k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

イーゼンハイム祭壇画とその治療力

イーゼンハイム祭壇画 第1面

 長い間忘れ去られ、19世紀末頃に再評価されるようになり、現在ではドイツを代表する画家とも評価される、16世紀に活動した「マティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald, 1470/1475年頃 - 1528年8月31日)」は、人智学派にとっても重要な画家である。しかしその名「グリューネヴァルト」は、誤って名付けられたもので、本名は、マティス・ゴットハルト・ナイトハルト(Mathis Gothart Neithart )だという。

 彼の代表作は、「ドイツ絵画史上最も重要な作品の1つである」(ウィキペディア)『イーゼンハイム祭壇画』であるが、読者の中にはこの絵をご覧になった方も多いだろう。

 私が最初に見たのは、確かオカルト、秘教関係の本に取り上げられていたものだったと思うのだが、それは決してダヴィンチやラファエロのように「うまい」絵ではないのに、確かに迫力があり、また妙に惹かれる絵であった。その本のせいもり、謎めいた雰囲気が一層強く感じられたからであろう。以来、ずっと気になる画家とその絵となった。

 この絵は、ウィキペディアによれば、「フランスとドイツの国境に位置するアルザス地方(現フランス)のコルマールにあるウンターリンデン美術館に収蔵されているが、元はコルマールの南方20kmほどに位置するイーゼンハイムにあった。この作品は、イーゼンハイムの聖アントニウス修道院付属の施療院の礼拝堂にあったものであり、修道会の守護聖人アントニウスの木像を安置する彩色木彫祭壇である。制作は1511年 ‐ 1515年頃」とされる。

 

 さて、ドイツの人智学派にとってもこの画家は特別な存在とされるのは、その絵には、以下の論考が示すように、秘教的背景があると考えられているからである。このため、イーゼンハイム祭壇画は、人智学派の重要なテーマとなってきたようで、いくつか本も出されている。

 いつかこれらの本を紹介しようと思っていたのだが、『ヨーロッパ人』誌に簡潔にまとまった論考が載っていたので、今回はこれを紹介する。

 

 本文に入る前に若干、予備的情報を提供しておきたい。

 上にあるように、この絵は本来、修道院付属の施療院の礼拝堂にあったものである。その祭壇のための絵だったので「祭壇画」と呼ばれるのだ。

 そして、施療院というのは、当時「聖アントニウスの火」呼ばれた病気(現在の疾病名で言うと麦角中毒であろうと考えられている)がはやり、主にそうした患者を収容し治療した施設なのだが、人智学派は、この祭壇画が、実際にそうした患者に対する治療効果をもっていたと考えているのである。

 音楽や絵画の、特に精神面での治療効果は現代でも認められており、アートセラピーとして社会的にも受け入れられてきている。このことからすれば、イーゼンハイム祭壇画に治療効果を認めることも無理なことではないのだが、イーゼンハイム祭壇画については、より奥深い仕組みがあるようである。

 ただ、以下の論考の表題にも「治癒力」とあるが、どうもこれには、病人の治癒という以上の意味があるようである。その絵に込められた秘教的意味合いを謎解きしながら、その大きな意味での治癒力が明らかにされる。

 さて、このような偉大な絵を描いた作者、グリューネヴァルトとは一体何ものかという問いが生じる。それについては、以下においても示唆されているが、本文の後に、また若干補足することとする。

 

 なお、祭壇画の写真も掲載するが、何分小さくなってしまい細部まで識別出来ないと思われる。今では、ネットで多くのイメージが見られるようになっているので、絵の細部については、そちらを参照してほしい。

――――――――

イーゼンハイム祭壇画とその治療力

 Der Europäer Jg. 27 / Nr. 12 / Oktober 2023

 

 コルマールでは、驚きと畏敬の念を抱いて、この偉大でいまだ謎に包まれた芸術作品の前に立つことができる。そして、ルドルフ・シュタイナーの霊的な研究の認識をもってこの作品を見つめ、解き明かそうとすればするほど、この作品は私たちの知覚の中でより大きなものとなりうるのである。当時に即してこの作品の秘密は絵画的表現に隠されており、鑑賞者に、私たちの時代にも理解できるように、それを解き明かし、理解することを促している。

