k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

恐怖とその影響

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大天使ミカエル

  今、コロナとウクライナ危機が世界中の人々の恐怖と不安をかき立てている。恐怖と不安は、人々の冷静な判断力を鈍らせており、人によっては、そうしたストレスが、心身の健康をも蝕んでいるだろう。嘘(非真実)が利己的な同胞団により利用されているように、恐怖と不安も彼らによって利用されているように思える。

 秘教の教えに依れば、人の観念や情念は客観的な影響力をもっている。想いは、霊界に届き、また物質世界に作用するのである。恐怖と不安、怒りと言った否定的な感情は、実際に人の健康を害するようである。

 霊的存在には、こうした否定的な感情を「食べ物」にしているものがいるという。また黒魔術師は、それを自己の力を高めるために利用しているようである。

 シュタイナーの恐怖に関する発言をまとめた『恐怖についてOn Fear』という本から、その一部を紹介する。

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          恐怖とその影響

 恐れのないことが、魂の強さが失われることから守る

 人間には、物理的な世界だけが引き起こす感情以上のものがあると言えるでしょう。通常の生活では、この過剰な感情は、ある方法で、すなわち秘教的な訓練によって別のものに変えられなければならない方法で費やされます。例えば、不安や恐怖の感情を考えてみましょう。多くの場合、その恐怖や不安は、特定の出来事に対して適切であるよりも大きなものであることは容易に理解できます。ここで、秘教の生徒が、どんな場合でも、問題の外的なプロセスに本当にふさわしい量の恐怖や不安しか感じないように、自分自身に精力的に働きかけることを想像してみてください。さて、どんな魂の力を使っても、常にある程度の恐怖や不安は発生します。この量の魂の力は、恐怖や不安を生み出すことによって確かに失われます。だから、秘教の弟子は、恐怖や不安、また他のものを否定することによって、この魂の力を節約するのです。そうすれば、その力は他のことのために自由に使えるようになるのです。この手順を頻繁に繰り返すと、こうして保存され続けた魂の力が内なる貯蔵庫を形成し、弟子はまもなく、そのような保存された感情の部分から、より高い領域での生命の啓示を表現する内なる絵が発芽し始めることを体験し始めます。

 

 精神世界における恐怖の危険性と現実

 人間は、精神世界によって取り囲まれています。それは、通常の感覚の領域で、色、輝き、光の世界が、盲人にとっては触れることにより知る世界のようなものです。これらの霊の世界は、私たちを四方八方から取り囲んでいます。しかし、楽園と祝福された世界であると同時に、ある事実や存在のために、私たちにとって恐ろしく、危険な世界であることも確かです。もし私たちがこれらの世界に含まれる高尚さと祝福を知ろうとするならば、これらの世界の中にある危険と恐ろしさをも知らなければならないのです。一方がなければ、他方はありえないのです。ですから、この世界に内在する危険の程度をはっきりさせなければなりません。知らないうちに火薬庫のそばに立っている人を想像してください。突然、自分のいる場所を知らされ、弾倉が爆発したら粉々になるのではと恐怖に駆られる。外見は何も変わらないが、彼の人生は全く変わってしまったのです。ただ1つ違うのは、危険を察知したことなのです。この知識によって、彼はこの知識を持っていない人と区別されます。

 高次の世界に関しても状況は同じです。そこに含まれる危険と恐ろしさは、常に私たちの周りにあります。実際、私たちの魂にとって大きな危険は、私たちが少しも知らない世界に潜んでいるのです。この危険と恐ろしさについて、精神科学に近づかなかった人と接触した人の違いは、後者はその危険性を知っていますが、前者は知らないということだけです。

 とはいえ、おそらくこれは次のような理由から、まったくそうではないでしょう。私たちは霊的なものが働いている霊界に足を踏み入れます。火薬庫が危険なのは、人が、火薬が爆発するのを恐れているからではありません。しかし、その恐怖は霊的な世界では意味を持つものなのです。あなたが恐怖心を持っているか、持たないかでは違いがあるのです。あなたが培った思考が霊的世界に現実のものを導入するからです。

 

恐怖は抑圧された憎しみである

 秘教の修行中に完全に避けるよう努力すべきことが二つあります。自分の行動や考え、発言によって他人を傷つけてはならない。また、誰かを傷つける意図はなかったという言い訳をしてはならないことです。意図的であろうと、偶然であろうと、その差はありません。もうひとつ避けるべきことは、憎しみの感情です。これは私たちの感情から完全に追放されなければならず、さもなければ恐怖の感情として再び現れてきます。恐怖は、抑圧された憎しみなのです。 憎しみは、愛の感情、すなわち知恵への愛に変えなければなりません

 

恐怖の感情は有害な霊的力を養う

 恐怖や不安、このような否定的な感情は、霊的な存在や力を知ろうとする人間から発せられると、実に悲惨なことになります。不安と恐怖は、私たちと霊的な世界との間に悲惨な関係をもたらします。その理由は、霊界には私たちから発せられる恐怖と不安を歓迎し、糧とする存在がいるからです。そのような存在は、人間から恐怖や不安がやってこないと飢えてしまうのです。このことをまだよく知らない私たちは、この発言を例え話として受け取るかもしれません。しかし、理解している人は、これが現実を表現していることをよく知っています。私たちが恐怖や不安やパニックを送り出すと、それはあの存在にとってありがたい糧となり、彼らはますます力をつけていくのです。彼らは私たちにとって有害な存在なのです。不安や恐怖や迷信や絶望や疑いといった否定的な感情を糧とする存在はすべて、精神世界では人類にとって不都合な存在であり、そうした感情を糧にすると、私たちに悪辣な攻撃を仕掛けてくるのですしたがって、私たちが精神世界に入るときには、まず恐怖、絶望、疑い、不安から身を守ることが何よりも大切です。

 

 無意識の恐怖の力

 西洋文明では、人間は、破壊の焦点を覆うマントとして働いており、衰退の力は、人々が破壊の焦点を実際に覆っていることに気づいて初めて上昇の力に転換させることができるのです。もし、霊的科学がこのことに気づかせてくれなかったら、どうなるのでしょうか。・・・私が話した秘教コロニーで、生徒たちが初めてこれらの秘儀について聞いたとき、最初は恐怖に打ちのめされました。彼らは恐怖を徹底的に知るようになったのです。人間の内面を覗き込むという行為は、漠然とした神秘主義のように不誠実なものではなく、正直に恐怖を生み出さなければならないという感覚を、彼らは徹底的に知るようになったのです。西洋の古い秘教学校では、この恐怖は、生徒たちに事実の全体的な重要性を認識するように教えることによってのみ、追い払うことができました。そうすれば、彼らは意識を通して、発生せざるを得ない恐怖を克服することができたのです。

 そして、知識主義の時代が始まると、この恐怖は無意識になり、その結果、今日も働き続けているのです。その恐怖は、さまざまに姿を変えて、私たちの外的生活に現れます。近代になると、人間の内面を見ることが適切になってきました。「自分を知れ!」は正当な課題となったのです。実際、恐怖の発生を克服することで、秘教徒の生徒たちは正しい方法で自己を知ることができるようになったのです知識主義の時代は、人間の内面を見つめる能力を鈍らせましたが、恐怖を完全に消し去ることはできませんでした。こうして、人々はこの無意識の恐怖の印象の下に置かれ、「人間の中には、生と死を超えて至るものは全くない」と言い、また言い続けるようになったのです。彼らは、記憶の生を超えること、誕生と死の間のみに適用する法により支配されている思考の普通の生を超えて見ることを恐れています。彼らは、人間の魂の中で真に永遠であるものを深く覗き込むことを恐れています。「誕生と死の間のこの生以外に何ものも絶対存在しない」というドクトリンを正当化するのは、この恐怖によってなのです。

 現代の唯物主義は、人々がいささかもこれを感じる取ることなく、恐怖から生じたのです。現代の唯物主義的世界観は、恐怖と不安の産物なのです。

 

恐怖の感情と悪の存在

 たちは、人類の流れがすでに、高潔で道徳的なものに向かう部分と、陰惨で邪悪なものに至る二つの部分に分かれていく過程にあることを知っています。このような状態はすでに出来つつあり、そのための種はすでに発芽しています。こうして、現在存在するすべての機械や仕掛けは、動き出すことができ、木星では恐ろしい、恐ろしい悪魔となるのです。

 便利さだけを追求したものは、いつかこの種の強力で恐ろしい力になります。私たちがこのことを知っていることは、非常に良いことです。そうでなければ、この種の力がいつか地球を粉々に壊してしまうでしょう。私たちは、子供たちの養育と教育は、芸術的感動に包まれるべきであることを知ってもいます。芸術は私たちを自由にしてくれます。鉄道の機関車も、いつかは美しい機械に生まれ変わらなければなりません。私たちの恐怖や不安の感情は、他の邪悪な存在への栄養となるのです木星では、このような悪魔が、今よりもずっとたくさん私たちを取り囲むことになるのです。しかし、周囲を清潔に保ち、埃の中に蝿を寄せ付けないような思慮深い人であれば、このような心配は無用でしょう。

 

霊界への恐怖

 魂には、私たちが普通に知っていることだけがおきるのではありません。魂の経験の深部では、普通の意識にまで、その影や光を投げかけるような物事が起こっているからです。しかし、私たちの通常の意識は、これらのことにまで到達していません。私たちの魂の奥底には、憎しみや愛、喜びや恐れ、興奮が、これらの感情は、私たちの魂の生の一部である意識には全く存在していなくても、隠されているかもしれません。ですから、ある人から別の人への意識的な憎しみのある特定の表現が、魂の奥深くに根を張った愛の結果であることも完全にあり得るのです。人の魂の奥底には、他人に対する深い共感があるかもしれません。しかし、その人もまた、おそらく同様に自分にはわからない理由があるので、この愛や同情を押し殺し、自分が感じているのは憎しみや反感であると錯覚するかもしれないのです。

 これは、私たちの魂の隠された深みで支配されているもので、この深みでは、私たちの上層意識で見られるものとは全く異なって見えることがあります恐怖や不安の状態は、本人が普段の上層意識で何も知らなくても、魂の奥底に存在することがあります。霊界に入る前に越えなければならない深淵があるので、ある人は自分の意識の上部でそのようなことに気づかないまま、魂の深部でその世界に対する恐怖と不安を抱えているかもしれません実際、まだ霊界には入っていないが、霊界についてある程度の知識を得ている人は皆、ある程度、霊界に対する恐怖心、恐れを抱いています。魂の奥底にあるこの恐怖と不安についてどう考えようとも、あるものにはより強く、他の者にはより弱く現れるに過ぎません。そして、魂が何らかの形で傷つく可能性があるため、私たちの存在が賢く配置し、私たちが容易に霊的世界を覗くことができないように配慮しているのです。私たちは先ず準備ができたとき、境域の守護者を体験しなければならないからです。そうなるまで、私たちは保護されているのです。

 

アーリマン的な幻想としての物理的な物質が恐怖を生む

 夜間はルシファーが、昼間はメフィストのような存在が外から影響を及ぼしています。では、これらの存在は、その影響力によって、私たちの中で何を成し遂げたのでしょうか。ルシファー的存在は、自由と「私」意識とともに、後者の最も極端な表現、すなわち憎悪をわれわれに与えたのです。もし人間がますます自分の「私」の中に閉じこもるようにならなければ、憎しみを持つことは決してなかったでしょう。そして、アーリマン的存在たちは、神聖な霊的世界をマーヤ(幻想)の霧に包んで人間の目から隠し、物理的なものの背後にあるものを見ることができなくなったのです。そのために恐怖が生まれたのです。もし、空間にある物理的な物体にぶつかるのではなく、神の創造者を見ることができたなら、私たちは恐怖を知ることはなかったでしょう。小さな子どもは、物質にぶつかって接触するとすぐに恐怖を覚えます。秘教の弟子は、進歩するために、憎しみと恐怖の2つを、その最も微妙な表れにおいてさえ、自分から取り除くよう努めなければなりません。

 

恐怖で黒魔術にかかりやすくなる

 第一の要件は、人類の一部としかつながらないものを超えることです。これは今日の白魔術師の第一の原則です。人がそれに向けて努力できるのは無私ではなく、全人類への愛です。その人は自分の愛の範囲を広げることができます。これがその人のできることであり、私たちがここで関心を持っているのはこのことなのです......。ご存知のように、今日、黒魔術師になろうとする人は、もし彼がひどい臆病者で、自分の身に起こるかもしれないあらゆることにひどく怯えているのなら、黒魔術の働きに必要なものをすでに大量に蓄えていることでしょう。恐怖は圧縮されたエゴイズムに他ならないからです

 仮に、誰かが大規模な黒魔術を行おうとした場合を考えてみましょう。その人物はまず、できるだけ臆病な人物を探すことから始めるでしょう。この恐怖のストックは有用な媒体であり、そのように再形成して変形させることができるので、問題の臆病な個人は、何の知識も洞察もなく、人間にとって通常よりもはるかに大きな規模で特定の別の力とパワーを得ることができるでしょうこのような魔術師は、この種の技術を開発するために何をしなければならないのでしょうか?まず第一に、実験室を設けて、臆病な人たちを訓練することです。生きた肉を何度も切り裂くことで自分を硬化させることを教えるのです。臆病な人が高度に持つ恐怖の感情には、ある種の力が外に向かって働いており、生きた肉を切り裂き自分を傷つけることを教えられると、その反対の力に変えることができます。このような処置は、恐怖心を持たない個人の場合には、全く無意味なことです。

 これが、黒魔術の最初のステップです。そうすると、その人の中にある恐怖が力に変わり、その力によって環境に一定の影響を与えることができるようになります。だから、このような手下を使っている人は、信じられないほど恐ろしい残虐行為を世界に及ぼすことができるのです......。この問題について真剣に考えるなら、今述べたような、個人が確実に黒魔術の力を手に入れるように導かれるような手順から、多くの人々を守れるものは何かと自問することになるでしょう。エゴイズム(自己本位)は、このようなものに対する保護として非常に優れています。誰もが生きた肉を切り裂く胃袋を持っているわけではなく、ほとんどの人は気絶して倒れるでしょう。この種の無意識はエゴイズムの表現にほかならないのです。したがって、このような物理的な効果は、黒魔術の実践を防ぐのに良い方法なのです

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 特に秘教を学ぶ者には、不安や恐怖を超越することが望まれるようだが、一般の人にとってもそれに越したことはないだろう。今は世界中の人が将来への不安や恐れを抱いているのであるから、それを食糧としている霊的存在は大変な力を蓄えているはずである。

 マスコミによる一方的な情報は、こうした不安や恐怖を更に煽っている。マスコミ人にその意識はないだろうが、その罪は重い。

 不安や恐怖を克服するには、やはり真実を知ることから始めるしかないのかもしれない。悪をなす霊的力があるように、善をなす、人類に救いの手を差し伸べている霊的力があることを知ることも大事であろう。

 シュタイナーは、恐怖を克服するための次のようなマントラ真言)を残している。

A Verse for Our Time

We must eradicate from the soul
All fear and terror
Of what comes to meet the human being
From out of the future.

