ー予告通り本日からブログを再開します。毎週更新の予定ですが、ただやはり更新が遅れる場合があるかと思いますので、ご了承ください。
以前、宗教的儀式の意味について考察した。
真の宗教的儀式においては、霊が現存するという話である。本来の儀式には、霊的存在が実際に現われているのだ。
かつて古代においては、聖職者たちは、宗教的儀式を通して神霊的存在から啓示を受け、それらが一般の人々に伝えられていた。民族や国の統治において、そうした啓示は不可欠なものであった。神霊存在はより身近な存在であったのだ。それは、当時の人々は、そうしたことが可能な意識の発達段階にいたということである。彼らの心性は、霊的なものに未だ親和性をもっていた。子どもが親のふところで憩うように、人々はまだ神々のふところに抱かれていたのである。
しかし、現代において、そのような心性はもはや存在しない。それは裏返せば、人間は、神々から自立したということである。かつて人間は、本能のように霊的ものを受けいれることができたが、もはやそれはできない。現代人は、霊的なものを自らの力で認識しなければならないのだ。
では、現代において人間の意識が変化したのなら、儀式の意味も変わったのだろうか? そうではない。儀式の本質的部分においては、つまり霊が現存するという意味では変わっていないだろう。
ただ現代人にふさわしい形で執り行われる必要があると思われる。昔であれば、霊が現存すると言われれば素直に信じられたが、もはや現代人はその様な状況にはなく、神霊存在自身の地上界への関わり方も変わってきているからである。
一方で、儀式の形骸化の問題があると思われる。聖職者自身がその意義を認識できなくなり、形を踏襲するだけで、儀式に内実が伴わなくなってきているという事である。あるいは、もはや、そもそもこのような形式にすぎない儀式は不要だと言うことにもなってきているのである(例えばプロテスタント)。
キリスト教界において、現代にふさわしい儀式のあり方を模索してきたのが、シュタイナーの指導の下に生まれた「キリスト者共同体」という宗教組織である。これは、人智学協会とは全く別の組織であるが、同じようにシュタイナーの思想を基盤にしている組織である。
さて、今回紹介するのは、このキリスト者共同体の聖職者であったハンス=ヴェルナー・シュレーダー氏の『人間と天使Mensch und Engel』という本の、儀式に関わる部分である。シュレーダー氏は既に故人であるが、氏の和訳本はいくつか出ているので、知っている方もいるだろう。
この本は、私が、若い時に、シュタイナーを知って間もなく購入した本で、私は、これにより人智学の天使論を初めて学んだ。いつか紹介したいと思っていたのだが、改めて目を通すと、儀式に関する記述があったので、最近掲載したブログ記事とのつながりで今回先ずこの部分について触れることとした。
この本は、題名の通り天使を論じたものなので、以下の文章も、天使との関わりにおける儀式の話である。
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儀式と天使の働き
この章では、これまで触れてきた個人的な体験の範囲を超え、共同体験の中で霊的な存在の何かを体験できる領域へと導いてくれるような体験にアプローチしましょう。すでに、芸術作品や音楽を聴くという共通の体験の中で、私たちは、私たちの個人的な存在が、より大きな領域に受け入れているものの中に生きています。共同体の宗教的体験、礼拝と聖餐の共同実行において、この力は増大し、それは一緒に参加する多くの人の総和以上のものとなります。より高い力が働いているのです。
本書の最初の部分、つまり「信徒の天使たち」の章では、共同体における儀式の遂行に与えられる、より高次の働きについて、すでに言及しました。ここでは、このモチーフをさらに発展させ、天使の領域を超えて、ヒエラルキー存在の広い領域へと私たちを導くような経験を扱いましょう。
この章では、まず、旧約聖書と新約聖書の中で、霊視の意識から記述された経験を取り上げることにします。今日、私たちはそのような古い経験を「源泉」とみなしているように見えるかもしれません。しかし、そうではありません。キリスト教共同体の中で実践されている、刷新された礼拝と聖餐式生活によって、古代の描写の根底に、体験可能な現実があることが、少なくとも、今日再び、予感され、次第に体験されることができるようになるのです。
儀式とは何か?
