頭の周りの芽を出したような黄金の何と違うことか! 王達がどうして、また何によって自分たちの主人、自分たちの原初の智慧の生きた担い手を見分けるのかが、目で見える形で表されているのである*2
 両方の絵に馬小屋が描かれ、マリアとヨセフは同じ衣装をしているにも関わらず、この場面は、全く異なる二つの場所で起きたように見える。羊飼いの礼拝においては、背景は田舎のような風景である。羊飼いが牧草地で羊を放牧しており、空の上の天使を見ている。
 これに対して王の礼拝では、川か堀に架かった橋のある、守りを固められた市門が背景に見える。上品な一組の人物、長裾の付いた服を着た貴婦人達が岸辺の道を散策している。門には、上を向いた白い馬に乗った騎士-おそらく3人の王の最初の者-が見える。これらの人物はごく小さく、遠い背景にいる。こちらも記憶のイメージであるが、同時に、礼拝が起きた実際の風景の様子である。一方は田舎で、他方は都市の環境で。

 この二つの絵は、一見同じ家族が描かれているように見えるが、よく観察すると、異なる家族であることがわかる。即ち、二人の子どもイエスの別々の家族なのである。

*1:〔訳注〕シュタイナーによって新しく創造された身体芸術。言葉または音楽の持つエネルギーを身体表現によって具象化するもので、言葉と音を発する時に喉とその隣接器官に生じる見えない動きを人間の身体全体の動きを通して表現する。「見える言葉」「見える音楽」とも言われる。教育や治療の分野へも応用されている。

*2:3王の礼拝の多くの絵の中に、ペルシアのゾロアスターのサークルに起源があり、有名な中世の世界旅行者マルコ・ポーロ(1254~1324年)によってそこで見いだされ、書き留められた伝説についての知識の残響があるということは全くありうることである。即ち、3人のマギは、託宣、あるいは試験として-子どもが黄金を取れば彼は地上の王、乳香を取れば神、没薬を選べば偉大な救世主-贈り物を差し出したということである-その子どもは3つ全てを取った-〔訳注:マルコ・ポーロのいわゆる「東方見聞録」(第1巻13章)にそのような記述がある。〕。これについては、Leonard Olshki『東方の伝承における東の賢人』(カリフォルニア大学出版会、1951年)も参照のこと。