k-lazaro’s note

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国際連盟、UNO、グレートリセット

 実は私もそうなのだが、日本人には「国連信仰」のようなものがある。国際機関というと、平和や民主主義、人権、環境等について全幅の信頼をおいてしまうのだ。それは絶対的権威と言えるだろう。

 だが、私は、コロナ以降、この信頼が非常に揺らいでいる(どんなものについても言えるのだが、全否定ではない)。WHOのうさんくささ、危険性が明確になったからである。

 「陰謀論界隈」では、よく「世界政府」という言葉が、否定的意味合いで出てくる。一部のエリート(あるいは悪魔的存在)が人類を支配するために世界統一政府を造ろうとしている。今回のコロナ・パンデミックもそこにむけた戦略の一つであるというのだ。

 このような立場では、国連というものもそれにむけた1段階に過ぎない。

 実際に国連がやっていることは、欧米主導の世界運営を補佐することにしか見えない。それは、ウクライナ問題でも垣間見えることではなかろうか。

 同様なことは(誰が実際の実権者であるかは別にして)、このブログでよくお世話になっているトマス・メイヤー氏などの人智学者達も主張しており、今では私も真実に近いと思うようになっている。

 

 今回はこのようなことを含む内容の論考を紹介するのだが、実際には、シュタイナーの提唱した「社会三層化」についての説明の部分が多い。

 シュタイナーは、人間社会には、政治、経済、精神(文化)生活という3つの分野が存在しており、健全な社会においては、それらが互いに干渉し合うのではなく、協力しあうことが必要であるとしている。しかし、現代の多くの国では、経済力を持った者が、政治を支配し、それにより教育や文化をも支配する構造が生まれているのが現実であろう。そしてそれが、また社会の多くの問題を引き起こしているのだ。

 今回の記事は,この問題点にメスを入れている。

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国際連盟、UNO、グレートリセットは異常事態

国家は何を控えるべきか?

 

  「自由と社会的責任に向けた人類の発展の道」1というテーマについて、世界史上最も偉大な哲学者の一人の言葉を思い出すことから始めることは、確かに価値がある。ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)にとって、世界史とは自由の意識における進歩である。物質の本質が重さであるように、彼にとって精神の本質とは自由である。人類の進歩は、この自由に対する意識の高まりに示されている。オリエントは、ただ一人が自由であること(専制君主)しか知らなかっただろうが、ギリシア・ローマ世界では、ホトンその奴隷は疑問の余地がない[自由ではない]が、一部の者が自由であることを知っていた。ゲルマン民族が、初めて、キリスト教において人間が人間として自由であること、精神の自由が人間の本質を構成していることを理解するようになった2

 ヘーゲルの歴史哲学の講義からわずか100年後、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、自由を社会生活形成の基本的な概念として説明したが、その概念は現代人にとって特別な困難を意味するものであった。今日の科学的に思考する者たちは、自由という概念を使って何かをすることはほとんどできない。人間の行動が(自然法則のように)決定されている方が、人間において自由が役割を果たしているという事実を考慮に入れなければならない場合よりも、社会学的に評価しやすいからである3

 シュタイナーは、1917年以降の第一次世界大戦の壊滅的な結果を踏まえて、君主制、共和制、民主制のいずれであろうと、包括的な管轄権を持つ単一国家4 には三重構造の必要性があることについての洞察がなければ、ヨーロッパの文化と文明は必然的に崩壊すると力強く指摘した。フランス革命の偉大な理想である自由、平等、友愛は、互いに矛盾しているため、同時に実現することはできなかった。これらの理想は、それぞれが人間生活の異なる領域に適用される場合にのみ意味をなすのだ。: 法律生活(霊)における平等、精神生活(魂)における自由、経済生活(身体)における友愛である。ルドルフ・シュタイナーはこのことについて、次のように述べたことがある。「人間を寄せ集めの統一体として無秩序に考え、兄弟愛、自由、平等を語ってはならない。: 人は、体・魂・霊に分かれていることをしらなければならない。そして魂において自由になりたいと望む場合にのみ、自由を達成することができる。そして、人は霊との関係においてのみ平等になれるのだ。私たちを霊的にとらえている霊は、誰にとっても同じなのだ。」5

 シュタイナーは数々の講演やエッセイの中で、三重構造の背景について啓蒙しようとした。精神生活と経済生活に対する支配を拡大し、人々を教育し、指導しようとすると同時に、人の経済面も処理しようとする国家政策によって、精神生活は社会生活の形成に対して無力になってしまったのである。それは、精神生活の現実的な経過を無視して話したり行動したりす議会や行政機関を通してなされている。結局、それは、専制的で、しかも不十分な経済的ディレッタンティズムを体現しようとする国家の理想へと、広範な大衆とその指導者たちを導く。国家が教育や指導の規範を固定化すれば、精神生活は無力にならざるを得ない。精神は、完全な自由の中で自らの目的を追求できる場合にのみ、それにふさわしい力を得ることができるからである。社会三層化の見解に賛同する人が少なければ、近代文明は不安に震え、東の混沌(ロシアのボリシェヴィズム)が世界の混沌に発展する危険性がある6

