k-lazaro’s note

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ミサにおける物質の霊化

 「カルト」というと、特に今の日本ではマイナスの反応が返ってくるばかりだが、もともとはラテン語のカルトゥス(崇拝)から来ており、「儀式」「祭儀」などの意味があり、崇高な言葉である。これが「米国で伝統的に異端的なキリスト教新宗教に対して使われ」るようになり、「特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して“カルト”という言葉がマスメディアで使われた」(ウィキペディア)こともあり、反社会的な宗教団体に対して使われるようになって、マイナスイメージが定着してしまったたようだ。

 このように、現代では、欧米でもカルトはいい意味ではないようだ。儀式魔術という言葉があり、これは、黒魔術に関係するオカルト結社で行なわれているイメージもあるので、案外、このようなことも背景にあるのかもしれない。

 さて、宗教に祭儀はつきものであるが、無宗教者からすれば、そこに意味を見いだすことは難しいだろう。私自身も、昔はそれに(心理的な)意味があったのかもしれないが、宗教行事に重みを付けるためのもので、単なる形式であるというイメージであった。

 密教に薪を焼く護摩行というものがあり、炎の中に神仏が降りてくるという話もあるが、これについても、見る者が炎にイメージを膨らませているだけというように、以前は考えていたのである。

 しかし、シュタイナーによれば、そうではないのである。実際に、そこに霊的存在が臨在しているというのだ(勿論、本当の宗教者が正しく行なった場合である)。

 このようなことは、実は旧約聖書に記されている。モーセシナイ山で神に出会うのだが、神は「燃える柴」の中に出現したのである。

 

 キリスト教にはミサと呼ばれる祭儀がある。祭儀一般をミサとも称するが、本来のミサは、カトリックにおいては、パンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる典礼のことらしい(当然、プロテスタント以外の他の宗派にも同様の祭儀がある)。よく教会で、司祭から信者がホスチア(ホスト)と呼ばれる薄いパンを受け取り口にするのを見る、あの儀式である。

 その原型となったのは言うまでもなく、イエス・キリストによる最後の晩餐である。そこでキリストが語ったように、パンとブドウ酒はキリストの肉と血なのだ。

 しかし、人智学的には、それは比喩ではない。太陽霊であったキリストは今、地球霊となっており、大地から採れた小麦やブドウにはそのキリストの力が宿っていると言うことができるのだ。

 

 今回のテーマは、ミサにおける「聖体の秘跡」に関するものである。この秘跡では、聖別された水、油、パン、ぶどう酒などによって神からの見えない恵みが人間に与えられる、聖別されたパンは、キリストの「体の実体」であるとされるのだが、聖別によってパンとぶどう酒がキリストの体と血の実体に変化することを「聖変化、実体変化transubstantiation」という。 

  この実体変化(変容)について、アントロウィキには、次のような記述がある。

ルドルフ・シュタイナーは、自らの体験から、聖変化の際に霊的な現実の作用が起こることを確認することができた。変化が成し遂げられると、実体変化の際に聖体(ホスト)の周りに霊視的に知覚できるオーラが形成されるのである。

 “私は、実体変化をよく観察しています。しかし、今日、カトリック教会の中では、どの司祭が超実体化を行うかによって、強い違いが見られますが、少なくとも私は、特に最後のイタリアの旅で、聖別中に、実体変化中に、ホストがオーラを獲得するのを見たことがあります。だから、私は、聖別がそれにふさわしく行なわれるときに起こる客観的なプロセスを、現実として知ることができるようになったのです。”」

 ふさわしい者により、正しくその儀式が行なわれれば、霊はそこに現存するという事である。そこにまた宗教の存在意義があるのだが、今どれほどの宗教組織にそれを見いだせるかは大いに疑問である。お金儲けが主眼になっている団体や、実際には霊の実在自体を信じていない宗教者もおそらく多いのではないかと思われるからである。