 この祭壇は、1512年から1516年にかけてマティアス・グリューネヴァルトによって制作された。コルマールのアントニテ教会に保管されていたが、何度か行方不明になり、その後何度も修復された。教会は1831年に全焼したが、祭壇は保存された。以前は、教会の年中行事に合わせた絵が飾られていたが、現在は最近修復された祭壇全体を見ることができる。

 

基本構造としての3つの祭壇面

 特徴的に異なる3つの祭壇面と側面の翼が祭壇を形成している。

最初の面には、中央に磔刑の場面、左翼に聖セバスティアンの殉教、右翼に華麗な衣をまとった聖アンソニーが描かれている。この面で印象的なのは、一見幾何学的な構図の明快さである1

 第2面は、受胎告知から降誕を経て復活の場面まで、生前の出来事と死後の出来事を統合して、時系列的な伝記的シークエンスを描いており、非常に生き生きとした躍動感がある。

 第3面は、完全に地上の実際的なレベルを表している- 中央には祭壇の最も古い部分があり、教会の高位者たちが木彫りで描かれている。左側には聖アンソニーと聖パウロの霊的な会話が、右側には聖アンソニーの裁判の恐ろしい誘惑が描かれている。

 つまり、幾何学的で、鮮やかな赤と輝く白の色彩を持つ第1段階は、より認識のレベルに語りかけるものであり、時間的、伝記的な側面を持つ第2段階は、運命的な黄紫ピンクの色調を持ち、より感情、時間における経験に語りかけるものである。

 第3面は、まさに具体的な地上的なものである-中心における、重要な側面としてのパンの分割と、いと高き御方に仕える力ある者たちの力である。その象徴が、アントニーが持つTAOの杖である。黄金色、土色、温かみのある色調、青橙色、そして左のパネルに描かれた薬草のある自然は、この傾向を強調している。

 したがって、この祭壇の3つ面では、身体、魂、霊のレベル、思考、感情、意志など、人間全体が扱われているため、根本的な癒しの衝動を認識することができる。分析的に認識されるもの、次に伝記的な道の宿命的な苦しみ、そして最後に誘惑も含む人生の地上的な基盤。

 なぜこのようなことが真ん中の絵、つまり伝記的な過程にないのかと思うかもしれない。しかし、道徳的に成長するためには、この世が必要なのだ。ルドルフ・シュタイナーは言うように。:

 「人間は、この物理的な平面での生活を通してこそ、道徳を身につけるのです。人は物質的次元においてのみ道徳的になることができるのです。」 (外界の精神的背景、GA 177、1917年9月30日にドルナッハで与えられた講義)。

 ここで、癒しとは、思考、感情、意志の3つの魂レベルの調和として理解されており、この図像形成は、誕生前の出来事(受胎告知)や死後のプロセス(復活)までも共に含む、人間存在の全体的な考察について語っているのだ。

 21世紀の今日、肉体的、そして魂的・霊的な病の真の癒しは、霊的な認識レベルで人間を全体的に見ることによってのみ可能になると、私たちは確信を持って言うことができる。

 霊的なものは、すでに第一面で見られる。そこには、洗礼者ヨハネが、十字架刑の際にすでに処刑されていたにもかかわらず、生きて描かれているのだ【訳注】。洗礼者ヨハネは、ゴルゴダでの出来事に霊的世界から影響を与えると同時に、次のようなメッセージをもたらしている。:私は衰えなければならないが、彼は成長しなければならない。

【訳注】洗礼者ヨハネは、イエスに洗礼を施した後に、ヘロデ王宮で殺されてしまう。従って、イエス磔刑を受けた時には、既に地上には存在しなかったのだ。

 私たちはルドルフ・シュタイナーの研究から、洗礼者ヨハネが処刑された後、弟子たちを助ける霊となったことを知っている。【訳注】

【訳注】洗礼者ヨハネは、死後、イエスの12使徒のいわば集団魂のような存在となり、その後の彼らの活動を支援したという。

 