 100年後、彼の警告は現実のものとなる恐れがある。グレート・リセットEUのグリーン・ディール、国連のアジェンダ2030、あるいは新世界秩序とも呼ばれる国際的な世界社会主義は、世界経済フォーラムが密かに目指し、宣伝しているように、経済力と国家権力の融合(官民連携)を特徴としており、東洋における社会主義的実験の計画的終結(1989年)の後、それを防ぐか、少なくとも緩和することができなければ、必然的に世界的な混乱を招くことは避けられないだろう。【訳注】

【訳注】ソ連革命とそれによる社会主義は、社会的な実験であったという考えがある。これを推進したのは西側のブラザーフッドであり、またそれは計画的に終了させられたのである。ボルシェヴィキの革命家達を欧米の資本家が密かに支援していたことは、歴史的事実のようであり、このブログの他の記事にも出てきている。著者は、その実験結果に基づいて、今度は、WEF(世界経済フォーラム)が旗振り役となって、世界全体に誤った政策が押しつけられようとしていると主張しているのだろう。「陰謀論界隈」では、よく「世界の共産化」という言葉が出てくるが、それも根拠が全くないわけではないようである。ただし、シュタイナー自身は、経済生活においては「社会主義的」性格が求められるとしている。それは、経済生活においては友愛原理が必要とされるからである。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、第一次世界大戦後、ベルンで国際連盟の交渉と設立が進められていた同じ時期に、同地で、実際的で示唆に富む講演を行った。危機の時代、人々の目は通常、最初は催眠術にかかったように国家や経済に向けられる。しかし、シュタイナーは、国際連盟(あるいは第二次世界大戦後の国連)において、国家が団結するために何をすべきかを問うのではなく、国家は、個人の幸福のために何をすべきでないかという、まったく逆の問いを投げかけた。多くの点で、人類を世界大戦という恐ろしい破局に導いたのは、紛れもなく国家だったからである。このことは、物事をどのように別の方法で、より良く行うことができるかという問題を示唆している。

 

資本の管理と所有

 シュタイナーによれば、資本基盤は分業の必然的帰結であり、資本主義を廃止することは、すべての人に大きな害を及ぼすことなになる。しかし、問題は、資本の私的管理が資本の所有と必然的に結びつかなければならないかどうかである。私的管理を廃止することはできない。社会的有機体は、その最も重要な源泉である人々の個人的能力を奪われれば、成り立たない。つまり、自由な実業に代わるものはない。しかし、私的資本の所有は、それがもつ社会的機能が異なるため、別のものである。私的資本を手に入れた者は、通常、他の人々に対して一定の力を持つ。個人の有能な人々が資本の助けを借りて行う仕事だけが、社会的有機体にとって実りあるものなのである。しかし、そのような能力を持たない人々が、何らかの関係で、資本を永続的に所有している(そして不労所得を得ている)場合、社会的組織は損害を受ける。資本を持つということは、自分の意図に従って多くの人々を働かせるということであり、多くの人々の労働に対する経済的な力を持つということである。

 健全化するには、社会的有機体の中で資本という手段を使って働かなければならないすべてのものを、個々の能力を持つ人間の人格から切り離さないことによってのみもたらされる。しかし、資本を使用する個人的能力を持たない者(例えば、能力のない相続人や働く意欲のない者)が資本を所有することは、人々の社会的共存にとって非常に有害な結果をもたらす可能性がある。人類の現在の歴史的瞬間において、私たちは資本の所有と資本の管理を分離する必要性に直面している。

 

人間労働力の社会的意義

 人間労働力の社会的意義は、カール・マルクス剰余価値論が労働者階級に与えた影響によって推測することができる。労働者たちは、人間労働力の問題は、人間の尊厳と人間存在意義一般に関する最も深い問題と関連していると感じていた。近代の経済過程では、需要と供給に従って商品が流通するだけではない。人間的労働力を商品のように市場に運ばなければならない人々は、近代的労働契約が存在するにもかかわらず、人間的価値が低下していると感じている。シュタイナーは別のところで、このことを古い奴隷制の最後の名残であるとした。なぜなら、人間は自分の労働力を自分自身から切り離して工場や職場に送ることはできず、自分自身でそこに行かなければならず、自身が売買されるからである。この問題を解決するには、カール・マルクスが言ったことにとどまらないことが前提となる。: 労働力を商品化し、そこから最大の利益を得るにはどうすればよいか?- もし逆の要求がなされなければ、これは新たな社会的動揺を招くだけである。: どうすれば人間の労働力を商品的性格から取り除くことができるのか?労働の事実は次のとおりである。: 製品は、肉体的労働をする者と精神的労働をする者の共同作業によって生まれる。この商品市場向けの製品の共同生産が、参加者にとって満足のいく関係になるにはどうしたらいいのだろうか。それは、企業家と肉体労働者の間のどのような区分が、当面の具体的事例において適切であり、満足のいくものであるかという問題にほかならない。客観的にみれば、今日の労働者は、企業家の経済力によって、共同で生産された商品の収益に関する契約を締結する状況にはない。労働契約を結べるだけである。労働者は、商品またはそれに代わる貨幣を、自分の人間的労働力と交換しなければならなかった。したがって、今日の労働者は、起業家とともに商品の生産に携わっているという感覚を抱いているが、しかし、実際には、彼は権利をもつ部分を起業家から受け取れず、食い物にされているのだ。

