k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

全ての祭儀統一のための神殿


 以前、ソロヴィヨフのアンチキリストの予言と現代の状況を比較している本(「ソロヴィヨフのアンチキリスト予言と現在の世界情勢 ①」)を紹介した。現われている現象の底流にある本質を見ると、現代社会は、彼により予言された社会に近づいているというのである。

 今回は、そのインゴ・ホッペIngo Hoppe氏の著書『アンチキリストの短編物語』から、国連とスピリチュアルな運動との関連を語った部分を紹介する。

 

 さて、現代のスピリチュアルな運動の中に、チャネリングというものがある。これは、降霊術の現代版のようなものであるが、そこに出現するのは、霊的な存在だけでなく、宇宙人であったり、「別次元」の存在であったりするようだ。これまで特にこれについて学んだこともなく、詳しくは知らないので、全否定するつもりはないが、シュタイナーは、降霊術のようなものはあまり評価していなかった。そこに出てくる存在が「真正の霊的存在」とは限らず、悪意をもった存在である可能性があり、それを見極めるには正しい霊的認識が必要であるが、参加者は必ずしもそのような認識を持っていないからである。

 現代において、その一般的評価は、「スピリチュアル」な一種の「オカルト」というのが一般的評価だと思うのだが、この本で初めて知り驚いたことに(読者の中には既に知っていた方がおられるかもしれないが)、このチャネリングが国連で行なわれていたというのである。

 どうも、国連とスピリチュアルは相性が良いようなのだ。
 かつては世界平和の理想を追求する全人類のための組織というイメージがあった国連も、しだいに欧米の御用機関の性格が見えだし、今では、それが隠しようもない状況となっているが、これまでの記事からもわかるように、そもそもその創立から闇に包まれている組織であるようだ。もともと闇の霊との相性がいいのかもしれない。

 一方、ソロヴィヨフのアンチキリストの予言では、アンチキリストは、偽予言者を従えたヨーロッパ皇帝なのだが、世界の宗教を統一して、その権威をもまとった世界皇帝たらんする。政治と精神界の両方に君臨する、世界を統一する「神権政治」の頂点に座ることを目指しているのである。

 現実的には、世界中の宗教間の融和を図ろうとする運動は存在する。キリスト教界では、教派を超えた結束を目指す「エキュメニズム」運動があり、更にキリスト教以外の宗教を含む「世界宗教者平和会議」という組織も存在する。

 最近は、クリスラムCHrislamという言葉も出てきているようだ。キリスト教イスラム教を融和させる試みのようだが、このような運動については、今のヴァチカンの教皇も積極的なようで、「陰謀論界隈」では、「世界統一宗教」に向けた動きとする指摘もあるようである。

 ちなみに、今、「世界宗教、統一」などとネットで検索すると「統一教会」がヒットする。まさにこの宗教も諸宗教の統一を目指してそのようなネーミングをしていたのだろうか。不気味である。

 以下の文章では、主にスピリチュアルな運動との関連が語られているのだが、宗教の統一への志向など国連の隠れた一面が分かる記述である。

  なお、表題にある「祭儀」の原文は、ドイツ語のKultで、英語ではCultと同じ言葉である。最近日本でも使われる「カルト」なのだが、ドイツ語の辞書では、祭式、礼拝、儀式等とある。英語のCultには、辞書によれば宗派という意味もあるので、宗派や宗教としてもよいのだろうが、原文尊重で祭儀とした。

 

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全祭儀統一のための寺院

「私たちは、これを空の祭壇とみなすことができる。それは(存在する)神がいないからではなく、人が多くの名前と多くの形態で崇拝する神に捧げられているからだ。」

ダグ・ハマーショルド(訳注)

(訳注)スウェーデンの政治家、外交官。第2代国際連合事務総長(任期:1953年4月10日 - 1961年9月18日)。

 

 (シュリ・)チンモイの宗教を超えた平和の瞑想は、ニューヨークの国連本部のカルト的な瞑想室で行われた。ソロヴィエフの「全祭儀統一のための寺院」との比較は難しいかもしれないが、事実としては十分可能である。少なくとも、これが有名なハマーショルドの伝記作家で世界連邦主義者のステファン・モーグル=スタデルのテーゼである」。ハマーショルドは、国連の瞑想室のデザインを一新し、国連に代表されるすべての宗教の聖遺物を取り除き、代わりに宗教間の中立的なデザイン、すなわちすべての宗教に統一された形を選択したのである。これは、正当化できる行為だ。しかし、ニューエイジを代表する秘教主義者たちが、それまでの宗教の多元性を捨て、新たな統一を志向していることにも対応している。ハマーショルドは、このような意図を共有していなかったかもしれないが、彼の行動は、このような流れにうまく合致していた。

 

 1995年以降、ニューヨークの国連本部では、S.E.A.T.(Society for Enlightenment & Transformation)の枠組みで、特にカリスマのリー・キャロルを媒体としたチャネリングが定期的に行われていることも、スピリチュアルと国連の相互作用を示す兆候の一つである。グロテスクに見えるかもしれないが、このチャネリングの記録には、チャネリングされた存在であるクライオンギリシャ語で寒さの意)が、「私はあなた達を歓迎する。愛する者達よ、私は、磁気サービスのクライオン」と自己紹介しているが、冗談ではなく、このように書かれている。このクライオンのその後の講演(例えば2007年3月2日)では、これらのチャネリングを通して話しているのは神自身に他ならないことを聴衆に明らかにしている(ウォルシュと同様)。そして、クライオンはエネルギー秘教の原理を最も極端な形で表現していることが明らかになる。この「磁気サービスの神」は、「エネルギー」という言葉を好んで使う。また、世界平和と世界食糧の確保という国連の重要な任務を賛美している。

 ソロヴィエフの説明で、私たちは、似たような考えに出会う。世界平和と世界食糧は地球政府によって実現される、と言っているのである。これらの目標を達成するために、他のもっと分散した方法があるかもしれないことは、テーマとならない。地球規模の問題を解決するためには、中央の組織で解決しなければならないという考え方は、明らかに多くの人にとって感動的なものである。多くの秘教主義者は、これが唯一の解決策だと考えている。

 「すべての国は、自国の財産と必要性の目録を作成し、国連に提出するよう求められるだろう。すべての商品・製品を移管する必要がある。これを受け入れるかどうかは、私たち次第だと言っているのだ。何も押し付けられることはない。しかし、ヒエラルキーとキリストは、世界の生産物を信託として国連組織に引き渡し、どの国も何も所有しないようにすることを進言することだろう。そうすれば、すべてのものが必要性に応じて全人類に分配されるだろう。」(ベンジャミン・クレーム)

 このビジョンをシュタイナーの社会的有機体の三分節の考え方と比較すれば 、ここにあるものがいかに根本的に対照的であるかは明らかであろう。クレームは国家の一元的な概念を提唱しているが、シュタイナーの視点からすれば、それはユートピア的であり、自由と敵対するものと見なさざるを得ない。元国連事務次長で「グローバル教育の父」と呼ばれるロバート・ミュラーの教育計画も同様で、全世界に適用されるはずの「グローバル・コア・カリキュラム」が作成されている。これは、シュタイナーの自由な精神生活の概念(および西洋教育文化の個人主義的自己理解)と根本的に矛盾しており、それによると、具体的な状況や教育的見解に応じて、どのカリキュラムを正しいと考えるかは、個々の専門家自身に委ねられなければならないのである。 社会三分節の観点からすると、選ばれた司祭カーストのイニシエーターが、世界的に活動する普遍的国家としての国連によって、世界の統一と食糧の一般帝国を発足させようとしている事実は、危険な形のユートピアとメシア的妄想を示している。

 ソロヴィエフは、そのような願望が完全に実を結ぶとどうなるかを、物語の中ではっきりと示している。このようなイデオロギーに基づく普遍的なユートピアは、20世紀の歴史が示しているように、非常に注意深く受け止めなければならない。したがって、このような方向性を持つ秘教主義者が国連で影響力を増していることは決して無関係ではない。

 (エネルギー)秘教家が長い間、国連へのアクセスを求め、それがかなりの程度まで認められていることは前述したとおりである。主要な秘教主義者が世界政府の樹立を支持するだけでなく、積極的にそれを提唱していることも同様に明らかである。

 例えば、ミュラーは国連事務次長として40年間(!)、国連における宗教の代表性、特にニューエイジ運動の強化に取り組んできたことはよく知られているが、彼らが国連の高いポストを占めている場合は特に重要である。神権政治のようなビジョンを『世界の再創造』という本の中で述べている。グローバル・スピリチュアリティに向けて このビジョンでは、「10月24日の『国連デー』を個人が祝うべき」と述べている。「国連の旗を掲げるべきだ。国連のために祈るべきだ。 そして、宗教者は「国連の活動と目標に積極的に関心を持ち、すべての礼拝所に国連の旗を掲げるべきである。」

 国連とキリストの関係について、ミュラーは語る。「国連の高層ビルをノックして入口を求めるキリストの有名な絵があります。私はよく、もう一つの[キリストの体としての国連]という絵を想像します。」「神聖な機関」の自己理解について、これ以上極端なケースはないだろう。世界政治と世界宗教の間の神政的共生が完璧に見えるが、ミュラーの目標の構想では、制度的巨大化という徹底的に懸念される程度に達しているのである。

 

 同じような思想家は、世界の発展が最終的に神権政治のような世界政府をもたらすと確信し、熱狂している人が多い。「キリストは、相互接続されたラジオとテレビ局を通じて、すべての人々に同時に語りかけるだろう。そして、全人類を同時に精神的にシャドーイングすることで、人はあらゆる人とテレパシーのようなラポールを結ぶ」(ベンジャミン・クレーム)のだ。これは、ユリ・ゲラーが「テレビを通して視聴者のリビングにポジティブなエネルギーを送り、そのエネルギーを実験に利用する」という行為を彷彿とさせる。クレーム氏によれば、「キリストであるマイトレーヤは、もっと多くのことができるようになる」-彼は、テレビとラジオによって新しい世界宗教(世界政府を含む)を発足させるだろう。

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 神権政治とはそういうものになるのだろうが、著者は、政治が教育や文化を支配することに対して、シュタイナーの社会三分節の思想から批判している。それによれば、健全な精神生活が営まれるには、政治が介入してはならないのだ。

 また文中に、リー・キャロルを媒体とした現われるクライオンというものがでてくる。私もこの文章で初めて知ったのだが、この「エンティティ」が所属する「磁気サービス」とは、「人類の進化と新しいスピリチュアル観を促進するために欠かせない地球の磁気グリッド再構築を担当するグループ」(ウィキペディア)というものらしい。

 我々は既に、磁気がアーリマンと関連することをみてきたが、やはりこの存在の実態は、自ら語っているように、アーリマン的なものなのだろうか。

 ちなみに、「磁気グリッド」というのも面白い言葉で、まだ全然理解はしていないが、地球の各地に存在するエネルギーのスポットのようなものだろうか。つい「エネルギー」という言葉を使ってしまうが、それは物質的エネルギーではないだろう。東洋的には「気」というものに近いと思われる。グリッドとは、人間でいえば経穴、ツボのようなものと想像される。これを磁気と呼ぶのは、確かにそぐわないとは思うのである。

 

 陰謀論とされているようだが、クリスラムの動きは気になるところである。今のヴァチカンの教皇にも色々噂があり、ヴァチカンのこれまでの教えを自ら否定するような姿勢も指摘されているからである。この問題も、いずれ研究してみたいと思っている。

ギョベクリ・テペとアトランティスの双子

ギョベクリ・テぺの遺跡

 「形態形成場理論はエーテル界を説明するか?」でルパート・シェルドレイク氏の説を紹介したが、氏のこの「形態形成場説」は、科学に新たな視点を与えるものである。一種のパラダイムシフトとも言えるものであろう。

 しかし、現代主流の唯物主義的科学界からは評判が悪く、排斥されており、現に、ブログで紹介したようにこのようなことをシェルドレイク氏が語った動画がネットから削除されるということがあった。「検閲」が行なわれているらしいのである。

 自然科学における新たな動きと、それに対する攻撃は、人文科学でも見られるようだ。シェルドレイク氏の動画と一緒に、同じ催しで講演したるグラハム・ハンコック氏の動画も削除されていたのである。

 ハンコック氏は、『神々の指紋』等の本の著者で、有史以前の「超古代文明」について研究していることで有名な方である。簡単に言えば、古代文明を生み出したのは、それ以前に存在したアトランティスなどの「超古代文明」であるというものである。

 「超古代文明」と言うと、「トンデモ」の類いに思われがちだが、最近の発掘調査等により、実際に石器時代に高度な文明が存在していることが分かってきており、従来の歴史観の見直しが行なわれようとしているようである。

 それを象徴するのが、トルコの遺跡、「ギョベクリ・テペ」である。この遺跡は、アナトリア南東部、シャンルウルファ(旧名・通称ウルファ、古代名エデッサ)の郊の丘の上に在る新石器時代の遺跡であるが、そこに残された構造物は非常に古く、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられたとされるウィキペディア)。

 「遺跡の建造は陶芸、金属工学はいうに及ばず筆記や車輪の発明よりも早い、紀元前9000年前後に起こったいわゆる新石器革命、すなわち農業と畜産の始まりにも先立っている。にもかかわらずギョベクリ・テペは今まで旧石器時代や先土器新石器Aや先土器新石器Bとは無縁のものと思われていた高度な組織の存在を暗示している。考古学者はあの巨大な柱を採石場から切り出し、遺跡のある100から500メートルを移動させるには500名以上の人手が必要だと見積もっている。・・・これらの事実は社会的地位をもった宗教的指導者たちの存在をほのめかしている。すなわち彼らが作業を監督し、そこで行われた儀式をつかさどったと考えられる。であるならば、遺跡は聖職者階級の発展を示す最古の記録になる。これは中近東のほかの地域で発展したこのような社会階級よりもずいぶんと早い。」

