k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

キリスト体験はどのように改ざんされるのか?

 このブログでは、時々、欧米の政治情勢に触れる記事を載せてきた。その中に、ドイツの緑の党の名も出てきているが、それが取り上げられている記事において、この党に対する評価は芳しいものではない。人智学的には、どうも「敵対勢力」側に位置しているようにみえるのである。

 しかし、実は、以前触れたことがあるが、緑の党の源流には、人智学派も存在していた。シュタイナーが提唱した社会改革運動である、いわゆる社会三層化運動に携わる人々である。

  緑の党が日本でも注目されるようになったのはちょうど、私が学生時代に、シュタイナーを知った頃でもあった(1980年頃)。その頃、既成政党に不満を持った人々がこの党の理念に共感し集まってきて、ヨーロッパ特にドイツで一定の社会的影響力を持つようになってきて、日本でも紹介されるようになってきたのだ。

 未来へのオルタナティブとして、それが受け入れられる基盤には、人智学の受容の基盤と重なる部分が存在していた。それは日本においても同様であった。

 日本において、当時の神秘主義スピリチュアリズム、オカルト周辺の人物には、かつての左派系の人々も存在していた。正直に言えば、そのころ実際には特に行動することもなかったが、私自身も、こうした人々に共感する土壌を持っていた。私の学生時代は、かつての華やかな時代は過ぎ去っていたが、学生運動の残り香りがまだ存在していたのだ。

 そしてその一方で、神秘主義スピリチュアリズム、オカルト的なものに惹かれる人々が増えてきたのである。

 未来の、新しい時代へのオルタナティブ-それは精神生活においても政治生活においても求められており、未来に咲くであろうその萌芽が確かに存在すると思われたのである。

 だが、それが大きく花を咲かせることはなかった。

 結局日本では、いわゆる緑の運動は今もって極めてマイナーである。新しい霊性を求める運動も、いかがわしい「トンデモ」とみなされているのが現状であろう(それゆえに、シュタイナー教育を評価しながら、シュタイナーの秘教的側面には触れたがらな傾向もある)。

 今やドイツの緑の党は、政治において大きな影響力(今やドイツ政府の与党)をもつに至ったが、その現在の姿は、前述の通り、評価できるようなものではないように見える。

 ドイツの緑の党は、人智学以外にも様々な思想の人々が集まって生まれた政党である。当初、理念としたのは、自然保護や平和主義の他に、「直接民主制」であった。このため、選挙を必要とする間接民主制のなかでどのように政党として存在し、影響力を得るかについて議論があったように記憶している。その意味では、初めから、政権に入り、政治を動かすことには矛盾が存在していたのである。そして、今や政権与党であり、対ロシア強硬派で、戦争をむしろ推進しているのが実態だ。

 政権についた(「現実的」姿勢を強めた)ことも一つの契機かもしれないが、今の緑の党は、変質してしまっているように思われ、かつてのような新鮮な魅力は感じられない。

 それは、環境運動自体にも言えるように思える。

 ゆきすぎた工業化、大量消費社会によるひずみ、環境破壊の反省から生まれた環境運動であるが、その源流にはやはり新たな霊性を求める人々も存在していた。自然を大事にする、自然の中で生きるということは、そうした生き方につながっているのだ。

 しかし現状の環境運動は、反CO2「宗教」に堕してしまっていると言えるだろう。それは「宗教」であり(CO2原因論に反する主張は許さないという、まさに異端狩りの風潮もある)、科学は無視されている。

 

 緑の党自然保護運動、そして新たな霊性を求める運き、これらが台頭し始めた時、実は、人智学派内では、そこに共通する基盤が想定されていた。カリユガの暗黒の時代が終わり、キリストの再出現や、時代霊である大天使ミカエルによる世界統治がいよいよ本格化する時代が来きていたからだ。未来への明るい曙光がさしていると思われたのである。

 私自身も、当時、今にしてみれば安易であったが、確かにそのような雰囲気に希望を感じていたのである。一方で、アーリマンの受肉が迫っていることを知りながら・・・

 

 現状の世界を見る限り、新しい政治を求める運動や自然保護運動、そして新たな霊性を求める運きは、当初目指していたものを失い、歪められてしまった、と今は思うようになっている。それについては、ブログでこれまでも述べてきている。

 しかし、私が感じているこのような問題について述べる人間や文章に出会うことはこれまでなかったのだが、ようやく、このようなことを文章にしている人智学者を最近知ったので、今回はこの方の論考を紹介したい。