 シュタイナーの指導のもとに、従来のキリスト教を改新し、時代に合ったキリスト教活動を創造するために結成された組織があり、日本では「キリスト者共同体」と呼ばれている。シュタイナーの影響を受けているが、人智学協会とは別組織である。

 以下に紹介する論考は、キリスト者共同体の司祭であったミヒャエル・デーブス氏の『現代及び未来の世界のためのサクラメント神学』の、「実体変化」に関する一節である。

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変容の本質

 繰り返し使われている「変容」のための言葉は、ルドルフ・シュタイナーもそうであるが、実体変化(トランサブスタンシエーションtransubstantiation)である。これはスコラ学で生まれた言葉である。9世紀(Paschasius Radbertus1)と11世紀(Berengar of Tourst2)の「主の晩餐(聖餐・ミサ)」に関する二つの大きな論争において、この概念はさらに発展し、12世紀には、おそらくポワチエジルベールによって、初めて、「実体変化」という言葉が登場した(1154年)。最も大きな影響を与えたのは、トマス・アクィナスの「実体変化」論の深化である。彼の理論は、実体と(非本質的な)性質、あるいは本質と外観の区別に基づいている。私たちは常に物事の外観だけを認識し、それは常に変化しうる。しかし、それは常に変化するものであり、同一性を与えるものは本質である。今日、「実体変化」の教義は、ごく簡単に言えば、パンとぶどう酒の実体(本質)はキリストの体と血に変えられるが、外見(味、見た目などの「性質」)はそのままである、とする。1215年の第4ラテラン公会議では、この見解がドグマに昇格した。キリスト者共同体はこの見解を採用しなかった。実体変化という言葉は、今でも使われている(シュタイナーが長い間「ミサ」という言葉を使ったように)。しかし、我々の理解は異なっており3、したがって伝統的な意味と完全に一致するわけではない。

 

*1 Paschasius Radbertus (ca.79o-856/59), Corbieの修道士・修道院長は、その論文 De corpore et sanguine Domini で9世紀の聖体拝領論争を開いた。

*2 トゥールのベレンガー(999-1088年頃)、サン・コム(トゥール近郊)生まれ、トゥールの学校長、アンジェの大司教、14o年、象徴的聖体の教え(パンとワインにキリストが象徴的に存在するということだけを認めた)により数回の会堂で非難を受ける、I050年頃。

*3 シュタイナーは、「変容(Wandlung)」が今日の理解にふさわしい言葉だと考えた。変容は歴史的な伝統を指し示している(CW 343, Oct.to, 192.if参照)。

 

 ルドルフ・シュタイナーにとって、実体変化に関する最初の問題は基本的なものである。彼は「キリスト者共同体」の創立の何年も前にこの問題を何度も取り上げ、ついにはこれを「枢要な問題」と呼ぶようになった。科学が、すべての自然現象は厳格な因果律に従って進行すると仮定するならば、道徳はどこに位置づけられるのだろうか。「自然科学者が前提としなければならない法則に従ってすべてが進行する世界で、倫理的な衝動をどうすれば実現できると言うのだろう。普遍的な物質的因果律があるとするなら、倫理的な衝動はどこに置かれるのだろう。その答えは次のようにしかなりえない。このような世界では、人間の責任、自由、道徳は幻想である。それはすでに自然科学の分野では避けられないと、久しく考えられてきたのである4。」しかし、自己の霊的次元を忘れなかった者達は、この考えに平静ではいられない。

 

*4 B. F. スキナー『自由と尊厳の彼方へ』。

 

 一般に、自然法則の論理的適用性を疑う者は、奇跡を信じているに違いないと仮定されるが、自然法則の力を突破する方法は別にあるのである。

 

自然界の因果関係の説明について正直に考えている人は、その適用範囲内において、それが成立しない場所を世界のどこにも見出せないだろう。そして、それがどこにでも適用されるからこそ、その適用性を破壊できる何らかの力が存在しなければならないのである。その力とは、道徳的な世界である。人間の本性に存在することが知られている道徳的世界は、奇跡を起こすのではなく、進化の過程を経て、自然の因果関係を断ち切る力を含んでいるのである。」(シュタイナー CW78、1921年9月5日)

