k-lazaro’s note

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人工知能の脅威に効果的に対抗する方法


 「コンピュータの父」と呼ばれるジョン・フォン・ノイマンは、コンピュータを開発するにあたり、人間の脳の働きを模倣するという発想を得て、神経学を研究したという。コンピュータは外部化した人工的な『能」として生まれてきたのだ。その能力は、初期においてはまさに子どもの脳のようであったが、今や大人の脳を大きく凌駕するようになり、まもなく人間が太刀打ちできなくなろうとしている(あくまでも人間の能の機能の一部についてだが)。

  これまで、コンピュータによって生み出されることになる「電子的ドッペルゲンガー」について紹介してきたが、人智学派は、そもそもコンピュータ技術の発展の背後には、アーリマンやソラト的霊のインスピレーションがあると考えており、初めからこのようなことがもくろまれていたのかもしれない。

 その究極の目的は、人間の内面的生、意識活動を機械に写し取り、それにより本来の人間性、人間の持つ自由な意識活動を奪うことにあるようだ。

 しかし、実は、このような技術的発展は、人類の発展において避けられないものである、とシュタイナーは主張している。これも神々の摂理の中にあるものなのだ。

 といって勿論、その流れに流されるばかりでは、人類の今後の霊的発展はない。問題は、このような現実を前にしてどう対応するかなのだ。

 物質主義への傾倒や技術の発展も結局、人類の「物質世界への降下」が原因である。そしてそれは、人類が個我と自由な意識(そして愛の心)を獲得し、その上で、新たに霊的な認識を再獲得するためであった。従って、現在の状況を克服するということは、かつて自ら手放したものを再度獲得していくということでもある。

 アンドレアス・ナイダー氏は、『デジタルの未来』の中で、「電子的ドッペルゲンガー」について述べた後、この不可避でありまた乗り越えなければならない試練にいかに対処するべきかについて、示唆を与えている。

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霊的自己活性化 - 人工知能の脅威に効果的に対抗する方法

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神々と生きる

 日本の神道のような多くの自然宗教は、自然界の神々、自然界のエレメンタル(元素)霊【訳注】として、自然の中で実際に経験されるカミのような自然の存在、そして祖先、死者の霊とともに生き、今も生きている。自然宗教によって規定されたこのような社会の生活全体は、完全にこれらの超感覚的な存在と調和していた。日々の、また季節と結びついた儀式は、自然の精霊や死者を鎮め、それによ利、彼らが人々の助けとなるようにするためのものだった。

 

【訳注】エレメンタル(元素)霊とは、いわゆる精霊、妖精であり、自然霊、四大元素霊等とも呼ばれる。天使達の「末裔」とされ、物質世界の背後に住んでいる。

 

 このように、こうした社会の生活は儀式によって完全に決定され、これらの儀式のほとんどは集団で行われなければならなかったため、個人的に決定されたものはなく、常に集団の儀式に適合した生活、あるいはひょっとしたら死後の生が存在した。このような社会的な儀式に従う者だけが、これらの社会で生きる権利、死後も生きる権利を有していた。超自然的な力に依存するこれらの社会では、個人で決めた生活や個人の自由はあり得なかった。

 しかし、独立した思考が目覚める過程で、とりわけ印刷機の普及によって、そして最終的には啓蒙主義の光によって、世俗化によって、人々はこれらの超感覚的な力やそれに関連する儀式から独立し、したがって個人の自由の可能性も獲得することになったルドルフ・シュタイナーは、この社会的変化を「社会学基本法則」という形で表現している。

 

「文明の初期段階において、人類は社会的紐帯の成立を目指す。個人の利益は、最初はこれらの紐帯の利益のために犠牲にされるが、さらなる発展は、紐帯の利益から個人を解放し、個人のニーズと力を自由に開発させることにつながる。」

 

 それにより社会は、個人が自己の自由において社会的共同存在に参与するように、指示される。しかし、社会が、個人の市民的コミットメントから独立して機能することができるようにするため、社会は、民主主義に基づく国家を設立し、すべての人々の福祉を、とりわけ、個人の所得に対する課税を通じて、個人のみならず共通善に奉仕するすべての機関、インフラストラクチャなどの資金調達を保証することによって、提供することになる。