 

社会的有機体の三重の組織

 シュタイナーは続ける。「人間生活を偏りなく見てきた人なら誰でも、社会的有機体においては、人間生活の3つの全く異なる、本来の源が区別され、それらがごく自然に相互作用していることに次第に気づくだろう。第一に、人間本性が同じでないことから生まれる個々の人間の能力がある。その領域は、芸術、科学、宗教生活における人間の最高の精神的業績から、多かれ少なかれ魂的あるいは肉体的な基盤にあるような、個々の人間的能力の応用の形態に至るまで、そして最も普通の、物質主義的なプロセスで使われなければならない個々の人間的能力の応用に至るまで、たどることができる。

 健全な社会的有機体では、法(権利)に基づくすべてのものはまったく違ったあり方をする。というのも、この法は人と人との間に生じるものだからである。個人の能力を引き出し、活用する自由が多ければ多いほど、社会的有機体の一般性にとってより良いものとなる。一方、それに対して、現実の生活では、理論や教義から出発せず、現実の生活を観察することができる者にとっては、人と人との間で法として展開されなければならないすべてのことは、すげないものである。すべての人間が対等な立場で向かい合うこと、それ以外に考えるべきことはないのだ。彼らは、魂的霊的存在だからである。

 そして、人間の社会的共存において役割を果たす第三のものは、他の二つとは全く異なるもので、それは、肉体的・魂的生活の自然的基盤に由来する欲求で、生産・循環・消費を通じて経済生活のサイクルの中でその満足を見出さなければならない。

 偏見のない検証は、社会生活の3つの源泉の間のこの根本的な違いをまさに見誤ったために、人間相互作用の3つの流れが、最近の歴史的発展の過程で、不適当な仕方で混ざり合うことになったのだということに気づかせる。どうすれば、この三重の組織化を、病んだ社会ではなく健全な社会組織となるように実現できるのだろうか。

 

国家と経済・精神生活の融合

 それはどのようにして始まったのか?近代に入り、経済生活がまるで催眠術をかけられたかのように人々の視線をとらえたとき、純粋に政治的な国家と、特に電信、鉄道など、即ちを国家と融合させることが最も適していると見られる経済の部門を融合することが、人類の進歩において正当化されることを人は見いだした。そして今日の社会主義思想家は何をしているのだろうか?この点では、ブルジョア思想の遺産を受け継いでいるにすぎない。彼は、適切と思われる経済の個々の部門を国有化、社会化するだけでなく、実質的にすべてを国有化、社会化したいと考えている。そのようなことは、経済的利益と純粋な国家利益とが徐々に一体化することを意味する。そのため、最終的には、国家生活の管理者は、権力によって可能となる彼らの職務を、経済的利害(ロビー活動や腐敗の不可避な原因)に従って行使しなければならなくなる。そしてこのようにして、国家の政治的利益は経済的利益の対立に巻き込まれることになる。近年の国家構成全体が、このような経済生活と政治生活の混合を示している。シュタイナーは、その例としてオーストリアの体制の現実に触れている。当時、オーストリア帝国議会に選出されたのは主に経済共同体の代表者だった。こうして、4人の経済クリエによって選出された者たちが、自分たちの経済的利益から、見せかけの国家で法律を作ろうと望んだことが、法律として制定されるというように、物事が融合していったのである。

 他方、精神生活全体が、経済生活と並んで、この近代国家生活に入り込むようになった。この点にも、まさに近代的な人類の進歩の意味で存在するものが見られる。すべての精神生活を徐々に国家の政治生活の一部にすることが理想となった。今日、どれほどの自由が残されているだろうか。国家から仕事を得ることのない人々によって世話を受けている芸術の各分野や科学の各分野、あるいはその類いのもの。精神生活が他のすべての生活から完全に解放され、それ自身に委ねられた場合にのみ、精神生活はその現実を正しい方法で社会組織に組み込まれることができるという事実は、今日においてもまだ認識されていない。シュタイナーは、科学とその教えは自由であるという反論を受け入れない。本当に物事を知っている人なら誰でも、精神的職責の雇用や管理に関してだけでなく、仕事そのものにも介入が生じることを知っている。

 

国家は何を控えるべきか?