 それは、以前紹介したマルティン・バルコフMartin Barkhoffという方の、先に紹介した『ヨーロッパにおけるミカエルの戦い』という本の中にある一節である。

地政学の秘教的背景 - k-lazaro’s note (hatenablog.com)

 私は主に80年代の体験だが、この方は70年代からの体験を語っておられる。以下の文章は、「エーテル界におけるキリスト体験」が改ざんされてきたというテーマだが、上で述べた未来へのオルタナティブを求める人々の衝動の背後には、新しいキリスト体験が存在していたのであり、それをおそれ、それを阻止するために霊的敵対勢力がずっと働いており、各国の「指導者達」はその傀儡であったということである。

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エーテル界におけるキリスト体験はどのように改ざんされるのか?

 最初に告白しよう。私もなのだ! 70年代にエコ運動が始まったとき、私はそれを感じた。この人々は、自然の中にキリストの力を予感している、と。彼らは、エレメントの主【訳注】の働きを、宇宙的な癒しの衝動として体験している。彼らはそれに加わり、それと結び、自分の人生を捧げようとしている。アイルランドスコットランドキリスト教は、新たな形で、そして世界的な運動として目覚める。素晴らしい。そして、これを実行した人々もまた、断固としたキリスト・フリークのようであり、彼らは、直接的人間的なものと、自然やその存在との再交流を望んでいた。この運動において、私たちの理想が常に後景にあったのも不思議ではない。レイチェル・カーソンと彼女の『沈黙の春』の背後には、エーレンフリート・プファイファーと、オイリュトミストにして農民であるマージョリー・スポックが、そしてトールキンと『指輪物語』と、C.S.ルイスと『ナルニア国物語』-二つは、キリスト教的自然霊性への心のアクセスを生み出した重要な本である-に並んで、オーエン・バーフィルトが立っていた。世界にはどんな良いイマジネーションが入ってきただろう!ドッテンフェルダーホーフ、バイオダイナミック運動、自治学校などなど。最初は、すべてが個人を基盤にしたムードだった。一人ひとりの人間が、生命の世界とその主とともに成長することがすべてだった。桃の花。

【訳注】「エレメントの主」とはキリストのこと。キリストは、ゴルゴタの丘の出来事後に地球の霊となっており、エレメント存在(自然霊、妖精)達の王となったのだ。

 

 多くの権力者は、この自然との新しい関係の中に、何十年、何世紀にもわたって人々を魅了し、動かすような理想のイメージが浮かび上がってくるのを見ることができた。かつて労働者問題によって政治的資本が可視化されたように、古代ローマにおいてキリスト教によって将来の帝国のための実体が手に入ったように、政治的資本が可視化されたのだ。それにより、政党や教会が、支配手段や税収を構築することができた、この政治的原材料は、より多くの権力者によって認識され、彼らは、それを征服し始めた。そのためには、イメージを変容させる必要があった。自然の内面は「忘れ去られ」た。ますます、外面的な「救出」、闘争、権力だけが重要視されるようになった。「原発反対」や「悪システム憎悪」は、生のための器官を破壊した。予感された桃の花咲く生命の世界の代わりに、物質的な「自然」、写真に撮れることができる緑が現われた。共産主義者たちは、愛すべき、悪い意味で無邪気な人々に潜入するためのドアや地下通路を最初に見つけた。草の根運動は政党となり、緑の党となった。そして党の中で、共産主義者たちは徐々にすべての重要な地位や意思決定を掌握していった。彼らはボリシェヴィキSED旧東ドイツの政権党]からその方法を学んでいた。ルドルフ・シュタイナーが衝動と呼んだように、こうした権力のサークルでは、獣のイニシエーションが続いていた。ジェラルド・ヘフナーがヨシュカ・フィッシャーについて、あるいはロルフ・ライジガーが草の根のKグループとの闘いについて語るのを聞かなければならない。そしてクリントンアル・ゴアによって、環境宗教は西側権力機構の公式な道徳的衝動となった。ヤドカリが外のカタツムリの殻を必要とするように、権力は「宗教的」殻を必要とする。結局のところ、アーリマンは自分の対極の服を手に入れることができなければ、あまりにも醜く見えるだろう。代わりのキリストは真の主の真似をする。そうしなければならない。