 「ギョベクリ・テペは人間社会の発達の歴史の決定的な段階に対する理解を大きく変える可能性を秘めており、考古学上特に重要な発見と考えられているスタンフォード大学のイアン・ホッダーは『ギョベクリ・テペはすべてを変えてしまう』と述べている。ギョベクリ・テペはモニュメンタルなアーキテクツの建設が必ずしも、これまで考えられてきたように、農耕定住社会に限られたことではなく狩猟採集民にも可能だったということを示している。発掘に携わったクラウス・シュミットが述べるように『神殿から始まり、街が興った』可能性を示している。」

 つまり、ギョベクリ・テペには、従来の狩猟採集の新石器時代のイメージと異なる高度な文明が既に存在していたという事である。狩猟採集から農耕が行なわれるようになり、それに伴い定住、集住が開始されて、やがて都市が形成され、宗教や工芸、経済等の活動が発展していったというのが従来考えられていた人類の文明発展のプロセスが、ここで覆ったのである。

 そしてここで重要なのは、先に引用したクラウス・シュミットの「神殿から始まり、街が興った可能性」が示されていることであろう。これが意味しているのは、先に宗教、祭祀があり、その後に文明が発展したということである。

 これは、シュタイナーらの神秘思想家達の歴史観に合致しているのである。つまり、文明を生み出したのは神官達、更に言えば秘儀参入者であるということである。霊界からの文明の元となるインスピレーションを一般民衆に伝える役割を果たしたのが、秘儀参入者なのだ。歴史を遡るほど、人類と神霊との垣根は低くなるのだが、その仲介役を、文明の教師役を秘儀参入者が担ったのである。

 

 さて、そうした秘儀参入者の一人がゾロアスター教の始祖ゾロアスターである。このことについては、既に「二人の子どもイエス」㉒で、メアリー・セットガスト氏の説に触れるなかで述べている。

 今回は、このメアリー・セットガスト氏のことを調べている内に見つけた興味深い論稿を紹介しよう。これは、前述のグラハム・ハンコック氏のサイトにあったのだが、著者は、アリステア・クームズという方である。実は、メアリー・セットガスト氏の『先史学者プラトン』という本の最新の増補版にギョベクリ・テペに関する論稿をアリステア・クームズ氏が寄稿したというので、検索していたところ出てきたものである。

 クームズ氏は、古代世界で散見される「双子」のシンボルが、アトランティスの双子の王に遡るということを示唆しているようである。双子の王というのは、プラトンの「クリティアス」に出てくるもので、それによれば「アトランティス島の大地から生まれた原住民エウエノルが、妻レウキッペとの間にクレイトという娘を儲け、アトランティスの支配権を得た海神ポセイドンがクレイトと結ばれ、5組の双子が生まれた。初代のアトランティス王 アトラス、スペインのガデイラに面する地域の支配権を与えられたエウメロスことガデイロス、アンペレス、エウアイモン、ムネセウス、アウトクトン、エラシッポス、メストル 、アザエス、ディアプレペスで、彼らが10に分けられたアトランティス帝国各地の王家の先祖となったとされており、王家は神の血筋ということになる」(ウィキ)のである。

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ギョベクリ・テペとアトランティスの双子

アリステア・クームズ著

2015年8月14日発行

 

プラトン新石器時代ロゼッタストーン?〉

 プラトンアトランティス物語ほど、永く続いている神話は少ない。それは、認識の記録として、その詳細や時間枠に対応する発見をきっかけに、記憶の表層に湧き上がる。プラトンの深遠な論文は、純粋なフィクションではなく、先史時代のプリズムとして、幻の島の崩壊を紀元前9,600年という暦の上で描いているのだ。それは、偶然なのか計画されたなのか、気候的な混乱の恒常化と、上メソポタミア(現在のトルコ南東部)の考古学的発見に対して、予言のような意味合いをもって、その意味を伝えている。

 

 プラトンの祖先であるソロンがエジプトの古文書から得たとされる歴史的要素をギリシア語に置き換えた寄せ集めの中で、プラトンの物語で最も注目すべき人類学的細部は、双子、あるいは伝説の島とその周辺を支配した双子の王の家系に関するものである。クレイトとポセイドンの結び付きによって生まれたこの5組の双子の男たちは、半神的な性質が汚され消滅する前は、神々と人間の仲介者であった。

 アトランティスという未知の世界の外では、元素や獣ではなく、人間の崇拝と結びついた双子に関する考え方が、かなり早い段階から存在していた。双子は崇拝されたり恐れられたりしながら、険しい古代の広範な伝統の中に潜在的に存在している。双子の系譜の大部分は、原インド・ヨーロッパ語族の「イエモ」(「双子」)という人物に由来し、ヴェーダの死者の王「ヤマ」、北欧の氷の巨人「ユミル」、黄金時代の王「イーマ」などがこの人物からきている。イエモのあいまいな姿は、古代の神々の母体となり、後の神々や原初の人間達がその地位を継承し、そこから様々な初期の宇宙観が生み出されたのである。

 イエモの「双子」という意味合いは、様々な学者を混乱させ、その本来の意味は先史時代に失われたようだが、原初の人間が二つに分かれた、あるいは分割されたという意味を持っている。イエモの2つの姿に関連するイメージや出来事が、深い凍結の雪解けから立ち上がるというものであることから、その神話に氷河期の背景があるとする説がある。イーマは、厳寒期に地下の囲いから原野に人や牛を連れ出したことで有名である。しかし、牛の肉を人に与えて食べさせ、世界を拡大した行為に関連して、彼は恩寵を失った。農業、動物の家畜化・屠殺の実施、人口の増加などに関連する信憑性のある出来事である。ヴェーダ版のヤマは寒冷期の詳細を検出できるほど保持していないが、2人は最初の祖先と人間の最初の死者として儀式的に一体化されている。しかし、スカンジナビアのユミルは、巨大なウシAuthmulaとともに、溶けた氷の中から確かに姿を現した。ラ・ヴィオレットは、ユミルが氷の中から現れたのは、氷河期以降、寒くて冬の多い北欧から、光と暖かさのある南欧に移動したためだと考えている1。

 同様に、セッテガストは、島の驚異的な描写により光り輝くトピックである、アトランティス物語の戦いと移住を、彼女の調査時点では不可解にも祖先や母体を持たずに発生した肥沃な三日月の高度新石器時代の共同体にまで至る、マドレーヌ文化の統一の分裂に対して、位置づけた。セッテガストは、フランスのラスコーにある後期石器時代の洞窟美術の中にイーマ(イエモ)を発見した。なぜ、人と獣が「双子」とみなされるのか、その理由は後述する

 

〈世界の双子〉

 プラトンを超える古代ギリシアの双子の概念は、彼ら、または彼らのうちの一人は、祭祀や都市の創設者として注目される運命にあり、普通でない方は、母親の死すべき配偶者によってではなく、霊、神、または超自然の祖先によって生み出されたということであった。プラトンアトランティスやその再話以前には、ポセイドンのもう一人の巨人の子、双子のアローダイが思い起こされる。二人の文化的英雄アロアーダイは、ミューズのオリジナルであり、ホメロスが巨人オリオンと比較したが、その後、聖書に登場する巨人たちと同じように悪魔化した。興味深いことに、これと同じような結果が、古くからアイルランドに伝わるイエモに降りかかり、リンカーンは、エマインまたはエモンの「双子」を通じて、キリスト教の悪やサタンの呼称であるドンと同定している3。

また、双子は原初の人類の祖先として、守護者、道案内人、文化的英雄として、大変動や洪水と並行して登場することもある。マヤの双子の英雄フナプとエクスバランケの冒険と活躍は、『ポポル・ブフ』を通じて知ることができる。しかし、オルメカの双子の彫刻や、メキシコのベラクルスで発見されたシャーマンの儀式に描かれたジャガーは、その可能性を示唆している。

 また、アンデスにも双子の神話が見つかっている。オッペンハイマーの全面的な研究の中で、太平洋諸島から東南アジアの水没したスンダ大陸棚まで、広く普及している多面的な双子のテーマであるクラボブとマヌプを出典とし、これらをオシリスとセト、カインとアベルを通じて地中海の兄弟殺し、戦争する兄弟のモチーフと冷静に結び付けている4。また、同じ地域から、巨石建造のミクロネシアの伝説的な創始者が双子の(あるいは兄弟の)魔術師であったと言われていることを思い起こさせる。

アフリカのドゴン族は、双子に関する複雑な分子的伝統を保持しており、生物学的領域と宇宙を結びつけるもので、ノムモは祖先の双子の役割を果たす。ドゴン族は、東アフリカやレバントのオーロックを祖先に持つことを喜ぶのではなく、自分たちの祖先が子宮の象徴である魚であることを喜んでいるのである。ノモの図式は結婚と出産の精巧な儀式に現れている。もし夫婦がノモの完全な性質を反映した双子を産もうと望んだら、次のこととなる。つまり、もし一人の男の子供しか生まれなければ、その子は、胎内か生前の旅の途中で犠牲になった双子の兄弟を失ったと考えられるのである。そして、「ノモ」は「イエモ」と関係があるのだろうか。バンツーや他のアフリカの部族では、双子の誕生は両義的に受け止められていた。双子は神聖でありながら怪物とみなされ、かつての近親相姦や堕落の名残と見なされれば、例外的な不吉の兆候であり、月と結びつけば豊穣の強力な貯蔵庫として扱われた。

 双子の関係は、地域や時代背景によってさまざまに変化する。例えば、オシリスとセト、カインとアベルの間には、先に述べたような著しい対立がある。ロムルスとレムス、そしてローマ建国に関しては、言語学的にイエモの木に遡ることが示唆されており、レムスはイエモスで、ローマと同音異義語になるよう頭文字が変更された可能性がある5。イエモと同様、双子の一方が獣になるという明らかな矛盾は、その双子が二人のうちでより暗いハイド氏であることで答えられるが、常にそうとは限らない。また、シュメールのアヌとダガン、リトアニアの破壊者と創造者の巨人ワンドゥとウェジャ、そしてギルガメッシュとその野生の仲間エンキドゥのように、血のつながりがなくても双子の関係を示唆する神話の組み合わせに存在する傾向もある。

 

 これらの双子が体現するダイナミズムは、二つの肉体に宿る1つの魂、あるいは一つの人格の二重化ということではない。むしろ、彼らは、相反する2つの要素を内包し、理想的なバランスで解決している。双子のうち、暗いほうの双子が女性的であるという考え方もあるかもしれないが、両性とも男性であるため、両性具有とは無縁である。しかし、この中には、文学的な組み合わせ、神話や物語に対称性を持たせるための美的なカップリングのように聞こえるものもある。これが双子のすべてなのだろうか?

 

〈超常現象の双子〉

 双子の誕生は決して珍しいことではないが、古来より、状況によっては非常に吉兆な出来事として、あるいは同様に不吉な出来事として観察されてきた。その文化の性格によっては、双子の片方、あるいは両方が殺されることもあった。双子は吉凶の前兆であるだけでなく、魔法や超能力を持ち、その性質がポジティブまたはネガティブであると見なされていた。現代の専門的な臨床試験においても、医学、法医学、超心理学などの分野で注目されている双子がいる。このようにテレパシーでつながっていることが、古代の伝統的な双子の創始者や支配者のモデル的な性格を説明する一つの理由であり、彼らの統治権はいわば拡張性を持っているのである。

 

〈狩人の丘:石器時代のオリオン座?〉

 ギョベクリ・テペは、石器時代の狩猟小屋、宴会、儀式、バッカス祭りの場所のようなもので、曖昧で喜びに満ちた雰囲気を持つ動物達が見事に描かれた動物園に囲まれている死後の審判の自然主義的なギャラリーをもっている。この遺跡はギザ台地のような畏敬の念をかき立てるものではないかもしれないが、年代的には〈ピラミッドより〉6,000年前のものであり、決して見劣りするものではないのだ。神話の世界と融合したこの歴史の逃亡者の最も顕著な特徴は、それぞれの円環や囲いの中心に整然と立っている双子の柱である。ギョベクリ・テペの建築について、故クラウス・シュミット教授は、「柱」という言葉を便宜上、仮に考えることを勧めている。なぜなら、技術的には柱は屋根の支えを意味するが、この柱はシュミットが比較したエジプトのジェドのように、野外に立つ祭祀用のモニュメントとして理解すべきだからである6。しかし、それ以上に重要なのは、これらの組み立てられたモニュメントが、人間を描くことを目的としているということだ。

 T字型を擬人化したものと見なすのは難しい他のサークルとは異なり、"Enclosure D "と呼ばれる、現在までに発掘された最も古く、逆説的だが最も高さのあるサークルを占める6m近い中心の柱は、ベルト、腰布、装飾品の一種を身に着けている。

図1

 また、肘を曲げた長い腕が下に伸び、へそを掴んでいる。これまでのところ、これらの不明瞭で抽象的な人物は、霊界に半身を置き、半身を外に出しており、いずれも男性であると判断される。それぞれの円環の範囲を定めるように、彼らは土から掘り出され、所定の位置で建てられる前には、精彩を放っていたと思われる。彼らは遺跡の守護者であり、様々な階層の宇宙を仲介するマスター・ビルダーとして登場しており、その強力な存在感を他の場所で見いだすことはできない。それらが体現する、あるいは記念する存在は、どんな行動や行為であれ、これらの人々にとっては非常に重要なものだった。ギョベクリ・テペが埋められて以降、円形ではなく正方形で表現されるようになったネヴァリ・チョリのような他の場所で、類型化されたそれらの姿が見出されるのである。超自然的なものであれ人間的なものであれ、これらの祖先像は、少なくともこのような具体的な存在として社会的記憶から-少なくともこのように具体的な姿では-消え去る前に、何らかの形で建国の英雄的双子像を反映したのであろうか。