 この社会組織の三重構成は、今日でもなお急進的な考えに見える。しかし、この考えを受け入れない者、この方向への第一歩を踏み出そうとしない者、最も身近で最も日常的な行動が、この方向性を知った上で展開されなければならないことを認識しない者は、人類の発展のために行動しているのではなく、人類の発展に反対しているのである。そして今、人々は問うだろう。「国際連盟と何の関係があるのか」と。- それは、同時に最も現実的な外交政策となりうるものである!国家は何を控えるべきか?- という問いに答えることを目的とするならば、その答えは、この考察から、精神生活と経済生活の機能への干渉を控えるべきだということになるからである。国家は、純粋に政治的な、つまり純粋に法的な領域に限定すべきである。例えば、ある地域の精神的状況が自由になるなら、この地域から戦争的な出来事が起こることはあり得ない。精神的関心(利益)は、国家生活の干渉を通じてのみ、戦争的紛争と関係を結びうるのだ。

 ここでも、そのようなことを見抜く目があれば、本当に経験からしか判断できないのである。シュタイナーは次に、ハンガリーの例を挙げる。当時のハンガリーでは、ドイツ語圏において、あらゆることに国家が介入していなかった。ドイツ人の多くの地域では、人々は自分の子供をドイツ語圏の学校に通わせ、そこに住むハンガリー人は子供をハンガリー語の学校に通わせた。このような子供たちの自由な交流と言語の知的財産は、ハンガリーという国にとって、それが培われてきたすべての地域において、深い平和を意味していただろう。国家が関与すると、事態は一変し、最終的には外交政策上の理由から国内政治の緊張が生じた。2014年、マイダンで暴動が起きた後のウクライナでは、まさに東部でロシア語が禁止されたのである。

 

"民族の自決権 "ではなく "人々の個人的自由"

 ルドルフ・シュタイナーは1917年7月、オットー・レルヒェンフェルトやルートヴィヒ・ポルツァー=ホーディッツとの話し合いの後、健全な社会的有機体の三重構造についての考えを初めて覚書に記した8。両者とも、ドイツやオーストリアの政界との関係を利用して、世界情勢、特に中欧情勢の回復にドイツが積極的に貢献するというシュタイナーの考えを、影響力のある人々に理解してもらおうとしていた。

 シュタイナーのこれらの覚書が特に重要なのは、この覚書の中で、諸民族発展の精神的な側面を導入して、英国の政治術とその非常に長期的な展望を公に強調したからである。この政治は理解されなければならなかった。中欧の人々は、国家の生活、国家、経済に存在するものを認識するようになったはずである。「他の人々は、示されたものがもはや英国の秘密ではなく、共有財産となったときに初めて、英国から発展した国家術の一つを発展させることができるだろう。」

 シュタイナーは、ウッドロー・ウィルソンの、抽象的でフレーズのような「民族の自決」というプログラムが実行されれば、ヨーロッパの民族は滅亡してしまうという事実に力強く注意を促した。:「人々は、特に中欧では、これらの人々が、彼らの視点から見た世界発展の法則を長年に渡って彼らが信じてきたことを、幻想を抱くことなく見なければならない。それは、世界の発展の未来は英米民族のものであり、英米民族はラテン・ローマ民族の遺産とロシア性の教育を引き継がなければならないということである。」9 彼は続けて、イギリスのイニシエーション・サークルに存在する政治的定式を見てみよう、と言った。イギリスでは、このように数式に組み込まれた文章が見られる。:「ロシア帝国は現在の形では滅びるだろう、それはロシア民族が生きるためである10。そして、この民族の状況は、西ヨーロッパでは不可能な社会主義的実験を行うことができるような種類のものである。」この衝動をイングランドに有利に導くためには、(将来勃興し、指導的な民族となる)スラヴの子供時代に介入する必要があると認識されていた。これは数千年にわたる広い視野に立ったものだった!