キリスト教の礼拝と聖餐は、キリスト者共同体の中で、人類の進歩的な意識にふさわしい新たな形で行われます。将来、礼拝と秘跡は、単に雰囲気のある時間や敬虔な教えを示すだけでなく、人間が再び霊的世界に接近するための体験につながるものでなければなりませんが、以前はこの接近は、信者の信心によってより無意識的に可能でした; 信心と信仰がもはや存在しない今日、儀式、宗教的な行為及び基本的事実へのアクセスもまた、新たに求めなければならないのです。宗教生活全体とその細部は、信心だけでなく、深い知識を通じて、思考にもアクセスできなければなりません。キリスト教の刷新によって、その可能性は現在も開かれているのです。宗教的体験の分野では、霊的世界とその存在の体験が、特に聖餐式と儀式の領域で、新たに開かれるのです。
儀式とは何でしょうか?真の儀式、真の礼拝は、霊的実在、霊的行いを再現したものでなければなりません。祭壇、燃えるろうそく、司祭の法衣など、地上の外見に事象が集約されることはなく、外側の言葉、その地上の音は決定的なものではありません。儀式の現象と言葉を通して、霊的なもの、神的なものが自らを表わさなければなりません。儀式そのものがこの霊的なもの、神的なもののイメージでなければならないのです。
旧約聖書における儀式
まず、旧約聖書の記述を見てみましょう。ここでは、モーセが霊的世界に対する洞察力から、いかにしてイスラエルの儀式を打ち立てることができたかが示されています。彼が霊的世界に見たものを、彼は、儀式の対象物と行いの中に写したのです。
「私が幕屋とそのすべての道具の例を示すように、あなたがたもそうしなければならない。... そして、あなたがたは、山で見た像に従ってそれを行うわなければならない。」(『モーセ第二書』第25章9、40節)。
旧約聖書の別の章、イザヤ書第6章には、モーセが見たかもしれない天上の礼拝の領域が、まるで一瞬のように垣間見えます。
「ウジヤ王が死んだ年、私は、主が高い崇高な玉座に座り、その裾が神殿を満たしているのを見た。セラフィムはその上に立ち、皆6枚の翼を持ち、2枚で顔を覆い、2枚で足を覆い、2枚で飛んでいた。そして一人が別の者に向かって叫んだ、“万軍の主は聖なる、聖なる、聖なる、聖なる、全地はその栄光で満ちている。”すると、その叫び声に波が揺れ、幕屋は煙で満たされた」(イザヤ書6:1-4)。
ここで、預言者の内なるまなざしの前に、霊の世界を隠しているベールが押しやられた。彼が見たのは、最高の天使たち、つまり神の前で働くセラフィムたちの礼拝の力強さである。それにより、「敷居が震えるほど」激しく働き、この強大な天の出来事の何かが彼自身の存在を捉えたのである。
「私は言った、災いだ、私は滅びる、私は汚れた唇の者であり、汚れた唇の民の中に住むからだ、私は自分の目で王、万軍の主を見た。すると、セラフィムの一人が、祭壇からトングで取った燃える石炭を手に持って私のところに飛んできて、私の口に触れて言った、『見よ、これであなたの唇が動かされ、あなたの咎があなたから取り除かれ、あなたの罪が贖われる』」(イザヤ6:5-7)。
このとき、すべての秘跡の原型として体験されうるようなことが起こります: 天使が天の祭壇から火を運び、人間の領域に火を触れさせ、それによって人間の領域を浄化し、浸透できるようにし、それによって霊的なものを地上にもたらすことができるようにするのです。これは、正しい全ての儀式、聖餐式で起きます。霊的な火に似た霊的な力が階層(ヒエラルキー)的な存在によって運ばれ、地上を霊的な出来事と結びつけることで、地上の行いが神の接近と働きの表現となるのです。
イザヤのこのビジョンは、旧約聖書において、カルメル山で預言者エリヤが祈りによって天から火を取り出すという同様の場面に光を当てています(『列王記』18章)。確かに、ここでは、天から霊の炎の力を地上にもたらす天使は語られていません。エリヤの礼拝、人間の活動から生まれるものに強調が置かれていますが、ここにも聖餐式のイメージがあるのです。: 天使の働きと人々の祈りです。
