k-lazaro’s note

人と世界の真の姿を探求するブログです。 基盤は人智学です。

アングロサクソンとロシアの対立 ③


 本格的な冬が到来しきてしている。その様な中、ウクライナの地では、現在、ロシア側は再侵攻の準備を整えてきており、その総攻撃が迫っているとも言われている。ウクライナは電気を初めとするインフラを失ってきており、客観的に見ればロシアの攻撃を押し返す能力はないのだが、欧米日側からは、公式にはまだ和平の声がでていない。日本でも、マスコミにより依然として実態と乖離したウクライナが優勢とのプロパガンダが流され、それを多くの国民が信じているようだ。いつまで血を流せば済むのだろうか?

 ただ最近、メディアの情報にも若干の変化が感じられる。ポーランドへのミサイル着弾問題で、無責任なウクライナ側の姿勢、その危険性(第3次世界大戦となる可能性があった)が明らかになり、またウクライナ兵による投降したロシア兵の虐殺の映像も世界を駆け巡っており、従来のウクライナはすべて善という考え方が修正される兆しも見えているのである。

 日本でも、マスコミ「専門家」の一方的な「ロシア悪」説に対抗する考えが少しずつ見られるようになってきているようである。例えば、「ロシアより先に戦争を始めたのは米国とウクライナの可能性」という冷静な分析もネットに流れるようになった。

 人は、簡単な図式に取付きやすいものだ。だが、現実は複雑である。現実を知るには、表に現われている現象の背後に存在するものを見なければならないのだ。

 

 以前紹介したテリー・M・ボードマン氏の「アングロサクソンとロシアの対立」のパート2がボードマン氏のホームページにアップされたのだが、長文で、また内容もこれまでの論稿とかなり重複するので、やはり途中を省略して紹介する。

 

  これまでも述べてきたのだが、現在のウクライナ問題は、秘教的視点で見ると、人類の(霊的)発展を巡る戦いを背景としていると思われる。シュタイナーによれば、人類は、霊的発展を遂げていくように神々により定められている。霊的発展とは、人間の肉体・魂・霊が段階的に発展していくということで、その段階に応じてそれにふさわしい「文化」が現われる。新しい文化の誕生は、即ち古い文化の衰退を意味し、この両者の葛藤が民族、人種間の対立、衝突、戦争等として表の歴史の中に現われるのである。

 現在は、1413年から3573年まで続く「文明期」の中にある。これは、第5文化期あるいはゲルマン-アングロサクソン文化期とも呼ばれる。そしてその次は「ロシア文化期」が到来するとされる。もちろん、この年代の区切りで時代状況がすぐに一変してしまうのではなく、その移行には一定の期間が必要であり、前後の文化期はその間併存し影響し合っていると言えるだろう。

 今は、唯物主義が極限にまで至り、言わば人類は物質的世界の奈落に落ち込んでいるが、人類はそこから再び霊界へと上昇していかねばならない。次のロシア文化期は、人類の霊的素質が一層発展する時代であり、その萌芽は、現在既に生まれてきているとされる。西川隆範氏は、「2000年ごろ、アメリカから個人の思考が抑圧されるのに対して、ロシア(東方)から2000年以後、新しい精神的思考が発展していく。」(『シュタイナー用語辞典』)としている。

 現在は、また「意識魂」を発展させなければならない時代であるが、それは個人の「自我」と結び付いており、そのために唯物主義的傾向をもっているのだが、これはアーリマンに取り込まれる危険性を孕んでいる。これまで第5文化期を主導してきたアングロサクソンの秘教団体の中には、影のブラザーフッドが存在しており、アーリマン的霊的勢力と一体になり、自分たちの今の影響力を保持し、ロシア文化期への移行を阻止しようしているという。

 これが、現在の世界情勢を動かしている「霊的地政学」なのである。

 以下の文章の最後に出てくる次の言葉は、端的にそれを表わすものであろう。

「過去の問題がアングロサクソン文明とラテン文明の間にあったように、未来の問題はアングロサクソン文明とスラブ文明の間にある。」

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アングロサクソンとロシアの対立 第2部
:19世紀の「グレートゲーム

投稿者 Terry Boardman 日時 2022年11月21日 

  19世紀の大半を占めた二大帝国、世界最大の帝国的ライバルはイギリスとロシアであった。その世紀の半ば、彼らのライバル関係は、1854年にその二つの同盟国が侵攻した、イギリスとフランスから何千キロも離れたロシアのクリミアで、両者の間で大規模な軍事衝突を引き起こすに至った。クリミア戦争以来、英露の対立は、両国間の直接的な軍事衝突以外の形で、今日まで、時々刻々と続いている。その背景には何があるのだろうか。そのルーツはどこにあるのだろうか。19世紀、その根源は本質的に2つあった。第1に、イギリスのインド領有に全面的に焦点を当てたイギリスのロシア恐怖症、第2に、特にイギリスのホイッグとリベラルが、ロシアの政治・文化の後進性とその独裁体制に感じた軽蔑、軽蔑、怒りであった。この2つの要因は今日でも英国で作用しているが、20世紀にはこの2つの要因に加え、重要な第3の要因が加わった。

 

ピョートルからパーヴェル、アレクサンドルへ

 18世紀末には、1600年当時イギリスとモスクワだった2つの国家が、世界を股にかける大帝国イギリスと帝政ロシアになり、イギリスは「クジラ」(その海上権力からこう呼ばれた)、ロシアは「クマ」呼ばれるようになった。その島から、イギリスは海を越えて世界のほぼ全域に広がり、ロシアは陸を越えて西はバルト海、南は黒海、東はシベリアや太平洋に広がっていた。18世紀、イギリスのエリートたちは、フランスに対抗し、フランスに代わる世界的な大国となることに夢中だった。ピョートル大帝(1682-1725)以降のロシア皇帝は、自国の西洋化を徐々に進め、南と南東のイスラム勢力、オスマントルコペルシャに対抗して拡大しようとした。イギリスとロシアの関係は、世紀半ばの七年戦争で敵対する大国と同盟した以外は、全体として良好であったが、実際に自国の軍隊が衝突することはなかった。本格的な緊張が始まったのは、1790年代のエカテリーナ2世(大帝)の時代で、ウィリアム・ピット(William Pitt)が英国で首相を務めていた時である。イギリス経済にとって重要なインドの支配を常に懸念していたイギリスのエリートたちは、ロシアがイギリスのインド支配に対する間接的、直接的な脅威となる可能性を感じ始めた。エカテリーナ女帝のトルコに対する攻撃的な政策のためである。トルコは、イギリスが他のヨーロッパ列強をイギリスのインドから遠ざけるための門番国家と見なされていたためだ。ジャシー条約(1792年)の後、ロシアがオチャコフ(オデッサ近郊)の要塞を奪取すると、ウィリアム・ピットは積極的に戦争を予告し、艦隊を出港させたが、ロンドンの有能なロシア大使が英露関係問題でピットの立場を弱めるキャンペーンを組織し、ピットは引き下がった。

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 第一次世界大戦(1907-1917)と第二次世界大戦(1941-45)前後のごく短い期間を除いて、英露関係がそれ以来の有毒関係に向かったのは、新皇帝アレクサンドル1世の治世になってからである。1815年にナポレオンが敗れた後、1000年の時を経て、大クジラと大クマとなった両国は、一見永久に敵対し続けるかのような状態に陥ったのである。そしてそれは、最初はインドを失うかもしれないという英国エリートのパラノイアから始まった。このパラノイアは、後に19世紀には、まさに英国的な言葉「グレート・ゲーム」(The Great Game)の下に偽装された。

 

1815年以降のロシア恐怖症:グレート・ゲーム

 1815年のウィーン会議以降、イギリスのロシア恐怖症が本格化したのは、ポーランドをめぐる論争がきっかけであった。当時、イギリスの有力外務大臣であったキャッスルレーグ卿は、ポーランド国王の戴冠を希望していた皇帝アレクサンドル1世に強く反対していた。1812年にナポレオンが流した「ピョートル大帝の遺言」という反ロシア的なポーランドの贋作は、ロシアがイギリスのインドを狙ったなどと非難していた。この時、初めて英語に翻訳された。ガイ・メッタンが『Creating Russophobia』(2017)の中で、"ロンドンでますます力をつけていた帝国主義ロビーは、その後ロシアを見失うことはなく、ロシアの大義の最も決定的な敵対者となった... "と書いている。1820年代には、ロシアの無制限な拡張への渇望と、彼らが英国の利益にもたらす脅威についての手紙、記事、極論が英国の新聞に頻繁に掲載されるようになった。英国の自由貿易の信条を代表し、トーリー政権に反対する中産階級自由主義者であるホイッグ家も、ロシアを後進国、野蛮国、非自由主義者とみなして猛烈に批判していた。この激しさは、世紀半ばのリベラル派に受け継がれ、今日でも『ガーディアン』紙や『BBC』などのメディアに受け継がれている。ロシア人が「世界征服」を企んでいるという不条理な告発の中で、ピョートル大帝の偽造された遺言書が、しばしば明確に言及されることなく、繰り返し引用されたのである。1820年代、トルコからのギリシャ独立問題でイギリス政府はロシアと同盟を結んだが、イギリスの新聞はロシアがコンスタンティノープルを占領して地中海に侵入し、インドへの海路と陸路を脅かすのではないかと常に疑い、ロシア恐怖症の太鼓を鳴らし続けた。また、1830年ポーランド人がニコライ1世に対して反乱を起こし、これが鎮圧されると、イギリスの中流階級は大きな感動を覚えた。言うまでもなく、当時も今も、イギリスの中流階級は、ロシアやポーランドの実際の生活については、新聞が伝えること以外、ほとんど何も知らない。漫画家グランビルの有名な漫画は、ポーランド人の死体に囲まれてパイプを吸うコサックという設定であった。例によって直ぐに忘れてしまう-わずか12年前にマンチェスターで竜騎兵が公民権運動のデモ参加者を虐殺していた。1833年、ロシアとトルコは和平協定に調印したが、トルコがロシア海軍の地中海進出を許すのではないかと相変わらず恐れていたイギリスの報道陣を激怒させるだけであった。実際、ロシアはイギリスと同様にトルコの衰退を懸念していた。トルコとの和平協定により、ロシアは黒海北東部のチェルケス地方(北コーカサス)を完全に支配下に置くことができたが、チェルケス人はこれに反対した。イギリスは密かにチェルケスに武器を送ったがバレてしまい、両国は戦争寸前までいったが、当時ロシアと戦うための大陸の同盟国が確保できなかったため、イギリスは引き下がった。

 

 「グレートゲーム」という言葉は、イギリスの将校アーサー・コノリーが、トルクメン族をロシアに反乱させようとしたが、1842年にボカラで斬首されるに至ったことから生まれた言葉である。この数十年の間、中央アジアの奥地では、イギリスの兵士、エージェント、スパイによる果敢な「冒険」が数多く行われた。彼らの活躍は新聞で熱心に報道され、イギリスにおけるロシア恐怖症の火種を増やした。

 

 この「冒険家」の一人が、謎めいたイギリスの発見者、翻訳家、作家、東洋学者、秘密工作員、外交官、オカルト研究家のリチャード・フランス・バートン卿(1821-1890)で、広く旅をしてユーラシアの29言語に熟達していた人物である。小説家で政治家のエドワード・ブルワー・リットンやスタンホープ卿とともにオカルト集団「オルフィック・サークル」のメンバーで、霊媒師の妻イザベルを通じて定期的に「あの世」にアクセスしていた。バートンはこう語っている。「私は、スラブ人はヨーロッパの未来人種であり、中国人は東洋の未来人種であると信じている。長い間忘れ去られた後に生きているかもしれない政治や歴史を書くには、真実を語り、反発や魅力を埋めなければならない」(1) と言い、パーマストン卿が出席した夕食会でこれを繰り返し、「ロシアと中国はいつか中央アジアをめぐって争うだろう」と付け加えた。

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 1840年代初頭のエジプト危機は、イギリスのロシア恐怖症をさらに煽った。メッタン氏はこう指摘する。 「わずか25年の間に、イギリスの世論は完全に逆転してしまった。フランス皇帝が望んだ反英封鎖に参加するのが嫌で、イギリスと一緒にナポレオンと戦争した特権的な同盟国から、ロシアはイギリスの公的敵ナンバーワンになったのである自由主義的なイギリスの偉大な同盟者であったロシア皇帝は、野蛮で猛烈な拡張主義の専制君主となったのである。それ以来、イギリスのロシア恐怖症は、世論の中にしっかりと根を張り、急速に戦争に発展していった。イギリスのロシア恐怖症の応援団長であるパーマストン卿は、ロシアとの戦いを「専制政治に対する民主主義の戦い」と表現した(今日のイギリスの政治家と同じだ)。火種は1853年に起こった。オスマントルコが統治するパレスチナで、キリスト教少数派の権利をめぐる論争が起こり、その年の10月、トルコがロシアに宣戦布告した。ロシアはシノペでトルコ艦隊を撃破し、トルコの崩壊を恐れたイギリスとフランスが参戦し、クリミア半島に侵攻した。この戦争は、英軍とロシア軍が直接衝突した唯一の戦争であり、英露関係の分水嶺として、60年以上にわたって英露関係を毒することになった。写真に撮られ、プレスで詳しく報道された最初の戦争であり、その名前と出来事、恐怖と英雄、勝利と災害は、国民の意識に刻み込まれた。イギリス全土にある数え切れないほどの通りの名前は、この戦争に由来している。