人工知能とデータの神々の支配

 しかし、社会のより多くの領域がデジタル化される過程で、自然宗教で崇拝されている超感覚的な神々に代わり、ルドルフ・シュタイナーが「下自然」と表現した、目に見えない力が新たに現われるようになっている。その頂点に立つのが、人工知能(AI)である。

 この人工知能は、今日、何よりも、携帯電話だけでなく、日常的に使うものがどんどんデジタル化され、人工知能が搭載され、ついにはインターネットを通じて互いにネットワーク化されることによって、広がっている。このように、より多くの日常生活用具が互いに「通信」し、膨大な量の新しいデータを生成しているのだ。しかし、このデータは同時に、これらすべてのモノの使用、つまり人間の行動と結びついているため、人工知能にとってますます「餌」となっていく。つまり、神々への「生贄」ではなく、ユビキタス人工知能への「生贄」になっているのである

 特に、いわゆる「スマートホーム」の分野では、暖房、ブラインド、ドア、すべての家電製品、すべてのデジタルメディアなど、何らかの形で制御したり動かしたりできるものはすべて、インターネットによって制御・管理できるようになっている。・・・しかし、何よりも、これは自動運転の方向に進んでいるすべての交通と物流に当てはまる。すべての交通がネットワーク化され、デジタルで監視・制御されるようになり、将来的には、少なくとも大都市では、個々の交通はなくなり、すべてが最適化され、スムーズに動く「スマートシティ」が実現し、もちろん時間も大幅に短縮されることになるだろう。とりわけ、完全なデジタル化の助けを借りて、政治的、社会的に関連するすべてのプロセスが「スマート」になる、つまり、データ支配に引き渡されることになる。しかし、「スマートシティ」の「副作用」は、・・・永久的なデータ生成と全市民の完全な監視である。

 なぜ、GoogleAppleといったシリコンバレーの企業は、10年ほど前からデジタル制御の自律走行車を開発してきたのだろうか。それは、道路交通が膨大な量のデータを生成し、それが人工知能のさらなる発展にとって非常に重要だからだ。人間を超える人工知能という目標に近づくためには、膨大な量のデータが必要であるからだ。・・・

人間知性の理解されていない基礎

 それ[人間の知能]は、一方では、その中で膨大な数の神経細胞シナプスによる結合が発展する神経系と脳を基盤にしており、また常に新しくされ、私たち人間が全体を利用することに依存している。しかし同時に、このシステムは、私たちの感覚や手足を通して環境とつながっており、新しい情報、すなわちデータが絶えず発生し、それらは神経系によって調整され、最終的に記憶として保存される。

 神経生物学に基づき、コンピュータ技術者、プログラマー人工知能の開発者たちは、人間の知能を純粋に物質的なプロセスとして捉え、人間の知能をこれらすべての物質的プロセスの結果とみなしている。これらの理論の基礎をなす神経科学では、人間の意識は神経細胞の結合の結果以外には何もないと考えている。

 しかし、単純な感覚的な印象がどのような手段で意識的に把握されるのかが、まだ不明だからであるため、神経科学は、人間の意識を説明できない。あらゆる感覚的な印象は、完全に脱中心的に組織された無数の神経細胞結合に基づいており、私たちの身体と脳の最も多様な領域で発生するこれらの神経細胞結合が、最終的にどのように結合されて均一な感覚的印象になるかは、誰にもわからない。人間の意識に関するこの疑問は、純粋に唯物論的な研究に基づいては答えられないのだ。

 物質的なプロセスである神経細胞ネットワークが、私たちの意識と人間の知性の形成の原因であり基礎であるといまだに仮定されており、そうではなく、この物質的な基礎に自己を「反映」しているのが人間の精神であるとことが認識されていないのである。これについて、ルドルフ・シュタイナーは、彼の唯一の科学会議での講演、いわゆる ボローニャ講演で、これに対応する決定的な発言をした。

 