We must acquire serenity
In all feelings and sensations about the future.

And, we must think only:
That whatever may come
Is given to us by a world direction full of wisdom.

It is part of what we must learn in this age;
Namely, to live out of pure trust,
Without any security in outward existence.

Trust in the ever-present help of the supersensible worlds,

Truly, nothing else will do if our courage is not to fail us.

Let us discipline our will
And let us seek the awakening
From within ourselves

Every morning and every evening.

私たちの時代のための言葉

私たちは、魂から消し去らなければならない
未来の外から人間に向かって来るすべての恐れと恐怖を

未来に関するあらゆる感情や感覚に 静けさを身につけなければならない


そして、私たちは、ただ、こう考えなければならない
何が起ころうとも、それは知恵に満ちた世界の方から与えられるものだと


それは、私たちがこの時代に学ばなければならないことの一部である
つまり、純粋な信頼から生きること
外側の存在に何の安心感がなくても


超感覚的な世界の常に存在する助けを信頼すること


勇気を失わないためには、これしかないのだ


自分の意志を鍛えよう
そして、目覚めを求めよう
自分の内側から


毎朝、毎晩

 

古代メキシコの秘密とアメリカ②

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シュタイナーによる「ゴルゴタの丘」の絵

 「古代メキシコの秘密とアメリカ 」の後半である。

 キリストが地上に出現しゴルゴタの出来事が起きた頃、遠く離れたアメリカ大陸では、黒魔術師と太陽(キリスト)の秘儀参入者の霊的な戦いが起きていた。

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 一つの大陸で起きたことが、遠いところであっても、人類全体に意味があると言うことは、偉大な秘儀参入者が黒魔術師と行なった強烈で決定的な戦いを思い浮かべれば、理解できる。それは3年間続いた。即ち30年から33年まで。

 それは、ヨルダン川洗礼からゴルゴタの出来事の、キリスト存在が地上に滞在した時間である。キリストがゴルゴタで死を克服した[復活した]とき、太陽の秘儀参入者、シュタイナーのいう「人間の形をした太陽存在」が黒魔術師を十字架に掛けたのである。それにより、魔術師の、アーリマンの力は失われた。「キリストの行為と対抗する霊的力」の講演で、シュタイナーは、次のように述べている。「ゴルゴタの出来事以来、ゴルゴタに傷口から血が流れた時、キリストがあの世、影の王国[黄泉の国]に現れ、アーリマンを鎖につないだというのは、単なるイメージ的な言い回し以上のものである。アーリマンの影響が残り、基本的に、人の物質主義的思考の起源がそこにあるとしても、この影響は、人がゴルゴタの出来事を自身に受け入れることによってのみ麻痺させることができる。この出来事は、再び霊的神的世界に入っていくために、人がそこから力を得るものとなったのである。」

※聖書に直接的な記述はないが、伝承の中で、キリストが磔刑により死んだ後、地下にある死者達の国(地獄、黄泉、陰府)を訪れ、サタンに囚われていた死者達を救済したという信仰がある。シュタイナーによれば、それは実際に起きたことなのである。

 アーリマン的秘儀参入者の克服は、パレスチナにおけるキリストの出来事と一致して起きている。キリストが地上の3年間に発展させた力が、それと自分の行為を調和させるため、ゴルゴタの出来事を[霊視により]眼前に見た太陽の秘儀参入者に流れ込んだことが想像できる。彼が黒魔術師を打ち破ることができるようにしたその力は、黒魔術師の勝利により生じたかもしれない暗闇がヨーロッパを襲うことを防いだ。アーリマンの働きは引き続き弱められ、アメリカに-それが影響力をまだ保持できる限り-押し止められたことにより、第4後アトランティス時代は正しく発展し、第5の後アトランティス時代も始まることができたのである。アーリマンは、彼が働くことが許される場所、地球の内部と無生物の世界をあてがわれた。

※アーリマンに許された地球の内部とは、いわゆる地獄である。シュタイナーは、地球内部(地殻の更に先)はいくつかの層になっており、悪の衝動も含め、そこから地上に様々な影響が及んでいるとする。


 ゴルゴタの出来事が有るにもかかわらず、なぜアメリカでアーリマン的力の克服が必要であったのだろうか? パレスチナにおける出来事で十分ではなかったのか? そこには、黒魔術師の克服以上に重要なことがあったのかもしれない。それは、太陽の秘儀参入者が、魔術師に勝利することにより、キリストの力を直接アメリカ大陸に植え付けることができたと言うことである

 西方[アメリカ大陸]では、地球の内部から、アーリマン的、エレメンタル的力が、地球の他の地域よりも強く昇ってきている。アーリマン的力の活動に関連する事実を考えてみると良い。シュタイナーは、次のように語っている。「現代人は、魂の中で・・弱い反応をもっているだけである・・感覚以下の自然の中で沸き起こり動いているものは、時に、せいぜい夢の中の驚くようなイメージで現れるが、何が起きているかを、人は知らないのだ。」人の感覚以下の自然で起きていることを知るには、イメージが必要である。「現代人が魂の中で体験するものは、火山の大地で体験する世界と比較できる。それは静かなようにも見えるが、紙に火を付けることができる。いたるところで煙が昇っているのだ。この煙の中に、またその下で湧き上がりたぎっているものを見ると、どのような大地に立っているかがわかる。」黙示録でも、アンチキリストである2本の角の獣は、「大地」から立ち上がってくる。

   西方においてそれが強力なのは、恐ろしいアーリマンの密儀が関係している。ひょっとしたら、アメリカでは、太陽の秘儀参入者の行いがなかったら、アーリマン的力の攻撃から救出されることはできなかったかもしれない。それは、西方が、全人類に対してどのような使命を持っているのかという問いに導く。上で述べた講演で、ローマ帝国へのアーリマン的力の攻撃が語られている。それは、人々や民族を国家マシンの歯車とする国家組織を造り出す初めての試みであった。「アーリマン的力は、ローマ帝国を通して、全く盲目的な従順さとローマ帝国への服従にある硬直した状態を地上に造り出すことに向けられた。」「人間のすべての活動が把握され、それは、厳しい中央集権と権力の行使によりローマから指示されるものとなる、そのような国家が成立しなければならなかった。」このアーリマン的力の中心的な努力を地上に固定することが重要である。ローマ帝国の没落後に、ローマの霊が、幽霊のように働き続け、ローマにおいて実現しなかったものを世界において成し遂げる試みををしているからである。それは、再び受肉しようとしている。それは、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間に見られなかっただろうか?この試みは、一層強く行なわれてきている。ローマでは、ローマ市民の自然な自意識がこれに反抗し、造られたすべてのものが民族移動により破壊されたからである。シュタイナーは、ローマの国家について次の様にまとめている。「ローマの歴史は、アーリマン的力の啓示のようなものではない。それは背後にあるが、ローマの歴史は、アーリマン的力との戦いである。」西洋においても同様である。

 シュタイナーは、アメリカの発見、あるいは再発見について述べている。それには、モンゴルのヨーロッパへの侵攻が先行している。アジアでも「大いなる霊」の子孫が活動していたが、それは、ルチファー的性格を持っていた。そこでは、秘儀を伝授された強力な祭司がおり、彼は、チンギスハンを、自分の目的のための道具として使ったのである。モンゴルは、すべてを荒廃させながら、ロシアをとおり中欧ヨーロッパまで達し、リークニッツに至るが、驚くことに、そこでの勝利の後、引き返し初めたのである。しかし、ルチファー的「大いなる霊」は、モンゴルが引き揚げても、そのルチファー的イメージと力をヨーロッパに送り込み、浸透させることができたのである。

 アメリカ大陸の発見は、ヨーロッパの、このルチファー的な大きな誘惑に対して、地球的な釣り合いを造り出すために、[霊界の]世界指導のもとに行なわれたのである。二つの潮流が合流することにより、中欧ヨーロッパで、中心で発展すべきものが生じた。シュタイナーは、語る。「私は、今日、アメリカの発見をアーリマンの行いだとしたのではない。その反対を語ったのだ。それはなされなければならなかった。世界の前進にはすべてが必要である。ただそこに、アーリマン的力が混入するのだ。」アメリカを見るときにも、霊的な世界関連において意味のあるものと、それに対抗するアーリマン的存在を区別しなければならない。シュタイナーによってローマについて語られたことは、アメリカにも当てはまる。

 この大陸では、アーリマン的力だけが働いていたのではない。ゴルゴタの秘儀の死を克服した再生[復活]の力も働いていたのである。しかし、それによってアーリマンの力は打ち破ることができなかった。それは、常に、ゴルゴタの出来事に多くの人々が気づかないようにしようとしている。我々の時代、我々は、その最も強力で決定的な攻撃の前に立っている。キリストがエーテル界で意識の死に苦しむとき-それは、次第に、人間の意識でキリストの光溢れる復活へと至る-、対抗するアーリマンも、強烈な攻撃を準備する。我々の時代、人類の発展がゴルゴタの出来事の意味で前進することができるか、あるいはアーリマンがそれに方向性を与えるかの岐路にある。この逆襲が由来する中心は、アメリカになるだろう。この土地で、アーリマン的力は長い間準備してきた。それは、その影響を西方にのみとどめようとはせず。全地球、特に、新しい霊的認識が開かれる中欧に及ぼそうとしている。

 “一人の“人間-それが黒魔術師の秘儀参入者で、その背後にアーリマン的力があったとしても-の行いが既に、上に述べたような結果をもたらしたとしたなら、アーリマン自身が地上でこの攻撃を行えるようになったなら、より大きく甚大な結果をもたらすことは疑いえない。15世紀以来、アーリマンは、アメリカ大陸での到来を準備してきた。それが、そこで、人々が、アーリマン存在の意図を知り、それがそれをどのように実現しようとしているかを意識するために、多くのことをなし得る理由でもある。その様な意識化は、単なる思考上に留まるものではなく、我々の時代になし得る最も現実的なものである。メキシコで黒魔術師に打ち勝った太陽の秘儀参入者は、援助を与えながら、真剣に、そのような意識化を見つめていると考えられないだろうか? 人類の前に迫っていることは、シュタイナーの次の言葉により示されている。「来る時代には、意識魂-それまは、意識魂に自我が現れるので、自我にと言うことでもあるーに、アスラと呼ばれる霊的存在が忍び入ってくる。アスラは、アトランティス時代のサタンや、レムリア時代のルチファー的霊よりも強烈な力で悪を展開するだろう。」

※アスラは東洋で言う阿修羅であり、他の悪魔と同様に、本来は天使(霊的ヒエラルキー)であったが、進化の道を踏み外して、人類の進化に対抗する霊的存在となった。特に人間の自我に攻撃し、その活動は今後強まっていくとされる。

 時代の転換期に、霊界は、アメリカに迫り来るアーリマンの密儀の結果を可能な限りそらすために、太陽から秘儀参入者を西方に送った。ローマ帝国では、人々が、無意識、本能的に、国家マシンができるのを防いだ。我々の意識魂の時代には、完全に意識的に協働しなければならない。シュタイナーは、次のように語っている。「15世紀以来、人々が完全な意識的力を持たなければならない時代になっている。アーリマンの受肉が迫っているときに、この出来事に、完全な意識を持って向き合うことがまさに重要である。ルチファーの受肉は、密儀の祭司の予言的力によってのみ見通すことができた。ゴルゴタの出来事によるキリストの受肉も、人間には意識されなかった。人類は、アーリマンの受肉を、物質世界に現れてくるであろう衝撃と共に、意識的に向き合い体験しなければならない

・・・次の文明発展のための人類の使命は、アーリマンの受肉が、より高次の霊的、精神的発展を促進する上で、人類に役立つようにそれを完全に意識して向き合うことである。」

 その様な可能性を眼前にするだけで、すべての霊的に努力する人間は、無限の励ましを得るのだ。アーリマンの受肉は阻止できないが、我々の時代の、アーリマンの受肉とキリストのエーテル界での再臨に関連する出来事を完全に意識することにより、人は、極めて決定的なことをなし得る新しい世紀[21世紀]に発展がどのようなコースを取るかは、人間にかかっている。人は、内面のより明瞭な意識を求める努力により、キリストに貫かれたミカエル的天使を呼び寄せることができるのだ

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 コロナに続くウクライナ危機により世界情勢は、一層黙示録的様相を強めているように見える。こうした世界の現在の危機を作り出している主な勢力は、欧米に存在しているようである。やはりそれは、来るべきアーリマンの受肉を準備するものなのだろうか?