 

 クリミア戦争でのイギリスの困惑と、その後のアフリカでの植民地闘争での敗北は、その60年間、イギリス帝国主義者をさらに不安にさせるだけであった。1897年のヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーで権力の絶頂にあったにもかかわらず、また帝国としての誇りと誇りをますます高めていたにもかかわらず、イギリスのエリートは帝国が国内外ともにもろく、1870年代以降は経済的にドイツやアメリカに負けつつあることを知っていたのである。クリミアでの高価な勝利からわずか2年後、インドの反乱が勃発し、激怒したイギリス人は深い衝撃を受け、インド人がさらに反乱を起こす可能性を認識し、インド人に対する人種的優越感と心理的距離を大幅に拡大させたのだ。

 

 その一方で、ロシアは鉄道を敷設し、この数十年間にカスピ海からアフガニスタンへと中央アジアをゆっくりと、しかし着実に前進させた。このような状況下、英国は、国家的・個人的利益の源泉であり、文明的・文化的・宗教的・職業的・人種的誇りであり、冒険心や自己主張の欲求であるインドを失う可能性があることを相変わらず恐れていたのである。1877年から1907年の30年間はグレート・ゲームの最盛期であり、ロシアはインドにますます接近していた。ディズレーリは、1858年に東インド会社を国有化した友人である植民地長官エドワード・ブルワー・リットンのもと、1876年にヴィクトリアを「インド皇后」として宣言した。ディズレーリはまた、友人の息子で、インド皇后ヴィクトリアの下で、もう一人のエドワード・ブルワー・リットンをインド総督に任命した。1876年、ブルワー・リトンの総督時代にインドで大飢饉が発生し、少なくとも800万人が死亡した。ブルワー・リトンは、彼の社会ダーウィニズムに基づく災害への対応のまずさを大いに批判されることになった。1878年、彼はイギリス領インドを第2次アフガン戦争に参加させたが、この戦争は第1次アフガン戦争とほぼ同じ理由で行われ、1879年には、ディズレーリア帝国が南アフリカズールー族の手にかかり、屈辱的な敗北を喫している。その後1914年までの40年間、帝国に対するイギリスの態度は、独特の傲慢さが際立っていた。帝国主義エリートの一部では、チャールズ・ディルク議員、歴史家J.R.シーリー、セシル・ローズミルナー卿、ジャーナリストW.T.ステッドなどが中心となって、世界をまたぐ統一帝国である帝国連邦(1884)という壮大な夢が膨らんでいたのだ。

 

 しかし、このような傲慢さが増すと同時に、ロシア、ドイツ、アメリカに対する弱さを自覚するようになった。この意識は、1887年から1907年にかけて起こったイギリス外交の革命につながった。1884 年から 87 年にかけて、ここでは説明しきれないほどの複合的な要因が結晶化したが、 おそらく最も重要な要因は、1887 年にイギリスが、シーク教徒の王子ドゥリープ・シンによるインドの反乱を支持する、迫る仏露同盟に直面したことであった。彼は、幼い頃インドから追放され、英国で育った。その後、彼はインドのルーツを再発見し、インドに戻ってパンジャブ地方の民を率いたいと考えていた。英国は、これを英国王政に対する最も重大な挑戦と考えた。ヨーロッパの2大国が援助するインドの反乱の予感である。皇帝アレクサンドル3世(1881-1894)がドゥリープ・シンへの支援を拒否したこともあり、なんとか危機を乗り切ったが、この危機は帝国戦略と外交政策を見直すきっかけとなった。彼らは、長期的な敵対国であるフランスとロシアからの共同の脅威には、この2カ国と手を組むことによって対応しなければならず、そのためには、フランスとロシアの敵であるドイツとオーストリアとの伝統的な友好関係を捨てる必要があるという結論に達したのである。

 

イギリスの国家神話

 先に進む前に、グレート・ゲームと 19 世紀の英露関係の非常に重要な背景となるモティーフを考慮しておく必要がある。ナポレオンとの戦争が終わるころには、イギリスとロシアはすでにそれぞれ非常に重要な国家神話を抱いており、その神話はそれぞれ異なる形で古代ローマに遡るものであった。16世紀にスペインのアルマダ艦隊に勝利し、18世紀から19世紀初頭にかけてフランス王室と帝国を屈服させ、北アメリカなどに植民地を作って成功したことから、イギリスのエリートとイギリス人の多くは、全体として、古代ローマを思い起こすようになった。アメリカなどの植民地化の成功、海外領土の拡大、世界一の海軍に守られた商業的業績、急成長する産業革命における科学技術の進歩や手腕に支えられ、イギリス国家という船の帆に神の摂理が吹いていると感じるようになったのだ。しかし、18世紀末のイギリスの国民意識には分裂があった。より冷笑的で利己的な人々、魂を救うことに関心がなく、利益を最大化することに関心がある人々、その価値観は合理主義や古典ローマのモデルの影響をより強く受けている人々であった。彼らは自らを現実主義者で「地に足の着いた」人間だと考え、国内外を問わず「世の中でうまくやっていく」ことを望んでいた。このような人々は、世界をありのままに受け入れ、そこから利益を得ようと考えていた。18世紀半ばに東インド会社の戦争で勝利を収めた将軍、ロバート・クライブがその一人である。・・・クライブほど、インドにおけるイギリスの権力構造を強固にした人物はいない。しかし、1767年にインドを去るとき、彼はこう言った。「我々は、...これらの地方のスーバー(支配者)に属していた権力は、事実上、完全に東インド会社に帰属していることを認識している。彼には権威の名と影以外何も残っていない。しかし、この名前、この影は、我々が崇拝するように見えることが不可欠である。」 これは、世界的に活動する東インド会社のリーダーを筆頭とするロンドン市の支配者たちの英国君主に対する態度でもあった。1688年のいわゆる「栄光革命」以来、あるいは1660年の王政復古以来、王位は君臨しているが統治しているわけではなく、我々ロンドン市の富裕層が統治しているという認識を持って、安心して王位を崇めることである。そんな権力者たちの皮肉な態度であった。しかし、インドから帰国して7年後の1774年、49歳のロバート(現クライヴ男爵)は、アヘン中毒でうつ病と胆石症を患い、ペンナイフで喉を切り裂き、自らの成功の犠牲になって死んでしまった。

 

 16世紀のエリザベス朝時代の船乗りや冒険家たち、すなわちドレイク、ホーキンス、フロビシャー、ローリーといった「後期ヴァイキング」の時代から、英国の拡張は利益欲、好奇心、冒険心によって推進されてきたバージニアからカロライナまでの北アメリカ最南端の植民地がそうであったが、バージニアからマサチューセッツまでの北部の植民地には、宗教的な動機もあった。 ピューリタンたちは、自分たちのモデルとなったイスラエルの人々のように、罪深い「エジプト」(すなわちイギリス)の邪悪さから逃れ、約束の地を北アメリカに求めようとしたのである。オランダで出会ったユダヤ人に感銘を受けたアメリ清教徒は、自分たちを神の新しい「選ばれし民」と見なすようになった。名目上はキリスト教徒であったが、特に旧約聖書に従って生活していた。そのため、全員ではないが、彼らの多くは、自分たちがその中に「カナン人」としてやってきた先住民を、神の恵みを受けない野蛮人であり、ヨシュアがカナンの民に対して行ったように、必要なら大量虐殺さえしていい、過酷に扱うべき存在であると考える傾向があった。しかし、1770年代以降、イギリスでは福音主義聖公会という新しい宗教運動が起こった。この運動は、新しい形の「選ばれし民」神話を生み出し、キリストと聖霊における内的生活と新生を強調するメソジスト派の敬虔主義は、旧約聖書よりも新約聖書を重視し、宗教性が外的な形式、儀式、社会的慣習の遵守という問題になってしまったと多くの人々が感じていた英国国教会の既成教会に挑戦したのだった。 多くの人々は、聖職者と信徒が共に高い道徳基準を持つことを強調した、経験豊かな宗教生活を切望していたのだ。アメリカ植民地喪失のショック、アメリカ独立宣言の年に出版されたエドワード・ギボンの『ローマ帝国の衰亡』、東インド会社の腐敗を裁いたウォーレン・ヘイスティングスの裁判、上流階級の多くの人々の贅沢な退廃、産業革命の過酷さと奴隷貿易の害への認識の高まり、こうしたすべてが、神がイングランドの罪に対して試し、罰しようとしているという観念で多くの人を満たしたのである。しかし、新約聖書、個人の魂に宿るキリスト、虐げられた人々や奴隷への憐れみという新しい視点にもかかわらず、イギリス人の間には、自分たちは結局のところ神に選ばれた民であり、世の光となるべき運命の人々であるという新しい確信が生まれつつあったのである。「神に挑む者はイングランドに挑む」「イングランドに挑む者は神に挑む」。イングランド人は、神から世界権力のマントを授かったのだから、それを「正しく」使わなければならないと考えた。そのため、彼らは「適切」である限り、あるいは摂理の定める限り、そのマントを保持することを決意したのである。福音主義聖公会は反奴隷運動に積極的であり、1833年までに大英帝国内で成功を収めた。英国海軍が世界中をパトロールして奴隷商人を逮捕し、英国の商業のために海洋の安全を確保するにつれ、英国の自由主義的な人々は道徳的優位性を自惚れ、次第に帝国に関する神の権利の感覚を持つようになった。特に1858年に東インド会社が国有化されて英国国がインドの運営を引き継いでからは、この感覚が強くなった。中世の神話、竜から乙女を救う聖ゲオルギウスは、外務省の行動を正当化するのに非常に役に立った。もはや帝国は単なる利益と富の源泉ではなく、「愚かな民衆を専制政治から救う」あるいは「原住民を高める」という道徳的、摂理的な十字軍でなければならないと感じられるようになった。歴史や帝国の運命や使命について、大きく膨らんだ視点が現われた。自由、議会政治、法律、文明、キリスト教といったものを世界中に広めることが、今やイギリスの仕事だと考えられていた。

 

 19世紀のイギリスでは、古代ローマの運命に似たようなことが、帝国に対する態度で起こった。・・・ローマ帝国は、時代が進むにつれて、その姿勢や価値観がローマ的ではなく、ギリシャ的、アジア的になり、ますます尊大で気取ったものになっていった。同様の変遷は19世紀のイギリスでも起こり、世紀後半に頻発した軍事的な不振に反映された。ナポレオン時代の英国生活の堅実な厳しさと、ジョージアン様式の建物の平凡で古典的なラインは、あの本質的に中流階級ヴィクトリア女王とその配偶者アルバート王子が主宰する「よりソフト」でロマンティックなイメージに変わり、その国民、あるいは余裕のある人々は、騎士道的な中世やゴシック様式への郷愁に浸り、芸術や建築における「新しい」ロマン派の感性を反映したのである。あるいは、1820年代から30年代にかけて、いわゆる「科学的」人種主義が定着し始めると、他のイギリス人は、自分たちが古代イスラエル人の文字通り末裔であると思い込んだ。彼らは、旧約聖書の失われた10部族という形で聖地からヨーロッパに渡り、北ドイツやデンマークに移住し、そこからイギリス王室を作り出したと、新しいイギリス人のイスラエル運動で語られていた。この考えに共鳴したヴィクトリアとアルバートは、王室の男性に割礼を施し、王室の男性相続人は、故ダイアナ妃が反対するまで割礼を施し続けたようである。世紀前半のイギリスの象徴は、自己満足的で物質主義的、地に足の着いたヨーマン従者ジョン・ブルであったが、後半は洗練されたイギリス紳士の真髄、あるいはブリタニアやイギリスの獅子の寓意像であった。

 

 ルドルフ・シュタイナーは、1920年2月、多くのイギリス人が出席した講演会で、この過程をユーモラスに表現している。彼は、帝国の始まりは、「帝国の中心部では、どちらかといえば好ましくない存在とされていた冒険家たち」が、財を成しに出かけ、富を手にして帰ってきたことだと、かなり皮肉を込めて語っている。社会は彼らを不審に思ったが、彼らの息子や孫は少しは「いい香りがした」。「そして、いい香りを漂わせ始めたものを、空疎な言葉が支配していく。国家がすべてを掌握し、保護者になり、今度はすべてがまっとうな形で行われる。物事を固有名詞で呼ぶことができればいいのですが、固有名詞が実際の現実を示すことはほとんどありません」 彼はこの講演で、過去5000年ほどの間に展開した3つの帝国主義の時代について述べているのである。まず、半神半人の神王が支配する神官帝国、次に、支配者がもはや神王ではなく、神に代わって神の権利によって支配する象徴である貴族戦士階級が支配する軍事帝国、これはいわば既に一段落したものであった。そして最後に、16世紀以降は、最初は貿易と他人の土地の窃盗に基づいた経済帝国であるが、それはその後、経済帝国を恥ずかしくないものにするために、立派で空虚な言葉で装飾し、美化し、「着飾る」ことさえされたと言えるかもしれない。今日、世界経済フォーラムのような機関や現代政府の外交政策声明にこれと同じものが見られる。特にイギリス政府は、過去2世紀にわたって偽善を一種の芸術にしてきたと言う人もいる。