「したがって、”自我“が身体の組織の中に存在すると考えるのではなく、印象が”外から“それに与えられると考えるのではなく、”自我“を物事そのものの法則性におき、身体の外側にある、超越的な”自我“の織り成すものを、有機的な身体活動を通じて”自我“に反射させる鏡のようなものとのみ身体組織を見るならば、認識論的に”自我“についてのよりよい考えに達するだろう。」 【訳注】

【訳注】シュタイナーにおける「自我」概念は非常に複雑で難解であり、私も十分に理解できていないのだが、その実体は、身体の外にあるということである。しかし、以下に説明されるように、この身体に縛られることにより、外界と分離された身体の中に自分があるように観じているのだ。

 

 したがって、脳と神経系における生理学的プロセスは、人間の意識が発展するための「鏡」に過ぎないのである。これは、あたかも私たちが鏡の前に立ち、その中に自分自身を認識することができるかのように生じる。つまり、私たちは、実は常に環境の中の物事とつながっているのだが、そのことを意識できるのは、このつながりを神経系のプロセスで「鏡」に映すことによってのみなのである。

 しかし、私たちはこの「反射」に気づかず、したがって鏡にも気づかないので、自分の意識、したがってこの意識の担い手である自我は、鏡のあるところ、すなわち自分の身体の中にあるという印象を常に持っている。しかし、私たちは、自分自身をこの肉体に縛られていると経験するため、私たちが知覚しているものから自分たちが分離しているように体験するのである。そして、今や、私たちが鏡の前に立っている間に、鏡の中で起こっているすべての物質的プロセスを神経生物学に基づき提示できるようになったので、私たちはまさに、私たちの意識が物質的プロセスの、つまり「鏡」の結果であると考えているのである。

 しかし、鏡は鏡像を作り出すことができるのだろうか。できない。鏡像(この場合、私たちの意識)は、私たちの自我が私たちの身体に「映し出される」ことによって生じる。しかし、自我は純粋に霊的なものであり、物質的な感覚器官で把握することができないため、自我そのものを認識することはできない。その代わりに、私たちは常にその物質的な反射だけを経験するのである(原註)。

 

(原註) 肉体に映し出される純粋に霊的な存在が、なぜ物質的なプロセス、すなわち鏡像 を引き起こすことができるのかを説明するためには、この時点で、存在の4つの構成要素すべて、 すなわち自我、アストラル体エーテル体、肉体の相互作用をより詳細に検討しなければならないだろう。これは、ここではできない。ここで取り上げた肉体と魂の関係は、ルドルフ・シュタイナーが35年間取り組んだ中心的な研究課題の一つであり、その結果、彼は人間という生物の三重性を発見することになった。

 

意識魂と瞑想の問題

 これは、まさに今日、人類が意識の発達の中で置かれている状況である。上記のように、人間の自我あるいは人間の霊が肉体の中で自分自身を映し出すという問題は、それらが、まさに鏡像の中で自分自身を経験するという事実、すなわち、自分の環境における物質的なプロセスの意識を発達させるという事実に成り立っている。しかし、この状態では、自我は自分自身を霊的存在として経験することはない。自我は、反射を通して自分自身について知るだけなのである。つまり、もともと鏡の前に立っているのが誰なのかを、「映された」自我は知ることができない。純粋に霊的な活動、すなわち、純粋に霊的な活動によって、もはや物理的基盤に反映されることなく、霊的活動として自らの中に把握する思考を通じて、それは、自分自身を、霊的、すなわち物質的基礎から独立した存在として把握するのである。しかし、このような霊的自己認識のためには、ルドルフ・シュタイナーが瞑想と呼んでいる純粋に霊的な活動が必要である。ルドルフ・シュタイナーは、この種の思考を「直観的思考」とも呼んでいる 。

 シュタイナーは、多くの著作や講演の中で、この種の人間の霊的自己強化について述べているが、・・・これは、意識魂が物質的鏡像に依存したままとならず、自己の霊的本性即ち自我の意識に高まるためには必要なのである。しかし、この意識は、それにちなんで名づけられた霊的要素、すなわち霊我の発達と結びついている【訳注】。このような霊的自己の発達を通じてのみ、人間は、自分の脳や神経系における物質的過程と自分を同一化する危険から逃れられるのである。