隠されたものからの働きかけ

 マティアス・グリュネヴァルトとは何者だったのかという問いに答えるのは難しい。私たちは、芸術的なイメージを通してのみ活動し、隠れたままでいることも、彼の個性の印しではないか、と自問することができる。彼の薔薇十字の知識はあちこちで輝いている。例えば、復活の場面では、地面に倒れた兵士のほこやりに七弁のバラを描いているが、これは薔薇十字団の中心的な瞑想への示唆である。この祭壇は、いわゆる聖アンソニーの火【ハンセン病】に苦しむ人々を癒すためのものだった。今日、この恐ろしい病気の原因は雨の多い夏の後のライ麦の収穫時にできる穀物の特大粒である麦角であることがわかっている。

 

色面についての簡単な考察

 色には特徴的な表現方法があり、この画家はそのすべての違いを知っていたに違いないと思わなければならない。

 ルドルフ・シュタイナーは『色の本質』(GA 291)の中で、赤を「生命の輝き」、青を「魂の輝き」、黄を「精神の輝き」と表現している。

 私たちは祭壇のイメージの中に、これら3つの色を簡潔また明瞭に見出すことができる:例えば、磔刑の場面では赤が生と死を対比させ、誘惑の際のアントニーの衣では青が、衣の青い五角形で彼の浄化された魂の力を表し、墓での復活した方のオーラでは黄色が、地上の死に対する魂の勝利を表している。最初のパネルの輝く白は、「霊的なものの生きたイメージ」として、思考を活性化させること、つまり死のプロセスから思考を奪い取ることを指し示している。受胎告知のガブリエルの赤紫色のマントとマリアの青緑色のマントには、混色が見られる。-ここでは、天的なものが地的なものに降り注ぎ、融合し、新しいものへと形成される。それぞれの色は、その魂的霊的内容に応じて絵の中に取り込まれる!このことから、グリューネヴァルトは色彩の本質に精通し、非常に優れた感覚を持っていたに違いないと結論づけなければならない。

 

イメージの象徴言語 - いくつかのヒント

最初の面

 一段目で、中央パネルの磔刑の場面に並んだ左にある聖セバスティアヌスは、星形の台座の上に立ち、矢に刺され、視線は上を向き、地上的なものから退いているように見える。つまり、霊的宇宙的なものとの意識的なつながりが、彼に救いをもたらすだろうと見ることができるだろう。天使たちはすでに王冠を運んでいる。反対側には、美しいローブに身を包み、四角い台座の上に立つ、よく肥えたアントニーが描かれている。ここでの正方形は地上への指向を意味する。二本の柱:このモチーフは、ソロモン神殿の二本の柱を連想させるかもしれない。それを通って、人間は神殿に入る。霊と物質、天と地の間に立ち、彼は人生の道を見て歩むのだ。: 彼は2つの世界の市民なのだ。それは人間のイメージであり、彼の現実であり、彼の "人間性Conditio Humana "なのである。

 私たちは、磔刑の場面の象徴的な言葉に次のように付け加えることができる。磔刑の場面は、この2つの柱の相の間の中央に位置し、磔にされたI.CH.を示している。子羊は、傷口から流れる血を黄金の容器で受け止めている。これは、キリストの太陽のメッセージを何世紀にもわたって伝える聖杯のメッセージを指し示すものである2。曲がった横木は地球の湾曲を示唆しており、それは、この犠牲的な死は、自由意志による苦しみであり、全地球、全人類にとっての事実であるというイメージを語っているルドルフ・シュタイナーは、「ゴルゴダの神秘は世界的な事実である」と明言している。このシーンの下にある埋葬は、強く水平を示す明瞭なジェスチャーで、十字架におけるかつての地球の湾曲を、地球の上にある太陽の弧として新たに感じさせる。【訳注】

【訳注】キリストは太陽霊であり、ヨルダン川の洗礼でイエスの体に宿った。そして磔刑の死ののち復活した。十字架の横木は、地球の弧とも、太陽の弧(下のイエスの埋葬場面を地平線として、その上に浮かぶ太陽)とも捉えることが出来る。

 