 

ロシアの国家神話

 一方、ロシアは、過去と現在の2つの国家神話を独自に発展させていた。ひとつは、グレコローマンビザンチン時代のコンスタンティノープルに由来する神話で、最初のローマがあり、それは476年にゴート族の手に落ち、第2のローマ、コンスタンティノープルに取って代わられ、これも1453年にトルコ人の手に落ち、正教会のマントを身につけたモスクワに取って代わられたとするものである。15世紀末にロシアの教会界で生まれたこの考えによれば、モスクワは「第三のローマ」となり、1492年にモスクワのゾシムス大司教は、イワン3世を「新コンスタンチンの都市-モスクワの新コンスタンチン皇帝」と呼んでいる。修道士フィロテウスは、16世紀初頭にこう書いている。「敬虔な王よ,すべてのキリスト教の王国は終焉を迎え,あなたの一つの王国に集まったことを知りなさい,二つのローマは滅び,第三のローマが立ち,第四のローマは存在しないであろう [強調追加] 。偉大な神学者によれば、誰もあなたのキリスト教チャルドムに取って代わることはできない」[すなわち黙示録主義者の聖ヨハネ]。(これによって、ロシア人は自分たちの国が、ある意味で神から承認されているのだと感じたに違いない。ロシア皇帝の名前はもちろん「シーザー」から来ているのだが、コンスタンティヌス帝以降の1000年間のビザンティン皇帝が自らをそう考えていたように、ロシア皇帝はすべてのキリスト教徒の保護者であり父であったのである。正教会の総主教は、ローマ教皇が自らを王や皇帝の上位に位置づけ、1860年代まで領土支配者であったのとは異なり、常に皇帝に従属した存在であった。そのため、ロシアがオスマントルコをクリミアやバルカン半島から追い出そうとするとき、ロシア国家の衝動は少なくとも半宗教的なものと見なされた。また、ロシアは自らを南スラブ人のキリスト教正教の守護神とみなしていた。

 

 さらに19世紀初頭以降、西ヨーロッパからナショナリズムや人種主義の教義が広まり、ロシアでも取り上げられるようになると、もう一つの国家神話が生まれた。汎スラブ主義の思想である。これには、特にロシア帝国的、保守的、伝統的な形態(長年ロシアに住み、かなりの影響力を行使したサボイヤードの外交官ジョセフ・ド・メイスターが推進)と共和制国家主義的形態の、二つの形態がある。

 

汎スラブ主義とロシアへの憎悪

 この世俗的な民族主義的汎スラブ主義は、トルコびいきのイギリス人歴史家ジョン・ミル(注:哲学者、経済学者、国会議員のジョン・スチュアートミルではない)の著書『ヨーロッパにおけるオスマン帝国』(1876年)からわかるように、イギリスのエリートたちによって支持されていた。この本は、19世紀に英国に蓄積されたロシアに対する憎悪の度合いを鮮明に教えてくれる(そしてそれは今日でも、BBCのニュースや時事番組で定期的に流れるオーウェル式の「反ロシア、プーチン嫌い」のプロパガンダ枠を通じて、英国メディアの中で、より直情的にではあるが表現されているのである)。ミルはトルコ人を「東洋のイギリス人」と大絶賛した後、スラブ人についてこう言っている。

 

"スラブ人は文明人を創造しようとした自然の最大の失敗作である .... ロシアの弱さの主な原因は、スラブ人の心の奥底にある。それは真実の欠如であり、この真実の欠如は国家のあらゆる部門にその腐敗をねじ込む...」[...]「過去何年もの間、ロシアは、我々がオカルト兄弟団の本で読んだ、「卑劣な深みから霊を呼び出す」魔術師の一人のようだった、しかし彼らは自分が支配し鎮めることができるものを呼んだということで、ロシアとは異なる。彼女(ロシア)は、その貪欲さ、強欲さ、残忍な欲望によって、制御することが全くできない悪魔を目覚めさせてしまった。彼らは彼女の身体と魂に取り憑いており、彼らはすべて血の小鬼なのだ。ロシアは憎悪の国であり、不信の国であり、残忍な力の国であり、忌まわしい臆病の国であり、公務のある部分では大量の浪費の国であり、ある部分では痛ましい惨めな国の国である。皇帝とその一派は、ある程度は軍事的情熱を導き、抑制し、農民を服従させているが、これは長くは続かないだろう。東方問題は血で解決されなければならない。それは単に一連の外科手術であり、多かれ少なかれ巧みに行われなければならない。最終的な問題は、切断を行う当事者のうち、誰が枯渇に最も耐えられるかである。3つの国がある。ロシア、オーストリア、トルコは手術室に入らなければならない。他の国、特にイギリスは引きずり込まれるかもしれないが、前者の3国には逃げ場がない。(中略)ロシアの解決、いやむしろ消滅は、本当の東方問題である...それはむしろ東方というより北方の問題である" (強調 TB)

 

 カール・マルクスが英国にいたとき、もう一人の不屈のロシア嫌い-外交官、作家、政治家であるデイヴィッド・アークハート(1805-1877)で、親トルコ、反ロシアのプロパガンダに人生の約40年を捧げ、そのために新聞社を設立し、プレスに延々と記事や手紙を書き続けた-と協力して書いた文章にロシア人とスラブ一般に対する同様の人種差別に満ちた文章が見つかる。

 このように、ミルと彼のような考えを持つイギリス人(彼らは多数いた)は、彼と彼らが非常に誇りに思っていた大英帝国を維持するために、ロシア帝国を崩壊させることに関心を抱いていた。ミルのような英国人がトルコに関心を持ったのは、トルコをインドにおける自分たちのラージ(インド統治)への入り口とみなしていたからであり、その入り口は挑戦者に対して閉ざしたままにしておこうと決心していたからであることを心に留めておく必要がある。

 

 同様に、今日、英国国防長官ベン・ウォレスや最近の英国首相ボリス・ジョンソン、リズ・トラス、リシ・スナクのような人々がウクライナを気にかけていることはありえないが、彼らは間違いなく西側の上級地政学者と同じように、西側のロシアに打撃を与えられる道具として、また、2002年から2021年までに中央アジアで失敗した米国と英国がいずれズビグニュー・ブレジンスキーが主張した中央アジアへの再侵略を期待できる経路として考えているだろう。ジョン・ミルのような19世紀の「知る人ぞ知る」英国人は、彼らが共和制民族主義汎スラブ主義と呼ぶものを、彼らがロシア帝国汎スラブ主義と呼ぶものに対するハンマーとして使おうとしていたのである。共和主義的な民族主義的な汎スラブ主義が、ロシアをドイツやオーストリアとの大きな戦争に引き込むために利用できると考えたのだ。この戦争は、ロシア国家の崩壊か、共産主義者によるロシアの乗っ取りを招き、内戦を通じてロシアの解体に至るかもしれないのだ。ミルの著書には、ロシア、東欧、中欧の将来計画に関する地図が掲載されている。この地図は、ロシア帝国の目的のために秘密結社で流通していたものであり、また、フランス革命の共和制民族主義的遺産を代表するナロード・オドブラナやオムラーディナの組織など、世俗民族主義・共和制のパンスラヴィストの目標を明らかにするものもあると彼は述べている。しかし、後者のグループが目標を実現するためには、英仏の伝統的な同盟関係、友好関係、敵対関係を逆転させなければならない。イギリスの伝統的な敵であるフランスとロシアは、ドイツとオーストリアに対抗して、中央ヨーロッパ列強を包囲するためにまとめられなければならない。 そして、1860年代には考えられなかったこれらの驚くべきことが、1887年から1907年にかけて、先に述べた外交革命によって一歩ずつ進められ、1907年にはイギリス、フランス、ロシアの3国協商が、ドイツ、オーストリア、そして名目上イタリアと対峙するまでになったのである。この外交革命は、7年後の1914年、第一次世界大戦に直結した。この戦争は、セルビア民族主義的汎スラブ主義の問題をめぐってボスニアで始まり、セルビア主導で全南スラブ人の連邦国家を建設しようとするものであった。これは、ロシアの帝国汎スラブ主義と、正教のためにコンスタンチノープルを回復し、自らの「キリスト教帝国」を築こうとするロシアの熱望に対抗するものであった。

 

 今日のウクライナでは、英米は、ポーランドアメリカ人の地政学者であったズビグニュー・ブレジンスキーの戦略書を使って、同様のスラブ民族の憎悪を操り、1914年のように、ロシアを再び破滅させる意図で、再び長期戦争に引き込もうと考えているのである。ミルが書いた1876年のロシアと1914年のロシアとの違いは、1914年までにロシアが大国に発展し、イギリスとドイツのエリートが自国の帝国の存続を脅かす主要な脅威と見なしたことである。英国は、インド支配と世界帝国全体の存続を相変わらず強く懸念していた。インド総督のカーゾン卿は1901年に次のように述べた。「インドを支配している限り、われわれは世界最大の権力者である。それを失えば、たちまち三流国 に転落する」(10) ロシア帝国自身の汎スラブ主義の野心を知っていたドイツ外務省は、ロシアがドイツとその同盟国オーストリアとトルコを、コンスタンティノープルの回復とバルカン半島の支配を中心とするこれらの野心の邪魔者と考えていることも承知していた。ロシアが疑わなかったのは、三国同盟のイギリスの「同盟者」が、ロシアを破壊、分裂、あるいは著しく弱体化させる戦争を実際に計画していたことであろう。アメリカの歴史家ショーン・マクミキンの著書『The Russian Origins of the First World War』(2011 年)は、単なる第三次バルカン戦争を汎欧州・世界大戦に発展させたロシアの責任を指摘するのは正しいが、彼が見落とした、あるいは見ようとしなかったのは、インド支配に依存する世界帝国の存続を危惧するイギリスと、1871年にドイツにアルザス・ロレーヌを奪われたことへの復讐心に燃えるフランスが、1914年6月28日にサラエボで暗殺者の銃弾によって始まった悲劇の幕開けを30年近く牽引してきたということである。ドイツ人もオーストリア人もロシア人もトルコ人も、この英仏のパラノイアとレバンキズム(失地回復政策)の犠牲者として、ミルの「切断」のための「手術室」に入ることになったのである。

 

 1993年、ジョン・ミルが1876年に出版した『ヨーロッパのオスマン帝国』(その本の副題は、「あるいは現在の危機におけるトルコ、秘密結社の地図とともに」であった)でかろうじて隠されていたイギリスの意図を裏付ける本が出版された。ミルによれば、それらの秘密結社は、汎スラブ主義者、すなわちフランス革命民族主義的共和主義的遺産を代表する共和制汎スラブ主義者オムラディナ派の背後に立つ政治的秘密集団であり、またロシア帝国汎スラブ主義の目標を支持する秘密集団であった。1993年の本は、チャールズ・G・ハリソンの『超越的宇宙』である。ハリソンが100年前の1893年に行ったオカルトに関する6つの深い講義をまとめたものである。彼は 「次の偉大なヨーロッパの戦争」、 「ロシア帝国の死、それによりロシアの人々が生きることができること」と、また「(ロシア人の)国民性により、彼らが西ヨーロッパで無数の困難を提示するであろう社会主義、政治、経済の実験を実行することができる」と予言した。(強調TB)

 

 これは、ジョン・ミルが1876年の著書で、「もし(ロシアの)皇帝の軍隊がドナウ川を越えて別のセダンに陥ることがあれば、モスクワですぐにコミューンが宣言されるだろう」と書いたときの意味である。イギリスのオカルト界や政界では、ロシアにまもなく共産主義が訪れ、西側がそれを実現させるだろうという期待があった。シュタイナーは、1890年代のロンドンの秘教界で何が起こっているかを把握し、国際的に活躍していた神智学者フリードリヒ・エクスタインとの友情により、ミルがほのめかし、ハリソンがより明確に述べていたこの議題に非常に気づいていたのである。シュタイナーは、もし人々が西洋のエリート勢力の嘘と欺瞞に目覚めなければ、ゲルマンとスラブ文化に由来する衝動によってエリートの行動が克服されるまで、結果としてひどい苦痛と暴力がもたらされるだろうと感じていたのである。

 

 1900年12月22日、アメリカの雑誌『アウトルック』では次のように語られている。「真の政治家は未来に目を向けるものである。過去の問題がアングロサクソン文明とラテン文明の間にあったように、未来の問題はアングロサクソン文明とスラブ文明の間にあることは、このように未来に目を向ける者には明らかである。・・・賢明な政治家は、アングロサクソン型文明の最終的な勝利のために、すべての同胞の間に友好的な関係を築くことによって、可能な限りの準備をする」 今日ウクライナでは、別の代理戦争において、一方ではアングロ圏とその代理国、他方ではロシア(そしておそらく中国も)の間の闘いを目撃しているのである。