 

 シュタイナーはこの発展を、感覚的外界が終焉に向かっているという事実に含まれると見ている。科学的なエントロピーの法則の論理的な適用によれば、すべてのエネルギーは最終的に不可逆的に熱に変換され、それは同時に、全ての物理的プロセスの終わりを意味する。 5しかし、自然の秩序をもっている私たちの消えゆく外界は、同時に上昇する内界、道徳秩序の世界を伴っている。道徳的な衝動が外見上、自然の法則を突破していなくても、道徳的な世界は、外側の自然の中で、いわば胚胎的に成長しているのだ。外界が終焉を迎えたとき、道徳的世界はやがて完全に顕現する。このように、進化の発展を経て、自然で物理的な因果の世界は次第に分解されていくのである。【訳注】

 

*5 訳者注:エントロピーはこのように要約される。物理的なものはすべて、無秩序な状態の増大に向かって容赦なく傾いていく。宇宙論に当てはめると、宇宙は「熱の死」に向かっており、それによってすべてのエネルギーは熱エネルギーとして均質に分布し、あらゆる種類の構造または形態は電離粒子のランダムな分布に還元されるのである。この状態は、物理的な意味のなさを表している。

【訳注】今の物質世界は長い進化の過程に生まれてきた世界であり、それはまた変容していく運命にある。それは、再び霊化(霊的世界に帰って行く)の方向にある。このため、自然界の法則も未来においては、自然界そのものの変化に応じて変化していくのである。

 

 地球がいつか滅びるというこの大宇宙の未来は、人間が死ぬときにすでに小さな形で起こっている。死から新しい誕生までの間、私たちは自然の因果関係が適用されない、純粋に道徳的な世界に生きている。自然的な因果関係の世界で生きていた時の行いや衝動の結果は、死後、この道徳的な世界で完全に明らかになる。そして、それは完全な現実となり、私たちはそこから将来の地上での生活のための衝動を引き出すのである。それれは、私たちのカルマとなるのである。このようなカルマをもって、私たちは、後に自然法則の世界に再び入り込むことになる。道徳的な衝動が、自然法則の世界に由来するものであれば、それは確かに幻想であるが、感覚の世界の外に由来するものであれば、それは幻想ではない

 私たちが生まれながらにして持っているカルマは、道徳的な実質であり、感覚的な世界で実際に働いているが、自然の法則を破っているわけではない。それは、言わば、物質世界に包まれているのだ。例えば、カルマ的に正しい瞬間に、屋根の瓦が外れて落ちてきて、私に当たるというような、論理的には解釈しがたいような出来事が起こるのだ。そして、死と新しい誕生の間の生において、道徳は、進化を通じて自らの現実を創造する。このように、私たちは自然の摂理と道徳の摂理の間でリズミカルに生きているのである。

 転生することによって、私たちはカルマと倫理的衝動を通じて、自然の秩序の中に、自然法則の中で働くが、自然からは生じ得ない道徳的秩序を持ち込むことになる。このパラドックスは、次のように定式化できる。カルマと倫理的衝動は、物理的な世界の因果関係を突破するものであり、物理的な法則を破るものではない。その結果、私たちはこの世から解放され、純粋な道徳の世界で私たちの地上生活の結果を処理することになる。キリストの言葉は、この道徳的秩序を指し示している。「私の王国はこの世のものではない」(ヨハネ18:36)。しかし、言わなければならないのは、キリストの王国はこの世で働いている、ということである。あるいは、ルドルフ・シュタイナーの言葉を借りれば、こうである。「このために、キリストの王国はこの世のものである。なぜなら、人類は、彼らなしにはこの世に存在しない霊をこの世の内容とするために、この地上にいるのだから。」(CW 2.17、1922年10月)超感覚的モラルと感覚世界との間のこのリズミカルな振動の中で、自然の秩序の中に新しい道徳秩序が進化しているのである。それは、外的な自然が終焉を迎えるとき、いつか完全な実在として現れるだろう。このことは、「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない」(マタイ24:35)というキリストの言葉にあるとおりである。