 

【訳注】シュタイナーは、人間の魂を感覚魂、悟性魂そして意識魂に分けており、それらは時代を追って発展してきたとしている。現在は、意識魂が発展する時代であり、やがて霊的自己=霊我が発展するようになる。霊我は、アストラル体が、人の自我による働きで霊化されて生まれる人間の霊的要素である。

 

 そして、この点、すなわち人間の霊の自己理解において、David Gelernterのような人工知能の批判者は皆、今のところ失敗しているのである。彼らは、自分自身の霊を考察することができないからである。これは、この霊が、日常的な思考で行わないような活発な活動に投入された場合にのみ可能である。J.G.フィヒテは、『知識学』の中で、次のように述べた時、知っていた。

 

「この教義は、まったく新しい内的な感覚の道具を前提とし、それを通じて、普通の人々にはまったく存在しない新しい世界が与えられる。...

 触覚を通して存在する物事とその関係を、彼らだけが知っている、生まれながらの盲人の世界を考えてみよう。彼らの中に入って、光と視覚によってのみ存在する色やその他の関係について話してみよう。あるいは何も語らない方が良いかもしれない。・・・あなたはすぐに間違いに気づき。もしあなたが彼らの目を開くことができなければ、あなたは無駄な話をするのをやめるだろうからだ。

 

人工知能に反映されるのはどの精神か?

 しかし、人が自分の心を自覚せず、物質的なプロセスの産物として理解しているとしたら、それはどこにつながるのだろうか。人は、この物質主義的な心の考えを機械に移すことで、人工知能、ひいては機械の知能、すなわち人間から独立した自己開発型の知能を生み出し、最終的にはそれ自体も意識を持つことができると考えている

 しかし、現実には、アントロポゾフィー的な瞑想による自己活動を通じてのみ観察することができる人間の霊、すなわち自我が、脳と神経系の生理的プロセスに反映されているので、したがって、今、大いなる疑問は、上記のように絶えず進歩しているデジタル化に基づいている、あらゆる物やコンピュータのトータル・ネットワーク、デジタル・プロセスに反映される霊はどのようなものかということである。・・・

 

 まず、ここで述べたような純粋に唯物論的な方法で自分自身を考え、そのために自分の唯物論的な意識そのものを機械に移し、機械がそれをさらに発展させてAIとして最適化しようとしたとき、人間自身に何が起こるかをもう一度見てみよう。ルドルフ・シュタイナーは、人間の知性のこのような状態を次のように表現している:

 

「人間は、自由を発揮しながら、アーリマンの誘惑に陥ったとき、その中で人はその一部でメンバーでありもはや自分ではなくなる、精神的な自動制御装置に入り込むように、この知性に引き込まれます。人の思考はすべて頭脳の経験となり、頭脳だけで、自分自身の心的生命と意志的生命からそれを切り離し、人間自身の存在を消滅させます。人間は、自分自身の存在の表現となることで、ますます内面の、本質的人間的な表現の多くを失います。人は、自分を探すことで自分を失います。人が愛を拒むその世界から引き離されます。しかし人は、その世界を愛するときのみ、自己を体験するのです。」

 

 特にトランスヒューマニズムが推し進めているこの知性の発展を通じて、人間はますます超人間的、つまりアーリマンの知性の力の範囲に入るようになる。それによって、人間は実際の人間の本質を失い、愛という能力も失う。人間は、全くの頭となり、その際、心(ハート)を失う.言い換えれば、人間は自分を取り巻く自然の領域から、アーリマン的な霊、いわゆる「闇の霊」が支配する、下自然の領域へとますます入っていくのだ。ルドルフ・シュタイナーは、遺稿となった最後の論文で、この人間性への絶対的危険からの脱出方法を次のように述べている。:

 

「人間は、その意識魂の発達のために、単に地上的なものとの関係を必要としていました。このため、最近の時代には、人間が慣れるべきものを、あらゆるところで、行動においても、実現しようとする傾向があります。人は、単に地上的なものに慣れることで、アーリマンに出会います。人は、自分自身の存在により、このアーリマンと正しい関係に入らなければならないのです。

