k-lazaro’s note

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「二人の子どもイエス」とは ⑮

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かに座 の ステンドグラス( チェスター大聖堂)

蟹座ー誕生のポータル
 上の図は、イギリスのチェスター大聖堂のステンドグラスである。大聖堂は19世紀に修復されており、その際に制作されたもののようである。
 「二人の子どもイエス」とは⑦で、デヴィッド・オーヴァソンの『二人の子ども』から、ヴェネツィアの総督を務めたモセニゴ総督と聖母子の絵を紹介したが、実は、その文章は更に続いている。ルネサンス期における古代の秘教の復活に、神学者人文主義者でもあるマルシリオ・フィチーノ(1433 1499 年)が大変重要な役割を果たしたことが触れられ、その関連で上の図が解説されているのである。

 フィチーノ 自身は、1473 年に司祭となった。そして一つの書物といくつかのキリスト教に関する論文を著したのち、プロティノス、 ポル フィリオス、プロクロスなどの秘教哲学者の作品を翻訳し始めた。彼の翻訳は、イタリアのルネサンス期の秘教的思想の発展に深い影響を与えたに違いない。
 15世紀の最後の数十年に ヴェネツィア で流布した有名なショート・エッセイ「ニンフたちの洞窟」で、ポル フィリ オスはかに座の重要性について書いている。彼はこのサイン(宮)を誕生と再受肉のシンボルとみなした。彼の時代にすでに古のものであった伝承に触れて、彼は、かに座が世界への誕生の天上における門戸を示すものであることを示した。
 この観念は非常に多くの秘教的イメージで表現されてきたが、その最も美しいものの一つは、1世紀も遡らない。チェスター (Chester )大聖堂の柱廊には12宮の一連のステンドグラスがあり、そこには幾つかの秘教的観念について触れている絵がある。最も愛らしいものの一つが、カニによって示されているかに座を描いたもの で ある。翼のある天使が、布に巻かれた宮の丸い絵を引っ張り上げている。布の 意匠 は非常に古く、それによって運ばれているものが聖なるものであることを示すものである。12宮のイメージを正確に解釈するなら、翼のある子供は天使ではなく、下界に誕生しようといる魂であることを学ばなければならない。その翼は、霊的世界から物質世界に飛び込もうとする意欲 を示している。その光輪は、全ての子供は、キリストである光のスパークを世界に一緒にもたらすというということを 確信させる 、ヨハネ伝(1章9節 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」 )の言葉を思い出させる。
 私は、その美しさと明瞭さからこの19世紀の例を選んだが、実際には、このシンボルの例は 1000 年以上遡るものである。12世紀初めの日付があり、現在はベルリンの国立博物館にある象牙レリーフは、聖処女と受胎を告げる天使の間に、三日月の形の中で子供を降ろしている聖霊の鳩が描かれている。月が誕生の領域 であるとの認識はポルフィリオスの文書にまで遡ることは明らかである。
 ポルフィリオスは、かに座が出生の玄関という考えをひろめ、かに座が月に支配されていることを指摘したが、彼と彼の15世紀の編者も、この宮が ヴェネツィア を支配していることには触れなかった。

  ポルフィリオス(234年 -305年)とは、プラトン哲学から生まれた「新プラトン主義」の哲学者である。上のステンドグラスは、彼の、蟹座が「魂が地上に受肉する祭の玄関」であるとする説に基づいているというのである。
 かつて都市や国家に12宮や惑星を割り当てる考えがあったのであるが、オーヴァソンは、ヴェネツィア に蟹座が割り当てられたのは、ヴェネツィアが海洋交易の中心都市であったことに由来するとしている。
 そして、モセニゴの絵に戻るのであるが、そこに、蟹座のシンボルが隠れているというのだ。それは、祭壇の上に懸かった二つの果物である。それはまさに、蟹座を表す記号「♋」を連想させるものである。
 このように蟹が誕生と結びつくことから、絵画作品などに出てくる蟹を誕生のシンボルと捉えることが可能となる。オーヴァソンは、これに関していくつかの図像を解説しているが、それはまた別の機会に述べたい。

 ところで、「7歳までは神の子」ということわざがある。その意味は諸説あるようだが、子どもは神から授かった、神に近い存在というような意味が一般的だろう。秘教の教えは、まさにそのとおりである。すべての子ども(魂)は、キリスト(神)の光(火花)を担って地上界に降りてくるのである。魂は霊界・神界からやってくるのだから、汚れのない誕生したばかりの魂がそれに属することは当然である。
 そして、再び霊界神界に戻る時も、実は同じ理屈となる。イエスは、「子どものようにならなければ天国に行けない」と説いている(マタイ18章3節)。魂の汚れを脱ぎ捨てなければ霊界神界に入ることはできないのだ(「死後の生」の項目参照)。
 では、地上界の汚れに完全に染まり、それを脱ぎ捨てることができない魂はどうなるのか? やはり「第8領域」だろうか?