 メモランダムのその他の重要な記述は、イングランドによって押しつけられようとしている「民主主義の雛形」の迷信など、恐ろしく今日的なものである。: 「このいわゆる民主主義は、中欧の人々を英米の世界支配の一部にするのに適しているだけであり、もし現在の国際主義者のいわゆる政府間組織にも参加することになれば、この政府間組織の中では中欧人として常に劣勢に立たされることになる。(中略)このことに気づけば、何よりも、なぜわれわれがこの戦争(=第一次世界大戦)をするのか、なぜ諸国民の解放という偽りの旗の下に、ドイツ人民を抑圧するための戦争であり、広い意味では、中欧のすべての独立した民族生活を抑圧するための戦争なのかが明らかになる。」ウィルソンの計画は「中欧の自由の終焉」につながる、西側世界全体が、中欧に必要な真の自由という考えをそもそも持っていなかったからである。人々は民族の自由について語るが、それは人々の真の自由を意味するのではなく、西欧諸国やアメリカで発展してきたような、人間関係の「キメラ的な集団的自由」を意味するのである。中欧では、民族の集団的自由は、一般的な人間の自由からもたらされなければならない。「民族の解放は可能である。しかし、それは人間の解放の基礎ではなく、結果でしかありえない。もし人々が解放されるなら、民族はその人々を通して解放されるだろう。」

 19世紀以来、イギリスの "イニシエーション "サークルでは、英米民族に世界支配をもたらす出来事として「来るべき世界大戦」が語られてきた。私たち中欧諸国が、西側では、英米人の支配が人間の解放と民主主義と呼ばれている、という認識のもとに現実的に行動しなければ、この事態に対処することはできないだろう。人は、そうすることで、自分が本当に人類の解放者になりたいと思っているという印象を与えることができる。事実の完全な真実に対する中欧自身の態度だけが、この怪物のような欺瞞の結果に対して、不可能な道徳を装った自明の人種的エゴイズムの結果に対して、有効でありうるのだ。」

 1918年末の講演で、シュタイナーはさらに明確に言った。:「問題なのは、知識を秘密にしている西のサークルにおいて、この西があらゆる状況下で東に対して優位を獲得するような形で物事が進むように細心の注意が払われていることである。今日の人々に、自分たちが何を望んでいるのか、自分たちが目指しているのは、西側の支配者カーストと、ライン川から始まり、東へアジアまで続く東側の経済的奴隷カーストを確立することだ、と意識の中で言わせてみよう。古いギリシャ的な意味での奴隷カーストではなく、経済的な奴隷カーストであり、社会的に組織される奴隷カーストであり、社会構造のあらゆる不可能性を受け入れ、英語を話す人々に適用されないカーストである。それは、英語を話す人々を地球の支配者にするという問題なのだ。(中略)私が言っていることは、私がこれまで示唆してきた西側諸国の中心部によって注意深く秘密にされているのである。

 第二次世界大戦終結する以前から、後の連合国戦勝国は1945年2月のヤルタ会談で、失敗した国際連盟の後継組織として国連を設立することを決定していた。しかし、英米諸国の世界支配という目標は変わっていなかった。ウィンストン・チャーチルは1946年9月19日、チューリッヒで、「ヨーロッパ合衆国のようなものを確立する必要がある」とする有名な演説を行った。彼は、この美しく寛大なスケッチで描かれたヨーロッパの統一が、彼の目には、英語圏の人々の指揮の下での中央集権的な世界政府の樹立という、まったく異なる、より崇高な目的を達成するために不可欠な手段に過ぎないことに言及しなかった。彼は1947年5月14日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで次のように明らかにした。「我々はもちろん、統一ヨーロッパが国際関係のすべての問題に対する最終的かつ完全な解決策であるという幻想を抱いているわけではない。権威ある万能の世界秩序の構築こそ、われわれが目指すべき究極の目標である。効果的な世界超政府が樹立され、迅速に動員されない限り、平和と人類の進歩の見通しは暗く、疑わしいままである。しかし、肝心な点については錯覚してはならない。: 統一ヨーロッパなくして、世界政府の確実な展望はない。. それはゴール実現への不可欠な第一歩である。」

 ルドルフ・シュタイナーの忠告は、長期計画の実行がはるかに進んだ今日においては、なおさら有効である。というのも、長期計画の実施はかなり進んでいるからだ。今こそ目を覚まし、世界征服に向けた実際の努力が美辞麗句で覆われた空虚なフレーズに気づく時である。国連の2030年アジェンダを読むだけで、「17の持続可能な開発目標」が、選ばれた少数の人々によって模索されている全体主義的支配を偽装するための空虚なフレーズであることがわかるだろう。なぜなら、美しく崇高な目標はすべて国連によって一元的に規定され、施行されるからだ。つまり、完璧な中央集権的計画経済となるからだ。世界保健機関(WHO)は、計画されたパンデミック協定と国際保健規則によって、保健独裁を実践できるようになる。世界経済フォーラムのように、「何も所有せず、幸せになる」という目標はすでに公然と表明されている場合もある。将来、誰がすべてを所有するのだろうか?

 

社会3層化への衝動

 時事問題を注意深く観察している人なら誰でも、現代にふさわしい三層構造が次第に自己を明らかにしており、その衝動が目に見える形で現れ、突破口を開こうとしているのを至るところで見ることができる。その点で、特にコロナ危機は、激化と先鋭化をもたらしている。ますます多くの人々が、このままではいけないと気づいているのだ!