モーセから、地上の礼拝が、天上の「手本」に倣って行なわれるべきことを学んだとすれば、イザヤは、セラフィムの歌「聖なる、聖なる、聖なる...」に表現される、天使たち自身による礼拝と犠牲の礼拝が行なわれ、それにより「天上の祭壇」から霊の力が地上に燃え上がる領域に私たちの目を開かせたのです。
旧約聖書の中で、最高位の天使と儀式の関係を語るもう一つの重要なイメージは、預言者エゼキエル(またはヘゼキエル)の10章にあります。そこには、「主の栄光」がエルサレムの神殿に満ち溢れる様子が描かれています。この記述は、ソロモンの時代にこの神殿を奉献した際に初めて起こった出来事を彷彿とさせます。(第1列王記第8章):
「祭司たちが聖所から出て行くと、雲は主の家を満たした。
主の栄光が主の家を満たしたので、祭司たちは雲の前に立って奉仕することができなかった。」(第Ⅰ列王8:io--1)
エゼキエルはまた、神殿が神の力で満たされている様子を見ています。しかし、彼はまた、最高の天使であるケルビムがどのように仕えているかも見ています。
「ケルビムは神殿の右手に立ち、雲は内庭に満ちていた。そして、主の栄光はケルビムから神殿の敷居に昇り、家は雲で満たされ、中庭は主の栄光で満たされた。そして、ケルビムの翼は、全能の神が語るときの声のように、外庭にまで聞こえた。」(エゼキエル10:3-5)
そしてその後に、
「主の栄光は神殿の敷居から再び出て、ケルビムの上に立っていた」とある。すると、ケルビムは翼を振り回し、私の目の前で地上から持ち上がった。」(エゼキエル書18~19章)
これらのイメージの中で、私たちは、ユダヤの時代、エルサレムの神殿で行われていた儀式の霊的な実態に、さらに深く入り込んでいきます。: 祭壇の火だけでなく、ケルビムによって「運ばれた」神性そのものが、この神殿に現れ、その存在によって礼拝の行いを「満たす」のです。このように、キリスト教の礼拝の中心でも、神の直接的な臨在を体験することができます。この臨在は、エゼキエルの幻影に見られるように、最高の天使たちの働きによって支えられ、実現されるのです。
旧約聖書のイメージから、私たちは今日の礼拝にも適用できるものを見ることができます。: 礼拝は霊界のイメージであると同時に、天の火、すなわち神性そのものを礼拝の場に降ろす、最高の天使たちの「活動の場」でもあるのです。
新約聖書に目を向けると、「ヨハネの黙示録」などにも、儀式の起源となる領域についての言及が見られます。: 人の子の出現は、黙示録の冒頭で「七つの金の燭台の真ん中で」、つまり神殿と祭壇の領域ですでに起こっています。その後、黙示録全体には、天使と人間の賛美歌が響き渡り、彼らはこうして「玉座と小羊の前で」犠牲的な礼拝を行うという天上の礼拝を行います。ここでは、また、天上の礼拝で香を捧げる天使の姿や、キリストに従う人々が白い衣を着ている姿など、天上の礼拝を表す霊の実相のイメージも登場します。
「天の儀式」という言葉で表現される出来事について、私たちはより明確な考えを持つことができるでしょうか。なぜなら、これらの出来事の中心には「子羊」、すなわちキリストの像があり、これは犠牲的行為と犠牲に対する神の継続的な意志を指し示しているからです。キリストの存在から、愛、献身、恵みの絶え間ない流れー犠牲―が世界に発せられます。この犠牲が、今や天上の儀式の中心です。
黙示録のヴィジョンでは、天使たちが「小羊」の周りに集まり、自分たちの犠牲を小羊の犠牲と一体化させているのがわかります。キリストからもたらされるものを受け取り、それを自分の犠牲と結びつけることで、彼らは天の儀式を行います。地上のすべての儀式はそのイメージでなければならないのです。
