k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは  ⑪

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マイスター・フランケ「子どもの礼拝、王の礼拝」(英国船乗りの祭壇)

マイスター・フランケと他の芸術家達

 『絵画における二人の子どもイエス』から、再び二つの礼拝を別々の画板に描いている例を見てみよう。ハンブルグ〔ドイツ〕のトマスまたは英国船乗りの祭壇である。

  1424年にこの祭壇の委託を受けたマイスター・フランケ〔1383年頃~1436年頃〕は、ルカ伝のマリアを寂しい山の中で彼女の子どもの前にひざまずかせている。彼女の他に人はいない! ただ2人の小さな天使が守るように彼女の周りでマントをつかんでおり、牛とロバが洞窟から飼葉桶に首を伸ばしている。子どもは地面に直に置かれ、光を放っている。ヨセフはこの夜の奇跡に参与していないが、父なる神が天上に見えている。たった今、神がその子を地上に送った通路であるかのように、神の口から子どもへ光の束が伸びている。若いマリアはブロンドの髪をさらし、黄金緋色の縁のついた白い衣装を着て、拝して子どもの誕生を迎えている。
 これに対して、王の礼拝を受けているマリアはバラ色の衣装を着て、その上に青いマントにくるまって、座っている。頭には女性らしくベールを巻いている。安楽椅子に用いている赤い寝床には刺繍した2つの枕が置いてある。王達が来ており、ヨセフは贈り物をしまうために、長持ちを開けている。天上には、神ではなく星があり、それを王達が指している 。牛やロバは消えている。マリアの立派なベッドの上には小ぎれいな小さな小屋が見えている。
 前者において、マリアの頭の光輝は、子どもが置かれている天の寝床の様な物と同じく、繊細で放射状をしているのに対して、王の礼拝において、マリアと子どもは平板な円形のオーラをもっている。

 この絵でも、二人のマリアは異なる服を着ており、ここに二人のイエスとマリアが別々に描かれていることがわかる。左の絵に羊飼いはいないが、牛とロバがおり、明らかにルカ福音書の伝える物語であることがわかる。

 次に、クラウゼ・ツィンマーは、2つの礼拝の他にヨルダン川での洗礼を一緒にしている3連祭壇画へと論を進める。

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上段:受胎告知 下段:ヨルダン川洗礼、王の礼拝、子どもの礼拝(サンタ・マリア・ノヴェラ教会、フィレンツェ

 非常に美しい3連祭壇画(ピエトロ・ディ・ミニアート〔イタリア、1366~1430年〕作)がフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェラ教会にある。この三つの光景が一緒に並んで描かれていることは奇異に見える。ヨルダン川での洗礼はずっと後に起きるものであるにもかかわらず、その洗礼が誕生の絵と一緒にあり、それどころか最初に置かれているのである。従って、ここで我々は、3つの重要な誕生図を並列して見るのである。即ち、ルカ伝の子、マタイ伝の子と世界ロゴス〔キリスト〕の人間の身体への誕生-それはヨルダン洗礼において始めて生じた-である*1
 この見解が画家にとって馴染みのないものではないことは、誕生図にも表れている。崇拝の対象となっている子どもは確かに洞窟内の下の方に置かれているが、上方の天、洞窟の頂点の上には、十字架をもった光輪の中にキリストの顔が輝いているのである 。

・・・このような絵は、キリストの犠牲は、既に子どもの誕生によって始まっているということを感じさせる。宇宙的ロゴスは、自身の神的存在としての自由を放棄し、地球の大地にその足を下しているのである。“この”子どもの誕生の瞬間から、引き返すことはできないからである。その子どもは、ロゴスの器となりうる唯一の存在、地上の運命の影にまだ染まっていない罪のない唯一の人間である。それは、ロゴスと密接に結びつき、それに属する「キリスト子ども(Christkind)」である 。
 このフィレンツェの3組祭壇画では、マイスター・フランケと同じように、マリア達の衣装は全く異なっている。ルカの聖母は、白い服でやはりひざまずいているが、王達が礼拝しているマリアは、ここでも青いマントの下に淡紅色の服を身に付けている。しかし、この画家には、ルカのマリアの純潔と神聖さを表すのに白い服で強調するだけでは不十分であったので、更に彼女の全身を取り囲むアーモンド形の黄金の輝きをおいた。そのようにして彼女は、浮かんで洞窟を取り囲み、祈りを捧げている天使の一群と一緒に、自分の子どもの前でひざまずいている。これに対して王達の礼拝は、家の前の非常にそっけない情景である。
 サンタ・マリア・ノヴェラでは、キリストは時期を待つ者、あるいはルカの誕生に参与しながら空中に留まっている者というだけでなく、彼自身が受肉の出来事に働きかけているということが強調されている。3連祭壇画のこの3つの小さな絵が属する大きな受胎告知では、父なる神がマリアに鳩※ を送っているのではなく、全身を雲の上に現しているキリスト自身が、左手に本を持ち、右手を伸ばして送り出している。

 「その子どもは、ロゴスの器となりうる唯一の存在、地上の運命の影にまだ染まっていない罪のない唯一の人間である。それは、ロゴスと密接に結びつき、それに属する「キリスト子ども(Christkind)」である」とされるのは、ルカの伝える子どもである。その子どもの魂は特別で、地上の汚れに染まっていない、そして、初めからキリスト・ロゴスと親しい関係にあったというのである。どのような魂が、その様に表現されうるのだろうか。その謎は、更に後に明らかにされるだろう。

*1:ルドルフ・シュタイナーは『ルカ福音書』第7講義において、次のように語っている。「ゆえにヨハネの洗礼のとき以来、ナタン・イエスはキリスト存在により貫かれた。これが、比較的古い福音書原本において、字義通りには『これは愛する子、今日、私は彼を産んだ。』(ルカ3:22)と訳される言葉が書き写されていることの意味である。」〔訳注:この引用部分は、今日では例えば「あなたは私の愛する子、私の心にかなう子である」と訳されている(日本聖書協会版「聖書」)。後半部分の原文は、“σοι ευδοκησα=I am content with you(私はあなたに満足する)”であるが、これには“εγω    σημερον γεγεννηκα σε=Today,I bore you(今日、私はあなたを産んだ)”という異文が存在する。シュタイナーは、ヨルダン川での洗礼者ヨハネによる洗礼の時に、神的存在であるロゴスがイエスの身体に降り、それにより初めてイエスはキリスト(メシア)となった、つまりイエス・キリストとなったと主張している。これは、勿論キリスト教の正統派の立場からすれば異端的であるが、シュタイナー及びシュタイナー派の学者に特有な考えということではない。古代からの伝承や文献、美術作品によるこの思想の検証については、この本の他に『二人の子ども』を参照のこと。〕