 抑圧的な国家のパターナリズムに反発する人々が増えている。例えば、厳格に強制されたマスク着用義務や(間接的な)ワクチン接種義務などがそうだ。しかし、国家は個人の自由の領域には立ち入らないようにしなければならない。基本的権利とは、国家による介入を防御する権利である。人間の個性や身体性は、ごく限られた例外を除いて、基本的に国家や一般性には関わらないものだ。医療を受けるかどうか、どのように受けるかは、誰もが自由に決めることができるものである(治療の自由の原則)。国家は精神生活に何の用もないはずだ。自由は個人自身によってのみ実現される。教育制度全体と大学科学が国家に依存していることは、今や公然の事実である。

 2023年1月、ドイツ連邦医師会議所のクラウス・ラインハルト会長は、ロバート・コッホ研究所を独立した研究所にするよう求めた。過去、コロナ・パンデミックにおける正しい針路について、政党間で政治的論争が繰り返された。連邦保健省に報告する研究所が、このような事から距離を置くのは難しいだろう13

 2022年8月22日付の「Schweizer Weltwoche」で、起業家でチューリヒ大学銀行・金融学部名誉教授のマルティンヤンセンは、ラルフ・アイヒラー(2014年までチューリヒ工科大学学長)が2017年に「エネルギー転換:金が研究をどう動かすか」というタイトルで2017年にNZZ am Sonntag紙に掲載された「ETHは連邦の権威である。ETHは連邦議会に対抗することはできない。ヤンセンによれば、政治家が関心を持つ分野(現在は気候、コヴィッド、エネルギー)において、研究者とそれに対応する機関が事実上依存していることは、意見を形成する上で利点ではない14

 ポール・クレイグ・ロバーツによれば、科学を最も腐敗させるものはお金だという。科学試験には多額のお金がかかる。もはや大学の科学部門の予算で賄うことはできない。外部からの資金援助は、研究内容だけでなく結果にも影響を与える。米国の物理学者や化学者の多くは兵器研究に携わっており、資金援助を危うくするような立場には立てない、

 大学の自然科学部門の予算では賄えなくなったのだ。外部からの資金援助は、研究内容だけでなく結果にも影響を与える。米国の物理学者や化学者の大部分は兵器研究に携わっており、9.11の公式発表に疑問を呈するなど、資金を危険にさらすような立場はとれない。コロナの時に学んだように、国立衛生研究所アメリカ政府の機関)と大手製薬会社は、医学研究の大部分に資金を提供している。資金源がこれらである以上、何が研究され、どのような結論が導き出されるかは、これらによって決定される。最も権威のある2つの医学雑誌の編集者の声明が示しているように、科学への資金提供の問題は、科学の完全性を破壊する重大な段階に達している。(ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンのマーシャ・アンゲル編集長)。「科学文献の多く、おそらく半分は、単に真実ではない......あからさまな利益相反......科学は闇と化している。」(ランセット編集長リチャード・ホートン)。15

 経済も状況はさほど変わらない。高い売上と利益は、政府の規制によって保証されている(マスクの義務付け、PCR検査、医薬品、ワクチン、ヒートポンプの義務付け、あらゆる種類の禁止措置など)。国家による強制はサービスの自由な交換を妨げるため、これは市場経済とはほとんど関係がない。このようにして、少数のグローバル・プレーヤーが集団エゴイスティックな利益を得る。貨幣価値の切り下げは、少数の人々の利益と大多数の人々の不利益のために、コントロールされたインフレによって行われる。民間の慈善財団は、自分たちが望む開発を進めるために、一方的な功利主義的視点から精神生活を促進するだけである。例えば、5G技術、遺伝子組み換えm-RNAワクチン、人為的とされる気候変動と闘うための技術的解決策、トランスヒューマニズムなどである。【訳注】

【訳注】ここで名前は出されていないが、「慈善財団」とはビル・ゲイツの“慈善”団体のことであろう。WHOに多額の寄付をしており、WHOに対して、大きな影響力を持っているとされる。

 

 すべての人のためのCO2予算に関する最初の提案は、すでにテーブルの上にある。ARD誌『Panorama』とのインタビューで、気候研究者のハンス・ヨアヒム・シェルンフーバーは、個人のCO2排出量制限の導入と同時に、CO2排出権の私的取引を呼びかけた16。このうち97%は自然が作り出したもので、残りの3%は人間が作り出したものである。空気中のCO2の割合は0.038%であることを忘れてはならない。したがって、大気中の人工的なCO2の割合は0.00114%(0.038%の3%。) 仮にCO2による温室効果があるとされているとしても、人間の影響はごくわずかである17