 しかし、技術時代の現在の過程では、アーリマン的な文化との正しい関係を見出す可能性は、まだ人を遠ざけています。人間は、技術文化の中でアーリマンに圧倒されないために、強さ、知識の内なる力を見つけなければなりません。下自然は、そのように理解されなければなりません。それは、人間が、地球外の超自然に対して、霊的な知識に昇った場合に、少なくとも、技術において下自然に降ったのと同じくらいに、昇った場合にのみ可能です。時代は自然を超える知識を必要としています。なぜなら、自然下に沈んだ、危険なほどの働きをもった生の内容と内心で折り合いをつけなければならないからです。」133

 

自然の書を読むことを学ぶ

 もし人間がアーリマンに完全に依存するようになり、最終的に彼の支配、つまり人工知能支配下に入ることを望まないのであれば、古い自然宗教が、自然の中で働いていると感じ、しかし、自分たちが完全にそれに依存しているものを、前述の霊的自己活性化、人智学瞑想を介して、新しい方法で認識しようとすることによって、自然との新しい関係を構築しなければならない。・・・私たちはそこで、人間がその体組織を通して、実在のある部分、すなわち、自然との生きたつながりを形成する部分、人智学的に言えばエーテル界を遮断していることを説明した。ルドルフ・シュタイナーは、この認識論的に決定的な事実を、すでに上で引用したように、次のように定式化している。

 

「次のことが認識されるでしょう。この自己を意識する自我は、自分が孤立しており、自分自身が客観的世界の外にいると経験するのではありません、この世界からの切り離しは、克服できる意識の外観に過ぎない、ある発展段階にある人間として、魂を世界と結びつける力を意識の外に押し出すことによって、一時的な自我の姿を自分のものにしなければならなかったことを理解することによって克服できる、と。もしこれらの力が常に意識の中で働いているとしたら、人は自分の中に安住する強力な自意識を獲得することはできないでしょう。自意識のある自我として自分を体験することができないのです。だから、自己意識の発達は、まさに自己意識的自我が、ある段階、認識の前にある段階で消滅させる実在の一部を抜いて世界を認識する可能性が、魂に与えられていることに依存しているのです。」

 

 つまり、自我がその喪失を自覚したなら、自我は、まずこの喪失を引き起こす要素、すなわち日常的な思考を自然の認識に対して黙らせることによって、この喪失を克服しようと努力できるのである。--何を体験するために?

 

 自然の知覚において、全く徐々にだが、私たちが実際に物事そのものに目を向け、それらを実際にあるものとして認識することを学ぶほど、ものそのものが語り始めるのである。こうして私たちは、自然の書物を読むことを学び始める。そして、それが私たちの宿命でもあることを理解するのだ。ものの中に存在する知恵と知性に自らを語らせることである。

 しかし、これはすなわち、ある意味で、自然の霊性の中で生き生きと体験されていたものが、それ自体が人間の喪失状態を創り出すのを助けた、人間の抽象的で死んだような思考によって、実際に死んでしまったということでもある。しかし、自然の霊性は、人間が実際に自然の書物を読むことを実践することによって、魔法がかけられた状態から解放することができる。したがって、人間がその知覚と思考において自然を復活させることは、今日、魔法をかけられた自然の霊性にとって決定的なことなのであるルドルフ・シュタイナーは、初期の著作の中ですでに印象的な文章を打ち出しているのである。【訳注】

 

【訳注】自然の霊性には、四大元素精霊いわゆる妖精も含まれるだろう。「事物の中に閉じ込められている四大元素霊は、人間が外界の印象を精神的に消化すると救済される。」(『シュタイナー用語辞典』西川著)

 

「現実の中で理念を認識することは、人間の真の交わりです。」

 

 しかし、それによって私たちは、物事を死んだもの、無生物であるかのように見せる、死んだような抽象的な思考をどのように克服するのだろうか。それは、私たちが、思考を静かにさせ、その後に現象に自らを語らせるために、先ず、現象がそれ自身の特別性において私たちに作用するのを許し、いわば純粋な知覚の中で、私たちの中へと吸収することによってである

 