 コロナといいウクライナ危機といい、一方的な情報が「真実」のように流されている。また人々は、そうした情報を無批判に受け入れている。情報を送り出す側も受け取る側も、何かに憑依されているのだろうか?

古代メキシコの秘密とアメリカ ①

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 シュタイナーや人智学の思想の中心にある霊的存在は、キリストであると言っていいだろう。勿論、キリストはキリスト教の神であるが、シュタイナーの立場では、一つの宗教にのみ関わる存在ではない。万教帰一という言葉があるが、すべての宗教の根っこが同じとすれば、その拠り所としての根本の神的存在も同じはずである。キリストはそうした存在である。
 キリストはある面で太陽神でもあるが、古今東西の宗教が太陽を神聖視してきたことにも、それを見ることができるだろう。

 だが、歴史的な現象としては、キリストが生まれ活動したのは、パレスチナの一部にすぎず、その教えは弟子たちにより確かに世界中に伝えられたとはいえ、地球全体に及ぶものではない。つまり、地球上には、キリストのことを何も知らず、その「救い」から取り残されている人々もいるのではないかということである。このようなことを考えると、キリストが人類にとって普遍的な神的存在であるというのは、どのようなことなのだろうか。

 このような疑問について、その答えとなるであろう説明は、やはりシュタイナーの中に見いだすことができる。

 例えば、アジアにおいては、それまでの自己の解脱を目的とする小乗仏教に対して、一般の人々の救済を目的とする大乗仏教が、紀元前後に生まれてくるのだが、この大乗仏教誕生の背景に、この時期に地上において活動したキリストの霊的影響を、シュタイナーは指摘している。
 またアメリカ大陸が「発見」され、キリスト教が現地に伝道されるようになるのは16世紀以降であるから、それ以前に、現地の人々はキリストに触れることができなかったと言えるだろう。では、それまでの間に、アジアにおけるようなキリストの働きはなかったのだろうか? 実はやはりあったのである。

 このテーマについては、人智学派でいくつかの本がでているようであるが、今回は、先に掲載した「トランスヒューマニズムとダブルと人類の分化」の記事に出てきた、カール・シュテッグマン Carl Stegmann氏の本、”もうひとつのアメリカDas Andere Amerika"を、久しぶりに読み直したところ、このテーマに出会ったので、最近の世界情勢にも関係する内容でもあることから、この本から関係部分を紹介することとする。
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古代メキシコの秘密とアメリ

 「人類の内的発展衝動」の講演で、シュタイナーは、中央アメリカの古代の密儀所で何が起きたかについて語っている。ピラミッドや神殿をもった、古代の最も重要な文明が、マヤ人により築かれた。その文明は、紀元前300年から15世紀にかけて存在した。その中心は、グアテマラホンジュラスにあり、メキシコ南部まで影響を与えた。メキシコ-トルテカ文明は、紀元前200年頃に始まり、メキシコにまで及び、1224年まで続いた。その後に、アステカ文明が続く。キリストが地上に生きた時代に、特に、我々に問題となるのは、マヤとトルテカ文明である。その住民は、当時既に思考力を発展させていたヨーロッパの住民と同列に置くことはできなかった。彼らの魂は素朴であり、原始的で、先祖返り的な能力を持っていた。「しかしこの住民の中には、有る密儀に参入した多数の人々がいた。この西半球には、非常に多様な密儀が存在した。これらの密儀に由来する教えには、多数の信者がいた。」

 この講演では、アトランティスにおいて、人が「偉大なる霊(グレートスピリット)」と呼ぶ有る存在が崇拝され、アトランティス後の時代にも影響を与えたことが語られている。ウィリアム・H・プレスコットの『アステカの世界』では、次のように述べられている。「アステカ人は、至高の創造者、宇宙の主の存在を受け入れていた。彼らは、祈りに際し、その存在を、“我らに命を与えた神”と呼びかけていた。“あらゆるところに存在し、すべてを知り、我々にすべてのものを贈ってくれた、見ることはできず、完全にして純粋な神”」それは、他の神々と人間、全存在を統一し、担う、唯一の神であった。

 この「偉大なる霊」の考えは、アトランティスの没落を生き残った。マヤ、アステカ、トルテカ文明の神話には、彼らの出自をアトランティスに関連付けるものがある。今日、アメリカ大陸の原住民は、アジアからベーリング海峡を渡ってきたと考えられている。中央アメリカの大洪水の伝説では、テスカトリポカが、洪水の後に水を引かせたとされている。その後、テッピ、メキシコのノアがアメリカに船を上陸させた。イグナチウス・ドナリーの、世界中の洪水伝説を集めた本『アトランティス、ノアの洪水以前の言葉』にも、マや、アステカ、トルテカ文明の伝説がある。この本には、今日に伝わる伝説に残っている大規模な住民の移動について語られている。「バンコフは、トルテカ文明は、彼らが元々いた場所をAzylanまたはAtlanと呼んでいると伝えている。アステカAzteke(Azteca)の名は、Azylanから取られた。彼らは、アトランティス人であった。」彼らと共に「偉大なる霊」の考えは、西方にもたらされた。

 「偉大なる霊」の考えから二つの潮流が生まれた。その一つは、世界の東方において、よりルチファー的性格をもった。他のものは、西方に向かいアーリマン的性格を持った。「偉大なる霊」の考えは、後アトランティス時代に、アメリカ大陸の発見までアメリカに流れ込み、そしてその後も、インディアンの部族を通して、現代まで伝わっている。1870年生まれのインディアン酋長は、ある本で、彼の記憶を次のように記している。「部族や場所に関係なく、アメリカのインディアンには、ただ一つの宗教的見解があった。彼らは、有限なものと無限なものは、モラルの指針を定め、それらのもとに指導する、またすべての生き物を創造した、唯一の宇宙的・絶対的存在の表現であると信じていた。彼らは、この存在を「偉大なる霊」と呼んだ。」(『レッド・フォックス酋長の思い出』)

 特に中央アメリカの密儀所で、「大いなる霊」の子孫が崇拝された。「すべてのものが従う統一的な力であるかのように、幽霊のような霊が崇拝された。それは、「大いなる霊」の子孫であるが、アトランティスではそれは正しかったものの、しかし既にアーリマン的性格を帯びたすべての力を用いようと欲したことにより、次第にアーリマン的性格を持つようになった霊であった。」(R.S)シュタイナーは、「大いなる霊」の子孫が中国のタオに似た名を持ったとしている。カリカチュアされた名前、つまりタオトルTaotlである。それは、「Taotl、それは「大いなる霊」のアーリマン的変種でもあった。力強かったが、物質界に受肉することはなかった。」

 アトランティス時代には正当であったが、この西方の密儀の時代にはもはやそうではなかったというのは、どのような力であろうか。それは、アトランティス時代で、それほど固くなかった地球と、身体がより柔らかく可塑的であった人間を一層硬化する力であった。この力は、アーリマン的なドラゴンの力が地球に墜落した、アトランティス中期以来、ずっと強まっていった。それは、密儀の中で保存された。「タオトルの密儀では多くのものが秘儀参入を受けたが、その秘儀はアトランティス性格を持った。それは、人間を含む地上の生命をできるだけ硬直させ、機械化するという目的を持っていた。すべての自立性、内面から来る魂の活動の根絶を指向する地上の死の国が求められ、タオトルの密儀では、その様な完全に機械的な地上の王国を築けるような能力を人々に与える力が獲得された。」「機械化する」とは二重の意味がある。シュタイナーは、この方面から、「純粋に機械的な道具において頂点に達する文明を築くだけでなく、人間自身を全くのホムンクルスにする試みが行なわれたのである」という。彼は、それによって、すべての行動が外から決められる、自我のない人間を考えている。この密儀の祭司達は、その様な地上の王国を築くために、硬直させる、機械化する、死の力を地上で支配し用いることができる異常な力を身につけなければならなかった。彼らは、ある黒魔術的なやり方で、秘儀を受けなければならなかったのである。死の力の主となることができるように、死の秘儀を獲得しなければならなかった。この神殿の祭司は、このために、儀式殺人を行なったのである。

 かつて、中央アメリカの多くの神殿で、祭司によって人が殺され、神殿に生け贄を献げる儀式が行なわれたことが知られている。コルテスとメキシコに渡ったヨーロッパ人も、この殺人を驚きを持って体験した。この殺人により、特殊な感情が生まれ、それが祭司を死の力の主とすることができたのである。殺人は、心臓を胸から取り出すことで行なわれた。シュタイナーは、生け贄から胃が切り出されたと述べている。これは、歴史的にはほとんど知られていない。これは謎をもたらすが、彼が、生け贄の儀式が行なわれたタオトルの密儀では、外界にはすべて厳密に秘匿されていたと述べていることから、その謎は解かれる。この密儀では、人体への侵害は、リズム組織[心臓]ではなく、代謝-意志-人間に対して行なわれたと言うことは納得できることである。人間を道具にするために、西方の人間の核である、人間の意志領域に押し入ろうとしたからである。

 シュタイナーの講演では、この陰惨な密儀の他に、これに対抗しようとした密儀が存在したことが述べられている。ゴルゴタの秘儀が起きた頃、アーリマン的密儀に決然と戦いを挑んだ新しい運動がメキシコに生まれた。そこから、シュタイナーがヴィツリプツリVizliputzliと呼ぶ高位の秘儀参入者が出たのである。「あるとき、この文明に特別な使命を自らに持った存在が、中央アメリカに生まれた。メキシコの古い原住民は、この存在に特定の考えを結びつけた。この存在は、処女が、超地上的な力によって、天から舞い降りた羽をもった存在により懐胎させられることにより、この世に来たというのである。秘教的手段によりこの出来事を調べると、この存在が、ほぼ33年の生涯を送り、我々の紀元の1年頃に生まれたことを知る。」

 同じ年に、パレスチナで処女による誕生が起こり、アメリカでも高位の秘儀参入者が処女から誕生し、彼はイエス・キリストと同じ年齢を経たのである。彼は、33歳に達してまた霊界に戻っていった。驚くべき並行事象! 「ヴィツリプツリの中に、人々は、処女から生まれた太陽存在を崇拝した。・・・そして彼らは、それが、ゴルゴタの秘儀の世界の西半分における知られざる同時代人で有ることを知らない。」ゴルゴタの秘儀が起きたとき、ミカエルに属する者はすべて太陽に集まっていた。この高位の秘儀参入者は、太陽から来て、アメリカで特別な使命を担ったのである

 同じ時代に、多くの受肉と殺人を通して準備してきた、最大の黒魔術師の一人が、そのアーリマン的密儀から出たのだ。それは、最大ではないにしても、かつて地上に現れた最も力強い魔術師の一人、その道に存在する最も大きな秘密を獲得した魔術師であった。彼は、30歳の時に、第4、第5の後アトランティス時代に人類に闇をもたらし、アーリマン的力がこの時代に求めているものを実現できる衝撃を、これから続く人類の地球における発展に対し、彼が与えられるように、引き続く秘儀参入により、一人の人間として力をつけるかどうかの大きな決断の前に立った。」ゴルゴタの秘儀の起きたときに、この黒魔術が企図したものが実現していたら、第4後アトランティス時代だけでなく、また第5の我々の時代も闇に包まれていただろう。その場合、人智学のような、霊的なものへの突破口は開かれず、アーリマン存在が意図するものが栄えていただろう。そのように、地球の西半分で起きたことが、中央ヨーロッパ及び世界全体と関わっていたのである。

 黙示録の作者も、この黒魔術師を知っていた。それは、本来のアンチキリストである獣に仕える「偽予言者」である。地球進化の終わりに、獣と偽予言者は克服される。

ーーーーーーーーーーー

 以上が前半である。

 本文中のヴィツリプツリであるが、ネットで検索するとウィツィロポチトリというアステカ神話の神が出てくる。その誕生物語には確かに羽が関連してくるが、その他の点ではシュタイナーの主張するような事柄はまだ見つけられていない。また、どういうわけか、詩人ハイネの詩にその名前が出てくるので、シュタイナー以前に、ドイツでは、その名が知られていたようである。
 このテーマを扱った別の人智学者の本『北アメリカの歴史の霊的転換点』(Luigi Morelli著)でも、「ヴィツリプツリの名は、南北のほとんどのアメリカ人にとって全く見知らぬものである。それを聞いたのは、シュタイナーが1916年の講演で触れたわずかのことを聞いた人くらいであろう。」とあるので、やはり、隠れた歴史であるらしい。(いずれこの本も紹介したいと思うが、まだ未読で、今回の記事の関係で、序文をちら読みしたところ出会った文章である。)

 「大いなる霊」は、アトランティスから東西にその子孫を伝えたが、それぞれ「悪魔的色彩」を持つようになり、東ではルチファーの、西(アメリカ)ではアーリマンの性格を持ったようだ。中国の道教(タオイズム)にはルチファーの影響があるのだろうか。
 ちなみに、3000年前に、中国でルチファーが肉体をもったと、シュタイナーは、語っている。この人物は伝説上の皇帝とされる「黄帝」であるとする人智学者がいるが、黄帝道教の開祖でもあるので、確かに関係がありそうである。

 一方、アーリマンはやはりアメリカで受肉するのだろうか。今は、ウクライナ危機を造り出し、それを継続拡大するかのように動いているアメリカは、まるで世界中を巻き込んで混乱を造ることを目的としているかのようだ。その恥知らずなプロパガンタを見てもまさに嘘の帝国であり、アーリマンが誕生するに全くふさわしい国になってしまっていると言わざるを得ない。あるいは、獣に仕える黒魔術師もまた既に再受肉しているのだろうか?