 

 図2は、ウルファの少し西にあるガジアンテプに保管されている小さな彫刻で、T字型と同じスタイルの腕が特徴的である。ローマ時代の時間神ヤヌスに少し似たダブルフェイスのデザインから、シミットは、ギョベクリ・テペのT字型はすべて同じように考えるべきなのか、また双子の存在は何らかの遺伝的なものであるのかというような疑問を抱いた。石工が自分の石の上にどのようなアイデアを形づくったのかはわからないが、現在のところ、これは孤立した例である。しかも、双子という概念は、各円の二重のT字型の叙述によって、むしろ満たされているように見える。

図2

 D郭の主役である31柱と18柱(正面左から右へ)の刻印を見ると、両者は同じではないことに気づく。両者ともベルトを着けているが、柱18のベルトには半月とオリオン座の形をしたH記号がちりばめられており、別々のレリーフで繰り返されている。現時点では、このベルトが象徴的なHのロゴの元になっていると思われる。シュメール文明の先駆けとして、この遺跡を慎重に解釈するシムトの方向性に従うと、オリオンはシュメールではシパジアンナ、「アヌの真の羊飼い」として崇められ、めまいを治すために呼び出されることもある星座であったことがわかる。もしこれが星座の天球運動の様子によるものであれば、Hシンボルが「90°倒され」のバリエーションに隣接しているのは、少し興味深いことである。

図3

 さらに、この柱が立つ台座の前面には、隣の柱にはない7羽の鳥の帯が描かれている。この7羽の鳥がどのような鳥であれ、またどのような意味を持つ鳥であれ、柱12の側面で囲いCに交差し、網や網代を背景に、あるいはその中に鳥が描かれていることから、象徴の連続性は稀有なものである。プレアデス星団は、他の天文学でも網や組紐に絡まった7羽の鳥として同様に描かれていることは重要であり、ここでは宇宙を捕らえるハンターの役割があったのではないかと思われる。

 18号柱では、前面の首の部分に納得のいく天文表現が施されており、月の三日月の上にある金星などの惑星と思われるものの上に、手をつないだ2匹の嘴を持つ切り株頭の存在が現れ、双子座の中で2つが重なる吉兆を意味しているようである。この図に付けられた紋章は、死と恍惚と蛇と7の支配者である角のある神オシリスディオニュソスが、どこまで古代の霧の中に遡るかを暗示するものである。

 双子の柱である31番は、対照的に荒々しいが、この不思議なヒューマノイドの性格と彼らの関係をさらに暗示するものである。この双子や他のサークルの中央の双子柱と異なり、柱内側の肘に挟まれた狡猾な狐がない。人物としてのアイデンティティよりも、聖域の柱としての機能を装飾するような集合的な浮彫りということだろう。18号柱はV字型が1つしかないので、前面のV字型が2つあるのは注目に値する。褌とベルト、そしてU字型のバックルの他には、首のブクラニウム(牛の頭蓋骨)が唯一の特徴的なマークである。

 牡牛座は、バーナムが語るように、天の伴侶であるオリオン座と長く曖昧な関係を保ってきた。

 オリオンはヘラクレスのように、ライオンの皮の盾を片腕に高く掲げ、牡牛座の雷のような突撃に立ち向かう姿が描かれている。その赤い目、アルデバランが牡牛座の頭であるV字型のヒアデス群からにらみを利かせている。オリオンと牡牛座の戦いの意味は、古代の伝説では明らかにされていないようだ。純粋に象徴的な解釈としては、この二つの星座が善と悪の永遠の対立を表しているというのが明らかである。7

 宇宙の狩人と彼の兄弟のような獣の対立を定めている神話はないが-神話的には、牡牛座は邪悪というよりも先祖の中で「より暗黒」でありうる-しかし、デ・サンティヤーナは、宇宙遺物の記憶を掘り起こし、驚くべき世界観の中で、この二人の間に戦闘的ではなく協力的な関係を見出した。

 日曜学校の生徒たちは、サムソンが驢馬の顎の骨で1000人のペリシテ人を殺したことを長い間不思議に思っていたに違いない。しかし、その "あご "は天にあるのだ。バビロニア人がヒアデス星団につけた名前で、牡牛座の中に "牡牛の顎 "として配置されていたのである。サムソンよりも古い彼らの創造叙事詩では、マルドゥクがブーメランのような武器として使っている。ボルネオ島のディアク族にも知られている。牡牛がいなかった南米では、"獏の顎 "として再び登場し、大神フンラカン、ハリケーンに関係し、彼は確かにその数千人を殺す方法を知っている。この天空のサムソンの名は、オリオン座、強力な狩人、別名ニムロッドである。彼は中国でも秋の狩りの主である「戦いの神ツアン」として残っているが、ヒアデスはそこでは鳥を捕らえる網に変えられている。カンボジアではオリオン自身が虎の罠となり、ボルネオでは虎がいないため豚で代用され、あらゆる大物がいないポリネシアでは、オリオンが鳥を捕まえる巨大な罠の形をしているのが見受けられる。創造主の英雄マウイは、この罠で太陽の鳥を捕らえた。しかし、鳥を捕らえた後、その鳥を叩き壊した。彼の尊敬する祖母、ムリ・ランガ・ヴェヌアの顎の骨である。8

 このサイクルにギルガメッシュと彼の牛のような仲間エンキドゥを加えることができ、これらの星座的人物に親近性の中にイエモの天界での対応物を思い描かないわけにはいかないだろう。囲いDの守護神も同じようなパターンを反映しているのだろうか。ギョベクリ・テペは、シュメール文明が誕生するはるか以前に、土に埋もれ、忘れ去られていたのだろうか?シュミット氏は、数千年という時間のズレにもかかわらず、ギョベクリ・テペの遺跡がシュメール神話のドゥク山9と関連する文化的記憶を有しているかどうかという問題を、仮説的に提起している。ドゥク山は世界の山、精神世界の軸であり、農業、職人、文明の中心地としてタウルス山脈とザグロス山脈に位置していた可能性が指摘されている。ドゥクにはアヌナ神族が住んでおり、その名は彼らの父王アヌに由来する。アヌの星緯度は、黄道上の牡牛座-プレアデス座を通る「アヌの道」として特定されていたのである。

 

〈星の中の怒れる雄牛〉

 ギョベクリ・テペの建設者たちは、天空とその動きに関心を持っていたようだが、この遺跡は様々な目的で利用されていた。巨石建造物の建設において、天体の位置が重要な要素であったと考えられるなら、建物の種類と見晴らしの良さによって、その位置は開口部の方向で示される傾向がある。南向きの囲み壁が、数千年の間に春分の日にオリオン座、牡牛座、そしてプレアデス座をターゲットにしていた可能性については、別の場所で評価されている10。例えば、春になると鶴がハラン平野を横切って南から飛来し、蛇は地中の隠れた穴から姿を現すのである。しかし、ギョベクリ・テペが生まれた気候的な大混乱の呪縛を見落としてはならない。建築家たちがこの天空と星座に関心を持ち、神経を尖らせて観察した理由はもうひとつある。

 考古学は、彗星、流星、新星など、天文学的な記録として残されているゲスト現象を説明することはできないが、遺跡の目的の背後にある社会学以外の計画や動機を見いだすことを可能にした。このような現象は、もちろん市販のモーションシーケンスプログラムで判断するのは難しい。しかし、天体物理学者ビクター・クルベと天文学者ビル・ネイピアの先駆的な研究により、「宇宙の冬」(1990年)で紹介されたように、状況は変化した、あるいは変化する可能性を持っている。彼らの研究の重要な要素は、より最近の論争の的となった論文「Evidence for an Extraterrestrial Impact 12,900 Years Ago that Contributed to the Megafaunal Extinctions and the Younger Dryas Cooling」(Firestone et al, 2007)で拡大され、原因(超新星)の背景が与えられている。

 私たちは、彗星を、オールトの雲から太陽系に時折飛来する迷子のミサイル、あるいは、運悪く衝突してしまうかもしれない訪問者として認識しているが、クルベ と ネイピアは、Taurids, Perseids, Orionids などの流星群が互いに関連しているだけではなく、実は、約2万年前に太陽系に侵入した巨大彗星の崩壊という宇宙の災難が残したハブキャップであることを発見したのだ。クルベ と ネイピアは、モンスター級の親から生まれた爆発的な子供であるこれらの流星群の軌道を逆算し、そのカオスに時計仕掛けの正確さを多少なりとも見いだした。私たちの地球は、2,000年から4,000年ごとに、これらの彗星雲の最も密集した部分、つまり破片の流れが最も激しく、私たちにとって最も危険な部分を通過しているのだ。この現象は、気候や氷床コアの記録に反映されている。砲撃のディップとピークのチャートを構成することができ、1万6000年前、1万3000年前から9000年前などの初期のピークは、後のピークよりも著しく重い強度であることが認識されている。

 クルベ と ネイピアは、おうし座流星群が特に強力な流れであり、特定の儀式や神話を形成してきたことを強調している。この流星群は現在も活発に活動しているが、かつての輝きは失われ、古代の天文学者がその壮大さと恐ろしさを感じたであろう範囲から外れている。言うまでもなく、クルベとネイピアの計算では、ギョベクリ・テペの建設者は、これらの以前のまばゆい光のショーと、より怒りに満ちた光のピークを目撃していたはずである。実際、「囲い」の制作の間の驚異的な長さのギャップは、それと関係があったのではないかと考える人もいるかもしれない。牡牛座の牡牛を見た者にとっては、この定期的な破片の雨は、怒った天の牡牛から投げつけられた致命的な火球の雨のように見えたことだろう。

 重要なことは、この火の玉が飛び出したおうし座の領域は、エルナートとかに星雲(M1)が先細りになった「角」の後方で、黄道に沿って牡牛座とおひつじ座が出会う場所、つまりプレアデスがある場所だと推定されることである。

ミトラが短剣を牡牛座の「首」に突き刺した正確な天の位置にあり、神官が星の雄牛の血を浴びるタウロボリウムの生贄の儀式で演じられたと思われる天文現象である。この天空の一団は、新石器時代の雄牛信仰とアトランティスの中心的な儀式に新たな側面を加えるだけでなく、ポリネシア、オーストラリア、地中海、そしてアメリカ大陸のプレアデスが、人類の歴史上最も多く洪水と火に関連していた理由を説明する一つの材料にもなっている。

  結局のところ、牡牛座は、若い乾燥期の寒冷化、巨大動物の絶滅、そして世界的な後氷期の洪水を引き起こしたかもしれない放出された彗星の子供たちなのだ。残念ながら、クルベとネイピアは、2000年からそれに続く400年の間、地球の軌道は、この漂う死体雲の濃い部分と再び交差し、その中に潜む破片の大きさは毛穴から都市まで様々で、地球の各地を襲う可能性のある天体の残骸と衝突する軌道をとるという厳しい予測を示しているが、それは、その出来事や事象が起こってから気づくことなのかもしれない。

 ギルガメッシュとエンキドゥが親密な関係にあったことのほか、二人は、天の雄牛、即ち地響きと雷鳴で数千人を飲み込み、ギルガメッシュがイシュタルを怒らせた後に人類を滅ぼすために宇宙から送り込まれた、アヌが鍛えた天空の武器と戦っていることが思い出される。この戦闘はニップルのドゥクで行われたが、それ以前にギョベクリ・テペで二人の対決があったのではないだろうか?

 

〈遠雷〉

 視点を変え、地球の全く別の地域に目を向けて、ショッホは、ギョベクリ・テペのT字型の腹を抱えた姿勢と、はるか彼方のイースター島で同様の姿勢で描かれたモアイ像の外観を大胆に関連付けた11。従来の年代測定表はともかく、手足に彫刻を施した儀式用ポーズを作る石工の選択肢は限られているので、これを否定するのは簡単だが、我々は、時間と空間的に遠く離れたこれらのモニュメントの間に、より深いつながりがなかっただろうかと尋ねたい。イースター島のモアイはアリンガオラと呼ばれ、祖先の霊の一種である「生き写し」として知られている。聖像としての使用は永久ではなく、マナという魔法が入るかどうかにかかっている。そのため、モアイはこの力の媒体として作られた。マナは、年に2回モアイに入り、その後モアイは「生きる」ようになると言われている。

 この非物質的なマナ・エネルギーの最高の源はプレアデス星であり、モアイが作られた玄武岩と火山凝灰岩の材料は、この理由から彼らにちなんでマエア・マタリキと呼ばれた-マエア=石、マタリキ=プレアデス。一方、モアイは「連結する」を意味する。この島のかつての先住民の名前、Mata-Ki-Te-Rani(「天の目」)と呼応する表現である。

 太平洋上の他の場所で見られる、先祖を生者のもとに帰らせる玄武岩の丸太状の「霊石」のように、これらの石は、先祖がもともと天から来たものであることから、はげしい気象現象 を制御できると信じられていたのだ。ギョベクリ・テペの巨石は玄武岩ではなく石灰岩であるが、破壊的な天空から火と硫黄を送り出すという同じような役割を果たしたのであろう。そして、ある種の現象が減少するにつれて、これらのモニュメントの目的もそれに合わせて変化したのではないだろうか?