 

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 この論稿は更に、「1900年から今日までの英米露の対立」へと続くという事である。

 

 文章の後の方に、『超越的宇宙』の著者としてチャールズ・G・ハリソンの名がまた出ている。シュタイナーも彼に触れて、アングロサクソンの秘教団体における対ロシアの思惑が窺えると語っているが、ボードマン氏も、この本では、ロシアにおける社会主義革命が予言されているとしている。ロシア革命の背景に実は英米の支援があったのは事実であり、その実態は、1つの社会実験であったという指摘もある。またロシアを衰退させ、他のヨーロッパ諸国、特にドイツとの分断を生み出すという意図もあったわけである。(現在のウクライナ問題の根も、ソ連崩壊時の不自然なロシアとウクライナの国土の線引きにあるのだが、それに意図的なものを見る考えもあるようである。)

 上の文章では、『超越的宇宙』が実際の講演の100年後に出版されたとあるが、実は、本の初版は、1894年である。それによってシュタイナーもハリソンの講演の内容を知ることができたのである。

 ハリソンと『超越的宇宙』については、語るべきことが残っているが、これはまた別の機会としたい。

キリスト教芸術におけるブッダ③


サリンベーニの聖母

 この項目は、ブッダの霊的潮流がキリスト教に流れ込んでいるとのシュタイナーの主張を考察するものであり、その②では、それを裏付けるものとして、通常のキリスト教芸術学では理解が困難な絵、ブッダ風の霊的存在が描かれているグリューネヴァルトの絵を見た。

 ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏は、その著書『絵画における二人子どもイエス』において、更に驚くべき絵画を紹介している。

 それは、ウルビーノ(イタリア、マルケ地方)のサン・ジョバンニ教会のフレスコ画である(上図)。

 この絵に描かれているのは、女性のようであるが、光背を背に持ち、脚を組み、両手は印を結んでいるように見える。我々日本人には、まさに仏か菩薩のように見えないだろうか。

 この絵について、クラウゼ=ツインマー氏は、先ず次のように述べている。

 

 「(ウルビーノの)多くの訪問者は、見物先をラファエロの生家とドゥカーレ宮殿に限っている。彼らは、それにより第3の宝物、即ち、を見逃している。それは、サン・セヴェリーノのサリンベーニ兄弟(訳注)によるフレスコ画によって飾られている。その主なものは、洗礼者ヨハネの生涯についての大きなシリーズもので・・・ある。

 ・・・その空間の正面の壁は、その全てを磔刑の光景に支配されており・・・その前にかつて洗礼盤があった洗礼者〔ヨハネ〕の立像の左右に、二人の聖母がおり、それぞれその両側に、二人の聖人-そのうちの一人はそれぞれ洗礼者である-が立っている。」

 

〔訳注〕ロレンゾ・サリンベーニ(サン・セヴェリーノ・マルケ1374-1418年頃)とヤコポ・サリンベーニ(1370 / 80-1426年後)の兄弟で制作した。その作品の多くは、故郷のサン・セヴェリーノマルシェとその周辺の教会にある。

 

 サン・ジョバンニ教会は、この都市の洗礼教会(ラファエロもまたここで洗礼を受けた)で、その名の通り、洗礼者ヨハネに献げられた教会である。この絵は、2枚ある聖母子の絵の一方のものなのである。

 上に載せた絵は実はこの絵の一部を切り取った(そして細部があいまいになっている)絵であった。次に、この絵のより鮮明な全体像を下に載せる。

 これではっきりわかるように、聖母の膝の上にはイエスが、両脇にはヨハネともう一人の聖人がおり、聖母のオーラの上部にはキリストが描かれており、この絵は、紛れもないキリスト教の聖母子像なのである。

 しかし、この絵は、通常の聖母子像からはあまりにもかけ離れている。この「東洋風」で、一見して「子安観音」のようなこの絵こそ、ルカ・イエスに漂うブッダのオーラを表現している絵であるとして、クラウゼ=ツインマー氏は、この絵について次のように解説している。

 

 「二つの聖母のフレスコ画の右側には、語るべき特別なことは何もない。それは、黄金のユリの紋様の付いた青いマントを付け、赤い衣服を着た、高い玉座に座っている聖母を描いている。典型的なウンブリアの筆により、王族的雰囲気が強調されるべきこの場面ですら、強力な威厳ではなく柔和さと内面性が聖母の本質に結び付けられている。

 左の聖母に目を向けると、先ず、この絵は、全く特別で、その“東アジア的”とでも言うべき魅力を言い表す言葉がないと人は思わざるをえない。しかしその際、それは、全く西洋の絵画であり、その上に、この秘密の僅かな気配が、(逆説的に表現すれば)組み入れられた伴奏音楽のように広がっているのである

 この聖母は椅子に座っているのではない。彼女は、雲の上に腰を下ろしているインドの神々のように、あるもの-その上に彼女の着ているベールが掛けられている、地面から突き出た平たい鉢のような岩塊かもしれない-に座っているのである。彼女の片方の足は、鋭角に折りたたまれて地面と水平に置かれ、その覆われた膝が見える。もう片方の足は、もっと高くなっており、その上に、小さな頭を母親の胸に押し付けて眠っている子どもをのせている。この子どもの頭の後ろで、聖母の手は、その個々の指により、優美であるが、明確な仕草を作っている。接した親指と中指により開いた円が形作られており、それを保護する様に伸びた指が添えられている。この特徴的な仕方により、彼女は、手の平を内側に向けて、東洋の瞑想する姿を思い出させる仕草で、子どもの頭の背後のエーテルの息吹をこの上なく繊細に守り、包み込むかのように、子どものほとんど見えないベールをつまんでいるのである。

 ところどころ赤く輝いている黄緑色の彼女の衣服は、植物のような文様が散りばめられているが、しかし、すべてが霞みがかっており、息吹が感じられ、エーテル的である。彼女は、閉ざされていない自然の中で座っている。彼女の背後の木の葉を通して、黄金の天使が輝いており、従って、インドの“オーム”(訳注)、神的で聖なる世界の息吹が、そのすべての秘密とともに、そこになお、ささやき、漂い、輝いて存在している木を、彼女は後ろにもっているのである

 

(訳注)インドの諸宗教や仏教で神聖視される聖音・真言。音韻的には、A・U・Mに分解され、宇宙の根本原理を象徴するとされている。祈りや瞑想時に唱えられる。仏教では、阿吽(あうん)と表記されるが、その意味は万物の初めと終わりである。ちなみに、聖書によれば、「言葉(ロゴス)」(ヨハネ伝1:1)であるキリストは、「アルファにしてオメガ」(ヨハネ黙示録1:8)(即ち最初にありまた最後にあるものという意味)であるとされる。

 

 予感しながらこの魂を貫くものは何か、菩提樹の下のブッダのように、始めと完成が自身の中で円環を形成するのを感じている、この聖なる女性のからだを満たすものは何か。彼女の頭の光輝が、これを私達に示している。それは黄金ではなく、彼女の肩から発して円弧を描いて頭を取り囲んでいる、微妙な色彩の陰影をもった球状の層である。それは、12人の男性-12弟子―の胸像が描かれたメダイヨンのような12の小さな円を、周囲のバラ色の輪の中に包含している。しかし、彼女のオーラはその頂点で、復活したキリストが勝利の旗をその中で掲げているきらびやかな円によって開かれている。

 そのすべてがこの聖母のオーラの中に含まれている。彼女は、眠っている子どもを見守る一方で、復活祭の勝利に既に照らされている-それはミッションの最初と最後である-。悲痛と十字を予感し悲しんでいる聖母ではなく、完全に、霊的目的と(彼の息子にお供する弟子達によって)カルマ的関係の中に入り込んでいる聖母である。

 その特徴を一言であえて表現するなら、次のようになる。ここにあるのは、インドの雰囲気に包まれ、それをほのかに発しているような、私達には「聖母像」として知られる、親密な母子統一体、である

 エス誕生の500年前に、彼以外の地上の人間の誰もそれを発展させ、人類に送ることができなかったような慈悲と愛の衝動をブッダは形成した。この諸力は更に保持され、地上の縛りを解かれて霊的世界に拡張された。それは、霊的な光の雲のように現れ、ルカの子どもの誕生に参与した。それは言わば、このたぐいまれな子供に、この人類のこの上なく純粋な衝動を引き渡すための霊的な揺り籠であった

 ここに述べられたルドルフ・シュタイナーの説明を彼自身の言葉で知る者は、一層深い驚きと様々な問いをもって、ウルビーノの聖母の繊細な魔法の前に佇むだろう。」

 

 聖母の光背にある12の化仏(けぶつ:小さな仏像)のような像は、12人のイエスの弟子達であった。しかし、12弟子としても、聖母のオーラにこのように描かれているのは珍しいことであるように思える。作者は、聖母とこの弟子達の何か特別な関係を示唆しているのだろうか。

 今回は、この点については深く触れないが、シュタイナーによれば、キリストを取り巻き、キリストの教えを人間に伝える12の菩薩(ボディサットヴァ)が存在するという。この絵からは、その東洋的雰囲気により、この12の菩薩も連想される。秘教において、「菩薩の総体」はソフィアと呼ばれるが、マリアは時にソフィアとも呼ばれるのである。

 
 最後に、仏教とルカ福音書との関係についてのシュタイナー自身の言葉を引用しておく。

 「霊的探求は、いかに仏教的世界観がルカ福音書の中に流れ込んでいるかを示しています。ルカ福音書から人々に流れてくるものは仏教だと言うことができます。・・・ルカ福音書の中には、霊的実質が感情に特定の仕方で作用できるように包含されています。・・・仏陀の応身の中に存在したものが洗礼者ヨハネの自我の中にインスピレーションとして作用しました。自らを羊飼い達に告知したもの、ナータン系のイエスの上で漂っていたものが自らの力を洗礼者ヨハネの中に及ぼしました。洗礼者ヨハネの説教は何よりも仏陀の説法の復活です。」(「ルカ福音書」講義 西川隆範訳)

キリスト教芸術におけるブッダ②

ベルゴニョーネ「イエスの神殿奉献」

 この項目の①では、主に、歴史的研究から指摘できるキリスト教への仏教の影響、つまり外的に現われた歴史的事象を見てきた。それに続き、今回は、シュタイナーに従って、ブッダキリスト教の関係に関わる隠れた歴史を覗くこととする。

 

アシタとシメオン

 ①で、ブッダが、ルカ・イエスの誕生の場面に天使の一群の中で臨在していたことに触れた。そしてその後も、ブッダとルカ・イエスの結び付きは続いたのだが、シュタイナーによれば、それは、イエスのオーラ(アストラル体)のなかにブッダが存在するという関係となったのである。霊視能力を持つ者には、イエスの背後にブッダが見えたということである。

 さて、ブッダ(ゴータマ・シッダルタ)の誕生説話には、次のような物語がある。

「シッダルタ王子が生まれたとき、インドにひとりの賢者がいた。アシタである。彼は、いま菩薩が生まれた、と霊視する。彼は王城でこの子どもを見て、感激する。そして、泣きはじめる。“なぜ、泣くのだ”と、王はきく。“王よ、不幸なことがあるのではないのです。生まれたのは菩薩であり、やがて仏陀になります。私は老人なので、仏陀になった姿が見られるまで生きていることができません。それで、泣いているのです”と、アシタは答える。やがて、アシタは死んだ。」

 また、ルカ福音書には、イエスの誕生後の出来事として次のようなことが語られている。

「律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。 シメオンが “霊” に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。“主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです・・・” シメオンは彼らを祝福した。」

 この2つの物語は、時代は異なるが、人類史上において同じように偉大な2人の人物の誕生に関わるエピソードである。その類似性は、①で述べた仏教のキリスト教への影響としても捉えられるのだろうが、実は、シュタイナーによれば、この2つはながっており、合わせて1つの物語を構成しているのである。

 同じように生まれたばかりの赤児に対面したアシタとシメオンとは、2つの時代を隔てて生きた同じ一人の人物だというのである。まだブッダとなっていない赤児のシッダルタと会い、そのブッダとなった姿を見ることができないとして涙を流したアシタは、ルカ・イエスの生まれた時代にシメオンとして再受肉し、それによりイエスのオーラの中にブッダの姿を見ることとなり、ようやく念願がかなったというのである。

 上図は、「神殿の12歳のイエス」の作者ベルゴニョーネがルカ福音書のこの場面を描いたもので、ヘラ・クラウゼ=ツインマー氏が『絵画における二人子どもイエス』に掲載している絵である。赤児のイエスに両手を差し出している右側の人物がシメオンである。(ただし、ツインマー氏は、ここでは、上記のアシタとの関連については述べていない。)

 

 上の絵は、通常のキリスト教絵画であり、絵の表現自体には何ら違和感はない。しかし、キリスト教絵画の中には、常識的なキリスト教絵画論では理解が困難な絵も存在する。絵の表現内容に仏教の影響が強く感じられる絵画である。