第2面

第2面

 暗闇とシンプルで明瞭な線が支配する最初の構図の描写に続いて、2段目にはカラフルで生き生きとした魅力的な描写が続く。左側の受胎告知の場面から始まり、赤と黄色の服を着た巨大で力強い表情の大天使ガブリエルが、暗い紫色のドレスを着て背を向けて怯えているマリアを指さしている。光と闇、黄赤とこの暗い紫の出会いによって強調された運命の瞬間。開かれた本には、来るべき誕生を指し示す、奇妙な、ほとんど同じ内容の文章が2つ記されている。これはおそらく、二人のイエスの赤ちゃんを指しているのだろう。透明な鳩は、この道の目的地であるヨルダン川での、30年後、太陽の霊、キリストの霊とナザレのイエスとの結合をもたらす洗礼をすでに告げている。

 中央の二重のパネルには3つの相が描かれている。

 1つは、素晴らしい桃の花を身にまとい、チェロを弾く天使。しかし、彼は、ルシファー的な側面を示す可能性のある、過剰なもの、誇張されたものを示している可能性がある。ルドルフ・シュタイナー「魂の生き生きとしたイメージ」と表現する桃の花は、ルシファーの影響を強調しているのだ。続いて、光と黄金のオーラをまとった戴冠したマリアが、装飾的な柱の隣に現れ、3番目に、子供を抱いたマリアが登場する。子供の破れたおむつはすでに磔刑を示唆している。彼女の赤いドレスは逆さまに見るとバラの花の形をしている。父なる神はこのシーンの上に鎮座し、この運命的な出来事が起こることを許している。ここで私たちは、死と重い運命の統合を認識する。しかし、それはさらに明確になる。前景でチェロを弾いている天使の真後ろに、両手を奇妙にひねって楽器を演奏しようとする、やはり暗くて淡い色彩の羽の生えた姿が見える。口と鼻から炎が噴き出しているように見える。素晴らしく明るい黄色は、ここでは緑がかった色に薄れ、輝きを失い、この明るい周囲の中では非常に暗く見える。従って、アーリマンを示唆する堕天使である。ここには闇の統合がはっきりと描かれている: それは創造に属し、ルドルフ・シュタイナーから学んだように、これは人間が将来、内なる自由を獲得するための条件とともに、存在するのである。さらに驚くべきことは、この天使の輪舞の中に東洋的な特徴を持つ人物も見られることである。これは、その4世紀前に、成熟した意識的な生き方への指示によって、このキリストの衝動への準備のようなものをすでに提供していたブッダをおそらく示しているのだろう。

 次に祭壇の右側、復活が描かれている部分に目を向けると、驚くべき出来事が描かれている: 重い石は転がされ、重力に逆らって浮いているように見える。復活した者は、巨大な太陽の光のオーラの中で、手と足の傷跡を見せている。

 兵士たちはその光を見ることなく、地面に倒れ、地面の方を向いている。夜空には当時輝いていたであろう星座が見える。夜の闇の中では色は見えないので、しかし、白い屍意衣、キリストの白い衣の上の色はどこから来たのだろうか?という疑問が残る。そこで、下の方の、光(青紫)の後ろにある色と、上の方にある光(黄・オレンジ・赤)の前にある色を見てみよう。私たちは、色彩環の中心を占める緑が、風景と、太陽の光り輝くオーラ-新しい太陽としてのキリスト-の端にあることに気づく。「真夜中の太陽を見る」とは、そのように、神秘学院でイニシエーションと呼ばれていたもので、物質的なものを通して霊的で生あるものを直接見ることができるようになることを意味する。

 7つの色、その7つの性質は7つの惑星圏を指し示し、その惑星圏は呼吸、暖かさ、栄養、分離、保存、成長、繁殖を通して地上に生きるすべてのものを維持する7つの生命プロセスの担い手である。

 このことは、キリストの言葉、すなわち「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14:6)。」にいたるものである。

 

第3面

第3面

 中央には本来の祭壇があり、当時の教会の奉仕者たちの木彫りの像が飾られている。彼らは、その記章で誰だか分かる。左側には、3世紀に描かれた聖アントニーと聖パウロの会話があり、右側には聖アントニーの誘惑が印象的に描かれている。地面に横たわり、十字架にしがみつく聖アントニーを、悪夢のような人影が襲う。小さな白い端切れにはラテン語でこう書かれている:

 

 「善きイエスよ、あなたはどこにおられたのですか、なぜここにおられなかったのですか、私の傷を癒し、助けてくださらなかったのですか。」

 

 この孤独な闘いのすべての絶望が、ここにある—境閾の守護者との出会いにおいては、誰もが孤独なのである。絵の下には、炎症と腫れ物に覆われた病人が描かれている。その隣には鎧をまとった動物が描かれているが、これは硬化した病気を象徴している。そのすぐ隣にいる三人目が聖人である。この聖人だけがクリアな3色の光沢のある色で描かれている:青い衣、赤い下着、白く分けられた預言者のひげ、そして顔の黄色。その苦しみは計り知れないようだが、この恐ろしい生き物達は、それらすべてにもかかわらず、彼に危害を加えられないように見える。彼と彼の衣服は形を保ち、彼の鮮やかな青い衣は五角形を形成し、彼の内なる精神的な強さを表している。このイメージは、彼の内なる強さが、肉体的なレベルに至るまで、炎症、溶解過程と硬化傾向の間の健全な中心を維持することを可能にしているという意味にも理解できる。このように、彼の精神的な力強さが肉体的な形にまで作用しているのである。

 今、このパネルの中央には、右から人の魂に宿りうるあらゆるスペクトルを示す姿がやってきている: 怒り、嘲り、憎しみ、暴力、貪欲、無関心そして叫び声。正確に数えてみると、このような姿は12人である。この数は、別の事象、身体を形成する宇宙、獣帯を指し示している。『ヨーロッパ人』2009年4・5月号に掲載されたJ.W.ローエンの著書に関する記事の中で、オラフ・クーブ博士は、足元に鷲、頭部に雄牛のような生き物、そして中央に口が大きく歪んだライオンが描かれていることを指摘した。これは、悪魔が思考を「物質化」し、意志を「知性化」し、心情を「歪曲」しようとしていることを示しているのかもしれない。この絵全体を下から上に3分割すると、上3分の1の部分に最も対照的な風景が描かれている。左手には焼けた家、枯れ枝、空を飛ぶ鳥やドラゴン、その隣には氷のように高くそびえる雪山がある。もし私たち自身がこの上3分の1の思考次元にいるのだとしたら、これらは乾燥し、生気がなく、焼け焦げた抽象的な概念、そしてその隣には最高の高みへと昇る幻想的なアイデア、願い、欲望のイメージとして理解することができる。

  頭上には、輝く黄金のオーラで光景を観察し、左手に杖を持ち、霊たちを堕落させている天上の存在が鎮座している。アイリッシィ太陽十字を持つ光の剣が闇の勢力を倒している。この時代、いと高き神の名において戦いを指揮していた大天使ミカエルもこのように描かれていた。

 祭壇の左側に描かれた二人の隠者の会話は、ゲーテの『おとぎ話』に登場する王の問いかけも思い起こさせる。

 「黄金よりも輝くものは何か」と王は尋ねた。「光だ」と蛇が答えた。「光よりも快いものは何か」と王が尋ねると、蛇は「会話です」と答えた。

 では、この会話の結果は?伝説によると、一匹のカラスが庵に2つのパンを運んできた。誰がそれを分けて配るべきかについて会話が続く。結局、2人はこれを分け合い、もう片方に自分のパンを渡す。少し奇妙に思えるのは、皆が自分の分を他の人に分け与えれば、皆の分は十分にあるという重要な事実である。ここに、ルドルフ・シュタイナーが主要な社会法則として定式化した社会的問題のテーマがある

 

 「共に働く人々の総体の救いは、個人が自分の功績の収益を自分のために主張しなければしないほど、つまりこの収益を同僚に与えれば与えるほど、そして、自分の欲求が自分の業績からではなく、他の人々の業績から満たされるほど、そ大きくなるのである。」 (GA 34、1906年8月14日の講義)

 

 こうして私たちは、経済生活における兄弟愛というテーマに、物理的なレベルで到達したと言える。対話に沈潜していた二人に、カラスを通して、上から三番目のもの、パンが加わったのだ。

 