 ギョベクリ・テペの祭祀的モノリスとして用いられた氷河期から現れた双子のヒューマノイドは、イエモ、プラトンアトランティス王とその他の兄弟姉妹の痕跡を持つのだろうか。もしそうなら、私たちは、石器時代の沈黙の中で無言で立っている、この不可解な人物たちに、どことなく親しみのある声を添えるのである。

〔注〕

1.LaViolette, Paul A. Earth Under Fire: Humanity's Survival of the Last Ice Age. (Rochester, Vt: Bear & Company, 1997) pp146-49.
2.セッテガスト、メアリー プラトン先史時代:神話と考古学の中の紀元前1万年から5000年まで。(Cambridge, Mass: Rotenberg Press 1987) pp106-10.
3 リンカーン、ブルース 死、戦争、犠牲:イデオロギーと実践の研究. (Chicago & London: University of Chicago Press 1991) p35
4 参照、Oppenheimer, Stephen. 東洋のエデン-溺れた東南アジア大陸』(London: Phoenix 1998)。
5 ストーン、アルビー ユミルの肉:北欧の創世神話. (London: Heart of Albion Press 1997) p115
6.Schimdt, Klaus. ギョベクリ・テペ:南東部アナトリア石器時代の聖域』(ベルリン:ex oriente 2012)p125
7.バーナム、ロバート バーナムの天体ハンドブック。宇宙への観察者ガイド。Vol.3 (New York: Dover, 1978) p1289
8.de Santillana, G. The Origins of Scientific Thought. (London: Weidenfeld&Nicolson 1961) pp13-4
9.シムト,クラウス ギョベクリ・テペ:南東部アナトリア石器時代の聖域』(Berlin: ex oriente 2012)pp208-09.
10.参照、クームズ、アリスター。"宇宙の牡牛の信仰:ナブタ・プラヤ、ラスコー、ギョベクリ・テペの世界をつなぐ". Darklore Vol.8 (Brisbane, Australia: Daily Grail Publishing) 2014 に収録されています。
11.Schoch, Robert M.Forgotten Civilisation: The Role of Solar Outbursts in Our Past and Future(忘れられた文明:我々の過去と未来における太陽アウトバーストの役割). (Rochester, Vt: Inner Traditions 2012) pp101-02.

 

ジャンヌ・ダルクの使命 (後半)


 前半に続き、ジャンヌ・ダルクの霊的使命にについて述べているジョーン・M・エドマンズ氏の『ジャンヌ・ダルクの使命』から紹介する。

 エドマンズ氏は、世界史的使命を担ったジャンヌの誕生と死の日付けにまつわる意味を次のように語っている。

 

 ジャンヌ・ダルクが誕生したのは、このような宇宙の大きな出来事を背景にしたもので、霊的魂あるいは意識魂が誕生した年の前の1412年であった。ルドルフ・シュタイナーは、彼女の誕生にまつわる謎についてこう語っている。

「もし魂が『高次の世界の知識はどのようにして達成されるか』で説明されているように意識的にイニシエーションを求めるのではなく、あたかも自然のイニシエーションによってキリストの衝動に浸透されるなら、このプロセスにとって最も好ましい期間は12月25日から1月6日までである......」。人が生まれる前の最後の数日間、彼は母親の子宮の中で夢を見ているような、眠っているような状態で生きている。彼はまだ外の世界で何が起こっているのか、五感で感じていない。もし、その人のカルマが、子宮の中の最後の数日間にキリストのインパルスを受け取るのに特に適しているとしたら、この数日間は自然なイニシエーションの日にもなり得る。キリストの衝動によって強化され、飽和状態にあるそのような人は、1月の6日に生まれなければならないだろう。ジャンヌ・ダルクもその日に生まれた。1月6日に生まれた彼女は、クリスマスからエピファニー[1月6日]までの間、母親の胎内で特異な睡眠状態にあり、そこで自然なイニシエーションを受けたというのが、彼女の特別なミステリーである。さて、私たちが歴史と呼ぶのに慣れている外的な展開を超えた深いつながりを考えてみよう。歴史的に決定的な意味を持つのは、ジャンヌ・ダルクが1月6日にこの世に送り出されたことを示す暦の明白な日付である。このように、超自然的な力は感覚的世界で活発になるのであり、私たちはこの事実を示すオカルト的なサインを読まなければならない。それは、肉体の誕生以前に、オルレアンの乙女にキリストの衝動が、あたかも自然なイニシエーションによってであるかのように、すでに彼女の中に流れ込んでいたことを教えてくれるのである。」

 ルドルフ・シュタイナーはさらに、ジャンヌの誕生前のこの時期に、彼女の魂とアストラル体に彼女の使命を深く印象づけたのは大天使ミカエルであり、人間の生活においてアストラル体が誕生する時期、ジャンヌの場合は12歳から、彼女は初めて透視と霊視の目覚めを経験して、ミカエルの存在に気づいたと説明している。ジャンヌが生まれたこの時期を考えるとき、1年のサイクルの中で、地球がある意味で完全に天と一体となる時期が2つあることがわかる-エミル・ボックが表現したように「地球の魂がその息をころす時」である。聖なる夜、大地が最大限に呼吸し、最も霊的な状態にあるとき、この時、ジャンヌが物質世界に誕生したのだ。そして、この時から彼女の使命が始まるのである。聖夜とは対照的に、真夏の聖ヨハネの祭日[6月24日]は、大地が息を吐き出し、その魂が天に向かう時であり、この時、ジャンヌは、意識的、精神的な目覚めという2度目の「誕生」[物質的な死]を経験することになるのである。

 

 さて、次は現代におけるジャンヌ・ダルク復権の物語である。

 エドマンズ氏は、ジャンヌ・ダルクは、19世紀に再び脚光を浴びるようになったとする。むしろ「19世紀初頭まで、ジャンヌヌ・ダルクの生涯の歴史的な詳細はほとんど知られていなかった。彼女の名前は何世紀にもわたって生き続けてきたが、伝説と神話とが絡み合っていた。」

 それが、19世紀以降、ジャンヌの生涯の詳細が明らかになっていったのである。ジャンヌが有罪宣告を受けた裁判の内容を記した5冊の年代記装飾写本が、19世紀に古文書の中から発見され、この発見からまもなく歴史家たちの手によって、宣誓供述書や異端審問裁判でのラテン語で書かれた有罪宣告書の下敷きとなったフランス語での覚書など、ジャンヌの復権裁判の全記録も見つけ出されたからである。

 エドマンズ氏は、この歴史的意味を次のように記している。

 

 ルドルフ・シュタイナーが語るように、物理的世界に隣接する精神世界で大きな戦いが繰り広げられていた1840年代の初めに、ジャンヌ・ダルクはヨーロッパの意識の前にはっきりと姿を現したのである-大天使ミカエルが彼の敵である力と別の争いをしている時に、ある意味で、ミカエルの僕が世界の視野の中に入って来たのだ。

 この時期にジャンヌ・ダルクの生涯の歴史的事実が明らかになり、私たちが今日生きている時代の先駆者である者についての真実が徐々に知られるようになることは、実に重要な意味を持つのである。19世紀には彼女の人生に対する関心が高まり、その流れは20世紀にも及び、1920年の列聖で最高潮に達した。

 1841年、フランスの著名な学者であるジュール・キシェラは、フランス歴史学会のためにジャンヌに関する膨大な史料を収集し、翻訳した。彼の研究は、「真正文書」として知られるラテン語化された公式の裁判報告書をもとにまとめられたもので、現在でも価値があるが、後のヨハネ学者によって、フランスの様々な公文書館にある文書からかなり拡張されている。一般に、この膨大な証拠とは、まず、ジャンヌの死を招いた「断罪の裁判」と、その後シャルル7世によって起こされた、一審の冤罪を完全に晴らした「更生の裁判」と呼ばれる訴訟手続きのことを指す。この二つの裁判は、ジャンヌ自身の人生と使命について、実に生き生きとした描写を与えている。ジャンヌの生涯と使命は、彼女自身の言葉、そして彼女を生前から知る村人、友人や仲間、フランスの貴族たち、共に戦った騎士たち、敵、そして敵対する聖職者たちの言葉の両方によって、実に生き生きと語られている。これらはすべて、ジャンヌ・ダルクの人生という大きなドラマを明確に物語っている。このように非常に詳細な証言があるばかりでなく、彼女の生涯が、唯一、法廷での宣誓によって歴史に残され私たちにもたらされたものであるということもユニークな事実である。

 

 そして、この時、ジャンヌ・ダルクの真の姿を語ることのできる人間が現われたのである。即ちルドルフ・シュタイナー1861年 - 1925年)である。

 エドマンズ氏は語る。

 

 ルドルフ・シュタイナーの持つ偉大な霊的洞察力によって、私たちはこれまで隠されていた真実を知り、ジャンヌ・ダルクの人生と使命の真の意味を発見することができるのだ。ルドルフ・シュタイナーの導きによって、私たちは彼女の人生に敬虔な気持ちで接することができるようになった。1911年から1924年にかけて、ルドルフ・シュタイナーは何度もジャンヌについて話している。特に1914年の第一次世界大戦の開始時と1915年には、ヨーロッパの進化と霊的・意識的魂の出現に対する彼女の人生と使命の意義について、鮮明かつ決定的な詳細にわたって説明している。彼の言葉は、私たちがついに、西洋文明の歴史に並ぶもののない出来事の真の解釈を持っていることに疑いの余地を与えない。ヨーロッパの歴史における重要な段階について、ルドルフ・シュタイナーは、西洋世界全体の発展に影響を与えた2つの出来事について話した。ひとつは、AD312年にマクセンティウスとの戦いに勝利し、ヨーロッパの対外的な宗教生活にキリスト教を導入したコン・スタンティン大帝の勝利である。第二の決定的な出来事は、14世紀から15世紀にかけて起こったイングランドとフランスの百年戦争と呼ばれる長い闘争である。この戦争は、基本的に両国の王家の間の王朝の争いであった。

 この混乱から遠く離れたフランス北東部の小さな村に、二つの国の運命を決することになる、わずか12歳の少女が、初めて強大な霊的存在の存在を体験した。その存在は、最初の優しい導きから、その後何年にもわたって、彼女が果たすべき大きな運命を次第に強めながら明らかにしていくのであった。

 

 しかし、このようにして神霊存在が人間に現われることができるのは、これが最後であった。ジャンヌ・ダルクの時代から、人類はまた進歩しているのである。

 

 エドマンズ氏は、人類の意識の進化について触れている。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、中世において、すべての組織、すべての共同体の生活は、「ローマによって形成された強力で権威ある普遍主義的なカトリックの衝動に浸透し、支配し、その上に印を押された」状態であったと指摘している。」

カトリック」とは「普遍」という意味でもある。ローマ・カトリックは世界を普遍的に支配しようとする衝動をもっているのだ。

「人間の生活のあらゆる側面がローマ・カトリックの衝動に従属する限り、国家のアイデンティティもまた同じ運命をたどることになる。」

 しかし、人間が個人意識を発展させるには、その普遍性を離れ、先ず自己の属する民族、国家の意識をもつことが必要なのである。そのために、ヨーロッパにおいては、フランスとイギリスが先ず分離される必要があった。

 「この2つの国が別々の国家として存在することを可能にしたのは、ジョアンヌ・ダルクの使命であり、人は国家の一員としての自分自身を新たに意識するようになったということを見てきた。ジャンヌはそれを「神はフランスをフランス人にお与えになった」という言葉で表現した。

 それ以来、人々の意識はさらに発展し、現在もなお続いている。人々は先ず自分を個人として意識するようになった。まず国家という概念があり、次に個人的人間という概念があるのである。

 

 そしてまた、人類は、単なる個人意識に留まってはならない。再び霊的認識を獲得しなければならないのだ。しかし、これまで「人々は個人的、分離的な生活を発展させながら、精神的な洞察や世界に対する精神的な知識を持たずにそうしてきた・・・自然科学や、後には技術や物質主義に押されて発展してきたのであって、人間の精神的な本質を考慮したものではなかったのである。」

 

 次の段階は、「現代にも続いている段階である。私たちはまだ「意識魂」の時代の3分の1を経過していないが、進化はさらに進んでいかなければならないにもかかわらず、現代はさらに、生命の純粋な物理的・物質的側面の研究と追求に没頭しているように思われる。

 しかし、今、我々はその先の段階に達したのである。それは、人間が精神世界と、精神的に進化する存在としての自分自身についての知識を得ることが可能になった段階である。」

 エドマンズ氏は、それが可能となったのは、シュタイナーの「精神科学の導きに」よってであるとする。

 

 そして、改めて、これらの地上における出来事の背景として霊界における出来事が語られ、ジャンヌ・ダルクルドルフ・シュタイナーという二人の希有な存在の人類史的意味について触れて本書は終わっている。

 

 そして、中世以来のこれらすべての発展から、この可能性が生じ始めたのは、19世紀-ミカエルとルシファーとアーリマンとの間で人間をめぐる大きな戦いが起こっていた時代、特に、アーリマン勢力がその全力を世界に投入していた時代-にさしかかったときであることがわかる。

このとき、ジャンヌ・ダルクの生涯と行いが、非常に明瞭かつ詳細に、人間の意識の前に再び現れるのである。ただし、これは外側の徴候にすぎない。霊界では、ミカエルとその助力者たちが、ミカエルが時代霊としての役割を担うときのために、活動の強力な更新を準備していた。他の大天使たちは、時代を超えて、それぞれ指導的な霊としての役割を果たしてきたが、今、人間のさらなる霊的成長にとって最も重要な時期が近づいていたのである。

 ルドルフ・シュタイナーは、ジャンヌ・ダルクの時代と現代をこのように対比している。

「キリストの衝動はミカエル霊を通して働き、15世紀には人類の救済と進歩のために偉大な仕事を成し遂げました。そこで私たちは、神聖な霊力が、人間の魂の最も繊細で優しげな、最も純粋な親密さを通して、入り口を求めることが必要であった時代を見ているのである。