純粋な知覚

 この種の知覚は、ルドルフ・シュタイナーが開発した瞑想の第二の形式である。最初の形式は、思考の強化、あるいは「直観的思考」として前述したものだ。直観的思考の実践は、そうしなければ、ものに固執し、ものを殺してしまうような思考から解放されないため、今日必要なものである。一方、ものを自らに語らせるような形で、知覚を強化することができる。例を挙げよう。

 自然の中で、一方では芽が出て萌える過程を、他方では枯れて朽ちる過程を観察してみよう。このようなプロセスは、確かに私たちを取り巻く自然の中で、いつでもどこでも観察することができる。ちなみに、大都会でさえもだ。シンプルな植物や低木、どんな植物でも十分である。その中に、発芽したばかりの、まだ幼い葉が成長しようとしているのを感じ取ることができるだろう。それを見て、その結果生じる印象があなたに影響を与えるのを冷静に待つのである。迷っている思考を静めるまでは時間がかかるが、それができたとき、芽生え、あるいは発芽した葉の感覚的な印象が、静かに、しかしはっきりと私たちの中で語り始める。

 そうすると、普通の意識では決して感じることのない、あまりにも繊細で儚い思考や感情が生まれ、それに気づくことができる。次に、同じことを枯れた葉と交互に行い、この印象もまた私たちに影響を与え、感覚的な印象が自らを語るようにする。ここでもまた、これまで感じたことのないような思考や感情が湧いてくる。

この2つの印象は、互いに補強し合う関係に置かれることができる。そしてそこで語り始めるものは、自然の本質について無限に私たちに語り始めることができる。なぜなら、私たちがここで扱っているプロセスは、自然の本質、すなわち、生まれて死ぬこと、生と死を構成するものだからだ。

 このようなプロセスをより多く観察することで、私たちの感覚はより深く、より豊かなものになっていく。例えば、私たちは、日の出の時の色彩の戯れを知覚し、それを一年を通して追いかけ、一年を通してゆっくりと、しかし着実に変化していく様子、季節の移り変わりの中で、光がどのように色に表現されるかを学ぶことができる。

 こうした訓練を通じて、私たちを取り巻く自然の中に、隠れた知恵、一種の宇宙の知性が隠れており、それが私たち自身の中や思考の中でそれを観察して、それを自ら語らせることにより初めて明るみになることを、私たちはますます実感するだろう。ただそれによってのみ、私たちは、人間としての私たちの使命にこたえることができるのである。それは、まさに、かつて宇宙の中で活動していた霊を私たちの中に復活させることによって、この宇宙をさらに発展させるということの中にある、私たちの宇宙における立場を自ら意識することである。

 

他の人の魂的霊的なものに目覚める

 人間にとって、デジタル・トランスフォーメーションは、ますます頻繁に、自然とのつながりや、現実の人間とのつながりではなく、バーチャルな世界とのつながり、インターネットを通じて他の人間とのつながりを持つことを、現実ではなく、常にデジタルな方法でのつながりを持つことを意味する。

 これまで、瞑想、直感的な思考、自然現象の瞑想的な知覚によって、人間がいかにして自分自身の霊性と自然の霊性に目覚めることができるかを見てきたのであれば、私たちの霊性の目覚めにとって不可欠な領域である他の人々を見逃してはならない!

 直感的な思考によって得られる覚醒体験、つまり、思考することによって行われる霊的活動を体験することから始めると、私たち自身だけでなく、他のすべての人間にも、私たちが自我と呼ぶような霊的能力があることは、当然ながら自明である。このような霊的存在を相手の中に探すことほど、自明なことはないだろう。

 しかし、ちょうど私たちが、前述の自己活性化によってのみ、自分自身の直感的な体験に至り、適切な修練により、自然界の霊的なものの体験に至ることができるようには、相手の霊的魂的なものをそのように単純に体験することはできない。それどころか、ほとんどの場合、私たちは日常的な思考によって、何らかの思考、多くは否定的な種類の思考に縛られ、あるいは、相手が何を伝えようとしているのか、実は自分自身の中に鏡のように映し出されているだけだということにすら耳を傾けようとはしないのだ。このように、私たちは、鏡の表面のように、自分の偏見や意見、同情や反感を映すだけで、相手の現実を映さないのである。