 道徳的秩序がどのようにして自然の秩序の中に働きかけられるかという問題も、人間自身の中に極めて自明な答えを見出すことができる。人間の行為は、単に自然の存在として生きるのではなく、自己決定的な存在として生きる限り、自然の因果関係に左右されることはない。人間の器官の中では自然の法則は破れないかもしれないが、それでも人間はより高い秩序、すなわち道徳的秩序に導かれて行動する。それによってのみ、私たちは自分のすることに責任を持つことができるのである。ゲーテはこのことを非常に印象的に表現している。「動物はその器官によって指導され、人間は自分の器官を指導し、コントロールする」(ゲーテ『格言と省察』)動物とは純粋な自然の存在であり、自然によって決定される、つまり器官によって指導されるのである。人間の行為は器官によって決定されるべきではなく、人間がその本性(自然)を決定すべきものである。

 したがって、人間の身体には、自然の秩序と道徳的秩序とが、自然の秩序(自然の法則)を破ることなく、(理想にしたがって)道徳的秩序が自然の秩序を支配するように働く場がすでにあるのである。人間の行為において、この道徳的秩序は世界に移される。人間の行為から発せられる世界のすべての造形は、単なる自然を超えたものである。それらは、真か偽か、美しいか醜いか、善か悪かである。その領域は実際にこの世にあり、この世を変容させているが、それらは「この世のものではない」領域から生じるのである。

 

 ここで、祭壇におけるパンとぶどう酒の変容について疑問が生じる。この二つの秩序はどのように作用しているのだろうかということ、実際、これは重要な問題である。私たちは、この相互作用の中にどのようなリズムのプロセスが含まれているかを見てきた。死と新しい誕生との間の生と新しい誕生に伴うカルマの形成のように、地上での転生の生には、リズムがある。もし私たちが「実体変化」だけを考えるなら、変化したホスト(聖別されたパン)が決定的な要因となる。それは聖体顕示器の中で見ることができ、崇拝することができる。変容のプロセスは、私たちの知覚から失われている。カルマを理解することによってのみ、人は、パンの変容を理解することができるのである。これまでのキリスト教の歴史では、カルマの考え方は禁止されていた。したがって、変容のプロセスは、実体変化という静的な形でしか考えることができなかった。

 ルドルフ・シュタイナーは、「カルマの教えは人類から取り上げられ、実体変化についての教えの中に置かれた」と述べている。しかし、このことは、外界には、実体変化に関する教えと類似したものが何もないことを意味する。なぜなら、実体変化に関する教えと類似しているのは、カルマに関する教えだからである。地上での連続した生において人の運命を「作る」力は、自然の力ではなく、父の力でもなく、御子を通して媒介された聖霊の力である。この力は、祭壇の上で聖なるもの、すなわちホストが変容するときにも働いている力である。」(CW 346、1924年9月2日)

 つまり、私たちは変容についての新しい理解の始まりにいるのだ。私たちはもはや、変容を理解するためのスコラ哲学的な試みに頼ることはできない。実体と性質の区別は、もはや十分ではない。今日、私たちをさらに前進させることができるのは、再体現とカルマの考えなのである。

 

「パンとワインという変容した実質の中で、人間が地上での受肉と霊界での生の間を交互に行き来するのと同じように、道徳と自然の秩序がリズミカルに織り成されている。両者とも、目に見えるようになる過程を表しており、その完全なリアリティは、活動の展開、過程それ自体の中にのみ存在するのである。」6

 

*6 したがって、人間の聖化式の外で、聖壇の中のホストを見ることは、キリスト者共同体にとって選択肢にはならないだろう。

 