しかし、それは、そのようなことが起こらなければならなかった最後の時代であった。今日、神の霊力がそのような親密な方法で人間の魂に降臨することはもはや不可能である。

現代においても、大きなつながりを秩序づけ、支配しているのはすべて霊界から来るのものであり、物事を実現する力と衝動は霊界から来るという事実を意識しなければならない。この点では、オルレアンの乙女の時代も今日も同じである。しかし、時代は違う。あの時、特殊な方法で行われたことは、私たちの時代とこれからの時代では、別の方法で実現されなければならない。というのも、私たちの時代はそれ以来まったく変わってしまったからである。人類は、オルレアンの乙女がそれに基づき働かなければならなかった衝動を呼び起こした時代とはまったく異なる方法で導かれているのだ。

将来、キリストの衝動は魂と一体化しなければならない。それは、中央ヨーロッパにおいて、目覚めている意識の中で、肉体とエーテル体にある意識的な霊的力の努力によって、自分の自我とアストラル体をもキリストの衝動と一体化させる人間が存在することによってである。

 

 ルドルフ・シュタイナーのこの言葉に、私たちはミカエルのもう一人の僕を認める。彼は世界の進化における別の重要な段階において、今日の状況について、また人間が未来に向かって前進するために必要なことをどのようにしたらよいか、その偉大な洞察から話すことを使命としている。

 ミカエルと人類に課せられた使命について、これほど明確に世界に語りかけた人は、ジャンヌ・ダルク以来、誰もいない。しかし、今日その様なことはできない。時代は完全に変わったのである。15世紀にはミカエルは指導霊ではなく、ルドルフ・シュタイナーがもたらした霊的科学に導きが到来している今日のように、人間の理性と理解に働きかけることは、当時は不可能だったのである。

 ルドルフ・シュタイナージャンヌ・ダルクも、この世に必要で重要な行いをするために生まれてきたのだ。ジャンヌ・ダルクの生涯において、彼女は魂の奥底から語りかけ、周囲の人々を鼓舞して、その時代に必要な物理的な行いを成し遂げた。そして今日、彼女の最後の行いである殉教の知識と理解は、人間の心に生きるインスピレーションとなりうる。

 今日、ルドルフ・シュタイナーは、私たちの時代に必要な行い、すなわち私たちの思考の行いについて、私たちに語りかけているのである。それは、彼が語るように、変様しうる。

ジャンヌ・ダルクのような性質がルシファーの力に積極的に立ち向かわなければならなかったように、今日の人間はアーリマンの力に対して抵抗を示さなければならない...彼らに対して自分を強くしなければならない...ミカエルの時代にはふさわしいように。」

                         

 ジャンヌ・ダルクルドルフ・シュタイナーは、共に神々を見て、人々に伝えたのである。

ジャンヌ・ダルクの使命(前半)

ジャンヌ・ダルク

 先に、「自由を巡る闘い(後半)」で、シュタイナーが、ジャンヌ・ダルクが歴史上重要な使命を果たしたと評価していることについて触れた。今回は、このことについて触れてみたい。

 

 彼女のことを知らない人はいないだろうが、ウィキペディアによると、ジャンヌ・ダルクは、「(フランス語: Jeanne d'Arc、古綴:Jehanne Darc[ʒan daʁk]、英: Joan of Arc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日- 1431年5月30日) 15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。『オルレアンの乙女』(フランス語: la Pucelle d'Orléans/英: The Maid of Orléans)とも呼ばれる。」とある。

 さらにその事績については、次のように書かれている。「ジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。その後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。イングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。

 ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。その後ジャンヌは1909年に列福1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。」

 フランスをイギリスから開放することに大きな貢献をしながら、当時の権力闘争の中で、教会によって、異端者と断罪され、火あぶりの刑により命を落し、しかし、のちに教会で復権して、福者とされた聖女である。その劇的生涯と悲劇性から、彼女の生涯は、小説や映画の題材としても幾度か取り上げられ、世界中の多くに人に親しまれている。

 しかし、彼女の本当の姿をどれだけの人が知っているだろうか。

 唯物主義的歴史観では、それは決して見えてこないのである。

 シュタイナーの説明を元に、彼女の生涯をまとめた本に『ジャンヌ・ダルクの使命』(2008年)というものがある。著者は、ジョーン・M・エドマンズJoan M. Edmunds氏(奇しくもジャンヌと同じ名)である。彼女は、もともと神智学教会に属していたが、ジャンヌ・ダルクの研究を進める内にシュタイナーを学ぶようになり、人智学協会員となった方である。

 以下この本によりジャンヌ・ダルクの歴史的使命について述べていきたい。

 

 エドマンズ氏は、ジャンヌの本当の姿を見えなくしている敵がいるというシュタイナーの言葉を引用しながら、現代までのジャンヌの人生の受けとめられ方を次のように述べている。

 

 「ルドルフ・シュタイナーは、・・・彼が「我々のいわゆる文明に非常によく見られる習慣」と呼ぶものに私たちの注意を促している。それは、『神々の行いを、人間の知性により訂正しようとすることである。』

 シュタイナーが特に言及している神々の行いとは、西洋の歴史上最も偉大な人物の一人であるジャンヌ・ダルクの人生と使命を通して表現されたものである。・・・ルドルフ・シュタイナーは、15世紀におけるジャンヌ・ダルクの使命は神々の行いであり、その行いに対して最も強力な敵が立ちはだかり、彼女が達成しなければならない大きな仕事を妨げようと、破壊しようとさえしていたと述べている。

 我々の時代にも彼女の敵はおり、彼らは、ジャンヌ・ダルクの伝記作家のことであり、彼らは、ルドルフ・シュタイナーが言うように、彼女の人生に対する知的アプローチのみによって、「彼女の行いを歴史から取り除こう」としているのである。・・・彼女のインスピレーションを様々な身体的・心理的障害に帰するような-実際には、現代の唯物論・科学思想に影響を受けた人間の心にとって実現可能な方法で-さらにしばしば非常に奇妙な態度が展開されている。・・・

 19世紀以来、ジャンヌ・ダルクについて書かれた何千冊もの本や研究(彼女は、キリストとナポレオンに次いで3番目に多く記録されている神話上の人物である)の中には、15世紀以来フランスの公文書に残っている多くの法的文書や記録から彼女の生涯の事実を扱った、定評ある歴史家や著名な伝記作家による多くの優れた著作が存在する。しかし、彼女の生涯と行動を説明しようとした著作も同じくらい多いが、それらは、我々の時代の始まりに必要かつ重要な形で働いたそれらの霊的な力を完全に否定するような性質のものであった。歴史的事実を大きく歪曲し、あるいは単に無視することによって、読者には、より「理解しやすい」ものが、著者が彼女の人生の謎を「解決」したとする「啓示」が提示されるのである。」

 

 唯物主義的な現代的思考では、ジャンヌが証言した天使の出現や啓示をそのままに理解することができないため、それらをジャンヌの「病気」に由来するものとするしかないのだが、その背後には、人と霊的なものとの結び付きを否定したい敵がいるのだ。

 

「そして今日、彼女の死後およそ6世紀を経て、ジョアンヌ・ダルクの生涯はいまだに強い魅力を放っているが、彼女について読む者にとっては謎のまま-多くの人にとっては単なる詐欺師-である。15世紀初頭、わずか12歳の農民の少女が、強大な霊的存在と交わり、その霊的存在から、そして後に他の霊的存在や霊界に赴いた人間から、偉大な任務の準備のために指導を受けたというのは、現代の感覚では事実上受け入れがたい話である。この交わりは、彼女が19歳で火あぶりにより犠牲的死にあうまで、残された7年間の人生の中でずっと続いたのである。

 ジャンヌ・ダルクが成し遂げた偉大な任務の真の姿は、将来の人類の発展にとって最大の意味を持つこの出来事をより深く理解しようとする意志がない限り、常に世界の人々の理解を超えたままであるに違いない。」

 

 シュタイナーは、人類が、実際に歴史を動かしている衝動を理解できない理由について、感情の生活と同じように、人類は歴史の真の衝動を夢うつつの状態で体験しており、人類の歴史的生活が、覚醒した意識の概念では把握できない衝動に支配されているという真の知識がないためであると説明している、という。

 従って、歴史に働くものを理解する唯一の方法は、「インスパイアーされた概念、インスピレーション(霊的意識)」となる。

 それは、当時の人間にとっても同じであった。ジャンヌの語ることを実際には理解できていなかったのである。

 

ジャンヌ・ダルク自身、同じような傾向で、自分の人生と使命の謎について語り、彼女の行動に感嘆する周囲の人々に対して、自分の業績の謎について語った。教誨師ジャン・パスクレルが『あなたの行いのようなことは見たことがありません。それに匹敵するような偉業はどんな本にも載っていません』と言うと、ジャンヌは『主には、どんなに学識ある書記官でも読んだことのない本があります』と答えた。彼女はまた、裁判中に彼女が勇敢に戦った相手であるカトリックの腐敗した教会関係者にもこのことをほのめかし、自分たちが理解できないことに判断を下すのはやめようと警告した。」

 一方で、時を経て、前述のようにジャンヌの名誉回復は進んだ。しかし、エドマンズ氏によれば、「カトリック教会の理解はまだ進んでおらず、1920年になってようやく彼女を聖人カレンダーに掲載[福者として認定]したものの、その真の意味を認識できず、単に『聖処女』として列福したに過ぎないのである。」

 

 ここでエドマンズ氏が注目するのは、ジャンヌの語った「私の主の書」と言う言葉である。

「ジャンヌの謎めいた言葉、『私の主の書』は、書記官、つまり聖職者や学者も読んだことがないもので、そこにしか彼女の行動の真実はない、というその意味は何であろうか? 伝記作家たちは彼女の言葉を記しているが、あえて説明することはない。ジャンヌのすべての言動は、彼女が『天の助言』あるいは『声』と呼ぶものからインスピレーションを受け、教えられたものである。彼女自身の言葉から、深い難解な性質の秘密が彼女に明かされ、彼女が『示された』と言ったように、その意味を必ずしも完全に理解していたわけではないことがわかる。しかし、これらの秘密のうち、『本』の性質もまた、ある程度は彼女に明かされたと推測できる。」

 私も、エドマンズ氏の著作で初めてこの「本」について知ったのだが、やはりこのことは、何世紀ものあいだ、伝記作家たちに無視され、あるいは理解しがたい説明と見なされ、謎のままであった、という。

 しかし、エドマンズ氏は、人智学者として、新たな解釈を提起する。

 

ルドルフ・シュタイナーやその他の研究者たちによる霊界の本質に関する現代の研究によって明らかにされたことは、それをもってジャンヌがあれほど挑戦的に審判に挑んだ『本』が、アストラルの光の中にある、世界の過去の出来事がすべて表示された消えない痕跡である『アカシック・レコード』であることを明らかにすることができるようになったのである。」

 

 「アカシック・レコード」は、人智学派では、「アカシック(あるいはアーカーシャ年代記」とも呼ばれている。それは精神界の境界(有形精神界と無形精神界)にあって、世界で生じたことすべての痕跡をイメージの形で保管しているもので、アストラル光の中に、過去の人間の思考・情動を読むことができるとされる。

 シュタイナー、これを見ることができたと言われるが、ジャンヌも同じものを見ていたのであろうか。

 

*  *  *

 エドマンズ氏は、人類史における当時の状況に関するシュタイナーの説明に触れている。

 

ルドルフ・シュタイナーは、15世紀初頭に物理的世界と精神的世界の双方で起こった途方もない出来事について、大きな洞察を与えている。前者について、彼はこう言っている。

『15世紀、イギリスは、ヨーロッパの向こう側にある大きな大陸の発見によって開かれた地球の一部への欲求からそらされ、イギリスの民族魂は、ヨーロッパ大陸での領土の大幅な拡張に着手していたと想像してみよう。第一に、そのとき達成しなければならなかった物質的文明を達成することは不可能であっただろうし、第二に、ヨーロッパが、ドイツ神秘主義の影響を大きく受けたプロテスタンティズムの協力によって、多くの障害にもかかわらず、そのときから発展するその内的生活の深化を達成することはなかっただろう。進化に介入したキリストの衝動は、キリスト原理の外的な担い手として魂が準備されなければならない領域から、イギリスの関心を遠ざけるように注意しなければならなかったのである。

 この時期は、中央ヨーロッパが、意識魂あるいは霊的魂の時代に入る、アトランタ以後5番目の文明の時代の幕開けであった。周知のように、この時代は1413年に始まり、その特徴は、物質的生活と物理的存在の外的事実に注意を向けることによって発展することができるものである。イギリスの民族魂は、意識魂の展開と発展のために特に選ばれたのである。-これは、人類の発展のために、絶対的に予め計画されていたのである。』」

 

 意識魂とは、人間を構成する心魂部分の、そのまた一部である。人類はそれを萌芽的に有していたが、15世紀以降にそれが発達し、意識化されるようになっていくというのである。これは、神々の定めた人類の霊的進化の道(それは宇宙の霊的進化の道でもある)であるから、「絶対的に」成し遂げられなければならないのだ。

 そのために、当時のイギリスとフランスの分離が必要であったと言うことのようである。ジャンヌ・ダルクは、このために神々により遣わされたのである。ここに人類の歴史への神々の介入がなされたのだ。それは、神々の行いに敵対する力が地上に働いていたからでもある。その敵対的力が、またジャンヌの火刑をもたらし、彼女の名誉を毀損したのだろう。

 

 さらに霊界の出来事については、シュタイナーによれば次のようであるという。

 

「地上を見下ろすと、セラフィム、ケルビム、スローン、つまり最高のヒエラルキーのメンバーが、いかに強大な行為を成し遂げているかを...... 存在の通常のコースで見られるものから畏敬の念を抱かせるような逸脱を、人は目撃する。このようなことが最後に行われたのは、超感覚的な側面から見たアトランティスの時代であった......宇宙的な知性が、宇宙的なままで、人の心を支配していた時代......そして今、現在の地上の領域に、再び、霊的な光と雷の中に出現したのである。人が地上の歴史的激動だけを意識していた時代、外部の歴史に書かれているようなあらゆる驚くべき出来事が起こっていた時代、その時代、超感覚的世界にいる霊たちには、地球が強大な稲妻と雷鳴に包まれているように見えたのである。セラフィム、ケルビム、そしてスローンは、宇宙知性を、人間の組織の中で私たちが神経と感覚のシステム、頭部組織と呼んでいる部分に運んでいたのだ。再び、大きな出来事が起こった。それはまだはっきりとした形では現れず、何百年、何千年という時間の経過の中でしか現れないが、それは...人間が全く変容しつつあることを意味している。以前は心(臓)人間であったのが、頭人間になったのだ。知性は彼自身のものになるのである。」