自我の秘密

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シュタイナーの指示に基づくファウストの絵(ゲーテアヌム)

 人智学では、人は肉体の他に、エーテル体、アストラル体そして自我よりなると言われる。肉体以外は超感覚的な実質で、肉眼では見えないものである。肉体は鉱物と共通してもつものであり、更にエーテル体は植物が、アストラル体は動物が人間と共にもっているものであが、自我は、人間しかもっていないとされる。つまり、人間を地球上の他の存在と区別するものなのである。

 自我は、当然、人間ならすべての者がもっているのだが、それが何であるかを具体的に説明するのは実に難しい。

 西洋哲学にカント・シェリング・へーゲルらのドイツ観念論というこれまた非常に難解な学派があるが、その本質は実に自我を巡る哲学とも言える。観念論は唯心論と言っても良いが、ごく簡単に言えば、観念・心が万物の根源であるという思想である。またその根源が自我なのである。この立場では、自我は神的なものである。

これらの考えでは、人の自我は神的・霊的なものであるが、人間の自我はやはりそのようなものなのだろうか。その答えは、イエスでありまたノーでもある。通常の、我々が日常に意識している自我意識は神的な存在ではないが、その奥底にはそうした要素が存在しているのだ。

こうした自我を巡るいくつかの考えを更に見ていこう。

ユングの自我観

ユング 現代の神話』(M-L・フォン・フランツ著)に次の記述がある。

 

 ユングは、1925年アフリカに旅行し、ナイロビからアティ平原の広大な野獣保護地区を訪ねた時、意識の宇宙進化論的意味がまったく明らかに理解できるようになったという。その時のことを彼は詩的な言葉で記している。

 

地平線上の遙か彼方に至るまで巨大な動物たちの群れを見ることができた。ガゼラ、カモシカ、牛カモシカ、シマウマ、イボイノシシの群れが、草を喰み、頭を上下にふりながらゆっくり流れるように移動していた。食肉鳥の憂鬱な鳴き声の他には何も聞こえてこなかった。永遠の発端の静けさがそこにあった。その世界は今までずっと非存在の状態でありつづけてきた。なぜならつい最近まで『この世界』があることを知っているものは誰もいなかったのだから。……ここで意識の宇宙的意味が圧倒的な明瞭さで理解できた。……人間である私は、見るという創造行為によって、この世界をはじめて完成させ、この世界を客観的な存在に変えたのである。人はこの行為を造物主のものとしてきた。そしてそうすることで人間の魂をも含めた生命と存在とが、あらかじめ定められた規則に従って、無意識に運転されていく機械の計算しつくされた運動のようなものになってしまうのに気がつかなかった。このような慰めのない時計幻想の中では、人間と世界と神とのあいだのドラマなど存在しうる筈もなく、新しい岸へ導いてくれる『新しい日』も存在しえない。ただ計算し尽くされた荒涼たるプロセスだけが存在する。……宇宙創造の行為を成就させるために、人間は不可欠な存在なのだ。それどころか人間自身が第二の造物主として、宇宙を客観的存在に変える。もしこの行為がなければ、宇宙は聞かれることも見られることもなく、沈黙のうちに、喰い、産み、死を迎え、非存在のまっくら闇の夜を、数十億年間、ただ首を上下に振りながら、いつとは知れぬ終末へ向かって進んでいくのみであろう。・・・

 無限なものだけが本質的なのだ、ということを知ったとき、大して意味のない事柄に関心を寄せることを私はやめた。……すでにこの世で無限なものとの関わりが自覚できるなら、人生に対する期待や態度も変わってくる。つきつめていけば、人はただ本質的な事柄の故のみに生きているのだ。そして本質的なものが存在しない人生は救いようがない。他人との関係においても、無限なものが表現されている関係かどうかが決定的となる。自分が極度に制限されていると感じられているときにのみ、私は無限なものに対する感情を獲得する。人間は霊我において最大の制限をうけている。霊我は、「自分とはこんなものだったのかという体験の中で自己を現す。霊我体験におけるこの極度に狭い意識だけが無意識の無限性と結びついている。この意識の在り方においては、私は自分を制限されていると同時に永遠なるものとして、一者でもあり他者でもある存在として、体験する。

 

 「見るという創造行為」ができるのは自我である。客観的世界は、それを認識する主観的(認識する)存在がいなければ、存在していないのと同じである。

 ユングは、心理学者の立場で自我の神的性格(造物主性)を見いだし、その思想はやがて、霊界(精神世界)に迫る集団的無意識という学説に至った。

 自我のこのような性格を説く考えは、現代科学にも見られる。宇宙論における宇宙の「人間原理」である。宇宙に人間が存在するのは偶然ではなく、必然である。人間を、宇宙を認識する存在として宇宙自体が生み出した、宇宙にとって人間は欠かせない存在であるとする考えである(その内容に、実際には、色々バリエーションがあるが)。

宗教上の自我

 さて、では宗教の立場ではどうであろうか。まさに神は自我であるというのである。旧約聖書出エジプト記に、モーセが神の山ホレブで神にあった時の会話が、次のように記述されている。

 

3章13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。

14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。

 

 「わたしは、有って有る者」の部分は、英語版聖書では“I am who(that) I am”となる。神の名は、“I am”であるということになるが、これは日本語版の聖書のように「有る」、「存在する」と解するよりも、「私である」と解する方がふさわしいのだ。「私(神)は、私という存在である」ということである。つまり、神は自我そのものなのである。

シュタイナーの自我観

 シュタイナーは、どのように語っているだろうか?

 これもまた、実に全体を把握するのが難しい。例えば、よく引用させてもらっている『シュタイナー用語辞典』(西川隆範著)では、個我(自我)の項目が4ページにも渡っているのだ。

 すべてを引用できないので、そのごく一部を引用しよう。

(個我は」地球進化期に、エクスシアイ(エロヒムヤハウェの共同)によって、人間に与えられた(レムリア時代に、エクスシアイの実質が内に入ってきたことによって、人間は個我を形成した)。自由・内なる神性への原基であると同時に、自己の内に硬化する原因でもある。個我意識の創造者は、ヤハウェであり「私は存在する」がヤハウェの本名、キリストの本名である。

 ここで、先の出エジプト記の記述が思い出される。モーセに現れた神はヤハウェであるが、ヤハウェは、エロヒム天地創造の神々)の1柱であり、他の6柱のエロヒムは太陽に、ヤハウェは月に住むという。そして、キリストは、ヤハウェを通してモーセに現れたのである。従って、キリストとヤハウェは同じ名を持つのである。

 人類は地球(その最初の段階は古月と呼ばれる)と共に神々によっての創造されたのだが、この記述のように、その初めから自我をもっていたのではなく、進化のある段階(レムリア期)に与えられたのである。

 これは、現代の人間の意識の成長段階でも見られることで、幼い子どもは、自分を名前で呼び、「私は」などと言わないように(例えば、「私は、イチゴが好き」とは言わず、○○(自分の名前)は、イチゴが好き」などと言う)、自我は、成長のある段階で生まれてくるのである。

 ちなみに、キリストの名も「私(は存在する)」であるが、シュタイナーは、ドイツ語がよくそれを表していると語っている。ドイツ語の「私」、つまり第一人称は、Ich(イッヒ)というが、それは、Jesus Chrisus のイニシャルでもあるのだ(かつてJとIは同じように用いられた)。

 

 次に、人智学者のエルトムート・ヨハネス・グロッセ氏(オイリュトミストで、後にマネイジメント・コンサルタント、講演者としても活動した)の『自我のない人々は存在するか?』(英語版)から次に引用しよう。

 

「自我の本質は何か?」

 その答えは、ゲーテファウストとルドルフ・シュタイナーが第1ゲーテアヌムに描いた彼の絵[上図]に見ることができる。それは、人間の自我を描いている。

知識を求める人間の代表であるファウストは、完全に意識化された自我-言葉で表されている-を求めている。

 その言葉ICHは、ファウストの仕草と一体となっている。自我の強さで考え、自我を体験しているファウストは、シュタイナーによって、自我をもった人間(自我人間)として、豊かな色彩で描かれている。この絵により、自我は、知的にではなく、直感的に把握される。

 自我の使命は、ゴルゴタの秘儀、そのイニシャルがICHであるキリスト(Jesus Christ)との個人的な関係を発展させることである。

 他人の自我は、その自我が自ら教える衝動が生まれるまで、霊視者に直接知覚されることはない。オーラの中の自我の働きは、霊視者に見えるが、自我自身は、彼にも見えない。それは、真に、人間にとっての「聖なるものの中のベールを被った聖なるもの」である。

 

「自我感覚」

 自我は、しかし、霊視でない観察で捉えることができる。人は12の感覚をもっており、その中の自我感覚で、人は、他人の自我を知覚する。

 「自身の内側に自我を知覚するのと他人の自我を知覚することには違いがある。他人の自我の知覚は、自我感覚による。自我感覚の器官は、体中に分散しており、極めて微妙な実質でできている。他人の自我を知覚するのは本質的に認知プロセスであり、それに比べて、自分の自我を体験するのは意志のプロセスである。

 誰かを前にすると、短い間にその人物を知覚する。人に印象を与えるが、それは、人の内面に障害をもたらす。人は、自分と同じ種類の存在が、攻撃のような印象を自分に与えていると感じる。その結果、人は、内的に自分を防衛する。攻撃に対抗し、それにアグレッシブ(攻撃的)になるのだ。そして人は、その攻撃反応の中で旗を立て始める。攻撃が終わり、前にいる人物は、再度人に印象を与える。これは、人に、自分の攻撃のエネルギーを再度高める時間を得る。そして人は、攻撃の別の一撃を繰り出す。人は旗を掲げ、前の人はまた印象を与える。そしてまた・・これが人と人の間にある関係である。他人への開放-内的防御:他人への開放-内的防御:共感-反感:共感-反感 これは、感情ではなく、目の前にいる者に知覚である。魂は振動する。共感と反感の振動があるのである。」(シュタイナー)

 シュタイナーは、共感は、短時間の間、他人の自我を「眠りながら」探求することである、と語っている。反感では覚醒し、眠りの中で知覚したものを覚醒に中にもたらす。それにより他人を体験し、存在として認識するのだ。

 無意識のうちに、自我存在として、人は、他人に影響を及ぼしたいと感じている。しかしまた、他人は何者であるかと言うことも体験したいと感じている。それにより、他人に対して自分自身を測れることができ、自分自身を学ぶからである。

 

 シュタイナーによれば、自我は、人にとって「聖なるものの中の(ベールを被った、最も)聖なるもの」なのである。それは、勿論、日常生活で私たちが自分として意識している自我意識とは別のものである。それは、真の自我の影にすぎない。そしてそれは、両刃の剣であり、人の自我は、聖なるものに至ることができる一方で、利己主義に陥り、自己の欲望に囚われる危険も持っているのである。

 

 なお、グロッセ氏の本については、その表題が示すように、自我を持たない人が存在するかどうかというテーマを扱っている。実は、この表現は、自己矛盾である。人の定義は、「自我をもったもの」であるので、持っていないものは、そもそも人間とは言えないからである。

 しかし、そのような「人間」も存在するらしいのだ。そしてそれは、シュタイナーによれば、現代世界にとって重要な課題を示しているというのである。

 いずれ機会があれば、グロッセ氏のこの本についても紹介したいと思っている。

 

 さて、実に「自我」は不思議なものである。第一人称の「私」は、「それ」や「彼」のように、相手があればどれにでも、誰にでも使える言葉ではなく、自分自身しかそれで指すことができない。私が「私」というのは、自分自身にしか言えないのである。それを語れるのは世界中でただ一人だけなのだ。このように単純な事実の背後に、大きな秘密が隠されているのである。

トランスヒューマニズムとダブルと人類の分化

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アルブレヒト・デューラー 「奈落への鍵を持つ天使」

 以前「The Present Age」誌に掲載されたドイツ在住のChristel Trautという方の、嘘がブラザーフッドにとっては武器になっているというような記事を紹介したが、同誌(2021年1月号)にまたTraut氏の興味深い記事を見つけたので、今回はこれを紹介したい。

 以前から、トランスヒューマニズムのいかがわしさや危険性をみてきたが、その隠された意味がまた明らかになる論稿である。しかしまたそれは、極めて重い意味をもっている。一つは、これも以前紹介した「ダブル」との関係であり、もう一つは「人類の分化」の問題と関係する。

 「人類の分化」とは、シュタイナーが人類の遠い未来に起こることとして述べていることで、それによれば、現在、人類は民族や人種で分かれているが、やがて「善の種族」と「悪の種族」に二分されると言うのである。まさに黙示録的な未来である。
 Traut氏によれば、トランスヒューマニズムにダブルと人類の分化が関連しているらしいのである。

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デジタル的不死による人類分化の可能性

                Christel Traut

 「コロナ危機」と呼ばれる事態が発生して以来、人類がある方向に操作され、「動かされている」印象を受けることが多くなった。しかし、その一方で、どのような人間像をもっているかがますます重要になってきていることにも気がつく。健康や病気、死、真実と嘘など、人生の根源的な問題について考えたことがあるかどうかということである。このような問題に対して、人々がどのような態度をとっているかを知ることは、日常的な人付き合いの中で、ますます重要になってきているようだ。精神世界に思いを馳せながら生きている人、あるいはルドルフ・シュタイナーの精神科学に傾倒している人は、世の中の出来事にまったく異なる方法で対処し、明らかに異なる優先順位を設定できることが明らかになった。

 このことは、人類の歩みが今後どうなっていくのか、両陣営の溝は広がっているのか、もしかしたら人類の分化が始まっていると考えなければならないのか、という問いにつながるのであろう。

 

「第4次産業革命」は我々をどこへ導くのか?