このように、キリストとその犠牲的行為は、今日の儀式の中心にあるのです。しかし、神の作用が人類に "伝達 "され、それが地上的なものの中に生きたイメージを見いだし、最終的に人間の魂がそれに対して開かれ、この作用を自分自身の中に受け入れる準備ができていることに気づくために、キリストに結びついたヒエラルキー的存在達は、そこに働いているのです。
彼らはすでに儀式の成立に積極的に関与しています。彼らは、キリストの犠牲から発せられる力と人類の未来をもたらす力を、いわば光り輝く霊的織物に織り込んでいるのです。地上における儀式で生じるものは、霊から発せられるこれらの力の生きたイメージでなければなりません: 人類の未来の力と一体化する、キリストの犠牲から放射される力のイメージです。そして、儀式が実践されるとき、儀式の言葉と行いが実行されるとき、この、ヒエラルキー存在によって形成されたこの霊的な織物は、輝き始め、その結果、外的な行為の中において生を得て、働きをなすようになります。
儀式の霊的実態を示すのに、もう一つのイメージを用いることができます。: それは、儀式の中で、霊的存在たちが「器」を形成し、その器によって、執り行う人間が霊的世界の実質に身を浸し、そこから何かを「汲み出すschoepfen」ことができる、というものです。このように、すべての儀式は「創造的schoepferisch」なプロセスであり、霊的な実質を地上界に流入させる可能性を持っています。この目的のために、ヒエラルキー存在によって形成されるのです。
そこで、儀式の形成における天使的存在の活動をまず見てみましょう。儀式が、霊的実在のイメージであり、それ自体が地上界における聖なるものの生きた働きであるという使命を果たすべきであるなら、それは人間から生まれることはできません。霊的な世界から受けとられなければならないのです。天使たちが、キリストの意味において、また犠牲的な力からそれを形成し、それにその力を与えたというものでなければなりません。
今日の儀式
天使の現在と働きは、儀式の成立だけでなく、その執行においても重要な要素です。
私たちは、エゼキエル書とイザヤ書において、最高位のヒエラルキーまでのこの現在と働きが印象的に描写されていることを見ました。そこに現れるイメージは、今日の儀式にとっても「実際的な問題」です。これは、一見して「外的」な関係にも見ることができます。セラフィムの三度の「聖なる」は、地上の儀式で、 ローマ教会のミサの "Sanctus, sanctus, sanctus ..."において、そして今日、キリスト者共同体のクリスマス礼拝における、9つの天使の領域が厳かに名をあげられることにそのイメージをみることができます。これは単なる「外的調和」以上のもので、天的なものが地的なものにやってくるのです。
また、聖の炎の力によって「唇が清められる」というモチーフは、キリスト教の礼拝にも再び登場します。司祭は、「清められた言葉」のための祈りを唱えて、福音書の朗読に備えます(ローマ教会のミサでは、イザヤ書への言及が明示されています)。イザヤのビジョンを見ることで、これが単なる敬虔な願いではなく、現実の出来事であることを理解することができます。: 人間の言葉が本当の霊的な力を持つようになるのは、天使が霊的なものから地上のものへと燃え上がらせる「火」によって行われるのです。
この火によってのみ、福音は、本来のものになるのです。:天使の言葉(「福音」という言葉はこのように訳されうる)、すなわち、地上に由来するのではなく、超感覚的なものから地上に響く言葉になるのです。
結局、エゼキエルの幻視のイメージは、私たちにとって、儀式的な行為の原型にもなり得ます。: ケルビムは、神性の存在そのものを地上に運びます。ただ、この神性は、旧約聖書のように支配し、裁く存在ではなく、「子羊」、すなわち、犠牲と変容への意志によって働く存在となったのです。キリスト教の礼拝の中心は、神性の犠牲が根底にある「変容」であり、神性は、パンとぶどう酒に自らを捧げ、それによって外的な実質を「実体変化・トランスサブスタンティオン」、すなわちその力の担い手とするのです。実体変化」の謎は、「地上の意味にとっての謎」(ノヴァーリス)であり、わずかな言葉では解けません。