 

 これは難解な話であるが、天使の位階の最上位の存在の働きにより、それまで心臓(ハート)で思考していた人間が頭部(脳)によって思考するようになったということである。それは、心情的思考が知的思考に変化したというように言えるかもしれない。私も理解が不十分で今はこれ以上のことは語れないのだが、付け加えるなら、人間の肉体のように、物質界に直接介入できるのは、セラフィム、ケルビム、スローンという最上位の天使であるということである。

 

 エドマンズ氏は、これに関連して次のように述べている。

 

「古代から大天使ミカエルは宇宙で『宇宙の知性』を守っていたが、それが地上に降りてきてから、人間の知性になったのである。人類の進化を導く大天使の7つの連続した周期的な支配権のうち、サマエルはこの時、指導的な霊であった。ミカエルが再びその支配権を得るのは、19世紀の終わり頃である。しかし今、霊的な世界で活動しているミカエルが、ルドルフ・シュタイナーが『超感覚的な学校』と呼ぶものの指導者となったとき、偉大で重要な出来事が起こった。ミカエルは、この集まりで、地上には受肉しないが人類の進化に関係している霊的存在と、死と再生の間の生の間にいる、彼の流れに属す人々、つまり、地上で長い年月にわたって彼のために働き、彼とともに働いてきた人類の一員を自分の周りに集めたのだ。

 ミカエルは今、霊性を失った知性が徐々に人間の間に根付いていく未来の大仕事について周囲の人々に教え始めた。15世紀以降、知性を完全に地上的なものにとどめようとするアーリマン勢力がますます強くなり、危機が訪れるだろう。ミカエルの周囲の人々は、19世紀後半にミカエルが再び指導霊としての役割を果たし、知性が再び彼の存在と一体となるときに向けて努力するよう呼びかけられたのである。」

 

 ミカエルの天上の学院については、既にこのブログの中で触れているので、そちらを参照願いたい。アーリマンもやはり、これに対抗して、自分に従う霊的存在、人間を集めて自分の学院をもうけたという。

【以下後半に続く】

形態形成場理論はエーテル界を説明するか?


   以前、「物理学の基礎定数は変化する」で、ルパート・シェルドレイク氏について紹介した。

 

 彼は、ケンブリッジ大学で自然科学、ハーヴァード大学で哲学と科学史を学び、生化学の博士号を取得した。植物発生学や細胞老化の研究を行い、英国王立協会会員であるが、英語版のウィキペディアでは、「イギリスの作家および超心理学研究者であり、形態共鳴の概念を提唱したが、これは、主流の受容を欠いている推測であり、疑似科学として批判されていとある。」つまり、今の科学界では認知されていない異端児なのである。

 シェルドレイク氏の著作は、ブログで触れた『世界を変える7つの実験』(工作舎刊)の他にいくつか日本でも出版されている。いわゆる「ニューエイジ」「ニューサイエンス」系で一定の人気がある方である。

 今回は、彼が唱えている「形態共鳴の概念」に関連して少し論じてみたい。

 

 前掲の彼の著作『世界を変える7つの実験』は、平易な文章で、極めて興味深い内容が書かれている。世界を変えるとは、従来の常識的な世界観・人間観を変えると言う意味であり、「日常身辺に潜んでいる、既製の科学が見過ごしている大きな謎」を解き明かしているのだ。

 本では、その謎に関わる7つの実験を紹介している。その実験は、大規模な器具や多大な経費がかかるものではなく、一般人(読者)でも行えるようなものばかりである。

 その実験に対応して、本書は7章に分かれており、それは例えば、「ペットは飼い主がいつ家路についたかを感知する!?」とか「見つめられている感覚」「実験者の期待は結果を左右する!?」などで、その中に、以前紹介した「基礎定数は変化する!?」もあったのである。

 さて、今回触れるのは、この中の「幻肢はそこに実在する!?」という章である。

 幻肢とは何かというと、「生身の手足を失っても、その存在感覚は必ずしも失われない。もはや物質として存在していないのに、あたかもまだそこにあるように感じられる」(『世界を変える7つの実験』 以下の引用は工作舎刊、田中靖夫氏訳による)感覚である。ウィキペディアによれば「事故や病気が原因で手や足を失った人、麻癖のある人、生まれながらにして持たない人が、存在しない、または麻癖して感じないはずの手足を依然そこに存在するかのように感じること。幻影肢(げんえいし)ともいう。幻肢をもつ患者はしばしばそれを意図的に動かすことができる。 逆にそれが動かせない場合、その幻の部位に非常に強い痛みを感じることがあり、それを 幻肢痛(げんしつう)という」とある。

 さらにその原因については、「かつては、『切断面に近い神経の末端部の神経腫が刺激を発しているためである』『脊髄の感覚ニューロンが自発的に活動しているためである』と考えがあった。しかし、元々持っていた手や足を事故で失った患者の例では神経腫を取り除いても幻肢は消えず、脊髄の脳に近い部分まで損傷を受けている患者でも幻肢が起きる。このことから、そういった脳外の神経が原因ではなく、脳内の神経回路網が自発的に活動することで幻肢が生まれている、という考えが有力である」という。

 シェルドレイク氏によれば、「(手足を切断した場合)そのほとんどに幻影があり、時が経過するにつれて弱まっていくものもあるが、決して消滅はしない。・・・痛みの元凶としてずっと新鮮な感覚で残るのが普通である」という。

 それがどのような感じかというと、「切断手術を施した直後、幻影はまだ実在している者のように感じられる。脚を切断してもらった人は、もはやそれがなくなっていることを直ぐに忘れてしまう。立ち上がって歩こうとして何度も倒れてしまう人もいる」ということである。

 また、幻影が生じるのは、手足だけではない。鼻、睾丸、舌、乳房、陰茎、膀胱、直腸などでも生じるのだ。性器の場合、オーガズムを体験する人もいるという。

 普通それが生じると言ったが、例外もある。赤ん坊やよちよち歩きの幼児の場合、あるいは、ライ病患者が、病気の進行と共に指先やつま先を失った場合がそうだという。

 

 ではこれらの現象の原因は何であろうか。

 ウィキペディアは、「脳内の神経回路説」が有力であるとしているが、シェルドレイク氏は、これを批判している。この説によれば、幻影が生まれるのは、脳内に、切断部位から生じた神経インパルスを受け取ったと感じる新たな神経回路(ネットワーク)が造られるからなのだが、新しいネットワークが形成されるには、数週間ないし数ヶ月かかるが、手足とつながっている神経に麻酔をかける時には、幻影が瞬時に生じることもあることと矛盾する。

 そこで、新しい神経回路は必要でないとする説も生まれてきたのだが、それには、脳内の潜在的回路が顕在するとしたり、身体イメージは大部分が先天的に備わっている脳の神経ネットワークから生まれる(それは脳機能の大部分に関わっており、それを壊すのはほとんど脳全体を壊すことに等しい)というものなどがある。

 シェルドレイク氏は、このような説になると、いくらでも主張できることになり、「脳理論はほとんど論議不能となる」と批判する。

 では、彼自身の仮説はどうであろうか。

 先ず従来の説の限界は、それが、「縮まる心」のパラダイムの域を出ていないことにあるとする。つまり身体イメージや幻影が、脳の内部になければならないと考えているのだ。

 しかし、「心が身体の内から外に拡がるならば、幻影という身体イメージの所在を脳や神経組織に閉じ込める必要は無くなる」のだ。そして「特に、幻影は、脳の中に閉じ込められているのではなく、あると思われるところに存在として、付け根のところから投影されているのかもしれないのだ。」(これは、意識が実際はどこに存在するのかという問題に関わる。常識的には、それは脳内細胞にとなるのだが、人智学派も、シェルドレイク氏と同様にその様には考えていない。)

 そして次のように続く。

「『拡がる心』という概念は、魂が身体に浸透し、生気を与えているという伝統的な考え方に似ているが、私としては、この概念は場によって解釈することが一番わかりやすいと思う。身体は場によって組織され、そのまわりは場に囲まれている。電磁場、重力場、量子場だけでなく、形態形成場も身体の発育やその形状維持に貢献しているし、行動の場、精神の場、社会の場によって、行動や精神生活が支えられているのである。・・・そこには、個人の過去に由来する生来の記憶と過去の数限りない人々からの集団記憶が含まれているのだ。」

 こうした考えから、彼は、幻影の場を形態形成場の1つであるとする。この場は、生身のからだから外に出て、付け根の向こうへ投影されているという仮説である。

 そこでシェルドレイク氏は、これを確かめるための実験について述べているが、ここでは省略する。興味のある方は、ぜひ本書にあたってほしい。

 

 ここでシェルドレイク氏の「形態形成場」仮説について、ウィキペディアから引用しておく。

―――

シェルドレイクの仮説

〈概要〉

 あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。形態のみならず、行動パターンも共鳴する。

 これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説である。

 この仮説を肯定する人々もいる。だが、「事実上、超常現象や超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいる。

 また、シェルドレイクは記憶や経験は、脳ではなく、種ごとサーバのような場所に保存されており、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、という仮説も提唱している。

〈形態共鳴の起源と哲学〉

・・・

 シェルドレイクは、形態共鳴とヒンドゥー教アカシック記録の間には類似点がある・・・ケンブリッジにいるときにこのアイデアを最初に思いついたが、後にインドに旅行して開発したと述べている。彼は、彼の形態共鳴のアイデアの起源を、生物学におけるホリスティックな伝統の研究と、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの1896年の著書「物質と記憶」の2つの影響に帰している。彼は、記憶は脳に物質的に埋め込まれていないというベルクソンの概念を、記憶が非物質的であるだけでなく、類似の生物の集合的な過去の記憶の影響下にある形態共鳴に一般化したと言いう。ケンブリッジの同僚たちはこの考えを受け入れなかったが、シェルドレイクはインドではその反対が真実であることに気付いた。彼はインドの同僚が「これには新しいことは何もない、それはすべて何千年も前に古代のリシ族に知られていた」と言ったと述べている。・・・

 シェルドレイクはまた、形態共鳴とカール・ユング集合的無意識との類似点を指摘しており、集合的記憶が個人間で共有されることと、ユングによってアーキタイプとして記述された反復による特定の行動の合体に関して。しかし、ユングが原型的な形態は物理的な遺伝によって伝達されると仮定したのに対し、シェルドレイクは集合的記憶を形態的共鳴に帰し、彼が「機械論的生物学」と呼ぶものを含むそれらの説明を拒否した。

――― 

 ウィキペディアでは、「アカシック記録」との類似が述べられている。これは、インドでは古代から存在した考えのようであるが、人智学派では、「アカシック(あるいはアーカーシャ年代記」(シュタイナーに同名の著作がある)とも呼ばれている。それは「精神界の境界(有形精神界と無形精神界)にあって、世界で生じたことすべての痕跡をイメージの形で保管しているもの(で)・・・アストラル光の中に、過去の人間の思考・情動を読むことができ、情動を超えた秘儀参入者の行為はエーテルの中で研究されるが、洪水などの事象はアーカーシャ年代記のみに記録されている。」(『シュタイナー用語辞典』)

 エーテルやアストラルにも記録されており、広義の意味では、これらも含めてアーカーシャ年代記と呼んでもよいだろう。

 ユング集合的無意識もそうであるが、人間の意識は、深層においてつながっているという考えがある。これは、いわゆる神秘学の一般的な思想であり、シュタイナーが以前属していた神智学においても同様である。

 

 ところで、シェルドレイク氏は、この章の中で、幻肢との関係で体外離脱について触れている。そこでは、夢と体外離脱はそっくりで、違いは睡眠状態か覚醒状態であるというくらいとし、次のように述べている。

 「神智学の文献では、明晰夢や体外離脱体験中の旅行のことを『アストラル・トラベル』、その時の身体を『アストラル体』ないし『サトゥル体』と呼んでいる・・非物質体(アストラル体)と幻肢とは驚くほどよく似ている。第1の類似点は、いずれも体外にありながら主観的な実在感があるということ。第2は、正常の身体から分離して、再びもとの鞘に収まるということ。非物質体と同じく、対麻痺患者や神経麻酔された患者では、幻肢が正常の手足から分離した後で、再びそこに入ってゆく。第3は、現実とのずれがあること。・・・神経学者ロナルド・メンザックは、・・『幻影体験は、身体がなくても起こりうる。身体はなくても身体を感じることができる、と言うことだ』(と主張している)これはまさに、体外離脱している人が体験していることである。」

 ここでシェルドレイク氏は、人間が非物質体をもっていることが、幻肢の原因である可能性を示唆し、そうした非物質体を神智学が語っているとしているのだ。

 

 ここまで読まれた読者は、既に気づいたと思うが、シェルドレイク氏の形態形成場やこうした考え方は、シュタイナーのいうエーテル体やアストラル体と共通していないだろうか。

 実際、このことについて触れている人智学派の本がある。ニック・トーマスNick Thomasという方の『エーテルを巡る戦い』という本である。この本は、現代における人類のエーテル認識の獲得を巡る状況について述べているのだが、そこでトーマス氏は、概略次のように述べているのだ。