 この世の君主たちは、またしても、最も重要なイメージを盗み、改ざんしたのだ。

 アントロポゾフィストたちはしばしば、人類はエーテル界におけるキリストの出現と活動に気づいていないと思っている。そうではない!どうして、人々は前世紀に信じられないような変化を遂げたのだろうか。東で稲妻が燃え上がり、西の果てまで全世界を照らすように、キリストの働きはまぎれもないものだ。そして、それは魂の中で創造される。そこでは、潜在意識の中で、新しい力が最初に目覚める。熟考する者は、新しい自然意識以外にも多くのものを見出すだろう。しかし、魂は、そこで起きていることを昼間の意識に適切に高めることができない。そのためには、魂にはイメージが、思考形態、想像力が必要なのだ。

 私たち皆に、キリストとの出会いが欠けているのではない。そしてそれは当分の間、効果をもたらす。私たちに欠けているのは、意識すること、認識である。これがなければ、このことに関心を持つ大衆指導者たちは、魂の中にあるこれらの夢想的で半意識的な力を自分たちのために利用することができる。そのためには、彼らは、イメージを自分たちにとって有益な文脈に置き換える必要がある。そうすれば、次のように聞こえるだろう: キリストは、あなたが夜中に予感して出会う存在であり、この存在は、私たち全員がアメリカ人にCO2税を支払うことを望んでいる。人々はしばしばこのように説得されてきた。500年前、"キリスト "は、私たちに、死者の国での気候大災害を防ぐことを望んだ。そのためには、死者の救済のために、当時の最も重要なオピニオンメーカーに一種のCO2税のようなものを支払わなければならなかった。今日、彼らは言う: もし私たちが "キリスト "の望むことをしなければ、物質世界は12年後に終わる。キリストとの出会いによって、人々はすでに新しい力を持っているが、これらの体験や効果が間違ったイメージで着飾られると、アーリマンとその追随者たちは、キリストによって目覚めた力を自分たちの力に引き込むことができる。

 このことを理解すれば、実際のミカエルの闘いを理解することができる。それは精神的なものであり、イメージのための闘争であり、「生きているもの」を把握できる生きた思考-あるいはそうでないか-のための闘争である。人々は、キリストについて自分が持っているものに目覚めなければならない。それがどこから来るのかを知るために、人々は、彼の生き生きとした姿を把握しなければならない。

 ミカエルとアーリマン/ソラトは、この目覚めと認識的識別をめぐり戦っている。だからこそ、ソラトは、生きた認識をとても傷つけるのだ。ミカエルは、死の門をくぐった東の魂を支援者として集め、ソラト/アーリマンは、西の死者を自分の周りに集める。これらの東の魂は、人々が自分の思考するエーテル体を自由に動けるようにし、世界エーテルと織り合わさるのを助ける。西の魂たちは、彼らの生命体[エーテル体]を物質主義的思考の型にしっかりとはめ込み、生きている人々に次のような考えを植え付ける:「(国家の)力だけが私たちを救うことができる。私たちは彼に頼らなければならない」。

 この対比は必要なものである。私たちは霊的な闘いの中でこそ目覚める。私たちは敵対する者たちの暦的魂的なもので目覚めるのだ。そのために私たちは彼らを尊重するのだ。ルドルフ・シュタイナーは、桃の花の会員証に緑色のインクで刻印した。

 

 このことを忘れてはならない: 私たちに欠けているのはキリストの力ではない。そうではなく、私たちに欠けているのは、キリストを理解すること、すなわちキリストの真の姿、真のイマジネーションを理解することなのだ。

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 反キリストは、自分をキリストであると偽る者である。しかしその実体は、キリストに反する者、悪魔的存在なのである。かつて人類の未来を造ると思われた運動の多くは、今、残念ながらこうした者の手の中にあるようだ。
 反キリストは、それらの運動が花咲くことを恐れたのである。長い時間をかけ用意周到に進めてきたのだろう。
 遡れば、唯物主義の浸透という人類史的事実もその一環であろう。逆に見れば、運動の変質の背景には、真の霊性の欠如があったのである。唯物主義にも一定の真理があるが、それは全体の一部でしかない。世界や人間全体を見通すには、霊的視点が欠かせない。そして、運動を導くには、それにもとづく冷静な判断力が必要だ。それがないために、容易に敵対勢力にからめ取られてしまったのだ。

 しかし、かつてその運動の背後には、キリストとミカエルの衝動が確かに存在していた。そして、著者によれば今も存在する。見失ったのは我々なのだ。キリストとミカエルは、我々を見捨ててはいない。
 真の霊性に根ざした社会や文化が求められている。