しかし、ここで論じた文脈では、イザヤとエゼキエルが証言したように、セラフィムとケルビンの、儀式の活動への「介入」を考察することは、意味があるかもしれません。なぜなら、これらの存在は、すでに本書の冒頭で示したように、世界の実体を自分から出現させたからです【訳注】。今や、彼らはまた、エリヤの場合のように生贄を「焼尽」するためではなく、それとキリストが直接結合することができる実質へとそれを準備するために、その火の力を儀式の変容に入り込ませるものです。
【訳注】セラフィムとケルビンは、世界の原初の創造に際し、自らを犠牲にして世界の実質を形成した。
以上の考察により、私たちの視線はすでに天使の最高領域へと導かれています。そこから戻って、他の天使の領域が儀式に関連しているかどうかを尋ねてみましょう。まず、人間の道に「同行」する、人間自身の運命の天使【守護天使】を考えることができます。・・・彼らは、人間が霊的なものに目を向ける瞬間に最も関心を持つため、礼拝の行為において、より大きな程度で存在します。魂の静寂の中で、祈りと執り成しの祈り中で、人間の天使は自分自身を伝えることができ、先に説明したように、そこで特にその力を有効にすることができます。このことは、儀式にもさらに強く当てはまります。人間は礼拝を通じて、魂の穏やかで敬虔な態度に浸り、それによって天使に近づくように促されるだけではありません。人間も天使も、礼拝を通じて地上の中に霊的なものが働くことを体験します。人々の天使はこれを通して輝き、彼ら自身は、儀式の中に生きるものによって強められ、活性化されるのです。
さらに、ここで意味するところを明確にするために、ある事実に言及しなければなりません。それは、天使と死との関係についてです。霊界には死がりません。霊的な存在自身は、死そのものを知らないのです。彼らは、変容を経験しますが、死ぬことはありません。死は彼らにとって秘密のままなのです。だから、人間が死に遭遇する瞬間を、彼らは深く理解できないで見ています。そのような瞬間は、人生の終わりに起こるだけでなく、無力感、絶望感、孤独感といった魂の死の体験として、また、病気、痛み、無力感といった肉体的な体験として、人間の人生に、より微妙に、あるいはより強く影響を与えます。天使たちは、通常は、人間の歩む道について行きますが、人間を死の力に関わらせるのものすべての前で、内的に立ち止まらなければなりません。彼らは、死の領域に、彼らの知識と経験をもって入っていくと、そこで、暗くされ、命を破壊されることになるだけなのです。
しかし、儀式と秘跡の行為において、キリストの犠牲が働いています:地上的なもの、そしてそれとともに死を克服し、変容させた力です。キリストは、死を外側からだけでなく、「内側から」知る唯一の神霊的存在なのです【訳注】。しかし、それにより、彼はまた、死の神秘に関する天使たちの指導者、教師となるのです。
【訳注】キリストは、人間の身体に受肉し、人間として磔刑により死を体験したことにより、人間と同様に死を知ることとなったのである。このような体験をした霊的存在は、ただキリストのみなのである。
儀式には死と復活の神秘が含まれているので、参加した人間だけでなく、彼とつながっている天使も、キリストの犠牲の力を体験することになります。彼は、死の神秘とその克服について学びます。こうして天使は、この神秘の前になすすべもなく立ち尽くすだけでなく、苦しむだけでなく、この神秘とつながり、キリストを通して、キリストの克服と変容に参与することができるようになるのです。
このことは、人が儀式の行為において持つことのできる独特の感覚と関連しています。すなわち、魂の静寂の中で完全に自分自身のもとにおり、同時に、霊的なものとのより高い交わりの中で一瞬を生きることです。