  ヨーロッパの多くの国々では、コロナウィルスの大流行をきっかけに、弁護士たちが裁判所の力を借りて、健康独裁体制に歯止めをかけようとしている。これまでのところ、こうした努力はほとんど無駄に終わっている。というのも、裁判官は、危険な健康危機が存在するという、それぞれの政府が宣言した一致した意見を圧倒的に受け入れているからである。この巧妙に計画され、コントロールされたプランデミックの助けを借りて、上からのクーデターで一夜にして基本的権利が恣意的に人々から奪われた。これまでの経験から、裁判所は国民の権利よりも国家を守ることを好む。シラーの戯曲の中で、メアリー・スチュアートは裁判官たちに向かってこう言っている。"気をつけなさい、高貴な領主様、国家の利益を正義と見なさないように"

 これは、裁判官が国家に依存し、国家から任命され、国家から報酬を得ているからこそ可能な、正義の甚だしい失敗である18ルドルフ・シュタイナーはすでに1917年のメモランダムで、すべての法律問題は教育問題と同様、人民の自由に委ねられなければならないと指摘している。法律学は精神生活の一部である。司法が国家の手綱に縛られている限り、真の法治国家は不可能である。

 

精神的基礎なくして社会問題の解決なし

 1918年11月、ルドルフ・シュタイナーは、社会問題は精神的基礎の上にのみ解決できるものであり、今日、その解決は精神的基礎なしに模索されていると指摘した。このことは、現代にとって極めて重要なことを語っている。単なる感覚とそれに縛られた知性によって見渡された全分野においては、社会運動に必要な理念を形成することができない。人間の運命の発展に関して、現在と近い将来にとって最も必要なことは、精神的世界の敷居を越えたところからある種の理念を持ち込むことであり、現在の最も特徴的な現象は、そのような敷居を越えたところからの持ち込みが事実上拒否されていることである。

 主な障害は、敷居の秘密に参入した人々の社会的理念が、必要な信頼を与えられていないことである。感覚的な世界を観察することによって普通の知性で得られる、現実から乖離した社会的理念が優先される。そして今日(これは20世紀初頭を指す)の民主主義に夢中な時代においては、そのような純粋に知性に適合した社会的理念は、イニシエイトが精神世界から抽出し、真に実りうるものと、民主主義的に等価であると-実際はそうでないが-当然見なされるだろう。しかし、もしこのような民主主義中毒的な見方や感覚が優勢になれば、私たちは比較的短期間のうちに、社会的不可能性、荒々しい意味での社会的混乱を経験することになるだろう。科学的に堕落した悟性ではなく、健全な人間の悟性を本当に使いたいと思う人は、たとえイニシエーターだけが見つけることができるものを自分で見つけることができなくても、それが発見され、概念化され、定式化された後に、いつでもそれを吟味し、暮らしに中で試すことができ、それを認識することができる。そしてこれこそが、近い将来、社会的に実りある理念が歩まなければならない道なのだ。最初のうちは、吟味していない限り、人は、どんなマルクス主義の思想もイニシエートの思想と混同してしまうだろう。しかし、もし人が比較し、その結果を熟考し、物事に健全な人間の悟性を当てはめようとするならば、人はすでに、マルクス主義のように完全に感覚の世界から引き出されたものとは異なる何かが、敷居の向こうから敷居の秘密から引き出された現実の内容にあることに気づくだろう19

 ルドルフ・シュタイナーは数学、物理学、生物学を学び、ゲーテの科学的著作にコメントを寄せている。それにもかかわらず、彼を、精神探求者として、懐疑的に見る者は、1944年にマックス・プランク(1858-1947)がフィレンツェで講演したときの言葉を考えてみるべきだ:

 「諸君、客観的な科学、物質の研究に全生涯を捧げてきた物理学者として、私は、熱狂的な宗教者と疑われることはない。そして、それゆえにこそ、原子の研究を終えて、私は、こう言いたい。: 物質そのものは存在しない。すべての物質は、原子粒子を振動させ、それらを結びつけて宇宙で最も小さな太陽系を形成する力によってのみ創造され、存在する。しかし、全宇宙には知的な力も永遠の力も存在しないので、[...]この力の背後には意識的な知的精神があると考えなければならない。この精神がすべての物質の起源である。目に見え、変化する物質は、リアルな、真のもの、実在ではない。--精神がなければ物質はまったく存在しないからである、目に見えない不滅の精神こそが実在なのである!