 次に、これについて、同じくクラウゼ=ツインマー氏の本から紹介しよう。

 

グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画

 先ずグリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画である。この絵は、そもそも今回のテーマとは別に非常に興味深い絵で、人智学派にも注目されており、人智学派によりいくつかの本も出されている。探求すべき様々なテーマを含んでおり、別の回で今後も取り上げる予定である。

 この祭壇画は、元は、アルザス地方(現在はフランス領)のコルマールの南方に位置するイーゼンハイムの聖アントニウス修道院付属の施療院の礼拝堂にあったが、現在はコルマールのウンターリンデン美術館に収蔵されている。祭壇の扉の裏表にいくつかの絵が描 かれており、表の扉を開くと見える第2面の中央のパネルにイエスの誕生の場面が描かれている。

 以降は、クラウゼ=ツインマー氏の文章を引用する。

 それは、絵画の次の部分に対する解説である。

 「彼のイエスの生誕図(全体図は下に掲載)の左側半分に、この画家は誕生を待っている女性を描いた。色彩のある大きなオーラは、赤色の冠と共に内側の輝きを保持しながら、マリアの頭と上半身を包み込んでいる。天上の輝きのように白く、彼女の顔は、この美しい彩りの光球から、中心点として浮かび上がっている。赤い炎のような冠が彼女の頭を覆っている。

 霊的存在達の全軍勢が、この「永遠の聖母 Madonna Aeterna」に続いている-先頭にいるのは、天使達によって運ばれ、言いようのない仕草によって母を熱望している、今生まれようとしているイエスである。赤と黄金色に包まれた彼の後ろに、緑色の姿が浮いている。しかしそれは他の全てのものと違って翼を持っていない。その黒い髪は、明白に東洋風な顔-ブッダ的人相-を取り巻いている。明るく、外に向かって緑色を強めるオーラが、頭を取り巻いている。両手は、胸の前で礼拝するように指を伸 ばして合わせており、両目は伏せている。この人物は、内省し深い祈りに沈潜しながら、受肉しつつあるイエスの道行き-純粋に霊的な存在から母の生命と魂の組織に一層結びついていく階梯-に同行している。

 従ってここでも、ブッダの秘密が聖母像に反映している。それは、誕生以前の出来事の中に現れ、規則通りの姿を現す。一方、ウルビーノでは、具象的ではないが、多くの個々の事象がそれを明らかにしている極東的空気に取り囲まれて、既に生まれた子どもが、地上の生の中でまどろみ夢見ている。」

全体図

 ルカ福音書のイエスの誕生に際しブッダが臨在していたとシュタイナーは述べているが、ここにはまさにそれを示唆する情景が描かれていると言えるだろう。

 なお、上に掲載した図を見ればわかるように、この中央パネルは一つの場面であるが左右に分かれており、上で述べられているのは、このうちの左の部分である。そして、ツインマー氏はここで解説していないが、右にも(生まれたばかりのイエスを抱いた)マリアが描かれているのである。つまり明確に異なる二つの「世界」が一緒に描かれている一つの絵に「二人のマリア」が存在しているのである。左半分は明らかに霊的世界を表現していることから、著者が説明しているここに描かれたマリアは、一般的には、「聖なる処女性」などを象徴する元型的なマリアと解釈されているようである。このマリアは、大きなおなかをしていて、まだイエスを身籠っており、従ってイエスはまだ地上に誕生してはいないが、ここに描かれた者達の中で、右半分の地上世界に一番近い位置にいる。天界から地上界への移り行きが完成したのが右半分の絵という訳である。ここに「二人のマリア」を見ることも可能である。このことは別の回で触れたい。

 

 このような絵を描いたグリューネヴァルトとは一体何者なのであろうか? これも興味深いテーマなのだが、彼と秘教サークルの関連を指摘する説があるようである。

 さて、上のクラウゼ=ツインマー氏の文中に「ウルビーノ」という言葉が出てきた。実は、グリューネヴァルトの絵の前に、ツインマー氏はこの「ウルビーノ」の絵について述べている。これもまた驚くべき絵である。

 ③では、これについて触れることにしたい。

キリスト教芸術におけるブッダ①

福音書を朗誦している聖ヨサファト(12世紀のギリシアの写本より)

 このブログの主なテーマの1つである「二人の子どもイエス」という考えは、シュタイナーの「キリスト論」の一部を構成するものである。今回は、シュタイナーの「キリスト論」で論じられている別のテーマについて述べてみたい。

 シュタイナー及び人智学にとって、キリストは、特定の宗派により崇拝される神というより、宗派の枠を超える普遍的な存在であり、その意味では、キリスト教信仰の対象でありながら、それを超えた存在である(その本質を宇宙的キリストと表現する人智学者もいる)。自然科学が自然を支配している法則を探求するように、キリストは、人智学=霊学において探求されるべき、霊界の中心的存在なのである(それは同時に、人類の進化を導く存在であり、人類の理想でもある)。

 特定の宗教を超えるということは、逆にそれらを内包しているとも言える。かつてキリストは太陽神であったのだが、古来、世界の多くの宗教は、太陽を神聖視しており、その意味では、キリストを知っていたのである。人類史において様々な宗教が生まれてきたが、キリスト以前の宗教は、キリストに収斂し、また後の宗教はそこから滋養をえて新たに生まれてきたのだ。

 「万教帰一」という言葉がある。同じ1つの宇宙に存在する限り、その宇宙の根本に存在する法則や神霊存在は同じはずであるから、各宗教の違いは、その時代や地域、民族の状況の別に基づくもので、人間の方のそのおかれた条件による違いと考えるべきだろう。

  

 太陽霊であった高次の霊的存在キリストが、ナザレのイエスが30歳の時に、その体に受肉し、イエスは、イエス・キリストとなった。その後、イエス・キリストは、33歳の時にゴルゴタの丘磔刑を受け、死して、後に蘇った。そして今、キリストは地球霊となっている、とシュタイナーは主張している。

 キリスト霊は偉大な霊的存在であり、通常の人間が受け入れることのできるような存在ではない。特別な体が必要であったのだ。それを準備したのが「二人の子どもイエス」であり、この二人の子どもイエスが1つになることによってこそ、キリストを受け入れることのできる体、器ができたのである。それには、そしてそれが起きたのが、イエスが12歳の時の神殿での出来事によってなのである。

 この二人の子どもは、マタイ福音書とルカ福音書がそれぞれ述べている子どもである。同じくユダヤダヴィデ王の血筋であるが、二人はそれぞれ別の霊統に属する。マタイ福音書の子どもは、ゾロアスターの、ルカ福音書の子どもは、ブッダの霊統の下にあるのである(ゾロアスターとは、あのゾロアスター教の開祖のことであり、ブッダとは仏教の開祖のゴータマ・ブッダのことである)。

 このことからも、キリストの誕生に向けて、それまでの霊的潮流がそこに収斂していったと言うことが理解されるだろう。

 今回述べたいのは、このうちブッダとイエスの関わりである。

 ゴータマ・ブッダは、涅槃の境地に達して、以来、この世に再受肉することはなくなった。しかし、その後も、霊界から霊感を与えて人類を導いてきたのである。イエスの誕生という、人類の歴史にとって極めて重要な時にも、それに関わっていた。

 シュタイナーによれば、ルカのイエスの誕生物語で語られている、羊飼い達に出現した天使の群の中にブッダが存在していた。そして誕生後も、このイエスに関わっていたというのだ。

 

 さて、このようなことは当然、歴史的資料では確認のしようがない。

 しかし、一般論的に、仏教がキリスト教に影響を及ぼしたということなら、当然あり得ることである。仏教は、インドを発祥の地として、キリスト教のようにその誕生の地を超えて世界中に伝道されており、イエスの生きた時代にはエジプトに仏教の宣教団が滞在していたという。

 福音書のイエスの生涯の物語にも、仏陀との類似性が指摘されており、その他にも、両宗教には、教義や宗教的儀式、習俗等にも類似点が見られるという。

 このようなことから、仏教のキリスト教への影響を認める議論、研究が昔から存在してきたのである。

 

 例えば、ウィキペディアを見ると次のような例が掲載されている。

・1883年に、東洋学と比較宗教学の草分けであるマックス・ミュラーがこう力説している:

 「仏教とキリスト教が驚くほど一致していることは否定できない。そして、同様に仏教がキリスト教より少なくとも400年以上前に存在していたことも認められるに違いない。さらに、仏教が初期キリスト教に影響を与えた歴史的経路を誰かが私に教えてくれれば、私はきっと非常に感謝するだろう」

・19世紀終わりには、ルドルフ・ザイデルが仏教とキリスト教の寓話と教えの中に50の類似点を見出している。

・1918年、エドワード・ウォッシュバーン・ホプキンスは以下のようにさえ言っている。

 「結局、イエスの生涯、誘惑、奇跡、寓話、そして弟子までもが直接に仏教に由来するのだ。」

 また近年では、

・ブルクハルト・シェーラーは以下のように述べた:

 「福音書に対する仏教の強い影響に注意することが重要である[…]数百年以上前から、仏教の福音書に対する影響が知られ、両宗教の学者によって認められてきた。」

 彼はジョン・ダンカン・マーティン・デレットの研究『The Bible and the Buddhist』の結論に同意し、「私は多くの仏教説話が福音書に含まれていることを確信した」と書いている。

 

 更に、ウィキペディアでは、聖母マリア観音菩薩との関係も触れられている。

 「観音菩薩聖母マリア:中国学者のマーティン・パルマーは、おとめマリア(聖母マリア)と観音菩薩の類似性について述べている。観音菩薩はインドやチベットにおける男性のボーディ・サットヴァ、アヴァローキテーシュヴァラの中国名である。アヴァローキテーシュヴァラは、トルコへのネストリオス派の宣教の後、最初の一千年紀の間に中国で徐々に女体化が進んだ。台湾の仏教組織の慈済基金会もこの類似性に気付いていて、聖母子像に特に似せた観音菩薩と子供の図画を画家に注文している。」

 なお観音菩薩の関連については回を改めてまた触れたいと思う。

 

 以上のようなことからすると、仏教とキリスト教に間に何らかの交流、影響関係があったのは間違いないように思われる。では、この点に関してシュタイナーは、具体的にどのように語っているだろうか。

 先ず、シュタイナーは、「ブッダ伝承のキリスト教文学への興味深い混入」について指摘している。

 これについては、ヘラ・クラウゼ=ツィンマーの文章から引用する。

 「ルドルフ・シュタイナーは『マルコ福音書補説』第9講の中で次のように語っている。キリスト教の聖人とされるヨサファトのキリスト教物語は、ブッダの若年期の伝説を物語っている。ヨサファトはバルラムという名のキリスト教修道士に会い、キリスト信者となる。ヨサファト(その名は、ルドルフ・シュタイナーによれば、幾重にも改変されているが、本来は“ボディサットヴァ〔菩薩〕“に由来する)において、キリスト教的意識がブッダキリスト教へ導き入れている。歴史的ブッダについてはそのようなことは何も語られえないが、『そこから、仏教またはブッダの後の形がどこに求められるのかということについて人々が知っていたことが窺える。時が過ぎる間に、仏教はキリスト教と、隠れた世界において合流していたのである。』」(『絵画における二人子どもイエス』)

 ここにでてくるヨサファトのキリスト教物語とは、中世のキリスト教小説で、次のような物語である。(上図)

 インドの国王アベンネルは子ヨサファトがキリスト教徒になるだろうという予言を恐れるあまり、ヨサファトをあらゆる快楽に溢れた宮殿に閉じ込めてしまった。それにもかかわらず、彼は病者・盲人・死人に会うや真剣な考えを抱くようになり、陰者バルラムが商人に変装して訪れ、勧めたのに従いキリスト教に改宗してしまう。父は王国の半分をヨサファトに譲るが、ヨサファトはまもなく王冠を捨て陰棲し、父をも改宗させ陰者として没した。

 この物語は、聖歌作者としても著名な8世紀の神学者ダマスクスのヨアンネスが元々の編者とされる(11世紀のアトスのエウテュミオスとする説もある)が、明かにゴータマ・ブッダの伝説が元になっていると考えられるものである。

 中世のキリスト教界、キリスト教徒においては、無意識のうちにブッダの影響が受け入れられていたのである。

 さらにクラウゼ=ツィンマー氏は、このような事例が、美術作品にも見られるという。

 「美術作品の例に関しては、次のように補足することができるだろう。パヴィアPavia〔イタリア〕のシエルドーロCiel d’Oro のサンピエトロ教会堂(何より聖アウグスティヌスの遺骸がそこに埋葬されている)のように由緒あり歴史的に大きな意味をもっている教会では、(今は空となっている)ティンパヌム〔玄関上部の半円形部分〕の頂点には、ブッダの形姿-あぐらをかき、両手を太ももに置き、アジア的な幅広い顔と垂れさがった耳をして、大きな翼を持っている-をもった者が座っている。それは天使存在としてのブッダである。」

 残念ながら、クラウゼ=ツィンマー氏の本にこの像の写真は掲載されておらず、ネットで検索しても見つけることはできなかった。(これを知っている方があればご教示願いたい。)

 しかし、これとは別に、クラウゼ=ツィンマー氏は、『絵画における二人子どもイエス』に、ブッダとの関連を示すキリスト教絵画を載せて解説しているのである。

 これについて②で述べることとしよう。

水の隠れた知性

  最近、ツイッターで面白い情報を得たので、紹介したいと思う。

  先ず下の図をみてほしい。

 ちょっと見たところではよく分からないが、実はこれ、2枚が1組となっている。4枚の写真の一番左とその右隣が組となっており、更にその右隣と次の一番右端のものがやはり1組である。ペアとなった2枚の写真を交互に見比べるとどうだろうか?