 「見よ、これはわたしのからだである」(ルカ22:19)、あるいは「わたしの名によって二人または三人いるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)。

 

 祭壇画の中央では、アントニウス玉座に座り、右手にタウ十字の杖、左手に書物を持っている。アウグスティヌスは司教服を、ヒエロニムスは簡素なローブを身にまとい、ライオンを傍らに置いている。このように、一方では王族的、知的、男性的な側面が、感情の担い手である心臓の側には、羊飼い的な側面が描かれている。アントニウスは、これらの正反対のものを組み合わせ、バランスをとることのできる中心を表している。

 

 要約すると、次のように言うことが出来る。

 第一段は、認知的な作業、つまり出来事を思考により分類し理解することを指し示している。ここでは、この霊的な次元に入ることが不可欠なのだ、十字架上の描写は、亡くなった者が生きていることを、しかも観察者に明確なメッセージをもって示しているのだから。そこでは、すべての人間が個々に霊的に成長し、概念の形成を通じて宇宙的霊性とつながるよう求められている。(『自由の哲学』GA 4)

 第二段では、人生の時間的次元を我々に追体験させる。天使の活動が誕生のプロセスに関与し、復活した方の霊体が、死後の世界の道も意識的に歩むよう指し示してくれる。転生している限り、すべての人間が同じように歩むことができる、あるいは歩まなければならない道が示されているのだ。均衡の原理としてのカルマの問題は、社会形成における治癒的で健全な鏡として、法生活における平等を指し示している。

 第三段は、この地上において、私たちが意識的かつ自ら進んでバトンを受け取り、対話を求め、可能な限り、この思考/霊/黄、感情/魂/青、意志/意欲/赤の三位一体で、特に誘惑において表現されていることを実践することー経済生活における兄弟愛の理想に有益である用に-を示している。

 下に配置された「最後の晩餐」では、再びキリストが最も高い位置に描かれ、弟子たちの上にわずかなアーチを描き、磔刑の場面で描かれた十字架の梁の湾曲をある意味で再現している。

 最後に、"中心部分 "が3つの段すべてを通して透明であると想像するならば、Iでは磔刑、IIでは神殿の柱の横にいる戴冠したマリア、IIIでは杖を持ったアントニウスが中心を表し、キリストはその下でパンを分け合っている。このように、私たちは、祭壇画において、明晰な思考、思いやりそして活動的で意識的な行いという3つの段階を通っていくのである。

 絵の方から見て右側は知識や知恵のさまざまな側面を示し、左側は、それぞれ魂的な成長の問題を示している。

 優れた芸術家マティアス・グリューネヴァルトの絵画デザインによる前述のメッセージは、このように凝縮される。

 

ウルスラ・シュトーブリ

 

〈著者について〉

1953年生まれ。元、中等学校教師、チューリヒシュタイナー学校での教師養成セミナーを経て、アートセラピスト、オイリュトミスト、人智学に基づく伝記的問題、霊的な年代に関する問題、おとぎ話分析に関する講座、これらのテーマに関する講演、絵画講座に携わる。

二人の息子と一人の娘の母であり、二人の孫娘がいる。

 

1 グリューネヴァルトによって細々とリアルに描かれた瀕死のキリストを見るとき、肉体の緑がかった色は、ルドルフ・シュタイナーが「魂の生きたイメージ」(GA 291)と表現する桃の花という反対の色を観察者の目に作り出す。こうして私たちは、「生きている者の死んだ姿」を表す緑を越えて、桃の花とともに復活した方を見るのである。

2 兵士がキリストに与えた傷は必然的なものだった。一方では、この血は、地上に存在した最高の物質、すなわちキリストの自我を担うものであり、究極の救いの物質として地上に流れ込まなければならなかったからである。一方では、十字架刑においては、血液は滞り、体を開く傷がなければ流れることはない。

 

参考文献

ゴットフリート・リヒター『イゼンハイム祭壇画』ウラッハハウス。Max Seidel, The Isenheim Altarpiece, Belser Verlag.

ミヒャエル・シューベルト、『イゼンハイム祭壇画』。History - Interpretation - Background, Urachhaus.

Johannes W. Rohen, Der Isenheimer Altar als Psychotherapeutikum, Verlag Freies Geistesleben.