 しかし、霊はそれ自体で存在することもできず、すべての霊はある存在に属しているので、私たちは必然的に霊的存在を想定しなければならない。しかし、霊的存在はそれ自体で存在することはできず、創造されたものでなければならないのだから、私はこの神秘的な創造主を、千年前の地球の文明人たちが皆そう呼んでいたのと同じ名前で呼ぶことを恐れない。: 神!これにより、物質を扱わなければならない物理学者は、物質の領域から霊の領域へと導かれる。そして、それが我々の仕事の終わりであり、我々の研究を哲学の手に渡さなければならない。」20

 

結論

 自由と社会的責任に向けて人間が発展する道を見つけるためには、まず、肉体、魂、霊からなる人間の本質を洞察する必要がある。社会共同体の組織は、これら3つの構成要素に対応したものでなければならない。人間は、国家が【介入し】ない場合にのみ自由を実現できる。国家はその本質からして、平均化し、保護することによってしか働くことが出来ない。ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835)は、国家が個人的、人間的な問題に干渉することの悲惨な影響について、依然として鋭い感覚を持っていた。1792年に書かれた論文で、彼は国家の有効性の限界を見極めようとし、人々の自由で個人的な発展の結果としての社会の多様性は、国家が干渉する範囲では必ず失われると指摘した:

 「一様な原因は一様な結果をもたらす。国家が関与すればするほど、作用するものすべてだけでなく、作用されるものすべてが似てくる。(中略)しかし、しかし、他人のためにこのような話をする者は、間違いなく、人間性を誤解し、人間を機械に変えようとしているのではないかと疑われる。」

 「政府は国民の幸福と福祉、物質的・道徳的な幸福と福祉を提供しなければならないという原則は、最悪の、最も抑圧的な専制主義である。」

 

 このことから、国家が精神的・経済的生活の機能に干渉し続けることをますます控えるべきだという現代の要求が生まれる。この洞察に共感する者は、この方向に向かって可能な限り努力し、中央集権的で世界的なコントロールによる幸福と持続可能性の約束は見当違いであると認識するようになるだろう。

 

  ジェラルド・ブライ  チューリッヒ

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 上の「国家は経済、精神生活に干渉すべきではない」といような主張は、ストレートには受け取れないかもしれない。国家機構は政治生活に属すものであり、他の生活分野に干渉してはいけないということだろうが、現代社会においては、国家の役割として福祉政策が不可欠になっているからである。

 富の不平等や社会的弱者の存在がある限り、そうした国家の役割は必要なように思われる。

 ここで重要なのは、経済生活もまた、現状から根本的に変化しなければならないという事である。例えば人の労働は基本的に尊いものであり、売買の対象ではない。その成果として賃金・報酬を得るのではない(日本でも、一部大企業のトップの年収は欧米並みに数億~数十億になっているようだが、それは、この人の「成果」の見返りとしてもあまりにも法外ではなかろうか。ここにも不正義があるように思う。)仕事、労働とは、自分のためにではなく、他の人のために行なわれるものなのである。

 弱肉強食、利益至上主義ではなく、友愛の理念が、経済生活では求められているのだ。これが実現しない限りは、やはり国家の役割はなくならないのだろう。

 

 健康や平和という一見否定できない名目の裏に、危険な思惑が存在してきたのだろうか?「民族自立」というスローガンも、一見、実現すべき理想的な理念に見えるが、現代においては、一方で、民族(あるいは宗教)の名による他民族の排斥、暴力が絶えない。かつてイスラエルの地では、イスラム教徒も、ユダヤキリスト教徒も平和に共存していたという。それが今や、他民族、他宗派のジェノサイドの地になってしまったのだ。

 人は、それぞれ個人では、基本的に平和を愛するものだが、集団になると「狂気」が生まれがちである。そして、自分の利益のために、それを利用する存在があるのだ。

 霊的進化の視点でも、今後は、そうした血や土地に基づく集団ではなく、個人としての霊的発展が目指されており、個人が個人として尊重されなければならないのだ。これに対して抵抗しているのが、霊的な対抗勢力なのである。

 なぜ霊学を教えるシュタイナーは、社会運動の分野となる社会三層化を推し進めたのだろうか?それは、前にも書いたと思うが、彼は,単なる霊的認識の研究者ではなく、秘儀参入者、マスターであったからと言えよう。彼らの使命は、人類の霊的進化を進めること、そのために人類を導くことである。そこには、当然、このようや社会運動的分野も入ってくるのだ。
 中世において、弾圧を受けて消滅した神殿騎士団なども、理想的な未来の社会作りに向けて、その萌芽を社会の中に植え付けることを目的の一つにしていたとされる。彼らは巨万の財産を築いたためーそれがフランス王に目を付けられたことが、その過酷な弾圧のきっかけであったー、現代の金融資本家の先駆けのように語られることもあるが、真の騎士団員自身は、物質欲のない清貧を旨とする人達であった。友愛の社会こそが彼らの理想だったのである。
 この神殿騎士団の背後には、やはりマスターが存在していたのだと思われる。

 今、各国の主権を奪う、WHOの規約改正の動きが着々と進んでいる。また日本では、mRNAワクチンの製造工場が造られ、まだどこの国でも認可されていない「レプリコン(自己増殖)ワクチン」が厚労(ころす)省によって承認されたという。
 「国際機関」の背後にどす黒い影が見え隠れしているようだ。