 だから、ここでも、自然に対して行なったように、日常の思考の雑念を排除して、そこに実際にあるものに注意を向けることが必要なのである。: 相手が私たちに何を言おうとしているのか、その仕草、表情、顔の色、握手、視線、声の響き、言葉の選び方、あらゆる感覚的な現象に注意を向けるのである。しかし、そのためには、まず前提条件として、相手に対する真の意味での無条件の関心を持たなければならない。この点で、ルドルフ・シュタイネは、ある種の未来の宗教体験についてさえ語っている。

 今ここで、私と相手の間で実際に起こっていること、あらゆる瞬間に起こっていることに目覚めること、それにより、相手の魂的霊的なものへ目覚めることができるのだ。しかしそれは、私たちが、私たち人間の間のこの会話を、人間の原媒介物として先ず再発見しなければならない-ゲーテの『おとぎ話』:「黄金よりも輝かしいものは何か?- 光だ。- 光よりも喜ばしいものは何だろう?- 会話である。」のモチーフにより事由に。

まとめ

 人工知能は、今後ますます私たちの生活を左右すると思わざるを得ない。しかし、決定的なのは、人々がそれにどう対処し、その過程で自分自身をどう理解するかということだろう。ジョセフ・ワイゼンバウムは、1976年に発表した古典『コンピュータの力と理性の無力』の中で、人工知能を擬人化することに警鐘を鳴らした。今日、グーグル、フェイスブック、アマゾン、アップルといったトランスヒューマニズムを推進するインターネット企業は、人工知能に、人間の知能を技術的に発展させて一種の神のような知能にする可能性考えている。こうしたハイブリッドな全能幻想には、ジョセフ・ヴァイツェンバウムがその時代にまだ持っていた、明確で独立した思考を持つ理性的な人々が明確に対抗しなければならない。

 人工知能は、他のテクノロジーがそうであったように、私たちにとって多くのことを容易にしてくれるが、私たちがそれに一種、隷属的になってしまうという大きな危険をはらんでいる。特に、私たちは、データの主人である私たちに見通すことができず、制御や監視を可能にする、このデータの永久供給者になることによってである。何よりも、私たちは一つのことを見落としてはならない: 知能の高い機械は、知的で学習能力があるかもしれないが、自由で道徳的な決断を下すことはできないのである。そして何より、自分の霊について意識することができないのだ。その様なものを扱うようにはならないからである。

 なぜなら、機械は自分の心を持つことができないからだ。人間だけが霊的存在である自我を持ち、そこから自由で道徳的な行動を生み出すことができるのである。したがって、人間だけが、有効で有用なものだけでなく、直接的な利益をもたらさず、自由な創造活動に身を捧げることができる芸術家でもあるのだ。私たちは、このような創造的活動を、とりわけ前述の人智学的瞑想において、しかし当然、全ての芸術的訓練、創造においても行なっているのである。

 自我だけが次のように語ることができる。「私は、自分の行動の外的な原理を認めない。なぜなら、私は自分の中に行動の根拠、つまり行動への愛を見出したからだ。私は、私の行為が良いか悪いかを、理知的に調べることをしない。私は、それを愛するから行なうのである。

 人工知能との対決と、私たちの周囲のますます大きな部分のデジタル・トランスフォーメーションは、実際に人間が自分自身の霊的存在に気づくことを求めている。そしてそれだけではない。-人は、この存在から行動すること学んでいくだろう。即ち、自分の自由を獲得することである。そうでなければ、遠くない将来、この自由は再び失われてしまう可能性があるからである。

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 世界と人間全体のデジタル化には、人間の本来の霊的進化を阻止するという狙いが存在する。しかし、この障害を乗り越えることによりまた霊的進化も達成されるのだ。そもそも悪が存在する理由も、人間の進化を進めるためである。障害なくして、努力なくして進歩はないのである。

 人間しか持ち得ない自由、愛、道徳的心情を守り、そして霊的本性に目覚めることが必要なのである。このことをナイダー氏は訴えると思われる。