J.W.フォン・ゲーテ『緑の蛇と美しい百合のおとぎ話』、日本経済新聞社。Rudolf Steiner, The Key Points of the Social Question (GA 23).

ルドルフ・シュタイナー自由の哲学』(GA 4)。

ルドルフ・シュタイナー『秘密の科学の概要』(GA 13)。

色の本質(GA 291)。

――――――――

 以上の文章から、この祭壇画の細部には様々な意味が込められており、また巧みな構成によりそれらが有機的につながり合っていること、そして3段の絵画と彫刻全体で人間の全存在に訴えかけていることが示されたと思う。その意味では、病人の治癒という目的もあったであろうが、病人、健常者を問わず、死後の生も含めて、人々が霊的に自分を磨き、鍛えていくことを促していると考えることが出来るかもしれない。

 もちろん、上の解説は、この著者の一つの解釈であり、それについての感想も私の私的な思いにすぎない。当然、異なる解釈もあり得るし、どれが正解と簡単に言えるものでもない。もともと多義的な作品であると思われ、人智学者によっては異なる説明がありうるだろう。

 

 さて、グリューネヴァルトには深い秘教的知識があったということについては、納得してもらえたのではなかろうか。

 では、その知識はどこから来たのであろう?著者は、本文の中で、「彼の薔薇十字の知識はあちこちで輝いている」と述べている。つまりこれが、その答えらしい。

 絵の解釈は人により様々としても、この事については、人智学派において共通する理解のであると思われる。

 既に何度か紹介した、世界的解剖学者であるヨハネス・W・ローエン氏が、何とこのグリューネヴァルトの絵をテーマとする本を出しているのだが(『精神療法としてのイーゼンハイム祭壇画』)、彼は、その中で次のように述べている。

 「グイドもグリューネヴァルトも薔薇十字運動と接触を持っており、そこから、彼らは神秘的な知識体系を受け取り、それが、祭壇画で-様々なイメージ要素のシンボルに暗号化されて-表現されたのである、ということは認められるだろう。」

 ここに出てくるグイドとは、グイド・グエルシというこの修道院の指導者で、グリューネヴァルトにこの絵画の作成を依頼した人物である。

 そして、ローエン氏は、グイドと薔薇十字運動の関連に関して、その背景として、彼は、神殿騎士団カタリ派(あるいはアルビジョア派)、そして薔薇十字運動の時代から、秘教的伝統が残っている南フランスの出身であり、アントニウス修道会のインパルス自体もこの南フランスにある、と指摘している。

 グリューネヴァルトもやはり薔薇十字運動と接触していたので、この関係から二人が出会い、あの作品が生まれたというのである。

 

 薔薇十字との関係を裏付ける一つの根拠としては、祭壇画に「二人の子どもイエス」の秘密が隠されているらしいと言う本文の記述が挙げられるかもしれない(この説は、人智学派の別の研究者によっても唱えられている)。

 この秘密が確かに薔薇十字運動に流れていることは、先に掲載した、「二人の子どもイエスとは㉔(タイナッハの教示画)」や「シェークスピアの暗号」の記事で示されている。

 「二人の子どもイエス」というのは、秘教的キリスト教にとっては重要な秘密であるが、教会権力の強かった時代において、それは禁断の説であり、公に主張できるものではなかった。当然、秘教的なグループの中で、密かに伝えられてきたのだ。その一つが、薔薇十字運動であったと考えられる。

 この秘密を絵に込めたと言うことは、やはりこの絵の薔薇十字運動とのつながりが推定できるのではなかろうか。

 

 私はこの絵の復活したキリストが特に好きなのだが、19世紀末頃にこの絵が再評価されるようになったことの背景には、この頃から、薔薇十字運動の霊統を受け継ぐシュタイナーが公に人智学運動を始め、彼が、キリストの再臨を明らかにしていったことと関係があると、確かある人智学者が語っていたような記憶がある。

 今、悪の対抗勢力の動きばかりが目につくような時代状況であるが、もちろん、霊的ヒエラルキーとそれに使える者達も、キリストの再臨に向けて着々と準備をしてきたのである。