 そう、それぞれのペアは、左右で同じような形を見せているのである。左側のペアの左の写真はペトリ皿に4という数字の紙が浮いている。右側のペアの左は、お下げ髪の写真である。数字の4の右の写真には、4が浮かんでいる。お下げ髪の右の写真にはやはり、房のようなものが見えるのだ。

 実は、それぞれのペアの右側の写真は氷が作った造形である。では、この氷の写真は、たまたま似たようなものがあったので、それを後から左側の写真とペアにしたのだろうか?そうではない。これは、左のものを元に意図的に造られた写真なのである。

 では、どうやって? 左側のものは、写真のように、4の数字を書いて一度ペトリ皿に浮かべ、右側のものは、この写真をペトリ皿の上に置いて、その後、紙や写真を取り除き、それからこのペトリ皿を凍らせた、簡単に言えばこれだけである。(時間や冷凍温度など細かい部分はあるようだが、とりあえず省略)

 

 これを作ったのは、ヴェーダ・オースティンVeda Austinという方で、彼女のホームページによると、彼女は、「ニュージーランドの水の研究者、講演者、母親、アーティスト、作家。過去8年間、水の生命を観察し、写真に収めて」きており、また「マオリ族の血を引いており、所属はタイヌイ族である。父親は、テレビ番組や釣りビデオ、マオリ釣りカレンダーで有名なマオリ族の釣り師、ビル・ホヘパ」だという。

 他に詳しい情報が無く、このような活動の発端や思想的背景は全くわからないのだが、ホームページには、あのルパート・シェルドレイク氏が、「驚くべき調査。ヴェーダ・オースティンは、従来の科学に基づいて予想されるものをはるかに超える、いくつかの興味深く印象的な画像を作成しました。彼女の先駆的な仕事が、他の人が彼ら自身の体系的な調査をフォローアップするように刺激することを願っています。」という文章を寄せている。また同じように、「水の第4相」という画期的な発見をしたジェラルドH.ポラック博士の言葉も載せられているので、「ニューサイエンス」系ということになるかもしれないが、既に一定の評価を得ているようである。

 またそもそも、オースティン氏に触れていたツイッターは、これも当ブログで紹介済みの人智学派の医師であるトマス・コ-ワン氏が彼女を紹介しているというものなのだ。現代の科学では未知であるが、自然の隠れた側面を示唆する大変興味深い現象であると言えるだろう。

 

 では、オースティン氏自身は、この現象をどのように説明しているのだろうか。

 彼女のホームページには、「彼女は、水は、流動的な知性であり、地球上および宇宙のあらゆる生命体を通して自分自身を観察していると信じている。・・・彼女の主な分野は、液体と氷の間にある“創造の状態”の水を撮影することである。彼女の驚くべき結晶写真を通して、水はイメージを通して創造だけでなく、思考や意図への意識を明らかにする。」とある。

  また、また彼女の著作『The Secret Intelligence of Water』の紹介文には、次のように記されている。「ヴェーダ・オースティンは、巨視的な写真と画期的な新技法により、水を人間の意識に反応する力を持つ知的な力として捉え、これまで考えられなかったような方法で、私たちに教えてくれます。ヴェーダは、液体と氷の間にあるステージに注目し、過去8年間、「創造」状態にある水の撮影に取り組んできました。言葉や考え、絵や音楽などの影響を受けてから凍結し、その数分後に水の液晶反応を撮影します。例えば、水に手のイメージを送ると、氷の中に手のイメージが現れる、簡単な言葉でも形になって現れたのです これらの驚くべき結果は、水が芸術的で知的なデザインによって意図的にコミュニケーションをとっていることを示唆しています。本書で見られる実質的な視覚的証拠は、水を生き物と見なす地球上の先住民族の知識体系を裏付けるものです。ヴェーダは、水との感情的なつながりが、私たちの自然界への接し方に変化をもたらす鍵になると考えています。“もし水が感じることができると思えば、私たちは水を大切にするようになるでしょう。もし水が知的だと思えば、私たちはそこから学ぶでしょう”と語っています。」

  つまり、もともと水には知性があり、それに人間が働きかけることにより、水と氷の間の「創造」状態で、水は、それに対する反応を表わしているということだろう。

 

 さて、こうした話を聞いて、ある人物を思い浮かべる人もいるかもしれない。その人物とは、日本の(故)江本勝氏である。この方も「ニューサイエンス」系では有名な方であるが、実は、オースティン氏は、江本氏を自分の研究の先駆者として認めているようなのである。

 江本氏は、横浜市立大学文理学部国際関係論学科卒で、中部読売新聞社(現読売新聞中部支社)勤務などを経て1986年にインターナショナルヘルスメディカル(現・I.H.M.)を設立した方で、「オリジナルな視点で、地球上のさまざまな水の研究に取り組んでいる。波動技術のパイオニアで日本に“波動”を広めた第一人者でもある」(I.H.MのHPより)。多くの著作を出しており、中でも有名で外国でも出版されているのが『水からの伝言』である。これは、水に向かって様々な文字を見せ、または音楽を聴かせた上で氷結させて、融解の過程で生じた結晶を、顕微鏡を通して撮影した写真集である。水に与えた情報により、その結晶があるパターンを持って変化することを示したもので、江本氏は、水の結晶である氷から言葉や音楽への反応が読みとれる、「水はさまざまな情報を記憶する可能性がある」と主張しているのである。

 現在、江本氏の主張は、アカデミックな世界では当然受け入れられていないのだが、先にでてきたポラック博士などは評価しているという。

 オースティン氏の主張も含め、現代科学では、このような主張はやはり荒唐無稽ではあろう。それを説明する理論が存在しないからである。だが、現在の理論で説明できないからと言って、そのような現象が存在しないとは言えないはずである。現に、オースティン氏の写真がそれを示しているのであれば。

 以下に更にオースティン氏による写真を示す。

 



 このような写真を見ると、元となるイメージに似せて人が人為的に作ったとするなら、むしろ氷でこのような造形を一体どうやったら作れるのかという疑問が生まれないだろうか(まあ今は、パソコンで簡単にフェイク画像が作れる時代ではあるが)。

 私はまだ試していないが、オースティン氏は、この結晶の作り方を本やセミナーで紹介しており、一般に公開している。否定するなら、先ず自分でこれを実験してみてからというのが順番であろう。

 真の科学に求められるのは、未知の現象を発見したら、既成概念に囚われず先ず虚心に検証、研究することである。

 

 さて、人智学的には、この現象をどのようにとらえたら良いのだろうか?

 コーワン博士は、この写真に関連して、「水は、場のエネルギーを受けて、その知性と創造性で構造を作る」と言っているようである。

 宇宙は神の知性(ロゴス)により創造されたのだから、万物にはその知性が内在しているということは言えるだろう。しかし、知性は勿論、物質的なものではない。物質的な水を探求してもやはりそこに知性は見いだせないだろう(その影としての自然法則は見いだせるが)。

 私見では、知性と物質をつなぐものがあり、それこそがエーテルであるように思える。水などの液体はエーテルと親和性を持っている。エーテルの力がよく作用するのである。だから生体の大部分は水が占めており、それなしに生存できない。水(流体)の神秘的本質を解き明した『カオスの自然学』の著者テオドール・シュベンク氏によれば、「水のもつ宇宙的な特性と運動は、このエーテル流のイメージであり、物質世界においては媒介者の役割を果たしている」のだ。

 そして、このブログでアンドレアス・ナイダー氏の論考において触れたように、エーテルは、人間の記憶や思考の基盤となる存在であり、またそれらを保管するものである(アカシック・レコード)。

 このことからこの現象の仕組みを考えると、水に与えようとするイメージの写真等を見ている人のイメージが、先ずエーテルに保管され、そこからペトリの中の水に作用が及ぶという仕組みが想定できないだろうか。これは、コーワン博士のいう「場のエネルギー」と言う表現に合致するようにも思える。

 あるいは、人の念が、水の精(エレメンタル存在)に働きかけ、それが造形しているというようなこともあり得るだろうか・・・

 いずれにしても、水自体に知性があるというより、水は知性を媒介していると言うことである。

 水は最もありふれた物質であるが、生命の源とも言え、重要でありまた不思議な存在である。その真の姿を探るには、新たな視点が必要なことは間違いがない。そしてそれは、現代科学に抜けているもの、つまり非物質的なもの、超感覚的なものだろう。

 ポラック博士の水の第4相(構造水)という新たな発見は、水の本質に迫るものだと思われるのだが、今回の話と同様に、やはり現在のアカデミックの世界ではまだまだ浸透していないようだ。というか、こうした真実に迫る発見が日の目を見ないようにする力が働いているとすら思ってしまうのである。

良い睡眠をとるには


 最近は、「快眠」のためのグッズやサプリがよく売れているようで、現代人の多くは睡眠の質の低下を抱えているようだ。

 睡眠は、人生のおよそ3分の1を占めており、心身の健康にとって確かに大変重要な要素である。科学的研究も進んでいるようだが、秘教あるいは霊学的にはどのような意味を持っているのだろう。

 シュタイナーによれば、睡眠中、人間は霊界を旅しているという。肉体、エーテル体、アストラル体、自我という人間の構成要素のうち、アストラル体と自我が、肉体とエーテル体を離れるのが睡眠なのである。ベッドには、肉体、エーテル体が残され、アストラル体と自我は霊界に赴くのだ。肉体とエーテル体という構成は植物と共通するものである。まさに、睡眠中、物質界の人間は「植物状態」なのである。

 ちなみに、肉体からエーテル体も離れると、肉体だけが残ることになるが、それは鉱物と同じ状態となる。それがつまり「死」である。

 睡眠によって確かに肉体はリフレッシュされる。それは、肉体の疲労が回復されるだけでなく、やはり霊界から作用が及ぶからである。

 今回は、この眠りについての論考を紹介する。雑誌『ヨーロッパ人』掲載のものである。

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良き睡眠...

 

「睡眠は、個人と宇宙をつなぐ臍の緒である。」

フリードリヒ・ヘッベル(日記)

 

 夜間の体内、特に脳内で何が起こっているのか、今日の例えば睡眠研究所で可能な技術により、少なくとも睡眠の表層の少し下を見るためには-睡眠のさまざまな段階、夢の段階、体温の変化、とりわけ脳の個々の領域における電気的変化-、ひもや電線だけでは不十分である。夢の中で目を素早く往復させる90分のリズム(いわゆるレム期-急速眼球運動)や、一日の印象が夜になって初めて記憶として処理されることなど、興味深いことが発見された。それは次のような結果をもたらした。例えば試験勉強を一晩中していても、記憶力は逆に向上しないのです。あるいは、睡眠不足だけでなく、睡眠時間が長すぎると体調不良になること、などなどである。

 現代の睡眠研究では、不眠症においても、睡眠薬から精神衛生へというパラダイムシフトが起きている。つまり、リラクゼーション運動と、特に感情的な葛藤を解決することである。通常、この葛藤は未解決のまま夜に突入し、ストレスホルモンのコルチゾールが減少しない、あるいは自立性の交感神経活動が増加することにつながる...。

 もし私たちが毎晩数時間、体から抜け出し、て自分の中にもどる-その際、昼間の意識を失っているのだが-ことがなければ、次第にその日の出来事に溺れ、自分の自我、自分の本来の存在を感じられなくなってしまうだろう。その場合、私たちはフィヒテの言う意味での「非自我」でしかない。夜間の意識の空白を通してこそ、そしてその日の出来事を処理することで初めて、私たちの財産、私たちの自我とつながっている記憶として体験される記憶の連続性が生まれるのである。

 

睡眠研究と精神科学

 今日の睡眠研究の成果を詳しく見てみると、興味深い疑問や、ルドルフ・シュタイナーの霊的な研究への架け橋となるような成果が見えてくる。

例えば、科学の世界では「生体リズムの軽視」という言葉が出てくる。つまり、安定した昼夜のリズムがあり、それが遺伝的に決定され、微妙に調整された体内時計につながるということがわかった。""誰もが定期的に「時計屋」を営む理由"というのが概日リズムの分子的発見によるノーベル医学賞受賞に関して、「Deutsches Ärzteblatt」 November 2017, Vol.114 に掲載された文章の見出である。「クロノバイオロジーの知見が軽視され、今後10年以内に津波のように襲ってくると思う」というのは、ベルリンのセント・ヘドウィグ病院の睡眠研究者の言葉である。