このような、儀式で人間にやってくる高次の生命に包まれているという感覚は、ノヴァーリスの言葉で表現されているのをみることができます。
「新しい生命、新しい血が 墓所から至る所で湧き上がる
私たちに永遠の平和をもたらすため、彼は生命の流れの中に飛び込む
真ん中に両手いっぱいに立ち、あらゆる求めに愛情をもって応える
人の天使は、そんな時、いつもより強く人に寄り添います。そして、天使が、比喩的に言えば、祭壇の儀式のキリストの神秘の前に深い謙遜と畏敬の念をもって身をかがめ、キリストの復活の力に預かることにより、その何かが人間に伝わり、死によりよく耐える力を与えてくれるのです。
人生の終わり、死に際に、その中にキリストの死への克服が生きている、儀式行為の力が明らかになるのです。"死よ、汝の刺はどこにあるのか?" - この聖パウロの言葉は、現実的な内容を帯びています。新しくなった儀式が行なわれてきた数十年の間に、儀式に定期的に参加していた多くの人々の中に、このような何かがあったのではないでしょうか;その結果、死ぬことが外見上容易になるのではなく、それに耐える力、苦しみから意味を汲み取る力が育まれるのです。また、前章で述べたような、死の間際にその人を取り囲む特別な輝き、つまり天使の輝きを感じ取ることができることもしばしばあったことでしょう。
これらの考えは、天使の死への近づきについて、私たちが前の章で述べたことと調和しています。そこでは次のように言わなければなりませんでした。死において天使が近づくのは、幼少期のように当然のように現れるものではなく、運命や、しばしば人間の態度も、死という出来事の現れ方に反映しています。決して人間の判断の対象になり得ない、人の死の体験について、断定的に価値を判断するようなことが許されないのは自明の理です。秘跡により生命が、死の出来事にも輝きと光りを与えることもできるという事実は、さまざまな形で経験されてきたことです。それは、聖餐式に働き、人類の天使たちにも死を克服する力を与えているキリストの神秘と結びついているのです。
新しくなった秘跡のある生活がもたらす新しい体験の中で、とりわけ、しばしば深い感銘を与えるのが、「終油」の秘跡の体験です。聖体拝領、聖餐式を伴うこの秘跡を重病人に施すことは、地上世界における霊的体験のクライマックスとなりえます。死の入り口で、死の力の脅威や、私たちを地上に強く縛り付けるものとの闘いの中で、最終的に存続するものが、明らかにされるのです。無限の慰め、深い平和は、聖餐式におけるキリストの働きから発せられるのです--私たちはこのように何度も経験することができました。天使が死の間際に人間に与えることができないものを、天使は、キリスト自身から人間とともにここで受け取ることができます。死を克服する命です。
故人の葬儀が行われるときには、これまで述べてきたことに加えて、人によって大きく異なりますが、もう一つの体験があるのが普通です。もし、「終油」によって高次の平安がもたらされ、死そのものにおいて、神々しい光が故人の顔を照らすなら、葬儀を通してその人の永遠の個性の偉大さのようなものが感じられるようになります。-それが人生において「重要な」人格であったか「重要でない」人格であったかにかかわらず、永遠の存在が現われるのです。天使の翼が突然そこに存在し、永遠の息吹が感じられるようになり、故人の真の永遠の姿が現れ、地上の重荷から解放され、運命の守り神、天使に運ばれ、天使の働く領域へと成長しいていくのです。
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儀式の実行には、個人の天使だけでなく、共同体の天使も臨在します。イザヤ書とエゼキエル書について冒頭で説明したように、共同体の天使たち、さらにはより高いヒエラルキー圏の天使的存在も、儀式と聖餐行為に関係しているのです。旧約聖書には、この事実を要約する素晴らしいイメージがただ一つあります。モーセの書第28章に記載されている「ヤコブの梯子」のイメージです。モーセ書第28章には、