 クラウス・シュワブ(1938年ドイツ・ラーベンスブルク生まれ)は、世界経済フォーラムの創設者であり会長であるジュネーブに本拠を置くこの財団は、毎年ダボスで開催される世界経済フォーラム(WEF)を主催する非営利団体で、国際的に著名な経済学者、政治家、知識人、ジャーナリストなどが集う場である。

 2016年に出版された『第四次産業革命』(パンテオン出版)は、数カ月にわたってビジネス書のベストセラーリストに載った。この「第4次産業革命」の目標は、デジタル、物理、生物システムを融合させることだと彼は言う。この革命は、我々が何をするのかを変えるのではなく、人間そのものを変えるのだと彼は信じている

 この本は、まるで不気味なSF小説のように読める。シュワブ氏によれば、あと数年で、モノやサービスを買うことはできなくなり、レンタルすることだけが可能になるという。完全な監視が行われ、所有という概念は廃れるだろう。ユビキタス人工知能(AI)アルゴリズムが、私生活や社会生活を規制するようになる。多くの人々にとって、もはや私的領域というものは存在しない。移動の自由も、ワクチンを接種した人たちだけに存在することになる。血管の中の小さなロボット(ナノボット)が病気の治療を代行するようになる。そして、病院はそれは不要なものになる。人間の知能の限界は、脳に埋め込まれたチップによって克服されることになる。また、再プログラムされた認知用義肢の話などもあり、人間を「再プログラム」「強化」が自在にできるコンピュータマシンと見なしていることがわかる。

 このような人間の「強化」について、クラウス・シュワブ氏は著書の中で次のように述べている。「私たちは今、徐々に、それ(テクノロジー)が,、より多くのものを提供すること、しかし同時に、私たちにとってはるかに多くの問題があることに気づきつつある。上記のような理由から、私たち人類が継続的に適応することを必要とする、根本的なシステム変化の入り口に立っているのです。このため、世界は変化を歓迎する人と拒否する人にますます二極化する可能性がある

 その結果、先に述べた社会的不平等をはるかに超える不平等が生じるでしょう。この存在論的な不平等は、適応する意思と能力を持つ人々と、適応を拒否する人々を分けることになる。したがって、基本的には、あらゆる意味での勝者と敗者が定義されることになる。勝ち組は、第4次産業革命の特定の要素(例えば、遺伝子工学)によってもたらされる、ある種の根本的な人間の最適化から恩恵を受けるかもしれないが、負け組には否定される。その結果、階級闘争やその他の争いが起こる危険性があり、それは私たちの知っているものとは違うものになるだろう」2。

 ケビン・ウォーリック教授は、悪名高いトランスヒューマン主義者の著書『I, Cyborg』(2002年)で、この「人類の分断」についての見解をより端的に述べている。

「人類は、未来の機械が提供する超知能や余分な能力を利用し、彼らと一緒になることで進化することができるだろう。このことは、SFの世界では "サイボーグ "として知られている新しい人類の種が生まれることを示唆している。だからといって、誰もが「サイボーグ」になる必要はない。人間であることに満足しているならば、そのままでいい。しかし、私たち人間が何年も前にチンパンジーと決別したように、サイボーグもまた、人間と決別することになるのです。人間のままでいる人は、おそらく亜種になる。彼らは事実上、未来のチンパンジーとなるのだ」。

 

作家としてのアーリマン

 クラウス・シュワブやケヴィン・ウォーウィックの本がシュールなように聞こえるが、真剣に考えるべきことだ。私の祖母がヒトラーの『我が闘争』を読んだとき、後で振り返って、あの本に書かれていたおかしなことをすべて信じてはいなかったと言ったような間違いを犯してはならないのである。

 政治・経済の「第一人者」が、たとえばクラウス・シュワブのように「おかしなこと」を書いているとしたら、ルドルフ・シュタイナーによれば、ニーチェの『反キリスト』以来、アーリマンは信者の助けを借りて書き、自分の見解や目標を率直に発表してきたことを思い出すべきかもしれない。

 さらに、ルドルフ・シュタイナーは繰り返し、今日の支配者のタイプ、経済的なタイプでは、最悪の者をより高い地位に昇進させる傾向が強まっていると述べている。それはしばしば、劣ったタイプの選別である。「現代において、より良い性質を持つ人々が、より悪い性質を持つ人々に特別な権威のように敬意を払わなければならないという現象がいかに多いかを見ると、実に嘆かわしいことである。これは一般的な現象である。尊敬される権威は、本当に、より良いタイプの人たちの中から選ばれた人たちではないのです」。

 この文脈では、2019年10月に、クラウス・シュワブのWEFが、その後2020年初頭に速やかに発生した架空のコロナウイルスパンデミックをモデル化して計画した悪名高い Event 201会議を共同主催していることも興味深い5。

 すでに2020年7月、クラウス・シュワブとティエリ・モール・エレは、「Covid-19」と題する別の本を出版している。『グレート・リセット1*』と題されたこの本で、両氏は「Covid-19」は危険な病気ではないと宣言している。それにもかかわらず、彼らはCovid19を、「グレート・リセット」の旗印のもとに提示される前代未聞の社会変革、つまり、特定の「支配エリート」による新しい世界秩序の導入の口実に用いているのである

 実際、彼らはCovid-19を「偉大なるリセット」の絶好の機会とさえ考えており、それによって「勇敢な新世界」が裕福なエリートに有利になるように導入され、実行されることになるのだ。上記のアジェンダは-計画の範囲内では-2030年までに完全に展開されることになっている。

 もし、このようなことがむしろおかしいと思うなら、ルドルフ・シュタイナーが1919年1月3日にドルナッハで「賢い人々」と「狂った人々」の関係について非常に率直に述べたことを熟考すればよいだろう。

「しかし、賢い人たちが何年もかけてやってきたことの多くを、誰かが狂気とみなすということが想像できます。また非常に多くの人が狂気であるとも。しかし、その場合、その人は、非常に多くの人がなぜ彼を不適格で、狂っていると考えるのかを想像できます。狂人の社会では、通常、狂人とみなされるのは狂人ではなく、正気である人だからである」。

 

注* TPA Vol.6, Nos 1/2 (Septem-) の Richard Ramsbotham の記事「Covid-19 and The Great Reset - What is it all about and where is heading?」もご参照ください。

ber/October 2020)、および16ページのAndreas Flörsheimerの記事

 

デジタル不死

 著者であるモーリッツ・リーゼヴィエックとハンス・ブロックは、その著書『Die Digitale Seele (The Digital Soul)』において、デジタル技術の発展が全く止まらないことを示し、今や死さえデジタル的に理解されるべきであると述べている。その一方で、死後も故人と「コミュニケーション」できるように、その人のすべてのデータや「デジタル痕跡」を「デジタル・ダブル」にまとめる作業が集中的に行われている。

 インターネット利用者が生前に「デジタルで不老不死になりたい」と思えば、その「不老不死」を独自に準備することができる。つまり、自分の生涯のデータをすべて、いわゆる「ドッペルゲンガー」にリアルタイムで送り、この「ドッペルゲンガー」が自分の死後も存在し続け、その中で故人である自分がいわば「生き続ける」ことができるのだ。少なくともこれが、物質主義の「技術屋」の発想であろう。

 

人工知能の崇拝

 カリフォルニア州のアンソニーレバンドフスキーは、自動運転車の分野で最高のエンジニアの一人だ。彼は共同創業者兼最高技術責任者として、グーグルの車両構築に貢献した。ロボット工学の天才と言われ、米国での自動運転車の普及に大きな影響力を持っている。神の代わりに人工知能を崇拝するインターネット教会「Way of the Fu-ture Church」を設立した。彼の目標は、人々の人工知能に対する恐怖心を取り除き、機械・ロボットを社会に統合することである8。

 これらのことから、「デジタル世界観」とは、人間の魂を機械化し、トランスヒューマニズム的に人間を人工知能と融合させようとする、徹底した唯物論的世界観であり、人間が死後に地球から切り離されることが非常に難しくなることは間違いない。その一方で、人工知能はちゃんと神として崇められるということは、人類がアーリマン的、ルシファー的な方向に導かれることを示している。

 『デジタル・ソウル』という本には、次のような紹介文がある。「どうやら、一部の人間だけが、死後の魂の余生を考えずに生きていけるようだ。新しい(世俗的な)救済の物語がまだ欠けているのだ。何十億という人々が、宗教から遠ざかることによって失われた意味を、生活の中で埋め合わせることがまだできないでいるのだ。この空白を次の大きなビジネスチャンスと考えるテクノロジー企業は、この巨大な空白に注目せざるを得ない。この空白を次の大きなビジネスのアイディアのチャンスと考えるテクノロジー企業は、何十億もの潜在的な顧客を見込んでいるのだ。デジタル革命の流れの中で、世界中のスタートアップ企業が、この巨大な市場、すなわちデジタル不死身市場の争奪戦に参入しているのだ。

 

未来への展望

 100年以上前から人類にその精神科学が提供されているルドルフ・シュタイナーは、生前に唯物論的な思考をし、地上の意識と地球を保持しようとする人々の死後の人生について、どのように語っているのだろうか。

 

 「ここ地上では唯物論的思考が蔓延している。その業(カルマ)として、霊界では物質的的帰結、いわば死者の霊体の「地上化」が蔓延している」 カール・シュテッグマンは、著書『もうひとつのアメリカ』でルドルフ・シュタイナーを参照しながら、次のように説明している。「"地上的な傾向を吹き込まれる "とはどういう意味だろうか。地上での生活の中で、エーテル体が肉体とあまりに密接に結合すると、エーテル体はそれ自身の力と形成力を失い、肉体の構造的秩序を引き受けるようになる。ますます硬直化し、固化していく。それは、アーリマンの力にとって本質的な目標である。それは、私たちの中にいる[アーリマン]のダブルの目的でもある。このようにして、人々は自らを地上の力に連結させる。死後、肉体が脇に置かれたとき(死んだとき)、エーテル体は溶解することができない。なぜなら、地上の肉体の構造的秩序の後遺症、その固さと密度がまだ存続しているからである。そのため、高次の世界に行くために、地球のエーテル体から解放されることができない。長い間、彼らは地上に縛られたまま、アーリマンに仕えなければならないのだ。

 このような考えにしばらく親しむと、このような死後の体験を通して、善い神々に導かれた発展から脱落して、これから別の道を歩む人がいることを認識することになる。アーリマンは、地球の人々をその出自の神々から引き離し、自分の星のために獲得しようとし、地球が滅びるまでその形を整えようとしているのである。アーリマンは、多くの点で、神ヤハウェが行うのが正当であったことを簒奪し、それを自分の感覚で続けているが、自らを古い月の勢力と結びつけているのである。

 1917年10月14日の講演で、ルドルフ・シュタイナーはこう述べている。

 

 「そして、こうして唯物論的な心に固執する者たちが、月の力と一体となり、月とともに、地球がドロドロになったとき、死体となったとき、地球を取り囲むときが来るでしょう。物質主義的な知性と完全に結びつこうとするこれらの存在、これらの人々は、地球の生命にしがみつくこと、地球の生命と結びついたままでいることを望み、地球の屍から正しい方法で地球の魂と霊となるものへと昇ることは何も望まないからです」11。

 

 ステッグマンは、このことについて非常に真剣に書いている。「ここで私たちは、二つの世界観、二つの進化的可能性に直面することになる。人類は分裂し、二つの集団は別々の道を歩むだろう。人類は分裂し、[2つのグループが]別々の道を歩むのだ! 死にゆく地球、地球の死体とともに、一段下に沈んでいく人々がいる。他の人々は、より高いレベルの人類の発展に到達するために、真の霊的な地球と一緒に行くでしょう。アーリマンは前者を準備します。アーリマンが地上に現れると同時に、それは終末的な現実となる。絵画的に言えば、人類の一部は額に獣のしるしを付け、他の一部は額に神のしるしを付けるのである」12。

 機械の人工知能によって、たとえば脳にチップを埋め込んで意識を高めようとしない人々、「技術の恵み」によって地上生活を維持しようとしない人々は、未来の「チンパンジー」になるという、前述のトランス・ヒューマンたちの考えは、これとどう整合するのだろうか。

 ルドルフ・シュタイナーの『ヨハネの黙示録』の講義の中に、次のような記述がある。「人間がこの物理的世界に入る可能性が出てきた。人間はアトランティス洪水を生き延びることによって、現在の人間の顔立ちを作り出し、発展させることができるようになった。これはまさに、人間の中に宿る「自我」の神格のイメージである。アトランティス時代の終わりにエーテル体が肉体と融合し、エーテル体の力が肉体の頭部に移動したことによってのみ、現在の人間の顔立ちが得られ、その顔立ちを通して神の霊が反映されるのだ。仮に、ある人が自分に人間的な顔立ちを与えてくれたのは霊であることを否定するとしよう。そうすると、彼は、自我意識に達し、再び自分を霊的にするための機会として肉体を利用するのではなく、肉体とともに成長し、肉体が好きになって、その中でしかくつろげなくなるだろう。そして、肉体に縛られたまま奈落の底に落ちていき、霊の力を使わなかったために、外見は再び以前の姿に似てくるのである

奈 落の底に落ちた人間は、動物的になってしまう。したがって、そのような人類は、すでに示したようなことをもたらすだろう。肉体の生活を主に自分の「自我」の意識に至る機会として利用しない者は、深淵に落ち込み、悪の種族を形成することになるのだ。彼らはキリスト・イエスの衝動から遠ざかり、魂の醜さから、再び人間が以前の時代に持っていた動物の形を形成することになる。奈落の底には、動物の形をした野生の衝動を持つ悪の種族が存在することになる。そして、上方では、自らを霊化した者、キリスト原理を自らに取り込んだ者が、キリスト・イエスとの結合に関して言うべきことを宣言すると、下からは、霊的変容と見えるものから逃れようとする者たちからの冒涜の言葉や名前が聞こえてくる」13.