 このように、変容と聖体拝領を理解することは、キリストの体と血であるこれらの変容した実質にも恵みが伝達されることを示唆している。この恵みは、カルマを形作り、形成する力、すなわち、"御子を通して媒介される聖霊の力 "である。聖霊の力は、私たちを一つの受肉から別の受肉へと導く。それはまた、エピクレスシス7を通じて、聖化式の第三部である実体変化で働くのである。 そして御子の力は、私たちが運命を担い、秩序づけるのを助けるのである。

 

*7 4.2. "神秘 "の章を参照。ギリシャ語のエピクレーゼ(エピクレスシス)mnは「呼び降ろす」、すなわち聖霊を呼び出すという意味である。

 

 したがって、実体変化(と聖体拝領)を通して、道徳的秩序の運命を形成する力が、未来の実際の力として、人間の中に、しかしまた外界の中に織り込まれるのだ。それらはいつか滅びゆく世界から「新しい天と新しい地」をよみがえらせる(黙示録)。 このことは、キリストの言葉にもある。「天と地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去らない」(マタイ24:25)。その変容の力を伴っている聖化式は、実質的にこのことに寄与している。世界はいつか終わるが、"その時に、ミサの捧げ物としてこの地上で起きた出来事を振り返るなら、その結果はいつまでも存在しているのである。儀式は、それが正しい方法で実践されるとき、自然よりも現実的である」(CW 344, Sept. 7, 1922)

 

 結論として、私たちは、それに対して主の晩餐がインボリューション(巻き込み)として対応する、人間の生活における進化の側面について、再び考察する。人生の14年目から、私たちは徐々に自分の人生に道徳的責任を持ち始め、道徳的秩序をこの世の自然の秩序に浸透させるようになる。私たちは、これがリズミカルなプロセスであることを見てきた。転生の間にリズミカルに大きな規模で起こることは、毎晩、小さな規模で起こるのである。私たちの行動に対する責任は進化していき、道徳性は必然的に人生の外的コースと織り合わされる。かくして、ルドルフ・シュタイナーは、インボリューションのプロセスに触れて次のように説明している。

 

「人間は、魂-霊が肉体組織と密接な関係に入るところまで進化するとすぐに(これは重要な新しい力である)、私たちは、魂-霊の間を行ったり来たり、肉体から抜けでたり再び入り込んだりしたりする限り、リズム的サイクルに入る...人間は、進化とバランスをとるためにインボリューションのプロセスが必要である。このインボリューションとは、聖餐式を受けることである。」(CW 343, Oct.2,1921)

 

 私たちは、新しい道徳的秩序がどの程度までリズミカルに行われるインボリューションのプロセスであるかを見てきたのである。

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 私たちは、今の物質世界、自然界はこれまでも今後も変わらないと思っている。だから自然法則は常に変化せず、今後も永遠に同じだと思っている。しかし、実は、先に注でも述べたように。今の物質世界も、本当の世界のあり方からすると、一時的なものに過ぎないのであり、その姿を変えていくのだ(それは人間も含めてである)。

 秘教的には、大きな方向性としては、物質的世界は崩壊していく。そして再び霊的世界に戻っていくのだ。物質的自然界は、もともとそれだけで成り立っているのではなく、そこには、実際には非物資的なもの、超感覚的、霊的なものが働いており、それを支えている。

 そして、今、物質的自然界の変容を進める役割を担っているのは、人間である。人間が自由な自我を発展させるためにこの世界は必要であったが、今度は、その人間により世界は変容していくのだ。その力は,人間の道徳的な力なのである(シュタイナーのエーテル論では、道徳的エーテルというものがあるが、おそらくこうしたことに関係しているのだろう)。

 世界は、新たな霊的実質を受け取り変容していく。そして世界全体で起きることが、教会において、ミサの聖体の秘跡(変容)として、小宇宙的に聖体の中で起きていると考えることができるのではなかろうか。