 トーマス氏が、ロンドンでシェルドレイク氏に会ったとき、彼の形態形成場は、エーテル体と何らかの関係があるかと尋ねたところ、彼の答えは、おそらく科学的な理由から、否定的であったという。彼が言及したのは、エーテルの神智学的概念であったが、それは人智学のとは異なっている。彼は、神智学者か少なくとも神智学協会のメンバーである。彼は、彼の形態形成場とエーテルが混同されることを嫌がったのである。彼は、彼が親しんでいる神智学の エーテル概念をトーマス氏が考えていると思ったようである。彼が人智学のエーテル概念を実際に理解したなら、そこに関連を見たであろう。

 (両者のエーテル観の違いは何かというと、神智学では、エーテルアーカーシャを、空気が水より希薄であるように、それらをずっと希薄なものと見ているのに対して、人智学では、希薄な原質というだけでなく、物質性という点では、ネガティブ(反物質)であるとみていることである。)

 シェルドレイク氏は、自分の説はあくまでも科学の領域に留まるべきであり、仲間内だけの神秘的な話にしたくなかったのである。

 彼の形態形成場の概念は、幅が広く、ある観点はエーテル領域よりもアストラル領域を含んでいる。特に、時間的性格を持っている点でそうである。シュタイナーは、アストラルのアスペクトは、誕生以前の時間から我々に射し込んでいる、と語っているからである。またシェルドレイク氏も、過去から何ものかが現在に射し込み、影響を与えている、と語っているのである。

 

 このように、トーマス氏は、シェルドレイク氏の形態形成場の仮説に、人智学の考えるエーテルやアストラルとの共通点を見いだしている。

 しかし、この本では、同時に、シェルドレイク氏の説の限界も指摘している。それは、「場」というアイデアが物質主義的であること、つまり、それがまだ現在の唯物主義的科学の延長線上にあることである。それは克服されなければならない。それには、「カウンター・スペース(反空間)」という概念が理解されたときにのみ、可能となるという。

 カウンター・スペースとは何かについて、今回は触れない。自分もまだ勉強不足で、十分に理解できていないのだ。ただ、それは、エーテル界に関わるもので、太陽も、その実態はカウンター・スペースであると言われ、それを理解するカギは、「射影幾何学」にあるようである。

 

 冒頭、シェルドレイク氏は科学会の異端児であると紹介した。実際、「正統派」の科学界からは厳しく批判されており、以前のブログで紹介したように、彼の講演の動画が、ネットで検閲されたこともある。

 しかし、だから彼の説は正しくないのだと、簡単に切り捨てることはできない。トーマス氏の言うように、不十分さもあるだろうが、シュタイナーの主張との類似を見れば、人智学派としては大いに傾聴すべきであろう。

 現代科学の「常識」が正しいとは限らない。科学の歴史自身がそれを示している。

 一方で、その間違った「常識」を守りたい勢力が存在する。それが、彼らにとって利益になるからである。それには、金銭のように現世的、現実的なものもあれば、霊的なものもある。闇の霊達からすれば、真実が知られるのは困るのである。

 現代において、エーテルを巡る真実は、その中でも重要なものとなっている。人類は、再びエーテル認識能力を得ようとしているからである。おそらく科学的にも、この点での探求が進んでいくだろう。既にネットを検索しても、その萌芽が見られるのだ。

 一方では、これを阻止しようとする動きもあるだろう。シェルドレイク氏の動画を削除したように。

 それもまた「エーテルを巡る戦い」なのだ。

 

二人の子どもイエス-神殿の出来事 ④

 

 

ベルゴニョーネ「神殿のイエス

ベルゴニョーネのミラノの絵

 ③では、神殿の出来事の隠された真相について述べた。これに続いて、今回は、この秘密を密かに表現している絵画を紹介する。

 先ず、クラウゼ=ツインマー氏が『絵画における二人のイエス』で最初に解説しているのは、ベルゴニョーネのミラノの絵である。

 実はこの絵は、二人の子どもイエスが描かれている絵として、シュタイナー自身が発見した絵なのである。

 クラウゼ=ツインマー氏によれば、他の神殿のイエスの絵と比べて「ベルゴニョーネ(約1450—1523年)のミラノの絵は、全く違う印象を与える。それは、ルドルフ・シュタイナーがそれに注意を向けて以来、コンラット、ボック、ピヒト等の人々がかかえることとなった全ての問いと探求の、言わば『原イメージ』である。」

 ここで出てくるシュタイナー以外の名は、人智学派のキリスト教団体の指導者達などで、シュタイナーの示唆を受けて、クラウゼ=ツインマー氏以前に、こうした絵画を研究してきた人々である。(その意味で、彼女の本は、これらの先駆者の努力をふまえているのだが、その本に収集した絵画等には、彼女自身が直接発見したものも多く含まれている。)

 この絵は、イタリアのミラノのサンアンブロジオ教会の北側側廊にかつてあったが、現在は、その教会に接続した博物館で見ることができるという。

 この絵を見て先ず驚くのは、「全く大きくて見逃しようがないくらいに第2の少年を描いている」ことである。

 この絵を見て、シュタイナーは、次のように語ったという。

「その少年は立ち去っている。1人は教えており、他の1人はそこを離れようとしているが、それは普通のイエス少年ではない。・・・ゆえに、数百年間にわたり、人々はまだ、第2のイエスが存在していることを意識していた、と言いうるであろう。」(ルドルフ・シュタイナー 1923年5月9日講演 GA349)

 この明瞭さに、先に名の出た人々も驚いたという。「S.ピヒトとエミール・ボックは、この絵の衝撃的な明瞭さに対して、彼ら自身には非常に身近で信頼に足るものを、しかしひょっとするとなお他の解釈が可能な芸術作品に持ち込まないために、自ら何度も反論を試みた。

 実際、祭司に教授をしているのが第1の場面、両親と帰ろうとしているのが第2の場面として、それらの場面が一緒に描かれているにすぎないのではないか、という疑問が浮かぶ。」

 古い絵画の中には、同じような人物が何度か登場するものが存在する。それは、実際に同じ人物の時間の異なる場面を一枚(ひとつながり)の絵画の中に納めているのである。

 あまりにも第2のイエスがはっきりと描かれていることから、この絵もそのような技法であるという考えが出てくるのである。実際、ベルゴニョーネ自身の、そうした描き方の美しい例が「聖ベネディクトの生涯の場面」(ナント美術館)にあるのだ。

「その絵は、一度、部屋の中で十字架像の前でひざまずいている若い聖人を描き、次に机のところで年老いた二人の婦人を祝福している聖人を、そしてさらに家の戸口から出ていく聖人を描いている。その絵全体は、おそらく断片であり、それは、なお続く絵のフリーズ〔壁面の帯状装飾〕であった。」

 しかし、この聖ベネディクトの絵は、「常に繰り返し絵の説明の中に現れる、正確に同じ衣装と顔つきの、同じ少年を人は見ている。しかしここでは、例えば他の場面を取り除いて、その個々の場面をそれ自身として観察するのは容易である。それらは交錯していないからである。それぞれの出来事はそれ自身で完結しており、それから次に続く場面を推し量ることができない。」

 つまり、一枚の絵と言いながら、いくつかの場面が並んでいるだけなのである。そして、そこに登場する聖ベネディクトは、当然常に、同じ服装で同じ顔つきをしているのである。

 しかし、この同じベルゴニョーネのミラノの12歳の絵は、それと全く異なっている。聖ベネディクトでは、それぞれの場面を切り取っても問題がないが、ミラノの12歳の絵では、そうはいかないのだ。

 

 それでは、クラウゼ=ツインマー氏の解説を以下に引用しよう。

――――――――

 そのような分離を試みると、ここでは全くそのようにいかないことに人は気づく。第1に、2つの光景に分けるには、斜めに切らねばならないし、幾つかの頭を切断することになる。第2に、例えば、前方の男性の驚いたしぐさや上方の少年の視線は無意味になってしまう。そのように斜めに分割することを試みると、この絵の右半分全体の構成は、左半分の出来事に組み合わさっており、従って、ここでは分割出来ない一体的な絵が存在していることを知る。緊密に結び合わされて、同じ瞬間に起きたものとして絵全体が表現されているのである。

 ピヒトが自ら提起し、また結局、複数の場面であるというテーゼに行きつくこととなる第2の反論は、真中の教えを説いている少年がそこにいる人々の記憶像であるというものである。

 これもまた、問題がないとは思えない。一つは既に述べた理由で、また第2に、絵の主要モチーフで、「支配的に真ん中に或るもの」(上方の少年として描かれているもの)が添えられた記憶像とは見なし難いからである。この中央の少年には、彼の姿としぐさのために最も広く自由につかえる空間が与えられているのである。この絵の他の誰も、正面の顔を遮られることなく見せてはいない。私達は彼の中に主要なモチーフを見なければならない。しかしこれに驚くべき付随的モチーフが、第2の少年によって添えられている。彼は退こうとしており、この絵の中央も、上方の空間も求めてはおらず、彼のしぐさは正にそれを断念している様子を強調している。

 よりはっきりとさせるためにもう一度あの問題に立ち返ろう。当時の画家は、意識的に二人の子どもを描き、それが時間的に引き続いて起きたものととらえられないようにしたいなら、何をすべきか又できたのか。どのような手段を用いたのか。

 彼は、顔と姿が異なり、色の異なる服を着た子ども達を描き、分割できないように、彼らのふるまいを交差させることができる。

 最後の点については既に幾つかの事を見てきた。真中の少年は、力強く咲き誇るような若々しさで画面全体を支配している。彼には、弱々しさは何もない。その顔の表情には、子供の柔和さに深みのある真剣さが混じっている。その視線は、ずっと先の、腕を広げたマリアの前に立つ子供がいる光景に向けられている。この少年は、神殿とその場の人々から立ち去り、後にするしぐさをして、彼女と歩みだしている。同じ髪型と簡素な服装は、確かに、彼が真中の少年と兄弟のように似ている印象を与えている。しかし、彼のそむけた、しかし完全に横向きになってはいない顔は、よりほっそりしており、か弱そうで透明感がある。彼の退去が、多くの祭司達の、中央の少年への集中を途切れさせている-その彼自身もそれにより気を反らされたようである-。

 衣服の色に関しては、以前は、真中の少年のものはバラ色で、下の少年のものは明るい緑であった。修復(1950年頃)以来、真中の少年の服が赤で、下の少年がバラ色となっている。従って、それらは今、色彩的にはずっと互いに調和がとれており、下の少年のそれが上の少年のよりもより柔らかいというだけになっている。最後の修復がオリジナルを再生させたとするなら、それまでの間、下の少年の服は他の色で塗り変えられていたに違いない。

 上の少年の背後には濃い緑色のたれ幕が掛けられているので、そこで赤と緑の色が力強いアクセントを生んでいる。下の、現在はバラ色の少年の背後には、明るい緑色の服を着た祭司が座っている。このバラ色と明るい緑の重なりは、上の赤と緑のそれの反映あるいは共鳴のように見える。

 前方の少年の後頭部から横顔が見える老人の足は、絵の中央で、右側の前にいる祭司の足の近くにある。従って、彼らの足の線は上に伸びており、教えを説く者がそこに現れる、開いた角度のある空間を作っている。

去ろうとする少年の隣で読みながら座っているこの老人は、はっきりと描かれた頭の隣に、第二の明るい横顔のようなものを持っている。この点については、よく見ようとしても不明瞭なので、何らかの影響で絵が損なわれたのか、あるいはある時に、そこに色々と手が加えられたのかは分からない。

 はっきりと違うのは頭の光輪である! 玉座についている少年の後光は軽やかな感じの白色と表現できるが、しかし、下の少年と彼といるその両親は強い赤みがかった黄色の光輪をしている。

 前の少年の視線も興味深い。彼の左(手前側)の目は、右下に向いており、会衆者を指すと同時に彼らに別れを告げている彼の手のしぐさを補強している。しかし彼の右目は、彼が今や向かおうとする道の方を真っすぐ見ている。解剖学的に言えば、この少年は斜視である! 彼の眼は、彼の身振りのように、異なっている。これは、繊細であるが、とてもはっきりした特徴であり、この画家がいかに細部に至るまで念入りにこの光景を描いたかがわかる。

 前方の祭司のものすごい驚きと他の少年を目で追っている上の少年の泰然とした偉大さは、左の少年の別れをするしぐさと一緒になって、この出来事の核心を私達にはっきりと示す意味深い三角形を構成している。(ベルゴニョーネのロディの「受胎告知」の三角形の構図が思い出される。)

 三角形を絵の下の縁まで引き伸ばすと、右の頂点で、そこで完全に孤立しているように見える男の頭がこの三角形に属している。これは誰であろうか。それは作者だろうか、それとも、絵の寄贈者だろうか。だが、寄贈者の肖像とするには多くの理由で通例にそぐわない。普通、寄贈者は礼拝図の中で、馬小屋の中で、あるいは王の1人として、又は従者の中にひざまずいている姿で描かれる。あるいは、聖母や磔刑のキリストの前の聖人の従者としてひざまずいているものである。12歳のテーマは、そのような礼拝にはふさわしくないので、普通は、寄贈者の絵にも選ばれることがないのである-そうでなくても、その絵は、礼拝の絵と比べて珍しいということは別にして-。寄贈者がそもそもそのようなテーマを選ぶなら、従って既に特殊なことである。エネルギッシュな男性の横顔は、絵の下の縁で信心深く祈っているのではなく、それと同じ高さにある、去りゆく少年の足の方を真剣に集中して見ているのである。

 もしこの頭がなければ、三角形には、右の支持点が欠けることになる[1]。従って、この男性は、歴史的には上の光景に結び付いていないが、画家あるいは寄贈者自身であれ、絵の核心の構成要素となっている。彼の心、彼の精神には、ここに示された出来事が生きているのである。

 この絵を斜めに裁断することはできない。そうしてしまうと、理解できない断片があるだけになる。しかし、そのドラマチックな核を取り出し、言わば堂々と簡潔に示すために、脇にいる集団を取り除いて、二人の少年と右の祭司の三角形だけを一度じっくりと見ることはできる。ここで重要なものは、この三角形にすべてある。3人のしぐさと顔が語っている。少年たちのしぐさには似たところもある。ただ中央の少年は、自分の左手を上に向けているが、もう一人の少年は、断念し、同時にそれを裏付けるように下向きにしている。それに加えて、それを知覚し驚愕した祭司があり、それに男性の頭が続く。(ひょっとすると、この老祭司も、同時代人のポートレイトなのであろうか?)