 ルドルフ・シュタイナーによれば、将来、物質主義から脱却しない者は、肉体の中で再び動物のような姿を取らざるを得なくなるということである。

 もちろん、いわゆる人工知能とつながれば、これを拒否する他の人々よりも圧倒的に優れた存在となり、これらよりもはるかに多くの権力と金を手に入れ、いわゆる「猿」として彼らを置き去りにするか下に置くだろうという考えを人々に植え付けるのは、アーリマン勢力の巧妙な手口であるさらに、キリストの代わりに人工知能を崇拝することは、この時点ですでに、いかにアーリマン勢力が強く働いているかを明確に示している

 

迫り来る人類の分化

 ルドルフ・シュタイナーによれば、第三千年紀の初めには、実際にアーリマンの肉体的な受肉が現れるという。カール・シュテッグマンはすでに1991年にこう書いている。「来るべきアーリマンの受肉では、アーリマンや彼に従う者たちが長い間思い描いていながら達成できなかったことが可能になる。地上の肉体に転生した存在として、彼は地球思考を人間の脳から独立させることに成功し、人間がそれを死後の世界へ持っていくことができるようになる。何世紀にもわたって、アーリマンはこれを目指してきたし、彼自身の努力によって、それは部分的に可能になるであろう。アーリマンに従う人間は、死後も思考を維持することができるようになり、思考能力だけでなく記憶力も維持できるようになるとされている。自分の努力で得た知識を持ち帰り、それをさらに発展させることができる。そうすると、たとえ肉体がなくなっても、地上の自己意識を維持できる状態になる。それは、実際の自我の意識ではなく、限定された地球エーテル意識であるこれらの人間は、自由な「自我」を展開することができず、代わりに意識的に考える集団的な存在となり、アーリマンの道具となるのだ彼らは、地上の人間に影響を与え、世界を破壊する力を生み出す上で、これまでの死者よりもはるかに強力な存在となる。さらにアーリマンは、地球上の非合法な月、金星、水星存在達を通して、地球エーテルだけからなる新しいエーテル体を人間に植え付けることに成功する。このエーテル体は、[死に際して]伴われる、意志を失った地球の思考を担い、死後の記憶と新しい自己認識を担うことになる。これらすべてによって、人間が死の敷居をまたぐとき、ダブルが人間の中にとどまることが可能になるだ。もはや、[アーリマン]のダブルは意識の解消に脅かされることはなく、死後の地上の意識が宇宙の意識に変わることによって、彼らにとって危険となりうる進路に引きずられることはないのだ。ダブルは、地上的になったエーテル体に、地上の思考にとどまることしかできない。そして、地球とその勢力と一体化したまま、死者の地球指向の思考と行動を強化することができるのだ。

 地球上でアーリマンの目標を追求する上で主導的な役割を果たす人間、たとえば、古代カルトのオカルト集団に関与する人間は、アーリマンの不死を自ら獲得する最初の存在となる」14。

 「デジタル・ダブル」の形成は、多くの人類がこの「アーリマン的不死性」の一部となることができる「説得力のある方法」となるのではないだろうか?したがって、人類の分裂はすでに準備されている、あるいはすでに大規模に進行していると考えることもできる。しかし、それは非常に異なった仕方で認識されている。

 

時代の必然としての霊的科学

 ルドルフ・シュタイナーは、アトランティス以後5番目の文化的エポックに入りつつある霊性、つまり、より大きな災害を避けるためには人類が取り入れるべき霊性について、何度も何度も語っている。

 

 「人間が、やって来る霊的高波を拒絶した場合に起こる災難は、他のどんな災難よりも大きいだろう。人類の発展に関わる世界のすべての霊に対する私たちの真の義務は、今日、世界の発展の現在の法則によって、ただ無意識のうちにすべての人の魂の中で必然的に起こっていることを、人間に知らせることである。意識魂の時代には、これを意識化することが本当に必要なのだ。今日、社会的な要求として非常に強力に現れていることに関連して、今日、人間の魂の中で実際に何が起こっているのかを知ることも必要なのだ。外に向かっては、存在はますます仮面のようになり、単なる現象としての性格を強めているからだ。今日の自分の魂の体験の中で、「境域の守護者」のそばを通ることは十分にあり得ることだが、今日蔓延している唯物論のために、人はその意識を抑えてしまっている。しかし、抑圧されたもの、意識化されなかったものは、存在しないわけではなく、やはりそこにある。人は「境域の守護者」の前を通り過ぎるが、現在の時代の性質によって、その経験を抑圧している。そのとき、その体験はどのように表現され、どのような形をとるか、まったく異なるものになりうる。それはレーニンの行動かもしれないし、スパルタクス団の行為かもしれない[それは「コロナの危機」(C.T.)かもしれない]。私たちは、物質主義の欺瞞的な衝動を通して、ある種の霊的な衝動を通り過ぎることで、最悪の形で人類を危険にさらす形で外見上覆い隠すことができる時代に到達したことを、今のうちに自覚し、注意深くならなければならない。

 時代は非常に深刻である。しかし、真の精神科学によって霊的世界から引き出されるものを、自分の健全な人間的理解力をもって解釈しようとする誠実な意志があるだけで、この深刻な時代を本当に理解することができるのだ。」15。

  クリステル・トラウト  Ütteroda(ドイツ)在住

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 文中に出てくるカール・シュテッグマン Carl Stegmann氏の本は、”もうひとつのアメリカDas Andere Amerika"というドイツ語の本であるが、実は、これは、若い頃に購入していて、途中で読むのを挫折していた本であった。アーリマンが受肉する場所として多くの人智学者はアメリカを想定しており、確かに、この本にもアーリマンの記述があったので気になっていたのだが、今回思いがけずそいったん一端をを知ることができた。Stegmann氏は、アントロウィキによれば、1897年3月15日にキール(ドイツ)で生まれ、1996年2月†16日にニーフェルン・エッシェルブロン(ドイツ)で亡くなった、人智学系のキリスト教団体、キリスト者共同体の共同創設者・牧師ということである。

 エーテル体の「地上化」「硬化」は死後の人の魂を地上に結びつけるというのは、『コロナ・ワクチンー霊的観点から 魂と霊、そして死後の生への影響』でThomas Mayer氏がまさにコロナ・ワクチンの作用として語っていたことである。本文にあるように、人類の分化は遠い先の未来であるが、その準備が既に始まっているのかもしれない。コロナ・ワクチンは、そのための物理的な手段(その効果は人の魂や霊に及ぶと思われる)の一つなのだろうか。

 唯物論が栄える現在、どれだけの人間が「善の種族」に加わることができるのだろうか。それはいうまでもなく、この世界(地球)そのものの未来に直結する。シュタイナーによれば、「悪の種族」も最終的には救済されるようだが、地球が本来の進化の道から離れることがないとは言い切れないだろう。
 今、多くの人が、過剰な情報の中で、むしろ盲目となっている。真実を見極める努力が必要だ。自分の頭で考えることである。それを怠れば、ダブルやアーリマンの思うつぼになるのである。

星座の秘教的起源 ②

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 前回に続きローランド・シュラップ氏の『獣帯の力の人類の文化史への影響』から紹介する。

 地球には、宇宙から12の形成力が送られてくる。宇宙を古代の人々が見たとき、天界にはその力を表すイメージが浮かんだのである。しかし、それらを見ることができる霊視力は、時代と共に次第に薄れていった。そのようなことから、それらの力がそれぞれどの方角から来るかを示す目印として星座(獣帯の12宮)は生まれた。

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イメージの色あせ

 原ペルシャ文化の双子宮の時代の後に、金牛宮の時代が続く。紀元前2907年以来、春分点の太陽は、2160年間にわたり、原始の人間の魂に、その力が雄牛のイメージで現れる天界の方角の前に現れた。それに相対するイメージは、大きな鷲のような鳥であった。雄牛の時代が進む中で、鷲は、ハゲタカ、死の鳥へと変容し、更に後には、死をもたらすサソリとなった。人々に、天界のその方角から、霊と死後の生命の力が、それと向き合っている雄牛の領域から、物質と地上の生命の力が流れ込んだ。アンク、エジプトの取っ手付き十字生命の力の最も重要なシンボルとなり、人々は、天界の雄牛を神的アピスとして崇拝した。壁画は、いかに太陽がその光線により地上の存在に生命を送っているかを示している。

 同時に、外界に一層向き合うようになるにつれ、古代の霊視能力は薄れていった。魂的・霊的世界での生まれる前と死後の存在については知られていたが、そのような感覚は著しく不明瞭になり、影のようになっていった。死後の生活への不安から、贅沢な死者崇拝が生まれた。密儀所で修練したごくわずかな人間だけが、天界の様々な方角を見て、そこに内的なイメージを体験することができた。それが、後世、12の獣帯のイメージとして伝わったのである。

 その後、12の力の方角の境界について知識を保つために、天界に目に見える印を置くようになった。この目的のために、天界の太陽の道の近くにある、すべての人が物質的に見ることができる星々が、12のグループ、元々の霊視により見られたイメージの名で今日も呼ぶことのできる12の星座にまとめられたのである。シュタイナーは、これらは、当時、獣帯のイメージの空間及び力の領域を示しておらず、すべての星座は、イマジネーションで見られた二つの獣帯のイメージの境界がある方向だけを伝えていた、と語っている。

 「我々の見える世界は分割できることを知らなければならない。当該の領域はただこの分割の印にすぎない。獣帯の当該の星座は、ただその方向で空間を区切る印であるとみるべきである。」

 従って、星座は大きく広がりのあるマークなので、境界は、伝統的な占星術が見なしているように、物質的に見ることのできる星座の間にあるのではなく、その内側の領域のどこかにあるのである。この知識は後に失われた。占星術天文学が発展するにつれて、様々な、霊視的、イマジネーション的に見られた獣帯のイメージあるいはエーテル的力の領域の間の境界は、物質的に見ることのできる星座の境界と同じであるという理解が造られていった。その際、境界が必ずしも明確でないという問題が生まれた。目に見える星座のいくつかは、その前後のものの領域に入り込んでおり、オーバラップしているからである。

 二つの要素が合わさって、ついに、本来のエーテル的な力の領域の空間における場所の設定がずらされることとなった。既に古代ギリシア天文学において、それらは、天体のグループ、獣帯の印と一致しなくなった。

 

古代ギリシア天文学

 紀元前747年、春分点は後方に移動し、その方角を見ると、以前の人間の魂には、子羊、雄牛のイメージが浮かんだ力の領域に入った。そのような天界のイメージを見ることができる能力は、既に雄牛の時代が経過する中で広く失われていった。しかしこのイメージについての知識はまだ生き生きとしていた。新しい時代にも記憶が保たれたのである。文明の要素となったのである。人は、意識の中で、以前よりも強く、自分を取り巻く世界から自分を区別するようになった。

 巨蟹宮の方角からの力が、人の注意を、自分の魂的内面世界に向けさせた。双子宮からの力により、人は、外的物質世界を、まだ生き生きとしていた魂的霊的内面世界と同じような強さで知覚できるようになった。エジプト・カルデア時代の人間にとって、外界の知覚が、薄れ行く魂の内面のイメージより優勢となっていた。

 雄牛という地の印の力の影響の下で、人々は、地の本質を好むことを学んだ。すべての土地が測量され、石により巨大な建造物が建設された。原ペルシア文明の天界の教えが伝えられたバビロンでも、聖書でバビロンの塔として語られるような、巨大な石造りの物見の塔が建造された。関心が持たれたのは、何よりも世界と民族の共同体についてであり、個々人についてではなかった。

 春分点が新しい天界の方角に移ったとき、ようやく個々人の注意は自分自身に向けられるようになった。今や、始めて個人及び自我の意識が発展した。しかし、人は宇宙、魂的・霊的世界から地上にやってきており、人間の形姿は、12の天界の方角からの力の調和のとれた作用によりできているという記憶は保持された。個人の人格の外的表現としての身体は、関心の中心となった。