 ルドルフ・シュタイナーが発見した、心身の健康を保証する「リズム組織」は、ここで十分に評価されている...目覚まし時計も、私たちを昼間に引きずり込み、必要な睡眠を妨げるので、残酷な「拷問の道具」として疑問視されているのだ。ドイツでは約3分の2の人がいわゆるフクロウ族で、寝るのが遅く、朝は7時半から9時半の間に起きるのが好きな人たちだそうである。このように、慢性的な睡眠不足は、社会人になってからも問題になっている。もし、睡眠研究の成果が実現すれば、学校や職場における1日の区分を全く新しいものにしなければならないだろう。

 ルドルフ・シュタイナーは、「人が夜の間に魂が霊界で経験したことのなにかを、もっと把握するために、朝起きてからあまり早く太陽を見ない方がいい」という古い民間の知恵をよく口にしている「。私たちはそこから、身体を鍛えるだけでなく、日々の活動のための思考や道徳的な衝動を受け取ることができるからです。正しい決断をするために、あるいは新たな気づきを得るために、まず眠らなければならないことがあるのは、決して無駄なことではありません。」

 2017年2月18日の「Stuttgarter Zeitung」の睡眠とその障害に関するインタビュー「キャリアアップのための状態」の中で、なぜ睡眠はビジネスにおける多くの管理者の間で悪いイメージがあるのか、なぜたくさん眠る者は敗者と見なされるのかという問いに対するクリンゲンミュンスター出身の著名な睡眠研究者H.G Weeßによる驚くべき回答が掲載されている。その答えは、睡眠の道徳的な資質への言及も含んでおり、驚きを禁じ得ない。

 「"少々の睡眠時間でも大丈夫 "と豪語する政治家や経営者は少なくない。(「早起きだけが虫を捕まえる」)。しかし、この人たちが社会的なロールモデルであり、オピニオンリーダーであることは、決して有利なことではありません。経営者や政治家が睡眠不足の夜に行ういくつかの決定も、少なくとも批判的に問われるべきです。睡眠不足は"倫理や道徳心“を薄れさせますから。」(同上)

 

さまざまな障害

 私たちもまた、夜、自分の道徳的な行いと不道徳な行いに従って見られ、裁かれていることを常に心に留めておかなければならない。レンブラントは、このことをスケッチという形で芸術的に表現した。ヤコブが眠っている夢で、杖やリュックサックなどの地上の付属品を置き、二人の天使に見つめられ、確かに裁かれている姿が描かれている。

 かつてルドルフ・シュタイナーは、当時のウォルドルフ教師であったヘルベルト・ハーンに、真夜中以降の決断は避けるべきであり、それによって大きな不幸がもたらされたという事実を強調したことを考慮しても、興味深い、広範囲に及ぶ発言である。

 ルドルフ・シュタイナーは、真夜中以降の決断に特に警告を発している。「世界の政治における名もなき悪は、そのような目から導かれるものであり、私たちもまた、道徳的な行いと不道徳な行いによって、夜な夜な見つめられ、裁かれているのです。」レンブラントは、このことをスケッチという芸術的な形で表現した(上図)。ヤコブが杖やリュックサックといった地上の付属品を捨てて眠っているところを、二人の天使に見つめられ、確かに裁かれる姿が描かれているのである。

 ちなみに、私たちの魂の資質である思考、感情、意志のうち、眠気を誘うのは思考だけである。日中の感情、つまり情動や道徳的に問題のある行動が、通常、私たちの眠りを妨げる。だから、ルドルフ・シュタイナーは、なかなか寝付けない人に好んで、退屈な本や、思考力が高まるような本を読むように勧めた。心情や意志によって、私たちは精神世界に近づき、良心と向き合うことになる。(「良心が最良の休息枕」)。このように、疑念のある意志の行為は、後悔の念に至り、「最も確実な」睡眠妨害となるのである。

 「私たちとより密接に関係している心情の動きでは、異なります。後悔の念を持って休んだ場合、翌朝起きたときに、すでに「頭が鈍いな」とかその様な感じをもつはずです。自責の念にかられると、翌日には弱さ、重さ、眠気などとして体に感じられ、逆に喜びは強さ、高揚感として感じられるのです。...私たちの心情の動きは、私たちの思考よりも私たちの永遠なものと密接に結びついています。実際、前日に「良き意志の衝動」で魂を満たしたものほど私たちを新鮮にするものはないのです。......」(ルドルフ・シュタイナー

 かつてルドルフ・シュタイナーが、当時のヴァルドルフ教師であったヘルベルト・ハーンに、真夜中以降の決断は避けるべきであり、それによって大きな不幸がもたらされたという事実を力説したことを考慮しても、それは興味深く、広がりをもった認識といえる。

 「ルドルフ・シュタイナーは、真夜中以降の決断に特に警告を発している。世界政治における名もなき悪は、このような夜中の会議の決定から生まれた......彼は、これを第一次世界大戦の例で説明した。この世界的な大惨事を引き起こしたすべての決定は、著しく真夜中以降に行われた」(Herbert Hahn, Begegnung mit Rudolf Steiner. Eindrücke – Rat – Lebenshilfe.Stuttgart 1991.) このような現象は、レーニンとその同志たちがスモリニ研究所で夜通し会議をして、最初は純粋に理論的だった暴力の空想が、血に飢えた行為に変わったときにも見られる。(Hans Peter Schwarz, Das Gesicht des Jahrhunderts. Monster, Retter und Mediokrität. Berlin 1998.)

 

健康的な睡眠をとるための方法

 覚醒と睡眠が吸気と呼気、受肉と死[脱肉]のようにリズミカルな出来事であり、互いに影響し合っていると仮定すれば、健康で再生的な睡眠を得るためには、日中のある行動が必要であることは明らかである。不眠があるように、夜に再び生命力を蓄積するために、人間が昼間に肉体的、精神的に生命力を十分に使わないという、不覚醒もある。なぜなら、正しい覚醒は、昼の出来事に対する献身であり、それが、夜には精神世界に対する献身を必然的に引き寄せるからである。そのため、日中においてすでに、魂の衛生的な振る舞いが要求されるのである。

 睡眠の量(平均7時間前後)だけでなく、休養となる睡眠の質もあることが証明されており、今日、電化、すなわち放射線被曝、神経質、テレビによる画面中毒肥満、アルコール、睡眠薬の乱用、肝障害などが増えている時代では、それは、もはや当然のものではない。

  その関連で、ルドルフ・シュタイナーは、特に、ゲーテのことを、極めて健康的な眠りを持つ人間であると称して、魂の偉大な衛生学者であると表現している。それは、早寝早起きで一日がリズミカルに動いていたからというだけではない。このゲーテへの言及は、模範的な睡眠衛生の提案とも言えるだろう。なぜか?

 夜、生命を育み、回復させる力を正しく使うために、日中に何をしなければならないか。霊的探求者にとって、健康的な睡眠とは、夜間に肉体から分離する自我と霊魂により、惑星の影響に集中的に身を捧げることと同じくらい重要な意味を持っている。

 「睡眠中、人間は肉体とエーテル体の外側で、自我とアストラル体の中に存在しているのです。彼は、自分のアストラル体を、たとえば全宇宙の星々と結びつけるような体験の中に、本当にいるのです。獣帯と惑星のすべての影響がアストラル体に輝き出します。人は起きている時に外界と共存しているように、眠っている時に星の世界と共存している」

 さて、問題は、なぜ人は、通常この宇宙との共存を知らないのだろうか。なぜなら、夜中に物質的な思考だけをこの世界に持ち込むと、物質的な身体による欲求から結果する一種の意識の混濁を経験するからである。人間は夜になると肉体に戻りたくなる。あたかも外国にいると、常に故郷への憧れを抱き、新しいものを受け入れられなくなるかのように。

 ゲーテは、世界とその現象に、灰色の理論や知的留保、偏見、理論的思索を排して無条件に身を捧げただけでなく、彼の植物観察や色彩論を考えるならば、常に超感覚的なものを含む「全くみずみずしい現実」に身を委ねたのである。そのため、彼は、夜にも宇宙の印象を受け入れやすくなったのである。「もし、昼間の覚醒中に、外の世界に溢れているものに無私で専心することができず、それについて、実際には幻影であるおぞましい理論を形成するならば、睡眠中に、人は肉体に対するより強い、圧倒的な衝動を得て、睡眠中の印象に意識を暗くするだけではなく、その印象自体の強度、強さも減少させるからです。」(ルドルフ・シュタイナー)。

 ゲーテ主義、特に精神科学は、睡眠による健康的な後影響を日常生活に取り入れるための助けとなるのである。この文学者だけでないゲーテを、近年では一部の作家や医師までもが再発見している。『医療に通じた詩人』という本で多くの人にインスピレーションを与えた、ルツェルンの循環器内科医だったフランク・ネーガーを考えてみるだけで良い。ゲーテと医学 最近では、スイスの作家アドルフ・ムッシュが『白い金曜日』の中で、ゲーテが30歳のときにカール・アウグスト大公と行った2度目のスイス旅行について、特に冬のフルカ峠の登攀を通じて運命に挑んだことを紹介している。

 

ゲーテのセラピー・プロポーザル

 最後に、ゲーテにとって、魂に困難を抱えた人たちと長期にわたって伴走することもいかに重要であったかを指摘したいと思う。

 ゲーテが長年文通し、また訪れたことがある、ハルツ山地のヴェルニゲローデの、神経症的な自己中心的な青年についての記述がある。この出来事はゲーテにとって非常に重要であり、数十年後の「フランスへの遠征」で、青年の病理とゲーテの治療へのむなしい試みについて詳しく描写している。

 この世界は、青年が想像していたような姿を見せてはくれなかった。ゲーテは、「人間は、自分の暗い想像力のくすんだ幻影に対して、明確な現実の価値を拒絶する」ということを、彼は何度経験したことだろう、と言う。

 ゲーテの治療提案は、世界とその出来事に対する健全で自由な見方の方向へ向いている。「人は、自然を観想し、外界に心から参加することによってのみ、辛く、自分を苦しめ、陰鬱な心の状態から自分を救い、解放することができる......。」

 なぜなら、「精神的な力を現実の真の現象に向かわせると、次第に最大の慰め、明瞭さ、教えが得られるからである。自然に忠実でありながら、自己の内面を磨くことができる芸術家が、最も優れているように。」

 しかし、残念ながらゲーテはこの療法を成功させることができなかった。そのプレッシングという人は、後にデュイスブルグの教授になったのだが......。

 この人は睡眠に大きな問題を抱えていて、まさに私たちが時間の病として患っているもの、理論や期待を前にして生の流れから離れ、常に何かを求め、自分の理論的な心の牢獄に閉じこもってしまうことに苦しんでいたのだと、私は確信している。

 ゲーテがハルツ山地のブロッケンに森林学者と一緒に登り、深い雪の中で命がけの行動をした冬の体験の後に書いた詩にも書いてあるように。

 

「ああ、慈愛を毒に変えた者の痛みを、誰が癒してくれるのだろう。

 人間を憎んでいた人

 豊かな愛から?

 最初は軽蔑され、今は軽蔑され、彼は密かに自分の価値を糧とし、不十分な利己主義に陥っています

 愛の父よ,あなたの詩篇が,かれの耳に聞こえるならば,かれの心を清めて下さい

 曇った眼差しを開いて 千の泉を越えて 砂漠の渇きを癒す者の傍らで 」

 

                Olaf Koob医学博士

意識が先か脳が先か?