 そしてもしその核、絵の中心的ルーン文字をそのように観察するなら、去ろうとしている者に向けられた、“彼を”注意の中心に置いている二人の目、上の少年と祭司の目を、他のしぐさの添え物に邪魔されずに、見ることとなる。その驚くべき、魂的霊的三角形の会話を見てみよう。そこに視線の円環がある、それはどのように動いているだろう。上の少年は視線を下に向け、下の少年はさらに右に向けている-彼のしぐさがそれを補強している-。そしてすべては、右の祭司の、驚きながらの受容の中で終わっている。その図は、「秘密を見た男」と題することができるだろう。それをじっと見つめるほど、それは、秘密に参入することが許された男の記録、叙任の賜物のように見える。

 問題となっているのはまさに“二つ”の光景なので、ベルゴニョーネの絵は、確かに、複数あるいは二つの場面を描いた絵であり、ただそれは、時間的経過の中にあるのではない。二つの場面から一つの全体を構築するという画家にとって困難な課題を、ベルゴニョーネはりっぱにやり遂げている。

 もう一つ考えなければならないのは、この絵が、元々は教会の内陣にあったとされる、剥ぎ取られたフレスコ画であることである。従って、この絵は、ある一連の壁画から取られた唯一残存する場面である可能性がある。そのような場合、この絵の少年達の二重性はより奇妙である。場面の進み方は決まって左から右に流れるからである。従って、去ろうとする少年が上の少年と同じ少年で、その行為を、時間をかけて行ったとすると、彼が左に向かうのは適切ではない。その場合、彼は〔過去の〕行為の方に動くことになるからである。しかし勿論、例外もあるが。

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 この絵の場合、二人の子どもイエスが描かれていることは明らかであろう。しかし、おそらく、上のような解説を読まなければ、二人の子どもイエスは同じ人物で、博士達と議論をしているイエスと、それが終わってマリアに従い帰ろうとするイエスが1つの画面に描かれているだけであると解釈してしまうに違いない。ルネサンス期においては、その様な解釈しか許されていなかったし、シュタイナーの説明を知らなければ、普通の人間には、その様な考えに思い及ばないからである。

 こうした神殿にいる二人のイエスを描いた絵画は他にも存在する。ベルゴニョーネの名は、この本を読むまで私は知らなかったが、他の絵の作者の中には、誰もが知る画家もいる。それらの紹介は、後日行なっていくこととしよう。

二人の子どもイエス-神殿の出来事 ③

ドゥッチオ「神殿の12歳のイエス

 「二人の子どもイエス」に関わるテーマとして「神殿の出来事②」を書いてからだいぶ時間が経過してしまったが、今回は、ようやくその第3回目となる。

 「二人の子どもイエス」というのは、イエスには、マタイ福音書の伝える子どもイエスと、ルカ福音書の伝える子どもイエスの二人が存在したという、近代においては初めてシュタイナーが明らかにした真実をいう。

 この二人のイエスは、幼年期を終わった時(12歳の時)に起きた、ルカ福音書に書かれている「神殿の出来事」を経て、一人となったのである。これが、シュタイナーが明らかにしたキリスト教における重要な神秘である。

 それは、しかし、それまで全く隠されてきたのではない。キリスト教界の一部とその意図をふまえた芸術家達により、密かに芸術作品の中に表現されてきたのである。それを明らかにしたのが、デイヴィッド・オーヴァソン氏の著作『二人の子ども』とヘラ・クラウゼ=ツインマー氏の『絵画における二人の子ども』である。

 「神殿の出来事」については、導入として、これまでオーヴァソン氏の著作に基づき述べてきたが、今回はクラウゼ=ツインマー氏の著作に触れることとする。

 

 これまで触れたオーヴァソン氏の主張は、簡単に言えば、神殿の出来事は、一種のイニシエーションであったとするものである。古代宗教では、選ばれた者に密かにイニシエーション(秘儀参入)が行なわれてきた。それは、神殿の奥深く等の神聖な場所、秘密の場所で行なわれ、人の魂的・霊的実体が身体を離れ霊界に赴くというものである。そのまま霊界に留まるのが、人の死であるが、イニシエーションの場合は、そこで得た認識を持ってまた身体に戻ってくるのである。

 ただ、イエスの神殿の出来事は、もちろん、これがそのままあてはまるものではない。共通するのは、人間を構成する要素、実体が分離し、新たなものが生まれたということである。

 

 先ずこのことを前提として、二人の子どもイエスにおいて何が起きたのかをこれから見ていくこととする。

 

 ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏は、このことに関連して先ず概略次のように述べる。

 この神殿の物語はルカ伝にのみ伝えられている。それは、ルカ伝第2章41節以下(この部分は、②に掲載されている)にあり、神殿での12歳のイエスの話が語られている。

 イエスが12歳になった時、両親に連れられ、過越の祭のためにエルサレムへ行ったが、帰る際に両親とはぐれ、3日後に神殿で見つかった。神殿でイエスは、教師たちの真中にいて対話しており、聞く人々はみな、イエスの賢さやその答えに驚嘆していた。両親はこれを見て驚いた、という物語である。

 この文章を読んで感じるのは、両親にとって奇異なことが起きたということである。両親が以前の経験からは全く考えられなかった彼らの息子のふるまいに驚いているのである。また、迷子になり親に心配を掛けながら、やってきた親に対して。彼は、疎遠な感じをもたせてもいる。

 「全く明らかに、この出来事は、イエスのこれまでの幼児時代の物語から逸脱するものである。イエスは無関心で冷たいような心情をもって、両親が心を痛めて彼を捜していたことを無視しているように見える。彼の答えは謎に満ちており、何か重要なことが生じたに違いないことに気付かせる-それは、変容、それ以前にその子どもに見られなかった意識の突然の覚醒である-。」

 つまり、迷子になっている3日間のうちに、その子どもはすっかり様子が変わっていたのだ。子どもが学者達と対等に話ができるほどに賢くなっていたのである。そして、その親に、まるで「他人」に対するような親しみのない態度を見せたのである。

 

 クラウゼ=ツインマー氏は、ルカ伝のこの部分を、ルドルフ・シュタイナーの語っていることをふまえて、次のように説明する。

 「2人の少年はナザレにおいて友達として一緒に育った。ルカ・イエスは生まれてすぐナザレに戻り、マタイ福音書のイエスは、エジプト逃亡の後に初めてナザレ(Nazare,Nasirä)の入植地に両親と共に移り住んだ。」

 ルカ福音書でもマタイ福音書でも、イエスが生まれたのはベツレヘムであるとしていることは同じであるが、実はその後の物語が異なっている。誕生時に、イエスを拝礼したのは、ルカ福音書では羊飼いであり、マタイ福音書では王あるいはマギ達である。一般的に我々の知るイエスの誕生物語では、羊飼いと王が一緒に出てくるのだが、両福音書ではその片方しか出てこないのだ。更に、マタイの子どもは、ヘロデ王の迫害を逃れるためにエジプトに逃亡するが、この物語は、ルカ福音書には出てこない。イエスの住まいはナザレと言われるが、マタイの子どもがナザレに住むようになるのは、逃亡先のエジプトから戻った後なのである。そこで二人の子どもは出会い、友達となったのである。

 2つの福音書の記述のこのような違いが、そもそも二人の子どもイエスの存在を示しているのである。

 

 当時は、過越しの祭でエルサレムに行く習慣があった。双方の両親は、他の多くの巡礼者達と毎年行っていたが、しきたりにより、彼らは、彼らの子ども達を、およそ12歳になった時、初めて連れて行った。そこで、あの霊的ドラマが神殿において起きたのである。それは、次のような出来事であった。

 「ソロモン系の子供において、高次の成熟と目覚めた精神的力を小さい時から示していた人格(存在)が、その器たる体を去り、他の子供の魂へ移った。同時にそれは、既に少年達が交流を深める中で、ずっと、長い間知られることなく、少しずつ実行され生成してきたもののクライマックスであった。今、成長と生成を成し遂げる中で、人が持ちうる最高の精神的能力が、ナタンの少年の体と生命と魂の器の天的実質に働きかけ、作用し、自身を刻印しなければならなかったので、ソロモン少年の自我-力が、その高次の知性を他の魂の純粋で天使のような器に注ぎ込んだのである! それにより、命の木と智慧の木から生成し別れた潮流が一緒になって、『至高の父の子』、創造する世界ロゴスにふさわしい肉体の家を建てる前提条件を作り出したのである。それは、30歳から33歳までの間[1]、神的炎の力に耐えることができる家というだけではなく、同時にまた神の力に貫かれた知・情・意に合わせて整えられた、最高の純粋性と精妙さを備えた道具である。」

 ソロモンとは、ユダヤダヴィデ王の息子の一人で、王位をついた者である。彼は、高度な知恵の所持者として知られる。ナタンとは、ダヴィデ王のもう一人の息子で、祭司職を代々受け継ぐこととなった一族の祖である。マタイの子どもは、ソロモンの系統に、ルカの子どもはナタンの系統に属する者なのである。

 二人の子どもイエスは、このように、ダヴィデを同じ祖とするが、その次の代で別れた別々の先祖をもっているのだ。そしてこのことを、2つの福音書に記載されたイエスの2つの系図が端的に表わしている。その2つの系図は、ダヴィデまでは同じ先祖をたどるが、その次の世代から別々の名前が続くのである。ここでも、聖書自体が二人のイエスの存在を示しているのである。

 

 このように神殿の出来事は、ソロモン・イエスの個我が、ルカ・イエスの体に移るという、神秘的な出来事だったのである。それは、クラウゼ=ツインマー氏によれば、イエスの「洗礼における最高の行いのための前奏、予行でもあった」という。

 というのは、イエスは、30歳の時に、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのだが、この時に、イエスの個我(ソロモン・イエス)はその肉体を出て行き、代わりにキリスト霊がその体に降ったからある。正しくイエス・キリストとイエスが呼ばれるのは、この時からなのである。

 

 クラウゼ=ツインマー氏の説明は続く。

 「神殿での12歳の場面で、私達は、『二つが一つになる』という古い言葉が成就する瞬間を見る。

 この出来事の後、自我の去ったソロモン少年は衰え、すぐに亡くなる。ルカ少年の若い母もまもなく死んでしまう。とても年を取っていた彼女の伴侶がこの頃同じようにこの世から去っていたソロモン系のマリアとナタン系のヨセフは、自分たちの家族と共に一緒になる。従って、ソロモンのマリアは、他の子ども達の他に、「実体」としては彼女の子どもである(あるいは彼女の子ども「でも」ある)が、外形的には今や、継(まま)子とみなされるべき少年の母親に再びなるのである。」

 

 二人の子どもイエスの秘密を密かに伝えている絵画については、これまで、一見同じ聖家族が描かれているようで、詳しく見てみると、別の2つの家族、つまりマタイのイエスとルカのイエスの家族が描かれたものであったり、マリアとイエスの聖母子像にもう一人の子ども(マタイのイエス)が描かれていたりというような絵画を見てきた。それらは、常識的思考では、何の問題も含んでいないように見えるのだが、二人のイエスという考えを持って注意してみると、その真の姿を現わす絵画であった。

 では、この神殿の場面についても、その様な絵画は存在するのだろうか。存在するのである。オーヴァソン氏もクラウゼ=ツインマー氏も、それを示す絵画を挙げているのだが、先ず、引き続き、クラウゼ=ツインマー氏の本から紹介しよう。

 

 その様な絵に入る前に、クラウゼ=ツインマー氏は、そのような秘密を隠していない、といことは、ルカの文書に書かれているもののみを説明している絵を例として示している。

 それは、ドゥッチオ(1255-1319年)の絵である(上図)。

 「神殿の中庭、あるいは玄関ホールにいる少年と、彼の話を聞いている6人-左右にそれぞれ3人-の髭をつけた祭司達を描いている。左からマリアとヨセフがやってきている。彼らの身振りには、驚きと、探し当てた幸運が混じった多少の非難を見ることができる。『どうしてこんなことをしてくれたのです。私達は、3日間もあなたを捜していたのですよ。・・・』そして少年は、それに動じず、彼らに対して彼のふるまいの必然性について教えている。ジオット(スクロヴェーニ礼拝堂)、あるいはションガウアー(コルマール)、彫刻作品としてはティルマン・リーメンシュナイダー(クレーグリンゲン)とその他の多くの者の作品の光景も同様である。」

 神殿の出来事の秘密とは、ルカが語っていないことにあるのであり、これらの絵が、ルカの記述にただ忠実であるということは、いかなる秘密も含んでいないということである。これらに対して、同じ出来事を描いていながら、秘密を内蔵している絵があるのだ。

 その様な絵としてクラウゼ=ツインマー氏が先ず挙げるのは、ベルゴニョーネ(約1450—1523年)のミラノの絵である。

 通常は、二人のイエスなどと言う考えは異端であるので、あからさまにそれを分かるように描いたのでは、作者はその命に関わるので、大抵は偽装している。あるいは、あいまいな表現にとどめているものである。

 しかし、この絵は、見た者を最初からその謎に直面させる。なぜなら、1つの画面に明確に二人の子どもイエスが存在しているからである!

 

 この絵の解説は④に続けることとする。