 シュタイナーは、次のように解説している。

 「古い雄羊の像を見ると、それは、自然のままの物質的な表現ではないことに気づく。それの特徴的なのは、常に、雄羊が振り返っていることであり、その姿勢がポイントである。この振り返りは、人が自分自身を振り返ること、自分の内に生きている宇宙へのこの振り返りの内に置かれている。雄羊を、単に、ありのままに物質的に見ていたのではない。その姿を写したのではなく、振り返るという身振りが重要なのである。」

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霊視的に見られた白羊宮に対するシュタイナーのスケッチ


 「太陽が雄羊の星座に移ったとき、民族の伝説と神話においても、雄羊は重要なものとなった。イアソンは、コルキスから羊毛[黄金の羊毛]を持ってきた。イエス・キリスト自身が、自身を神の子羊と呼び、キリスト教の最初期には、彼は、象徴的に十字架の足下の子羊として描かれた。

 更にキリストは、子羊つまり雄羊時代の人間を導く牧者として描かれた。同時に、彼は、人間が個人の不正な行いにより引き起こしたものすべてに均衡をもたらす救世主として体験された。人々は今やまた、自己の行為を振り返り、公教のいかに益したかあるいは害を与えたかを検分することにより自己判断する能力を発展させなければならない。この十分に吟味する能力は、天界の、雄羊のイメージの領域に正確に相対して存在している、あの空間領域から人に流れてきている。それは、前時代の人の魂に、天秤というイマジネーション像で現れている。そこで、次第に良心が、内面の声として現れてきたのである。良心を表す言葉は、雄羊時代になり、ギリシア語において始めて存在するようになったのである。

 「詩芸術においてどのようにして良心が獲得されたかについて、まさにつかみ取ることができる。偉大な詩人、アイスキュロス[bc525-456]は、まだ良心について語っていないが、エウリピデス[bc480-406]は、既に語っている。これを見ると、人間の思考、地上の知がなぜ良心という概念にゆっくりと至ったかを理解することができる。ギリシア人において働いていた力は、古代世界においても働いていたが、そこでは、人の行為の結果を示すイメージは霊私的な観照に現れていたのである。」

 復讐をするフリア(復讐の女神)のイメージの代わりに、今や、良心が現れたのである。しかし天秤座の力は、人間の姿を最高に美しく調和のとれたものにする力を人間に与えた。古代エジプト、バビロン、カルデアの硬直した人物彫刻に対して、ギリシアのそれはとても生き生きとしまた自然である。それに対して、魂の霊的観照により得られた、宇宙と12の天界の方角からの力についての、最初はまだ生命を持っていた知識は、単なる伝承へと固まった。

 紀元前2世紀に、プトレマイオス天文学の著作を著わしたとき、エーテル的な獣帯のイメージをイマジネーションとして見ることはもはやできなくなっていた。観照の代わりに、悟性的な世界把握が出現した。そこで、ギリシア・ローマ文明には、もともとイマジネーション的観照に基づいていたイメージや伝承に悟性を貫き、抽象的な形に加工することが課題となった。人は、次のものとして、悟性魂を発展させなければならなかった。

 プトレマイオスは、彼の数百年前になくなっていたニケアのヒッパルコス(BC190-120)のの書物を基礎とした。ヒッパルコスは、明らかに、包括的な星のカタログを作成した最初のギリシア人である。ギリシア人は、紀元前2世紀に初めて学問的な天文学を始めた。このため、彼等は、それぞれの位置を明確に詩、再び見いだせるようにするために、個々の星々を線でつないだ。

 当時既に存在していた伝統に従って、人々は、数千年の間、イマジネーション的に観照されていたイメージを、この観照が不可能になった後に、純粋に思考と悟性に基づく観察により、戯画的な線描に移し替えたのである。その際には、様々な見解があった。例えば、プトレマイオスは、おひつじ座アルファ星の位置についてヒッパルコスとは別の見解を持っていた。

 従って、現代天文学の、古代人は空想的な像を天界に投影したと言う批判は、少なくとも部分的には正しい。しかしそれは、もはやイマジネーション的な獣帯のイメージを直接観照することができなくなった時代についてである。当時、ギリシア人は、獣帯以外の星の集まりに、アンドロメダヘラクレスなどの、自分たちの神話の多くの登場人物を当てはめ、また個々の星にもギリシアの英雄の名を与えた。彼等は、隣り合う明るい星に双子の兄弟、カストルとプルクスの名を与えることにより、本来、イマジネーション的に観照された一組の人間の獣帯のイメージが、ギリシア語のディデュモス(ラテン語ジェミニ)の名を得ることに貢献した。このようにして、古い知識の多くが変えられ、ギシリシア人の表象世界に適合させられたのである。

 春分点の移動に関しては、人々はまだ非常に曖昧であった。ヒッパルコスは、黄道上の星座は真正な恒星ではなく、動くものであると想定した。彼は、春分点は不動であり、代わりに獣帯の星が前に動くので、見かけ上後退すると考えた。

 古代の占星術天文学がひどく不確実なものであったことは明らかである。獣帯のイメージを見る、過去の霊視的な魂の内的観照とそれに加え、これまで過ぎ去った年月の間に、いかに春分点が獣帯の星座を逆行してきたかという原初の知識が失われていき、当時の占星術天文学には大きな不確実性がもたらされたのである。結局、人々が基づくことができたのは、不完全な伝承と、天界上の移動を説明できない伝統であった。新しい知識が先ず、形成されなければならなかった。

 アルマゲストで、プトレマイオスは、光の弱い魚座のPiピシウムの近くの春分点の位置から出発している。これは、魚と名付けられた星座に数えられるが、プトレマイオスは、黄道上は白羊宮の0°10‘に置いている。彼は、この星が、その黄道上の経度においては、隣の白羊宮の場所にあるとみたのである。黄道上の目に見える物質的星座は、互いにオーバーラップしているから、それは異例なことではなかった。星座は大きさが様々であり、従って、30度の幅のある、伝統的な占星術の獣帯記号(の領域)と全く同じではなかった。

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イマジネーション的に見られた白羊宮(Widder)の領域(双魚宮の領域にまでかかっている)


 シュタイナーによれば、紀元前747年の春の始まりに、太陽は、その力が魂には牡羊座のイメージで見られた天界の領域に現れた。太陽は当時、牡羊座α星、白羊宮の頭の近くで登ったのである。つまり金牛宮0度あるいは白羊宮30度の近くで。従って、この星は、金牛宮と白羊宮の間の天界の目に見える境界のマークとして用いられたのである。プトレマイオスは、牡羊座α星の位置を、アルマゲストで白羊宮10°40‘に置いている。従って、彼は、この星に関して、シュタイナーと20度異なることになる。

 プトレマイオスは、紀元後およそ100年から160年の間生きた。アルマゲストを欠いたのは50年頃とされる。10年早かったとしても、春分点が1度移動するのに72年かかるので、プトレマイオスの生存期間に対しては意味をなさない。紀元前747年の白羊宮の始まりから紀元150年まで、897年ある。この数字を72で割ると、春分点が、雄羊のイマジネーション的観照のイメージにあった白羊宮の初め以来、紀元150年までに後退した度数が得られるそれは、12.4583°である。イマジネーション的観照金牛宮から白羊宮に後退してきたので、この数字を白羊宮の30度から引くと、白羊宮の17.5417,あるいは17°32‘が紀元150年の春分点の位置として得られる。プトレマイオスは、アルマゲストで、この場所に近いπピシウム星とοピシウム星に白羊宮0°10’と0°30‘。を与えた。彼の主張は、シュタイナーに基づく位置と、獣帯の宮の半分以上異なる。シュタイナーによると、白羊宮の耳朶に先行する金牛宮の時代が始まった紀元前2907年の春分点の位置を定めると、当時、春の初めの太陽が、明るく輝くアルデブランあるいはαタウリの上の黄道-物質的な牡牛座の主星-で昇った。この星は、双子宮と金牛宮の力の領域の間の、目に見える境界のマークである。

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アルデブラの上にある春分点の太陽(Sonne)


 それぞれ2160年の歩む春分点の位置を、全獣帯において計算すると、双子宮と巨蟹宮の時代の始まりには、双子座と蟹座の明るい星で、たまたま近いものはない。ギリシア人が、カストルとポラックスと名付けた双子座の最も明るい星は、星座の全く端にあり、蟹座のは全く目立つ明るい星がないのである。

これに対して、隣の獅子座には、明るく輝く獅子座α星がある。紀元前9387年の春分に、その星と一緒に、近接して、太陽が昇った。レグルスは、先行するイマジネーション的獣帯のイメージ、処女宮に対する境界を示した。

 同じように、目立つ星は、人馬宮天蝎宮の境界に明るいアンタレスあるいはさそり座α星が、磨羯宮と人馬宮天蝎宮の境界にいて座ε星、宝瓶宮と磨羯宮の間に、隣接するやぎ座αとβ星、双魚宮宝瓶宮の間にみずがめ座α星がある。明らかにこれらの星は、牡羊座α星と牡牛座α星のように、古い霊視次第に薄れていった、先行するエジプト・バビロニア時代の人々が、獣帯の力の領域の次の領域への移行を印しづけるために用いた、天界の目に見える境界のマークであった。

 乙女座では、天秤宮処女宮の、イマジネーション的天界のイメージと力の領域の境界が、始まりの領域(おとめ座η星の近く)の方にあるのに対して、明るく輝くスピカ(乙女座α星)は、星の集団に終わりの領域の方にある。この集団は非常に長く伸びているので、天秤宮の天界のイメージの天蝎宮に対する境界は、まだ乙女座の領域にある。それは、乙女座ι星の近くにあり、天秤座の集団の最初の星よりスピカの近くなっている。

 双魚宮のイマジネーション的観照のイメージには、先行する白羊宮の力の領域に対する境界のマークとして、あまり目立たない魚座δ星とω星の間にあるとして既に述べた(図4)。2020年に、春分点は、魚座ι星の近くまで動いてきていた。

まとめると、白羊宮、金牛宮獅子宮天蝎宮人馬宮、磨羯宮、宝甁宮は、それぞれ先行する宮との境界のマークとして、明るい星を持っている。双子宮、巨蟹宮処女宮天秤宮双魚宮の力の領域においては、そのようなものはない。7つの明るい星と5つの暗い星があるのである。この関係は、宇宙の光と闇の関係は7:5であるとする秘教の法則に対応する。獣帯においては、また別な方法でそれは表されている。シュタイナーは、次のように語っている。

 

「白羊宮、金牛宮、双子宮、巨蟹宮獅子宮処女宮天秤宮の7つの天界の宮は、明の側にあり、天蝎宮人馬宮、磨羯宮、宝甁宮、双魚宮は暗の側にある。昼と夜である。」

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 上に出てきた、シュタイナーの白羊宮(牡羊)のスケッチに該当する図を探したところ、次のような図が見つかった。

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 この図は、エジプトのプトレマイオス朝時代のデンデラ・ハトホル神殿の天体図(紀元前50年頃)のスケッチである。近藤二郎氏の『星座の起源』によると、黄道12宮の起源は、古代メソポタミアに遡るらしく、この天体図はその伝統をも継承して作成されているという。
 右中央付近の1番の番号がふられている羊の絵がそれである。名称はHIRED MAN(雇われた男)となっている。近藤氏によると、「ムル・アピン」と呼ばれる粘土文書(新アッシリア時代)では、「雇夫」と記されており、「男」と「羊」を表す語がともにル(LU)と発音することに由来するという。
 この名称はともかく、シュタイナーのいうように、古代には振り返る羊が描かれていたようだ。

 さて、獣帯(黄道)12宮のそれぞれの方角からの影響は、春分点の移動と共に、各時代にそれぞれの影響を与え、その時代を特徴づけている。シュラップ氏は、この本で、更にこうした考察を続けていくのだが、今シリーズはひとまず今回で終わりとし、機会があればまた紹介することにしたい。

 

《お知らせ》

 ご存じのように、本ブログは、現在週3回の更新を目標としてきましたが、事情により、当分の間、更新回数を減らしたいと思います。購読されている皆様には申し訳ありません。
 
 

星座の秘教的起源

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 子どもの頃から星空を見るのは好きだった。といって星座の名前はあまり知らないのだが、昔から不思議に思っていたことがある。星と星を線でつなげて星座ができており、それに対して、その形を表す名前がそれぞれ付いている。星座はどうやって成立したのだろうか。その成り立ちについてよく聞いた説明は、昔、羊飼いが夜空を眺めて空想を膨らませ、当時の神話のイメージをそれに当てはめたのだということである。しかし、星は無数にあり、星と星の結びつけはどのようにでもなる。どうしてこのような結び付きができたのか? 星と星を線で結びつけたその姿も、どのようにも見える。羊であるといっても牛であると言ってもいいではないか。どうして羊がそこになければならないのか? 何となく、納得できないままであった。
 その後、秘教や人智学を勉強し始めて、天界は霊的ヒエラルキーの住処であることがわかった。また人間と宇宙は照応関係にある。きっと、その一つ一つの星座にも秘教的意味があるのだろうと思うようになった。

 今回は、星座(この場合獣帯の12星座あるいは12宮)はどのように成立したのかについてのシュタイナー及び人智学派の説明を紹介したい。
 (私はこの方面も疎いので、誤った解釈があるかもしれないがご勘弁を)

 以前、シュタイナーの学際的宇宙論で、真の太陽系の動きは非常に複雑であることを述べ、それをローランド・シュラップ氏が解明し本を出したと紹介したが、シュラップ氏はこの問題に関する本も出している。以下は、その『獣帯の力の人類の文化史への影響』という本からの引用である。

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獣帯の力の人類の文化史への影響

Der Einfluss der Tierkreiskraefte auf die kulturelle Entwicklung der Menschheit

ローランド・シュラップ ROLAND SCHRAPP

 

  古代から、人類は、獣帯[黄道帯]に沿って並ぶ星座に特別な関心を持っていた。獣帯のイメージは、星空の最も古くから伝承されてきた描写に属する。それはどのように生まれたのだろうか? 古代の人々が、星々を直線で結び、星図にある抽象的な図形を作り、その後に、それに刺激を受けて、空想力豊かに、自然物のイメージで天界を飾ったとするのが、教養ある人間の考えであろう。それが、逆であると言うことはあり得るだろうか。抽象的な図形は、そのイメージから生まれたのであり、イメージが図形から生まれたのではないと。

 以前の人々の魂的生が、現代人のそれと異なっていたと言うことはあり得るだろうか? 以前の人々は本質的にファンタジー豊かで、神々のような霊的存在を信じていたのは、彼らが子どものような空想にふける傾向があったことを示していると、我々は考えている。

 しかし、その様な人々が、ストーへンジやピラミッド、ギリシアの神殿のような、我々が驚く建造物を建造した事実は、議論されていない。当時使うことができた単純な道具で、巨大で幾何学的に正確な建造物がどうやってできたかについて、専門家は未だにその謎を追っているのである。彼らは、現実に疎い空想家ではあり得ない。

 当時の人々は、外界について今日と異なる体験をしていたのではなかろうか? 彼らは、世界とその現象に、物質的感官や抽象的思考だけでなく、魂全体で、より深い心情の力、感情により相対しており、我々が失った知覚を得たのではないだろうか? それは、我々の意識を取り囲む感覚の限界を超えていたのではなかろうか? 一種の霊視? 