「ヤコブはベア・シェバから出てハランまで旅をし、日が暮れたので、一夜を過ごす場所に来た。そして、その場所の石を取って、自分の頭の上に置き、その場所に横たわって眠った。そして夢を見た。見よ、梯子が地の上に立ち、その頂は天に接していた。見よ、神の天使たちがその上に昇り降りし、主はその頂に立ち、こう言った: 私はあなたの父アブラハムとイサクの神、主である。あなたの寝ている土地は、あなたとあなたの子孫に与える」(モーセ28:10-13)。
ヤコブは、地上のある場所の上に霊的存在が昇り降りするのを体験します。彼がこの体験を「美しい夢」としてだけでなく、霊的現実の現れとして体験したことは、次の記述の続きから明らかです:
「さて、ヤコブは眠りから覚めると、『確かに主はこの場所におられるが、私はそれを知らなかった!』ここには神の家以外の何物でもなく、ここには天の門がある。
ヤコブは朝早く起きて、自分の頭のために置いた石を取り、それを印のために立て、先端に油を注いで.... 私が柱のために立てたこの石は、神の家となるであろう・・・。」(創世記28章16-19・22)
超自然的な夢の体験は、ヤコブに礼拝所を建てることを促します: ベトエルは「神の家」であり、ヤコブの前にイメージとして現れたものは、外的な儀式の現実となります。「天の力が上昇し、下降し、金の手桶を互いに渡す」(ゲーテ『ファウストI』) ベトエルは、ユダヤ教の礼拝所として、エルサレム以前(後にそれに並んで)の最も重要な場所となりました。
もちろん、この儀式において天使が昇天・降臨するという霊視体験は、キリスト教以前の人類においては、どんどん消滅していきました。ルカ福音書の冒頭、神殿で犠牲を献げている最中にガブリエルがザカリヤに知覚される場面は、この体験の最後の反響のように思われます。香が立ち上がると、老祭司は、儀式のプロセスを通じて体験できる天使の存在に気づき、天使から子の誕生を告げられます:儀式における天使の接近と天使の活動の体験の最後の残響です。
儀式が執り行われる場所では、天界の力の上昇と下降が起こります。新しくされた秘跡の行いに、これが見られます。例えば、洗礼では、冒頭で「世界の霊達」が呼び出され、洗礼の行為を霊的に担い、浸透することになります。あるいは埋葬では、故人の生が、「霊達の中の霊として」霊的存在達の領域に導かれます。
祭壇の秘跡である聖別式のテキストには、年に一度、クリスマスにおけるヒエラルキーとのつながりがはっきりと輝いています: クリスマスの朝、そしてエピファニーまでの12日間、9つの天使の王国の名前が荘厳に呼ばれ、人間の行為と結びつけられるのです。この時には、一度、儀式の行いにいつも黙した「黄金地」として伴っているものが現われます。儀式の捧げ物と織り合わさった天使たちの捧げ物です。ヤコブの梯子のイメージが、新たにされています。
昇っていく捧げ物
ローマ教会の秘跡のテキストでは、儀式のもう一つの神秘が特別な場所で触れられています: [パンと葡萄酒の]奉献の最後に司祭が香を捧げるとき、大天使ミカエルの名が呼ばれるのです。これは確かに単なる外形的なものではありません。「ヨハネの黙示録」でも、天上の礼拝で天使たちが香を捧げるのは、礼拝と、神性に流れていく犠牲的な愛の外的な象徴であることはすでに指摘しました。黙示録の5章では、香について「それらは霊に身を委ねた者達の祈りだ」と言われ、8章では、次のように書かれています。
「もうひとりの天使がやって来て金の香炉を持って祭壇に立ち、そのとき、多くの香が彼に渡された。多くの香が彼に与えられたのは、玉座の見える金の祭壇の上で、すべての帰依者の祈りに捧げるためであった。そして、天使の手から、香は神々の御顔の前に、信者たちの祈りとともに上って行った。」(黙示録8:3、4)。
ここで、礼拝と天使の働きとの間に、もう一つの関係があることに気づかされます。これまで私たちは、礼拝の起源とその実行において、霊的存在の働きがすべての礼拝の根底になければならないことを示そうとしてきました。