 人の意識は、人の脳が生み出しているというのは一般的な常識であろうが、シュタイナーを初め神秘思想は、人の意識が身体を離れて存在するという立場である。このブログでも、このことに関して「意識には脳が必要か?」で取り上げている。

  例えば、臨死体験などは、意識が独立して存在することを表わす現象と考えることができるが、意識と脳の関係についての常識の再考をせまるような現象は他にも色々あるようである。

 今回は、この問題について述べている『頭(Brain Box)の外で考えるーなぜ人間は生物学的コンピューターではないのか』という本の論稿を紹介する。著者は、アリー・ボスArie Bos氏で、この本の紹介によれば、「30年以上にわたりアムステルダム総合医師として医学を実践し、現在、ユトレヒト大学で科学哲学と神経哲学を教え、一般の人々のために講義を行っている。彼は進化と神経科学に関する多くの本や記事の著者である」という。文中にシュタイナーや人智学用語はでてこないようなのだ、いわゆる人智学派ではないようだが、この本のオランダ語の原本の英訳本を人智学系の出版社が出しているので、何らかの関係はあるのかもしれない。

 ちなみに、この本には、上述の「意識には脳が必要か?」の①で触れたような、脳が大きく欠損していながら普通の生活を送っている人々の事例が幾つか載せられている。

 

 以下に載せるのは、この本の途中の中間的まとめの部分である。

―――――――

思考における脳の役割

 

「われわれは霊であると同時にオートマトン(自動人形)である。」ブレーズ・パスカル (『パンセ』)

 

 ロダンの有名な彫刻「考える人」を見るとき、私たちの第一印象は、考える人というよりむしろ筋肉質なスポーツマンを見ているようだということである。また、スポーツマンに深い思考を求めることは通常ない。これは明らかに、偏見であるが、しかし、この彫刻は一つのことを明確に示している。すなわち、本当に考えるためには、脳の活動を必要とする他のことにエネルギーを費やすことはできない。私たちは、すべてのエネルギーを思考に集中させなければならないのだ。考えることは、他の脳の仕事よりも多くのエネルギーを必要とする。スプリンターのダフネ・シッパースの言葉を聞いたことがある。「一回考えただけで、もうスピードが落ちてしまう」。明らかに、考えることは大変な作業であり、ご存知のように、脳は他の器官よりも多くのエネルギーを必要とするのだ。

 さて、思考と脳の関係はどうなっているのだろうか。・・・この章では、思考における脳の役割についての首尾一貫した図式に、それらをまとめたいと思う。

 

自動作用としての高度専門知識

  まず第一に、私は、脳は道具であり、すなわち意識の道具であるという見解について、信頼に足る説明ができたのではないかと思っている。・・・この道具は、質の良し悪しは別として、私たちの知能を決定するのは脳だからである。このことは多くの人を驚かせないだろう。

 この知性は、生まれつきのものだけでなく、私たちが何を学んだかにも左右される。これまで見てきたように、よく知られた脳の可塑性のおかげで、私たちは学習した内容で自分の脳を形成してきたのである(訳注)。興味深いのは、傷害を受けた後でも、この可塑性によって学習が可能になり、脳の回復の可能性もあるということである。このように、可塑性には、脳の機能、成長、回復を可能にする3つの働きがある。脳が意識によってどのように形成されるかは、分子レベルまで描写されている。脳は、学習だけでなく、自動化も可能にしているのだ。この点では、ビクター・ランメの言うとおり、脳はオートマトンのように機能し、私たちの自動操縦を形成していると言える。しかし、これは私たちがオートマトンであるということとは違う。この自動化という特性によって、私たちは高度な専門知識を蓄積していくのである。

(訳注)著者は、この章の前の部分で、人の経験、特に小児期と青年期の経験が脳の回路を形作り、脳を成長させることさえ刺激することを示している。ある程度まで、人は生きているだけで自分の脳を形作っているのである。つまり意識が脳をつくっているということになるのだ。後に出てきた「脳の可塑性」は、脳梗塞の患者などでよく観察される現象だが、死滅した脳細胞が担っていた機能を脳の他の部分が代替するようになるというものである。

 

 高度専門知識とは何であろうか。スポーツやバレエ、アクロバットだけでなく、音楽や商売でも、自分が専門としている分野で、素早く結論を出し、決断することができることである。このようなことができるのは、私たちがパターンに慣れ親しんでおり、動作においてもパターンを認識することができるからである。母国語で文章を話すとき、私たちは一つひとつの単語を苦労して探す必要はない。単語は自動的に出てくるのだ。・・・専門知識とは大部分がパターン認識であり、私たちの連合皮質はそれに非常に適しているのである。このように、私たちは多くのニュアンスをもって見たり聞いたり感じたりするだけでなく、何よりもパターンを認識しているのである。

 この認識プロセスの一部として、私たちはその意味について結論を出すのである。パターン認識がなければ、私たちはこの世界で迷子になってしまうだろう。自動操縦とは、Ap Dijksterhuis[オランダの社会心理学者]の本の「スマートな無意識」なのである。

 幸いなことに、私たちは自分自身の経験から学ぶだけでなく、ミラーニューロン(訳注)の働きにより、必ずしも目に見える形ではないが、他人を真似て学ぶことができる。自分が気づいているかどうかにかかわらず、私たちが他者から学ぶという事実が、文化を可能にしているのだ。そして、私たちは他者から学ぶだけでなく、同じミラーニューロンによって他者を理解し、他者の中に見えるものに似た感情を私たちの中に呼び起こすことができるのである。これが共感の基本である。

(訳注)ミラーニューロン (Mirror neuron )とは、高等動物の脳内で、自ら行動する時と、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で 活動電位 を発生させる神経細胞 である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。

 

結論へのジャンプ

  このパターン認識は、しかし、適切でない、あるいは適用できないパターンを認識したと思ったとき、私たちを惑わすこともある。視覚的な錯覚やパーソナリティ障害を思い浮かべてほしい。最後のものは、若いころに苦痛を避けるために使った戦略が脳に「刷り込まれ」、機能しなくなったときにもそれを使うようになった結果である。Dijksterhuisは、無意識がまったく賢くないのに、間違った結論を出してしまう場合の例を示した。これまで見てきたように、このテーマを本格的に研究したのはダニエル・カーネである。彼は、このような結論へのジャンプを、意識的な思考をスローシンキングと呼ぶのとは対照的に、ファストシンキングと呼んでいる。彼はまた、システム1(速い、無意識的)とシステム2(遅い、意識的)と呼び、私たちは無意識的で速い「思考」を好むが、それは遅い「思考」は努力を要するからだと指摘した。高速思考とは、実際には全く考えず、自動的にパターンを認識し、連結を行うことであり、脳が「勝手に」行うことである。典型的な例は、もちろん偏見である。これはほとんどシステム1の定義と言えるだろう。ツイッターの例では、あまりに長い間考えすぎると、もはや最新ではなくなり、その結果、多くのツイート主が後になってから自分の反応を後悔することになる。

 私たちは皆、偏見に苦しんでいる。最も賢明でリベラルな人々でさえ、人種的な偏見を抱いていることが証明されている。しかし、だからといって、私たちの言動が偏見に左右される必要はなく、システム2に切り替えれば、偏見に従わずに済む。したがって、本当に考えるためには、脳が「断れないオファー」として出してくるものから、一歩離れなければならない。脳はあくまで道具として使うべきだ。そのためには、それなりの努力が必要なので、あまり好まれない。なぜ、努力が必要なのか?そして、一歩下がって、脳を別の物体、道具として見ることは、いったいどうすれば可能なのだろうか?

 

自我の消耗

  なぜ努力が必要なのかを研究したのは、ロイ・バウマイスターの著書『Wilower』である。彼は研究の中で、人は限られた量の自制心を持っており(ある者は他の人より多くを持っている)、そして多くの決定を下し、長時間自制心を発揮し、多くの難しい仕事をこなすうちに、この自制心が枯渇することに気がついた--これらはすべてゆっくり考えることの一形態だと見なすことができる--。これを彼は「エゴの消耗」と呼んでいる。血液検査の結果、血糖値の低下を伴っており、確かにエネルギーは必要だった。

 なぜ、エネルギーが必要なのだろう?それは、その人があらかじめ形成された回路の脚本に従うのではなく、新しい回路を形成しなければならないことと関係があるように思われる。新しいことを学ぶとき、それはゆっくり考えるという形でしかできないが、学んだことが頻繁に練習され自動化されるときよりも、脳のより大きな部分が使われる。後者の場合、必要なニューロンの数はずっと少なく、これは効率の良さの表れと見ることもできる。

・・・カーネマンによって、自制心と「ゆっくりした思考」にはエネルギーが必要であることが確認されている。したがって、バウマイスターは、脳に考えさせるのではなく、自分で考えること、つまり、脳を道具として使えるように自分から切り離すかのように、ゆっくり考えることも、自制心(意志力)を発揮して意識的に判断することも、「私」の機能として捉えている。明らかに、脳を道具として使えるのは「私」(または自己)である。

 私たちが「自己省察」する意識について語るのは偶然ではない。両脳半球の才能を発揮させるかどうかを決めることができるのは「私」である。また、脳が意図的に提案するにもかかわらず、ある程度は自分の行動を決定できる「自由意志の持ち主」であるのも「私」である。古い考えより新しい考えを好むことができるのも、「私」である。私たちは、ある者を善いと考え、他のものをそうでないと考えるからである。それが道徳を可能にする。

 これは、「私」(または自己)は脳によって作られたものではなく、意識と同様に物理的な性質のものではないことを意味しなければならないだろう。これは動物には当てはまらない。私たちは動物に自分の行動の責任を問わないからである。彼らには、脳とは異なる意志の可能性がない。動物はその生物学に従う。第9章で示そうとしたように、人間の脳だけがこの自由を提供してくれるので、私たちはその生物学を超えて上昇することができるのである。少なくとも、このためには人間の前頭前野が広く、連合皮質の先天的な自動反応と学習された自動反応とを黙らせることができる必要がある。したがって、知性だけでは責任ある行動を保証することはできない。これらはまた、「私」のある種の強さを要求しているのだ。

 

治療者と研究者

  ・・・精神科医のダミアン・デニスは、自分の患者(主に強迫性障害の患者)についてこう言った。「この人たちは確かに、本当に自分の脳になっている人たちです。通常は、その上に立って物事をコントロールする霊(スピリット)も持っているのです。」実は、これは依存症や精神病に至る様々な障害など、すべての精神疾患に当てはまることである。しかし、これらの人々にはもはや「私」がないわけではなく、彼らの楽器が何らかの理由でこの「私」に従わないということなのだ。精神病を克服することができたほとんどの人は、その時期には明らかに[私が]「存在」していたのだが、介入することができなかったのだ。脳に支配され、その結果、システム1(高速思考)が痛みを伴ってクラッシュしたのである。精神医学や心理学のセラピーはすべて、「私」、つまりデニス氏の言葉を借りれば「霊」に、再び自分の脳を支配する機会を与えるという目的に帰結する。

 例えば、うつ病の場合、その人の無価値観がシステム2によって修正されなくなったために、不可避の自殺に追い込まれるケースがある。オランダの作家ジョン・ズワーゲルマンが自殺したとき、精神科医で自殺の専門家であるヤン・モッケンストームがインタビューに答えている。モッケンストームは、20代前半に自分も自殺を意識して歩いたことがあるという。それをどう克服したか、というインタビュアーの質問に対して、彼は「私は、自分のうつ病なのではなく、私は、うつ病を“もっている”という洞察に至ったとき」と答えている。これは、「私は、私の脳ではなく、私の脳を持っているということ」と訳すことができる。これは、セラピストが患者に最初に指摘しなければならないことである。そうでなければ、その人が再び展望を見いだせるようにすることは不可能だろう。私たちが脳であると考えるセラピストには問題があるのだ。しかし、そのようなセラピストはそう多くはない。このような考え方は、主に、セラピーの実践はしていない神経科学の研究者に見られるものなのだ。

 

超自然的?

 もし私たちが物、この場合は脳でないなら、私たちは何か他のものでなければならない。では、私は誰なのか、何なのか。「私」あるいは「自己」とは何なのか?その存在は十分に信頼に足るものとなったのだろうか?「私」は科学的に証明することができない。それなら、超自然現象への扉を開いていることにならないか?どうして進化がこのようなことを引き起こしたのだろうか?生命についても、同じような問いを投げかけることができるだろう。何が生物を生んだのか、まだ分かっていない。そして、意識は?これもまた、自然科学では説明できない。そして、私たちが自分の意識を省察することができるのも、同じように謎である。物理的でないものが物理的世界に影響を及ぼすということは、その逆(物理的なものが意識のような非物理的なものを生み出すことができるという考え)とよりも超自然的ではない。そして実際に、この意識の影響は、考える力によって指揮しうるゲームや義肢という形で、日々活用されている。あるいは、この関連でさらにずっと重要なのは、カウンセリングが脳に実証可能な変化を引き起こすことができるという事実だ。

 しかし、多くの神経科学者が示唆するように、意識(あるいは「私」)は脳、例えば前頭前野で生み出されるのではないということを、どうすれば信頼できる形で説明できるのだろうか。脳が明らかに正常に機能しない状況下で、知的で自己反省的な意識の存在を目撃することができるのであれば、脳がそれを引き起こしているのではないと推定せざるを得ないだろう。バッハ・イ・リタの例は確かにこの範疇に入るが、もっと強力な例もあるので、次章で紹介することにしよう。健康な脳が意識を指示する場合には、カーネマンのシステム1が作動しているのがわかる。脳が重傷の場合に明確な意識が残っている場合、これは脳によるものではありえない。これは生物学以外の何かでなければならない。これはシステム2、つまりデニスいわく「霊」の介入であり、「自己」がここに関与していることを示すものである。

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 上の文章から分かるのは、脳と意識でどちらが先にあるのかと言えば、意識が先にあるということであろう。この先にある意識こそ「霊」である。著者が、どのような含みをもって霊・スピリットとい言葉を使っているかはわからないが、シュタイナーや神秘学の考えとの親近性を感じさせる。

 文中にうつ病等の精神疾患の問題が触れられているが、これは、その治療方法について大きな示唆を与えているように思われる。シュタイナーが語っているが、本来、霊は病にならないのだ。
 霊は、「私」あるいは「自己」「自我」とも言える。このブログでも自我の本質について触れてきたが、(真の)自我こそ霊的または神的なものである。それは、旧約聖書に見ることができる。モーセに明かされた神の真の名は、「我はありてある者」="I am Who I am"つまり、「自我」なのだ。
 霊が先にあって体(物質)を創造したのである。