 ルドルフ・シュタイナーは次のように語っている。

 

 「今日の天文学が作る単純な図式は、何ももたらさない。宇宙の完全な理解のもと、人間全体をもってこの宇宙に対峙すると、魂の内面に、古い本能的な霊視からイマジネーションが形成されている古い図面に描かれたような、星々の豊かなイメージが生まれる。そして人は、全宇宙のイマジネーションを得るのである。・・・

 今日人々は、本能的な霊視が存在した古代に、いかに人々が世界を眺めていたかを知らない。獣帯の図像から造られたイメージ、様々な図は、ファンタジーから生まれたと考えられている。そうではない。それらは、人々が宇宙に相対したときに、感じられ、観照されたのである。人類の進歩により、それに代わり、理知的な観照が現れてきたのだ。しかし、人は、再び世界についてのその様な観照を獲得しなければならない。それは、しかし、本能的なものではなく、完全な意識を伴ったイマジネーションである。

 その時、人が得るのは、3次元の空間ではなく、ただイメージ的に示すことのできる空間である。直角に交わる3本の線でこの空間を描くと、宇宙の全方向から、表面に力が近づいてきて、外側から、地球の表面にある形あるものに造形的に働くように考えなければならない。

図1 宇宙から働きかける形成力に対するシュタイナーのスケッチ

 そのような見方は、物質的な目で、生き物、特に人間において見られるものから、イマジネーションと呼んだもの-そこでは、物質的人間の代わりに、宇宙が、図像で現れ、人に新しい空間を与える-に移ることにより得られる。」

[シュタイナーの用語では、「イマジネーション」という言葉は一種の超感覚的知覚能力を表す。いわゆる霊視である。]

 この新しい空間を、古代の人々は、3次元に加わる4次元として体験していた。この図像によるイマジネーション的体験は、2次元的である。なぜらなら・・・

 

 「それは、はっきりしない第4のものではない。ある点から、ひっくり返り、4次元は、マイナスの符号を持った3次元となるのである。・・・4次元は、ネガティブな3次元であり、3次元を否定し、空間を本来的に2次元にする。」

 

 この4次元には、宇宙の、造形的エーテル的形成力の他に、我々の感情世界も属する。

 「感情世界は、実際、3次元的に広がっているのではなく、2次元的に広がっている。」

[感情的世界は、人の心魂が活動するアストラル領域である。]

 

 従って、感情を、3次元的外界に向けられた5感で知覚することはできないのだ。魂的なもの、あるいは形成力的なものを知覚するには、魂的感官が必要なのだ。我々は、数千年の時を経て、それをなくしてしまったのだ。

 天界の12の方向から、地球とその住人に様々な力が働きかけている。古代の人々は、古い霊視の力により、この諸力を、感覚(感情)的に区別し、12の2次元のイメージからなる円環の中に内的に体験し、観照したのだ。目に見える12の星座は、空間の12の力の方向の、感じ取られ、イマジネーション的に観照されたイメージの間の境界を示すものとして、後に、用いられたのだ。シュタイナーは、語っている。・・・

 

 「獣帯によりマークされる宇宙空間の部分を目で把握することにより、ただ空間的なもののみを考えてみることにしよう。獣帯の白羊宮、金牛宮・・・の方向に向いて、そこに見上げる天界の方角を扱うのである。見ることのできる宇宙として現れている空間がどのように、区分できるかを先ず見るのである。当該の獣帯の星座は、ただ、我々が空間をどの方角に区分しようとしているかを示す印として示されるのである。

 この方角により区分された空間は、空虚な空間ではない。至る所に力の線、力の方角があるのだ。そしてそれらは、同じではなく、互いに異なったものなのだ。人は、イマジネーション的な魂の体験に昇れるなら、その違いを感じることができる。我々を取り囲む空間は、[一様ではなく]非常に異なった仕方で、我々に働きかけているのである。」

[「境界を示すもの」としての星(星座)については、後に、具体的に説明される。] 

 シュタイナーは、イマジネーションという言葉を、4次元、あるいはエーテル界にある印象(感覚)を可能にする意識段階を示すために使っている。そこには、人が、それに対応して感取できる魂の実質により、イマジネーション的に、即ち、イメージの形で観照することができる、形成力が働いているのである。それは、宇宙の周辺から地球に作用しており、植物相に対して、一年の内に全く異なる特性を与えている。

 12の方角は、植物相に影響を与えるだけでなく、1年の周期に調和して変化する人の魂の魂的感覚(感情)にも作用する。さらには、連続する時代や文化に対して、それらにそれぞれ特有の性格を与えることにより、働きかけている。これには「春分点」が特別な役割を果たしている。毎年春分に太陽がとおる、黄道天の赤道の公転が重要である。反対にあるのが秋分点で、これらは不動なのではない。地軸の回転により、約72年に1度、獣帯を後退していく。春分点の歳差運動である。

 

図2 天の赤道黄道が交わる場所としての春分点 ※

※シュタイナーによれば、太陽と地球、惑星の軌道はレムニスカートである。様々な力が統合されて、楕円軌道が生まれている。この観点からは、春分点秋分点は、太陽と地球の二つのレムニスカート軌道の中間点における天の赤道黄道の交点となる。[この太陽系のレムニスカート運動について、シュラップ氏は別の本で詳述している。]

 

 天界の獣帯のイメージ(星座)の空間と勢力範囲は全周の12分の1、360度のうち30度を占めるので、一つの星座が、後退して先行する星座の勢力範囲に入るまで、太陽は、30×72(太陽が黄道上を1度動く年月)で、2160年を要することとなる。人類にとっては、それは、新しい時代、新しい文化段階の始まりを意味する。

 獣帯をとおる太陽に関心が持たれるようになったのは、いつだろうか。シュタイナーによると、占星術天文学の起源は、紀元前6000年の中頃である。それ以前の時代においては、人間の内面のイメージ的生がまだ強烈で、明瞭で生き生きとしており、代わりに、感覚的知覚は、色あせており、影のようであった。内的に体験された魂的霊的体験が現実で、外的世界は、ただの見かけ、マーヤ(幻影)であった。当時、春分点は、巨蟹宮をとおっていた。当時の人は、全く感情の中で生きていた。最も進んだ人々は、インドで、氷河期の後の最初の文明を築いていた。

 紀元前6000年の中頃に、春分点は、双子宮に移動し、インドから西、歴史以前のペルシアで、外界が始めて評価されるようになり始めた。物質的外界と魂的霊的内界が、二元的に相対するようになった。人の体験は二元的になり、光と闇、日中と夜、過去と未来がテーマとなり、文明の指導者がそれを指導した。大地と天も、二元的に体験された。当時、太陽が春分の時にそこにあった天界の方角から、人間の地上の姿のイメージを魂の中に生じさせ、それも男と女という二様の仕方で、一対の人間として示す力が働いた。この星座の、後に「双子」と呼ばれた、本源的な描写は、中世まで保持された。

アトランティス文明の滅亡後、人類の文明はインドから再び始まる。次がペルシアであるが、これらの歴史的資料は残っておらず、いわゆる歴史上のインダス文明やペルシア文明とは別のものである(その先祖といえる)。]

 天界の反対の方角からは、天界を故郷とする、魂的霊的人間の内的イメージを、弓と矢をもったケンタウルスの姿で呼び起こす力が働いた。それは、後に、射手とよばれた。その下半身は、人間の魂の中の、大地と闇の神であるアーリマンを示す。上半身は、光と天界の神、アフラ・マズダあるいはオルムズドの影響を表現している。アフラ・マズダの外的表現は、天の星に見ることができるので、この時代の最も偉大な指導者、最初のゾロアスターは、最初の天文学を創始した。

 

ゾロアスターは、感覚世界の背後に、絵文字を見ていた-特に、天界の宇宙空間にある星々はグループにわかれてそのようになると。紙の上に文字があるように、星界として周囲に広がるものの中に、霊界から我々に語りかける文字を見ていた。そして、霊界や、星々の秩序により我々に与えられる印に精通し、神霊達がいかに外界の空間に創造行為を書き込んでいるかを読み解き、解釈する技術が生じた。」

[ここにいうゾロアスターは、やはり現在その名で考えられている歴史上の人物ではない。彼は、幾度も転生を繰り返し、人類を指導してきた霊的指導者であり、いわばその最初期のゾロアスターである。]

 彼らに最も重要だったのは、世界に被造物を創り出したアフラ・マズダであり、アフラ・マズダは、天界に見かけのものとして円環を描いた。この円環は、アフラ・マズダが、全世界においてどのように働いているかを人々に示すために置いた絵文字の言葉である。それは、獣帯、黄道12宮、自分自身に戻っていく時の表現である。時の一つの枝は未来に向かい、もう一つの枝は過去に向かう。後に獣帯となったのは、ザルアナ・アカラナである。

 

[ザルアナ・アカラナ:Zaruana Akarana(ZeruaneAkareneまたはZurvanAkarano 、「無限または創造されていない時間」)は、両性具有の原始神としてズルヴァン(ペルシャ語のズルワン、アヴェスタン:zrvan「時間」から)とも呼ばれ、特にズルヴァン教で受け継がれてきたように、後のペルシャ神話によると、創造されていない時間であり、同時に至高で最も原始的な神で。ズルヴァンはしばしば、ライオンの頭と翼と蛇を足に巻きつけたひげを生やした男として描かれている。ズルヴァンの子供たちは双子の光の神アフラ・マツダと闇の霊アーリマンである。アーリマンは長子に支配権が落ちると考え、早産を強要したが、ズルヴァンは彼の犠牲を拒み、アフラ・マツダは天の王に昇進した。しかし、アーリマンは冥界に追放され、そこで9000年間大蛇として支配した。黄道帯はザルアナ・アカラナの外的の表現である。12の霊的力、アムシャスパンドはその中で働き、そのうちの7つは光の側に傾き、5つは暗い側に傾いている。一緒に彼らは[人の]頭の12の神経対の附属物を形成する。【アントロウィキ】]

 

 それは、光の神霊、オルムズドが描いた、自分の中に自身を見いだす時の線である。獣帯の星座をとおる太陽の軌道は、オルムズドの活動の表現であり、ザルアナ・アカラナは、獣帯に自分のシンボルを持っている。基本的に、オルムズドとアフラ・マズダがそうであるように、ザルアナ・アカラナと獣帯は同じ言葉である。「獣帯を通る」ということには、二重のものが織り込まれている。一つは、日中における太陽の運行で、夏に完全な光の力を送っている。そこには、オルムズドの光の領域から、霊的力も流れている。日中や夏にオルムズドが通る獣帯のこの部分は、アーリマンに邪魔されずに働いていることを示している。これに対して、地平線の下にある獣帯の星座は、アーリマンが通る闇の国を象徴している。」

 

 それぞれの惑星領域は、ある霊的存在のグループが滞在している領域である。この地球中心的世界像は、プトレマイオスに引き継がれ、更に理知的に発展した。中世まで維持されたが、16世紀にコペルニクスの太陽中心の世界像により次第に解体されていった。一定の期間、ただ物質的世界に向き合うという使命が人類に課せられたからである。それにより、強い自己意識を発展させる可能性が与えられたのである。

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 以上が今回紹介する星座の起源の説明の前半部分である。
 地球とその生き物には、宇宙から「形成力」が働きかけている。それが来る方向は、12の方角に分割できる。星座とは、その方角を示す印、マークとして始まったのである。星座の示すイメージは当然、その力の性質を表現するものであろう。

 星座のイメージは、ある時、誰かが思いつきで恣意的に定めたのではない。そうなる必然性のもとに定められたのだ。

 後半は次回で。