今や、この働きは、一方的なものとして理解されてはならないことが示されます。「ヤコブの梯子」のイメージの中に、すでに天使の降下だけでなく上昇の姿が見えるのです。天使は地上から昇るとき、「手ぶら」で霊界に帰るのでしょうか。人間から「自由な力」として出て行き、霊的存在に流れるものは、霊界にとって貴重なものになるということは、すでに何度か強調してきました。
霊的な世界から地上的な世界へ何かが伝わるだけではありません。人間の犠牲の力は上昇していきます。それは受け取られ、天使が「何かをする」ことができる力となり、天使はそれを使って地上の人間に再び働きかけることができるのです。天使は「聖なるものの祈り」、すなわちキリストと一体化しようとする人々の、心の犠牲によって「何かをする」ことができるのです。
上昇する香に象徴されるように、儀式からは、霊的な世界に吸収され、全人類を祝福する力へと変化することができる何かが立ち上がります。儀式を通して、人々は天使たちと共に働き始め、神々のパートナーになり始めるのです。
しかし、このようなことは、キリストの犠牲的行為なしには不可能です。旧約聖書に登場する「ヤコブのはしご」のイメージに言及しました。読者は、このイメージが新約聖書で新たに登場したことを、おそらく覚えておられるでしょう。ヨハネ福音書では、第1章の終わりに、キリストがご自身の働きを指さして、次のように語っています:
「真実を語ろう。あなたがたは、これから天が開かれ、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを見るであろう。」
これにより2つのことが語られています。「ヤコブのはしご」と呼ばれる霊的存在の昇降、天と地のつながりが、キリストの出現以前に途絶えていたことと、キリストの行為によってそれが回復され得ることをです。
ここに、人間の降下に結びつく悲劇が見られます。人類が地上との結びつきを強めるにつれて、天との結びつきを失っていきます。結局、キリスト教以前の時代の礼拝所は、まだ天と地が触れ合う場所であり、「ヤコブのはしご」がまだ天に届く場所だったのです。しかし、それも終わりを告げました。儀式は無力になり、その捧げ物は無価値で霊もありません。地球は、霊的な世界から完全に隔離されたまま、対立する勢力に陥落する恐れがあったのです。
その時、キリスト自身が地上に現れ、[イエスの]洗礼において、閉じていた天は「引き裂かれ」(マルコ1)、かつてヤコブの霊視の中で現実として体験したことが、新たに始まったのです。「私は真実を語ろう、これから・・・」
キリストのいるところには、地上の天国が再びあります。キリストとともに天国の存在である天使たちもいます。この事実は、今日、そして将来、礼拝を通してますます明確に体験されるでしょう。
礼拝と秘跡は、将来の天使の体験の源となるのです。
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儀式は、人間と霊的存在とが交わる場であるが、逆に言えば、霊の現存しない儀式は、本来の意義を失っているとも言える。現代の不幸の1つは、葬儀を含め、霊の存在を信じていない宗教者により儀式が執り行われている例が多いことである、と私は思っている。現代においては、「魂の不滅」すら信じていない宗教者も多いだろう。そのため、そのような宗教者の教えは、単なる「人生訓」になってしまっているのだ。それは、宗教の基盤を自ら掘り崩しているに他ならない。
今、宗教への風当たりが強いが、背景には本来の姿を見失った宗教者、宗教組織の問題があるだろう。今こそ、本当は、その革新が求められているのである。
シュタイナーは、人智学協会と宗教組織とを区別しつつ、キリスト教組織の改革を志す者達に援助を与えたのだ。未来の宗教組織の礎となるように。
この本については今後も取り上げる予定である。